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★ つまり、末法の法華経の広宣流布を付嘱した法華経が優れ、その「僧」こそ三宝一体なのだから、中心にやっていきなさい。
と言われて涅槃経が法華経より一重劣るのである。

▼ これだと、法華経が涅槃経より優れている根拠が「広宣流布の付託」になりますがそれで良いのですか?
普通に考えると、なぜそれが優位性の根拠になるのか解らないので説明してください。重要な部分です。
※@「私には単なる法華経の「特徴」に過ぎないと見えますが?」

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   ★ ↑ 法華経が涅槃経に優れている根拠は他にあり、既に書いてきているはず。
が、今は略し、この件を、掘り下げますか。

だが、ちょっとだけ触れて置く。
もし、
@ 涅槃経が法華経より優れている,とあくまで主張するならば、法華経に説かれていない新たな優れた教説が無ければおかしい。
それは何ですか?

A もし、涅槃経 優 ならば、当然、何らかの形で末法に伝持されなければ、末法の衆生を見捨てたことになる。
事実、涅槃経にも「法滅」の思想は表示されている。
仏とは一切衆生を救う大慈悲の人格であることは異論はないはずである。
であるならば、法滅の後に生まれてくる人間のことは知らないよ。とは言わないはず。
三宝一体として、付託するとしても、その「僧」が明確でなければ、誰に仏宝・法宝が伝持されたか、誰も分からない。
逆に言えば、誰でも「俺が僧宝だぞよ!」と名乗っても見分けがつかないことになってしまう。
そんないい加減なままで入滅されるはずがない。

しかも問難者自身、伊藤真乗の出現を予言している経典がある!と当初から断言していた。
(それが何なのか、結局、何だか分からなくなってしまったんで、すみません。再提出お願いします。正確な経文で。)
ということは、何らかの形で、法滅後の法を付託された者を証明するものの必要性は問難者自身でも認めていたことである。

となると、法滅後の末法に向けて明確に誰かを特定した付嘱があるか、ないか は大きな勝劣の判断基準になる。

もし、この道理に反論するなら、それを証明できる明確な経文の文証を以って反証したまえ。
経典・経文の全体の意義を無視して切り文を羅列し、自身の己見を正当化するようなことではなく。

▼※@「私には単なる法華経の「特徴」に過ぎないと見えますが?

これなど、まさに、そう感じる、そう思えない。という類の感想であり、個人的な意見であり、根拠となる経文がない自見・己見・我見である。
全く採用する価値のない発言。
以後は、そういう個人的な感想は厳に慎んで、主張にはそれに的を絞った、的確な文証を引証しましょう。
当該案件と関係ない遠い経文を引いて、観念的に自身の主張を正当化するようなことは、誰がやってもどんな主張でも正当化できてしまうものである。

48 問難者の自見による感想 正当な文証をもって反証できていない。

たとえばこれ↑ですね。


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