▼ 涅槃経は法の付嘱の義が明確ではないについての反論
▼ 樋田氏は日蓮正宗の常識=佛教一般の常識 だと思っておられる節があります。
大般涅槃経ならば(言葉のイメージは悪いですが、そういう悪い意味ではなく)「原理主義」
とも言うべき日蓮正宗の主張を「受け止めていく」事ができると示したいと思います。
まずは
L 涅槃経は法の付嘱の義が明確ではない
↑ 樋田氏の主張です。
いくつか論点を抽出して論じていきましょう(いつものように緑色の文字が樋田氏の主張です)。
★ → いくら、仏・法・僧 が 三宝一体 とはいっても、その法を伝持されて「僧」とは誰なのか、明確に付嘱がなければ、仏法混乱の基である。
この付嘱の義に冥いから仏法の本義に迷うのである。
また、末法の教主にも迷うのである。
▼ 日蓮正宗でも同じでしょうが、法は師匠から弟子に連綿と受け継がれていきます。
「明確な付託」はそれこそ血脈相承書に示されています。
ちなみに樋田氏は、法と言えば「経典に書かれてある事」としか理解しておられないようです。
しかし、「経」は言葉で書かれている以上、全て方便です。
「法」とは、それが書かれている「経」の内容であり、「真理」です。
真理は言葉では伝えることはできません。
言葉はその(真理の)方向性を指し示すだけです。
言葉は人間が作りだしたものであり、記憶・思考・伝達・交流・共通理解・記録の役には立ちますが、対象を言葉で表すことは不可能です。
人は、あらゆるものに名前をつけていますが、それは人が仮にそのように定めているだけで、対象には固定した名前はありません。
リンゴ(認識対象)はリンゴ(認識対象そのもの)ではない。
よってリンゴ(認識対象とするため概念化されたもの)である。
というような言葉が「般若波羅蜜経」にはよく出てきます。
これは、次のような意味です。
私たちがリンゴと呼んでいる対象は、リンゴという名を持っていない。
一切の固定した名を持っていないから、私たちは仮にリンゴと呼ぶことができる。
名前は仮であり、それに属するとされる働き(用)も仮です。
「犬が走る」「水が冷たい」「花が咲く」などの言葉は、すべて仮です。
般若部で説かれる「空」では、このことを重視しています。
名前によって、有ると錯覚する見方を否定して、「非有非無」を説き、そのはたらきが有るという見方を否定して、「不生不滅」を説きました。
すべては空なのですから、私たちは対象について何も語ることはできません。
もちろん、真理も空ですから言語道断です。つまり、言葉による道は断たれています。
釈尊も「秘密深奥蔵」という「言葉では表せないもの」について何度も言及されているのは御承知の通りです。
ここは説明の難しい所ですが、フェルディナン・ド・ソシュールなどの言語学を参照すると良いかもしれません。
少々、長くなりましたが法華経や涅槃経が指示している「真理そのもの」は言葉ではありません。「悟り」という状態に至る事です。
この「悟り」の内容を連綿と引き継ついで行くのが佛教です。
従って、その法を授かった者がいう事に、凡夫がどうこう言うべきではないのです。
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★ ↑ 長々と問難者の自見の感想を聞いても何も得るものはない。
それによって、こちらの論の何かが明確に反証されたわけでもない。
ただ、「私は こう思うんだけど・・・」というだけである。
はい、ご苦労さん。
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