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そう、この真如狂徒の自己中心的な言い分に破折を加えて置く。

247 真如狂徒は結局無慚の人。欠点や過ちを認めない、捻じ曲げて無理やり押し通す。言い逃れ。偉そうに振る舞う自分を反省できない。

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この真如狂徒の発言

「創価学会という雑味を取った法華講の教えが、万が一、真如苑より素晴らしかったらこの際、真如苑に拘る必要はないなと思っていました。
そういうわけで、樋田氏に私の身の上話を聞いていただいたうえで、彼がどう言うか、どうするか、法華講に賭けてみる気持ち半分。
経親との関係はしっくりいっていないけど、教えそのものは最高だと思っているからその事を確かめたかったのが半分。
そんな気持ちで樋田氏にお会いしました。」
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▼「― お会いして ―

お会いしてから5時間ほどお話しましたが、私はあまり自分の話はしなかったように思います。
事前の宿題だったテーマについての議論がメインでしたが、私は法華講の教えについて知りたかったので、なぜ樋田さんが信仰するようになったのか、どんな風に活動してきたのか、信仰していてどのようなものを得てきたのか等に耳を傾けました。

もちろん私も自らの身の上話などしましたが、結論としては「伊藤(先生)の教えは間違っていて、貴方は放射能を浴びながらそれに気づいていない」的なことを言われ、「元々法華経をしていたのだから法華経に縁はある」、「素直に法華経に入ってくる者と、法華経に背きまくった挙句入ってくる者がある。」「貴方も遅くはないし、逆に邪教の怖さを知っている分、沢山の人が救える」というような事を言われたと記憶しています。

私は、別に嫌な気分にはなりませんでしたが、「他は全て邪教だから、一刻も早く法華経に縁せよ」というこの1語以上の事を何も言えない日蓮正宗って、昔と何も変わっていないのだなと正直、落胆しました。
私は、「法華講やるならこの人についてやれば間違いない」と思われる人選をしたつもりだったので尚更でした。
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▼「― 戻ってからの議論 ―

私が家に帰ってからの議論は、御覧の通りです。
真如教徒の方なら、教えを「冷たいモノ(理論理屈)」で主張する私に、一分の理もない事は読む前から解る事であり、本文をお読みになった方は皆無でしょう。
お恥ずかしい限りです。
ですので、ここでは議論の内容そのものには触れません。
私が何を主張し、樋田氏がそれにどう対応したか、その中身は誰も救わないし、理解できる方もほとんどいないでしょう。


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★ あと、文書対論の中で、▼「自分が日蓮正宗を絶対にやらない!と決意させたのはあなた(※樋田)なんですよ!」(趣意)
とあった。

まとめると、こういうことである。↓

「真如苑の経親との関係に悩んでいた。(仕事の面でも窮地にある)
→ 樋田と会って、日蓮正宗の信仰に望みがあるなら改宗してもいいかな。とも考えていた。
→ しかし真如苑の教えは最高と思っている。
→ 実際樋田と会ってみたら
▼「「他は全て邪教だから、一刻も早く法華経に縁せよ」というこの1語以上の事を何も言えない日蓮正宗って、昔と何も変わっていないのだなと落胆した。」
→ その後の文書対論や、日蓮正宗信徒からのメールを読んで、いよいよ日蓮正宗は死んでもやらない。と深く決意した。」

★ さて、一体この者はどういう思考回路か、と訝しくなる。
自分が苦しい状況にあるにも関わらず、それも解決できていないくせに、自分の宗教的な自見・我見に執着してそれを基準に宗教の良し悪しを判断している。
つまり、「自分は邪宗破折」が気に入らない。簡単に言えば、そういうことなのである。
昔 日蓮正宗・創価学会から退転したのもそれが理由。
そして今 創価学会色のない日蓮正宗の信徒に出会っても、「それが何も変わっていない」と嫌悪する。
結局この者の根っ子はそこなのである。
だから、他宗批判しない(できない)真如苑なんぞに惹かれたわけである。
なんと愚かで浅はかなものか。

「邪宗破折」は日蓮大聖人の創作でもなく、また日蓮正宗の創作でもない。
また布教の仕方については色々と問題はあったと思うが、日蓮正宗・創価学会時代の「邪宗破折」も基本のところは大過はない。
創価学会の創作でもない。
そもそもが釈尊の真意である。
それを読み抜けないだけの事。
これは天台大師・妙楽大師・伝教大師、そして日蓮大聖人以外の全ての仏教者達が陥っていた深い迷蒙である。
(現在でもほぼ全ての仏教関係者や一般人もこの迷蒙に覆われている)
御多分に漏れず、その迷蒙の邪執を深く命に刻んで生まれてきたのがこの真如狂徒である。

しかし、今回の応酬で完膚なきまでに論破されたことによって、この者の胸中に今迄経験したことのないような激しい悔しさと怒りと、怨念が生じた。
実はこれが大事なのである。
邪執の強い迷蒙深き者達には道理は通じない。
そこで、徹底的に破折仕切って完敗させると、そこに瞋恚が起き、怨念が逆巻き、法華経や法華経の行者を激しく悪口・誹謗する。
このことで法華経と毒鼓の縁を深く結ぶことができ、命の奥底に妙法の下種が深く植えられることになるのである。
その様を的確に顕しているのが以下の経文である。
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勧持品二十行の偈

仏の滅度の後   恐怖(くふ)悪世の中に於て 我等当に広く説くべし
  諸の無智の人 悪口罵詈(あっくめり)等し 及び刀杖(とうじょう)を加うる者あらん 我等皆当(まさ)に忍ぶべし
  悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲(てんごく)に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん
  或は阿練若(あれんにゃ)に 納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って 自ら真の道を行ずと謂(おも)うて 人間を軽賎する者あらん
  利養に貧著するが故に 白衣(びゃくえ)のために法を説いて 世に恭敬(くぎょう)せらるること 六通の羅漢の如くならん
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そしてこれを毒鼓の縁というのである。
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『涅槃経』巻九
「たとえば人ありて、雑毒薬を以ってこれを用いて太鼓に塗り、大衆の中において、之を撃ちて声を発(いだ)さしむるが如し。
心に聞かんと欲すること無しといえども、之を聞けば皆死す。
唯一人不横死の者を除く。
是の大乗大般涅槃経もまたまた是の如し。
在々処々の諸行の衆中、声を聞く者あれば、あらゆる貪欲・瞋恚・愚癡を悉く滅尽する」
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この深く下種された妙法の種は絶対に滅びない。
必ず芽吹いてこの者を妙法へと導くのである。
それは今世一生の間に醸熟するかどうかは分からない。
今世でダメなら、来世。そのまた先。。でも必ず絶対に下種が芽吹いて妙法蓮華経の信仰をし必ず即身成仏するのである。

その意味では、今回、徹底的に邪義を吐き尽くして、それを徹底的に破折され尽くし、完全敗北したことは、この真如狂徒にとっては、大変幸運な出来事であったことは間違いないのである。
これもこの者の命のどこかに残っていた過去の善因の為すところであった。
いつの日かこの真如狂徒が心底懺悔改心して(改心しなければならないような厳罰を受けて)日蓮正宗の門に平伏(ひれふ)して入門する日を心よりお待ちする。
その日が早まるように、私も、精進して徳を積もう。
折伏した者が積む功徳は、下種された者へも回り巡るものであるから。


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