TOP / 教義的資料目次 /  真如苑教徒反論目次


11月28日に樋田氏との議論を放棄しました。ですが、せっかくHPを立てた事と、あれだけの膨大な議論をしたことを無駄にしては勿体ないので雑感的な事を時に応じてつらつら書いてみます。

今回の総括と真如苑被害について

― 首都に樋田氏を訪ねた理由 ―

そもそも今回の議論の起こりや、その後について樋田氏をはじめとする関係者にはまだ了解を頂いておりませんので差しさわりのない範囲で書かかせて頂きます。
私は、前から樋田氏に興味を持っておりました。
何かの「質問会」のような場で、インタビュー形式でやり取りしているのを見て「頑張るな」と思ったのがきっかけだったでしょうか。
で、最近、真如苑の霊能者との対談をしているのを見てびっくりしました。
真如苑というのは教団自体はもちろん、教徒でもあまりネットなど公の場での発信はしません(考えてみたら信仰は「私的な事」だから当たり前ですね)。
けれど発信していけないわけじゃないのだなと知り、「如何に素晴らしい教えか」を発信したいと言う気持ちはあったと思います。
一方で、私は経親との関係があまりしっくり行っておらず、仕事も大転換を迎えて不安な時でもありました。
私は真如苑の前は日蓮正宗をしていた時期があります。
ですが、その当時は日蓮正宗=創価学会だったのです。
つまり、在家の信者集団(これを「講」というのですが)は創価学会に所属する事になっていたのですね。
私が創価学会を辞める直前くらいに、創価学会が日蓮正宗に破門されて、新たに「法華講」というのが創価学会に変わる在家信者の所属先になったのです。
私は学問としては、法華経が素晴らしい教えと言う事は知っていました(その当時、涅槃経については学会で教わる以上の事は知りませんでした)。
創価学会という雑味を取った法華講の教えが、万が一、真如苑より素晴らしかったらこの際、真如苑に拘る必要はないなと思っていました。
そういうわけで、樋田氏に私の身の上話を聞いていただいたうえで、彼がどう言うか、どうするか、法華講に賭けてみる気持ち半分。
経親との関係はしっくりいっていないけど、教えそのものは最高だと思っているからその事を確かめたかったのが半分。
そんな気持ちで樋田氏にお会いしました。
ただ、私の愚痴を聞くだけではあまりに不毛な時間にならざるを得ないので、真如教徒として下記の質問に事前に反論の上、当日は真如教徒と法華講員としての形での対話をすることは同意していました。

樋田氏のHPに対する最初の反論文

― お会いして ―

お会いしてから5時間ほどお話しましたが、私はあまり自分の話はしなかったように思います。
事前の宿題だったテーマについての議論がメインでしたが、私は法華講の教えについて知りたかったので、なぜ樋田さんが信仰するようになったのか、どんな風に活動してきたのか、信仰していてどのようなものを得てきたのか等に耳を傾けました。

もちろん私も自らの身の上話などしましたが、結論としては「伊藤(先生)の教えは間違っていて、貴方は放射能を浴びながらそれに気づいていない」的なことを言われ、「元々法華経をしていたのだから法華経に縁はある」、「素直に法華経に入ってくる者と、法華経に背きまくった挙句入ってくる者がある。」「貴方も遅くはないし、逆に邪教の怖さを知っている分、沢山の人が救える」というような事を言われたと記憶しています。

私は、別に嫌な気分にはなりませんでしたが、「他は全て邪教だから、一刻も早く法華経に縁せよ」というこの1語以上の事を何も言えない日蓮正宗って、昔と何も変わっていないのだなと正直、落胆しました。
私は、「法華講やるならこの人についてやれば間違いない」と思われる人選をしたつもりだったので尚更でした。
その日は首都で一泊し、次の日、真如苑総本部へお参りに行きました(本当は行くつもりなかったけれど)。
ここでは、誰とも何も話さなかったけれど、帰る時には「本当に来てよかった」と思えました。
仕事の問題は片付いていないけれど、命があって働けるならそれで良いじゃないかと思えたし、経親とはじっくり話してみてどうしても嫌なら事務局に相談すれば済むじゃないかと思えました。
小さな事を、さも大事のように受け取っていた自分自身を捉えかえす事が出来たし、そういう事が本当の功徳だと思いました。

― 戻ってからの議論 ―

私が家に帰ってからの議論は、御覧の通りです。
真如教徒の方なら、教えを「冷たいモノ(理論理屈)」で主張する私に、一分の理もない事は読む前から解る事であり、本文をお読みになった方は皆無でしょう。
お恥ずかしい限りです。
ですので、ここでは議論の内容そのものには触れません。
私が何を主張し、樋田氏がそれにどう対応したか、その中身は誰も救わないし、理解できる方もほとんどいないでしょう。
ただ、私が改めて学んだのは次のような事です。

1.自分の都合よく教えを聞かないで、相手の気持ちを汲む事。

議論のあと、「待っていました」とばかりに私にメールが沢山来ました。
その中で、私に会って話したいと言う方が居ました。
私は「会うのは構わないが、日蓮正宗だけは死んでもしません(だから時間の無駄)」と返したら
「会いましょう」とのレス。
「会うのは構わない」という文しか見えていないのですね。
真如苑でも「お寺は嫌いじゃない」とか言う言葉だけを都合よく聞いて、相手を精舎に連れて行って友達無くすなんて事、あり得ますよ?
信頼関係もない人に信仰なんてプライベートな事を、人は簡単に預けないのではないでしょうか?

2.盲信して自分の行動を客観的に見られなくなる事がないように。

同じく、私にメールをくださった日蓮正宗教徒の方に、随分と失礼な方が居ました。
顔も見たことが無い方なのですが、私は
「貴方(私の事)が普通に誠実で常識ある方なら最初からこのような物言いはしません。」
とか
「私の口調が厳しくなったのは、貴方の二枚舌と不誠実が判明してからのことでしょう。」
とか
「しょうもないプライドだけは一丁前。本当に憐れ。こっちが恥ずかしくなる程の惨めさです。墓ない とはこのことを言うのですね。」
と延々一方的に言われました。
何故、顔も知らない人から私が人格攻撃を受けなければならないのかは解りませんが盲信すればこうなるのです。
事実、この方は
「貴方と友になれると信じ 破折を続けます」
と、宣言されました。
例えば、こういう例はないでしょうか?

夫婦仲が悪くて悩んでいる方がいる。
この方が救われるようにと法を取り次ごうと思った。
そこで
「貴女が不出来で至らないから家庭が上手くいかないのよ」
などから入り、
「そんな貴女でも変われる教えがあるから来なさい」
的な?
教えの無い人にいきなり苦言から入って相手が受け入れますかね?
逆に、相手が受け入れない苦言って毒以外の何物でもないですよね?
盲信すると、これが解らなくなるようです。
教えの話をする以前から、いろいろと信頼関係を築いて信頼されているなら別ですよ?
その場合でも、何の宗教も持たない人は一方的な物言いを快く思うはずはないのです。

ネット上に溢れる真如苑批判の中に、この「盲信タイプ」は多い気がします。
子供が大学に合格した→×「教えのおかげね」(そんな事は言われるものではなく、本人が感じるもの)
行きたい大学を接心ではダメと言われた→×「接心で言われたからダメ」(一部の例外を除き、親の精進次第で運命は変わります)
今回、日蓮正宗の方々が雄弁に態度で語ってくれた事を今後、活かせたら良いと思っています。
同時に、「真如苑被害」なるものが何故起こるのかずっと悩んでいましたが、原因が解った思いだし、真如苑特有の問題でもないのだなと思えました。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

   ★ ↑ ほとほと、自己都合・自己正当化だけ・→ 虚飾に満ちた性格・ですね。
しかも、物事を「法の正邪」で見ることができず、全て自分の価値基準で判断する。
その自分自身が今ド不幸に苦しみ喘いでいるのに。です。
まさに七慢の塊ですね。

七慢

七種の慢のこと。自己を実際以上に高く見せようとすることを慢という.

慢 劣れる他人に対して自分が勝れると思い、等しい他人に等しいと思うこと

過慢 他人に等しいのに自分が勝れると思い、他人が勝れているのに自分と等しいと思うこと

慢過慢 他人が勝れるのに自分がより勝れると思うこと

我慢 自分勝手な意見に執着すること


増上慢 法理などをいまだ得ていないのに得たと思うこと

卑慢 他人の方がはるかに勝れるのに、自分は少ししか劣っていないとすること

邪慢 自分は徳がないのに徳のあるように見せること
--------------------------------------------

この中の特に、

慢過慢 他人が勝れるのに自分がより勝れると思うこと

我慢 自分勝手な意見に執着すること


--------------------------------------------

ですね。
これがそもそも邪宗の害毒で生命が濁っている現れ。
でも本人はそうとは全く思えず、自分の意に沿わない他人に全て非がある、と思い込み批判する。
これでは自身の成長は有り得ないですね。

--------------------------------------------
七宝が身に備わっていない、ともいえる。

「聞(もん)」 正法を素直に聞くこと。
「信(しん)」 正法をわだかまりのない澄んだ心をもって信じ切ること。疑い無き信をいう。  
「戒(かい)」 悪を捨てて善を勧めること。
「定(じょう)」 禅定。心を不動にして定めること。修行によって迷いや苦しみがなくなり、真の心の安定を得ること。
「進(しん)」 精進。懈怠の心や退転なく真っ直ぐ道を進むこと、勇猛精進。
「捨(しゃ)」 惜しむことなく、執着心を捨て去ること。一切のとらわれを無くすこと。
「慙(ざん)」 慙愧(ざんき)。増上慢を戒め恥じる心。自らの悪心、悪業を恥じ、高徳の人の姿や振る舞いを見て自らの不徳を恥じ、正法の道理に照らして己の邪心を恥じること。この慙(ざん)、恥じる心が仏道修行を成就する要因となる。

この中でも特に、最期の「慙」がないですね。

--------------------------------------------
また、無慚の人 ともいえる。

■ 自ら其の過を見ずとは、三失をもって心を覆ふ。?(王+此)(きず)を蔵(かく)して徳を揚げ自ら省みること能はず。是無慙(むざん)の人なり。
(中略)記の四に云はく「?(王+此)(きず)を蔵(かく)す等とは三失を釈せるなり。
?(王+此)(きず)を蔵(かく)して徳を揚ぐは上慢を釈す。
自ら省みること能はざるは我慢を釈し、
無慙(むざん)の人とは不信を釈す。
(御義口伝 1730)

自分の間違いを省みようとしない、反省しない、者は、上慢・我慢・不信の三つの毒によって心が覆われている証拠である。
自分の不備な点、過ち、至らなさを隠して、偉そうにしていて、自身を常に深く反省し、慎み、謙虚、謙遜などがない者。
これは、まさに無慙の者。(欠点だらけなのに無反省の者)である。
自分の欠点や、過ちを認めない、あるいは隠す、あるいは、捻じ曲げて無理やり正しいことととする、言い逃れる、言い訳を言う、、、、などして、自分があくまで正しいと言い張る、偉そうに振る舞う、などの者は、まさに、増上慢の命である。
自分を見つめ直すことができない者は、我慢の命である。

無反省の者は 不信謗法の者である。

--------------------------------------------

また、修羅の命が異様に強い者 ともいえる。

■ 修羅道とは、止観の一に云はく「若し其の心念々に常に彼に勝らんことを欲し、耐へざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて視下ろすが如し。而も外には仁・義・礼・智・信を揚げて下品の善心を起こし阿修羅の道を行ずるなり」(十法界明因果抄 209)

常に、勝他の念にかられ、絶対に負けたくない。負けを認めたくない。その為には、どんな言い繕い、言い逃れ、捻じ曲げ、などしてもいい。
それでもどうしても、正論で勝てなければ、人を見下した言動をし、他を軽んじ、侮り、卑しめ、貶め、自分が正しい!自分こそ正しい!とまるでトンビが高いところを飛んで下界を見下ろすようにいい気になっている。
しかし表向きはさも、人徳のあるような、道徳心のあるような、常識人のような言動をしている。。。。

どうですか、ピッタリ当て嵌まっているではないですか。

--------------------------------------------

   ★ ↑ さてさて、これ全て邪教の害毒、真如苑の害毒で命が汚れ、歪み、根性が曲がってくるんですね。

これでは、仕事や人間関係でうまくいくはずもない。

■ 仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。(諸経と法華経と難易事 弘安三年五月二六日 五九歳 1469)

今、自分が不幸に喘いでいなけばならないその根本の理由は、真如苑にあり。 ですね。

早く目覚めなさい。手遅れにならないうちに。
後悔先にたたず、とならないうちに。

TOP / 教義的資料目次 /  真如苑教徒反論目次