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真如苑は矛盾だらけです。

1.人を救う教えと言いながら有料。
会費を払って入信し、有料の占いで因縁霊を示され、唯一のホンモノの供養とやらを有料で行わないと救われない。
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  ▼ 全く無料で全てをしてくれる宗派があるなら教えて下さい。
現実問題として私の知り合いで生活保護を受けながら教えを求めている人が居ますが、この方は幸せに生活を営んでいます。
毎回、供養なども最低限しか行う事が出来ない方です。
お金はなくとも心が涅槃経に即し、涅槃経に示されるように真心のある生活をしていたならば救われるという好例だと思います。
私は腐るほど金があるわけではありませんが、真如苑にはそれなりに金銭的に貢献しています(逆に言うと金銭的にしかできない)。
ですが、私は様々な問題を抱えて潰れそうです。
佛の世界に金銭は関係ないと言うのは、実感として本当だと思っています。
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   ★ ↑ ▼ 「真如苑にはそれなりに金銭的に貢献しています(逆に言うと金銭的にしかできない)。
ですが、私は様々な問題を抱えて潰れそうです。」
↑これこそ仏罰の典型ではないのか?

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2.勧誘行為を重要な教義にしているのでネズミ講と同様に破綻が約束されている。
人口100人の孤島で布教したらあっという間にお救け出来ない信者だらけです。
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  ▼ だから何でしょう?
おおよそ仏法という有難い宝を頂いたものは、法華経であろうが浄土教であろうが涅槃経であろうが、その宝を弘めるのは至上命題です。
逆に言えば、例えば法華講の弱さは、結局、出家、在家の隔たりは埋まらないという事にあります。弘めても弘めなくても一信者。
涅槃経は在家、純陀に説かれた在家であっても救われる教えです。
但し、純陀は同僚15人を連れて行った。つまり、法華で言う広宣流布を実践していたわけです。
よって釈尊は文殊菩薩よりも純陀を釈尊は選ばれました。
真如苑で霊能者となって、他人の教化をする。または、霊能者にならずとも、他の集会にお邪魔して他人様のお悩みを聞かせて頂くには相応の実践の実績が必要です。
教えの実践としての布教活動を行う事の何が悪いのでしょう?

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   ★ ↑ 参考資料 「水ぶくれ真如苑」  三土 修平 (著)
など外部からの客観的な視点から見れば、真如苑が巧みに信者を階層的組織に組み込み、常に上の階層を目指させるように段階的に仕組まれていることは明白。
その全てに金銭が絡む。
結果自らの意思といいながら莫大の布施が上納されていく。
その仕組みはねずみ講的なシステム販売で、階層的ランクを設定して、常に上のランクを目指すように動機付けし、そのためには多額の販売額を達成しなければなれない。とし、ユーザー → 販売者 → 代理店 → 販社 。。。とのめり込ませていく、そういう組織とそっくり。
それに騙されのめり込んで相応の金額を突っ込み、それでいて▼「私は様々な問題を抱えて潰れそうです。」となってりゃ世話ない。
早くそれが仏罰なんだと目を醒ましなさい!

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