TOP / 教義的資料目次

「水ぶくれ真如苑」  三土 修平 (著)         急 成 長 の 秘 密 と 欺 瞞 の 構 図
第一部 真如苑とはどんな教団?
 
 第一章 立川の伏魔殿
  ・新版立川流密教?             
  ・水も漏らさぬ秘密主義
           
 第二章 伊藤ファミリーと真如苑の歴史
  ・四月八日は何の日か?           
  ・歴史@草創期               
  ・歴史A発展期               
  ・真如苑の教義のあらまし          
  ・真如苑の組織と修行のあらまし  
第二部 なぜいま真如苑が伸びるのか?
 
 第一章 オモテの理由とウラの理由
  ・オモテの理由               
  ・ウラの理由 
               
 第二章 何でも答えてくれる「接心」
  ・スーパーマンが五百人           
  ●・「ご霊言」は絶対の真理
  ●・  
  ●・       
  ・親切すぎるほど親切            
  ●・変化エージェントとしての霊能者
  ●・変化エージェント2      
  ●・卓抜した霊能者統御法  
         
 第三章 洗練された説得術
  ●・際限なく湧き出してくる「因縁」
  ●・      
  ●・疑問はすべて「障害霊のせい」 
  ●・障害霊2      
  ●・解決の道は「あなた自身の霊位向上」    
  ●・「不満はすべて上求菩提しなさい」 
    
 ● 第四章 「抜苦代受」のあとに来るもの
  ・ネズミ講とマルチ商法           
  ・「幸せのネズミ算」は「不安のネズミ算」  
  ・死屍累々の上のわずかな救い        
  ・水ぶくれは教主のお家芸 
  ・水ぶくれ2 
  ・水ぶくれ3 
  ●・会費継続 摂受院談話       
  ・会費が安いことのウラの理由 
       
 ●第五章 安い会費のウラにあるもの
  ・「大歓喜委員バッジ」の無言の圧力     
  ・「歓喜袋」の奸計
 ●・ 初期の志             
  ・「お施餓鬼」は年に六回?いや十八回!   
  ・「七分獲一」のボロもうけ         
  ・「お護摩」は最低二千円          
  ・接心は月に最低一回泊まりがけ       
  ・経別指導の膨大なロス           
  ・有名人・有力者を入信させるは大功徳!
第三部 水ぶくれ真如苑の泣きどころ
 
 第一章 仏教学に照らしてみた真如苑教義の問題点
  ・「大乗」                 
    @「ご利益信心」が「小乗」か?    
    A時代遅れの教相判釈         
    B本当の大乗精神とは?        
  ・「大般涅槃経」 
● 信者は全く涅槃経に無智             
  ・「密教」
● 真乗が短期で灌頂を受けた背景                 
  ・「因縁」                 
    @仏教の宿業論と真如苑の因縁論の相違 
    A原因のない結果だけの連鎖      
    B群盲象をなでる           
  ・「世間法」と「如来法」          
  ・ひと皮むけば天理教            

 第二章 肥りすぎた拝み屋の悲劇
  ・真如苑進化論               
    @拝み屋時代             
    A信者寺時代             
    B新興教団時代            
    Cネズミ講時代            
  ・分際をわきまえない肥りぶり        
  ・難問百出の現状              
    @お救け競争でふえすぎた信者     
    A教主神格化の進行          
    B偏る信者層             
    C申し訳としての社会奉仕       
  ・教主一家のスキャンダル          
  ・えげつない創価学会との争い        
  ・霊能者の来世はさぞや悪かろう       
  ・何のための真如苑?      



第一部 真如苑とはどんな教団?

第一章 立川の伏魔殿

新版立川流密教

 読者は、日本歴史の舞台裏に名を残す「立川流〔たちかわりゅう〕」という宗教団体をご存じであろうか? 
真言密教の経典「理趣経〔りしゅきょう〕」の曲解にもとづいて性欲崇拝の教義を立て、中世日本社会のあまり陽のあたらない領域にはびこり、ある程度の勢力を誇った邪教淫祀〔いんし〕の教団のことである。

 その信者のあいだに行われた秘儀については、ドクロに男女の愛液を何度も何度も塗りつけたものをご本尊として崇拝したとか何とか、いろいろのいまわしい風説が伝わっているが、なにぶんにも社会の表に立たないところでひそかに行われていたことゆえ、正史の上に確かな記録がなく、その全貌〔ぜんぼう〕を捉〔とら〕えることは至難のこととなっている。
ただひとつ、かなりはっきりしていることは、「立川流」の「立川」は武蔵の国の立川(現在の東京都立川市)の地名に由来するものらしい、とのことである。

 つまり、今を去る数百年の昔、この土地に居ついた真言密教の坊主くずれの何らかの男が、もっともらしい教義を立てて民衆をひきつけ、ここを発祥の地として徐々に全国的に浸透させていった教えが「立川流」となったものらしい、ということである。

 さて、以上の話を念頭に置きながら、読者は、現代日本の宗教団体の統計表を見る機会があったら、ぜひ、信者数の推移の欄に注目して頂きたい。
多くの教団の教勢が毎年とりたてて変動せずに推移してきている中で、一つだけ、きわだって信者数の増え続けている教団がある。
その名は「真如苑〔しんにょえん〕」。
真言系仏教教団の中に分類され総本部の所在地は東京都立川市である! 
公称信者数は昭和六十年十二月三十一日現在で約二百十万。
その前年が約百八十万、前々年が約百五十万、さらにもう一年前は約百三十万であったから、ここ数年、毎年二十パーセント近い急成長ぶりである。
いまや、創価学会、立正佼成会、生長の家、天理教、霊友会、PL教団の「六大教団」を急速に追い上げ、「新宗教七大教団時代」を現出する仕掛人たらんとしている注目の教団である。

 したがって、現存する有力な宗教団体のいずれかに「立川流密教」の名を付けねばならないとしたら、いちばんふさわしい団体は、この真如苑ということになる。

 むろん、真如苑が偶然「立川流密教」の名に値するとしても、中世の立川流とのあいだに再興とか、継承とかいった関係があるわけではない。
 しかしながら、名のつながりは縁のつながりとでも言おうか、真如苑について少し詳しく調べはじめると、この「新版立川流密教」の姿の影に、時折ちらちらと中世の「立川流密教」の亡霊が見え隠れするような気分に捕らえられるのは、必ずしも私ひとりではないようである。



 昭和十一年、飛行機会社の技師だった伊藤文明〔ふみあき〕という男が、この立川の地にお不動様を祀って宗教家めいたことをやりはじめた時、まさかこれが立川流の因縁を受け継ぐ教団になろうとは、誰も想像しなかったであろう。
だが、土地の因縁というのは不思議なもので、この伊藤文明、知らず知らずのうちに、何に導かれたものか、不思議なほど立川流めいた教祖へと「成長」していったのである。

 彼が真言密教の僧侶の資格をとって、後に坊主くずれになって髪を伸ばした点も、ある種の因縁を感じさせるが、それにも増してはっきりと立川流の因縁を感じさせるのは、昭和四十年代以降この教団の幹部のあいだで展開された、男女の愛液のにおいのぷんぷんと立ちこめるドロドロの親族紛争であろう。
この親族紛争については、本書の中でもいずれ第三部で触れる予定なので、その時のお楽しみとしておこう。

 もっとも、本書の主たる目的は、題名のとおり、なぜいま真如苑が伸びるのかを解明するところにあり、教団幹部の私生活の解明は、あくまで従である。
ただ、真如苑について昨年来、世の週刊誌が騒ぎ立てている内容を見るにつけても、「立川」という地名とのつながりを感じずにはいられない。

 私自身は、因縁だなんだということをやたら強調するのが、正しい宗教のあり方だとは思っていないのだが、真如苑自身が「悪い因縁を浄めなさい」などとやたら説く教団であるだけに、「教団にとり憑〔つ〕いている土地の因縁もお浄めになったらいかがですか?」と、皮肉のひとことも言いたくなるというものである。



水も漏らさぬ秘密主義(1)

 世の宗教団体の中には、きわめて情報の漏〔も〕れやすい天真爛漫〔らんまん〕なタイプの団体と、何重にも垣根をめぐらして、容易には情報が漏れないようにガードをかためているタイプの団体とがある。

 昭和五十年ごろに栄えたGLAという教団は前者の典型であった。
この教団は、電気技師で実業家であった四十代の教祖が、ある日突然、仏教の原点を悟ったと称して開いたもので、当初は、教祖を釈尊の生まれ変わりであるかのように見せかけていた。
後には、教祖自身、「実は私は太陽系全体の大指導霊エル・ランティーの降臨である」というドエライことを語りだし、まもなく四十八歳で他界してしまった。

 「憑依霊〔ひょういれい〕を取りはらう」という独特の霊能的技術と、過去世〔かこせ〕の自分が意識の底から語り出す」と称する異言〔いげん〕現象を目玉商品として採用し、原始仏教を基礎にした現代人向きの教えを説き、葬式仏教に対して歯に衣〔きぬ〕を着せぬ批判をやってのけたのが若者に受けて、一時は十万人近い信者を持った。
教祖自身が経営者だったため金に困らず、他の宗教団体のように寄付を強要することがなかったのも、人気を博した原因のひとつで、出版物を多く出したのもこの教団の特徴であった。

 しかし、周到な準備なしに片手間で始められた教団であったため、主張する教義の内容にも時として矛盾があり、とりわけ「エル・ランティー」騒動の唐突さは、多くの人々の疑惑を買った。
この「エル・ランティー」氏の突然の逝去にあわてた幹部たちは、まだ十九歳であったその長女を「ミカエル大天使長の降臨」と称してかつぎ出し、もうひと山あてようとねらったのだが、これがかえって教団の分裂をひき起こす原因となった。
この「ミカエル」について、とりまきが語ったことの多くは神話にすぎなかったのだが、「ミカエル」自身がこの神話におだてられて図に乗って、とりまきに対して威張りちらしだしたのだ。
とりまきの多くが愛想をつかし、次々に教団をとび出しては、暴露談を外部の人々に語るようになった。

 しかも、教祖自身が出版活動に熱心だったことの影響を受けて、元幹部の連中も「こちらこそ本流」と主張するための本を競って出版しはじめたので、GLA時代のいろいろな人物の行動が、対立派の出版物を見ることで手にとるようにわかるようになってしまった。
出版合戦のあげく、ついには、教祖の生前は弟子でも何でもなかった人物が「こちらこそGLAの教えを受け継ぐ本流」と称して旗揚げする例まで出てくる始末であった。
こうした書物の多くはばかげたものであり、読んでいて少なからず胸くそ悪くなるが、時として何となく憎めない天真爛漫さが感じられるのは、ひとつの救いである。

 このGLAの対極に位置するような教団が真如苑である。
 こちらは昭和十一年立教というから、GLAのような新参とはちがった老舗〔しにせ〕であり、徐々に勢力を伸ばす過程で、教団運営のノウハウを少しずつ着実に蓄積してきているので、GLAのようなヘマはやらかさない。
徹底した軍隊式のピラミッド型組織を採用しているので、どの信者も、自分より下位の信者のことはよく把握できるが、自分の「直属上官」より上のことは、とんとわからない仕組みになっている。
しかも、自分の導きの子孫を多く作ると教団内で地位が上がるというネズミ講方式を採用しているので、ある程度地位が上昇して、教団の秘密にタッチできたほどの人物は、同時に、組織上、自分が得になるような「うまみ」が出てきてやめられなくなる。
教団から脱落する人間はたくさんいるのだが、それらはみんな、思うように地位が上がらなかった失敗組であるから、教団の秘密にはタッチできなかった人々ばかりである。
 こういうわけで、秘密事項は容易には外に漏れない。

 さらに、教団の本部や支部などの建物を信者以外は原則として立入禁止の場所にしており、マスコミの取材は原則として拒否する。宗教社会学者などがどうしても内情を探りたい場合には、偽装入信して探る以外にない。
しかし、たとえ信者になっても、上級の修行の場には、それ相応の地位が与えられるまでは参加できない仕組みになっているので、全貌〔ぜんぼう〕を知ることはまず不可能である。

(ちなみに、GLAを受け継ぐと称して弟子でもない者が勝手に旗揚げしたという教団は「白装束・パナウェーブ」のことですが、これは真如苑スレにとってはいささか余談)


水も漏らさぬ秘密主義(2)

 この教団は、何回かのお家騒動を起こした際に、教主の娘を筆頭に、有力な幹部から何人かの脱退者を出しているはずなのだが、どういうわけか、この教団の脱退者は、GLAの脱退者のように文書によってはっきりと教団を批判することをしたがらない。
もしかすると、教団を暴露することは、自分自身が幹部として「うまみ」を吸い上げて生活してきた経歴を人前にさらすことにつながるということで、自制心が働くのかもしれない。
 まことに、水も漏らさぬ秘密主義である。
 この徹底した秘密主義と、例の「立川流」めいた噂〔うわさ〕とがあいまって、真如苑をまさに「立川の伏魔殿」と呼ぶにふさわしいものにしているのである。

 しかし、今までに、この「立川の伏魔殿」に潜りこみ、外部に貴重な情報をもたらした人間が全然いなかったわけではない。

 私がこの本を書きはじめた昭和六十二年の春までの時点でも、週刊誌以外の出版物に、真如苑についてかなり長い報告を書いている著者がすでに三人いる。

 第一は、毎日新聞記者の横山真佳〔みちよし〕氏(共著『新宗教の世界V』大蔵出版、九五〜一四五頁)。
かなり綿密な取材に基づいて、冷静な筆致で書いている。
ただし、この人の報告は、教団事務局に正式に取材を申し込んで、了解を取ったうえで書かれたものなので、それなりの制約がある。
つまり、教団の悪い点をずけずけ書いて相手の機嫌を害してしまうと、以後取材拒否ということになるから、そうならないように、批判を極力控えているわけだ。
また、取材自体にも、かなりの制約を付けられたらしい。
私が横山氏から直接伺ったところによると、教団の敷地内で一般信者に対して直接質問することは一切禁止されたという。

 第二は、宗教社会学者の白水〔しらみず〕寛子氏(森岡清美編『変動期の人間と宗教』未来社、七一〜九五頁)。
この人は、大学院の修士論文のテーマとして真如苑を取り上げ、偽装入信して内情を観察したようだ。
したがって、真如苑の秘儀装置である「接心」も身をもって体験し、かなり核心に迫る報告をしている。
ただ、最初から研究のつもりで偽装入信しているため、本気で信じてダマされた人間だけが知る悲痛な気持ちはご存じないようだ。

 第三は、宗教評論家の清水雅人〔まさと〕氏(清水雅人著作集第一巻『新しい宗教とは何か』稜北出版、一二九〜一三八頁)。
この人もやはり、白水氏と同じく真如苑を内側から観察した体験を持ち、「接心」も身をもって体験しているそうで、報告にはそれなりの迫力がある。
しかしこの人は、長年『新宗教新聞』の編集長のポストにあり、新宗教界全体のスポークスマンのような役目を果たしてきた人である。
基本的には冷静な観察者として振舞っているのだが、立場上、新宗教教団の悪い面については、知っていても書きたがらないところがある。



第二章 伊藤ファミリーと真如苑の歴史

四月八日は何の日か

 仏教国と言うわりには、お釈迦様の事蹟があまり国民の常識となっていないわが国であるが、少なくとも「四月八日は何の日か?」という質問にだけは、たいがいの人が正しく答えられるであろう。
「花まつり」と言おうと、もう少し固苦しく「仏生会〔ぶっしょうえ〕」とか「灌仏会〔かんぶつえ〕」とか言おうと自由だが、要するに「お釈迦様のお誕生日」である。
ところが、世の中はおかしなもので、仏教教団と称しながら、その教団の内部において「四月八日は何の日か?」という問題に対して、そのように答えたのでは合格にならない奇妙な教団があるのだ。その名は真如苑!

 では、真如苑での正解は何か? 
「真導院〔しんどういん〕様のお誕生日」というのが正解である。
「真導院様」とはいったい誰のことか? 
それは、この教団を作った伊藤真乗〔しんじょう〕の次男友一〔ゆういち〕のことである。
彼は昭和十二年四月八日に生まれ、昭和二十七年七月二日に死去したが、その戒名の院号が「真導院」なのである。

 つまり、同じ四月八日でも、教祖の次男の誕生日であることのほうが、お釈迦様の誕生日であることよりも優先されるのが、この教団なのである。
ことほどさように、この教団は伊藤ファミリーそれ自体と不可分に結びついた教団なのだ。
前に紹介した毎日新聞記者の横山真佳氏は、真如苑の教義を紹介するにあたって、次のように書いている。
 「新しい宗教の教理には、たいてい教祖と呼ばれる人達の直接的な生活体験が色濃く反映している。
しかし真如苑にあっては、たんに教主の経験の反映にとどまらず、教主の家族一人一人の生と死、その喜びと悲しみがまるごと教理にとりこまれている感さえある。
一家の生活史がそのまま教団史であり、すなわち教理形成史ともなっているのだ」(『新宗教の世界V』一一〇頁)

 真如苑の本部、支部、精舎〔しょうじゃ〕(「寺」と同じ意味)などの多くには「伊藤真乗」という教主の個人名が表札として掲げられており、建物の外壁には、教団のシンボルマークである「輪宝章〔りんぼうしょう〕」とともに、伊藤家の家紋である下がり藤の紋が付けられている。
伊藤家は、茶道の千家、華道の池坊家などに類する一種の「家元」なのである。

 この、きわめて日本的な家元宗教とでもいうべきものが、「仏教のあらゆる法門を摂受〔しょうじゅ〕する最高の法門である」と自認し、いわば「総合仏教」を自負していることに、外部の多くの人は奇異の感を抱かずにはいられないであろう。



歴史@草創期

 伊藤文明〔ふみあき〕(後の真乗)は、明治三十九年(一九〇六年)三月二十八日、山梨県北巨摩郡長坂町の農業伊藤文二郎、よしえ夫妻の次男として生まれた。
父親は家に代々伝わる「甲陽流病筮鈔〔こうようりゅうびょうぜいしょう〕」という易学書に通暁し、また母親は熱心な天理教徒であった。
伊藤家はひとかどの地主であったらしいが、文明は、昼間の正規の学校としては高等小学校を出ただけであった。
理科と図画が得意な、手先の器用な子供で、高等小学校時代に父から病筮鈔〔びょうぜいしょう〕の口伝〔くでん〕を受けたと言われる。

 十八歳で上京した伊藤は、働きながら夜学に学び、仕事の合間を見ては、日蓮宗の道場やキリスト教(プロテスタント)の教会にも足を運んでいた。
やがて軍隊生活を経た伊藤は、二十二歳のとき、花形の軍需産業であった石川島飛行機に技師として就職した。
高度な物理学を要する最先端の分野は、むろん伊藤のよくなしうるところではなかったが、空中撮影装置、射撃装置などの細かな分野では、かなり重要な仕事を引き受けていたらしい(第二次大戦当時のわが国の戦闘機には「回転するプロペラの隙間から機銃弾を撃ち出す装置」が取りつけられていて威力を発揮したが、これは伊藤の発明によるものであるという)。

 昭和六年には、石川島飛行機の立川移転に伴って伊藤も立川に居を移し、翌昭和七年には、またいとこにあたる内田友司〔ともじ〕と結婚した。
 友司は、明治四十五年五月九日、山梨県北巨摩郡高根町の商業内田義平、もとよ夫妻の長女として生まれた。
四歳のとき父が亡くなり、まもなく母は他家へ嫁ぎ、友司とその兄妹は祖母内田きんの手によって育てられた。
この祖母には霊能があり、明治時代に横浜で狐憑〔きつねつ〕きを治すなどの人助けをしていた。
この人は現在、真如苑では「宝珠院〔ほうじゅいん〕様」と呼ばれ、真如か霊能の祖としてあがめられている。
この祖母の娘で、友司の伯母にあたる油井玉恵〔たまえ〕も、この祖母の霊能を受け継いでいた。

 伊藤自身も、就職当初から、病筮鈔〔びょうぜいしょう〕(易学書)による運勢判断で職場仲間の相談相手になってやるなどして、ボランティアの易者的活動をしていたらしいが、結婚当初は、伊藤夫妻は互いの宗教的な血統や素質について、あまり深く考えることはなかったと言う。
 しかしやがて、伊藤の身の上に病気や仕事上の失敗などが妙な形で起こることを通じて、彼は、自分の使命は今の仕事よりも宗教の道にあるのではないかと考えるようになり、不動明王の信仰に深入りしてゆくようになる。
やがて、伊藤の易占を頼って集まってくる固定客も四、五十名できるようになった。
 そこで伊藤は、いっそのこと会社を退職して宗教に専念しようかと考えたが、二人の子供の養育のことを考える友司は、当初はこの考えに反対であった。

 昭和十年十二月二十八日のこと、伊藤は東京の仏具屋で見つけた運慶作と口伝される不動明王像を自宅に勧請〔かんじょう〕し、翌年一月、友司とともに自分たちの使命を確かめるために水垢離〔みずごり〕の修行を行なった。
この修行が満行に近づいた一月三十一日のこと、以前は伊藤の宗教専念に反対していた友司のほうが、霊感的に伊藤の使命は宗教にあると感得して、逆に、伊藤に会社を辞めるように勧めはじめた。
伊藤は躊躇〔ちゅうちょ〕したが、その四日後の二月四日未明、友司は深い「入神状態」(霊界と交信しうる意識状態)になり、たまたま来泊していた伯母の油井玉恵と対座して、その霊能を「相承〔そうじょう〕」(受け継ぎ)し、ますますはっきりと伊藤に宗教専念を勧告した。
伊藤が決心をつけかねたまま会社勤めを続けていると、子供が高熱を発するなどの現象が起こり、伊藤もついに意を決して「世間法〔せけんぼう〕(信仰に縁のない俗人の行動様式)へのとらわれ」を捨て切ることにした。
 こうして二月八日に伊藤は早々に会社を辞職し、宗教活動に専念することになった。
それ以前から伊藤の家では「立照閣〔りっしょうかく〕」なる看板を掲げ、成田山の講中という形式をとっていたようであるが、現在の真如苑では、この昭和十一年二月八日をもって立教開宗の日としている。
 立教当初の教団の活動は、以前からの伊藤の易占に加えて、霊能者となった友司を霊媒として不動明王にお伺いを立てるという形のものであったらしい。


歴史@草創期(2)

 伊藤のもとには、ますます多くの顧客ないし信者がつめかけるようになった。しかし、収入の途絶えた一家の生活は苦しく、伊藤夫妻は栄養失調状態で苦行に明け暮れる毎日であったらしい。
 こうした中で、伊藤夫妻に大きな試練が待ち受けていた。立教の四ヵ月後の六月九日に、数日前から風邪気味だった長男の智文〔ちぶん〕が、突如、病が革〔あらた〕まり、あえなく亡くなってしまったのである。
まだ、満一歳十ヵ月あまりであった。
 立教以来の多忙の中で、ろくにわが子を抱いてやることもできないまま、半ばは我とわが身の不注意によって、みすみす子供を犠牲にしてしまった感のある友司にとって、悔いは深刻であったらしい。
智文を葬って間もない六月半ばから、友司の提案によって、夫妻は、昼の宗教活動に加えて、終電車で高尾山に行って滝行に挑み、始発で立川に帰るという激しい行の生活に入った。
尽きせぬ悔いに耐えかねて、我とわが身に鞭打つことで、なんとか心の救いを見出だそうと模索したのであろう。
 結局、この修行の中で夫妻は、智文の死は「信者の苦しみを身代わりになって引き受けた死」であるとの理解に到達する。
ここに、真如苑の教義の大きな柱である「抜苦代受〔ばっくだいじゅ〕」という考え方が、はじめて打ち出されることになった。

 この智文の死には、さらに後になればなるほど、教義上多くの意味が付与されてゆくことになる。
例えば、生前の智文は、母親が霊媒として信者の相手をしている際に、信者が正しい精進の心を持っている場合にはおとなしくひとりで遊んでいたが、信者に自分本位のご利益信心しかない場合には、不思議と母親の膝を求めて寄り付いてきて、信者の相談を妨げたという。
この事実は、「生まれつき霊能者であった智文が、その行動によって信者を戒めたのだ」と解釈されるようになる。
智文の臨終を見取る際、母親の友司は不動明王の真言に子守歌ふうのメロディーをつけて歌ったと言われているが
(一説には、このメロディーは後にできたもので、遡及〔そきゅう〕的な神話化のプロセスで「智文の臨終の際に」という話に変わったのだとも言う)、
この事実は、「智文が霊界に旅立つにあたって、母の口に救いのメロディーを残したのだ」と解釈されるようになる。
このメロディーつきの真言は、その後「ご霊咒〔れいじゅ〕」と呼ばれ、真如苑で最も尊重される唱え言葉となってゆく。

 ともあれ、智文の百ヵ日を期して、友司の霊能にひとつの飛躍があったのは本当のことであるようだ。
真如苑では、それを「智文が母に感応して語りはじめた」のだと説明し、この時から友司は「即時入神、霊言発露〔ほつろ〕」が可能となり、かくして現在の「接心〔せっしん〕」の基礎が作られたのだとしている。
さらに、この時を期して、あの世に「真如霊界」という新たな霊界が開かれたのだとして、智文は、この真如霊界を開く「道開き」のために旅立ったのだということになっている。智文は信者を教えに導く役割りを持った聖なる童子であったという意味で「教導院智文善童子〔きょうどういんちぶんぜんどうじ〕」という戒名が贈られ、以来「教導院様」の尊称で信者から慕われ続けることになる。
 このようにして教団は第一の危機を乗り切った。

 その後、信者もさらに増加したので、昭和十二年の末には新たな道場を建設することが決まり、現在の総本部のある土地が入手された。
こうして翌十三年の十月には、後に「真澄寺〔しんちょうじ〕」と呼ばれることになる道場が完成し、これを機に、組織も「立照閣」から「真言宗醍醐〔だいご〕派立川不動尊教会」へと改められた。
これは、浦野法海〔うらのほうかい〕という真言宗醍醐派の僧侶の指導によるものである。
さらに伊藤は、浦野師の指導のもとに、正式な宗教家としての資格を取得することを勧められ、昭和十四年十月に京都の醍醐寺で入門課程の恵印灌頂〔えいんかんじょう〕を授かり、さらに一定の修行の後、昭和十六年三月には、金胎両部伝法灌頂〔こんたいりょうぶでんぽうかんじょう〕を授かった、これによって彼は僧侶としてひとり立ちできたことになり、以来「伊藤真乗」と名乗ることになる。

 この間、最初にも述べたように、昭和十二年四月八日には次男の友一が誕生し、彼も長男智文と同様、後に教義上大きな地位を占めることになる。

 やがて太平洋戦争が始まり、戦争末期には立川も空襲を受けたが、真澄寺は戦災をまぬがれた。
信者の中から戦死者がほとんど出なかったとか、ある信者が防空壕に入りそこなってやむをえず外にいたら、逆に防空壕の方が直撃弾を受け、自分の方は助かったとかいった類の奇跡談も語られている。

 伊藤夫妻と信者たちとは、比較的ひっそりと信仰を守り続けて、戦争時代を過ごしたようである。


歴史A発展期

 戦争中、宗教団体法によって真言宗各派は合同させられ、伊藤の教団も「真言宗醍醐派立川不動尊教会」ではなく「真言宗立川不動尊教会」となっていた。
昭和二十年、終戦に伴う改革で合同真言宗は解体されたが、その際、立川不動尊教会は醍醐寺の末寺という関係からも自然に離れ、独立の団体となった。
こうして、戦時下に逼塞していた多くの宗教団体と同じく、伊藤の教団も新たな気持ちで再出発の時を迎えたのである。

 が、そればかりでなく、終戦の翌年の昭和二十一年は、伊藤の教団の霊的活動の面でも画期的な年となった。
この年の十一月四日、信者で薬剤師であった栗山という女性が、偶然的に霊能を開いた。
前日から、心が身体から離れるような妙な症状に襲われていたこの女性は、この日の午後、伊藤夫妻の前に挨拶に出たとたん「双親様〔そうおやさま〕(伊藤夫妻の尊称)の金色輝くような仏身のお姿」を拝し、霊眼が開けたというのである。
それまで友司の独自の能力と思われていた霊能を、受け継ぐ者が現れたのである。

 この現象にヒントを得て、教団ではさっそく、意識的に霊能を開発する修行を実行してみようということになり、二日後の十一月六日から、一ヵ月間にわたって「まこと基礎行〔きそぎょう〕」という名の霊能開発の修行が行なわれることになった。

 今日の真如苑では日常の「接心〔せっしん〕」と霊能開発へ向けての「相承会座〔そうじょうえざ〕」とは分離されており、さらに「相承会座」にもランクがあって、最終ランクではじめて直接の霊能開発が目指されるようになっているが、この時の「まこと基礎行」はこれら全体を合体したような修行だったようである。

 この行の中で、何人かの霊能者が生まれることになった。
今は教団から追放されてしまっている伊藤夫妻の長女映子〔えいこ〕も、この時の修行で満十三歳にして霊能を開いたようである[校訂者注5]。
しばらくして、昭和二十二年の四月には、次女の孜子〔あつこ〕がわずか六歳で、次男の友一が十歳で、それぞれ霊能を開いた。
(現在の真如苑の信者必携小冊子『一如〔いちにょ〕の道』の一九六頁には、後に三女と四女が幼くして霊能を開いたことを「霊能開発に年齢はない」ことの最初の証明であるかのように書いてあるが、これは、次女の事蹟を抹消した結果生まれた空白を、三女と四女の事蹟で埋めたために生じた偽りである)

 このようにして、受け身のご利益〔りやく〕信心ではなく、自ら霊能者になろうと志す人間を訓練する修行の課程が、教団の日常的活動として成立することになり、ここに、教団は大きな脱皮をとげることになる。

 昭和二十三年一月には教団名も「立川不動尊教会」から「まこと教団」へと改められた。
同年四月からは「智泉寮〔ちせんりょう〕」と称する布教師養成機関が設けられた。
これは後に「智流院〔ちりゅういん〕」という名の布教師養成課程となって、現在まで続いている。

さらに九月には、「まこと修行要諦〔ようたい〕」と称する文書が発表され、今日の「接心」に相当する「まこと修行」について、自分の心の奥底の姿を霊能鏡〔れいのうきょう〕に映し出して反省の糧とするところに眼目があることが明確にされた。

 茨城県の霞ヶ浦のほとりにある長禅寺という寺院を末寺として教団に「摂受〔しょうじゅ〕」(吸収)したりしたのも、この頃のことである。



歴史A発展期(2)

 こうして教団が順調に発展しつつあった最中、またもや大きな試練がふりかかってきた。

 昭和二十五年の八月、伊藤のもとの弟子であった荻野某という青年が、「自分は伊藤真乗から修行の名によるリンチを受けた」として警察に訴え出たのである。
この青年は前年の秋まで伊藤の弟子として教団におり、教務総長の位にまで昇っていたが、伊藤と対立して教団を去っていたのであった。
伊藤は逮捕され、この事件は「まこと教団リンチ事件」として連日新聞紙上をにぎわせることになる。
世間の非難の前に、教団への信頼感に動揺をきたし、教団を離れる信者もかなりの数にのぼった。

 この「リンチ」については、現在では、荻野が伊藤に叱られたのを逆恨みして、事を警察沙汰にすることで復讐を図ったものだとの見方が有力である。
当時の新聞で伝えられたほど教団側に非があるわけではないとの評価が、宗教評論家のあいだでは定着している。
しかし、伊藤が荻野に対してある種の体罰を加えていたことは事実のようだ。
そういうわけで伊藤は裁判にかけられ、結局、懲役七ヶ月、執行猶予三年の高裁判決に服することになった。
教団ではこの事件を「法難」と呼んでいる。

 この裁判の最中の昭和二十六年六月、心機一転の意味で、教団名は「まこと教団」から現在の「真如苑」に改められた。
伊藤が「教主」と呼ばれるようになったのは、この時からである。

 また、同じく裁判中に、以前から股関節カリエスで身体の不自由だった次男友一が順天堂病院に入院し、一年の闘病生活中、多くの病気を併発し、ついに昭和二十七年七月二日に亡くなった。
満十五歳であった。
この友一の死も、長男智文の死にならって「抜苦代受」の死であるとして意味づけられることになり、以後、友一は智文とともに「真如霊界」の主人公となる。
その戒名の院号が「真導院〔しんどういん〕」であるところから「真導院様」の尊称で信者から慕われ続けることになる。
教導院と真導院とをあわせた「両童子様〔りょうどうじさま〕」という呼称もしばしば用いられるようになった。

 教導院の死が真如霊界の道開きのためであったのに対して、真導院の死は、真如霊界をより完全なものとし、救いの大道〔だいどう〕を完成するためのものと意味づけられた。
そのひとつの証拠として、真導院の死後まもなく伊藤が『大般涅槃経〔だいはつねはんきょう〕』(略して『涅槃経〔ねはんきょう〕』ともいう)に出会い、この経の中に真如苑の救いの道についての教理的裏付けを見出したことが挙げられている。

 さらに、昭和二十九年八月には伊藤の三女真砂子〔まさこ〕と四女志づ子がともに霊能を開き、ここに、伊藤の四人の娘はすべて霊能者となった。
以来、彼女らが「歓喜〔かんぎ〕ミーデアム」という名で霊界の「両童子様」に感応して霊言を語り、信者の修行の場をリードしてゆくことになる。
真如苑の刊行物の中に、しばしば、教導院様がこう語ったとか真導院様がこう語ったとか称して、大人の語るような教訓めいた言葉がカギカッコつきで載せられているのは、みな、この歓喜ミーデアムが語った言葉なのである。

 こうして地ならしを終えた真如苑は、昭和三十年代以降、本格的な発展期に入る。
伊藤は、真如苑の霊能を大般涅槃経の予言の成就であると意味づける方向で、教義を整理するとともに、それまでの不動明王信仰中心から脱却して釈迦涅槃像を本尊にする方針を打ち出し、みずから涅槃像の彫刻をはじめた。

 霊能を開く信者の数もふえ、やがて百名を超えた(昭和六十二年現在では五百名以上いる)。
各地に支部も開設され、昭和三十九年には芦屋の高級住宅街の豪邸を買い取って関西本部が開設された。
以後、教勢は大きく関西地方に伸びることになる。
また、昭和四十六年には、ハワイに初の海外支部が開設され(責任者は例の霊能開発第一号の栗山である)、教勢は海外にも伸びることになる。


歴史A発展期(3)

 ところで、こうしためざましい発展のさなか、第三の悲劇が真如苑を襲った。
昭和四十二年八月六日、伊藤とともに関西本部に巡教中だった友司が、五十五歳で急逝したのである。
しかし、この第三の死に対しても、早速、教理上の裏付けがなされた。
友司が逝去の前年から直前にかけて伊藤とともに海外を歴訪した事実が、この死と関連づけられたのだ。
友司はいまだ真如教法の恩恵に浴していない海外諸国の因縁を背負うとともに、世界の諸宗教を「涅槃了義〔ねはんりょうぎ〕」(「涅槃経に依拠する窮極の教え」という意味)の真如のみ教えの中に「摂受〔しょうじゅ〕」するためのいしずえになって亡くなったのだ、というのである。

 伊藤家は、かつて恩になった真言宗醍醐派に対してはつねに友好的な関係を心がけていたから、友司に対しては、逝去直後に醍醐寺から大僧正位が贈られ、友司は「摂受院友司慈凰〔しょうじゅいんともじじおう〕大僧正」と称せられ、信者のあいだでは「摂受院様」と呼ばれるようになった。

 こうして、伊藤教主自身、「ご自分のお二人のお子様ばかりでなく最愛の奥様までをも救いの完成のために、ご霊界に捧げ尽くされた偉大な代受苦のみ仏様」というふうに祭り上げられて、めでたく、真如苑の教義は完結したわけである。

 その後も信者数はぐんぐん増え続け、昭和五十年代の後期に入ると、真如苑は、日本の新宗教を語るにあたって、これ抜きでは済まされないというほどの有力教団へと成長する。

 昭和五十八年十月には、伝統密教の血脈相承〔けちみゃくそうじょう〕のやり方を踏襲して、伊藤の三女真砂子と四女志づ子が伊藤から血脈〔けちみゃく〕(教えの正統的代表者としての権威)を継承するための儀式が厳かにとり行われた。
以来、三女は「真聰〔しんそう〕様」、四女は「真玲〔しんれい〕様」と呼ばれている。
この「血脈相承」が伝統密教の醍醐寺からも追認された形になっているのは、新宗教のあり方としては珍しいもので、注目に値する。
たとえてみれば、伊藤は、徳川将軍が朝廷の権威を利用して、形式上は「征夷大将軍に任ぜられる」という形をとっていたのと似たぐあいにして、醍醐寺を利用しているのである。

 このように目ざましい発展をとげてきた真如苑ではあるが、前記の三人のいしずえの死という事件の他にも、暗い影が射すことが全くなかったわけではない。
読者ももうお気付きのように、伊藤の長女と次女が教団から追放されたという事件である。
これについては第三部の「教主一家のスキャンダル」のところで、あらためて触れることにしよう。

 ともあれ、以上のようなぐあいで、明るいことも暗いことも、名誉なことも恥ずべきことも、何につけても伊藤一族ぬきには夜も日も明けぬ真如苑なのである。

[校訂者注5]版本では長女の名が英子〔ひでこ〕とされていたが、著者から誤りであったので正してほしいとの要望があった。


真如苑の教義のあらまし(前半)

 さて、それではこの家元宗教の教義はどんなものであろうか?

 批判に先立って、ひとまずは、教団の言うとおりの教義がどんなものであるかを、冷静に紹介しなければなるまい。
だが、私自身は、そんなものは少しも信じていないのだから、私自身の言葉として語るのは面映〔おもは〕ゆくてたまらない。
「信者の口から語らせればこうだ」という形で、書いておくことにしよう。

 お釈迦様は二千五百年前にこの世にお出になり、仏教を説かれましたが、最初は個人の完成だけを目指す低い教えである小乗の教えを説かれ、後に、自分の救いより他人の救いを優先させる大乗の教えを説かれ、最後に大乗の窮極の教えである『大般涅槃経』をお説きになって、涅槃に入られました。

このお釈迦様の最後のみ教えの中には、私達の過去、現在、未来が救われて「常楽我浄〔じょうらくがじょう〕」の生活が送れる道が示されています。

しかし、時期が熟さなかったために、この最後のみ教えは、ご予言通り地中に隠没〔いんもつ〕し、これを宣説〔せんせつ〕する偉大な導師様がお出になるまでは、このお経を人類の救いに生かす道は開かれませんでした。

▼ ところが、今世紀になって、これまたご予言通り、『大般涅槃経』を宣説する使命を持たれたかたがご出現なさいました。
それがわが真如苑の教主様です。
  ● ← 根拠?

教主様は、昭和十一年、それまでの恵まれた生活、いっさいの世間法的とらわれを捨てて衆生済度〔しゅじょうさいど〕の道ひとすじに立たれ、たいへんなご修行をなさり、伝統密教のみ教えをすべてお修めになって阿闍梨〔あじゃり〕様となられ、『大般涅槃経』に示されるみ教えを現実の救いに生かすお力を身につけられました。

 また、教主様をお助けする使命を持ってこの世に出られたお二人のお子様と奥様とが、教主様より先にご霊界に赴かれることにより、救いのお力の湧き出る源である真如霊界を確立して下さいました。

 さらにまた、教主様がお父様からお受け継ぎになった甲陽流病筮鈔〔こうようりゅうびょうぜいしょう〕による天霊系霊能と、
教主様の奥様の摂受院様が伯母の玉恵様を通じて祖母宝珠院様からお受け継ぎになった地霊系霊能とが合体し、
当苑に真如霊能が湧出〔ゆうしゅつ〕、他に類例を見ない当苑独自の接心修行が可能になりました。


真如苑の教義のあらまし(後半)

 接心修行は、我々の心の奥底の姿や背後の因縁を霊能者の霊能鏡に映し出すことによって、自分では気付きにくい心の誤りに気付かせていただき、自分中心のとらわれから解きはなっていただき、常楽我浄〔じょうらくがじょう〕の境涯へと導いていただく修行です。

 また、霊の世界には顕幽一如〔けんゆういちにょ〕ということがあり、あの世で成仏できずにいるご精霊〔しょうりょう〕様の苦しみは、子孫や縁ある人々の病気、事故、生活苦などの形になって、この世に映し出されてきます。
こうした因縁の諸相もまた、接心によって解明していただくことができます。
そして、教主様のお施餓鬼〔せがき〕をお願いすることにより、因縁を浄めていただき、ご精霊様に成仏していただくことができます。

 しかし、たんに「自分助かりたい」のご利益〔りやく〕信心の心ではみ仏様には通じません。
教主様のお施餓鬼をお願いすると同時に、ご精霊様が救われていただきたいと心をこめて祈らせていただくのです。
そして、それによって自分自身が楽になったら、それは、この世にある自分が、ご精霊様がたのできなかった分まで他のために働かせていただき、徳を積ませていただくためなのだと気付かねばなりません。

 そうした徳積みの道として、教主様は、仏教の布施〔ふせ〕、持戒〔じかい〕、忍辱〔にんにく〕、精進、禅定〔ぜんじょう〕、智慧〔ちえ〕の六波羅蜜〔ろくはらみつ〕を行じやすい形にまとめた「三つの歩み」を教えて下さいました。
三つの歩みは「お救〔たす〕け」「歓喜〔かんぎ〕」「ご奉仕」です。

「お救け」は、この尊い真如のみ教えを人様にお伝えして、そのかたを助けてさしあげることです。
「歓喜」は、この真如のみ教えを説く精舎〔しょうじゃ〕の維持発展のために喜びをもって°熨Kをご寄付することです。
「ご奉仕」は、苑内や苑外での真如苑の諸活動に自分の労力を提供することです。

これらの利他の徳積みによって私達の因縁が根本から浄められてゆくのです。

 しかし、目下悪い因縁が身に現れてきて病気その他の苦しい状態に陥っている人だったら、「三つの歩み」に取り組めと言われても、もちろんできません。
そこで、真如苑では、信者みなが徳を積めるように、信者に対する大きな恩恵として「抜苦代受〔ばっくだいじゅ〕」という道が開かれたのです。

 抜苦代受は、教主様の二人のお子様である両童子様が、信者の因縁を引き受けてご霊界に赴かれたことによって開かれたものです。
今でも、真如苑に結ばれた人は、みなこの抜苦代受に浴することができ、それによって、悪い因縁が身に発現するのを一時預かっていただくことができます。
しかし、この抜苦代受を在来の宗教の「ご利益〔りやく〕」のように考えるのはまちがいです。
抜苦代受は、あくまで、徳積みのできる条件整備として、因縁の芽生えを一時的にお預かりいただくものです。
抜苦代受に甘えて徳積みを怠ったままでいれば、そのうちに再び因縁が芽生えてきて、もとの苦しい状態に戻ってしまいます。
抜苦代受をいただいている間に、どんどん徳を積んでいって、将来芽生えてくる因縁の芽を、事前に摘み取ってしまうことによって、将来とも幸福が約束され、常楽我浄の生活が実現するのです。


 なるほど、一応もっともらしくできた教えである。
そして、真如苑の熱心な信者であるという人に聞くと、「み仏様であられる教主様のお力により、こんなに救われました」と、涙を流さんばかりの感激的表情で語るケースが、確かにずいぶんある。

 しかし、この「救いの大道〔だいどう〕」なるものが、現実の組織として動いている現場を眺めれば、救いがたくさんあるのと比例して、救いにはほど遠い脅迫や搾取やたぶらかしが広がっているのも事実なのである。
そして、本書で解明しようとしている「なぜ真如苑が伸びるのか」の秘密も、実のところ、そうした脅迫や搾取やたぶらかしと密接に関連している。
それらについて、次章以降で詳しく解明してゆくことにしよう。




真如苑の組織と修行のあらまし(1)

 ところで、急成長の秘密を解明するに先立って、真如苑の組織がどんなふうに作られているかを要約し、あわせて「三つの歩み」から「霊能発動修行」にいたるまでの真如苑の修行の体系にも触れておこう。
これがわかっていないと、せっかくの分析もなかなか理解できなくなってしまうからだ。

 真如苑の組織は、端的に言って、ネズミ講やマルチ商法の組織とそっくりである。

 真如苑では、前にも紹介したように「お救け行」を信者の重要な修行として課している。
この「お救け行」によって新しい信者が獲得された場合、その新しい信者は、必ず、入信を勧誘した在来の信者に直属する「導きの子」として組織に組み入れられる。
勧誘した側の在来信者は「導き親」となり、以後、「導きの子」の面倒を見てゆくことが義務づけられている。
導きの子がさらに彼自身の導きの子を作ると、「親」から見て新信者は「孫」にあたるわけだが、こうした子孫全体のことを「所属」と呼ぶ。
信者が日常直接指導するのは自分の「導きの子」だけだが、間接的には「所属」全体に対して責任を持つ形になる。

 こうした導きの親子関係の連鎖が、真如苑のさまざまな活動を行うにあたっての、上から下への指令のパイプになっており、また、下から上への報告や質問のパイプにもなっている。
機関誌の配布もこのパイプを通じて行われる。
下から上へ質問を出すことは「上求菩提〔じょうぐぼだい〕」と呼ばれている(ちなみに、これは仏教用語だが、本来の意味はこういう意味ではない)。

 他の教団にもしばしば見られるものだが、真如苑もご多分に漏れず、同居の親族を一体と見なす「家族入信」というきわめて日本的な方式を採用している。
つまり、世帯員のひとりが入信すれば、他の世帯員も信者と見なす。
そこで、奥さんが入信してしばらく後に夫も信じるようになったといった場合は、「夫も最初から入信はしていたのだが、まだ『歩ん』でいなかったのだ」というふうに表現する。
つまり、形式的な入信と区別して、実質的、自覚的な信者になることを「歩む」と言うのだ。
「教えを歩む」とか「真理〔みち〕を歩む」とかいう他動詞的な使い方もしばしば行われている。

 いろいろな修行の場への「参座〔さんざ〕」の資格要件として「お救け五人以上」とか「お救け十人以上」とかいう条件が付けられることが多いが、こういう場合の「人」は厳密には「世帯」の意味である。
つまり、五人家族の一員である人を「お救け」したからといって「お救け五人」になるわけではない(ただし、教団の信者数の統計は、それによって一挙に五人増加する)。

 「所属」が一定数以上に達し、かつ、ひとつの活動単位を指揮する能力ありと認定された人は、自分と所属全体からなる活動単位である「経〔すじ〕」を構成することが許され、「経親〔すじおや〕」となる。
それまで自分の属していた経から独立して自分自身の経を持つことを「経立〔すじだ〕て」と言う。
個々の経は経親の苗字を付けて「○○経」と呼ばれる。

 経が複数集まると「部会」が構成され、「部会長」は部会を構成する経親の一人が兼任する。
部会は都道府県ごとに最低一つは設けられており、部会旗という旗を教主から下賜されている。
真如苑の重要な行事の際には、制服を着た旗手が部会旗を捧持して入場、整列し、「真如苑にはこれだけ部会があるのだぞ」ということを誇示する儀式が行われる。

 さて、これもネズミ講型教団の通例だが、ひとつの経が特定都道府県の部会に属しているからといって、その経の信者全体がその都道府県の住民というわけではない。
早い話が、東京の経の誰かが岡山県の友人を「お救け」すれば、その友人は岡山県の住民であるにもかかわらず、東京の経に属することになる。
このような、地域的にばらばらな導きの親子関係のパイプを通じて信者指導が行われるのは非常に不経済なわけで、創価学会、立正佼成会のような大教団は、この点の困難を解消するために、かなり早くから地域ブロック制に移行しているわけだが、真如苑はこの点、きわめて保守的である。



真如苑の組織と修行のあらまし(2)

 真如苑は、立川の総本部、東京都渋谷区広尾の東京本部、豊中市の大阪精舎〔しょうじゃ〕、その他いくつかの重要拠点を持ち、さらにもう少し規模の小さい支部や布教所を各地に持っている。
いくつかの重要拠点では、毎月のうち何日か、法要とともに「接心」が行われる。
接心は、細かく分ければいろいろな種類があるが、とりあえず「向上接心」と「相談接心」とに大別できる。

 「向上接心」は大部屋で行われる。
あらかじめ信者を円陣の形に正座させておいて、その輪の中に何人かの霊能者が入り「護身咒〔ごしんじゅ〕」と称するオマジナイを唱えて「入神」する。
それから彼らが、信者の前ににじり寄り、一人あたり二、三分ずつ、霊感で感じ取ったことを「ご霊言」として語りながら巡回してゆくのである。
信者は、霊能者から「あなたは、これこれの病気で亡くなったご先祖様がいませんか?」などと質問された場合だけ「はい」とか「いいえ」とか短く答えることが許されているが、自分から積極的に質問することは許されない。

 「相談接心」のほうは個室で行われる。
易者が顧客を待たせておいて、一人ずつ部屋に呼んで相談に応じるのと似たようなものである。
相談を求める信者の側から、かなり詳しく相談ごとの内容を霊能者に話すことが許され、霊能者はそれを聴き終わってから霊の護身咒で入神し、答えの「ご霊言」を語る。

 信者は、入信後五回以上、本部や一定ランク以上の支部での法要に参加し、「ご親教」と称する教主の講話を直接もしくはビデオで三回以上聴き、かつ「三つの歩み」のうち最低ひとつを実践すると、はじめて接心を受ける資格が与えられる。
しかし、受け初めから数えて最初の五回のあいだは向上接心のみが許可され、相談接心は許されない。
接心の「ご霊言」の中には真如苑独自の用語がポンポンとび出してくるので、初信者が理解できなかった場合に補足の説明を加える目的で、最初の三回の接心には導き親、または経親(両者がともに都合が悪い場合にはその他の上位者)が付き添うことになっている。

 信者に日常課せられている修行として、前節でも述べた「三つの歩み」の他に「無相〔むそう〕接心」というのがある。
これは、接心の際に告げられた「ご霊言」を心の糧として日々自分で内省することを指す。
「接心」はこのような「無相接心」を可能にするための修行の一環であると意味づけられているので、いったん受け始めたからには、一ヵ月に一回以上受けねばならないと義務づけられている。


真如苑の組織と修行のあらまし(3)

 信者は、入信して「三つの歩み」に取り組み、「接心」を重ね、それにもとづく「無相接心」を行い、一定数の導きの子を獲得すると、「大乗の会座〔えざ〕」(略して大乗会〔え〕)と称する修行の場に臨むことが許される。
これは、霊能者の指導のもとに行われるある種の祈りの行であり、「接心」をやや高級にしたようなものと思えばよい。
この会座で霊能者によって祈りの境地の深まりを認定されると、「大乗」という名の「霊位」を授けられることになっている。

 その上にさらに「歓喜〔かんぎ〕の会座(歓喜会〔え〕)」「大歓喜〔だいかんぎ〕の会座(大歓喜会〔え〕)」があり、それぞれを通過すると「歓喜」「大歓喜」の「霊位」を授かる仕組みになっている。
このような「霊位」は、伝統密教の血脈〔けちみゃく〕と同じで師から弟子へと直伝〔じきでん〕で伝えられてゆくのだとして、霊位の授受を真如苑では「霊位相承〔れいいそうじょう〕」と呼ぶ、そして、各ランクの霊位を授かるための会座を総称して「相承会座〔そうじょうえざ〕」と呼んでいる。

 個々人から見た場合、まず「大乗」を授かり、次に「歓喜」を授かり、さらに「大歓喜」を授かり、というふうにして霊位の階段を登ってゆくことになるが、このことを「霊位向上」と呼ぶ。
「霊位向上」と「向上接心」とに同じ「向上」の語が使われていることからもわかるように、日常の「向上接心」は霊位向上の修行の基礎をなすものと意味づけられているわけである。

 「大歓喜」の霊位を授かった者のみが参座を許される最高の相承会座が「霊能発動修行」であり、この会座での修行をパスすると「霊能」の霊位を授かり、実際に霊能を持つようになると言われている。
この段階で信者は初めて接心の受け手から授〔さず〕け手へと変身するわけである。
しかし、霊能者の中にも細かくわけるとさらにランクがあり、向上接心のみを担当できる霊能者と相談接心を担当できる霊能者では、後者のほうがランクが上である。
さらに、霊能者には、「霊能の鏡を曇らせないため」と称して、霊能者同士が互いに授け手、受け手になって行う「苑内接心」に、頻繁に参加する義務が課せられている。

 以上でわかるように、霊位の高低による地位体系と、経親とか部会長とかいう地位体系とは別立てになっているので、経親だから霊位も高いと決まっているものではない。しかし、霊位の前提となる相承会座への参座資格が「お救け」の人数によって定められているため、結果的には第一の地位体系の中での位の高低と、第二の地位体系の中での位の高低とは、ほぼ並行するようになっている。
経親になる者は歓喜の霊位をすでに授かっているのが通例であり、部会長になる頃にはたいがい霊能者になっている、という具合である。

 これらの他に、真如苑の教団内での高位者は真言宗醍醐派から僧階をもらうという習慣になっているので、この「僧階」を真如苑内の第三の地位体系と考えることもできる。ただ、こちらの方は、前二者ほど教団内で重視されていないようだ。


真如苑の組織と修行のあらまし(4)

 なお部会や経を通じての日常の信者指導と接心における霊能者の指導とは別立てになっている。
自分の上位の経親がたまたま霊能者だからといって、接心においてもその経親たる霊能者から「ご霊言」を授かる、という形にはなっていない。
この点は真如苑の特色として大いに注目すべきだろう。
真如苑では、教えの実践のしかたに関する日常的な質問に対しては、経の中の上位者が信者としての常識を用いて「教化〔きょうげ〕」するが、少し重要な問題になると、経親から「接心を受けてみなさい」と勧められる。
この場合、経親自身が霊能者であっても、直接、日常活動の現場で護身咒を唱えて厳かに「ご霊言」を発するということは、絶対にやらない(してはならないという規則がある)。
被指導者は、次回の法要の日に、接心を実施している本部や支部などへ、朝早くから赴いて順番を取り、法要終了後に長々と待ったあとで、たまたまその順番に当たり合わせた霊能者から接心を授かり、それを、経親の日常指導よりはるかに高い「ご霊界」からの言葉として受けとめるのである。

 こうして授かる「ご霊言」は、「ご霊界」からの直接のお言葉であるから、担当する霊能者が誰であるかにかかわらず、必ず、その時の受け手に最もふさわしい言葉が授けられるのだと信じられている。

 稀には、そのとき当たり合わせた霊能者が偶然自分自身の経親だったという場合もあるかも知れないが、その場合、霊能者としての経親は、ご霊界の代弁者という資格で語っているわけで、日常指導における経親とは別人格と考えるわけである。

 これが真如苑の修行のあらましである。

 以上でわかるように、信者が霊能者になるためには、たくさんの「お救け」をして、霊位の階段を下から順に登ってゆかねばならない。
しかし、ただひとつだけ、例外がある。
それは、教主伊藤の子孫の場合である。
教主の子孫の場合は、このような「自分でお救けして経の子を持って……」というような回りくどい修行は抜きに、いきなり霊能を開発することが許される。 
まさに家元制度そのものである!




第二部 なぜいま真如苑が伸びるのか?

第一章 オモテの理由とウラの理由

オモテの理由(前半)

 真如苑がどんな教団であるかの概略は、ほぼおわかりいただけたであろう。
しかし、これまでの記述はあくまで外からの概観を述べたものにすぎないから、「なぜいま真如苑が伸びるのか?」という問題の答えは、これだけからでは得られない。
これから真如苑の内面に立ち入って、その急成長の秘密を探ることにしよう。

 およそ新しく興った宗教運動が爆発的に成功し、信者を次から次へと獲得して巨大化してゆく場合、たんなる偶然だけでそこまでゆくとは考えられない。
やはり、伸びるには伸びるだけの、ある程度は理にかなった必然性というものがあるはずである。

 むろん、当の教団自身に言わせれば「大いに必然性がありますよ」という答えが返ってくる。
理由はと問えば「それは、わが教団の教えが正しいからですよ」ということになる。
真如苑の場合で言うと「わが教団の教えがお釈迦様のご予言の実現だからですよ」とか「すべての宗教を摂受〔しょうじゅ〕する涅槃了義〔ねはんりょうぎ〕の教えだからですよ」とかいうのが具体的な答えである。

 だが、むろん、これは教団の掲げるイデオロギーであって、外部の人にとっては答えになっていない。
我々は、こうしたイデオロギーとは別の次元で必然性を探究しなければならない。

 その際、まず第一に思い当たることは、入信する人々にとって何らかの現実的なメリットがあるのでなければ教団は伸びないはずだ、ということである。
そして、第二に思い当たることは、いかにメリットがあっても、信者に課せられる負担がそれを上回るようでは信者が逃げてしまうから、負担がほどほどであることが必要だ、ということである。

 第一の点については、例のGLAが教祖の死後完全に停滞してしまった例が、ひとつの参考になる。
GLAの教祖の「エル・ランティー」氏は、生前、自分の周囲の連中にある種の修行をさせて「過去世の言葉をしゃべる」という奇跡めいた技を身につけさせていたが、現実のご利益に直結する「憑依霊〔ひょういれい〕を取りはらう」技術については、誰にも伝授していなかった。
そのため、教祖の死後、残された連中は、デモンストレーション用以外には役に立たない「過去世の言葉をしゃべる」技だけを身に着けた、ぱっとしない霊能者集団になってしまった。
ひとことで言えば「ご利益がなくなってしまった」のだ。
かくしてGLAは失敗した。

 この例からわかるように教団が伸びるには何らかの「ご利益を与える力」がないといけない。
そして、その力を教祖だけが独占するのではなく、新しい世代に次々に伝授してゆくためのカリキュラムを整えておかないと、「エル・ランティー」氏の二の舞になって、教団の伸びは止まってしまうわけだ。

 第二の点については、実践倫理宏正会のような修養団体(「宗教類似団体」と呼ぶ人もある)が末端会員にやたらと普及用の機関誌を買い取らせ、戸別訪問方式で売り歩かせている例が、ひとつの参考になる。
倫理を教えると言いながら、会員に機関誌買い取りの経済的負担をかけ、それによって本部が潤うというやり方には問題があると言わねばならない。
宗教団体の中にも、教化用の新聞や雑誌をやたらと発行して、それらを信者に一人あたり十部も二十部も買い取らせて、その金で幹部がヌクヌクと暮らしている例がしばしば見られるが、このようなことを露骨にやっていたのでは、ご利益よりも負担の方が大きくなってしまうから、やがては信者がついてこなくなってしまうだろう。


オモテの理由(後半)

 以上の二点を念頭に置きながら、真如苑の場合を振り返ってみると、確かに、この教団には大きく成長するだけの必然性がある、ということがわかる。

 まず第一に、「接心」によって「いまのあなたの病気は何々の障〔さわ〕りによるものです」というようなことを具体的に指摘できる力があるし、「障り」が具体的に判明したら、ちゃんと「お施餓鬼〔せがき〕」によって供養してくれる力もある。

 そればかりでなく、たとえ「障り」がまだ判明していなくとも、「抜苦代受〔ばっくだいじゅ〕」の力によって病気の症状などを軽くしてもらうことができるから、入信と同時に、他の教団では見られない顕著なご利益がある。

 第二に、真如苑は会費の負担が極端に低い。
誰でも、ひとりの信者に「導き親」になってもらって、月額二百円の会費を、入信の月から年度末までの数ヵ月分払い込みさえすれば、信者になることができる。
信者になれば月刊紙『内外時報』と季刊雑誌『歓喜世界』は無料でもらうことができる。
とりわけ『歓喜世界』などは上質紙にカラーグラビアつきのまことに豪華な雑誌で、市販するなら一冊千円以上取らないと採算が合わないだろうと思われるぐらいの品物である。
それに、真如苑では、他の多くの宗教団体のように日常の集会などの場で指導者が直接に寄付金を駆〔か〕り集めるということはない。
寄付金はすべて自発的な誓約にもとづいて総本部や地方拠点の窓口に出せばよいのだから、あくまで本人の自主性にまかされているわけだ。

 こう見てくると、なるほど真如苑は「いいことづくめ」である。
このような教団が伸びるのは当然のことだと思えてくる。
 実際、真如苑に入信して一ヵ月か二ヵ月のあいだは、誰でも以上のような「いいことづくめ」であることがこの教団の伸びる理由だと実感するものである。
 私自身、かつて真如苑に潜入してみた体験を持つが、最初の二ヵ月ぐらいのあいだは「なるほどこれは他の教団に比べると『いいことづくめ』の教団だ。
これなら急成長するのもそれほど不思議ではない」と思い込まされてしまった。


ウラの理由

 ところが、以上の「理由」は、実はまだまだ表面的なものである。
誰でも真如苑に入信して半年ぐらいすると、そのことを思い知らされる。
はっきり言えば、真如苑の表面的な「いいことづくめ」にはすべてウラがある、ということが、いやおうなしにわかってくるのだ。

 まず、「何でも答えてくれるありがたい接心」は、たんに信者の悩み事に解決を与えてくれる目的のためにあるのではなく、むしろ本当は別の目的のためにあるのであり、そうした「ウラの目的」との「抱き合わせ」を受け容れるかぎりで、悩み事の答えも得られるという形になっていることがわかってくる。

 また、「ありがたい抜苦代受」には必ず次のステップがあり、信者が次のステップへ進むのをためらっていると、指導者から脅迫めいた催促を受ける、ということもわかってくる。

 そして、会費が安いことや機関誌がタダであることは「ありがたい」どころか、むしろ、とんでもない「ウラの手」にひっかけるためのペテンだったということもわかってくる。

 ところが、実に憎いことには、信者がこういう「ウラ」を認識しうるほどになる頃には、すでに組織の中にがんじがらめに捕らえ込まれてしまっていて、なかなか脱けられなくなるようにできているのだ。
まあ、言ってみれば、入信した人々はみんな「騙〔だま〕し討ち」にかけられるのだ。

 このような「騙し討ち」のシステムが巧妙に作られていて、外からは「ウラ」がほとんど見えず、一見「いいことづくめ」であるかのような印象を与えるようにできていることが、この教団が急成長する真の原因なのである。



第二章 何でも答えてくれる「接心」

スーパーマンが五百人

 真如苑を他の宗教団体と比較した場合、まず第一の特徴として挙げられる事項は、何と言っても「接心の存在」であろう。
真如苑自身、「真如霊能による接心が存在すること」を「『大般涅槃経』に依拠していること」および「伝統密教の血脈〔けちみゃく〕を相承〔そうじょう〕していること」と合わせて「真如苑の三つの宝」と呼んでいるし、信者必携小冊子『一如の道』の中でも「『真如苑の接心は非常な魅力である』という声がいよいよ高くなっている。
まさにその通りである」(一六三頁)と自画自賛している。

 週刊誌などで真如苑が話題になる場合も、「霊能で何でもズバズバ当てるスーパーマンを五百人以上も抱えている超能力集団」とか「誰でもスーパーマンになれるというスゴイ教え」といったキャッチ・フレーズで紹介されることが多い。

 スーパーマンであるかどうかは別としても、この「霊能」が、常人ではなかなか手の届かないある種の特殊能力であることは本当のようだ。
例えば、相談接心を担当する霊能者など、相談者と対座して「入神」すると、「火事のありさまが透視されてきます。あなたの父方の近いご先祖に火事で亡くなったかたがいらっしゃるはずです」などと言い出し、事実はそのとおりであった、という程度のことはザラにある。
つまり、街頭の八卦見や手相見などよりはマシな能力を持った霊感術師的人物を教団が五百人以上も抱え込んでおり、さらに続々と後継者も育てている。

 新宗教の教団がその教団独自の霊感術を開発して活用している例としては、円応教〔えんのうきょう〕の「修法〔しゅうほう〕」とか、解脱会〔げだつかい〕の「五法〔ごほう〕」とかいろいろなものがあるが、真如苑の「接心」ほど組織的なものは他に例がない。
その意味で、「接心」の存在は、たしかに、真如苑が伸びる大きな原因の一つと言うことはできよう。

 だいたい日本人の多くは占いめいたことがけっこう好きである。
宗教を求める場合にも、高邁〔こうまい〕な教えと坐禅や念仏のような行だけでは飽き足りず、個別問題の霊感術的解決を同時に要求したがる。
生長の家などは、新宗教の中ではわりと知的な階層を相手にして栄えている教団であるが、教祖の著作を読んで瞑想することだけが教えの内容なので、多くの信者はこれに飽き足りず、ウラで拝み屋や易者などに頼るという二重信仰に陥っている。

 真如苑の場合は教団自体が占い的霊感術を堂々と活動の中心に据えることで信者の欲求を全面的に満たし、教団一本槍ですべて事が済むようにはからってくれている。
 まことにありがたいかぎりである。


ご霊言は絶対の真理?(1)

 もっとも、かくもありがたい「接心」の「ご霊言」ではあるが、しょせんは人の口から語られる言葉であるから、全然ミスがないというわけにはいかないようだ。
 この点については、実際に信者だった人々の次のような体験談がある。

 私の知っている西村春子さん(仮名)という年配の女性は、中年以後、仏教のいろいろな方面に道を求められ、一応、ここ数年は念仏の道に自己の安心〔あんじん〕を見出して落ち着いておられた。
たまたま旧友に真如苑に凝っている沢田道代さん(仮名)という人がいて、「お念仏のような道では本当の因縁切りはできないわよ」と言って真如苑をすすめにきた。
お人好しの西村さんは、体の不調など現世的な面で多少の悩みがあったことも手伝って、ちょっとばかり念仏への確信が揺らぎ、ものは試しにと、勧めに乗ってみる気になった。
ところが、入信すると、自分の因縁を解明してくれるより先に、「早くこの道をほかの人にもお勧めしなさい」と、例によって「お救け行」を命じられた。
そこで、しぶしぶながら、自分と同じ念仏をやってきて行き悩んでいる人に勧めてみるのが近道と思い、同じ念仏の会で知り合った友達に手紙で真如苑を勧めてみた。

 その友達というのは川口良子さん(仮名)といって、西村さんと同年配の婦人だった。
念仏で自分ひとりの心の安心は得られるものの、息子のノイローゼが少しもよくならないということに悩みを抱いていた。
川口さんは西村さんからの懇切な手紙に感激し、二、三日後の法要の日に真如苑本部を訪れて入信の手続きを済ませた。

 しかし、翌日、再びお念仏の会の方に参加した川口さんは、ちょうど「お念仏ひとすじで確実に救われるのですから、ふらふらと脇見をしないことが肝心です」という先生の講話を聞くハメになり、まさに自分のことだと恥じ入り、現世利益を求めるあせりから信仰心をふらつかせた自分が悪かったと反省した。

 こういうわけで、川口さんは入信早々真如苑をやめると言い出した。
こういう場合、川口さんを引きとめるのは導き親たる西村さんの責任ということになる。
経親〔すじおや〕の指示によって、西村さんは、この「川口さんの信仰障害の件」について「教化〔きょうげ〕の接心」(導きの子をどう指導するかについて相談接心)を受けさせられることになった。

 ところで、西村さんや川口さんが通っていたお念仏の会というのは、浄土宗の中から明治時代に興隆した光明会〔こうみょうかい〕という会の流れを汲むもので、念仏三昧〔ざんまい〕の境地に入ることを主眼とするものである。
同じく念仏の信仰と言っても、「信仰心さえあればよい」という浄土真宗の行き方とは対蹠的〔たいせきてき〕な流れである。

 相談接心の席で霊能者と一対一に対座した西村さんは、
 「お念仏の会で知り合った川口さんという方をお救けしたのですが、その方が、お救けした直後に『やっぱりお念仏のほうがいいからやめる』とおっしゃいまして……。そのお念仏の会というのは、もともと『お念仏ひとすじでよい』という、とても信念の固い会でして……」
 と事情を説明した。

 さて、それを聞き終わって護身咒〔ごしんじゅ〕を唱えて入神した霊能者は、「その川口さんの息子さんには、これこれの因縁が感じられる」とか何とか、いろいろ霊感で感じたことをしゃべったあげく、「しかし、あなた自身が不動の信念をもって臨めば、必ず、その川口さんを連れ戻して、正しい道を歩ませてあげることはできます」というような結びの言葉で接心をしめくくった。

 ところが、その「ご霊言」の中に、西村さんは、はっきりひとつの「ウソ」を見付けてしまったのだ。

 霊能者の「ご霊言」の中には、「確かにお念仏の信仰は信念が固い。特に真宗のお念仏の信仰は信念が固い。しかし……」という一節があったのだ。

 この体験が、西村さん自身に真如苑を疑わせるきっかけとなった。
そしてしばらくの後、真如苑の金銭的要求にまじめに従っていたら大変なことになるということにも気付いた西村さんは、きっぱり真如苑と縁を切る決心をし、川口さんに宛てて「あなたのおかげで私自身も真如苑という迷いから覚めることができました」と感謝の手紙を送ったという。

 西村さんは笑いながら次のように語る。

 「真如苑の霊能者というのは、確かにある種の霊感を持ってはいますが、霊感で感じたことに、自分なりの常識で解釈を加えてしゃべっている場合が多いのです。
霊能者の入神中の言葉をすべて『何もかもお見通しのご霊界が授けて下さる言葉』などと思ったら大まちがいですよ。
あの時の霊能者の場合は『お念仏の信仰一本槍を主張する信念の固い宗派は浄土真宗だ』という社会通念が頭にあって、それを使ってしゃべっていたわけですよ」

 なるほど、これでは、時折「ウソ」が混じるのは当然のことだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ご霊言は絶対の真理?(2)

 次のような実例もある。

 中国地方のある都市で予備校の教師をしている秋山博彦さん(仮名)は、昭和六十年二月に、予備校のもと教え子の若い女性から真如苑を紹介されて入信した。
秋山さんは、宗教についてはもともとかなり詳しい人だった。
真如苑以外の一般仏教の教学にもある程度通じていた。
それだけに、無知な人々が真如苑の教義を絶対だと思って熱狂的に信仰する態度にはかなり違和感を感じ、足踏みしていた。

 入信から四ヵ月たった六月のある日の接心で、秋山さんは霊能者から「あなたは勉強が好きですね」と図星なことを言われた。
秋山さんが「はい」と答えると、霊能者はすかさず次のように続けた。
「それならば、来年の春には必ず智流院〔ちりゅういん〕に入るのだと、今から覚悟を決めて準備をしなさい。あなたならできます」

 これでようやくひとつの確信を与えられた秋山さんは、「自分は智流院で学んで教学的な面で真如苑に尽くす使命があるのだろう」と考え、智流院に入るための準備をすることにした。

 智流院に入るには「お救け五人以上」が条件になっている。
そのため秋山さんは、それまでは遠慮がちにしか取り組んでいなかった「お救け」にも積極的に取り組むことにし、いろいろな人に機会をとらえてはかたっぱしから真如苑の話をしてまわった。
とりわけ、不幸な死者を出した家や、重度心身障害児のいる家などに、積極的に話をもっていった。
しかし、秋山さんのこの態度は、基本的に、人の不幸につけ込んで、自己の属する団体の勢力を伸ばそうとする意図が見え見えで、相手の反発を買っただけであった。
周囲の人々は「秋山さんほどのインテリがなんであんなことを」と眉〔まゆ〕をしかめ、秋山さんは十月ごろには、すっかり窮地に追い込まれてしまった。

 さて、こうして秋山さんがゆきづまった十一月、智流院の昭和六十一年度生の募集要綱が発表された。
その資格要件として「お救け五人以上」等の条件は前年度と同じだったが、新たに厳しい制限条件がつけ加えられていた。
「昭和五十九年十二月三十一日以前に入信した人に限る」という条件である。
志願者が増加したために新たに採用された制限条件であるというが、この条件によって、秋山さんは最初から資格なしということになった。

 つまり、「あなたならできます」という「ご霊言」は、結果的にウソを語ったことになったわけだ。

 「何もかもお見通しのご霊界」であるなら、智流院入行〔にゅうぎょう〕の資格要件が変更されることもお見通しでなければおかしいではないか!

 その後間もなく秋山さんは真如苑ときっぱり縁を切った。現在の秋山さんは次のように語る。

 「口はばったい言い方になりますが、私ぐらいに一般仏教を学んで、それなりの霊性のレベルに達している者にとっては、真如苑という集団は、霊性が低すぎて、学ぶに値しないのです。
また、金銭的な面から見ても、とても私などのつきあいきれる教団ではありません。
だから、『こんな教団は、つきあいきれる教団ではない』ということを早く知ることができたのは、よいことだったと思います。
例の『智流院云々』というウソの『ご霊言』をいただいたおかげで、『お救け』に盲動して、組織の奴隷になること醜さを、わりと早く味わい尽くしました。
だから、あの『ご霊言』がウソであったこと自体については恨みはありません。感謝しています」

 なるほど、妙な形で逆に感謝されるウソもあるわけだ。

 だが、いずれにせよ、「ご霊言」もしょせんは人の言葉だということが、おわかりいただけたであろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ご霊言は絶対の真理?(3)

 もっとも、以上のような「ご霊言」のミスの例をわざわざ持ち出すまでもなく、「ご霊言」が半ばまで霊能者の人間的意識による判断にもとづいて語られていることについては、きわめてはっきりした証拠がある。

 その証拠とは、「初信者の第一回目から第三回目までの接心では、霊能者に対して、自分から何回目かを申告せよ」という規則が定められていることである。

 初信者の接心は向上接心であるから、霊能者は、円陣の中に入って一斉に護身咒を唱えて「入神」したら、あとは入神しっぱなしのはずである。
この「入神」が本当に自我を没却しつくした境地であるならば、霊能者は「ご霊界」の意思を伝達する器になりきっていて、人間側の申告など聞こうと聞くまいとどちらでもよい状態になっているはずである。
その霊能者が人間側の「一回目です」とか「二回目です」とかいった申告を待って語り出すということは、「入神」状態にあるはずの霊能者が、半ばは人間的な意識で判断しつつ「ご霊言」を語っていることの何よりの証拠である。




親切すぎるほど親切

 今をときめくアイドル女優の沢口靖子さんが、実は真如苑の信者だということは、今では多くの人々に知られている。
彼女が女優になるにあたっては、真如苑の接心で示された通りに決断して、みごと「ご霊言」通りに成功したのだと言う。
古来、人気商売の人というのは、商売の性質上、占いや霊能に頼りがちなもので、そのためか、真如苑には芸能人の信者が多い(目ぼしいところでは天地聡子さん、島田陽子さん、高橋恵子さんなど)。

 ところで、ふつうの常識人というものは、ある程度の年齢になれば、「人生においては、結局のところ、自分で決断して自分で責任をとるという行動を積み重ねてゆかないかぎり、自分自身の人間としての成長が期待できないものだ」ということに、気が付くものである。
むろん、人生のある特殊な局面においては占いや霊能が有意義な場合もある。
だから、そういうことを「なりわい」にする人も世の中にいてよい。
しかし、人生上で遭遇〔そうぐう〕するあらゆる重要事件について、右するか左するかを、占いや霊能に頼って決めるというのでは、何のために人としてこの世に生を享〔う〕けたのかわからない。

 人生にはむろん失敗もある。
が、失敗を糧として自分の成長に生かす心がまえがあれば、失敗もまた生きる。
長い目で見た場合には、そうした「生かせる失敗」を犯した場合の方が、そうでない場合に比べて成長が早い、もしくは人間が大きくなる、ということがあるものだ。

宗教心を持つことはよいことだが、それは、基本的には、「深く祈った後に自分で決断する」という形で発揮されるべきものだ。
深い祈りの中から決断した行動であっても、むろん悪い結果を招くことがあるかも知れないが、そういう場合には、そうした悪い結果を通じて人生勉強するのが自分の使命なのだと思って納得することができる。

 しかし、真如苑ではこういう人生観は認めない。
人生百般、何でもかんでも接心で解決うすることこそが「み仏さま」のみ心にかなう、という考え方なのだ。

 その結果、真如苑の信者は、進学、就職、縁談、新築などの人生上の重大事ばかりでなく、短期のアルバイトの選択、職場での商品仕入先の選択、隣近所とのつきあい方、といった細かな事項まで、すべて接心を受けて決めるようにと指導される。
研究職の人などに対しては、どういう方向に研究を進めたらよいかも接心で決めなさいと勧められる。まことに、親切すぎるほど親切である。
 「それによって、職業の方で迷わずに最短コースを進むことができて時間が浮くから、それを肝心なみ教えのために捧げることができて、世のため人のために尽くせますよ」というのが、その理由である。

 しかし、このような人生観というのは、どこか根本的に狂ってはいないだろうか? 
人間が職業人として生きている以上、その職業自体の中でいろいろ意義ある失敗をしてみて、そこから学んで向上してゆくというのが、その人の人間的向上の最もまっとうな本道ではないだろうか? 
その本道をすべて要領よく「ご霊言」の指示通りにはしょって最短コースで済ませるということが、はたしてその人自身の人間的向上にとってプラスであろうか? 
―これは、多少なりともまともな人生観、宗教観を持っている人間なら、当然感じてしかるべき疑問であろう。

 そもそも真如苑という団体は「世界中の人間がわが教団に結ばれることによって理想郷が実現するのだ」といったきわめてオメデタイ社会観以外に、社会観と言うべきものを持たない団体であるが、仮に彼らの理想が実現する日が来ると仮定してみよう。

 その暁には、当然、世界中の人類がひと握りの「霊能者」のもとに通って、あらゆることを「ご霊言」の指示どおりに実行して、人生そのものをはしょって生きてゆくことになる。「人生そのものがはしょられてしまった人類社会」というものは、常楽我浄の浄土どころか、手塚治虫のマンガに出てくる「ロボットだけの社会」とまさに同じものであろう。
想像するだけでも空恐ろしくなる。

 最終的にはそうした空恐ろしいSF的社会の実現までゆきつかざるをえないような道を、自分の人間的向上の最短コースなどと考えることは、常識ある人間にとっては無理なことではないか?

 しかし、こうした疑問に対しては、真如苑の指導者は何らまともに答えない。



変化エージェントとしての霊能者(1)

 前に紹介した白水寛子氏の論文の題名は「変化エージェントとしての新宗教の霊能力者」となっている。
「S教団」なる新宗教教団の「霊能者」なるものが、いかなる役割を果たす存在であるかを研究したケース・スタディーであるという。
儀礼上「S教団」という仮名が使ってあるが、これが「真如苑」であることは公然の秘密であって、いまさら隠し立てする必要もない。
 この論文の結論の部分を次に引用してみよう。
 「さて、S教団の霊能力者についてあらためて考えてみると、彼らは教義的には接心において、霊界からの霊言を伝えるという一次的≠ネ役割をもっていた。
そして一方では教育的、指導的役割をも二次的≠ノ持っていたのである。
こうしたことから、霊能力者はface-to-faceの接触を通じて教団の教義を信者に内面化させ、ひいては信者をも含む教団全体の凝集性を高めてゆくところの、変化エージェント(change agent)であるとみなすことができよう。
 そしてこの変化エージェントは教団内で、様々な教義的、組織的制約のなかで育成され、かつ行動する存在ゆえに、その性格は体制的であり、信者の態度をさらに強く体制(教団)へ結びつけるという特徴を持っているのである」(『変動期の人間と宗教』八九頁)

 「変化エージェント」という専門用語には、注の中で次のように定義が下されている。
その所属する機関が望ましいと考える方向に向って、集団成員の態度を変化させようと試みる専門家である
 なかなか要点を突いた結論であると思う。

 前に、真如苑ではやたらと何でもかんでも接心で決めるよう指導されるということを明らかにした。
こうした「親切すぎる」やり方は、ちゃんとウラの目的があってのことなのだ。
それは、およそ接心なるものは、どんな現世的な卑近な物事についての相談接心であっても、必ず「教え」を「歩む」ことと関連づけた形で答えが与えられる仕組みになっているからである。
言いかえると、信者の霊能相談的関心をうまくエサで釣って、「教え」の方向へ釣り上げるという役割が、相談接心に期待されているのである。




変化エージェントとしての霊能者(2)

 実例をお話ししよう。

 ある信者が親類づきあいのことで少し困ることがあって、相談接心を受けた。その親類というのは、たまたま創価学会の会員であった。
そこで、その信者は、接心に先立って、そのことをも霊能者に申し述べた。
 さて、例によって霊能者は「ゴシンサンゲ、カジハチマンシセン、モウケツクヨウ、……オンバーサラサラ、トシャコク」と「護身咒〔ごしんじゅ〕」を唱えて「入神」し、その親類とのつきあい方についていろいろ有益な指示を与えてくれたが、それに加えて、
▼「あなたは導き親さん、経親さんの言うことを素直に聞けていますか?」という「ご霊言」が、まことに威厳ありげな口調で霊能者の口から飛び出してきた。

 どんな信者でも、まともにこう問い詰められれば「全部素直に聞けています」とは言いかねる部分を持っているものだ。
 そこでその信者は「聞けていない部分もあります」と正直に告白したのだが、「ご霊言」は、その答えを待ってましたとばかり、次のように厳かに続いたのであった。

▼ 「そうでしょう。あなた自身の中に、教えに素直になりきれない、浄まらない部分があるのです。それだから、それに感応する形で、そういう邪宗〔じゃしゅう〕(創価学会のこと)の影響が、あなたの身辺にちらちらと漏れ出してくるのです」

 そして、最終的結論は次のようなものであった。

▼ 「あなた自身がもっと向上して、自信をもって教えを語れるようになれば、その暁には、あなたの側からそのご親類の方に積極的に近付いて行って、真如のみ教えの中に摂受〔しょうじゅ〕してさしあげることができます。
今回の問題の最終的解決も、そういう方向に歩んだときに、初めて得られるでしょう。
しかし、今はまだ隠忍自重する時です。
そして、不動の信念をもって霊位向上に取り組んでいって下さい」

 ……とまあ、こういうのが「変化エージェントとしての霊能者」の典型的なセリフなのである。

 導き親とか、経親とかいっても普通の人間だから、それらの人達の日常の指導に対しては、「そんなこと言ったって……」という疑問や反発の心が、時折、頭をもたげることは避けられない。
そこで、そうした日常的指導に対して、「ご霊界」からの絶対の「ご霊言」という形で、接心の場を使って、補完とダメ押しが行われる仕組みになっているわけである。


 また、次のような例もあった。
ある人が、これも人づきあいの場での悩みを相談接心に持ち込んだ。その人の家が、今は没落しているが、昔は地方の名家であり、その家名の知名度を他人に利用されてしまったのが、今回の事件のそもそもの発端であった。
 接心に先立って、その信者がそうしたいきさつについて申し述べると、入神した霊能者は、事件の解決方法についていろいろ指示を与えた後、次のような「ご霊言」を語った。
▼ 「名家であるということは、それだけ因縁も深いということです。あなたのご先祖様が財を成し立派なおうちを作っていった陰には、知らず知らずに人を泣かせてしまったこともあるのです。そうした因縁を一つ一つ浄めてゆくために、ご先祖様の大きな期待を担って、今、あなたが真如のみ教えにめぐり会うことができたのです。そのことをよくよく自覚して、教主様に対して一如の信を貫いていって下さい」

 ……とまあ、こういうぐあいである。

● 「あなたの家は立派な家だ」とおだて上げておいて、「だからこそまた因縁も深い」として、「因縁切り」のためのさまざまな商品を買わせるのが、このごろはやりの「霊感商法」の常套〔じょうとう〕の手口だが、同様な論法は、真如苑もまた好んで使うのである。

● 「あなたがこのみ教えにめぐり会えたということ自体が、このみ教えでなければ浄められない因縁があることの証拠であり、多くのご先祖様の期待を担〔にな〕ってあなたが今ここに立てられていることの証拠だ」という形で「教えに出会ったありがたさ」を強調するのは真如苑の定石〔じょうせき〕であり、「教義」と言ってもよい。

こうした「教義」が、厳かな「ご霊言」の形で語られることによって、信者個人の内面的確信へと転化されてゆくのである。



卓抜した霊能者統御法(1)

 白水寛子氏は、真如苑の霊能者がきわめて「体制的」な性格を持っていることに注目しておられる。
そして、そうなる原因の多くを、霊能者の育成方法に帰しておられる。

● 大乗、歓喜、大歓喜という階段を登りつめなければ霊能発動修行に参加できないこと、

● 「お救け」を中心とする日常的活動に積極的に取り組んでいないと相承会座〔そうじょうえざ〕への参座資格を認められないこと、

● 霊能者になってからもいろいろなランクがあり、不断の向上への義務を課せられること、

● 苑内接心に頻繁に参加する義務があること。


これらがそうした「諸原因」をなしている、というわけである。

 確かにこれは当たっている。
が、それと同時に、真如苑の組織構成の巧妙さに、もう少し着目すべきではなかったかとも思われる。

 霊友会は、それ自体、今でも有力な新宗教教団のひとつであるが、立教当初から昭和二十年代にかけて多くの分派教団を出し、分派の頭〔かしら〕になった反逆者たちのためにさんざん教勢を食い荒らされたことで有名である。
中には、立正佼成会のように、親よりも大きくなってしまった反逆児もある。

 霊友会がこのように多くの分派を出した原因は二つある。

第一は、霊能者の養成術が制度化されておらず、末端信者でも神がかったことをしゃべり出せばたちまち権威者になれるといった安直さが、教団全体に充満していたことである。
第二は、支部の独立性が認められていたことである。

 霊友会では、支部を指揮する人間は、自分自身の導きの系列につながる信者を、すべてその支部に属する信者として掌握することが認められていた。
その結果、支部長が教祖に反逆しようとすると、支部に属する信者全員を引き連れて「今日から別教団を組織する」と言いさえすれば、即日可能だということになる。
このことが多くの分派を生んだ。

 これに対して真如苑の場合は、総本部以外の重要拠点は、きわめて限定された地位しか与えられていない。

総本部の他に東京本部、茨城本部、九州本部、関西本部、大阪精舎等の重要拠点があり、さらに「支部」とか「道場」とか「布教所」とかいったさまざまなランクの拠点があるわけだが、これらの拠点に専属する信者というのは一人もいない。
拠点の管理者は、徳川時代の行政制度でたとえれば「大坂城代」のような「役人」であり、自分の領国の真ん中に居城を構えている「大名」とは違うのである。
拠点はあくまで信者の集まりの場所である。
信者の系列組織である経や部会自体は、すべて立川の総本部に直属し、総本部の命令一下動くようになっているのである。

 このように、信者の系列組織と地方拠点とが分離されていることが、組織上の安全装置の第一である。

さらに、これに加えて、前にも述べたように、信者の系列組織を通じての日常指導と接心での霊能指導とが分離されているのが、安全装置の第二である。

 このことによって、信者と霊能者との関係は「総当たり制」になる。
このため、特定の霊能者が自分の輩下の信者に自分に都合のよい「ご霊言」を与えて彼らを自分の子飼いにしてしまおうとしても、絶対に不可能なのである。



卓抜した霊能者統御法(2)

 こうした真如苑の組織が、多分に霊友会の失敗から学んだ結果作られたものであることは、かなりの確かさで推定できる。
というのは、信者必携小冊子『一如の道』を見ると、昭和三十年以前には十数ヵ寺の末端寺院で一週間に一回ずつ接心修行を実施していたのを、昭和三十年から総本部での修行一本に絞ったという記述が見出だされるからである(一九九頁)。

昭和二十年代の真如苑の「末端寺院」は、どうやらそこの管理者自身が自分の系列に属する信者をそこの寺の所属として掌握する形のものだったらしい。
さらに、その管理者自身が霊能者の場合は、自分が一手引き受けで、自分の寺に集う信者たちに接心を授けていたということが、文面に明記されている(一九八頁)。
これはまさに霊友会方式であり、末端寺院の管理者が霊能者になりさえすれば、いつでも独立が可能な体制である。
伊藤は、霊友会の失敗を見て、かつ自分自身も「まこと教団事件」で足元に火がついて、あらためて組織の不安定性を痛感し、大改革に踏み切ったのであろう。

 なお、現在では、接心を実施する場所は、総本部の他に、東京本部、大阪精舎、九州本部など、多少拡げられてはいるが、依然厳しい「絞〔しぼ〕り」がかかっている。
このおかげで、信者にものすごい旅費の負担がかかっている。
その犠牲をも顧みずにあくまで厳しい「絞り」をかけ続けようとする教団の態度を見ると、教団が、特定小地域の霊能者とその地域の信者との間に固定的な関係ができることを、いかに強く警戒しているかがわかる。

 ともあれ、こうしたきわめて人為的な技巧によって統御されることによってはじめて存立しているのが、絶対と称する「ご霊言」なのだ。

 しかし、このことを逆に考えると、真如苑が誇る「接心」なる秘儀は、確かに誇るに値する優れた秘儀であるとも言える。
つまり、この「接心」なるものは、たんなる占い師的能力の訓練だけでは作り出せない組織的要素と結び着くことによって、教団の急成長のための大きな力となっている。



第三章 洗練された説得術

際限なく湧き出してくる「因縁」(1)

 前章では、真如苑の誇る「接心」なる霊感術が、たんなる占い的霊感術ではなく、信者に対して教団への忠誠心や布教の使命感を植え付ける「変化エージェントの技術」であることを明らかにした。

次に、それとの関連で、接心以外の日常指導の場で使われる真如苑特有の説得術についても触れておくことにしよう。
真如苑は、新宗教の中では歴史の古い教団だけあって、この面でもなかなか洗練された技術を開発している。

 他の教団でもおなじみの通り、真如苑でも信者の体験発表がしばしば行われる。
「真如苑の教えを信じて『歩ん』だ結果、これだけ救われた」といった発表である。
真如苑ではこれを「プルーフ」と呼ぶ。
真如苑の教えが正しいことの「証明」だというわけだ。

 この「プルーフ」は、教団内部の人間にだけ聞かせるものである。
そのためか、未信者向けに語られる単純なご利益〔りやく〕話とは、ひと味違った報告であることが多い。
予備知識のない人がいきなり聴くと頭がこんがらかるような、独特の「複雑さ」があるのだ。
しかし、何度か聴いてみると、この種の体験談の「複雑さ」には、だいたい決まったひとつのパターンがあることがわかってくる。

▼「最初一度『抜苦代受〔ばっくだいじゅ〕』で救われたあと、
→ 『歩み』を怠ったため懲罰〔ちょうばつ〕的な苦しみを経験し、
→ 再び『歩ん』で救われ、
→ そのうちまた甘えて『歩み』がゆるんだ結果『因縁』が芽生えてきて苦しみ、
→ 今度こそ思い切って経親になる『立願〔りつがん〕』(信者が教えの実践目標として立てる誓い)を立てて歩み直したところ、こんなに救われた」

―というような、二転、三転ぐらい「歩み」と「苦しみ」が交互に現れているのが、決まったパターンなのである。

 こういう体験談を聴いて
「なるほど、教えを歩むのは厳しいことなのだな。
自分も、抜苦代受に甘えることなく、今日のプルーフの人に負けないようにしっかり歩もう」
と決意を新たにするのが「期待される信者像」なのである。

 ところが、私のような常識人は、教団に潜入してこの手のプルーフを何度か聴くうちに、むしろ「これはあやしいぞ」と眉〔まゆ〕に唾〔つば〕をつけたくなってくる。

● まず第一に、苦しみが来て、なんとか乗り越えて救われて、やがてまた苦しみが来て乗り越えて……ということが何度も繰り返されるということは、これらの「歩ん」だ人の人生も、私達のふつうの人生と別段変わりがないということではないか?

● そして第二に、こうしたプルーフをする人達は、たいがい、何十世帯も「所属」を持っているきわめて積極的な信者である。
ところが次章で詳しく明らかにするように、ネズミ講型教団の常として、信者みんなが何十世帯も所属を持つような状態には、なれないのが当たり前なのである。
プルーフをやっているような連中というのは、ごく一部の例外的成功者なのだ。
それほどの例外的成功者にしてなお、苦しんでは乗り越え、苦しんでは乗り越えの連続であるというなら、そんなにたくさん所属を持つようなところまで進めないふつうの信者は、いったい救われるのか?



際限なく湧き出してくる「因縁」(2)

 プルーフの中では
▼「しばらく歩みが止まっていると、これこれこのように因縁が芽生えてきて苦しい状態になり、経親さんからも叱られ、接心でも示され、覚悟を新たにして歩み直し、新たに一年間十世帯のお救けを立願し……」
といったパターンの話が語られ、「例外的成功者」たちがいかに常識はずれの狂奔〔きょうほん〕ぶりで「お救け」をやったかがよくわかる。

だが、このことは、逆に言うと、これらの「例外的成功者」の場合だけ、たまたま、そうした狂奔が許されるような環境条件があったということだ。
多くの一般信者は、これと同じ段階で「もはやこれ以上お救けなどできない。
これ以上教団活動にのめりこむことは周囲の事情が許さない」というのっぴきならぬ状況に立ち至り、ついには真如苑を離れざるをえなくなるのではなかろうか?
(事実、息子の病気を治したい一心で真如苑に入ってずいぶん熱心に「歩ん」でみたものの、やがてこうしたのっぴきならぬ状況に立ち至り、ついにやめざるをえなかった人を私は知っている)

 結局、この手のプルーフというものは、常識人が聴けば、
●「これでは、真如苑における救いというのは、たくさん所属を持って、無限に教団活動にのめりこみ、無限に忙しくなってゆくところにしか、ありえないということではないか。
もしも、こんなものが人間にとっての唯一の救いのありようだというのなら、人間ほど悲惨なものはないではないか」
という、深い疑問を感じざるをえない。

● しかし、聞きようによっては、このプルーフこそまさに「語るに落ちる」の典型だとも思えてくる。
真如苑が「因縁」についてのいかなる説得術を用いて、信者の心を繋〔つな〕ぎ止めようとするかの「手の内」が、このプルーフを通じてスケスケに見えるという感じがするのだ。

 後に、第三部のなかの「因縁」のところで詳しく明らかにするが、真如苑の因縁論というのは、仏教本来の宿業〔しゅくごう〕論とは異なり、「先祖の因縁が子孫に現れる」という日本的な俗説の立場に立つものである。
この因縁論は悪用する気になればきわめて便利なものだ。

先祖が無限にいる以上、一人の人間に降りかかってくる因縁も無限だということになる。

ふだんは人間の潜在意識層に沈潜している「因縁」が、病気や事故や生活苦の形でその人の身辺に直接現れてくることを、真如苑では「因縁が芽生える」と言うが、芽生える可能性のある潜在的な因縁は無限なのだ。

● だから、信者がいくら「因縁切りに努めました」と訴えたところで、次に起こった不幸な事態については「まだ芽生えていなかった別の因縁が芽生えたのです」と言いさえすれば、説明がつくことになる。

 こんなふうにして、「因縁の解明」という持ち駒を小出しに使いさえすれば、「ご霊界」は、いくらでも信者を「まだだめ、まだだめ」と言って引っ張って、教団活動に深入りさせることができる。
● 「歩ん」でも「歩ま」なくても、結局のところは同じ程度の幸と不幸のとり混ぜを経験させられているのに、本人はそれに気付かず、「ご霊界」のお力によって因縁切りの歩みをさせていただいたおかげで大難を小難で済ませていただいた、と思い込んでしまうのだ。

● こうした「手の内」が読めないタイプの信者で、かつ、どこまでも教団活動に深入りすることを周囲の環境が許すような信者だけが、「期待される信者像」として教団に残ってゆくことになるのであろう。


疑問はすべて「障害霊のせい」(1)

 前章の「『ご霊言』は絶対の真理?」の中に出てきた西村春子さんの話を補足しておこう。

 西村さんが手紙で真如苑を勧めた相手である川口さんは、真如苑に「入信」した翌日、お念仏の会に出席して反省するところがあり、「真如苑はやはり、やめさせていただきます」と言いだした。
川口さんからそういう「断り電話」を受けた沢田さん(西村さんの導き親)は、さっそく経親に電話を掛け、指示を仰いだ。
その時、経親が開口一番言った言葉は
▼「障害霊が入りましたね」という言葉だった。

 およそこの種のケースにおいては、真如苑の解釈というのは定形化している。
まず第一に
▼「川口さんの今までの信仰であるお念仏の会の背後霊が、川口さんを自分のもとから離すまいとして妨害している」というのだ。
そして第二に
▼「川口さん自身にまつわるいろいろな因縁が、正しい道に目覚めて歩もうとしはじめる川口さんを、浄まらせまい、幸せにさせまいとして、妨害してくる」というのだ。

 前者の「背後霊」と後者の「因縁の霊」とをひっくるめて「障害霊」と呼ぶのである。
そして、真如苑は密教であるから、そういう目に見えない「密なる」力の正体や所在を見抜き、それを浄めることができるのだ、と説くのである。
およそ真如苑以外の霊的、宗教的なものは、どれもこれも「浄め」の対象と考えているのだ。

 だが、事態を素直に見るならば、川口さんが真如苑に「入信」した翌日に思い直して「お念仏ひとすじ」に立ち帰ったのは、川口さん自身の機根〔きこん〕もしくは縁の問題と言えよう。
川口さんにとって真如苑という教団に結ばれ続けることはふさわしくなかったから、自然のなりゆきとしてそのようになったのだ。

 人がどういう信仰に導かれるかには、深い深い宿世〔すくせ〕の縁というものがある。
本当の仏教徒は、こうした宿世の縁の深さに謙虚に頭をたれることを知っている。
仏教に八万四千の法門があるのも、こうした宿世の縁や、その時その時の個々人の機根に多様性があることに応じた、み仏の深い慈悲の計らいなのだ。

 しかし、真如苑では、およそいったん信者になった者が真如苑に疑問を持って退会したいと言い出した場合、絶対にこれを縁の多様性によるものとは認めない。
必ず、その人を正しい教えから引き離そうとする「障害霊」なるものが存在すると想定する。
これは「教義」と言ってよい。

 教団はなぜこの点にかくも固執するのか? 
その理由は見えすいている。

● 第一に、このようにしておけば、「やめたい」と言い出す人間が一人出るごとに、その導き親に「教化の接心」を受けさせることで、確実に二千円の収入が上がるし、さらにその接心の中で「障害霊に対するお浄め」を指示すれば、護摩〔ごま〕料が一万円やそこらは(一回二千円×数回分)確実に入るからである。

そして
● 第二に、「教化の接心」の中でおどろおどろしい「障害霊」なるものを示すことにより、接心の受け手に、「自分も気をゆるめたらそういう恐ろしいものに冒〔おか〕されるのだ」という恐怖感を与え、気を引き締めさせることができるからだ。

 人間というものは、いろいろな経歴を持ち、いろいろな関わりの中に生きているから、その人の過去の中から何か一つの事柄を捜し出してきて「これがあなたの信仰に対する障害として働いています」と言えば、多少もっともらしく見せることはできる。
そして、真如苑の霊能者というのは、そうしたこじつけの材料を霊感的に捜し出すぐらいの能力は持っている。
だから、霊能現象について経験の浅い人は、「何もかもお見通しの真如霊界」には隠し立てができないなどと思って、ひれ伏してしまうのだ。
だが、ある程度宗教に詳しい人を、こんな子供だましの手でダマすことはできない。


疑問はすべて「障害霊のせい」(2)

 ひとつの例として、これも前に出した予備校教師秋山博彦さんの後日談を紹介しておこう。
秋山さんは「智流院云々」の「ご霊言」のウソに気付き、きっぱりと真如苑をやめる気になって、導き親たる元教え子の若い女性に連絡したわけだが、むろん、導き親の方はそのままでは済まない。
経親からさっそく「教化の接心」を受けなさいと命令された。
接心では例によって「障害霊」が示された。
霊能者が言うには
▼「その秋山先生という人は、これまでの人生の中で知らず知らずに多くの人の心を傷つけ、恨みを買ってしまっているので、その『恨みの念』という『生霊〔いきりょう〕』が働いています」

 導き親は秋山さんにその内容を書いて送り、これが図星に当たっていたら秋山さんも反省して真如苑に戻るかと期待したのだが、秋山さんは全く動かされなかった。
 秋山さんは笑いながら私に語る。
 「その教化の接心の指摘自体は、ある意味で図星ですよ。予備校の教師なんていうものは大体変わり者がなるものですが、私も若い頃はとりわけ変わり者でして、とばっちりを食った周囲の人はずいぶん迷惑したらしいですね。知らず知らずにとばっちりを飛ばしてしまうことが多かったんです。霊能者はさすがによく見抜いてますよ。

 ただし、そういう私の欠点と、真如苑を信じられないこととを結びつけるのは、こじつけでしかありません。
私自身、九ヵ月間真如苑の信者だったあいだに、何度か『教化の接心』を受けさせられましてね。
『ご霊言』があの手この手で『障害霊』を作り出す手口を知ってますからね。
私自身に関して示された『障害霊』についても、『またあの手で来やがったな』と思っただけですよ……」

 なるほど、手の内が読まれていては、「ご霊言」もかたなしだ!



解決の道は「あなた自身の霊位向上

 いかに真如苑が「教化の接心」によって導き親を叱咤〔しった〕し、「障害霊」に対する「お浄め」の護摩を焚〔た〕いてみても、例のお念仏の川口さんとか、予備校教師の秋山さんとか、真如苑にとどまるべき縁を最初から持たない人々は、どんどん真如苑から離れてゆく。

しかも、次章で明らかにするように、真如苑のような徹底したネズミ講型教団というのは、最後まで中にとどまりうる人よりは、むしろ中途でやめざるをえない人の方が、数的には必ず多くなるようにできているのだ。

 だから、何度か導きの子が「堕〔お〕ちる」(教団から離れる)のを体験させられ、決まりきった「教化の接心」を受けさせられていれば、誰でも「これは少々おかしいぞ」という気持ちが起こるのが当然である。

 接心では必ず最後には
▼「あなた自身の不動の信念がありさえすれば、いつかは必ず正しい道に引き戻してあげることができます」
というようなことを言うものの、離れる人はどんどん離れっぱなしになっていって、呼び戻せないという例の方が多いのだ。

「これは『障害霊云々』などというおどろおどろしいことで説明するよりも、もともとその人に真如苑にとどまるべき縁がなかったのだと考えた方が素直ではないか」という考えが、当然湧〔わ〕き起こってくる。

だいいち、そんなに世の中のあちこちに「障害霊」なるものがうようよしているのなら、世の中なんて危なくてうっかり歩けもしないではないか!


 ところが、教団の側では、信者の心に当然湧き起こってくるこの疑問を打ち消すための、次なる説得術を、ちゃんと準備しているのだ。

 それは、
▼「今のあなたが霊位が低いから、相手のかたを正しい道に導いてさしあげられないのです。あなた自身が霊位向上してゆくことによって、本当に相手のかたを納得させうるだけの力を授かることができます」
というものである。

 ところで、● 「霊位向上」のための相承会座に参加するためには、「お救け」の数が規定数以上に達していなければならない。
そこで、導きの子が一人「堕ちる」たびに、「解決の道は、より多くのお救けをすることだ」ということになって、ますます導きの子作りに励むことになる
のである。
(なお●「堕ちた」導きの子でも、自分の相承会座参座の資格要件確保のために、会費肩代わりによって、名目的に信者の地位にとどめておくのが通例である)

 「水をかければ物は冷える」と考えるのは世の中の常識だが、時には例外もある。
チェルノブィリ原発事故の場合には、最初に水で消火しようとしたことが、かえって事故を大きくする原因になったと言う。

 導きの子が「堕ち」れば「堕ち」るほど、そのことをネタにして、霊位向上への使命感をますます強く抱かせる真如苑のやり口は、「水をかければかけるほど燃えさかる」チェルノブィリ原発にたとえることができよう。

 こうした「チェルノブィリ方式」の説得術は、導きの子が「堕ち」た場合だけではなく、もっと普通の日常的な場においても、しばしば活用されている。
それは、他のネズミ講型教団にもしばしば見られるものだが、「子は親の鏡」とか「導きの子によって自分自身の心の姿を見せられるのだ」とかいう論法である。

 事実、「導きの子の中から、教えに対する不満、歓喜やご奉仕に対する不満などが出てくるのは、導き親自身の心のうちに、そういう浄まらない、自分かわいさの心があるからこそ、その反映として出てくるのです。
だから、そういう不満が下から出てきた時こそ、導き親自身がそれを反省の糧として精進させていただく絶好の機会なのです」というような指導が、さかんに行われている。

 なるほど、こうしておけば、下から不満が出れば出るほど、導き親は「私が悪かった」と神妙に恐れ入って、ますます教団の命令に従順になろうとするから、下の不満が上までも巻き込む危険性を最小限に抑えることができるわけだ!



不満はすべて上求菩提しなさい

 さて、こうした「チェルノブイリ方式」と対〔つい〕をなし、それを補完する役割をはたすもうひとつの説得術がある。
それは
▼「自分より上位の人に対して疑問や不満を訴えるのは口業〔くごう〕にはなりませんが、自分と同等の横の人に向かって『教えのあの部分はおかしい』などと疑いを撒〔ま〕き散らすのは、み仏様に逆らう口業を犯すことになりますから、してはなりません。教えについての不満はすべて上求菩提〔じょうぐぼだい〕しなさい」
というものである。

 「上求菩提」という仏教用語(本来の意味は「悟りを目指して進むこと」)をこんなねじ曲った意味に用いるのも大いに問題だが、それは今は措〔お〕くとして、この説得術が「チェルノブィリ方式」を完璧なものにするためにあみ出されたものであることは、論をまたないであろう。

● 教団の指導方針に対する疑問や、「歓喜」や「お施餓鬼料」の取られすぎについての疑問は、たいがいの信者が内心では感じているのだが、これを集会の場などでヨコの関係にある信者同士で語り合うことは強く戒められているため、「王様が裸であることをみんな知っていながら誰も語り出せない」という状態が、教団のヨコの関係を支配している。

そして、信者がやむをえず不満を自分の導き親に訴えれば、導き親は例の「子は親の鏡」の論法によって、そういう不満をこそ自分自身の反省の糧にしなければならぬと教えられているから、絶対に不満に同調することはしない。

それどころか、そういう不満に対する教団常套〔じょうとう〕の三百代言的模範解答を必死に探し出してきて、それをさもありがたそうに並べ立て、疑問を打ち消そうとする。
そうして疑問を打ち消す作業こそが、自分自身の心を磨き、教えを身につける修行であると信じこんでやっているのだから、まことに始末に負えない。


 だが、そんなふうに下に向かってすまし顔をする導き親でも、内心を正直に吐露させてみれば、不満だらけである場合が多いのだ。
それは、導き親自身が自分自身の導き親に向かって「上求菩提」している現場を盗み見すればわかる。
通常は下位の信者に対してはその現場が隠されていて、見えないようにされているだけ
である。

 このような「どいつもこいつも下に向かってはすまし顔」というのは、たとえて言えば椿〔つばき〕の木のようなものだ。
椿の葉っぱは外側に向いた面がみんなテカテカ光っているから、木を外から見れば、椿の葉はみんなテカテカだと見える。
しかし、木の幹の側に向いている面は、みんなくすんだ色をしているのであり、木の中央から見れば葉っぱはみんなくすんだ色というわけだ。

 ともあれ、こんなふうにして、真如苑の信者というのは、
導き親になり、
大乗の霊位を授かり、
歓喜の霊位を授かり、
経親になり、

……という「向上」の過程で、椿の葉のテカテカよろしく「尊いですねえ」「ありがたいですねえ」といった「外向き」の言葉を吐く修練を重ね重ねて、最後に

霊能者になる
わけだから、霊能者の吐く言葉がさほどの修練を待たずにほぼ同一になるのは、不思議でも何でもないと言えよう。



第四章 「抜苦代受」のあとに来るもの

ネズミ講とマルチ商法(1)

 真如苑の急成長の秘密のひとつが「ご利益〔りやく〕の現れ方が早い」点にあることは、ある程度事実であるようだ。
実際、創価学会からの転向者が「学会にいたあいだは、いくら幹部の指示どおりに熱心に信仰してもいっこうに病気が治らなかったのに、真如苑に入ったらたった三ヵ月で治った。ありがたい、ありがたい」などと語る例がしばしば見られる。
なにしろ「伝統密教のすべてを窮め尽くされた教主様が修して下さるお施餓鬼」であり、また「両童子様のお命がかかっている抜苦代受」なのだから、そんじょそこらの新興宗教のご利益とは格が違う、というわけであろう。

 しかし、私の見るところでは、こうしたご利益の大きさと迅速さだけが急成長の原因ではないようだ。
むしろ、この「抜苦代受」のあとに来るものが実にうまくプログラム化されている点にこそ、急成長のより大きな原因があるように思える。

 この「『抜苦代受』のあとに来るもの」を解明するためには、話は少し脇道に入るが、ひとまず、ネズミ講とマルチ商法についてお話ししておく必要がある。
 ネズミ講とマルチ商法とは、どちらもネズミ算式に多くの人を勧誘することによって、ごく一部の人間が不生産的利益をせしめようとする経済犯罪である。
 ネズミ講(法律上の呼称は「無限連鎖講」)は昭和二十年代に日本国内で発明されたものと言われており、昭和四十年代から五十年前後にかけてさんざん悪の花を咲かせたあげく、昭和五十四年に施行された「無限連鎖講の防止に関する法律」によって息の根を止められて姿を消した。
その原理はきわめて簡単である。
会員みんながネズミ算式に子会員や孫会員を作ってゆき、何世代か下まで会員ができると、それらの「子孫」の納める金が自分のところに入ってきて、出費を上回る利益が得られる、というものである。
 これに対してマルチ商法(法律上の呼称は「連鎖販売取引」)の方は、一九六〇年代にアメリカで発明された舶来品である。
もともとの名前をマルティレベル・マーケティング・プランという。
この商法を最初に大規模に展開した会社は一九六四年(昭和三十九年)にカリフォルニア州で設立されたホリディ・マジック社という化粧品販売会社である。
マルチ商法は本国のアメリカでは一九七〇年ごろから厳しく規制されるようになり、自由に活動できなくなった。
そこで、死中に活を求めて海外進出をはかり、ヨーロッパや日本に上陸したのである。

 日本で最初に設立された大手のアメリカ系マルチ商法会社は自動車用品を販売する「APOジャパン」で、それは昭和四十六年のことである。
翌昭和四十七年にはホリディ・マジック社も日本に上陸し、「日本ホリディ・マジック」を設立している。
これらに触発されて昭和四十八年には初の国産マルチ商法会社である「ジェッカー・チェーン」(アイデア商品販売)が設立された。

 これら「御三家」は、短期間に日本中を荒らし回ったあげく、社会的指弾を浴びて、昭和五十年から五十二年にかけてあいついで実質上の倒産に追い込まれた。
そして昭和五十一年にはマルチ商法を規制する「訪問販売等の規制に関する法律」が施行され、日本でもマルチ商法は大手を振っては歩けないようになった。

 このように、マルチ商法が法的規制を受けたのは、むしろネズミ講よりも早いのである。
ところが、ネズミ講がたった一度の法律制定によって完全に息の根を止められたのに対して、マルチ商法の方は意外にしぶとく、「御三家」の生き残りをはじめとする多くの野心家たちが、法律施行後もあちこちで暗躍し、違法すれすれの新型マルチ商法を発明しては、いまだに日本国内を荒らし回っている。

 マルチ商法がネズミ講に比べて規制しにくいのは、まず第一に、名目的にせよ一応は「商品販売」という正当な経済活動の隠れ蓑〔みの〕をかぶっているため、正当でない部分だけを規制の対象としなければならず、正当か不当かの「線引き」がむずかしいからである。
そして第二に、組織原理がもともとネズミ講よりも複雑であるため、ちょっと趣向を凝らすことによってさまざまなヴァリエーション(変化型)を作り出すことが可能であり、法律が定めた定義の裏をかくことが簡単にできるからである。

 ところで、読者の中には、マルチ商法とはどんなものであるかについて全く予備知識のないかたもいらっしゃるであろう。
そこで、次に、簡単な仮設例を使ってその組織原理の概略をご説明することにしよう。


ネズミ講とマルチ商法(2)

 いまここに最終販売価格が一個十万円する商品があるとする。
実際の例では、人造ダイヤ、羽毛布団、磁気マット、新型電気掃除機、ステンレス鍋、プルーン濃縮液(健康食品)、自動車用品、「開運の印鑑」などさまざまであるが、ここではたんに「マルチ商品」と呼んでおくことにしよう。
この「マルチ商品」は、ネズミ算式の「人狩り」を正当な商業活動であるかのように見せかけるための「隠れ蓑」として使われているものにすぎないから、商品そのものの効用は十万円には遠く及ばない粗悪品である。
その原価は一万円ぐらいしかしない。
 さていま、仮にあなたが若いOLであるとしてみよう。
ある日、あなたのところに高校時代の旧友のA子から電話がかかってくる。
「久しぶりだから、一度あいましょうよ」と言われて、翌日喫茶店で待ち合わせる。
会ってみると、A子はとても楽しそうで顔色がよい。
「あなた元気そうね。なんか健康の秘訣でもあるの?」と尋ねると、「実は、このごろちょっといいアルバイトしてるのよ」とだけ言って、具体的な内容はしゃべらない。
あなたが興味を示すとA子は「あら、幸運だったわ! 実はね、今日ちょうどそのアルバイト先で集まりがあるのよ。せっかくのチャンスだからあなたも連れてってあげるわ」と言う。
 あなたは、何となく千載一遇〔せんざいいちぐう〕のよい機会にめぐりあったような気分になり、うきうきしてA子についてゆく。
会場に着くと「講師」とやらが出てきてしきりに精神訓話のようなことをしゃべる。
「人生は、やる気しだいだ」とか「自分の運命は自分で開拓しなければいけない」とかいった話である。
あなたがこの種のお説教にさんざん引き回されていい加減疲れて頭がボーッとなったところで、最後に目の前に見せられるのが例の「マルチ商品」である。
 そして「たったの十万円出しさえすれば、このすばらしい商品が手に入るばかりでなく、もう一万円余分に『入会金』として納めさえすれば、あなたは『ディストリビューター』の資格が得られて、この商品を九万円で卸〔おろ〕してもらって、ユーザーに十万円で販売する権利が得られるのです」と言われる。
あなたは大喜びして、商品購入の契約書だけでなくディストリビューターになる契約書にもサインする。
あなたは、いま手元に十一万円のお金はないので、次のボーナスの中から払うことにして、当面は借金で間に合わせることにする。


ネズミ講とマルチ商法(3)

 さて、購入した「マルチ商品」をしばらく使ってみたあなたは、それがとんでもない粗悪品であり、とうてい十万円には値しないことを発見する。
あなたはA子に電話をかけて苦情を言う。
「あなた、あの商品ひどいわよ。私をだまして変なもの売りつけたんじゃないの?」
 するとA子は「それはとんでもない誤解よ」と弁明し、さらに「とにかくもっとよくお話を聞いてみてよ。今度の日曜日にディストリビューターの研修会があるから、一緒に行きましょうよ」と言い出す。
あなたは友達の義理として断るわけにいかず、A子に連れられて研修会に参加する。
 さて、研修会に参加したあなたは、この段階ではじめてこのマルチ商法組織の概略について説明を受ける。
それは次のようなものだ。
 ディストリビューターの資格を持つ者は、この「マルチ商品」を九万円で購入する権利があるから、これをユーザーに売れば一個あたり一万円の純益が得られる。
そればかりでなく、十人を新たに勧誘してきてディストリビューターにすれば、それらのディストリビューターの上位に立つシニア・ディストリビューターになることができ、「マルチ商品」一個を八万円で購入する権利が得られる。
シニア・ディストリビューターは、「マルチ商品」を自分の「所属」のディストリビューターに九万円で卸してもよいし、直接にユーザーに十万円で売ってもよい。
 シニア・ディストリビューターの上位にはさらにスーパーバイザーがおり、彼らは「マルチ商品一個を六万五千円で購入する権利を持っている。
 こういうぐあいにして、上位に登れば登るほど、直接に「マルチ商品」をユーザーに売る場合の純益も大きくなるし、また「所属」が多くなることにより、一定期間に卸す「マルチ商品」の量も多くなるので、それら両面から収入が飛躍的に増えることになる。
 ―このように組織原理の説明があったあと、「体験談」のコーナーが始まり、何人かのスーパーバイザーが「自分の努力しだいでこんなにも大きな収入が得られた」という話をする。
 こうして研修会が終わる頃には、あなたは、要するに「マルチ商品」そのものの効用はどうでもよかったのだ、ということを理解する。
「ある意味ではA子にまんまとダマされたようなものだが、そうしてダマしてもらったればこそ、今こうやって夢にも見なかったような莫大な収入の機会が目の前に開けてきたのだから、A子はやっぱり恩人だ」と考えるようになる。
帰り道で、A子はあなたにウィンクして、「ねっ、理解できたでしょ」と言う。
あなたも「うん、よく理解できたわよ」と言ってウィンクを返す。
 次の日曜日にはディストリビューターの第二回研修会があり、今度はA子の付き添いなしで、自分ひとりで参加する。
ここであなたは、「勧誘のしかた」についての手ほどきを受ける。
指導される内容は次のようなものだ。

一、見ず知らずの人ではなく、親類縁者や学校時代の旧友など、誘いを断りにくい立場の者をねらえ。
二、なるべく明るく楽しそうに振る舞い、相手から「あなた、昔に比べてずいぶん明るくなったわね」というような言葉を引き出すようにせよ。
三、「明るさの秘訣は?」と尋ねられたら、「実はこのところちょっといいアルバイトしてるのよ」とだけ言い、相手をじらして「もっと詳しく聞きたい」という気持ちを起こさせること。
四、相手が興味を持ったら、「あら、幸運だったわ! 実は今日ちょうどそのアルバイト先の集まりがあるところなのよ」と言って、その日がたまたま千載一遇の幸運な日であるかのように見せかけよ。

 ざっとまあ、以上のようなわけである。
何のことはない。
A子はこの指導のとおりにあなたを勧誘したわけだ。
そして、あなた自身、この研修を受け終わった翌日から「第二のA子」となって友達に誘いの手を伸ばしはじめるわけである。


ネズミ講とマルチ商法(4)

 さて、それから一年、あなたは十一人の人間に「マルチ商品」を売りつけることに成功し、純益十一万円を手に入れ、当初の損害を復旧することができた。
そればかりでなく、売りつけた相手をディストリビューターとして組織につなぎ止めることにより、あなた自身は彼らの上位に立つシニア・ディストリビューターの地位を手に入れることができた。
こうなるとますます面白くなってきて、絶対にやめられなくなる。
 ところが、ここに大きな陥とし穴があるのだ。
 ディストリビューターであったあいだは知らされていなかったのだが、シニア・ディストリビューターになると「月間販売ノルマ」というものがあって、ノルマを達成できなかった場合には自分が滞貨のコストを負担しなければならないのだ。
それだからこそシニア・ディストリビューターは「所属」のディストリビューターたちを血眼〔ちまなこ〕になって叱咤〔しった〕して「売れ! 売れ!」と言うわけである。
 あなたもいまやシニア・ディストリビューターであるから、叱咤される側ではなく叱咤する側である。
あなたは「所属」のディストリビューターたちを叱咤激励して頻繁に研修会に出席させ、その成果あって最初の三ヵ月ほどは「販売ノルマ」を達成した上に、余りある収入を得ることができた。
 ところが、四ヵ月目にはあなたの叱咤についてゆけなくなったディストリビューターが三人ほど脱落し、「販売ノルマ」が達成できず、滞貨のコストを負担したあなたは赤字になってしまった。
五ヵ月目も六ヵ月目も同様赤字になった。
それでも「せっかくのうまみのある仕事をこれしきの試練で放棄できるか」と意地を張ったあなたは、借金によって赤字を補填〔ほてん〕しながら、シニア・ディストリビューターの地位にとどまり続けることになる。
 こうして一年後、あなたの身の回りに残るものは、役に立たない「マルチ商品」の滞貨の山と借金証文の山と、ズタズタに破壊された人間関係だけとなる。
 結局、もうけるのは胴元のマルチ本社とごく一部の例外的成功者だけなのである。
 ―以上のようなのが「マルチ商法」というものなのである。
 ネズミ算的な「人狩り」を本質とする点で、このマルチ商法はネズミ講とそっくりなもの、あるいは広義のネズミ講の一種と言ってよいだろう。
 ただ、若干異なる点を挙げれば、ネズミ講の場合は「最初は負担だけがあって、後に利益が手に入る」という原則が徹頭徹尾はっきりしているのに対して、マルチ商法の場合は「マルチ商品」というものを握らせることによって最初に幻想的利益を与えるという点が違っている。
もちろんこの「マルチ商品」は効用の低い粗悪品であるから、最初に与えられる利益はあくまで「幻想的利益」でしかなく、会員はいずれはそれを知らねばならない日が来る。指導者の側から見ると組織に引きずりこんでおいたあとで、ころあいを見はからって「ダマしたようで悪かったが、最初に摑〔つか〕ませた利益は実は本当の利益じゃなかったんだよ。でも、あなたが今後組織の一員として活躍することで本当の利益が得られるんだから、悪く思うなよ」と真実を告げなければならないわけだ。

 こういうわけで、マルチ商法の場合は「ダマされた人間をダマす人間へと転化させる」という「意識変革」のプログラムが、組織運営の必須の構成要素になる。
マルチ商法の組織が「初心者用」から「上級活動家用」までの何段階もの「研修会」を設けるのは、意識変革の段階に応じて、教えるべきことが異なるからにほかならない。



幸せのネズミ算」は「不安のネズミ算」(1)

 さて、それでは本題に戻ることにしよう。

 何度も言っているように、真如苑では自教団の教えが「利他の教え」であることを強調し、これこそが他の宗教団体に見られない真如苑の特徴であり、真の大乗仏教精神に立脚する教団であることの証しだとしている。

 「自分は何もしないで単にご利益だけを乞〔こ〕い願う信心は邪道であり、人を救ける功徳〔くどく〕によって自分も救われてゆくというのが宗教の本道だ」というわけである。

 これ自体はまことにもっともな言い分であり、別に反対する謂〔い〕われはない。
問題なのは、その説くところの「人を救ける」行動の具体的内容である。

 真如苑で「人を救ける」とは、要するに、まだ真如苑信者でない外部の人間を勧誘して入信させ自分の導きの子にして、組織内で自分の下位に組み込んでゆくことである。こうやって自分の下位に立つ「所属」を増やすことが、自分自身の救われにつながると説かれているから、真如苑の信者は、やみくもに親類縁者その他に勧誘の手を伸ばし、「この教えに入れば救われますよ。素晴らしいですよ」と甘い言葉をささやき続けるのである。

 その際、信者が持ち出す甘言の内容は、要するに「この教えに結ばれれば、接心が受けられて、何でも答えてもらえる。そして抜苦代受がいただける。だからありがたい。素晴らしい」ということに尽きる。

 が、問題なのは、そうした抜苦代受の次のステップである。

 真如苑に入信してひと月かふた月ぐらいすると、信者は
▼「抜苦代受は真の救いではない」
という教団の「次の手口」を上位者から打ち明けられる。

▼「人は自分自身の積んだ徳によって救われる。
抜苦代受は、そうした徳を積める条件を整備するために、因縁の芽生えをご霊界によって一時的に預かってもらうものである。
抜苦代受に浴して肉体的にも経済的にも楽になっている間にせっせと徳積みに励んでこそ、真に因縁が切れて救われる状態に達するのである。
この理をわきまえず、抜苦代受に浴したままでノホホンとしているならば、抜苦代受の力は潮が引くように去ってしまい、人は再び不幸な状態に戻ってしまう」

というのが、その「次の手口」なのである。
そしてその徳積みとは具体的には「三つの歩み」であり、なかんずく「お救け行」だというのである。

 さて、ここで少し冷静にものを考える人ならば、この説得術が奇妙な撞着〔どうちゃく〕を内に包み隠していることに気付くはずである。

● 例えば、
Aさんは▼「他人を救ける利他の修行が必要ですよ」と上位者に言われて、
Bさんを「救ける」つもりで勧誘し、自分の導きの子にしたとしよう。
おかげでBさんは抜苦代受に浴することができた。
ここまではよい。

ところがしばらくすると、
Aさん自身がBさんに対して
▼「あなたの今の状態は真の救われではないのですよ。あなた自身が他人様をお救けすることで、はじめて真に救われるのですよ」と説かねばならなくなる。
そう教えられてBさんは、やむをえず、
また新たにCさんという人を勧誘して教団に組み込んだ。
この時点でやっとBさんは救われるのである。



「幸せのネズミ算」は「不安のネズミ算」(2)

 以上の話は簡略化のためにAさんを一名、Bさんを一名、Cさんを一名として話したのであるが、実際には真如苑では
▼十名ぐらいの「お救け」をやらなければ救われた状態にはならないと説いているのだから、
Aさん一名に対して、Bさんが十名、Cさんが百名いて、はじめて上記のような「救い」が成り立つことになる。

 つまり、
「いまだ真には救われていないBさん」が十名できた段階で、はじめてAさん一名が救われ、
「いまだ真には救われていないCさん」が百名できた段階で、はじめてBさん十名が救われる
のである。

そうすると、AさんがBさんを勧誘して真如苑に引き入れたこと自体は、実は、Bさんを「救けた」ことにはなっていないということがわかる。
それはむしろ、Bさん十名に対して「百名のCさんを勧誘してきなさい」という義務をおいかぶせたことにほかならない(第二図参照)。

 実を言うと、Aさん自身、Bさんを勧誘した段階では、上位者から
▼「あなたはまだ救われていない」
と脅迫めいたことを言われて、不安な立場に立たされていたので、その不安を解消するためにせっせと勧誘に走り、Bさんを教団に引きずり込んだのである。

この場合、実はAさん自身、本心では
▼「Bさんもまた、将来、今の自分が置かれているのと同じ不安な立場に立たされ、勧誘に走りまわらざるをえなくなる」
ということを知っていたはずなのである。

Aさんが常識人ならば、勧誘対象たるBさんのことを「ああ、お気の毒に」と内心思わずにはいられなかったはずである。

 しかしAさんは、そんな本心はおくびにも出さずに、いかにも教団に結ばれさえすれば何事もとんとん拍子にうまくいくかのように吹聴〔ふいちょう〕せざるをえなかった。
真相を最初から言ってしまってはBさんがついてこないからである。

このようにしてAさんは、表面を取り繕〔つくろ〕ってBさん十名を駆〔か〕り集めることに成功し、自分は「救われた」立場に立つことができて、やっと安堵〔あんど〕する。
かわりにBさんが今度は不安な立場に立たされることになる。
なんのことはない。
Aさんは、自分の不安を十倍に拡大して他人様に肩代わりしてもらうことによって、やっとこさ自分の救いを勝ち取ったのである。
これがどうして「人を救ける」ことだと言えようか!

 このようなネズミ講型組織の最もけしからぬ点は、本心と発言との食い違った裏表のある人間を、次から次へと順送りに作ってゆく点である。

例えば、Bさんは、自分がCさんに対して勧誘活動をする頃には、すでに、自分自身Aさんによって不安肩代わりのためのカモとして使われたのだということに、薄々気付いてはいるのだが、それを今さら言ってしまってはCさんを誘い込むことができないので、今の自分が不安を抱かされていることはおくびにも出さないようにして、喜色満面を取り繕〔つくろ〕って
▼「ありがたいですよー。素晴らしいですよー」
と連発するのである。

 このように信者に不自然な精神的圧迫を加えたり、裏表のある人間を作り出したりまでしながら、どうしてこれほどまで真如苑の教えばかりを世の中に広めなければならないのか? 

―こう問えば、教団側はむろん
▼「教えを広めることによって世の中に救いの輪を広げてゆくことができるからだ」
と答えるであろう。

つまり、最初はAさん一名しか救われていなかったのが、次にはBさん十名が救われ、さらにはCさん百名が救われ……というふうに、幸せがネズミ算式に増えてゆくというわけであろう。

 しかし、ダマされてはいけない。

Aさん一名が救われて「幸せ」を勝ち取った時には、Bさん十名分の「不安」が世の中に広がり、Bさん十名が救われて「幸せ」を勝ち取った時にはCさん百名分の「不安」が世の中に広がっているのである。

 たとえ一歩譲って、真如苑式の布教によって世の中に幸せが増えてゆくのが本当だとしたところで、その幸せの増加は、常に、それに十倍する規模の不安の増加によって露払いをされることによって、はじめて成り立つものでしかないのである。

「幸せのネズミ算」は同時に十倍する規模の「不安のネズミ算」なのである。



死屍累々の上のわずかな救い

 ここまで考えてくると、結局のところ真如苑の説く「抜苦代受」とは、そもそも何なのかという根本的疑問に突き当たらざるをえない。

 最初、教団に勧誘して入信させる際には
▼「抜苦代受」それ自体がたいへんありがたい
かのように言う。

しかし、しばらくすると
▼「抜苦代受は真の救いではない」
と説きはじめる。

そして
「このままノホホンとしていれば、抜苦代受による病気の治癒や事業の好転などはやがて尽きてしまい、元の苦しい状態に戻りますよ」と言うのだ。

つまり、「抜苦代受」というもののありがたさは、その程度のものだったのであり、最初の勧誘の時の言葉は誇大広告だったのだ。

 商品にたとえるならば、「抜苦代受」はまさに誇大広告で売りつけられた粗悪品だったのだ。

 さあ、ここまで来ると、前にマルチ商法についてを読まれた読者諸賢はもうおわかりになったであろう。
「抜苦代受」とは要するに「マルチ商品」なのである!

 何度も説明したように、真如苑では、人は導きの子孫をたくさん作ってはじめて救われると説く。
教団内で与えられるさまざまな資格も、みな、導きの子孫の世帯数が要件として掲げられている。

例えば、

▼ 智流院に入って真如苑の教義を深く学ぶためには、五世帯以上の導きの子が必要である。

▼ 「大乗の会座」に参座するためには、十世帯以上の導きの子が必要である。


 もしも、入信した人全員が順調にこうした上級信者への道を進みえているとしたらどうだろう? 

当然のことながら、教団の信者数はものすごい幾何級数で増加して、やがては日本の人口全部を呑み込んでまだ飽き足りないという状態になってしまうはずだ。
そんなことはむろん現実には起こるはずがない。

だから、信者全員がこうした上級信者への道を進みうるなどということは、端的に言って、ありえないことなのだ。

そうした中で、たまたまネズミ算的に「所属」を増やすことのできた例外的成功者だけが、教団の指導者にのし上がり、「正しく歩めばみんな自分のようになれる」との「教え」を、十年一日のごとく下部に向かって説き続けるのである。
当然のことながら、このような例外的成功者が説く「教え」は、大多数の者にとっては不可能な、ありえないことを「できる」と言っているにすぎない。

 二年、三年と努力してみても、導きの子孫がせいぜい二世帯か三世帯ぐらいしか作れず、指導者に言われる通りにはとうていできない、という人が多い。
それらの人々が自分が幸福になれないことを嘆くと、指導者は「あなたの努力が足りないからだ」と、冷たく突き離すだけである。
結局、こうした人々の多くは、不当に高額の金を教団に注ぎ込んだことを後悔しつつ、淋しく真如苑を辞めていかざるをえない。

 入信者のうち大多数が実際上歩めないに決まっている路線を設定しておきながら、その路線を唯一の真実の救われへの道であるかのように言いくるめようとするのは、また何とあつかましい欺瞞〔ぎまん〕であろうか!

 こうした欺瞞の典型を示しているのが「誰もが霊位相承者に」というスローガンである。

これは昭和五十一年度と五十二年度との年間精進目標として掲げられたものだが、その後も、あからさまにスローガンとしてこそ掲げないものの、教団の基本思想は不変である。

 霊位相承者になるためには、最低十世帯の導きの子がなければならないのだから、どんなに多くとも、その時の教団の信者数の十分の一以下の人しか霊位相承者にはなれない仕組みになっている。

そのことが明らかでありながら「誰もが霊位相承者に」というスローガンを臆面もなく掲げるというのは、いったいどういう神経なのであろう? 

これはまさに、ネズミ講でもうかるのは上位のごく一部分の会員だけであることを百も承知していながら、ネズミ講を広めることで天下全体が幸せになるという夢物語を説いた「天下一家の会」と同じ神経ではないか!

 このような夢物語の結末は火を見るより明らかである。

成功しえなかった多数者の、恨みの眼の玉をひんむいた屍が累々と横たわる荒れ果てた戦場に、救いを勝ち取りえた少数者の血なまぐさい勝利の旗が毒々しくはためくのみである。


↓原本には載っている写真をお載せできないのが残念ですが……


水ぶくれは教主のお家芸(1)

 道元禅師は「無上菩提〔むじょうぼだい〕を演説する師に値〔あ〕はんには、種姓〔しゅしょう〕を観ずること莫〔なか〕れ、容顔を見ること莫〔なか〕れ」と言っておられるから、宗教家を容貌〔ようぼう〕によって批評したくはないのだが、伊藤真乗という男にかぎっては、若い頃の修行時代のご面相と、大教団を確立して以後のご面相とがあまりにも違いすぎるので、どうしてもひとこと言っておきたくなる。

   
この男、若い頃の写真を見ると、卵形のほどほどに引き締まった顔をしていて、目つきにもある種の純粋さが感じられるのだが、「法難」(まこと教団事件)の前後から急激にブクブク肥りだし、その目つきも死んだ魚のように濁った薄気味悪いものへと変化してきている。

とりわけ摂受院の遷化〔せんげ〕(死去)の直前の外遊の時の写真など、事情を知らない人に見せて「警察に摘発されたモグリの風俗営業の社長の顔ですよ」と説明したら、十中八九の人が信じ込んでしまいそうな、およそ宗教家らしからぬつらだましいである。

昨年、週刊誌を騒がせた次女の告発によれば、この当時の伊藤真乗は、妻を「役立たず」(セックス面での意味)と罵〔ののし〕って家庭内暴力をふるう、およそ宗教家にあるまじきスケベ男だったとのことであるが、事の真偽はさておき、人をしてその情報を信じたくさせるような雰囲気が、確かにこの時期の伊藤真乗にはある。

 最近は八十路〔やそじ〕に達して、さすがにこの男も枯れてきたようではあるが、目つきの方は、あい変わらず死んだ魚のように濁っている。
 私が教主の容貌を長々と述べたのは、真如苑という教団の恐るべき水ぶくれ体質が、教主の肉体の水ぶくれ体質とまことに似通っていることを指摘したいからにほかならない。



水ぶくれは教主のお家芸(2)

 何度も言っているように、真如苑では導きの子を十世帯ぐらい作って、はじめて一人前の信者とみなされるようになっている。
一世帯の人数が三人や四人いることを勘案すれば、信者総数の数十分の一の人数の人々しか「一人前」の信者にはなっていないことになる。
これほどの「狭き門」でありながら、積極的に「歩み」はじめた信者の中には、わりあい短期間で導きの子を多数獲得することに成功して、上位にのし上がる人間がけっこういるのは、なぜであろうか?

 その秘密は、信者になるための条件がきわめてルーズに作ってあるところにある。

 積極的に真如苑を信じる意志のあるなしを問わず、入信書の提出と会費の支払いがありさえすれば、一応その人は真如苑の信者として認められることになっている。
 このため、早く上級信者の地位を獲得したい熱心な信者は、学校の同級生とか職場の同僚とかに対して、あまり内容を詳しく説明もしないまま、「ちょっと面白い会があるから、会員にだけでもなってみませんか」といった軽い誘いの言葉をかけて、入信書を書かせ、自分の導きの子にしてしまうということを、しばしば巧妙にやってのけている。
そのようにして作られた泡沫〔ほうまつ〕信者のなかには、名目的に入会しただけで、真如苑の本部や支部には一度も顔を出さないという者も多いし、なかには、会費すら自分では払っていないで、導き親に払わせているという者もいるのである。

 教団側では、こうした形の水増し信者作りをとがめないばかりか、半ばは奨励しているようでさえある。
その証拠に、真如苑が信者に配っている『内外時報』や『歓喜世界』の記事を見ると、「信者になること」と「歩む」こととのあいだには、大きな隔たりがあることを前提とした記述がいたるところに見うけられ、「歩み」はじめた信者をただ入信しているだけの信者と区別して呼ぶための「一如〔いちにょ〕教徒」という専門用語が存在するほどである。

 むろん教団では、ひとつの理想として、「お救けした導きの子はなるべく全員歩ませてあげましょう」と常々指導はしている。
しかし、このようなことが理想として語られるということ自体、「お救けすること」と「歩むこと」とが実態において甚だしく乖離〔かいり〕していることの証拠と言えよう。

 こうしたことの結果生じる真如苑の導きの親子関係の系図の例を、モデル的に例示してみると、例えば第三図のようなものになる。
 この図では、一人の親(第一世代)から始まって第六世代までの導きの親子関係が作られた段階でのありさまを例示している。

○はおつきあい程度に入信した名目的泡沫信者。
◎は、やや積極的に「歩み」はじめた「一如教徒」。
●は、十世帯以上の導きの子を持って一応「救われた」状態まで達している信者である。

なお、実際には「お救け」した世帯の中がさらに複数の人間からなっているから、系図はもっと複雑になるはずであるが、このモデルケースでは、そこまでは示さないことにした。
○の泡沫信者の中の何人かは、今後、病気その他を転機に「一如教徒」に転化するかも知れないし、現在◎になっている「一如教徒」のうち何人かは●へと昇格するであろう。
しかしまた一方では、いくら「一如教徒」として歩んでみても思うように「所属」が伸びず、「歩み」を諦める者もかなり出るに違いない。
少くとも現状で見るかぎり、この系図を構成している百五十世帯のうち、「救われた」状態に達しているのは九人だけ、曲がりなりにも「歩ん」でいる者を全員含めても二十九人にすぎない。

真如苑の組織というのは、結局のところ、いつもいつもこんな調子の「ごく一部だけが救われた」形の系図が、下へ下へと連なってゆくだけのものである。
 全くもって、教主の肉体さながらのダブダブの水ぶくれではある!



水ぶくれは教主のお家芸(3)

 ところで、これは真如苑に入信したことのある人がみんな、体験していることだが、初信者が真如苑に入信してしばらく経つと、導き親や経親は「もうそろそろホンネを教えてもよかろう」と判断するのか、彼らの指導の中で、名目的幽霊会員作りをむしろ奨励するニュアンスが、しだいに色濃くなってくるのである。
 彼らは、最初のうちは
「すばらしい教えですから、ぜひ、そのことを伝えて、人様にもこの喜びを分かとうという愛と思いやりの心をもって『お救け』しなさい」
などと奇麗ごとを言っているのだが、しばらくすると、むしろ、
▼「このみ教えは、最初はわからなくて当然なのですから、あまり内容についてくだくだ説明せずに、まずは気軽に入信だけしてもらって、その後に徐々にお育てしていった方がよろしいですよ」などと言うようになる。

 その理由づけとして、
▼「このみ教えは密教ですから、最初からすべてを教えるものじゃありません」という論拠がしばしば引き合いに出される。
この「密教云々」という殺し文句については、あとで詳しく検討する予定であるから、ここでは深入りしないことにしよう。

 もうひとつの理由づけとしてしばしば語られるのは、
▼「この真如苑のみ教えは、たとえ歩んでいなくても、入信しているだけでもご霊界からの抜苦代受が頂けるありがたいみ教えですから、形だけでも人様を結んでさしあげることが功徳になるのです」というものである。

 その実例として、次のような逸話〔いつわ〕が語られている。

 「ある時、真如苑の末端信者の一人が交通事故で亡くなった。その人は、以前にある人に『お救け』されて信者になったのだが、『歩ま』ないままにとどまり、会費納入も滞ったままになっていた。
 摂受院様がこの人の事故のことをお聞きになり、導き親であった人に『その人の会費は続いていたのですか?』とお尋ねになった。
導き親さんが会費納入が滞っていたことをお話しすると、摂受院様は
▼ 『会費が続いているだけでもご霊界のお守りが頂けるから、今回のようなことにはならなかったでしょうに、残念です』とおっしゃった。

 この例からわかるように、本人自身は足が遠のいてしまっていても、導き親が会費を肩代わりして払っておけば、ご霊界が守って下さるのだから、導き親は、進んで会費を肩代わりしてでも、導きの子たちを真如苑に繋〔つな〕ぎとめるようにしなければならない」
 なるほど、たいした「お守り」ではある!

 だが、このように「会費が続いていたら守る。そうでなければ守らない」というのであれば、つまるところ、真如苑で言うところの「ご霊界」の事業そのものが、俗界における警備保障会社の霊界版と言うべき、ひとつのビジネスにすぎないことを、はしなくも自ら露呈していることにならないであろうか?



会費が安いことのウラの理由

 さて、そこでその警備保障会社から「お守り」を頂くための「会費」であるが、これ自体は、前にも触れたように、驚くほど安いのである。
一世帯当たり一ヵ月わずか二百円!
 この点はまことにありがたいわけである。
が、実は、このありがたい点が、同時に巧妙な陥とし穴にもなっている。
 会費が安いために、多くの未信者が「おつきあいの入信だけならしておこうか」という気を起こす。
その結果、教団の名目的な信者数はぐんぐん増える。
そうしておいた上でいざ本格的に「歩む」となると、次章で明らかにするように、やれお施餓鬼だ、やれお護摩だというふうにしてどんどんカネを取り、しかも、後の段階で必要になるものほど金額が高いように仕組んであるのだから、「歩み」はじめた信者は、いわば一種の「騙〔だま〕し討ち」にかけられるわけである。

 また、会費が安いので、教団内での地位向上を目指す連中は、いきおい、一度入信書を書いて初年度の会費を払って、以後足が遠のいてしまっている名目的泡沫会員を、会費肩代わりによって、いつまでも自分の導きの子として確保しておこうとする。

 実際、「大乗」「歓喜」「大歓喜」などの相承会座に参座するためには、申し込み段階で自分の導きの子の名前を全部申告しなければならないようになっていて、その申告書に名前を載せるためには、足が遠のいてしまった信者の場合は、導き親たる自分自身が会費肩代わりをしておかねばならない。

 では、こうした足が遠のいた信者の分は、たんに会費肩代わりで名目的に繋〔つな〕ぎとめておきさえすればよいかというと、案外、そうとばかりは言えないのである。
時として、そうした名目的な導きの子にいろいろ病気や家庭不和や事故などが起こると、導き親がその件に関して接心を受けることが勧められる。
そして「その方がまだ歩まないうちは、あなたが肩代わりしてその方をお護摩でお浄めしておきなさい」とか、「その方のご先祖様のお施餓鬼をしておきなさい」とかいった「ご霊言」が飛び出してくるという形で、余分なカネを取られてゆく仕組みになっているのである。

 以上のように、最初はカネがいくらもかからないようにして信者の裾野をできるだけ広げておき、時とともに少しずつ、その裾野をネタにしてカネを余分に吸い上げてゆこうというのが、会費が安いことの真の理由なのである。

 なるほど、まことにもってしたたかな知恵と言うべきだ!


会費が安いことのウラの理由

 さて、そこでその警備保障会社から「お守り」を頂くための「会費」であるが、これ自体は、前にも触れたように、驚くほど安いのである。一世帯当たり一ヵ月わずか二百円!
 この点はまことにありがたいわけである。が、実は、このありがたい点が、同時に巧妙な陥とし穴にもなっている。

 会費が安いために、多くの未信者が「おつきあいの入信だけならしておこうか」という気を起こす。
その結果、教団の名目的な信者数はぐんぐん増える。
そうしておいた上でいざ本格的に「歩む」となると、次章で明らかにするように、
▼やれお施餓鬼だ、
▼やれお護摩だというふうにしてどんどんカネを取り、しかも、
▼後の段階で必要になるものほど金額が高いように仕組んである
のだから、
「歩み」はじめた信者は、いわば一種の「騙〔だま〕し討ち」にかけられるわけである。

 また、会費が安いので、教団内での地位向上を目指す連中は、いきおい、一度入信書を書いて初年度の会費を払って、以後足が遠のいてしまっている名目的泡沫会員を、会費肩代わりによって、いつまでも自分の導きの子として確保しておこうとする

 実際、「大乗」「歓喜」「大歓喜」などの相承会座に参座するためには、申し込み段階で自分の導きの子の名前を全部申告しなければならないようになっていて、その申告書に名前を載せるためには、足が遠のいてしまった信者の場合は、導き親たる自分自身が会費肩代わりをしておかねばならない。

 では、こうした足が遠のいた信者の分は、たんに会費肩代わりで名目的に繋〔つな〕ぎとめておきさえすればよいかというと、案外、そうとばかりは言えないのである。
時として、そうした名目的な導きの子にいろいろ病気や家庭不和や事故などが起こると、導き親がその件に関して接心を受けることが勧められる。
そして
▼「その方がまだ歩まないうちは、あなたが肩代わりしてその方をお護摩でお浄めしておきなさい」とか、
▼「その方のご先祖様のお施餓鬼をしておきなさい」とかいった「ご霊言」が飛び出してくるという形で、余分なカネを取られてゆく仕組みになっている
のである。

 以上のように、
最初はカネがいくらもかからないようにして信者の裾野をできるだけ広げておき、時とともに少しずつ、その裾野をネタにしてカネを余分に吸い上げてゆこうというのが、会費が安いことの真の理由なのである。
 なるほど、まことにもってしたたかな知恵と言うべきだ!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第五章 安い会費のウラにあるもの

大歓喜委員バッジ」の無言の圧力

 真如苑の信者はみな、「輪宝章〔りんぼうしょう〕」というバッジを胸につけることになっている。「お袈裟〔けさ〕」とともに、このバッジを胸につけていないと、法要などに参加できないようになっている。

 ところで、このバッジには三種類のものがある。基本的な意匠はみな同じだが、

第一のは、青い安物の七宝〔しっぽう〕でできている。
第二のは、銀色の台の上に輪の部分だけが金色でできている。
第三のは全体が金ピカである。

もちろん、あとの方ほど値打ちがある。(稀には、さらに高級な特別のバッジを身につけることを許される信者もあるようだが、それは例外としておこう)

第一のものは、信者になれば誰でももらえる。
第二のものは、月五千円の「歓喜」を自発的に誓約した信者にだけ渡されるもので、「歓喜委員バッジ」と呼ばれる。
第三のものは、月一万円の「歓喜」を自発的に誓約した信者にだけ渡されるもので、「大歓喜委員バッジ」と呼ばれる。

「歓喜委員」や「大歓喜委員」になるのは、あくまで自発的な誓約によるものであり、「導きの子が何人以上いる人は必ず何々委員にならねばならぬ」とか「経親は必ず何々委員でなければならぬ」とかいう規則があるわけではない。
ところが、この「規則はない」というのはタテマエであって、実のところは、無言の規則というか、圧力というかがあるのだ。

 例えば、導きの子を五人ぐらい持って本格的な「一如教徒」として「歩も」うとすると、少なくとも「歓喜委員」にはなっていないと、さまにならないようにできている。
さらに、智流院に入ったり、「大乗」の霊位を授かったりするぐらいの段階になると、「大歓喜委員」バッジをつけていないと、さまにならない。

 自分の導きの子が先に「大歓喜委員」の誓約を立ててしまって、自分がいまだに「歓喜委員」というのでは、指導者づらをするわけにもいかない、という無言の圧力がかかるのである。

 結果的に多少とも積極的な信者はみんな「大歓喜委員」というのが現状である。

 「月に一万円ぐらいの寄付なら、どんな宗教団体でもやっていることでたいしたことはないじゃないか」と思う読者がいるかも知れない。
確かに、この「歓喜」だけが金銭的負担のすべてであるのなら、「大歓喜委員」になることも、さほど苦にはなるまい。
事実、初信の頃、そういうふうに考えて、うかつに早々と「大歓喜委員」の誓約を立ててしまう人も多いのである。
ところが、真如苑の金ピカ地獄はこの「歓喜地獄」だけではないという点に注意すべきである。

「施餓鬼〔せがき〕地獄」「護摩〔ごま〕地獄」「交通費地獄」という後続部隊が控えている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
歓喜袋」の奸計

 ところで、「歓喜」なる名の寄付金はどういうふうにして納めるのか? 
この納め方についても真如苑は、教団護持のために実に巧妙な手法を開発している。

 「歓喜」は「歓喜袋」という所定の袋に入れて納める。
納入場所はきわめて限定されていて、立川の総本部のほか、接心を実施している大きな地方拠点の事務局の窓口でだけ受け付ける。
経の上位者を通じて提出するのではなく、個人個人が直接持参する。
これは経の上位者によって、歓喜のピンハネが行われる可能性を封じ、教団の腐敗を防ぐ有効な措置であるが、同時に、経がまるごと教団から分派するという霊友会的危険の可能性を封じる効果をもねらったものである。

 なお、狭い意味での「歓喜袋」と呼ばれている封筒の他に、
「両童子様感謝」とか
「摂受院〔しょうじゅいん〕様感謝」とか
「笠法〔かさのり〕稲荷大明神様感謝」とか書いた封筒も備えられていて、これらの表書きに書かれている崇拝対象への「お奠供〔てんぐ〕」を、適宜包んで提出することが奨励されている。
これらの封筒も、裏の書式は次に述べる「歓喜袋」の場合と同様である。
この種の「お奠供」も広い意味での「歓喜」だが、歓喜委員や大歓喜委員の誓約を立てる際の「五千円」とか「一万円」とかいう額は、これらの「お奠供」の分を除いた狭義の「歓喜」の額である。

 さてそこで「歓喜袋」の裏の書式だが、そこには、自分の姓名のほかに、自分の属する経の名と経の整理番号と導き親の姓名を書く欄が作ってあり、それらを書いて、袋の口を糊付けして提出することになっている。
だから、いくら入っていたかは事務局員が開いた時にはじめてわかるようになっており、当然ながら、領収証は発行されない。
つまり、真如苑に入信勧誘されて、いろいろな甘言によってダマされたと感じた人が、後になって訴訟など起こしても、いくら払わされたかの証拠は少しも残らないから、損害の立証はできないようになっているのだ!

 それでいて教団側では、誰がいくら納入したかを把握することができるようになっており、さらに経別〔すじべつ〕集計をとることもできるようになっているのだから、巧妙なものである。
この経別集計が、経の活動実績として、経親の勤務評定の資料になることは見えすいている。
導き親の名前も封筒に書くわけだから、導き親別の歓喜額の集計もとることができるわけで、これが智流院入行〔にゅうぎょう〕とか相承会座への参座の許可とかの場合に、判定資料として使われるであろうことも見え見えだ。

 このようにして、経親とか導き親とかいう者は、自分の下位の者に負担をさせればさせるほど、それが自分の業績として認められるのだ。
直接の金銭的報酬には結びつかないとしても、これがネズミ講の一種であることは明らかだ。
しかも、経親とか導き親とかいう連中自身は、それを「負担をかける」などとは思わずに「徳を積ませてあげる」ことだと考えているのだから、なおさら始末に負えない。

 (ところで、真如苑の信者必携小冊子『一如の道』の四〇二〜四〇三頁には、
立教当初、伊藤夫妻の窮乏生活を見るに見かねたある人が「講を作ってあげよう。百人集まれば生活ぐらいはたつだろう」という案を親切にも持ってきてくれたのに対して、摂受院がお不動様にお伺いを立ててこの案をしりぞけ、
▼「あくまでも救われた人たちだけの力でやってまいります」と誓ったという話が出ている。
その後ネズミ講組織を作り上げた真如苑は、明らかにこの初心に背いている!)


 これは例の秋山博彦さんの体験だが、彼は、入信後二ヵ月、三ヵ月と経った頃、どうも「歓喜」を勧める経親の態度があやしいことに気付き始めた。
隙〔すき〕さえあれば、何とかしてあらゆる問題を「歓喜」に結び付けてしまおうという意図が見え見えなのである。
彼は、真如苑を信仰するについて家族の賛成が得られないこと、自分自身のすでに身につけていた人生観、宗教観から見て、この真如苑の教えが特に高い教えとも思えないことなどを率直に訴えて、経親の指導を乞うたのだが、経親は、質問内容にはまともに答えもしないまま、次のようなことを言い出したのであった。

 「初信のかたは護法善神〔ごほうぜんしん〕様(真如苑の守護神)にお守りいただくことで、だんだんそういう問題は解決してゆきますから、まずは笠法〔かさのり〕様(護法善神のひとつ)と弁才天〔べざいてん〕様(護法善神のひとつ)へのお奠供を、毎月、歓喜といっしょに、少しずつ積まれるとよろしいわね。
護法善神様というのは、いろいろきめ細かくお使いみたいなことをして下さる方なのよ。
子供だって、お使いさせたらお駄賃包んであげるじゃないの。それと同じですよ」

 妙に甘ったるい猫なで声で、何を言い出すのかと思えば、結論は要するに、普通の「歓喜」のほかに、毎月、二千円ぐらい包んだ封筒をふた袋、余計に出せということなのだ。
 秋山さんは、この時のことは、思い出すだけでも胸くそが悪くなると話している。



お施餓鬼は年に六回?いや十八回!

 真如苑では「お施餓鬼〔せがき〕」という名の先祖供養を重視している。そこで、入信勧誘にあたっては、この「ご先祖供養」を売り物にして「とてもよいご先祖供養をしてもらえる会がありますから入ってみませんか?」という形で誘うケースが多い。
教団の末端を構成する名目的信者の中には「歩み」はしないがこのお施餓鬼だけはお願いしているという形の「お施餓鬼信者」がかなりいるようである。

 さて、真如苑では、年に六回、定期的な「お施餓鬼」が行われる。
「初廻向〔はつえこう〕(一月)」「春彼岸(三月)」「お盆(七月)」「水施餓鬼(八月)」「秋彼岸(九月)」「一如まつり(十一月)」の六回である。
この定期的な「お施餓鬼」は、信者が供養してほしい先祖や縁者の名前をお奠供の額とともに書いた紙を、経ごとに綴〔と〕じて提出するので、「お奠供帳〔てんぐちょう〕」による「お施餓鬼」と呼ばれている。

このお奠供帳のお施餓鬼にだけ参加しているかぎりは、それほどのお金はかからない。
「お奠供」は一霊あたり五百円が原則だから、自分の父母および両系の祖父母の合計六人にお施餓鬼するとすれば三千円、年間で一万八千円である。
これに年会費二千四百円を加えても二万四百円というわけで、このくらいなら、おつきあいとして入信しておくのも悪くはない、ということになる。

 ところが、もしいったん「歩み」はじめたとなると、状況は一変してしまうのだ。
「歓喜」を強制されるのは前に述べた通りだが、それだけでなく、「お施餓鬼料」自体が、当初のお奠供帳だけの場合に比べて数倍のものにふくれ上がってしまう。
そのからくりを説明しよう。

 接心を受けはじめると、
▼「あなたには、これこれの病気で亡くなったご先祖様がいらっしゃいます」
などと、ウソか本当かわからないような「ご精霊〔しょうりょう〕様」を必ず何体か指摘され、
▼「そのかたに対してもお施餓鬼をするように」しかも
▼「一年や二年は続けて毎月お施餓鬼するように」と教示されるのが常である。
そして、こうした因縁の諸精霊については、「お奠供帳」の場合にも、今までのふつうの先祖に加えてお施餓鬼対象にするようにと勧められる。

 そこで仮に、接心でそのような「ご精霊様」を五体示されたとしよう。
すると、この五体に対しては、当分の間、毎月お施餓鬼することになるから、料金は毎月二千五百円、一年で三万円となる。
これに加えて「お奠供帳」でのお施餓鬼も一回分が十一体となるので五千五百円となり、年六回では三万三千円。
合計するとお施餓鬼料だけでも六万三千円となる。(接心で示された「ご精霊様」に対しては、年間十八回もお施餓鬼を命じられていることになる)

 「接心で示されるような『ご精霊様』については一年か二年お施餓鬼を続ければよいのだから、あとは楽になるだろう」と考える読者もいるかも知れないが、そうは問屋が卸〔おろ〕さない。
最初のご精霊様が立派に「浄まる」ころには、さらに次の「因縁」が示されるというぐあいで、「歩む」信者は、常に、四体や五体ぐらいの特別の「ご精霊様」に対してお施餓鬼をさせられ続けることになる。

 そしてこの施餓鬼料の場合も、経の名と経の整理番号を書いて申し込むことになっているので、経別に集計して勤務評定の資料にすることができるわけだ。

 教団では、この「施餓鬼地獄」への信者の不満を抑える目的で、次のようなことを信者に教え込んでいる。

▼「このお金は、けっして教主様の身に着くものではないのですよ。教主様だって、ご自分の関係のご精霊様のお施餓鬼をお金を払って申し込んでおられるのです。教主様は、教団からの決められたお給料でつつましく暮らしておられ、その中からわざわざお金を割〔さ〕いて、毎月、ご自分の関係のご精霊様六十体以上について、お施餓鬼を申し込んでおられるのですよ!」

 教主様が「お給料でつつましく暮しておられる」ということ自体、眉唾〔まゆつば〕だが、たとえそうだとしても、「六十何体ものお施餓鬼を……」というのは不思議でも何でもない。
それができる程度の余裕をサバ読んで、教団幹部が「教主様のお給料」を決めてさしあげておきさえすればいのだから。
(ついでながら、ここで使った「サバ読む」という言葉は、まさにこの言葉の語源どおりの意味で使ったことになる。禅の修行僧は自分の食事の中からひとつまみを餓鬼に施す「サバ」としてさし出すことを、修行として義務づけられているが、「サバ」をさし出した残りでちょうど満腹になるように、最初から余分に飯を盛り付けておくずるいやり方を「サバを読む」と言ったのである)

 ともあれ、「信者が教団にさし出したお金は、けっして教主様の身に着くものではない」ことをはっきりさせたいなら、なによりもまず、総本部や東京本部の正門に「伊藤真乗」という個人名の表札を掲げることを、きっぱりとやめてもらいたいものだ!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

七分獲一」のボロもうけ

 「葬式仏教」と揶揄〔やゆ〕されるように、現代の日本では葬式や法事の謝礼が僧侶の主な収入源になっている。
その結果、僧侶の本分は死者儀礼であると、多くの人が誤解するまでになっている。
しかし、本来は、死者に対する儀礼は仏教の主眼とするところではない。
原始仏教の時代には、むしろ、死者儀礼は在家の人々のとり行うこととされ、仏教僧はこれに携わることを禁止されていた(釈尊ご自身、亡くなる前に、出家の弟子たちの前で「私の葬式のことなどは在家の人々に任せておきなさい」と言い残された)。(※ これは、今は否定されている学説である)

 同時代のバラモン僧たちは、「死者がよい世界に生まれ変わるように祈ってやる」などと言って、もっともらしい儀式をとり行なって無知な人々を欺〔あざむ〕いていたが、釈尊はこうしたことを宗教家の堕落と考えておられたのである。
 「祈りによって死者をよい世界に生まれ変わらせることができるでしょうか?」と問うた人に対して、釈尊が次のように問答されたのは有名な話である。
 「ここに石があるとする。これを池の中に投げ込んだらどうなるかね?」
 「むろん沈みます」
 「ではその池のほとりに行って『石よ浮かんでこい、石よ浮んでこい』と祈って、石が浮かんでくるということがあるだろうか?」
 「いいえ、そんなことはありません。石は最初から水に沈む性質を持っているからです」
 「そうだろう。人の死後もそれと同じだよ。一生の間極悪の行為を続けて死んだ人が、あの世へ行ってそれにふさわしい世界に堕〔お〕ちるのは、水に沈む性質を備えた石が池の底に沈むのと同じだよ。『天国へ昇れ、天国へ昇れ』と他人があとから祈ったところで、それで天国へ昇れるというものではないのだよ」
 原始仏教の結論はこういう明快なものであった。
 ただ、後に「それではあまりに死んだ人に気の毒だし、残された者の心にも納得がいかない」と考える人が増えてきたので、仏教でも、ひとつの方便として、死者のために祈るということをやりはじめたのである。
さらに、大乗仏教の立場に立てば、「菩薩の境地で行われた善行ならば他人に対しても『廻向〔えこう〕』できる」という考えが成り立つので、そういう意味でも、死者のための「追善廻向〔ついぜんえこう〕」を教理上肯定できる余地が生まれてきた。
 しかし、仏教の原則はあくまで「自業自得〔じごうじとく〕」である。
この原則をゆるがせにすることは混乱を招く。
そこで、「死者への廻向は無意味ではないが、人間はやはり何と言っても、生前に正しく生きることこそが肝心なのだぞ」ということを教えておく必要があった。
 そのための戒めとして、「生者が死者に対して自己の善行を廻向したら、七分の一だけを死者が受け取ることができて、七分の六は生者自身の徳となる」というようなことを説いた経典が作られた。
これを「七分獲一〔しちぶかくいつ〕の理」という。
要するに、俗人に対して「生きている間が肝心だぞ」と戒めるとともに、僧侶に対して「仏教の本旨は人間のよりよい生き方を指導するところにあるのであって、死者のことに関わるのは二の次だぞ」と戒めたわけである。

 ところが、真如苑という野心家集団の手にかかると、この「七分獲一の理」が、逆に、死者への追善のための金は出せば出すほどよいという金ピカ地獄の正当化の論拠になってしまったのだから、世も末である。

 真如苑の指導者は、この「七分獲一の理」を論拠に、あつかましくも次のように言うのだ。

▼ 「あなたが七千円のお金を払ってご精霊様の追善をしてあげたつもりでいても、ご精霊様に届くのは千円分の功徳だけなのです。亡くなったかたに七千円分の功徳を、本当にさし上げたければ、四万九千円のお施餓鬼をしてあげねばなりません。
一万円分の功徳をさし上げたければ、七万円のお施餓鬼をしてあげねばなりません。
だから、お施餓鬼は一回教主様にお願いしたからそれでいいというものではなくて、何度も何度も、追いかけ追いかけ修していただいて、はじめて因縁が切れてゆくものなのです。

 まことに「七分獲一」とはうまいことを言ったものだ。
昔の人は便利なリクツを作っておいてくれたものだ!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「お護摩」は最低二千円

 それでも「お施餓鬼」だけならばなんとか耐えられるのだが、次に、「お護摩」と称するもっと厄介〔やっかい〕なものが出てくる。

 前にも述べたように、真如苑というところは、やたらと「障害霊」が現れるオソロシイところである。
「歩み」はじめて半年もすると、接心の中から「ご精霊〔しょうりょう〕様」ばかりでなく「障害霊」もまたゾロゾロ現れてくるのだ!

 導きの子が「堕ちる」と、必ず「障害霊」が示されるということは前に述べたが、本人自身の家系に関しても、
▼「あなたのご先祖様が家の中にご利益信心のお稲荷様を祀〔まつ〕っていたのが見えます。これがあなたが正しい道を歩む障害になっていますので、お護摩でお浄めしていただきなさい」などという「ご霊言」が出てくる。

 接心で示される以外にも、経親の日常指導の中で「お浄め」の必要性を、指摘される場合も多い。
本人自身がいろいろ信仰遍歴したあとで真如苑にやってきたような場合、指導者は最初は
▼「真如苑はすべてを摂受するみ教えですから、前の信仰を無理しておやめになることはありませんよ」
などと言って、寛大さを誇示しているが、いざ本格的に「歩み」はじめると、指導者の態度が一変する。
▼「いつまでも教主様一如の信が確立しないのは、前に遍歴してきた信仰が障害になっているからです。それらの教団をお護摩でお浄めしていただきなさい」
などと指示するようになるのだ!

 ところがこの「お護摩」というやつがくせ者。

 「一項目五百円」となっているので、一見するとお施餓鬼の「一体五百円」と同じと思われる。 
ところがだ! 
お護摩は「み仏様」と「護法善神様」とのお守りをいただいて修していただくものだから、「お浄め」という項目にマルをつける前に必ず「仏恩報謝〔ぶっとんほうしゃ〕」「笠法〔かさのり〕稲荷大明神様法楽〔ほうらく〕」「八大弁才尊天〔はちだいべざいそんてん〕様法楽」という三項目にもマルをつけねばならないというのだ。
こういうわけで「お浄め」一件を頼むのでも、「最低二千円は必要」ということになる。

 以前に三つの教団を遍歴してきましたなどという人は、当分の間、「お浄め三件分のお護摩」すなわち三千円の護摩を毎月申し込まねばならないことになる。
一年分で三万六千円である。

 それに加えて、時たま接心で別の「障害霊」を指摘されると、「そのつど二千円」かかるわけであり、仮に一年にそういう「障害霊」が五回示されたとすると、そのための臨時の護摩料が一万円ということになる。
さらに「堕ちた」導きの子の背後の「障害霊」を「浄める」ための「お護摩」を命じられ、これを一年間続けたとすると、二千円の十二回分で「二万四千円」ということになる。

 そして、接心を受けること自体にもカネがかかるのはもちろんである。
相談接心の一回分の「冥加料〔みょうがりょう〕」は二千円、向上接心の一回分の冥加料は五百円である。
だから、例えば、接心を年に十五回受け、そのうち七回は相談接心、八回は向上接心だったと仮定すると、「冥加料」の合計は一万八千円ということになる。
実際、次に述べるように、一年間にこのくらいはいやおうなしに接心を受けさせられるようになっているのだ。

 以上いろいろ述べてきたが、ここで、今までに述べた金ピカ地獄の「標準例」の場合の、一年間に払わされるお金の額を集計しておこう。

  会費(一ヵ月二〇〇円)      …………  二、四○○円
  歓喜(大歓喜委員の場合)     …………一二〇、〇〇〇円
  護法善神様お奠供         ………… 四八、〇〇〇円
  施餓鬼料(接心で示されたもの)  ………… 三○、〇〇〇円
   同  (お奠供帳)       ………… 三三、〇〇〇円
  護摩料(信仰遍歴のお浄め)    ………… 三六、〇〇〇円
   同  (接心で示されたもの)  ………… 一○、〇〇〇円
   同  (堕ちた導きの子のお浄め)………… 二四、〇〇〇円
  相談接心冥加料(七回)      ………… 一四、〇〇〇円
  向上接心冥加料(八回)      …………  四、〇〇〇円
                 合計…………三二一、四〇〇円


 これは多少積極的な信者の場合のいわば「最低水準」の「標準例」である。
より積極的に歩もうとすれば、
▼「護法善神様だけでなく、両童子様と摂受院様にもお奠供をさしあげるのがよろしいわね」とか、
▼「職場の人たちと和合するためには、同僚のみなさんのご先祖様のお施餓鬼をしてさしあげて陰徳を積むのがよろしいわよ」
などという経親の指示が、次から次へと手を変え品を変えて出てくるようになっているのだから、まともにつきあっていたら、どこまで負担させられることになるか、全く計り知れない。

 さらに、この計算の中にはまだ交通費が含まれていないことにも注意しておこう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

接心は月に最低一回泊まりがけ

 前の「卓抜した霊能者統御法」で詳しく述べたように、真如苑では、霊友会の失敗の轍〔てつ〕を履〔ふ〕まないための安全装置として、日常指導と霊能指導を厳格に分離している。
そして、霊能指導たる「接心」を授ける場所を極端に限定して、霊能者と信者との関係が「総当たり制」になるように気を配っている。
しかもそれでいて、「歩み」はじめた信者は最低月に一回は接心を受けねばならないと義務づけられている。
このため、総本部や有力拠点から遠い所に住んでいる信者にとっては、交通費が膨大なものになる。

 例えば、岡山市に住んでいる信者の場合、大阪精舎に行かないかぎり接心は受けられないので、往復一万一千円ぐらいの旅費を覚悟しなければならない。
しかも、接心は法要の開始前に受け付けが行われるので、午前七時ごろに行って順番をとらないと早い番はとれない。
そんなわけで、遠隔地の者は泊まりがけで臨まねばならないことも多い。

さらに、積極的信者たる資格要件として、総本部や有力拠点での苑内奉仕(教団の建物の中での奉仕活動)に時々参加することが挙げられており、岡山市の信者でも、時々はこの目的のために大阪精舎へ赴かねばならないことになる。

そこで、接心を年に十五回受けた上に、苑内奉仕の目的で五回大阪精舎に行ったとすると、「一年間に合計二十回」大阪精舎参りをしなければならないことになり、宿泊費を無視して交通費だけ合計したとしても、「二十二万円」かかることになる。

 この他にも、十月に行われる「斉灯護摩〔さいとうごま〕」とか、「教主誕生祭」「霊能感謝祭」「一如まつり」の三大祭などの際には、何のかんのと出費を強いられるようにできているので、そうした「雑費」が五万円や十万円はかかることを覚悟しておかねばならない。

 しがない予備校教師の秋山博彦さんや、つつましい主婦の西村春子さんが「とてもつきあいきれる教団ではない」と思ったのは、まことにむべなるかな、である。

 さらに追い討ちをかけて、ひどい金ピカ地獄が待っている。
修行が進んで霊位が向上すると、さらに金がかかるのだ。

なぜかというと、歓喜以上の相承会座〔そうじょうえざ〕は、立川の総本部でしかやっていないからだ! 

いちばん下の大乗の会座だけは大阪精舎などの地方拠点でもやってくれるが、歓喜以上は完全な一点集中主義なので、九州の信者などは飛行機で通うことになるのだ! 

しかも、この相承会座というやつは、いったん参座しはじめたら、毎月続けて参座しないといけない。
そして、五回か六回は参座しないことにはパスしないようにできている。


 そんなにまで金をかけて、しかも家庭の主婦が子供の面倒を他人に任せたり、職業人が職場を休んだりしてまで、なんでそんな霊位なんぞというものを得なければならないのか、常識人なら理解に苦しむところである。

 「これが自分自身の因縁切りの道であり、ご恩をいただいた教主様へのご恩返しの唯一の道だ」と信じ込むと、それが可能なのであろうか?
 「これは、いくらなんでもひどすぎる。何かウラがあるのではないか? もしかしてある程度以上地位が向上すると経済的にも何らかのウラの報酬がつくようになっているのではないか?」と、私などはかんぐりたくなるのだが、読者のみなさんはどうお感じだろうか?

 ともあれ、身ぐるみ剥がれた人が、やむをえず教団専従者になれば、その時点からは教団の身入りに応じて、給料もボーナスもたんまり出るのはもちろんのことである。



経別指導の膨大なロス(1)

 真如苑の信者を責めさいなむ金ピカ地獄の最後のものは、大教団の中ではいまや珍しい旧態依然の経別〔すじべつ〕指導方式のために必要になる経費である。
 第二部第二章の「『ご霊言』は絶対の真理?」の中で示した、例の西村春子さんは、実は九州に住んでおられる。
彼女の導き親の沢田道代さんは東京在住者である。
そして、西村さんが導いた川口良子さんは、これまた東京の人である。
だから、川口さんが西村さんの手紙を読んで真如苑に興味を持ち「私もそこへ行ってみたい」と言いだした時、総本部に彼女を連れていったのは沢田さんであった。
しかし、こういう場合でも、最初に川口さんに真如苑のことを教えたのが西村さんなので、川口さんの導き親はあくまで西村さんということになる(第四図)。
常識で考えれば、川口さんのことは沢田さんがバトンタッチして面倒を見ればよさそうなものだ。
ところが真如苑では、「導きの親子関係はみ仏様がいちばんふさわしい人と人を結び付けて下さるものだから、人間側の都合で切ったり貼〔は〕ったりしてはならない」などと言って、あくまで、最初の紹介者が誰であったかによる遠回りの経路を保存させようとする。

 西村さんのケースでは、川口さんが真如苑をさっさと辞めてしまったから、よかったようなものだ。
もし川口さんが真如苑を続けていれば、機関誌『内外時報』の送付も「沢田(東京)→西村(九州)→川口(東京)」というまわりくどい方法で郵送することになるし、教えを「歩む」上での重要事項の質問は、まず川口さんが西村さんに電話を掛け、それを受けて、西村さんが再び沢田さんに電話を掛けるという、とんでもない電話代のかかる方法で行わねばならない。
(軽微な事項の質問は川口さんが直接沢田さんに尋ねてよいが、重要事項は必ず導き親を通すように、と指導しているのだ。
さらに、毎月の早朝奉仕〈地域の清掃奉仕〉に何回参加したかの報告も、必ず導き親を通じて取りまとめてゆくことになっている)

 こんなことをやっていたら、電話代がひと月に一万円やそこらは軽くふっとぶのを覚悟しなければならない。
 さらには、「導き親は、ふだんは遠く離れていて直接会って指導できない導きの子に対して、年に一回ぐらいは直接会って指導するのが望ましい」とされている。
そして、「み仏様から流れ出す法流は、あくまで導きの親子関係の筋道を通って流れてゆくのですから、ふだんはやむをえず別の人に日常の指導を肩代わりしてもらうとしても、本当は、導き親さんが直接お会いして指導する時に、いちばん強く法流が流れ込んで行って、そのかたを浄めてゆくのです。
この尊いお役目は、他の人では肩代わりできないのですよ」などと神秘めかしたことが語られる。



経別指導の膨大なロス(2)

 だが、こういう虚仮〔こけ〕おどしの「神秘めかし」にダマされてはいけない。
本当の理由は別のところにあるのだ。
 布教の筋道を辿〔たど〕る複雑怪奇な「経」組織を厳然といつまでも保存しておけば、これが「地域の拠点ごとに集う信者集団」に対して、横断的な形で食い込んでくる。
結果的に、「地域」と「経」との縦横の糸ががんじがらめに織り合わされた形になり、教団は不動の一体性を保つことができるようになる。
その意味で、旧態依然たる「経」組織を維持するのは、教団の結束のためにきわめて有効な手段なのだ(第五図参照)。

 しかし、このために払わされる信者側の金銭的・時間的ロスは膨大なものだ。
それを知っていながらすまし顔ができる教団幹部という怪物どもは、「教団の結束のためならばどんな犠牲でもござれ」と考えているとしか思えない。

 しかもさらに憎たらしいのは、こうした幹部どもが信者を洗脳して、常識人ならとても言えないようなことを平気で言う人間を作ってゆく、ということだ。
 川口さんが「やっぱり真如苑はやめます」と言い出した時、経親と相談した沢田さんは、九州の西村さんに電話を掛けて「川口さんを『堕とさ』ないために、あなたが教化の接心を受けなさい」と命令してきたのだが、その電話口で彼女は次のようなことを、平然と、しかも権威ありげに「教えを垂れる」口調で言ってのけたのだ。

 「こういう場合は、本当は、導き親である西村さん自身が、飛行機ででも何ででも、すぐに東京まで飛んできて川口さんを説得してあげるというのが、いちばんみ仏様のみ心にかなうのよ」

 常識人ならば、家庭の主婦として毎日忙しく働いている人を相手にこんなことを言う場合には、「時間と交通費をおかけしてたいへん申し訳ないのですが」ぐらいのご挨拶は、当然あってしかるべきところだ。
が、「教主様一如〔いちにょ〕」の沢田さんには、もはやそういう常識は期待できなかった。
西村さんは、そのとき「導き親」としての沢田さんを、
学校友達だった時代の昔の沢田さんと比べて今昔の感にたえず、旧友をこんな教条人間にしてしまった真如苑というものに対して、はじめて憎しみを覚えた
という。

 しかし、それにしても、「地域拠点と信者の系列組織とを分離した上で、地域と経とをがんじがらめに交錯〔こうさく〕させる」という方式は、教団の分裂を避け、教団財産を誰にも奪われないようにするためには、実に効果的な方法である。
このような、悪魔的とも言えるほど狡猾〔こうかつ〕なやり口は、いったいどういう知恵者が考え出したものであろうか? 
私の感触を言わせていただくなら、こういう知恵は、どう見ても伊藤が一人だけで考えつくとは思えないのであるが、読者のみなさんはどうお感じだろうか?



有名人・有力者を入信させるは大功徳!

 かつて天理教は、信者にやたらと金銭的貢献を要求し、信者の身代を身ぐるみ剥ぐようなことをするというので世の顰蹙〔ひんしゅく〕を買い、「悪しきを払うてたぁすけ給え、天理王の命〔みこと〕」という祈り言葉をもじって「屋敷を払うて田ぁ売り給え、天秤棒の命〔みこと〕」と揶揄〔やゆ〕されたことがある。

 真如苑も全く同じ流儀であり、くそ真面目につきあっていたら、ふつうの財力の人間にとっては「屋敷を払うて田ぁ売る」結果になりかねない。
いや、相当な資産家であるならなるで、経親や導き親から「分相応に歓喜なさるのがみ仏のみ心にかなう」などとおだて上げられ、普通の人が十万円ずつ注ぎ込むところを百万円ずつ注ぎ込むようなマネをして、結局、同じように「屋敷を払うて田ぁ売る」ハメになることもあるようだ。

 初信者に対しては、この信仰にカネがかかるということを、導き親はなるべく隠そうとするようである。
私が真如苑に潜入した際の導き親もそうであった。

 私が「お金がかかるんですか?」と問うと、彼女は次のようにお茶を濁して、質問の矛先〔ほこさき〕をかわすのであった。

 「いや、確かに接心でご精霊様を示された場合など、一時的に出費がかさむこともありますが、結局は、それによって因縁が切れるわけですから、そういう出費を補って余りあるだけ、いいお給料の入る仕事がいただけたりして、必ずプラスになってゆきますよ」

 しかし、二ヵ月、三ヵ月とたつうちに、導き親が漏らす何げない言葉の端々から、どうやらとてつもなく金がかかるらしいということが、読み取れるようになってくる。
あるとき、導き親は雑談のついでに次のようなことを言った。

 「○○会社の社長さんご一家は、みんな真如苑を熱心に歩んでいらっしゃって、ご主人も奥様も霊能者になってるんですけれど、どうも、社長さんのご兄弟はみんな教えに結ばれてきませんねえ。『真如苑で○○家の先祖代々の財産をつぶしてしまった』と言って、お恨みになってるみたいで……」

 こういう話があるということは、すなわち「出費を補って余りあるだけ、いいお給料の入る仕事がいただける」などというのはウソということではないか!

 どうやら真如苑では、初信者のうちは「抜苦代受がいただける。金銭的にもプラスになる」と言って期待を抱かせておいて、ある程度洗脳が進んで「この教えは身を犠牲にしてでも従うに値する尊い教えだ」という信念を抱かせることに成功したら、その段階で徐々に本当のコストを教えてゆこうという方針らしい。
真如苑の指導者は、口を開けばふた言めには「この教えは密教ですから、最初から何もかも教えるものじゃありません」と言うが、なるほど、おみごとな「密教」ではある!

 そして、私のようなごく平凡な学校教師にとって、まことに鼻につくのは、真如苑のあからさまな有名人指向、金持ち指向である。

 私の「入信」後しばらくして、導き親は、私の親類縁者に学歴社会的な基準から見てわりと地位の高い人が多いことを知ってか、しきりに次のようなことを言うようになった。

 「会社の社長さんとか、その他、世の中に影響力の大きい方をお救けするのは、功徳が特に大きいのですよ。そういう地位の高いかたというのは、ご先祖様にそれだけのお徳がおありになって、今の地位についていらっしゃるのですから、いったん教えに対して聞く耳を持って下さったら、案外、向上が早いのですよ。また、そういうかたをお救けすれば、そのかたの世間的な影響力によって、教えに結ばれるかたが多くなりますから、それだけ功徳が大きいのですよ」

 確かに、大会社の社長なら「歓喜の徳積み」も、どんどんできるし、接心で示される「お施餓鬼」や「お護摩」のお金も、我々貧乏人と違って、滞〔とどこお〕りなく納められるだろうから、さぞや真如苑での「向上」は早いだろう。

そしてまた、そうした財界の有名人が信者であるということになれば、教団のイメージ・アップにもつながるから、他の信者の「お救け」活動への援護射撃としても意味があろう。

 お金持ちご本人が好きこのんで真如苑をおやりになりたいのなら、他人がとやかく言ってもはじまらない。
我々としてはただ、「屋敷を払うて田ぁ売る」ところまでゆきつかないようにと、陰ながらお祈り申し上げるだけである。


===============================================


第三部 水ぶくれ真如苑の泣きどころ

第一章 仏教学に照らしてみた真如苑教義の問題点

「大乗」(序説部分)

 人をうまいぐあいに魅惑して、抵抗できなくさせてしまう巧妙な文句のことを「殺し文句」という。
真如苑は、信者が教団に対して抱く疑問や反発を封じ込めるための巧妙な「殺し文句」をいくつか開発している。
それらはみな伝統仏教の用語を借りてきて作られているので、信者は「これに逆らったらお釈迦さまに逆らうことになってしまう」と思って黙りこんでしまうわけだ。
さすがに仏教国日本だけあって、この面での釈尊の権威はなかなか利用価値がある。
しかし、見方を変えると、真如苑の仏教的殺し文句が威力を発揮しえているのは、仏教国日本が長年の葬式仏教の惰性によって骨抜きになり、本当の仏教についての常識が国民のあいだに普及していないからでもある。
今後二十一世紀へ向かって、本来の仏教についての国民の常識が次第に高まってくる時代の中で、いつまでも真如苑のお粗末な殺し文句が威力を発揮しつづけることができるかどうかは、まったく保証のかぎりでない。

 真如苑では、未信者をひとまず「抜苦代受のご利益〔りやく〕」で勧誘しておいたあと、入信後しばらくすると、本当のことを教えると称して、次のようなことを説きはじめる。

 「自分が救われたいだけのご利益信心は、わが身がかわいい小乗です。真如苑は大乗です。お釈迦様も最初は小乗を説かれましたが後には大乗を説かれ、『こっちのほうが真実の教えだ』とおっしゃいました。だから、あなたも大乗精神を身につけなければなりません。利他のために立ってこそ、本当に救われるのです。さあ、お救け行をしなさい」

 「大乗」は、真如苑が掲げる殺し文句の代表的なものである。
 ここで、問うべきことは少なくとも二つある。

 まず第一に、「『小乗』『大乗』という区別は『ご利益信心』と『利他行』との相違ととらえてよいか?」という問題がある。

 第二に、「お釈迦様が最初に小乗を説かれ、後に大乗を説かれたというのは史実か?」という問題がある。


「大乗」@ 「ご利益信心」が「小乗」か?

 第一の問題から検討してゆくことにしよう。

 「小乗」というのは「自分一人を乗せる小さな乗り物」という意味であり、インドで在家を中心とする大乗仏教が興隆した際に、大乗教徒側が、従来の保守的な僧院仏教のことを、このように呼んだのである。
当時の「小乗」と呼ばれた流れは、今日、南方仏教として、スリランカ、タイ、ビルマの三国を中心として存続している。
南方仏教は、厳格な戒律を守る出家僧たちが寺院にこもって、瞑想〔めいそう〕の修行を続けて、悟りを開くことが教えの中心になっている。
 これらの僧たちは、別に、日本で言うところの「ご利益信心」「おすがり信心」などを実践しているわけではない。
お釈迦様のご在世当時の教えを比較的忠実に守り、高邁〔こうまい〕な瞑想の行に明け暮れている。
ただ、この潮流は、自分一人が瞑想によって悟りを開くことを、ともすると一生の目標にしてしまい、衆生〔しゅじょう〕に対する慈悲の実践の面で欠ける点があったので、その点が批判されて「小乗」と呼ばれたのである。
 小乗であれ大乗であれ、およそ、まともな仏教の教えは、卑近なご利益のレベルなどは超えたもので、ご利益信心がよいか悪いかという問題は、「大乗」「小乗」という区別以前の、もっと低い次元での問題だと言ってよいだろう。


「大乗」A 時代遅れの教相判釈(前半)

 次に第二の問題に移ろう。

 スリランカをはじめとする南方諸国には、いわゆる「小乗」の仏教だけが伝わった。
だから、これらの国々では、「小乗」の教えだけが厳格に守られて現代に至っている。
 これに対して中国では事情が違っていた。
「小乗」も「大乗」も取り混ぜて、さまざまな時代に成立したさまざまな傾向の経典が、体系的な脈絡なしにインドから次々に輸入され翻訳されたので、これをどう体系づけて学ぶべきかについて、坊さんが大いに頭を悩ませることになった。
 彼らは、「同じくお釈迦様の教えだと称しながら、著しく傾向の異なるお経があるのはどういうわけか?」という問題に対して、彼らなりの答えを出した。
「これはきっと、お釈迦様が長いご生涯のいろいろな時期に、別々の教えをお説きになったものにちがいない」というのが彼らの答えである。
つまり、経典はすべて額面どおりに釈尊の直接の説法の記録であるとの前提の上で、問題を考えていたのだ。
 こうして彼らは、次のステップとして、「どの経典がお釈迦様のどういう時期の教えであるか」という、一種のこじつけめいた「あてはめ学」をやりはじめた。
この「あてはめ学」のことを教相判釈〔きょうそうはんじゃく〕という。
やがてさまざまな論争を経て天台大師智?〔ちぎ〕(五三八〜五九七年)によって「五時の教判」と呼ばれる教相判釈が確立され、これが中国で最も権威ある学説となり、やがて日本の比叡山にも輸入されて、以後、長らく日本の仏教界を風靡〔ふうび〕することになった。

 天台大師の教相判釈によれば、仏教経典の成立史は次のように解説されている。
 「釈尊は成道〔じょうどう〕後ほんのわずかの期間だけ菩提樹の下で華厳〔けごん〕の教えを説かれた。
しかし、これは高級すぎて誰も解する者がいなかった。
そこで、鹿野苑〔ろくやえん〕での初転法輪〔しょてんぽうりん〕以後しばらくの間は、弟子たちの機根に合わせて、個人の完成のみを目指す低い教えである阿含〔あごん〕の教え(小乗の教え)を説かれた。
そして、機が熟したところを見はからって、自己の救いよりも他者の救いを優先させる高い教えである大乗の教えを説かれた。
さらに、晩年になってから大乗の教えの中でも最も高い決定版であるところの法華〔ほっけ〕と涅槃〔ねはん〕の教えを説いて万人救済の道を示し終わり、心おきなく入滅された。
これらの、時期に応じていろいろにお説きになった教えが、後に記録されて、今見るような種々の経典になった」

 この教相判釈が「五時の教判」と呼ばれるのは、釈尊のご一代を「華厳時」「阿含時」「方等〔ほうとう〕時」「般若〔はんにゃ〕時」「法華・涅槃時」の五段階に分けて論じているからである。

 しかし、この「五時の教判」に挙げられている「時間的順序」については、史実性を裏付ける証拠はどこにもない。
むしろ、経典を仔細に眺めるならば、釈尊の中年の一時期の教えであるはずの阿含経典の中にも、釈尊の晩年や入滅についての記述が見出だされるなど、「五時の教判」に矛盾する事実をいくらでも挙げることができる。
だから、天台大師の教相判釈というのは、「仏教はこういう順序で学ぶべきだ」という彼の主張を釈尊ご一代の時間的順序の中に仮託的に投影したものと見るのが、最も穏当なところであり、あまり大まじめに額面どおりに受け止めるべき性格のものではない。


「大乗」A 時代遅れの教相判釈(後半)

 もともと大乗仏教の諸経典というのは、釈尊を主人公とした象徴的な戯曲文学といった性格のものであり、現実の時間的・空間的な枠の中での釈尊の生涯にあてはめようとすれば、矛盾だらけになってしまうような、奇想天外な物語の集まりである。

 例えば、『華厳経』は釈尊が菩提樹の下で悟りを開かれたという場面から始まるので、「五時の教判」の中では、成道〔じょうどう〕直後三週間のあいだの釈尊のお説法の記録だとされているわけだが、菩提樹の下に座っているはずの釈尊が、いつのまにか別の道場でお説法していることになってみたり、まだ弟子を一人も持っていないはずの釈尊が多くの弟子に囲まれていたり、……といったぐあいで、「五時の教判」を額面どおりに信じる頭で考えれば、つじつまの合わないことだらけである。

 だいいち、釈尊が成道直後に菩提樹の下で説法し、これを解する弟子が一人もいなかったという「華厳の教え」を、いったい誰が記録して『華厳経』という経典にまとめたのか?
 こういう点は現代人なら当然気付くところであるが、実は、今から二百年以上前の徳川時代中期にも、既にこういう点に気付き、仏教経典の成立史について、伝統教学を真っ向から否定する実証主義的議論を提出した学者があった。
大坂商人の家に生まれ、わずか三十二歳で没した天才学者富永仲基〔なかもと〕(一七一五〜一七四六)である。
 彼は、漢訳経典を実証主義的な眼で眺め直し、仏教経典のうち多くは釈尊よりかなり後に、新たな思想に基づいて書かれたものであって、釈尊の直説〔じきせつ〕とはいえない、との結論に到達した。
具体的には、伝統教学において低い教えとして卑しめられてきた阿含経典こそが、釈尊の直説に比較的近い形のものであり、「大乗」と名乗る経典群は、むしろずっと後世のものである、というのが彼の結論である。
この考え方を「大乗非仏説論」と言う。

 この富永仲基の考え方は、十九世紀にヨーロッパの学者たちがサンスクリットやパーリ語の経典を研究して到達した結論と基本的に同一である。
明治時代、日本の仏教学者は、ヨーロッパの新しい仏教研究に触れて衝撃を受けると同時に、自国における同じ考えの先覚者として富永仲基を発見した。
以来、大乗非仏説論は学界の通説となった。
こうして、わが国でも初めて、伝統教学にはとらわれずに、阿含経典を中心として「原始仏教」あるいは「根本仏教」を捉〔とら〕え直そうという動きが活発になったのである。

 ただ、研究が深まるにつれて、当初のような「阿含経典以外はニセモノ」といった考え方には行き過ぎもあることがわかり、「大乗仏教はかなり時代が下ってから成立したものではあるが、釈尊の思想を新時代に適応させて生かした教えであり、それなりにひとつの仏教と言ってよい」というふうに考えられるようになってきた。

 だが、いずれにしても、「お釈迦様は最初に小乗を説き、後に大乗を説いて『こっちの方が本当の教えだ』とおっしゃった」というような説は、現代では、時代遅れのものとして完全に否定し去られているのである。
現代では、日本の伝統宗派の高僧方も、みんな、伝統的宗学の他に大学での近代仏教学を学んでいるから、「五時の教判」が史実と異なることぐらいは常識として知っている。
今や伝統宗派においてすら、「五時の教判」は、儀式用の道具ないし、初信者指導のための便宜的解説の道具としてしか使ってはいない。

 そしてまた立教時には伝統教学に依拠していた立正佼成会でも、昭和三十年代には早々と「五時の教判」を卒業しているのである。

 このような時代遅れのものを、今さら狭義の根幹に据えようとする真如苑は、無知で狂信的な人々を一定数惹〔ひ〕きつけることはできても、まともな仏教史がますます国民の常識となってゆくであろうこれからの世の中で、国民的宗教にまで成長することはまず不可能と言えよう。


「大乗」B 本当の大乗精神とは?

 以上で、指摘すべき問題点二点については説明した。

 最後に、そもそも仏教における「大乗の精神」とは何かということを、いま一度はっきりさせ、それが真如苑の殺し文句としての「大乗」といかに異なるかを明らかにしておこう。

 西暦紀元前後に、インドで在家を中心とした大乗仏教運動が起こされた当時の雰囲気をよく伝えている経典として『維摩経〔ゆいまきょう〕』がある。
これは、釈尊と同時代にヴァイシャーリーの町にヴィマラキールティ(維摩詰〔ゆいまきつ〕)という在家の偉人がいたということにして、この人物と釈尊の実在の高弟であるシャーリプトラ(舎利弗〔しゃりほつ〕)らを討論させ、前者の方に軍配を挙げるという面白い戯曲的経典である。

 この経典の中でのシャーリプトラは、実質的には経典が書かれた当時の僧院仏教の修道者の立場を代表する創作上の人物と言ってよく、仮託的に釈尊の直弟子シャーリプトラの名が冠せられているにすぎない。

 ここでのシャーリプトラは、「せっかく立派に修行しているのに、おのれの修行の成果にこだわり、浄・不浄の区別にこだわり、その結果、かえって自由闊達〔かったつ〕な悟りの境地まで進めないでいる人物」として描かれている。
こういうことは、宗教家が初心を忘れて形にこだわった場合にはいつの時代にも起こることである。
 そういう人に対して強調されねばならないことは、「善とか清浄〔しょうじょう〕とか徳とかいうことも、それにこだわったら善でも清浄でも徳でもなくなってしまいますよ」ということである。

 実際、善などというものは「これが善行だぞ」などと本人が力み返っているうちは本当の善行にはならないもので、本人が「善行」なんていう意識を忘れてしまった時に初めて本当の善行になっている、といった性格のものだ。

 そうした「力み返ったこだわり」をきれいさっぱり否定し尽くしたところに真理の世界が開けてくる、ということを教えたのが、かの般若心経〔はんにゃしんきょう〕に出てくる「空〔くう〕」の思想である。
こういうわけで大乗仏教の思想は、まずもって「空」の思想である。

 「自分がまだ救われていなくても、他人の救いのために働く」という菩薩行〔ぼさつぎょう〕の思想は、こうした「空」と関連して出てくるものである。
なぜなら、「空」の立場に立てば、僧院仏教が陥りがちな「浄・不浄」への形式的こだわりや、「おのれが完全に清浄になってから初めて他人のために働ける」という二段階的な考え方は克服され、俗塵の中に生きて他のために働きつつおのれ自身も高められてゆく、というあり方が開けてくるからである。

 しかし、こうして「空」や「菩薩行」の立場に立つことだけが一面的に強調されると、今度はまた「小乗教徒のやり方では救われない」として「大乗」というひとつの凝り固まった枠を作ってしまうことになり、何のための大乗かわからなくなってしまう。

 そこで、結局のところ、「自己を小乗と区別するところの大乗」ではなく、もう一枚脱皮して「小乗もまた窮極的には救われるのだという観点に立った大乗」というものが生まれてこなければならなくなる。

 『法華経〔ほけきょう〕』の思想はこうしたいきさつから生まれてきたものである。
そこでは、「すべての衆生〔しゅじょう〕はお釈迦様と同じ仏になれる性質を備えている」という「悉有仏性〔しつうぶっしょう〕」の思想と、「すべての現象は真理の現れとして尊い意義がある」という「諸法実相」の思想とが二つの柱になっている。

『大般涅槃経〔だいはつねはんきょう〕』もまた、こうした『法華経』と同系統の思想に基づいて作られた経典なのである。

 真如苑の教えが、こうした意味での大乗たりえているかと言えば、それはかなり疑問である。
「衆生みなが救われる可能性を持っているのだから、その実現のために一生懸命働こう」といった形で「お救け行」を正当化している点で、確かに「悉有仏性」の思想は取り入れている。
しかし、それと対をなす「諸法実相」の自覚がはたして真如苑にあるだろうか?

 「この教えに疑問を感じるのは障害霊のせいです」などと言って「悪玉」をこしらえて言足れりとする態度は、とうてい諸法実相の自覚に立つものとは思われない。
おのれの教団に人を引きずり込まないかぎり、人を救うことができないとする硬直した組織至上主義の中には、諸法実相もなければ、空もない。


「大般涅槃経」(1)

 真如苑の殺し文句の第二は、「このみ教えはお釈迦様のご遺言の教えである『大般涅槃経』を所依〔しょえ〕の経典とするものですから、あらゆる仏教の法門のうち最高のものです」というものである。
これに対する批判は、二つに分けて論じることができる。

 まず第一に、真如苑の霊能や接心は、もともと立教当初の摂受院の巫女〔みこ〕的霊能に起源を有するもので、これを「大般涅槃経に基づく神通変化〔じんずうへんげ〕」などと説明するようになったのは、ずっと後のことである点に注意しておかねばならない。

 もっともこの時間的な隔たり自体は真如苑も大っぴらに認めているから、あまり材料にはならない。
問題はその解釈のしかたである。

 真如苑自身によれば、これは、「真如苑に現れた霊能が『大般涅槃経』における釈尊のご予言の実現であったことが、後になって明示的に認識されたのだ」ということになる。
しかし私に言わせれば、「教団が巨大化した時点で、当初の巫女的霊能に、あとからもったいが付けられたのだ」ということだ。

 真如苑が『大般涅槃経』を教義に取り入れるようになったのは、昭和二十年代の終り頃であるが、時はまさに、「まこと教団事件」が裁判沙汰になり、「まこと教団」の名では世間に顔向けができず、教団名も変えざるをえない所まで伊藤一族が追い込まれていた時である。
教団のイメージ一新のために、ぜひとも新しい材料が必要だった時である。
 また、この時期が、創価学会、立正佼成会などの法華経系新宗教のめざましい発展期に重なっていることにも注意する必要がある。

 日本の新宗教運動には「法華経に依拠する」と称するものが多いが、これは二つの理由による。

第一に、『法華経』には布教の使命感をあおる熱狂的要素が他の経典に比べて多いため、法華経信奉者の中からは、他の経典の信奉者には見られない熱狂的傾向の者が出やすいからである。

第二に、例の天台大師の「五時の教判」において『法華経』は第五の時期に説かれた最高の経典として位置づけられているため、近代仏教学を知らない土着的な民衆宗教の指導者が、伝統教学の片鱗を学んで自分の教えにハクを付ける「最高の経典」を捜そうとすると、通常『法華経』にゆきつくからである。

 伊藤もこうした土着的な民衆宗教の指導者の一人であった。
だから、一歩まちがえば伊藤もまた『法華経』をもったい付けの道具に使っていたかも知れない。
 が、幸か不幸か、彼がもったい付けの道具を捜した時には、すでに『法華経』は有力な先行教団のオハコにされてしまっていて、いまさら真如苑がこれを装いに用いても新味がないという状態になっていた。
 そこで彼としては、伝統的な「五時の教判」に基本的には依拠しつつ、最後のところをちょっとだけ修正して、「『法華・涅槃時』と言っても先に『法華経』が説かれ、あとで『大般涅槃経』が説かれたのだから、『大般涅槃経』のほうが『法華経』より上だ」という理屈をつけ、『大般涅槃経』を所依の経典とすることで、法華経教団を追い抜く戦略を立てた、といったあたりが事の真相であろう。


「大般涅槃経」(2)

 さてそこで、「『大般涅槃経』は本当に釈尊の最後かつ最高の教えであるか」という第二の問題に移ろう。

 これについては、答えはすでにある程度、明らかにしてしまったが、「五時の教判」は史実ではないから、真如苑のもったい付けには何の意味もないというのが結論である。

 ところで、「大般涅槃」という言葉は、釈尊の「入滅」(死)のことを指して言う言葉である。
したがって『大般涅槃経』とは「釈尊の入滅についてのお経」という意味である。

 ところがだ! 仏典の中には同じく『大般涅槃経』と名の付く経典でありながら、全く趣向の異なった二種類の経典が存在するのだ(この二種類の中にさらに複数の異本が存在するのだが、それについては今は詳述は避けよう)。

 それらのうち、一方の『大般涅槃経』は、阿含経典の中の一部分であり、南方仏教のパーリ語聖典の中にも、「長部〔ちょうぶ〕経典」と呼ばれている部分の中に、これの対応物が存在する(岩波文庫に中村元氏の訳で収録されている『ブッダ最後の旅』がそれである)。

この経では、釈尊の入滅少し前の晩年の生活から入滅後の弟子たちの行動までの歴史的事件が淡々と綴〔つづ〕られており、入滅直前の釈尊は、長たらしい説法などはしていない。

 これに対して、もう一方の『大般涅槃経』は大乗経典群に属し、前者よりもはるかに長いが、記述している時間の幅は、釈尊の入滅直前の一日と一夜だけに限られていて、この短い時間の中で、クシナガラの地の沙羅双樹〔さらそうじゅ〕の下に横たわった釈尊が長大な説法をするという形になっている。

 このように著しく傾向の異なる二種類の経典の混同を避けたい場合には、前者を「小乗の涅槃経」、後者を「大乗の涅槃経」と呼ぶのがならわしである。

 さて、読者はもう推測がついたことと思うが、天台大師が「五時の教判」の中で「法華・涅槃時」の教えとして挙げている場合の『大般涅槃経』は後者の「大乗の涅槃経」であり、真如苑が「これぞお釈迦様の窮極の教えである」として所依〔しょえ〕の経典にしているのも「大乗の涅槃経」の方である。

 この「大乗の涅槃経」は、天台大師の教相判釈からもわかるように、思想的傾向において『法華経』と似た経典であるが、思想内容だけでなく「筆法」もまた『法華経』と似たところがあるのだ。

 では、『法華経』の特徴的「筆法」とは何か? 
それは、戯曲文学に説得力を付与するための手段として「晩年の釈尊」を登場させるという手法である。
『法華経』では、晩年の釈尊が弟子たちに向って「今まではおまえたちの機根が熟さなかったので方便の教えによって導いてきたが、これから説くところこそは、かけ値なしの真理そのものなのだよ」と宣言する場面が設けてある。
つまり、経典作者たちは「他の経典の教えよりも、この『法華経』の教えの方が価値が高いのだぞ」ということを釈尊の口に仮託して主張したわけである。
この「筆法」が、天台大師やその伝統を受け継ぐ法華経信奉者たちの「法華経こそ最高の教え」という主張に大きな論拠を与えることになったのである。


「大般涅槃経」(3)

 ところで、経典作者の技巧を額面どおりに受け止める天台大師流の行き方を、とことん貫こうとするなら、天台大師自身、不徹底だということになる。
なぜなら、「大乗の涅槃経」は『法華経』と同じ「筆法」で、釈尊が「今日これから説くところこそは窮極の真理だ」と宣言する形をとっており、『法華経』が描いている「晩年」よりも「大乗の涅槃経」が描写している「最後の一日一夜」の方が時間的にあとに決まっているからである。

 事実、この点を考慮して、天台大師の「五時の教判」と少しだけ異なる教相判釈を立て、『大般涅槃経』を最高の経典と評価した「涅槃宗」なるものが中国で生まれたこともあるのだ。
この宗派は天台宗の影響力に太刀討〔たちう〕ちできずに消滅してしまったが、理屈としては涅槃宗の教相判釈の方が首尾一貫していたわけだ。
そこで、この「穴場」に着目して、涅槃宗の教相判釈を復興したのが伊藤真乗ということになる。
 確かに、なかなかの商才ではある!

 しかし、もう一歩進んで、近代の仏教学を学んだ我々の立場から見れば、「五時の教判」と言おうと、それをちょっぴり修正した「六時の教判」と言おうと、同じ穴のむじなである。
どっちにせよ、大乗経典作者たちの説得術を額面どおり受けとめて、釈尊のご一代を分割した架空の時間的順序を後生大事に祭り上げる点では、変わりがないからである。

 真如苑では、組織が巨大化して、創価学会や立正佼成会とかなり互角に渡り合えるようになった昨今では、とりわけ力を入れて「法華経に依拠する教団では救われない。涅槃経に依拠するわが教団でしか救われない」と、熱烈に信者に説いている。
有力法華経教団の市場を蚕食するのが、さらなる信者獲得のための最も効率的な道だからであろう。
その際、「釈尊は晩年に法華経をお説きになったが、法華経宣説の直後にコーサラ国のビルリ王による釈迦族殲滅〔せんめつ〕という大悲劇が起こったので、今までの教えでは万人を救うことはできないと痛感され、さらに高いお悟りに基づいて、万人の救われる窮極の道を涅槃経としてお説きになって、涅槃に入られた」というまことしやかな話を、さも史実であるかのように信者に教えている。

 釈尊の晩年に釈尊の出身地であるカピラ城がコーサラ国のビルリ王によって滅ぼされたのは阿含経典にも出ている話で、史実と思われるが、法華経宣説がその前で、涅槃経宣説がそのあとだとか、涅槃経はこの事件の反省の上に立って説かれたとかいうのは、根も葉もないウソっぱちである。

 史実の上での釈尊は、入滅直前まで「本当の窮極の教え」を隠しておいて、最後の一日一夜にそれを説いたなどということはないのである。
むしろ、そういった邪説を真っ向から否定する事実が、南方仏教の長部経典の中の『大般涅槃経』には書かれているのだ! 
次にそれを紹介しておこう。


「大般涅槃経」(4)

 晩年の釈尊がヴァイシャーリーの郊外で病に倒れ、やっとのことで回復したとき、側近の弟子のアーナンダが次のように言った。

 「師が病に倒れた時には、私の総身から力が抜け、四方が暗くなってしまいました。しかし、師があとあとのことを何も語らずに逝くはずはないと思っていささか安堵〔あんど〕しました」
 すると、釈尊はこれをたしなめて、次のようにおっしゃった。
 「アーナンダよ、おまえは私に何を期待しているというのか。私はいつも何も隠し立てせずにすべての教えを説いてきた。もし、私が弟子たちの指導者であるとか、弟子たちが私に頼っているとか思っているならば、人生の最後にあたって何かを語り遺〔のこ〕さなければならないが、今まで語ってきたことが私の教えのすべてである」

 そして、この直後に語られるのが、「自らを依〔よ〕り所とし、法を依り所とし、他に頼らざれ」という有名な「自帰依〔じきえ〕、法帰依〔ほうきえ〕」の教えなのである。
 ……歴史的事実は、この通りだったのである。

 それにもかかわらず、真如苑の接心では、「お釈迦様が最後の一日一夜にお説きになった涅槃のみ教えを……」とか、「サァ、正しく教相判釈してまいりましょう……」とかいった言葉が、絶対の真理を語る「ご霊界の言葉」と称してポンポン飛び出してくるのである。
「ご霊言」なるものの半ばまでが、人間的作為と人間的訓練によって作り出されたものにすぎないことは、これだけを見ても明らかである。

 ところで、映画『ビルマの竪琴〔たてごと〕』を見てもわかるように、南方仏教国の仏像には釈尊の涅槃像が非常に多い。
そのため、南方仏教の人々から見ると、涅槃像を大切に祀っている真如苑は、日本仏教の中ではひときわ目立ち、かつ親しみが感じられるようである。
そういうわけで、真如苑はスリランカやタイの由緒ある仏教寺院とも交流があり、そのことを教団でも誇りにしている。
しかし、古くさい大乗・小乗観にこだわり、「大乗の涅槃経」の内容を歴史的事実であるとするような時代遅れの教義をこしらえる真如苑が、真に南方仏教と友好的に交流できるかどうかは、はなはだ疑問である。

 確かに、「大乗の涅槃経」が釈尊の最後の一日一夜の教えという形式を借りて語ろうとしている宗教的真実には、大いに注目すべきものがある。
が、その教えが尊いのは、教えの内容自体によるのであって、「これが釈尊の最後のみ教えだ」などという虚仮〔こけ〕おどしの「額縁〔がくぶち〕」のゆえではない。

 ところがだ! 肝心な『大般涅槃経』の教えの内容そのものについては、真如苑の一般信者は何ら体系的な知識を与えられていないのだ。
したがって、プルーフの場で自分の宗教体験の深まりを『大般涅槃経』にきちんと結び付けて解説する信者もついぞ見かけられない。

この点は横山真佳氏も真如苑のあり方の奇異な点として指摘しておられる(『新宗教の世界V』一三五〜一三六頁)。

 実を言えば、真如苑では「『大般涅槃経』の教えそのものは、教主様がかみ砕いて行じやすい形にしてみなさんに与えて下さっていますから、みなさんは教主様に一如(全面的に帰依〔きえ〕)しさえすれば、直接お経典を学ばなくても、ちゃんと『大般涅槃経』を身につけることができるのです」と説いているのだ。
こういう目隠しを用いるなら、焼酎だと偽ってメチルを飲ませるぐらい朝飯前だろう。

事実、真如苑では、「これが『大般涅槃経』の教えだ」という牽強附会〔けんきょうふかい〕な正当化の下に、もっぱら、ネズミ講まがいの勧誘活動と、教団への奉仕活動と、献金活動とを信者に押し付けているわけである。



「密教」(1)

 真如苑の殺し文句の第三は、「このみ教えは密教です」というものである。

 初信者が教えに対する疑問を表明すると、指導者は決まって「このみ教えは密教ですから、理屈ではなく実践です。まず、実践してみなさい。そうすればみ教えがわかりますよ」と言って、はぐらかそうとする。
さらに、多少深入りした信者が自分の導きの子を指導しようとするような場合、上級の指導者から、「このみ教えは密教ですから、最初から何もかも教えてしまったらダメですよ」と注意されることが多い。

 真如苑が自らの教えを「密教」と称する場合、そこには複数の意味がこめられているようである。

第一の意味は真如苑が真言宗醍醐派で金胎両部伝法灌頂〔こんたいりょうぶでんぽうかんじょう〕を受けた伊藤真乗という「密教僧」を教主として、伝統密教の血脈〔けちみゃく〕につらなっているという形式上の意味である。

そして第二の意味は、霊能を中心として、見えない世界との交渉に重きを置いているという、より実質的な意味である。

これらに加えて、さらに第三の意味もあるようである。

 この殺し文句を批判するためには、そもそも仏教における密教の位置はどんなものか、というところから説明してかからねばならない。

 密教はインド仏教における「仏」についての考え方の歴史的発展を踏まえて、大乗仏教の最後の時期に興った潮流である。

 初期の仏教においては、「仏」とは「釈尊と同じような完全な悟りに達した人間」を指す以外の言葉ではなかった。
しかしそのうちに、「人間が悟りを開いて仏になる」ことを、例えば「ラジオがみごとに調整されて電波をキャッチしうる状態になる」ことと考えてみると、「ラジオ自体がよく調整されることも大切だが、それ以前に、この空間に電波が流れているという事実自体がさらに重要だ」との考え方が起こってきた。
そして、この電波そのものを「仏」と考えようじゃないかということになってきた。
こうした意味での「仏」を「法身仏〔ほっしんぶつ〕」と呼ぶのである。

 そして最後に、法身仏の説くところであれば、必ずしも歴史上の釈尊の説法でなくとも、それは立派に「仏教」と言ってよいではないか、との思想が出てきた。
密教経典の『大日経〔だいにちきょう〕』や『金剛頂経〔こんごうちょうきょう〕』は、こうした思想に立って書かれたもので、そこでは、宇宙の真理そのものである法身大日如来〔ほっしんだいにちにょらい〕が説法するという形で教えが説かれている。

 そして、それまでの仏教は「人間は長い長い間の修行を経てはじめて仏になれる」という教えだったのに対して、密教では「人間は身体と言葉と心の三つの面から法身の仏に波長を合わせて直参〔じきさん〕すれば(これを三密加持〔さんみつかじ〕という)、この現世の身のままで仏となりうるのだ」という画期的な「即身成仏〔そくしんじょうぶつ〕」の思想を説いたのである。
そして、それ以前のインドにあった仏教以外のさまざまな俗信的な神秘主義の行法を、この三密加持の観点から包摂し、止揚して体系化したものが、密教の行法となったのである。
 この密教は、インドでも中国でも滅びたが、空海の手で日本にもたらされて真言宗として花開くことになった。

 平安時代以来、比叡山天台宗を軸として栄えてきた日本の仏教界は、自動的に「五時の教判」の強い影響力の下に置かれていたわけであるが、ひとり真言系の仏教だけが、このような教相判釈からは自由であった。
空海にとっては、「五時の教判」であろうと「六時の教判」であろうと、およそ釈尊ご一代の時間的順序の中に教えを位置づける形の教相判釈などは、無用の長物だったのであろう。

 これでわかるように、およそ、密教の立場に立つということは、それ自体、すでに釈尊のご一代の教えのうちどれが上か、どれが下かなどをあげつらう次元よりも上に出ているということを意味しているはずである。
伊藤真乗が、「密教」を標榜〔ひょうぼう〕しながら色あせた教相判釈の古道具にハタキをかけて持ち出してきて、「『五時の教判』ではダメ、『六時の教判』が正しい」などと言い出すのは、この人が密教そのものを真に身につけていないことを明かにしているのではないだろうか?


「密教」(2)

 なお真如苑では、伊藤真乗が醍醐寺できわめて短期間の修行で金胎両部伝法灌頂〔こんたいりょうぶでんぽうかんじょう〕を授かったことを、まるで空海以来の快挙であるかのように神話化しているが、これは初信者を欺〔あざむ〕くための技巧にすぎない。
確かに空海の時代には、短期間に金胎両部伝法灌頂を授かるのは奇跡的なことであった。
しかし、その後の制度化された真言宗においては、金胎両部伝法灌頂は、たんに、真言宗僧侶として一人前になるための儀式にすぎず、そこいらへんの末寺の世襲の息子どもが、みんな、短期間の修行で授かってくるものである。
そして、伊藤のように、民間の拝み屋的人物が正式な僧位を持っていた方が活動しやすいという理由で修行を志望して授かるケースも、ざらにある。

 真言宗ではないが、似たような例として、瀬戸内晴美(寂聴)さんが自分の出家前後の体験を描いた『比叡』(新潮文庫)という小説に、主人公の同期生として比叡山の二ヵ月の速成の修行に参加する民間の拝み屋みたいなオバサンが出てくる。
伊藤のケースは、あれと似たようなものだ。

 確かに、真如苑教主となってからの伊藤は、真言宗醍醐派から、ずいぶん高い僧階をもらっているようであるが、これは教団をふくらませた手腕に対して、表彰的な意味で贈られたものであろう。

 どうやら、真如苑が掲げる「密教」なるものも、その形式面たる「真言宗の血脈相承〔けちみゃくそうじょう〕という点に関しては、「たんなる看板」と見た方がよさそうである。

 それならば、その説く「密教ですから……」という殺し文句は、実質的には何を意味しているのか? 
伊藤自身がこれについて語っている文章を『一如の道』から引用してみると、次の通りである。

 「真如の教えは、理論的、哲学的にこれを極めてゆく顕教〔けんきょう〕的なものではなく、その上の本質的なものを救い、安心立命をえさせてゆく密教的なものであります。
 密教的なものといっても、それが単に伝統と形式に終わっていたのでは、真の救いの力はありません。
 教えが信じられない……という、その人を支配している根本的なもの(霊)、それは目にみえない、密なるものですから、理論、理屈という顕〔けん〕なるものでは救われないと思います。その根本的なものの浄化が接心修行によって、真如苑では現に行なわれているのですから素晴らしいことではないですか」(三一五頁)

 つまり、真如苑の教えは人間の潜在意識層に直接アタックするものだから、人の表面意識に対して言葉で説得して受容せしめる性格のものではない、と言いたいわけであろう。
要するに「教えへの疑問は障害霊のせいですから、サァ、お護摩〔ごま〕でお浄めして頂きなさい」という例の手口を正当化するための論法である。


「密教」(3)

 が、真如苑の指導者の語る「密教ですから……」の殺し文句には、通常、もう少し違ったニュアンスも込められているようである。

 それは、ありていに言ってしまえば、「マルチ商法型組織においては『あなた自身がセールスマンになって活躍してはじめて救われるのですよ』ということを、相手がセールスの対象たる段階で、すべて正直に告げ知らせてしまったのでは、商売にならない」ということなのである。
「相手がセールスの勧誘対象であるあいだは、なるべく本当の事を教えないで、『すぐに救われる』かのように見せかけて、効率的に組織内へ取り込んでしまえ。
そうして、相手が組織内に入ってもはや身動きできなくなった頃あいを見はからって、『あなた自身がカモ取り競争をやることで、はじめて救われるんですよ』と告げ知らせれば、うまいぐあいに被害者を加害者に転化できる」というわけである。

 なんのことはない。
これは、あらゆる種類のマルチ商法の定石にほかならない。
最近マスコミを騒がせている「霊感商法」なども、似た手口で、被害者を被害復旧のために加害者の立場に転化させることをしきりにやっているとのことである。

 「この教えは実践してみてはじめてわかるのですから、何はともあれ、信じて実践してごらんなさい。そうすれば必ず幸せになれます。私の言うことにけっしてウソはありません」という形の指導もしばしば行われている。
が、これも、何度も指摘してきたように、たまたま「所属」をたくさん作ることに成功した例外的成功者のみが上級指導者になれるという、組織構成原理の性格上、結果的に「指導者の経験からすればそれが真理ということになる」にすぎない。

 指導者にとっていかにそれが経験的真理であろうとも、その指導を真に受けて、「歩ん」で同じ経験に到達できるのは、常に被指導者のうちのごく少数にすぎない。
だから、そんな経験法則はありていに言ってしまえば「ウソっぱち」なのだ。
ただ、「ウソだ」と指摘できる多数派は指導者にはなれないから、多数派の経験は永遠に指導の中には生かされないだけのことである。

 いやはや、まことに恐れいった「密教」ではある!



「因縁」(序説部分)

 もう何度も言っているように、真如苑では病気や事故などの人生上の不幸は「因縁」によって起こるとしている。
そして、真如苑で「徳を積む」ことがこうした「因縁」を消除してゆくための唯一の正しい道であり、それがなされないと、いったん消えたかのように見える因縁も、後日また芽生えてくると説く。
「因縁」は真如苑が信者に「徳積み」を迫る場合に、最もしばしば用いる脅迫的な殺し文句である。

 「因縁」はむろん仏教通有の基本的用語である。
それゆえ、殺し文句としての「因縁」を言われると、それが仏教の教えだと思って多くの人は黙りこんでしまう。
しかし、真如苑の説く「因縁」は、本来の仏教の所説とは大幅に異なるものである、この点を次にはっきりさせることにしよう。


「因縁」@ 仏教の宿業論と真如苑の因縁論の相違(1)

 本来の仏教で説く「因縁」とは、人間の運命に関与する根本的原因(因)と補助的原因(縁)のことである。

 仏教で「霊魂」の存在を認めているかどうかについては、いろいろ面倒な議論があり、学界の通説では
「仏教では不変の実体としての『霊魂』は認めておらず、業〔ごう〕の力によって人間の『識〔しき〕』が輪廻〔りんね〕することを説いているのみである」ということになる。が、いずれにしても、業の力によって輪廻する「何か」があることは認めているわけだから、これを通俗語で言い直す際に「霊魂」と呼んでも、さして誤りではあるまい。
現に仏教では、原始仏教の時代からジャータカ物語と称する釈尊の前生譚〔ぜんしょうたん〕がしきりに語られており、長き輪廻の過程の中で釈尊が献身的修行をくりかえした結果、今生〔こんじょう〕で「仏」という果報を得たことになっている。
だから、明かに前生〔ぜんしょう〕とか来生〔らいしょう〕とかいうものは認めているわけである。

 人間が行なった善行や悪行は、そのまま消えてなくなってしまうものではなく、ひとつのエネルギーとして影響力を残し、その人の後々の運命を決定する要素となってゆくというのが、仏教の説く「業〔ごう〕」である。

 この「業」のうちには、今生での行為の影響力が生きているうちに発現する「順現業〔じゅんげんごう〕」というものもあるが、生を隔てて別の生涯において発現する場合もあると考え、これを「宿業〔しゅくごう〕」と名付ける。
人が今生でとりたてて悪事をした覚えもないのに不幸に襲われたりする場合、仏教では、古来これを「過去世〔かこせ〕の宿業」によって説明する。
(もっとも、仏教の教えの眼目は、こうした宿業論自体にあるのではなく、そのようなしがらみを超える悟りの境地を、いかにして得るかにあるのだが……)

 今、ある特定の家XにAという先祖がいて、この人が、愚かな商売に手を出して、多額の借金を残して死んだとしよう(第六図)。
その借金をBという子孫が背負って、返済のために苦労多き人生を送ったとしよう。
この場合、見かけだけ見ると、Aの愚かさが「原因」でBの苦労が「結果」と見える。
しかし、仏教では、こうした「家の先祖の行状」というのは、個人の宿業を発現させるためのひとつの「縁」にすぎないと考える。
B自身は過去において、このX家とは別の所に生を受け、彼個人の業を作り、その結果、自分の宿業を果たすにふさわしいX家という所に生まれ合わせたのである。
AはA自身で、生まれ変わっていった先のどこかの場所で、自分自身の宿業を果たすための苦労をする運命にめぐり会うのである。

 業の法則そのものは、あくまで「おのれが蒔〔ま〕いた種をおのれが刈り取る」のである。
ただ、そこに「縁」として介在している「家系」というものだけを考えると、あたかも「先祖の蒔いた種を子孫が刈り取る」かのごとく見える、ということなのである。


「因縁」@ 仏教の宿業論と真如苑の因縁論の相違(2)

 真如苑の説く「因縁論」は、これとは全く異なる。
そこでは血統そのものが因果の主体として立てられており、個人の魂の輪廻ということは明確に捉〔とら〕えられていない。
個人の過去世とは先祖の過ごした生涯のことであり、個人の来世とは彼の子孫の生涯である、という解釈がなされている。

 こうした「血統因果論」は日本の土着信仰と言うべきもので、いったんは仏教の普及によって消滅しかかっていたものが、近世以降、仏教が「家の宗教」として封建統治機構に組み入れられるとともに、次第に復活してきたもののようである。
近世の僧職者自身が、墓や菩提寺を大切にせよと説教する際の方便としてこの俗説を積極的に用いたためか、ついにはそれが仏教の真説であるかのように見なされるまでになってしまったのだ。

 先日、このごろはやりの「霊感商法」のセールス・ガールがわが家を訪ねてきたが、そのパンフレットには、だいたい次のようなことが書いてあった。

 「墓相のよしあしは家庭の『根』たる先祖の成仏・不成仏を決め、印相のよしあしは家庭の『幹』たる自分の運のよしあしを決め、家相のよしあしは家庭の『葉』たる子孫の繁栄・衰退を決める。墓相、印相、家相の三拍子が揃ったとき、あなたの家の過去、現在、未来が救われる」

 このパンフレットなどは「血統因果論」のひとつの典型と言ってよい。
仏教をろくに学びもせずに、寺院の経営にだけ汲々〔きゅうきゅう〕としている俗坊主なども、時としてこれに類することを真理であるかのように言いたてる。

 この近世的俗説によれば、個人というものは、自分の潜在意識層に父祖代々の無限の「因縁」を保蔵して生きている。
先祖の誰かが苦しい生涯を送ったとすると、その苦しみは現世に生きる自分自身の「因縁」の一部となって、今の自分に悪い影響を及ぼしている。
そして、自分自身、死ぬと子々孫々の潜在意識層の「因縁」の部分に入り込み、自分の現世の生活のよしあしが、子孫の運命に影響してゆくことになる。

人間は死後の世界では積極的に自分の運命を切り拓いてゆく道をもたず、生前に達成した心境や受けた苦しみなどが、そのままその人に固着してしまう。
これを改めうるのは、子孫による「供養」や「徳積み」だけである。
子孫による「供養」や「徳積み」が届くと、死者は安らぎの境地に達して、その結果、子孫自身の苦しみも取り除かれる。
これが死者の「成仏」である。

 ざっと以上のように要約される近世的俗説は、多くの曖昧〔あいまい〕さを含んでいる。
ある霊魂がある家に生まれてくる場合、過去においてどこにいてどういう業を作ってきたのかは、不問に付されているようである。
そして、個別の霊魂がこの現世に生を受けるのは一回かぎりなのかそうでないのかも、はっきりしていない。
ただ漠然と、「供養」が届けば先祖は「成仏」して、もはや子孫に悪影響は残さない存在になると考えているだけである。
その後にその先祖の個別的霊魂がどこへ行くのかは、不問に付されているようである。
あるいは、「成仏」した先祖は未来永劫〔えいごう〕子孫に対して「よき因縁」として守り神様的に働くと考えているようにも思われるが、この考えもそれほどはっきりと表明されているわけではない。

 ともあれ、伊藤が『一如の道』の中で「ご先祖さまが成仏していたら、全く平和であり家庭的な苦悩等ある訳はありません」(九一頁)と述べているのは、真如苑がこの曖昧模糊〔あいまいもこ〕たる矛盾に満ちた近世的俗説の上に教義を立てていることを、何よりもはっきりと物語っている。

 伊藤のこの言明は、論理学的に見ると「家庭的な苦悩等が起こるのは成仏していないご先祖さまがいるからだ」と主張しているのと同じである。
残念ながら、こういう教えは仏教ではない。


「因縁」@ 仏教の宿業論と真如苑の因縁論との相違(3)

 先祖がどうなっていようと、人間がこの現世に生まれている以上、生老病死〔しょうろうびょうし〕の苦があることは仏教の基本的な前提なのである。

 釈尊のご在世時代、幼い子供を病気で死なせてしまった女が、悲しみのあまり狂乱状態になり、奇跡を願って釈尊のもとに駆け込んできた。
このとき釈尊は、
 「よしよし、あなたの子供を生き返らせるための秘法を教えてあげよう。この町じゅうを巡り歩いて、いまだかつて一人の死者も出たことがないという家を捜し当て、その家からケシの実をもらってきなさい。そうすればあなたの子供は生き返るよ」
 とさとした。
そこで、女は喜び勇んで町じゅうの家を巡り歩いたが、いまだかつて一人の死者も出したことがないという家は、ついに一軒も見つからなかった。
女がとぼとぼと釈尊のもとに戻ってきたとき、釈尊は、
 「どうだね。生まれた者は必ず死ぬという真理がわかったかね」
 と優しくおっしゃった。
女は、「はい、ようくわかりました」と言って、以来仏門に帰依〔きえ〕したという。
 ……これが本当の仏教なのである。

 人の家で若死にがあったと聞きつけるや、さっそく「これぞいいカモ」とばかりにその家へ飛んでいって、「そういう不幸が起こるのは、あなたのご先祖様が浮かばれていらっしゃらないからですよ」とあつかましく言ってのける真如教徒が、釈尊の弟子であろうはずがない。

 虚仮〔こけ〕おどしにさかんに『大般涅槃経』を引用して教えにハクを付けたがる伊藤真乗も、この俗説的「因縁論」についてだけは、さすがに経典的根拠を示すことができず、「仏は汝〔なんじ〕と共に悦〔よろこ〕び汝と共に楽しむ」とかいう言葉を引用してお茶を濁している(『一如の道』九一頁)。

 だが、「仏は汝と共に……」という場合の「仏」とは、仏教本来の意味の「最高の覚者」のことで、その「仏」が衆生〔しゅじょう〕の苦しみをけっしてお見捨てにならない慈悲を持っておられるということが、この言葉の言わんとする内容であろう。
伊藤は「仏様」を「ご先祖様」「ご精霊〔しょうりょう〕様」の意味で用いる日本の通俗用法を念頭に置いて、「仏」の意味をすりかえ、「先祖が迷っているからおまえが不幸になる」式の脅し文句の正当化に、この言葉を使おうというわけだ。
だが、ここに論理のすりかえがあることぐらいは、高校生でも十分に理解できよう!

 最後にもうひとつつけ加えるならば、信者の家庭に起こるあらゆる若死にや事故死を、その家系の悪い因縁の芽生えとして忌むべきものと教え込む真如苑が、当の教主の子供の教導院と真導院の若死にだけは「伊藤家の因縁の芽生え」ではなく「代受苦の菩薩行」と意味づけるのは、いったいどういう神経によるのであろうか? 
「家元だけは生まれながらに別格」という「家元制度」の趣旨には大いにかなっているかも知れないが、宗教として見るならば、そのようなご都合主義的な教義では、良識ある多くの人々を納得せしめうるはずはない。

 なお、「血統因果論」が仏教の所説といかに異なるかについて詳しく知りたいかたは、浅野信〔まこと〕著『ブッダのカルマ論』(たま出版)を参照されたい。


「因縁」A 原因のない結果だけの連鎖

 これまでに血統そのものを因果の主体とする近世的俗説の立場が、本来の仏教の教えとは異なるものであることを明かにした。
 が、ここでさらに問題がある。
 同じく「血統因果論」であっても、「先祖が悪いことをしたから子孫が苦しむ」という説き方ならば、まだしも納得がゆくのだ。
真如苑の因果論というのは、もっと納得のゆかぬしろものである。
そこで説かれているのは「ご先祖にガンで亡くなった方がいらっしゃいます。だからあなたが今ガンになったのです」というような因果論なのだ。
「ガンで亡くなったご先祖は、断末魔の苦しみを霊界へ行ってからも持ち続けているので、その苦しみを子孫に訴えようとする。その訴えが、子孫の肉体に同じようなガンとなって現れる」と言うのである。

 これは、因果論とか宿業論とかいうカテゴリーの問題ではなく、一種の憑依〔ひょうい〕(つきもの)論とでも言うべきものである。
では、その当の、ガンで亡くなったご先祖自身は、なんでガンになったのか? 
「その方の、そのまたご先祖に、ガンで亡くなった方がいらっしゃったからです」というのが真如苑流の答えである。
すぐにわかるように、こういう説明をやりだしたら、問題は無限連鎖になってしまう。

 『徒然草〔つれづれぐさ〕』の最後の段には、「人は必ず、先に悟りを開いた仏に導かれて仏になる」という説を兼好法師に教えた父親が、兼好法師から「最初の仏は?」と問い詰められて答えられなくなったという話が出ているが、真如苑の因縁論も、とことん問い詰めれば同じことになる。

 だが、こういう論法は、第二部第三章の「際限なく湧き出してくる『因縁』」の中でも説明したように教団側にとってはきわめて便利な論法である。

 例えば、Aさんがガンにかかって接心を受けたら、Bという先祖の因縁が示され、Bに対する「お施餓鬼」をすると同時に「三つの歩み」に取り組んで、病気が奇跡的に癒えたとする。
しばらくすると再び体調がおかしくなってきた。
そこで、「しっかり歩んでいるはずなのに」と不満に思いながら接心を受けてみると、「Bをガンにいたらしめた原因であるところの、もっと前のCというご先祖がまだ成仏なさっていません」という「ご霊言」が出てくる。
そこでAさんは、今度はCへの「お施餓鬼」をやりつつ、さらなる「三つの歩み」に励む。
その次には、さらにDなるご先祖の因縁が示される。
―こんな具合にして、「歩み」と「因縁解明」との追いかけっこで、真如教徒の一生というものは終わってしまうわけだ。

 そして真如苑では、もしAさん自身が真如教徒として歩まないままガンで死んだとすると、こんどはAさんの子孫に必ずガンが現れるという形で、「因縁」が未来に向けても無限連鎖で続いてゆくかのように説いて、人に不安を与えるわけだ。



「因縁」B 群盲象をなでる

 生長の家では、「世の中のすべての物事は思う通りに現れる」という一種の通俗的唯心論を教義の根幹に据えて、ある種の「信念の魔術」みたいなことで人生を幸福にできると説いている。
この生長の家の論法が正しいかどうかは疑問だが、霊的な事情によく通じている人々に言わせると、霊界というのは、確かに「信念に応じて現象する」という性格を持っているそうである。

 そういう人に言わせれば、真如苑的教義にどっぷりつかっているような霊能者には、その教義のレベル相応の世界が見えてきて、そうでない人にはまた、別様の世界が見えてくる、ということである。

 アメリカのエドガー・ケーシー(一八七七〜一九四五)という人は、人の前生の行状を透視することのできる能力の持ち主で、病気その他の悩み事をかかえた人たちの求めに応じて、前生のいかなる業因からそのような結果が生じているかを解明し、その診断に基づいて適切な勧告を与えることで、多くの人を救ったという(これについてはジナ・サーミナラ著『転生の秘密』、同『超能力の秘密』―いずれもたま出版から翻訳刊行されている、に詳しい)。
十九世紀以降、西ヨーロッパやアメリカでも、インド思想を研究して輪廻転生説を受け容れる人々が数を増しつつあるが、ケーシーもそういう立場の人であった。

 同じく「病気や事故の霊的原因を解明する」と言っても、日本的因縁論で凝り固まっている真如苑の霊能者の心の鏡には「先祖の行状」ばかりが映し出され、ケーシーのような人には「前生」が見えてくる、というぐあいに、霊能で見えるものも、つまるところ、その人の信念によりけりなのである。

 世の中には、「釈尊が自分の霊視に現れて語った」とか「キリストが……」とか「天照大神が……」とか主張している人間は、掃いて捨てるほど沢山おり、それらがみな互いに矛盾したことを言っている。

 霊能でこう見えたとか、こう聞こえたとかいう報告の中には、確かに真実も含まれているであろうが、大方、その「真実」は、「群盲象をなでる」の類の部分的真実なのであろう。
一教団の特定の訓練だけを受けた霊能者の言うことなど、過信しないことが大切であると思われる。


「世間法」と「如来法」

 「サァ、一切の世間法〔せけんぼう〕的とらわれを捨てて、教主様一如の信に立ち、……」といった決まり文句も、真如苑の指導者が好んで用いるものである。
教団の出発の際の、伊藤が会社勤めを辞めるか、辞めないかの岐路に立った時の最終決断が「世間法から脱却する」であったためか、教主の初心を信者にたたき込むという意味でも、この「世間法云々」は、信者指導上、好んで用いられるようである。

 真如苑が「世間法」の対立概念として立てているのは「如来法〔にょらいぼう〕」である。
 最初は誰でもこの区別を自然なものと思い、「そうだ、世間法へのとらわれを捨てて如来法に生きるのが、宗教人の正しいあり方にちがいない」と思えるのだが、しばらく教団に深入りして内実を知ってみると、どうにも、これらの言葉の使われ方に、妙な違和感を感じずにはいられなくなる。

 ここでちょっと話は飛躍するが、一休さんという人は、人の意表を突くやり方で、とらわれを解き放つ教えを示してみせるのがうまい人だった。
彼には次のような逸話〔いつわ〕がある。

 ある日、ある商人が色紙を持ってきて、一休さんに「一筆おめでたい言葉を書いて下さい」と依頼した。
すると、一休さん、早速筆を執ってスラスラと書いた文字は、なんと「父死子死孫死」。
あっと驚く商人を前に、一休さん涼しい顔でお説教。
「いいか、これがおめでたいのじゃぞ。父が死んだあとで、子が死に、最後に孫が死ねば、こんなにおめでたいことはないじゃろうが。若い者に先立たれる悲しみを思うてみい」

 「生きる」と言えばおめでたいことだと思い、「死ぬ」と言えば忌まわしいことだと思う世間常識へのとらわれに対して、一休さんは「人はみんな死ぬ」という真理をあざやかに対置してみせて、相手のとらわれを解き放ったのである。
(もっとも、こんな色紙を書いて商人の気持ちを害さずに真理を説くことができたのは、一休さんぐらいの傑僧だからこそできたことであり、読者は軽々しくマネなさらぬように!)

 一休さんの歌には、下の句が「雨降らば降れ、風吹かば吹け」となっているものがある。
通常、人は晴れればめでたいと考え、雨が降ったり風が吹いたりすれば忌まわしいと考える。
しかし、本当は晴れの日ばかり続けば作物は水分を失って枯れてしまうし、風が吹いてこそ風媒花は実を結ぶことができる。
「晴れがよいのと同様に雨が降るのもよいし、風が吹くのもよい」というのが真理なのである。

 日なたがあってこそ、布団が干せて、健康な生活が送れるのは確かだが、同時に、日陰があってこそ我々はおいしい椎茸〔しいたけ〕が食べられるのである。
皮相的な世間常識に固執して人生をとらわれの眼で見ていると、こういう真理が、とかくわからなくなるものである。
だからこそ、この世の中には宗教家というものが必要なのだ。

 ところがだ! 真如苑で「サァ、世間法へのとらわれを捨てて……」と言う場合には、けっして、いま述べたような意味での世間的価値観へのとらわれから解き放たれなさいと言っているのではない。

 それどころか、真如苑では、重要な行事の時に雨が降ったりすると、それが「信者の心の汚れの『りぶらい』(反映)である」として、信者全体に対して訓戒がなされ、とりわけ、その行事を担当した地域の霊能者に対しては、直後の苑内接心において「駆遣訶責〔くけんかしゃく〕」(叱ること)の「ご霊言」が下るというのだ!

 実際、昭和五十八年八月には、豪雨による河口湖の増水によって「水施餓鬼」が延期のやむなきに至ったが、この事件は「真如教徒全体の心の汚れが浄まっていないことのしるし」だと意味づけられ、信者全体に対して精神的締めつけを加える絶好の材料として使われた。

 さらに、昭和六十年三月の大阪精舎の大祭の際にも、「せっかくの教主様を迎えてのめでたい行事に雨が降った」として、関西地域の霊能者たちに対して、「駆遣訶責」が行われたという。

 つまり、世間的価値観を超えた自由闊達〔かったつ〕な視野を信者に与えるのではなく、むしろ、信者の世間的価値観そのものを大幅に増幅・強調した形で、教団の中でのあらゆる物事の意味づけにまで利用してゆくというのが、教団の基本的な態度なのだ。

 それでは「世間法を離れて如来法に生きろ」というのは何を指して言うのかといえば、結局それは、教団外の利害関係などを二の次にして、教団上層部から与えられる「教主様のみ心」とやらいうものに徹底的に服従しろということを言っているにすぎないのである。



ひと皮むけば天理教

 これまでの説明で、真如苑なる教団が、その虚仮〔こけ〕おどしの殺し文句の数々にもかかわらず、およそまともな仏教にはほど遠い一新興宗教にすぎないことは、明らかになったであろう。

 では、虚仮おどしのために使われている仏教的用語の薄皮を剥いでみた場合、この教団の説く教えの実質は、いったいどういう宗教の系譜に属しているのであろうか?

 それは、多くの読者がもうすでにお気付きのように、天理教である。

● 「因縁」という語を脅迫的に用いて、その因縁を切るためにはわが教団の教えを他人に勧めるのがいちばんの近道だという形で、信者を布教に駆り立てる点が、まずもって天理教的である。

● 導きの親子関係で教団を組織するネズミ講方式も、天理教に起源を有する。

● 信者を身ぐるみ剥ぐほどの高額の寄付を求め、身ぐるみ剥がれた信者を教団専従者にして、逆に給与を与えてゆくことで報償するのも、天理教の方式である。

● 「人をたすけて我が身がたすかる」というのは、一言一句たがわず天理教のスローガンである。

● 総本部に参詣することを「親苑帰〔おやぞのがえ〕り」と表現しているのは、天理教の「おぢばがえり」を連想させる。

● 真如苑が「常楽我浄〔じょうらくがじょう〕」という語にこめている現世利益的ニュアンスは、天理教の「陽気ぐらし」のひきうつしであると言ってよい。

 それもそのはず、伊藤の母親は熱心な天理教信者であり、伊藤自身、幼い頃、母親の命令で天理教の教会に貢ぎ物を届けに行ったりした体験を持っている。

伊藤の教えが天理教にあやかったものになるのは、理の当然と言えよう。

 真如苑は自らを「新興宗教」と呼ばれることを嫌う。
末端信者たちも「お救け」に際してしきりに「これは新興宗教じゃありませんよ」と言って相手の警戒心をほぐそうとする。
「『大般涅槃経』に依拠しているのだから二千五百年の伝統を踏まえたれっきとした伝統仏教だ」と言いたいのである。
しかし、その実態を見れば、「昭和十一年に始まった『家元宗教』が、ちょっとばかり仏教色のついた衣を着ている」としか評価のしようがない。



第二章 肥りすぎた拝み屋の悲劇

真如苑進化論(序説部分)

 これまで真如苑なる団体が、いかに悪辣〔あくらつ〕なやり方で組織拡大や金集めをはかる団体であるか、「仏教」と称する表看板がいかに虚仮〔こけ〕おどしであるかを明らかにした。

 しかし、たんに「これこれこういう悪辣な教団がある」ということを指摘しただけでは、世の中に対する警告の書としては、役目を半分果たしたことにしかならない。

 およそ、最初から悪と意識しながら敢えてやろうとしたものだけが悪なのなら、悪は世の中にとってそれほど空恐ろしいものではない。
むしろ、西洋の諺〔ことわざ〕に「地獄へ通じる道は善意という敷石で敷きつめられている」と言うように、主観的には最初は善意でやりはじめたことが、組織の必然や、のっぴきならぬ成り行きなどによって、意図せざる方向に実を結んでゆくことが多いからこそ、世の中のさまざまな事象について、深い分析に基づいた警告が必要になるのである。
今、同じ道を出発しようとしている人々が、将来、前車の轍〔てつ〕を履〔ふ〕まないために……。

 私は、真如苑も最初は善意から出発したものだと考えている。
それがどうして今見るような人間奴隷化の奸智〔かんち〕のかたまりのようなものになってしまったのか? 
このメカニズムを解明することこそ、警告の書としての本書が果たすべき、第二の任務である。

 私は、このメカニズムを、端的に一言で言うならば「肥〔ふと〕りすぎた拝み屋の悲劇」であると思う。

 概して宗教団体というものは、自らの歴史を「変質の過程」とは認めたがらない。
教団発足時の精神が脈々と続いて今日に至っているのだと主張したがる。
こうした主張を正当化するため、後になってからできた新しい教義を過去に投影して、立教当初から現在と同じ教義で教団が運営されていたかのように見せかけることぐらいは、朝飯前でやってのける。

 真如苑もご多分に漏れず、こうした「遡及〔そきゅう〕的な訂正」をしばしばやっているようであり、客観的分析を志す我々は、こうした「訂正」の部分をいかに割り引いて真実を探り出すかで、苦労させられる。

 ただ、幸いなことに、真如苑という教団は教理・教学に弱い連中の集まりであるため、信者必携小冊子『一如の道』は、一貫した教理に基づいて書きおろされているのではなく、教団の歴史上のさまざまな時点で機関誌に書かれた記事の寄せ集めを主体にして編集されている。
このため、これを注意深く分析してゆくと、教団の変遷の歴史が多少は解明できる。
 これから、主として『一如の道』の解読に基づいて、私なりに真如苑の変質の歴史を探ってみよう。


真如苑進化論 @ 拝み屋時代(昭和七年〜昭和十三年)

 世に多く存在する「ネズミ講型教団」は、いずれも共通した特徴を備えている。
それを一言で言うと、たいして深い教理・教学がなく、「何はともあれこの教団に人を誘い込むことがあなたの修行になります」という形の経験主義的な教えばかりが幅をきかせている、ということである。
こうした「教え」は、巷〔ちまた〕によくある「拝み屋」が、依頼心一辺倒の顧客たちを少しは宗教心のある人間へと育ててゆこうとする際に、やむをえず採用する方便が、そのまま固定されてしまうところから生じるものである。

 真如苑というネズミ講型教団も、ご多分に漏れず、出発点においては、教理・教学なしの、たんなる拝み屋であった。
 真如苑自身は昭和十一年二月をもって立教の時期としているが、伊藤文明〔ふみあき〕(後の真乗)が運勢判断によって帰依者〔きえしゃ〕を集めていたのは昭和七年頃からであった。
友司〔ともじ〕夫人が霊能を開き、伊藤が宗教に専念するようになった昭和十一年を経て、真澄寺〔しんちょうじ〕を開く昭和十三年十月までの期間を、一応ひとくくりにして「真如苑の拝み屋時代」と名付けるのが適切であるように思われる。

 いずれの教団の場合でも、「拝み屋時代」の特色は教祖の下に集まる者が比較的流動的で、まだ、ひとつの教団の信徒としての自覚が希薄であり、一回一回の相談ごとに訪れる顧客という性格を脱していない、という点である。

 当時の「立照閣〔りっしょうかく〕」も、どうやらこうした性格の「よく当たる拝み屋さんのお家〔うち〕」であったらしい。
現在の真如苑の教化用ビデオの中でも、「教主様が立教なさった当初は、お百姓さんが雨が降りますようにと祈祷をお願いに来る一方、氷屋さんが日照りになりますようにと祈祷をお願いに来るといったありさまでした」と、当時の状態が紹介されている。


真如苑進化論 A 信者寺時代(昭和十三年〜昭和三十年)(1)

 「人助けはしたいが、こうした依頼心の強い人々の身勝手な願いごとに一々応じていたのでは真の人助けにならない」というのが、拝み屋的教祖の共通の悩みである。
この状態からの脱却の道を求めて、一部の教祖は信者を積極的に「教化」しようと考えるようになる。
こうして教祖は「宗教家」へと成長する。

 ところで、拝み屋めいた民間の修行者が宗教団体を作ってゆく場合、二つの方式が考えられる。
一つは、最初から一つの新宗教として出発する方式。
もう一つは、既成宗教の庇〔ひさし〕を借りる形で、「末寺」とか「教会」とかいう資格をもらって活動する方式。

 前に触れた瀬戸内晴美さんの修行仲間の場合がそうであるが、およそ、天台系、真言系、日蓮系、奈良仏教系などの密教的諸宗派では、明治維新以前からの「檀家寺」とは別に、霊感術師のような人が比較的新しく起こした団体に認証を与えて、宗派の末寺として包摂している例を多く持っている。
そうした寺院は「檀家寺〔だんかでら〕」と区別して「信者寺〔しんじゃでら〕」とか「祈祷寺院〔きとうじいん〕」とか呼ばれている。
それらのうち、規模の大きなものになると、自己専属の末寺をいくつか持ち、ある程度本山的な性格を備えるに至っているものもある。
私の知っている例では徳島県牟岐〔むぎ〕にある正観寺〔しょうかんじ〕というお寺(奈良仏教系の華厳〔けごん〕宗に属する)などが、そういうものの例である。

 この種の寺院が信者指導に用いている教えの大部分は、開祖が修行遍歴時代に身につけた雑多な民間信仰や経験的知恵を基にしたもので、本山の教学とはつながりの薄いものである。
しかし、浄土真宗や日蓮正宗を例外として、日本の大宗派の本山というのは、末寺が民衆の教化に何を用いるかはさして気にかけない寛容なところがあるから、巷〔ちまた〕の霊感術師的な人にとっては、そうした伝統的宗派の庇を借りることは、「寄らば大樹の陰」で、けっこう居心地がよいのである。

 伊藤の「立川不動尊教会・真澄寺」も、こうした「信者寺」として発足した。
 この「信者寺」の発足から、戦争や「法難」事件を経て、組織上の大改革が行われる昭和三十年までを、一括して真如苑の第二期ととらえ、「信者寺時代」と呼ぶのがふさわしいように思われる。


真如苑進化論 A 信者寺時代(昭和十三年〜昭和三十年)(2)

 この時期の前半の昭和二十年までは、伊藤の教団は文字通りの「信者寺」であり、真言宗という既成の宗派の庇の下で活動していた。その後、教団は独立の団体となり、団体名も「立川不動尊教会」から「まこと教団」へ、さらに「真如苑」へと変化している。しかし、そうした外形上の変化にもかかわらず、この時期の真如苑は、一貫して伝統仏教の枠の中での特色ある寺院という性格を保持しつづけていたようだ。
 そう言える根拠は、次の点にある。
 当時の真如苑が現在のそれと著しく異なる点は、中核的指導者を専門の僧職者として養成し、それを各地に派遣して人助けにあたらせるという体制を採っていた点である。当時の智流院〔ちりゅういん〕(発足時は「智泉寮〔ちせんりょう〕」)は、現在のような、在家指導者のための日曜学校ではなく、専門の僧職者を養成するための「寮」であった。ここで修行した僧職者の派遣先として、関東一円の無住の荒れ寺を捜し、それを真如苑が買い取って末寺とし、智流院生を「住職」として送り込んでいた。
この住職の活動に引かれて集まってきた連中がその地域の信者になったのである。
このようにして出来た末寺が昭和二十年代の終わりには十数ヵ寺あり、これらの寺院のいずれでも、一週間に一度の回数で接心を実施していた。
そして、住職自身が霊能者である場合には、自分の寺の接心は自分一人で引き受けていた。
つまり、ひとつの地域の信者の教化は、基本的に、その地域の末寺の住職の手に委〔ゆだ〕ねられていた。
こうした大幅な権限委任によってゆるやかに教団を統率するのは、まさに伝統仏教の方式そのものである。

 また、現在のように「五回以上帰苑〔きえん〕(本部や支部などに参拝して法要に参加すること)した上でなければ接心を受けさせない」といった厳しい制限は、この時期には存在しなかった。
『一如の道』の中の、この時期のことを記した文章に、ある婦人が信者に誘われて真如苑総本部を訪れて「入会してすぐ接心修行に入った」(一〇六頁)と書かれている。
 当時の接心自体、悩み事を持って末寺を訪ねてくる人々に対して、霊的な判断を下してやるという開かれた性格のもので、現在の向上接心のように、特定の教義を植え付けるための「変化エージェントの技術」としての側面は、あまり持っていなかったようである。
その証拠に、『一如の道』には、当時東京にあった白龍閣という心霊相談的宗教結社に、伊藤や弟子たちが出張して接心を実施していたとの記述が見られる(三七六〜三七九頁)。
接心が「サァ、双親様〔そうおやさま〕、両童子様〔りょうどうじさま〕に対して一如の信を……」といった現在のようなものであったなら、こうした出張接心はできないはずである。


真如苑進化論 B 新興教団時代(昭和三十年〜昭和四十二年)(1)

 前にも述べたように、日本の伝統仏教の大宗派の本山は、末寺の民衆教化の方式については、あまりこまごまと口出ししない。
 だから、伊藤にもしその気がありさえすれば、真如苑自体、いつまでも「真言宗醍醐派・真澄寺」という形で、伝統仏教の宗派内にとどまり、分相応のつつましさで、それなりの繁栄を享受しえていたかも知れない。
「真澄寺」が「接心修行」とかいう独特の修行方法を使おうと、「教導院様のご霊言」「真導院様のご霊言」などという形で開祖の息子たちを祭り上げようと、ご本山たる醍醐寺がクレームをつけるということはなかっただろうと思われる。
(私はむしろ、それこそがこういう信者寺のたどるべき、分相応のまっとうな道であったと考える)

 ところが、幸か不幸か、戦争中に真言宗各派が強制的に合同させられていたのが戦後改革で解体された際に、切られなくてもよい醍醐派と立川不動尊教会との関係まで、半ば自動的に切られてしまった(この分離が法的にどういう性格のものだったのかはいまひとつはっきりしないが、真如苑の言うところによると「自然離脱」である)。
そのおかげで「醍醐派に反逆して独立したわけではない」という大義名分が立つのは、真如苑にとってひとつのメリットである。
(事実、醍醐派と真如苑は、今でも「朝廷と幕府」のような関係を続けている)
 が、真如苑が閉鎖的な新興教団として凝り固まってゆく準備をしてしまったという意味では、この「分離」は大きな損失だったと私は考える。

 しかしながら、昭和二十年代のあいだは、前に述べたように、真如苑自身がかなり分をわきまえて、伝統仏教の中の特色ある寺院といった形の活動のしかたを守っていたため、「分離」のデメリットは、あまり顕在化していなかったようである。

 真如苑が質的に大きな変化を遂げるのは昭和三十年代である。
 前に第二部第二章で明かにしたように、伊藤は昭和三十年に、霊友会の失敗から学んだ霊能者統御法を確立する。
白龍閣などでの出張接心はとりやめになり、末寺における接心も廃止され、接心は「教主様が結界なさった場所でだけ発動する真如霊能」として純化される。
それと同時に、「真澄寺」は通常の意味での寺院ではなくなり、真如苑総本部内のひとつの建物となる。
そして外部からの自由参詣は許されなくなる。
このようにして、接心を「悩み事相談」として受け止める「拝み屋の顧客」的な態度の人にとっては、この教団のあり方ははなはだ不便なものになる。
例の「交通費地獄」もここから始まるわけである。
が、伊藤はあえてこうした不便を信者に課する方向を選択した。
要するに伊藤は、真如苑を伝統仏教的な寺院から、きわめて中央集権的な新興教団へと脱皮させたのであった。

 伊藤自身の主観としては、信者に「拝み屋の顧客」的な甘えを克服させ、全員に「因縁切りの修行」をさせてやるのだ、という気負〔きお〕いがあったのかも知れない。
しかし、前にも明らかにしたように世間的な価値観を真に克服しうるだけの、自由闊達〔かったつ〕な視座を信者に与ええない低級宗教家が、無理に気負って「唯一の教えの親」づらをしはじめれば、結末は目に見えている。
不自然な精神的圧迫を加える形で奉仕精神を説き、ゆがんだ形の教団盲従人間を作ってゆくという結末である。
ましてや伊藤の場合、せっかく築いた教団財産を霊友会流の分裂騒ぎで失いたくないという欲念もからんでいるようだから、なおさらである。


真如苑進化論 B 新興教団時代(昭和三十年〜昭和四十二年)(2)

 事実、この時期に伊藤が選択した路線が、現在見られるこの教団のさまざまな病理に直結しているようである。
 「交通費地獄」については、先程述べたとおりである。
 その他の重要な病原菌としては、この時期に採用された「在家主義」がある。
 僧職を育成して末寺に送り込むという方式をやめた伊藤は、これに代わって「在家主義」を採用した(伊藤自身が坊主頭をやめて毛を伸ばしたのもこの時期である)。
この場合の「在家主義」とは、僧職予定者を最初から別に分けて養成するのではなく、勤め人や経営者や主婦であるような一般信者に、導きの子孫の数に応じて地位を与え、その中から指導者を作ってゆく方式である。
これは「お救け」への情熱をかき立てるのにはきわめて効果的であり、事実、この時期に信者数はぐんぐん伸びたのであるが、これが結果的には接心の機会の制限や「お救けのためのお救け」という病理を生んでゆく。

 また、中央集権的な締めつけの強い、信者にとって「不便な」教団を作る以上は、信者に「そういう不便があってもなおかつ従うに値するほど、この教団の教えは尊いのだ」という信念を抱かせないことには、信者が逃げてしまう。
そこで伊藤は、「この教団の教えは巷の拝み屋に比べては無論のこと、伝統仏教の各宗派に比べてすら高い教えなのだ」と見せかけるための「教義」作りを始めたのである。「『大般涅槃経』の聖旨の実現としてわが教団が生まれた」という例の神話である。

 このようにして、次の「ネズミ講時代」へ向けての地ならしが、この時期になされたと言ってよい。
 しかし、この時期にはまだ「ネズミ講」の弊害はさほど顕在化しておらず、真如苑は基本的には人助けの組織としての面目を失っていなかったようである。
 その証拠に、『一如の道』には、この時期の実話として、昭和三十五年の二月に入院先で「お救け」されて入信した婦人が、自分がまだ入院している間に(つまり入信からわずか数日後)夫が鑑定接心(易学を使った高度な占断)を受けさせてもらったと書いている(三二三頁)。

昭和三十九年の六月の終わりに入信した人が、七月二日には早くも、経親に代理で受けてもらう形ではあるが鑑定接心を授かったという話も出ている(三三〇頁)。

現在の真如苑ではとうてい考えられない。


真如苑進化論 C ネズミ講時代(昭和四十二年〜現在)(1)

 昭和四十二年八月六日の伊藤友司〔ともじ〕(摂受院〔しょうじゅいん〕)の急逝は、教団に大きな衝撃を与えた。
 この直後から二年間ほどにわたった教団をゆるがせた「お家騒動」の原因については、さまざまな説がある。
興味本位の人に言わせると、それはもっぱら伊藤真乗というスケベ男の下半身に起因する騒動だとのことであるが、もう少し冷静に批評する人は、この「下半身」の問題とともに、「真如苑が霊能の主流を失った」ことを原因として挙げる。

 真如苑の公式見解では、摂受院に源を発する「真如霊能」は瓶〔かめ〕から瓶へと水を移し入れるように弟子たちに「相承〔そうじょう〕」されているから、摂受院個人がみまかっても、なんら問題はない、ということになっている。
しかし、生前の摂受院を知っている人に言わせると、摂受院自身の霊能は、正式な道場の中でなくとも、人に会ったとたんにすぐに直観が働いて的確に指示を与えうるような性格のものだったようで、これが多くの信者に頼りにされていたらしい。

 それに対してその後の霊能者の霊能は、道場内で信者に長々と順番待ちをさせたあと、特定問題について質問を受けて初めて答えられる程度のもので、だいぶ能力に差があるようだ。

 摂受院個人の霊能に魅力を感じて集まっていたタイプの信者たちにとっては、この教団の魅力は薄れはじめたのである。



真如苑進化論 C ネズミ講時代(昭和四十二年〜現在)(2)

 また、この時期までに、例の在家主義によるお救け競争によって教団の信者数は大いに増大していたが、それに反比例する形で、初期の教団に見られた家族的雰囲気と、その中での濃密な救いの実感は、薄まってきていたようである。

 この教団の「救い」が「水で薄められた」最大の原因は、霊能的指導の需給バランスが崩れたことである。
霊能者が次々に育ちはするものの、その増加がネズミ算的な信者数の増加にはとうてい追いつかず、霊能が慢性的に需要超過の状態になったからである。
このため、初信者に対しては、接心の機会を制限せざるをえないようになった。
「規定回数だけ法要に列席した後でないと接心は受けさせない」「接心の最初の五回は向上接心にかぎる」といった制限的規定が次々に設けられていったのは、この時期のことであるようだ。

 このようにしてこの教団は、悩み事相談的な関心を持って訪れる人にとっては、やたら人をじらすばかりという、はなはだ歯切れの悪い、頼りがいのないものになってゆく。
しかし、もう一方で、これとちょうど反比例する形で、教団それ自体を権威づける教えは、ますますエスカレートしてゆく。

 考えてみれば、これは当然のことである。
相手を待たせ、じらせる間、期待をつなぎとめておくためには、「ここの接心はそんじょそこらの占いやお伺いとは違って、特別に尊いものだ」と権威づけをせざるをえなくなるわけである。

 さらに、『一如の道』に見られるような古い時代の信者指導の記録と、現実のいま現在の指導者の指導内容とが、しばしば食い違いを見せてくるのも、この時期である。
 『一如の道』の中には「自分が苦しかった時のことをよく思い出して、その自分がいかにして救われていったかをよく考えて、人さまにこのみ教えのありがたさをお話ししなさい」といった主旨のことが書かれているのに(三〇二頁)、現実には、まだ救われていないと訴える初信者に対して、例の「密教」という殺し文句によって「このみ教えは実践してみてはじめてわかるものですから、何はともあれ、まずお救けをしてみなさい」などというむちゃくちゃな指導が行われている。

また、立教当初は教団の経営面は「あくまでも救われた人たちの力だけでやってまいります」(つまり、まだ救われていない人から一律に金を取るようなことはしない)と摂受院がお不動様に誓っていたはずなのに(四〇二〜四〇三頁)、現実の指導は「『三つの歩み』に取り組み始めた人にしか接心を授けない」となって、まだこの教えが海のものとも山のものともわからないという初信者に対して「歓喜」を強制することがさかんに行われている。

 このようにして、初信者をじらせて待たせながら、救いへの期待を先へ先へと延ばし、「まだ救われていない」という不安を、むしろ教団側が積極的に動力として活用して、初信者をやたら教団のために走らせるという体制が、この時期に主流化したもようである。
 これは、教団が人助けの組織から、人を食い物にするネズミ講へと進化したことにほかならない。



分際をわきまえない肥りぶり

 これまで見てきたように、伊藤真乗という人の作った教団は、初期の「拝み屋時代」や「信者寺時代」には、それなりの人助けの組織として機能していた。
問題は、この伊藤という人が、おのれの分際もわきまえずに中央集権的な新興教団を作り、身のほども知らずに一切衆生を教化しようなどと思い上がったところから起こっているようである。

 その結果生じたのは、伊藤という人にふさわしい限度を超えて、教団が水ぶくれするという結末だった。
そして、「水で薄められた救い」を擁護するために、柄にもなく屁理屈めいた教理・教学を創作せざるをえないという、ドロナワ的状況であった。

 だが、教理・教学はもともと伊藤の分際を超えている。
伊藤という人は意志と技能の人ではあるが、およそ文章や論理の人ではない。
そのことは、伊藤の編集になる『一如の道』が「ご霊言の記録」だと称して載せている次のような文章を見ても明らかである。

 「祈らずとても神や守るらん……ということばもあるが、仏に仕え、仏のみこころを祈りによって正しく頂き、他にも与えていくことが、自らも仕合わせとなっていくのですよ。祈らずして、働かずして、尽さずしてよくなろうとして、どうして仏が、護法の神々が守って下さるでしょう。
 祈らずとても神や守るらん……(ということは、いつも仏はあたたかきみ心をもって、衆生をみつめて下さる……)ということを、わからしめようと、守っているのですよ」(二三三頁)

 言いたいことがわからないわけではないが、日本語の文章としてまともなものとは言えない。
私が国語の教師ならば、こういう作文に対しては遠慮なく落第点をつける。
せめて次の程度に整理したらいかがなものであろうか?

 「『心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神や守らん』という歌があります。これは、神仏は心の正しい人をけっしてお見逃しにはならないという、神仏のあたたかきみ心を教えた歌です。また、祈りの根本は心の誠にあるのであって、くだくだと口数多く祈りさえすればよいというものではない、ということを教えた歌でもあります。これを取り違えて、下の句だけ暗記して『祈らずとても神や守らん』だから、祈り心もなしに怠けていても自分は守られているんだなどと考えてはいけませんよ。祈らずして、働かずして、尽さずして、どうして仏が、護法の神々が守って下さるでしょう」

 次のような「ご霊言の記録」も、前半と後半が論理的にどうつながっているのかがさっぱりわからない。
国語の作文として見れば文句なく落第点である。

 「……皆さんは、自分がどのような霊系であるか知っていますか。今までに何回か接心を重ねて、お宅にはこのような因縁が強い、だからこのような霊系を持っている……と幾度となく示されていると思いますよ。それは真導院さまを観念して抜苦して頂く霊系と、教導院さまを透して代受して頂く霊系と、異っているからです。
 そういうと皆さんは、抜苦代受して頂くことしか考えませんけれども、抜苦代受して下さるということは、皆さん方が一如の道を歩むにあたり、お救けしていくにあたり因縁の重荷を負っていたのでは、お救けできないから、人を導く功徳によって代受して下さるのです。そして真剣に歩み出した時には、もう歩む苦しみが喜びに代っておりますよ。それは因縁を代受して頂いている現証ではありませんか」(四四三頁)

 目下、真如苑では、海外布教の益々の活性化をめざして、『一如の道』の英訳事業を企画中であるという。
そもそも日本語として成り立っていないこの手の文章を、いったいどういう英文に翻訳するつもりか知らないが、日本人の恥をこれ以上さらすのだけはやめてもらいたいものである。



難問百出の現状

 今や真如苑は、表面上の爆発的な繁栄とは裏腹に、日本の新宗教運動の宿命とも言うべき重病を典型的な形で背負い込み、大きな岐路に立たされている。
この重病の症状を、次に列挙してご覧に入れよう。


@ お救け競争でふえすぎた信者

 真如苑の組織が「導きの親子関係」を基礎にしたネズミ講型組織であることは、何度も強調してきた。
 この「導きの親子方式」というのは、むろん真如苑の専売特許ではなく、霊友会その他の多くの新宗教教団が採用しているものである。
霊能的秘儀を中心とした拝み屋的新宗教において、このタイプの組織が採用されることには、それなりの必然性もあり、少なくとも教団の発足時点においては、積極的なメリットもある。
信者を依頼心の強い「拝み屋の顧客」的人間から、他人のために尽くす「宗教精神」を身につけた人間へと脱皮させるためには、勧誘活動を積極的にやらせ、勧誘した相手をその後も責任をもって世話してゆく義務を負わせるのが、最も手っ取り早い手段だからである。

 しかし、こうした積極的勧誘活動の結果、信者がふえて、教団の目玉商品たる「救いの秘儀」にあずかる資格が、末端信者に対しては制限されるようになりはじめると、当の「導きの親子方式」それ自体が、倒錯〔とうさく〕的な事態を次々と惹〔ひ〕き起こす悪の元凶へと変化する。
いまだ救いの秘儀にあずかりえていない末端の信者たちが、自分自身の救いを勝ち取るために「お救けのためのお救け」に走るようになるからである。
このようにして教団は、人助けの組織から、人を食い物にするネズミ講へと変質してゆく。

 さらには、信者数がいったん過剰になりはじめると、そのことがさらなる過剰を誘発するという悪循環が起こる。
そのメカニズムは次のようなものだ。
 信者過剰によって、救いの秘儀への参加資格が「導きの子を何人以上持つ者にかぎる」というふうに制限されるようになると、その資格を得たい者は、競って導き競争に精を出すようになるので、信者増加にはますます拍車がかかる。
そこで、さらに厳しい資格制限が必要になる。
このことがますます導き競争を激化させる。

 こうしたことの結果、職場の同僚とか学校の同級生とかを、詳しい内容紹介も抜きにしたままうまくひっかけ、入信書に署名させて名目的信者にしてしまう、といった小ずるい技巧にたけた人間ばかりが幅をきかすようになる。

 真如苑の「お救け競争」は、数年前からまさにこの悪循環過程に突入しつつあるようだ。
公称信者数二百数十万人のうち、実質的信者は十分の一以下、まあ二十万人ぐらいと見るのが妥当なものである。



A 教主神格化の進行

 信者がふえすぎた教団では、教祖一家と膝をつきあわせた家族的雰囲気の中で指導が受けられた「古き良き時代」は、はるかな過去のこととなる。
それだけ、霊能的奇跡の場としての教団の魅力は薄まってゆくわけで、この段階で信者の情熱を維持するためには、「この教えは他とは隔絶した高い教えなのだ」という確信を信者の心に植えつける必要が生じてくる。
 そこで、そういう確信を与えるように、教祖を神格化することが行われ始める。
 教団の提供する救いの実質の希薄化と、教祖の神格化とは平行し比例して起こるようである。
 「神そのもの」(神霊教)、「宇宙を創った大神様の分身」(霊波之光教会)等々、我々が身の回りをちょっと見渡せば、この手の神格化の例には事欠かない。
 真如苑もご多分に漏れず、教祖の神格化がズンズン進行している。
 最初は立川不動尊教会の「主管」にすぎなかったはずの伊藤は、まずは「金胎両部伝法灌頂〔こんたいりょうぶでんぽうかんじょう〕を短期間に授かった空海以来の偉大な真言僧」という形で祭り上げられ、次には「み仏様」と呼ばれて、釈尊と同等ぐらいに評価されるようになった。
 さらには、霊能者を原始仏教の阿羅漢〔あらかん〕になぞらえ、「釈尊は五百人の阿羅漢を育てたが、私は生きている間に千人育てる」と教主が誓ったとかいう形で、教主を釈尊を上回る偉大な仏であると見せかけるようになる。
最近に至っては、「人類を救い、地球を救い、はてしない宇宙までをも救う真如のみ教え」などというスローガンを信者に唱えさせ、「この教えは、仏教の中から生まれたが、仏教という一宗教の枠を超えた世界全体の窮極の教えである」という印象を与えようと努めているようである。

 理性の欠落した信者の熱狂は、それによってかき立てられるのかも知れないが、我々がそこに見るものは、歯止めを失ってネズミ講化してゆく教団の末期症状というべきものである。


B 偏る信者層

 かつて(昭和三十年代)立正佼成会は、宗教評論家から「おかみさん宗教」というあだ名をたてまつられたことがある。
積極的信者や中堅幹部の多くが、中年主婦層で占められていたからである。
こうした信者層の偏りは、当時の立正佼成会と同様な組織形態を採る現在の真如苑でも、ほぼ同様な傾向として現れている。

 真如苑では、修行が進むことは「所属」がふえることであり、積極的に活動する以上は、いずれは経親にまでなる覚悟でいなければならない。
経親になれば、経の下の方からの「上求菩提」を一手に引き受けてさばかねばならないし、経の子の出席する場に一緒に出席しなければならないことも多い。
それに、真如苑では初信者の最初の三回の接心には必ず経の上位者が付き添わねばならないことになっているので、経親になっていなくとも、所属の多い者は、この任務を果たすだけでもけっこう大変である。
その上に、かなりの頻度で「ご奉仕」に参加している者でないと修行が進んだと認定されない。
 それやこれやで、一週間に三日ぐらいは教団のために時間を割ける人間でないことには、教団の期待するとおり順調に「歩ん」でゆくことはできない仕組みになっている。
この条件が満たせるのは、一部の経営者などを除くと、子供の手のかからなくなった主婦層だけであろう。
 そういうわけで、教団の中堅指導者の四分の三ぐらいが中年女性である。

 こうした偏った層しか掴〔つか〕みえないことが、ただでさえ狭い教団の視野をさらに狭いものにする。
そして、「とにかく信じて実践してごらんなさい。必ず救われます。私の言うことにウソはありません」といった流儀の経験一点張りの指導方針をますますのさばらせることになる。
そのことが、さらに、これについてゆける人間の層を限定する。
 この悪循環も真如苑の宿痾〔しゅくあ〕というべきもので、治癒の見込みは全く立っていない。


C 申し訳としての社会奉仕(1)

 拝み屋的新宗教教団が巨大化した場合、必ず起こってくるもう一つの問題は、周囲の一般社会とのつきあい方をめぐって、教団の姿勢が厳しく問われる時がくる、ということである。
 この手の教団では、もともとの教団自身の教義からすれば、「およそ人はこの教団に結ばれて『歩み』さえすれば救われるのだ」というのが、ほぼ唯一の対社会的関心のあり方だと言ってよい。
しかし、そうした「あなたが私らの仲間になりさえすればよいのだ」式の呼びかけというのは、末端信者が周囲に個人的に呼びかけて布教する際の論法としては有効であるにしても、社会の中での一つの安定した地位を持つ法人としての教団が、周囲の一般社会のさまざまな思想信条を持った個人や、企業や団体とのおつきあいの場で主張しうる論法ではない。
 そこで、いかに狂信的なネズミ講型教団といえども、教団が大きくなれば、この第二の面での対社会的関係をどのようにしてゆくかを考えねばならない時が来る。
 この問題との取り組みは、教団にとっては痛し痒〔かゆ〕しである。
あまり開放的に常識人的倫理を導入しすぎると、教団は教養主義的な修養団体の一種のようになり、組織的に弱体化してしまう。
かといって、正面きった布教攻勢以外には明確な対外的姿勢を持たないような人間集団であれば、その独善性は、いつかは周囲からの厳しい指弾の対象となろう。
 事実、真如苑も、この種の問題にかなり深刻に直面しているように思われる。
教団や教祖に対する閉鎖的関心しか持たない風情〔ふぜい〕の連中が、法要の日などに教団の本部や支部の近辺を大挙して歩き、交通機関を占領するような事態は、各地で周辺住民との摩擦を起こしている。
教団では、苦情に対処するために、ことあるごとに「真如マナーを守りましょう」という警告を信者に対して発せざるをえなくなっている。

 また、「ご奉仕」の内容としては、教団に対する奉仕だけでなく、地域の駅前広場などの早朝清掃奉仕を取り入れているが、これなども教団の対外関係を配慮してのことであろう。
 そのほかに、教団に献血車を招いたり、難民救済のための募金箱を設けたりすることも、「和合摂受〔わごうしょうじゅ〕のため」として実施されている。
 それ自体は結構なことである。
 しかし、私などがこうした姿勢を見ていまひとつ納得できないのは、これらの活動が「そうしないと一般社会と教団との折り合いが悪くなって、布教の円滑が妨げられるから」という理由から、ある種の「申し訳」として採用されているとの感がぬぐいきれない、ということである。
つまり、教団の本音〔ほんね〕の教義としては、あくまで「わが真如苑に結ばれることで人は救われる」という教えしかないのだけれども、そうした「お救け」を円滑に進めるための条件整備として、外部社会との折り合いをよくしておかねばならないからとの理由で、しぶしぶそれらの奉仕活動が出てくるという感じなのだ。

 ところで、例の毎日新聞記者の横山真佳〔みちよし〕氏は、真如苑についての報告論文の終わり近くで、この教団の社会的姿勢に触れ、控え目ながら若干苦言を呈する形の批評を書いておられる。
批評の主旨は、「内面志向の強いこの教団には、あまり明確な社会的理念がなく、その社会感はあまりに素朴すぎる」というものである。
一例として氏は、この教団が戦争犠牲者の霊を慰めることを説きながら、「戦争への怒り」や「平和への決意」を語ることがない、という点を指摘しておられる(『新宗教の世界V』一四〇頁)。

 私は、真如苑の対社会的姿勢が不鮮明だという点では横山氏と同感だが、ただ「戦争云々」では、横山氏とは若干意見を異にする。
社会に対する関心というものは、何も原水禁運動的な「怒り」や「決意」に必ず結びつかねばならないということはない。
宗教家の社会に対する関心は、もっと穏やかなものであるべきだという立場は、十分成り立ちうる。
ただ、どんな形でにせよ、いったん社会にかかわる以上は、便宜やしぶしぶの妥協や申し訳としてではなく、その宗教そのものの教えの核心と結びついた「なるほど、この教えにしてこの態度あり」と納得できる、ある種の「輝き」がほしいと、私は願うのである。


C 申し訳としての社会奉仕(2)

 鎌倉時代、京都の北西の栂尾〔とがのお〕の高山寺という寺に、明恵上人〔みょうえしょうにん〕という立派な坊さんがいた。
きわめて道心堅固な人で、深い瞑想〔めいそう〕を修め、ふだんは社会とのかかわりを断っていたが、その彼が、生涯ただ一度だけ、大きな政治問題にかかわらざるをえなくなった。
それは、承久の乱で敗れた上皇方の武士が大勢栂尾の山に逃げ込み、これを追ってきた鎌倉方の武士が明恵を捕らえ、敵をかくまった張本人だとして北条泰時の前に引き出したのである。
泰時に尋問された明恵は毅然として答えた。
 「当山は不殺生を掟〔おきて〕とする仏教寺院である。鷹に追われた小鳥が私の懐を求めて飛び込んできても、私はかくまうであろう。ましてや人間ならばなおさらのことである。これがご政道のためにならぬというなら、ご自由になされてよいが、その際は、この明恵の首を斬ってからにして頂きたい」
 死をおそれず、幕府の権威も恐れぬこの明恵上人の毅然たる態度に、泰時はいたく感銘を受け、以後、彼は明恵の教えを乞うようになったという。
 瞑想をこととし、社会への関心というものは心の奥深くしまいこんで、ふだんは外へは出さなかった明恵上人であるが、いったん抜き放たれた伝家の宝刀は、権力者の眼も眩〔くら〕むほどの輝きを見せたのである。宗教家はこうありたい。

 現在の真如苑では、教団の建物の中の各所に難民支援用の募金の箱が置かれている。
しかし、そこに歩み寄ってお金を入れる信者の数はきわめて少ない。
あたりまえである。
「歓喜袋」による「歓喜」は教団にきちんと記録され、精進のバロメーターとして教団からの評価の対象になるのに対して、何の評価の対象にもならない募金箱にお金を入れても損だからである。
経〔すじ〕の子の「歓喜」の額によって勤務評定される経親も、むろん、対社会の募金など勧めるよりは、何のかんのと屁理屈をつけては「歓喜」の方を勧める。
 それに、毎月「歓喜」の他に、やれお施餓鬼だやれお護摩だと金を取られつづけている真如教徒には、残念ながら、教団外への寄付に出せるお金など、ほとんど残っていないのである。

 道元禅師は「舟を置き橋を渡すも布施〔ふせ〕の檀度〔だんど〕なり。治生産業〔ちしょうさんぎょう〕固〔もと〕より布施〔ふせ〕に非〔あら〕ざること無し」として、在家には在家らしい布施のあり方があることを教え、己〔おの〕がなりわいに精励することが、立派にひとつの仏道修行であることを明らかにしておられる。
釈尊も在家に対しては同じことを教えておられる。

 真如苑の教えの中で、このようなことがはっきり語られるのは、お目にかかったこともない。
「歓喜」と言えばただひたすら「教団へ」であり、それを仏教の布施波羅密〔はらみつ〕であると言いくるめている。
 教義の根幹をそのようなものにしておいたままで、難民支援の募金箱を置きさえすれば一般社会への申し訳になると考えるような態度に、多くの常識ある人々は「不鮮明な」ものを感じる。



教主一家のスキャンダル(1)

 さて、いよいよ本書の中でも最も下世話な話題に入ることにしよう。
この件については多くの読者はもうご存じのことであろう。
昨年来、週刊誌の誌上で何度も話題になっているからである。
 私自身は、「なぜいま真如苑が伸びるのか」という問題意識に立って、この教団の組織作りの巧妙さ、信者に課せられる金銭的負担の実情などを解明することを、本書の主たる任務と心得ているので、教主一家の「下半身」に関する暴露談に、さして深入りする気はない。
ごくあっさりと書き流しておくことにしよう。

 話は昭和四十二年の摂受院遷化〔せんげ〕(死去)の時にさかのぼる。
この直後から約二年間、真如苑は大きなお家騒動で揺れに揺れるのだが、その発端が教主伊藤真乗の再婚問題であったのは周知の事実である。
 摂受院の一周忌も済まぬうちに(最近の週刊誌では「四十九日も済まぬうちに」とか「初七日も済まぬうちに」とか書かれているが、これは話に尾鰭〔ひれ〕がついて誇張された結果であろう)伊藤は後妻を家に連れ込もうとした。
その相手の松島某子という女性は東京都千代田区平河町の料亭の中居であったというから、見合いですすめられた相手とは考えられない。
多分、摂受院の生前から、伊藤がその料亭の馴染〔なじ〕みの客になっていたのであろう。
 こういう宗教に縁のない人が教団に入り込んできて、教主夫人として権力を振るうのは好ましくないということで、有力幹部や四人の娘たちが猛反対し、次女、三女、四女の三人は、教団から飛び出してしまった。
二年後になってこの三人は父の懇請を容れて教団に戻ったが、入れ替わりに、長女映子とその夫(伊藤家の婿養子であり、教主の後継者の筆頭候補であった)が教団から追放された。
この間、教主は娘たちから「宗教家にあるまじき私行」として抗議書を突き付けられたという話もあり、最終的に、教団の有力な幹部の中からもかなりの数の脱退者を出したもようである。
 結局、伊藤の再婚は、周囲の反対を押し切る形で実現した。
 この騒動の最中の昭和四十四年三月には、三女真砂子が東京駅八重洲口付近でダンプカーに飛び込んで自殺をはかる(未遂に終わったが)という事件も起こっている。
これは当時独身であった彼女が、長女の夫から手を出され、不倫の間柄になったのを苦にしてのものと言われている。

 真如苑を研究している宗教評論家たちは、「昭和二十五年の法難」に関してはおおむね教主側に同情的であり、伊藤の有罪判決は、新宗教を十把ひとからげに邪教淫祀扱いする戦前以来の日本官憲の偏見の犠牲になったものだ、との見方が有力である。

しかし、刑事上は何の問題にもならなかったこの「第二の法難」の方については、逆に識者の眼ははるかに厳しい。
この件に関して伊藤を弁護するような評論家は誰ひとりいない。
 因縁を浄める力があると称し、人の家にいざこざがあればすぐに「色情因縁が切れていないのです」などと言い出す真如苑が、どうして教主一家の色情因縁を浄めることができなかったのであろう。

 伊藤自身がこの事件を内心やましく思っていることの絶好の証拠がある。
それは、教団では、いまだに伊藤真乗と摂受院の写真を並べて拝ませ、この二人を「双親様〔そうおやさま〕」と呼び、この二人が霊界まで続く永遠の夫婦であるかのような体裁をとっている、ということである。
つまり、後妻の存在は、末端信者に対してはひた隠しにされているのである。
再婚がやましくないのなら、どうしてこうする必要があろう!



教主一家のスキャンダル(2)

 この騒動の後、しばらくの間は教団は静穏であった。
しかし、昭和五十二年には、霊能者として力を伸ばしていた次女の孜子〔あつこ〕が、これまた夫と共に教団から追放されるという事件が起こっている。
昨年、彼女が「里帰り」と称して真如苑総本部に突入をはかって、警備の連中と小ぜりあいを演じ、さらに、伊藤真乗の昔の行状を暴露する情報をマスコミに流したのは、多くの読者の知るところであろう。

 現在の真如苑では、初信の末端信者に対しては、教主の長女と次女については、「かつてそういう人が存在した」ということ以外には、何も教えない方針にしている。
信者が不審に思って質問した場合には、次のように答えることになっている。
 「えこひいきをなさらない教主様は、邪〔よこし〕まな道に陥った者に対しては、自分の子、他人の子の区別なく、厳しい態度をおとりになったのです。教主様こそ宗教家の鑑〔かがみ〕です」

 なるほど、「物は言いよう」だ。
いやむしろ、「理屈と膏薬〔こうやく〕はどこにでもつく」と評すべきか?

 こんな風に、昨日までは絶対服従の対象だった者が、一夜明けたら反逆者になるといった粛清〔しゅくせい〕劇が、再三にわたって繰り返されているわけだ。
 粛清へ向けての工作は、おそらく幹部のあいだで極秘に進められ、公表される何日も前に内々の判決はおりているのだろう。
だが、内紛の真っただ中でも、内々の判決が下った段階でも、接心の場では、その時、その時の表向きの権威者を讃〔たた〕える「ご霊言」が語られつづけるのである。
今日からはすっかり「反逆者」扱いされる人間を昨日まで讃えつづけてきた霊能者たちは、さぞや面映〔おもは〕ゆいことであろう。
 この面映ゆさを打ち消すためか、「高く徳を積んだ人間ほど、いったん教主様に反逆して堕ちた場合には、堕ち方も激しいのだ」などという「法則」が説かれたりしている。
 さらには、「真如苑では新しい精舎〔しょうじゃ〕や道場が完成するたびに、その精舎や道場にふさわしくない霊能者は、ご霊界がふるいにかけて堕としてゆくようになっているのだ」などというオソロシイ説も唱えられている。
これなどは、今後の総合道場建設に向けて、霊能者の心を引き締めさせるためには抜群の効果のある「法則」であろうが、人に絶えざる不安を与えるような教えが何で、「常楽我浄」の宗教であるかと私は言いたい。

 最後に、真如苑が仏教徒にもあるまじく、釈尊に対してまことに失礼にあたるウソを信者に教えていることを指摘しておこう。
これは、私が、長女と次女の反逆に関して中堅指導者に疑問を述べたとき、その中堅指導者が答えたものであるから、きっと、その上の指導者がそう教えたものであろう。
いわく、
 「お釈迦様のときも、四人ほどお子さんがおありになりましたが、そのうち二人は反逆しているのです。正法〔しょうぼう〕が興るときは闡提〔せんだい〕(仏に対する反逆者)もまた必ず現れるのです。これはやむをえないことです」
 釈尊の子供は男の子ラーフラ一人だけであり、彼は後に釈尊の十大弟子の一人に数えられる立派な阿羅漢〔あらかん〕になったというのは、仏教史の初歩を学んだ者ならば誰でも知っている。


えげつない創価学会との争い

 一説によると、伊藤が後妻に迎えた松島某子の勤めていた料亭は、創価学会の池田大作氏もひいきにしていた料亭だったとのことである。
そのことの恨みからかどうかは知らぬが、創価学会の真如苑に対する攻撃は、近年になればなるほど強まる一方である。
むろん、社会現象としての教団対教団の対立を色事の恨みにだけ帰因させるのは妥当でない。
基本的な原因は、何と言っても真如苑の急激な組織拡大が創価学会に「信者を横取りされる」という危機感を抱かせたことであろう。
同じような対立抗争は、昭和三十年代に創価学会が立正佼成会を追い上げる形で信者を増やした時期にも見られた。
 創価学会では、機関誌上で真如苑批判の特集を組んだり、スパイを真如苑内部に送り込んだり、真如苑総本部のある立川地区に大挙して宣伝隊を繰り出して「折伏〔しゃくぶく〕」を挑んだり、あの手この手で真如苑を攻撃している。
 これに対して、真如苑側も黙ってはいない。
小は家庭集会から、大は総本部での法要の席に至るまで、各種の場で毎月のように「邪宗〔じゃしゅう〕への対処のしかた」についての説教が行われている。
時として、学会員が事故に遭〔あ〕った話などの具体例を持ち出しておどろおどろしく語ることによって、「創価学会ではいかに救われないか」を証明しようとする。
 その頻繁さと胸くそ悪さに、信者の中からも「またか」とか「そこまで言わなくても……」といった表情で眉〔まゆ〕をしかめる人がかなり出るが、指導者側は、「邪宗の徒が目に余るやり方で教主様に対してまで脅迫状を送ってきたりするので、やむをえず受けて立っているのです」「そもそも正法〔しょうぼう〕が興るときには闡提〔せんだい〕もまた競う立つもので、真如苑が正法なればこそ、今日、この法難に遭遇〔そうぐう〕しているのだということを真如教徒はよくよく自覚しなければなりません」などと説いて弁明に努めている。

 だが私に言わせれば、問題は「真如苑が正法なればこそ」起きているのではなく、「真如苑が創価学会と同じレベルの疑似仏教教団なればこそ」起きているのである。
 真如苑は、それ自体が教義的にも組織的にも創価学会と類似のレベルにある団体であるがゆえに、ちょっと甘言を使えば創価学会の信者層から転向者を獲得することも容易であると同時に、信者に対する教育よろしきを得ないと、逆に創価学会に組織を食われてしまう危険性も大きいのである。

 実際、両教団の体質は、多くの点で似ている。
ネズミ講的な布教のやり口もそっくりだし、強引な布教攻勢を「大乗精神」の名で正当化する点も、時代遅れの教相判釈にこだわる点も、両教団はウリふたつである。

 『一如の道』には、かつて伊藤が説教の中で創価学会に言及したときの記録がいくつか載っているが、それらのうちの一つをここに引用してみよう。
 「他を非難する宗教団体では、信者が非常に窮乏して『救われないから止める』とか『お金がかかるから』などといえば『とんでもないことだ、仏を冒涜〔ぼうとく〕するも甚だしい。バチが当る、まだ導きが足りないからだ……』とおどかされ、『このように救われた、あのように救われた』と虚言をならべたてて導きにまわるのです。―これは、その教団にいた人から聞いた話です。なぜ、そのように嘘までいってお導きするのかというと、それを『方便』と教えているということです」(一三六頁)

 これを読むと、現在の真如苑の状態とたいして変わりがないじゃないか、と言いたくなる。
 両教団の間で大きな違いがあるとすれば、それは、創価学会が集会を中心とした陽性の集団洗脳方式によって信者を布教に駆〔か〕り立てるのに対して、真如苑の方は、接心の場を活用した陰性の個別洗脳方式で、じわじわと布教の使命感を植え付けてゆく、という点だけであろう。

 「むこうは暴力的な『折伏』ですが、こちらはあくまで和合を基礎とした『摂受〔しょうじゅ〕』です」と言って、真如苑は布教攻勢の質の違いを強調しようとする。
だが、いずれにしても信者横取り合戦であることに変わりはない。

 その「摂受」なるものの手段として真如苑がこのごろ打ち出しているのが「創価学会に在籍していた人は五人以上『お救け』した後で接心を受けさせる」という規則である。
なるほど、このようにしておけば、創価学会の市場を「五倍、五倍ゲーム」で効率的に侵食できる。

 だが、まだ接心も受けさせてもらえず、この教えが海の物とも山の物ともわからない段階で布教を強要し、「とにかくお救けしてこい。そうしたらお前も一人前の信者として認めてやる」というのは、何とまあ、人間を無視した組織至上主義であろうか!



霊能者の来世はさぞや悪かろう

 読者も既にお気付きであろうが、私自身は、霊能というものが存在すること自体は、まんざら否定しない立場である。
たんなる自己暗示とか催眠術とかいうのでなしに、過去や未来や遠方の、通常の方法では知覚しえないはずの物事を知覚したという報告は多いし、その中には信頼性のある情報もかなりある。
「そういうものは存在しない」と断定することが科学的だというのは、ひとつの偏見である。
唯物論を国是とするソ連でも、欧米の超心理学に相当するものは公認されている。
 だから、真如苑の霊能による接心についても、その全部が全部真理であると強弁しさえしなければ、その中に多くの真理が含まれているかも知れないことは、私とても認めるにやぶさかではない。
 しかしまた、世によくある霊能の多くの部分が、その霊能者自身の信念の影を見る形のものにすぎないことも事実である。

 特に、真如苑の霊能者の場合、「真如苑の教義」という信念体系が映し出した映像を霊眼で見ている場合が多いように思われる。
例えば、真如苑の霊能者は、「このみ教えにまだ結ばれていない人も含めて、世界中のすべての人が、教主様と摂受院様によって慈愛のまなざしでお守りいただいているありさまが、はっきり見える」などと言うが、こういうのは明らかに「信念体系の映像」である。

 これとは別に、霊能者の霊眼自体は真如苑以外の霊能者でも見るのと同じものを見ているけれど、彼が真如苑の霊能者であるがゆえに、教義に沿った解釈を付け加えるという場合も多いようである。

 こういうふうにして、「ご霊言」の結論自体は、常に「教団に奉仕しろ、『歓喜』をしろ、教主様にお施餓鬼をお願いしろ、あなた自身の霊位向上が必要だ」といった、変わりばえしないものになってゆくわけだ。

 霊能者自身は、こうした霊能によって真如苑のために働くことが、自己の因縁切りのためにもかけがえのない徳積みになっていると信じているわけだ。
「霊能によるお仕え」とか「霊能者になって教主様にご恩返しを」とかいったことがしばしば語られるのは、こうした「霊能の功徳〔くどく〕」という思想に基づいてのことである。
だが、広い社会全体の見地から見た場合、真如苑の霊能者として活躍することは、はたして本人が思っているほど功徳になるだろうか? 
「ご霊言」の中に含まれている多少の真理によって相手に信頼感を抱かせておいて、頼ってくる相手の関心を結局は「サァ、お救けしなさい、『歓喜』しなさい」という「教団への奉仕」の水路に流し込んでしまうというのは、考えてみればずいぶん罪なことではないだろうか?

 たとえ「因縁解明」に多少の真理が含まれていることによって人助けの功徳があるとしても、人に不安を与えて組織目的に盲従させた罪業は、後の世に発現せずにはおかないだろう。

 そのとき、彼らは、どういう不安にさいなまれる生涯を与えられるのであろうか?

 しっかり見守りたい興味あるテーマではある!



何のための真如苑(1)

 これまで長々と解明してご覧にいれたように、

 第一に、歯止めを失ったネズミ講的組織拡張に走り、

 第二に、教主の極端な神格化をおし進め、

 第三に、教主のスキャンダルを弁護するために臆面もなく虚構の「法則」を創作し、

 第四に、対立教団との抗争に勝つためにえげつない技巧を弄し、

 第五に、これらのしめくくりとして、組織盲従人間を作り出すために霊感術を活用する

というのが、現在の真如苑という教団なのである。
 このような悪辣〔あくらつ〕な教団は、いったい何の意義あってこの世に存在しているのかと、まともな常識ある人ならば誰しも思いたくなるであろう。
 しかし、「存在するものにはすべて尊い意味がある」という「諸法実相〔しょほうじっそう〕」の観点に立てば、この真如苑もそれなりの意義あって存在しているには違いないと言えよう。
 では、その意義とは具体的には何か?
 私は、その意義は二つあると思う。

 まず第一は、「宗教団体はどのように作ってはいけないか」という実例をまざまざと体現してみせることによって、後に続く人々への戒〔いまし〕めを世に残してくれたという功績である。
つまり、伊藤真乗および真如苑というものは、宗教界にとってよき反面教師である、ということだ。

 そして第二は、より積極的な意味として、現代日本という非宗教的な社会で、とにもかくにも、本当の宗教とは何かという問題を真剣に考える人間を、少なくとも何万人かは作り出したという功績である。

 およそ宗教に関するかぎり、近代日本は歴史上にも稀に見る混乱を呈した社会である。
平安時代、鎌倉時代に開花した大思想の遺産を継承する宗派仏教の宗教家たちは、徳川体制の下では民衆管理の小役人になり下がってしまった。
家督相続権の付属物たる「家の仏壇の宗教」に追認を与え、「女は三界に家なし」などと説教する以上、ろくに物を説くことを許されもせず、本人自身その能力もない人間になってしまった。
 その結果生まれたものは、「位牌の祀〔まつ〕り方がどうであれば家に福が来る、どうであれば家に禍〔わざわい〕が来る」といった、およそ仏教の本旨とは関係のないことを、仏教であるかのように取り違える一般的風潮であった。
 この風潮は、一方では、そういう些末〔さまつ〕な土俗のみを宗教だと思って一生を終わる人間を大量に作り出すと同時に、他方では、おのれの知性の水準にはるかに及ばぬその種の「仏教」を嫌うがゆえに、仏教一般に対して無関心になり、儒教や洋学に心の糧を求める、少数の覚めたエリートを作り出していった。
後者のタイプの有為な人材が徳川時代を通じて多く生み出されたことが、明治維新とその後の日本の発展に大きく寄与したことは、今では多くの歴史家の一致して認めるところである。
 が、こうした二極分解の中で一方の少数者だけが近代化を担うタイプになっていったという日本の特殊事情は、取り残された民衆の中にはズブズブの土俗以外に「思想」らしいものがないという精神的空白を作り出すことになった。

 また、エリート層自体、伝統思想との対決の中からその合理的世界観を生み出したのではなく、退嬰的〔たいえいてき〕な伝統思想のていたらくにシラケきって自然に目が覚めてしまったというのが、実情に近い。
こうした「シラケ」からはじまった合理主義精神は存外なひ弱さを内に秘めており、インテリ自身、個人的危機に直面すると、いつのまにやら、克服してきたはずの退嬰的世界に、知らず知らずに舞い戻ってしまったりするものである。

 このような精神的空白を温床として、姓名判断、方位学、家相学、印相学、墓相学といったおよそ宗教とは関係のないものが、宗教づらをして巷〔ちまた〕にはびこり、一定の層を顧客として惹〔ひ〕きつけるという事態が続いている。



何のための真如苑?(2)

 こうした次元に低迷している人々に、そうでない宗教精神というものがあるのだということを教えうる人があるとすれば、その適任者は誰か?
 この温床自体を作り出した既成仏教の宗教家たちにはその任務は期待できない。
また、シラケて目覚めたインテリ層も、この温床の自覚的克服者ではないから、克服の筋道を指し示しうる力量がない。適任者がいるとすれば、それは、この温床の中に自分自身どっぷりつかりこんだ体験を持ち、その中からはい上がってきたという人間だけであろう。

立正佼成会の庭野日敬〔にっきょう〕氏などはこうした民衆的指導者の一典型である。
彼は、姓名判断等の俗信を活用して入門段階の信者の欲求を満たしつつ、しだいに法華経信仰一本へと育て上げてゆくというカリキュラムをこしらえ、それなりの成功をおさめた。

 伊藤もまた、占いで人を集めていた初期の拝み屋時代を見ればわかるように、この温床の真っただ中から出発した人間である。
そして現在でも「接心」の中に占い的要素を多分に残していることからもわかるように、教団の下部構造はこの温床の中にどっぷりと浸っている。
それでいて、その同じ「接心」の中で、占いに取り混ぜる形で仏教的教訓を語らせるように霊能者を訓練し、「接心」そのものを、占い的次元から宗教的次元へと信者を引き上げる、吸い上げポンプとして活用するようにしたのは、伊藤の技巧のうまさと言えよう。

 例えば、伊藤が教化用に作った「苑歌〔そのうた〕」の中には、「今日という日の吉凶を論ずより今日の行ない見返るぞよし」などというのがあるが、こういう「苑歌」は、接心の中でも「ご霊界からの言葉」としてポンポン飛び出してくる仕組みになっている。
自分の卑近な利害にとらわれる「占い」的関心から教団に接近した者が、「占い」的関心をある程度満たされつつ、そのことによって「絶対のご霊言」として信頼を置いた同じ「接心」の場で、この手の教訓を与えられて、知らず知らずに精神的に成長してゆくのは、確かにひとつの意義のあることではある。



何のための真如苑?(3)

 山口組三代目組長の故田岡一雄という人は、晩年には暴力団同士の抗争事件で世の顰蹙〔ひんしゅく〕を買い、マスコミからさんざんこきおろされた人ではあるが、彼を根っからの極悪人のように言うのは当を得た批評ではない。
彼は一人の有能な組織者であり、多くの輩下から慕われる存在であった。
戦後の混乱期には、警察自身ですら、警察の手の回らない治安維持の一部面において田岡氏の手腕を買い、彼の輩下の組員たちの活動を黙認することで、その治安維持機能を暗に評価していたという歴史がある。

 田岡氏は、自分の役割をつねづね次のように語っていた。
 「親の言うことも聞かぬような、ならず者はいつの世にもいるもので、ほうっておけば今よりももっと悪いことをするだろう。自分はそういう連中を集めて統制を加えることで、少しは世の中のためになる方向に生かしているのだ」
 なるほどこれは一理ある。
事実、債務支払期限が来てもぬらりくらりと逃げ口上を使って逃げるような、不徳な債務者などに対しては、いちいち裁判所に訴えたりするより山口組の「やーさん」に依頼して、ドスのきいたひと声で凄〔すご〕んでもらった方がはるかに手っとり早い。
親の言うことも聞かぬようなチンピラ(現代では、その多くは学歴社会の歪〔ゆが〕みが生んだ犠牲者であろう)でも、こういうことでなら、世の中の役に立つ。
それを取り仕切る田岡氏がいたことも、こう考えれば「諸法実相」である。

 伊藤真乗という人の役割を、私は基本的にこれと似たものと考える。
伊藤の役割を田岡氏の口上にならって叙述すれば、次のようになろう。
 「世の中には、占いやご利益信心にしか関心の向かない、低い宗教心の人というものは必ずいるもので、そういう人は、ほうっておけばますます迷いの中にはまり込んでしまうだろう。そういう連中を集めて統制を加えることで、少しは世の中のためになる方向に生かしているのだ」
 だから、伊藤がその分際をわきまえて行動していれば、何も文句をつける謂〔い〕われはなかったのだ。
分際をわきまえて「仏教宗派の中の特色ある人助け活動」という程度に自認していればよかったのだ。
そして、伊藤を踏み台にして、より高い宗教精神に目覚めてゆく人たちに対しては、「去る者を追わない」寛容さを持てばよかったのだ。
そうすれば、「このみ教えを疑う人はみな障害霊が入っているのです」などという無理な神話も必要なかっただろう。

 真如苑は、立教当初の「真言宗醍醐派・真澄寺」にとどまるべきであった。
「人類を救い、地球を救い、はてしない宇宙までをも救う真如のみ教え」になってしまったのは、「肥〔ふと〕りすぎた拝み屋の悲劇」である。



[『水ぶくれ真如苑』完結 ]


あとがき

:三土さんの真如苑入信のきっかけは、何だったか?わかりますでしょうか?

:詳しくは聞いていませんが、少なくとも、単なる取材目的の潜入ではなかったようです。
 『水ぶくれ』の中には「潜入してみたことがあるが……」と書いてありますが、「私もあなたと同じように、一時は本気で信じてみようと思ったことがあります。だからこそ、騙されたという悔しさがよくわかって、ああいうものが書けるんです。最初から研究目的で行っている一部の宗教社会学者のような人々は、騙されたという痛憤の念がないから、私に言わせればいたって呑気なことを書いていますが、あんなのは真実の報告になっていません」とのことでした。

もともと仏教に関心があったので、「在家のままでお釈迦様の最後のみ教えが学べる尊い場所なのですよ」とかいう知人の女性の勧めを真に受けて、導かれるままに行ってしまったとのことです。
でも、もとから仏教をある程度勉強していたので、三ヵ月もすると「こりゃ、へんだ」と思いはじめ、半年もするころには、お金もどんどん嵩んでくるし、「これ以上ついてっていいのか?」とずいぶん悩んだとかいうことです。

:ありがとうございました。よくわかりました。だから、「水ぶくれ」の後に、「幸せのメッセンジャー」を書かれたのですね。
ただ三土さんは、MC被害は、ほとんど無し?でしょうね。


E N D



著者の本職は経済学を専攻する大学教員だが、奈良の東大寺(華厳宗)で得度し、僧籍を持つ。 2005年夏には『靖国問題の原点』を発表し、特定の立場にとらわれずに問題全体の構図を明らかにしてゆく明晰さと誠実さが高く評価された。『水ぶくれ真如苑』はその著者の宗教評論方面のデビュー作で、カルト問題に真摯に向き合う人々から、今なお問い合わせが絶えない。 なお、筆名秦野純一による『幸せのメッセンジャー』は本書の小説版。

TOP / 教義的資料目次