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▼ しかし、釈尊自身が「刀による受難」に言及された箇所がありました。

妙法蓮華経 法師品 第十

「衆に処して畏るる所無く 広く為に分別し説くべし
  大慈悲を室と為し 柔和忍辱を衣とし
  諸法空を座と為す 此れに処して為に法を説け
  若し此経(法華経)を説かん時 人有りて悪口もて罵り
刀杖瓦石を加ふとも 仏を念ずるが故に應に忍ぶべし
  我千万億の土に 浄堅固の身を現じて
  無量億劫に於て 衆生の為に法を説く
  
若し我が滅度の後に 能く此経を説かん者には
  我、化の四衆 比丘比丘尼
  及び清信士女を遣はして 法師を供養せしめ
  諸の衆生を引導して 之を集めて法を聴かしめん
  若し人悪(みだり)に 刀杖及び瓦石を加へんと欲せば
則ち変化の人を遣はして 之が為に衛護と作さん

  若し説法の人 独り空閑の処に在りて
  寂莫として人の声無からんに 此の経典を読誦せば
  我爾時為に 清浄光明の身を現ぜん」


つまり、刀杖で攻撃されようが、瓦石を投げつけられようが佛を信じて耐え忍びなさい。
もし、他人がみだりに刀杖で攻撃したり、瓦石を投げつけるなら
「変化(へんげ)の人を遣わして護衛する」
と釈尊は仰いました。

日蓮正宗では意図的にこの文の引用を避けたのですかね?
釈尊直説なのに。

日蓮大聖人は生涯に二度刀による受難に遭っておられます。

小松原法難
龍ノ口法難

が、それです。
で、小松原法難では弟子の鏡忍房日暁と信者の工藤吉隆が殺害されました。
変化(へんげ)の人は現れず、護衛もして貰えなかった日蓮大聖人もこの時、額と左手に刀傷を負われます。

法華経には、それを説く後世の人が難にあったら「変化(へんげ)の人を遣わして護衛する」とあります。
日蓮大聖人は一体、何を説いておられたのでしょうか?

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   ★ → さ、いよいよ、問難者の黒い心根が顕になってきましたね。
そもそも、問難者はこう述べていた。 

▼ 「伊藤 真乗師その人が正しく教えを説かれたと信じているし、日蓮大聖人も偉大な名医であったと考えております。
(@ 伊藤真乗 の正当性の根拠 

自分で「偉大な名医」と讃えたはずの日蓮大聖人を今度は諸天の加護のない似非法華経行者として下す。。。
この尊い法華経故の法難を、このように揶揄できるとは。。。。
いやはや、論に追い詰められて、もう形振り構っていられないのであろう。
まずは良い機会だから、この小松原の法難の状況を共に学ぼう。
問難者にも少しは有るはずの、清純な信仰心にはどう感じるであろうか。

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  小松原の法難

弘長三年(一二六三年)二月二十二日、赦免になった日蓮大聖人は、ひとまず鎌倉へ戻られた後、御母の病篤しとの報せに、翌・文永元年(一二六四年)秋、安房の国に帰郷された。
 大聖人が帰り着かれた時、御母・梅菊は、まさに臨終を迎えられていたが、大聖人の祈りによって息を吹き返し、やがて病も癒えたのであった。
 以後、大聖人は、そのまま故郷にとどまり、安房方面一帯の布教に専心せられることとなった。
 が、その故郷の地では、大聖人立宗の頃より憎悪の念を懐いてきた地頭・東条景信が、この機会にとばかり、虎視眈々と大聖人殺害の機会を狙っていたのである。
 念仏の強信者であった東条景信は、建長五年の立宗宣言の際の遺恨に加え、その後において、東条の郷の旧領主である領家の尼との間に生じた領地をめぐる争いが、
大聖人の尽力によって領家側の勝訴となったこともあり、大聖人に対し、すさまじい怨念を持ち続けていたのであった。
 その景信が、うかつに大聖人を襲撃できずにいたのは、外護の檀越・工藤吉隆の力によるところが多かったものと思われる。
 同・文永元年十一月十一日、工藤吉隆は大聖人に自邸への来臨を願った。
 大聖人も快く招きに応じ、十人ばかりの供を連れ、布教に出向かれていた先の花房を発って、天津の工藤邸へと向かわれたのである。
 だが、東条景信が、この機会を逃がすはずがない。
 すでにあたりも暗くなった申酉の刻(午後五時頃)、大聖人の一行が途中の小松原にさしかかった時である。
 突如、東条景信が数百人の兵を率いて、一行を襲撃してきた。そのときの模様は、

■ 十十一月十一日、安房国(あわのくに)東条の松原と申す大路(おおじ)にして、申酉(さるとり)の時、数百人の念仏等にまち(待)かけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあ(合)ふものわづ(僅)かに三四人なり。
い(射)るや(矢)はふ(降)るあめ(雨)のごとし、う(討)つたち(太刀)はいなづま(雷)のごとし。
弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のて(手)にて候。
自身もき(斬)られ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、う(討)ちも(漏)らされていま(今)ゝでい(生)きてはべり。(南条兵衛七郎殿御書 文永元年一二一三日 四三歳 326)

と仰せのごとく、大聖人の一行のうち、応戦しうる者はわずか三、四人、知らせを受けて駆けつけた工藤吉隆も御弟子方とともに死力を尽くして防戦したが、衆寡敵せず、やがて御弟子の鏡忍房は討ち死にし、工藤吉隆もまた瀕死の重傷を負い、間もなく死亡した。
 大聖人御自身も、東条景信が切りつけた刀によって額に傷を負われ、左手を骨折せられたが、鏡忍房・工藤吉隆等の、文字どおり不自惜身命の働きによって窮地を脱せられたのである。
 仏法上の大罪である五逆罪のひとつに、出仏身血(仏身より血を出だす)≠ニいう罪があるが、このとき大聖人の御尊体を傷つけた東条景信は、その後、日ならずして狂死してしまった。
 大聖人は、工藤吉隆の不自情身命の働きに対し、僧礼をもって葬儀を行ない、妙隆院日玉上人と号した。
 伝えるところによれば工藤吉隆は、深手を負った際、夫人が懐妊中であったので、もし男子ならば大聖人の弟子にせよ、と遺言した。
この時の子が長じて日隆と号し、小松原に一宇を建立して妙隆寺と称したという。

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   ★ → 数百人対十数人。 景信側はもともと襲撃するために武装して集まった者ども。もちろん
大聖人のお供の方々はそもそもが僧道に励まれる御弟子が中心。
このような状況で生き延びられたこと自体が、既に不思議な御加護としかいいようがないではないか。

法華経の当該文

若し我が滅度の後に 能く此経を説かん者には
  (中略)
若し人悪(みだり)に 刀杖及び瓦石を加へんと欲せば
則ち変化の人を遣はして 之が為に衛護と作さん


とある。「能く此経を説かん者」に変化の人が遣わされて、必ず護る。ということである。
まさに、鏡忍房・工藤吉隆殿こそ この「変化の人」ではないか。

では、法難で亡くなった方々は、ただの非業の死を遂げたのか?

問難者の根拠とする涅槃経に有名な尊い話がある。

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涅槃経に云はく
「善男子、過去の世に此の拘尸那城(くしなじょう)に於て仏の世に出でたまふこと有りき。
歓喜増益(かんぎぞうやく)如来と号したてまつる。
仏(ほとけ)涅槃の後、正法世に住すること無量億歳なり。
余の四十年仏法の未、爾の時に一(ひとり)の持戒の比丘有り、名を覚徳(かくとく)と曰ふ。
爾の時に多く破戒の比丘有り。
是の説を作すを聞き皆悪心を生じ、刀杖を執持して是の法師を逼(せ)む。是の時の国王名を有徳(うとく)と曰ふ。
是の事を聞き已(お)はって、護法の為の故に、即便(すなわち)説法者の所に往至(おうし)して、是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。
爾の時に説法者厄害(やくがい)を免(まぬか)るゝことを得たり。
王爾の時に於て身に刀剣箭槊(せんさく)の瘡(きず)を被り、体(からだ)に完(まった)き処は芥子(けし)の如き許(ばか)りも無し。
爾の時に覚徳(かくとく)、尋(つ)いで王を讃(ほ)めて言はく、善きかな善きかな、王今真(いままさに)に是正法を護る者なり。
当来(とうらい)の世に此の身当(まさ)に無量の法器(ほうき)と為るべし。
王是の時に於て法を聞くことを得已(お)はって心大いに歓喜し、尋いで即ち命終(みょうじゅう)して阿枢ァ(あしゅくぶつ)の国に生ず。
而も彼の仏の為に第一の弟子と作(な)る。
其の王の将従(しょうじゅう)・人民・眷属(けんぞく)の戦闘すること有りし者、歓喜すること有りし者、一切菩提の心を退せず、命終して悉(ことごと)く阿枢ァの国に生ず。
覚徳比丘却(さ)って後(のち)寿(いのち)終はりて亦(また)阿枢ァの国に往生することを得て、而も彼の仏の為に声聞衆の中の第二の弟子と作る。
若し正法尽きんと欲すること有らん時、当(まさ)に是くの如く受持し擁護(おうご)すべし。
迦葉(かしょう)、爾(そ)の時の王とは則ち我が身是なり。
説法の比丘は迦葉仏是なり。
迦葉、正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん。
是の因縁を以て、我(われ)今日に於て種々の相を得て以て自ら荘厳(しょうごん)し、法身不可壊(ほっしんふかえ)の身を成ず。

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   ★ → この小松原の法難の相は、まさに、この有徳王・覚徳比丘と全く一致する尊い姿ではないか。
覚徳比丘を護る戦闘のために命を落とした有徳王が、なんと、後の釈尊となるのである。
こんなありがたいことがあるか!
この有徳王の話の前では、自分は涙なくしてはいられない。

問難者よ、少しは清浄な心があるのであれば、今回の自らの醜難を羞じよ!
そして、この涅槃経の経文を何度も拝してその醜心へ染めよ!

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龍口の法難に関しては まさに経典通りの不思議なる現象が起こり、それがために延命されたのではないか。

この大法難に遭われた御本人の記述を見よ。

■ 今夜頚(くび)切られへまか(罷)るなり、この数年が間願ひつる事これなり。
此の娑婆世界にしてきじ(雉)となりし時はたか(鷹)につかまれ、ねずみとなりし時はねこにくらはれき。
或はめ(妻)に、こ(子)に、かたきに身を失ひし事大地微塵より多し。
法華経の御ためには一度も失ふことなし。
されば日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。
今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん。
其のあまりは弟子檀那等にはぶく(配当)べしと申せし事これなりと申せしかば、左衛門尉兄弟四人馬の口にとりつきて、こしごへ(腰越)たつ(竜)の口にゆきぬ。
此(ここ)にてぞ有らんずらんとをもうところに、案にたがはず兵士(つわもの)どもうちまはりさわ(騒)ぎしかば、左衛門尉申すやう、只今なりとな(泣)く。
日蓮申すやう、不かく(覚)のとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそく(約束)をばたがへらるヽぞと申せし時、江のしま(島)のかたより月のごとくひかり(光)たる物、まり(鞠)のやうにて辰巳(たつみ)のかたより戌亥(いぬい)のかたへひかり(光)わたる。
十二日の夜のあけぐれ(昧爽)、人の面(おもて)もみ(見)へざりしが、物のひかり(光)月よ(夜)のやうにて人々の面もみなみゆ。
太刀取目くらみたふ(倒)れ臥(ふ)し、兵共(つわものども)おぢ怖(おそ)れ、けうさめ(興醒)て一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり。
日蓮申すやう、いかにとのばら(殿原)かヽる大に禍なる召人(めしうど)にはとを(遠)のくぞ、近く打ちよ(寄)れや打ちよれやとたかだか(高高)とよばわれども、いそぎよる人もなし。
さてよ(夜)あけばいかにいかに、頚切るべくわいそ(急)ぎ切るべし、夜明けなばみぐる(見苦)しかりなんとすヽ(勧)めしかども、とかくのへんじ(返事)もなし。

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この、月のごとくひかり(光)たる物、まり(鞠)のやうにて辰巳(たつみ)のかたより戌亥(いぬい)のかたへひかり(光)わたる。
この奇瑞こそ、まさに 変化の人 つまり、諸天善神が変化して末法の法華経の行者を護った大現証ではないか。

まさに、経文を証明すべき現証である。

問難者も、こちらの反論文に真っ向から正々堂々と全面的な反論ができず、いよいよ反論に窮して姑息な揚げ足取りのような、見苦しい足掻きを始めているようだが、もっと堂々と本格的で重厚な反論を期待したい。
勝他の念に執り憑かれて、惨めな醜態をさらないよう重々気を付けるべきであろう。

一信仰者として、もっと格調高くありたいものである。


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