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▼ 勧持品二十行の偈 に対する問難を破すについての反論

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   ★ ↑ に反論する

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▼ 樋田氏の再反論がありました。

H 勧持品二十行の偈 に対する問難を破す 

▼ 日蓮大聖人が受ける難に「刀による受難 何度も所を追われる」を持ってきて、日蓮大聖人自身も上行菩薩の自覚に至ったとされる文ですが、これは地湧の菩薩が釈尊に布教の覚悟を伝えたものに過ぎず、如来が言った事ではないから単なる「感想」に過ぎないと申し上げました。

その反論が延々なされていますが、釈尊は「末法の世に刀による受難、何度も所を追われる難にあっても法華の行者が現れる」とはこの勧持品では仰っていません。
樋田氏の反論も、反論と言うよりお経典のお話のあらすじ解説です。

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   ★ → 文意が読めない者とは本当に世話の焼けるものである。
まさに、法華経で説いた時に、こぼれ落ちた増上慢の五千起去と同様の状況を呈しているか。

H 勧持品二十行の偈 に対する問難を破す 

を噛み砕いて、再説しないと分からないらしい。

肝心な部分を再掲しながら追説する。
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■ 仏、今黙然として、告勅せられず、我当に云何がすべき。

時に諸の菩薩、仏意に敬順し、并びに自ら本願を満ぜんと欲して、便ち仏前に於て、師子吼を作して、誓言を発さく、

   ★ → この「仏意に敬順し」 というところで、菩薩衆は御仏の御心を深く知り、深く拝しているのである。
つまり、師の心を弟子として成り代って誓言しているのである。 

★ → つまり、この二十行(実際にはもっと長いが)の偈の内容は、そのまま師である御仏の御心を弟子の菩薩衆が拝して述べていると読み取らねばならない。
しかも、釈尊はこの誓言を聴かれて黙然としていたのではない。
もしただ沈黙されていたのならば確かに、その菩薩衆の誓言が是なのか非なのか、肯定なのか否定なのか分からない、とも言えるだろう。
しかし、釈尊は、勧持品の二十行の偈の内容を否定せず、むしろ、その内容を前提として、次の安楽行品第十四の御説法へ進まれているのである。
もし、二十行の偈の内容が釈尊の意に沿わなく間違っているとしたら、むしろ、その時点で、釈尊は何らかの否定の意思を示され、その間違いを示した上で正しい御教示をされているはずである。
であるから、勧持品二十行の偈は、菩薩衆の口を借りた形ではあるが、釈尊の御心を表示された、と拝すべきである。
そういう読み取りができない浅はかな姿を誡めて涅槃経で
「義に依って語に依らざれ」と訓戒されているのである。
真の仏法を知らない者は、かくも洞察力がないか、と驚くばかりである。



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