▼ また香ばしく煮詰まってきたようですね?
もはや自分でも自分の言っている事が解らない的な?
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★ ということで、古代から時間の円環性という概念があったということである。
本題に戻ると、
久遠元初に於いての本因妙の仏も、もちろん三身相即の八相作仏された仏なのである。
ただ、鎌倉時代と全く寸分違わず同じである必要もなく、その時の人界に生じた凡夫が妙法蓮華経を弘通し、その時の大法難を受けて、発迹顕本されて本仏の内証を顕され、衆生済度の「妙法蓮華経」を説かれる、その姿において全く「久遠即末法」なのである。
(もしかすると、時間が完全に円環するとしたら、鎌倉時代そのものが「久遠」なのかもしれない。ここについては諸説あってもいいであろう。
重要な点は、法身 というような理上の仏ではない。ということだからである
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▼ じかんがえんかん?
古代から円環性の概念があった?
そうですよ。
そうやって六道を輪廻するのです。
その六道からの解脱を説いたのが佛教のはずですが?
私がおかしいのかな?
ここまで引っ張っておいて輪廻のオチが来るとはちょっと考えもしませんでした。
だから、真言は法華経を下しているのではないですか?
「輪廻の教えじゃん!」とね。
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★ ↑ ほとほと、無知ですね。
「如来常住」 の意味が全く分かっておらぬから、こういう失態を公衆の面前に晒して恥をかくのである。
なにかこの現実社会から超絶したところに悟った如来が無始無終で永劫に不変で存在している。。。という概念自体が易信易解の随他意の方便・権教である。
それについては既に破折済。
143 概説 何故、釈尊は、仮想仏として敢えて 「法身如来=大日如来」 を立てる形で法を説かれたのか?
輪廻ついていえば、仏界を基軸として輪廻するか、九界で輪廻するか、(普通は六道輪廻であるが)、の違いが天地雲泥なのである。
即身成仏と言っても、どこか現実社会(娑婆世界)から超絶した世界に生まれ変わってそこで永久に真理そのものに冥合してしまう。。。
だなんて概念が既に方便・権教なのである。
確かに小乗経典などで説く「解脱」という概念はこれにあたるであろう。
が、しかし、それ全部、機根の未熟な衆生の理解度に合わせて説いた方便・権教の教説。
真乗などは仏教の本質など全く分からないレベルなので、輪廻の本質が全く分かっていないのである。
いなむしろ邪師魔師ペテン師なので、衆生を絶対の真の成仏の境界へ行かせない働きをするである。
そこで、釈尊の権教の概念を信者に植え付け擦り込みそして縛りつけ、結局、六道輪廻・三悪道。四悪趣へ引き摺りこむのである。
今現在真如狂徒自身、仕事上で大変な苦境に立たされているらしいが、それは何か尊い意味のあることではなくて、ただ真乗の邪義・邪説・魔説を信じたが故に起きている仏罰である。
そしてそれは今後三悪道・四悪趣へ引き摺り込まれていく序章でもある。
真の仏教では即身成仏・常楽我浄・三世常恒・常寂光土。。。。などなど様々な角度から表現されているが、これ全て、仏界を基軸として現実社会において師子王の如くの大境涯で生死生死を繰り返す、そここそが真の成仏の姿なのである。
そこを生死即涅槃という。
まっ、これ以上は今真如狂徒にいくら説いても無理。
ここは正しい末法の法華経へ命懸けで修行して体得する境地だからである。
まずは 真如苑教徒への再反論を何度も何度も読み返して、自分が教義的に完全に反論不能になったことを深く猛省して、慚愧して、真乗への偏執を捨てることからであろう。