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ラリッてますか?


★ 結局、みなこの三身即一身の問題が解けないから、「法」そのもの という方向へ逃げる思考性なのである。

で、久遠元初の法を説いたのは、久遠元初の御本仏である。
もちろん、三身相即 きちんと肉体を持たれた仏である。

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▼ ではそれはいつ頃ですか?父母は?その御本佛はどうやって悟ったのです?

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   ★ ↑ 「我本行菩薩道」 の具体的な相は示されていない釈迦仏法。
では、その時のことを説かれた方の教説に素直に耳を傾ける以外に知る由はない。
日蓮大聖人が久遠の本仏であったことの簡明な道理

その日蓮大聖人の教説から「久遠即末法」という概念が示されている。
久遠に凡夫として実際に父母から出生した肉体を持たれた方が、即座開悟されたのである。
それはまさに鎌倉時代に本地 久遠本仏 垂迹 上行菩薩 顕本 日蓮 として現れた日蓮大聖人と全く同じ軌を取られた、と解する他はない。
ただし、その時の衆生世間で使用されていた言語が何であるかまでは特定され得ないし、またそれが重要な要素ではないであろう。
久遠元初のある時点に出現した凡夫僧が鎌倉時代の日蓮大聖人と同様の化導の姿を示され、大法難に遭い、発迹顕本されて御本仏の境地を顕されるのである。

こちらが「大日如来の父母の名は?」と詰問している意義は、大日如来というそのものがそもそも肉身を持たない、つまり手も口もない、法身如来である、という矛盾を突く端的な例としてであり、別に父母の名前そのものなどに拘っているのではないことは、素直に読めば分かることである。
根性が捻くれているから、元々のテーマ「手も口もない法身如来というものが、一体どうやって法を説き、衆生を化導するのか?」
という正当な論議に反論が出来ずに、上記のような捻くれた観点でしか反論らしいことができないのである。
惨めさを上塗りしたようなもの。
 

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寿量品の「我本行菩薩道」の釈尊を成仏せしめた本仏である。
釈尊の仏法は、釈尊が成仏できたその本因を極めていくと、結局この一言に突き当たるのである。
つまり、釈尊は、詰まる所、自分が成仏したその一番根本のところの修行の具体的な相を明かしていない、とも言えるのである。
何故なのか?
この問いを、仏教史上、明快かつ論理的に説き明かした方は、古今東西、日蓮大聖人しかおられない。


そんな下らない事を云々する為に日蓮大聖人は生まれたのですか?


何度も説明してきたが、(ただ問難者がそれを理解できないだけであるが)
この「我本行菩薩道」の時の本仏が、釈尊の極説、妙法蓮華経の説時に涌現されるのである。



それは、釈尊の正法滅尽の時代に「誰か、この法を弘めるや?」との問いに応える形でである。
しかも、その時、居並ぶ弟子である、菩薩や二乗を「止みね善男子」と制止してからである。

因みに、一代仏教経典において、滅後末法の明確な法付嘱を説いているのは、法華経だけである。
もちろん上行菩薩が出現するのも、法華経のみ。

ここに

久遠の妙法とは「妙法蓮華経」 人即法・法即人の御本仏が存在 
→ 釈尊はこの御本仏を師として「妙法蓮華経」を修行して成仏 
→ インド応誕 「妙法蓮華経」を説く時 地涌の菩薩(内証・久遠本仏)が出現 妙法蓮華経を付嘱し末法の弘通を託す
→ 予言通りに誕生して久遠の「妙法蓮華経」を弘通 → 日蓮大聖人

こういう図式が矛盾なく成立する。 


だから、その「人」ってだれです?

どうやって「久遠の妙法」なるものを覚ったのです?

父母から生まれた時から既に法華経を覚っていたから「人即法」「法即人」とかラリった事を仰ってますか?

他宗のものが納得いくように説明してください。

自分でもよく消化できていないのでしょ?

矛盾だらけじゃないですか!


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