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▼ 涅槃経 と 法華経 の優劣について反論

   ★ → 上記の新たな主張部分だけをコピーする。

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これは涅槃経と法華経の関係を分析した言説です。

ややこしいので、図を使って要点を述べます。

 

上記図表のAの領域(円の部分)が法華経で救うメインの領域、そこから漏れたC-AB(円Cから円Aを差し引いた残余のB部分を救うのが涅槃経だと主張しています。

 

しかし、大般涅槃経名字功徳品には

 

「八大河悉く大海に帰するが如し」

 

―(「南無阿弥陀仏」の河も、「アーメン」と唱える河も、はたまた「南無妙法蓮華教」と唱える河も、河はやがて海に行きつくように)という意味―

 

と説かれ、更に

 

「また医師一つの秘方ありて、悉く一切所有の医術を摂するが如し。善男子、如来もまた爾なり。諸説の種々の妙法、秘密深奥蔵門、悉く皆、この大般涅槃に入る。」

 

― 医師が根本となる奥義を以て、その他の全ての医術を使いこなすようなもの。如来もまた同じように、今まで説いてきた妙法(法華経も含む)、言葉では説き明かせなかった教え(秘密深奥蔵門)も悉くこの大般涅槃に入っているという意味 ―

 

つまり、図で言うCの円形が涅槃経で、円Aの法華経はその中に入っているという意味です。

 

「一日の仕事が終わっても(法華経)、残務(涅槃経)があれば日を改める」

=全て終えないと「仕事した」とは言えません。

 

 

 

「秋の収穫をして(法華経)、落穂(涅槃経)を冬蔵に納めて」

=両方を併せて「収穫が完了」したと言います。

 

つまり涅槃経とは「仕事」であり、「収穫」です。

それも、図に示したBの領域のような「残務」のみを指すのではなく、「メインの仕事」も内包する図表Cに示したものです。

 

つまり円Aをも内包する円Cであり、法華経(円A)は涅槃経(円C)に内包されるのです。

卵で言えば、黄身(法華経)、白身(涅槃経)ではないという事です。

 涅槃経は卵そのもので黄身(法華経)も抱いているという事ですね。

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   ★ → もはや、何か聞き分けのない駄々っ子の様相を呈している。

このようにくどくどしく言う前に、

改訂版 法華経 優 涅槃経 劣 の証明 に真っ向から取り組ましょう。

それができたならば、今回の細かい部分についても摧破しましょう。


要点だけを書き出す。

@ 法華経 優 

■ 「我が所説の諸経 而(しか)も此(こ)の経の中に於いて 法華最も第一なり(中略)我が所説の経典、無量千万億にして、已(すで)に説き、今説き、当(まさ)に説かん。而(しか)も其(そ)の中に於て、此(こ)の法華経、最も為(こ)れ難信難解なり」(『法華経』法師品第十)

法華経以後の涅槃経を指して、(当(まさ)に説かん。) その上で、、此(こ)の法華経、最も為(こ)れ難信難解なり(=最も第一なり)

と明言されている。
この釈尊の言に対して、まず正当な筋道正しき反論をすべきであろう。
(釈尊の明言に反論するとすれば凄いことだが。。。)

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   ★ → 図解がまず間違っている。
一往、再往 の義が読めないから、このような浅薄な理解しかできなくなるのである。
このような、深い義は、単純な図式などできないのである。
むしろその凡夫の浅智に仏法の深義を無理やり合わせようとするから摧尊入卑の咎となるのである。

一往の辺

五千起去の衆生は、法華経で取りこぼされた。と言える。

が、

再往の辺

既に、下種を受けた衆生であるが故に、遅かれ早かれ得脱できる衆生である。
法華経の会座を立ち去った理由は、まさに「増上慢」であり、「未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。」の衆生達である。
しかし根底においては救われることは確定的であった衆生達でもある。
それは、以下の経文で証明されている。

■ 方便品第二
我本誓願を立てて
一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき
我が昔の所願の如き 今者(は)已に満足しぬ
一切衆生を化して 皆仏道に入らしむ (111下-01)

まさに、法華経によって皆成仏道が決定したのである。

では、なぜ、五千起去のような出来事が起きたのか。(むしろ釈尊が起こした。と採るべきであろう。)
全ては仏の深い御仏意である。
つまり、五千起去のできごとは、まさに「増上慢恐るべし。」と在世・滅後・正・像・末の衆生を警醒し誡めるための甚深の大悲と御仏意であったと拝すべきであろう。

釈尊は後の偈で重ねて詳細に説かれている。

■ 爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんど欲して、偈を説いて言わく、
比丘比丘尼の 増上慢を懐くこと有る
優婆塞の我慢なる 優婆夷の不信なる
是の如き四衆等 其の数五千有り
自ら其の過を見ず 戒に於て欠漏有って
其の瑕疵を護り惜しむ 是の小智は已に出でぬ
衆中の糟糠なり 仏の威徳の故に去りぬ
斯の人は福徳尠くして 是の法を受くるに堪えず

正しい仏道を進まんと決意する者としては、斯く成ってはならない!と実に身の引き締まる思いになり、自らを誡める糧となるではないか。

事実、伊藤真乗のような、「未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。」のような者が顕れて、法華経最勝 と随所で釈尊が証明されているにも関わらず、己義・我見を以って、涅槃経 勝 と立て、経文のどこにも書いていない、霊能だの接心だの抜苦代受だの外道義を持ち込み、仏法を惑乱するのである。

が、しかし、今は、熟益・脱益の時代ではないので、そのような悪逆を犯しても根底的に救われる、ということはないのである。
つまりは悪業を犯せば、心よりの反省懺悔改心がない限り、その犯した罪の分量、極悪報をを受けなければならない。

そういう者達にならぬよう、またそう云う者達に騙されないように遠き未来をも熟慮されて起きた(必然的に起こされた)出来事であったと拝すべきであろう。


であるから、五千起去 を以って 涅槃経 優 の証明にはならないことを肝に銘じるべきであろう。



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