勧持品二十行の偈は菩薩衆の口を借りた釈尊の御心についての反論
21 勧持品二十行の偈は菩薩衆の口を借りた釈尊の御心
↑樋田氏の論点
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▼ 淡々と行きます。
相手をねじ伏せる事が正しいと言う考え方を現実社会でもしているのですかね?
このような人格になったら、営業職は決して出来ないと思いますけど。
さて、
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★ → この「仏意に敬順し」 というところで、菩薩衆は御仏の御心を深く知り、深く拝しているのである。
つまり、師の心を弟子として成り代って誓言しているのである。
★ → つまり、この二十行(実際にはもっと長いが)の偈の内容は、そのまま師である御仏の御心を弟子の菩薩衆が拝して述べていると読み取らねばならない(強制)。
しかも、釈尊はこの誓言を聴かれて黙然としていたのではない。
もしただ沈黙されていたのならば確かに、その菩薩衆の誓言が是なのか非なのか、肯定なのか否定なのか分からない、とも言えるだろう(推論)。
しかし、釈尊は、勧持品の二十行の偈の内容を否定せず、むしろ、その内容を前提として、次の安楽行品第十四の御説法へ進まれているのである。
もし、二十行の偈の内容が釈尊の意に沿わなく間違っているとしたら、むしろ、その時点で、釈尊は何らかの否定の意思を示され、その間違いを示した上で正しい御教示をされているはずである(推論)。
であるから、勧持品二十行の偈は、菩薩衆の口を借りた形ではあるが、釈尊の御心を表示された、と拝すべきである(強制)。
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▼ お気づきですか?
貴方はこの調子で全て日蓮正宗の教義に照らして「べきである」とか」「言えるだろう」とか「はずである」とか「ねばならない」ばかりです。
推論も良いですし、確固たる確証があるなら「べきである」と強制するのを私は、否定はしません。
ですが、貴方の議論はそればかりですよね?
貴方(日蓮正宗)のアナロジーは要りません。
異教徒との間にも共通言語を持ってほしいです。
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★ ↑ もはや正当に反論できないものだから、この頃の投稿はこのように相手の人格攻撃が増えて来てますね。
なんか、将棋の対戦で勝敗ついた後から解説しているみたいで面白い。
21 勧持品二十行の偈は菩薩衆の口を借りた釈尊の御心
この論証に対して、正当な論としては全く反論できてませんね。
法華経のこの箇所の経典の流れを良く拝すると、理の指し示す処、「勧持品二十行の偈は菩薩衆が述べているが、その意は釈尊の御心である」と拝す以外ないでしょう。と主張していることに、経典を根拠として、なんらの反論もできていない。
ただ自分の主観と正当に反論できない苛立たしさで、こちらの論の進め方が日蓮正宗の宗派理論によってゴリ押しをして断定しているだけ。と根拠もなく難癖をつけているだけではないか。
この頃からもう反論不能の悲鳴が聞こえてきてますね。
その焦りと、いら立ちも。
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