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日蓮大聖人が 偽書「周書異記」を基にした仏滅年代を用いられた理由についての反論

▼ 全く自分が何をしているのか解りません。
何で私がこんな下らない論にもならないものに反論しなければならないのか?
日蓮正宗の人々は、私が議論を放棄すれば喜ぶでしょうね?
喜ばして差し上げます。
私は、日ならずしてこの議論とも言えない議論を放棄するでしょう。

Q 日蓮大聖人が 偽書「周書異記」を基にした仏滅年代を用いられた理由

↑樋田氏の主張です。一応、レスを入れておきます(緑が樋田氏)。
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 ★ → 簡単である。
この当時、「周書異記」に依る仏滅算定は、仏教界の定説であり、日蓮大聖人に限らず、他のほぼ全ての仏教家はこの説を基に仏滅年代を特定していた。
その一般的定説をそのまま用いられただけである。
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▼ 私は日蓮大聖人を偉大だと今でも思っていますが、樋田氏、貴方のような弟子を持って大聖人は嘆いておいででしょう。
「当時流行(仏教界の定説)の説をそのまま用いて、末法到来の時期を算定した」
と貴方は仰っているのです。
佛がこんな重大事を流行の説に惑わされて間違うはずないでしょ?
天眼通を以て、釈尊入滅がいつだったか、自分は何故生まれたか?
佛の神通を以て見れば簡単な事でしょう。
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   ★ ↑ もうここが仏法の基本が全くわかっていない証拠。

もう、既に敗北宣言をしたので、日蓮大聖人が末法の教主→上行菩薩再誕→久遠元初の御本仏 であることには反論不能が確定した。
釈尊は久遠のことは「我本行菩薩道」としか説いていない。
ということは久遠本仏の御事は、久遠本仏の仰せを拝さなければ分からない。

■ 久遠とははたらかさず、つくろはず、もとの儘(まま)と云ふ義なり。無作の三身なれば初めて成ぜず、是動(はたら)かさゞるなり。三十二相八十種好を具足せず、是繕(つくろ)はざるなり。本有常住の仏なれば本の儘なり。是を久遠と云ふなり。久遠とは南無妙法蓮華経なり。実成(まことにひらけたり)、無作と開けたるなり(御義口伝 1772)

この御姿こそ、まさに久遠本仏の御正体である。
またこの御姿こそ、究極の仏の姿である。
この仏こそ、本因妙の仏 下種の教主 と申し上げるのである。

■ 末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり。法とは題目なり。僧とは我等行者なり。仏共(とも)云はれ、又は凡夫僧共云はるゝなり。(御義口伝 1779)

凡夫即極 こそ仏法の究極である。

釈尊 → 熟益 脱益 の教主 → 三十二相八十種好の色相荘厳の仏 → 不思議神通を現ずる → 本已有善 の機が熟した弟子たちを化導
久遠本仏 → 下種の教主 → 凡夫即極 → ありのままの凡夫そのまま → 本未有善 の未だ全く仏種を植えられていない粗凡夫に下種され直ちに即身成仏させる

末法の教主は釈尊のように特殊な能力とか神通力などで身を飾る必要がない。
ありのままの凡夫僧こそ、凡夫身から発迹顕本を顕して、即身成仏への道筋をその身を通して御教導され真の主・師・親として一切衆生を救済できるのである。

一例を挙げれば、例えば釈尊の十大弟子がそれぞれ持っていた通力のその一つでも今の衆生が現ずることができるか?
できないのである。誰一人。
つまり、釈尊の当時の衆生と、末法の衆生である我々とでは機根が全く違うのである。
衆生の機に感じて仏は出現する。
末法の衆生の機根は十大弟子に代表されるような通力など全く持ちあわせていないので、末法の教主がもし仮に神通力などを多用するような仏だとしたら、そこには師弟は全く隔絶してしまい、即身成仏できる因縁が生じないのである。
 
真乗などの邪師・魔師・悪師・ペテン師に心酔しているから、こんな仏教の大綱・骨格がまるで分からないのである。


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