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▼ (日蓮大聖人の)法華経では釈尊は「やがて滅びゆく過去の佛」でしょうが、真如苑では過去・現在・未来、永遠に存在する佛の智慧と慈悲として釈尊を捉えています。
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★ → 日蓮大聖人が久遠の本仏であったことの簡明な道理
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▼ また、法華経の救いから漏れたものは涅槃経で救う訳ですから、私などは涅槃経でないと救われないのが道理でしょう。
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★ → 釈尊が法華経を説かんとされたその時、退出した五千起去は、そもそも、釈尊の過去世、大通智勝仏の十六番目王子の時、下種し教化してきた所化・弟子である。
その下種があるが故に、今ここで法華経の会座から一旦退出しても、後に過去の下種が熟し、必ず解脱するのである。
が故に敢えて制止しなかったのであって、「法華経で救えなかった。」などと考えるのは実に軽率の極みである。
そもそも、涅槃経は法華経の流通分であることが領解できれば、本質的な所では一体不二なのであって、法華経の会座を退して、後に涅槃経で救われたとしても、それは役割の違いであって、それを以って涅槃経を優と判断することはまことに軽薄と言わねばならない。
ではまず、当該箇所をを示しておこう。
五千起去
方便品第二
爾の時に世尊、舎利弗に告げたまわく、
汝已に慇懃に三たび請じつ。豈説かざることを得んや。汝今諦かに聴き、善く之を思念せよ。吾当に汝が為に、分別し解説すべし。
此の語を説きたもう時、会中に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人等有り。即ち座より起って、仏を礼して退きぬ。所以は何ん。
此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。此の如き失有り、是を以て住せず。
世尊黙然として、制止したまわず。
爾の時に仏、舎利弗に告げたまわく、
我が今此の衆は、復枝葉無く、純ら貞実のみ有り。
舎利弗、是の如き増上慢の人は、退くも亦佳し。
汝今善く聴け、当に汝が為に説くべし。(099下-12)
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化城喩品第七
諸の比丘、我今汝に語る。彼の仏の弟子の十六の沙弥は、今皆阿耨多羅三藐三菩提を得て、十方の国土に於て、現在に法を説きたもう。
無量百千万億の菩薩、声聞有って、以て眷属と為り。(274下-11)
(中略)
第十六は、我釈迦牟尼仏なり。娑婆国土に於て、阿耨多羅三藐三菩提を成ぜり。
(中略)
此の諸の衆生、今に声聞地に住せる者有り。我常に阿耨多羅三藐三菩提に教化す。
是の諸人等、応に是の法を以て、漸く仏道に入るべし。所以は何ん。
如来の智慧は信じ難く解し難ければなり。
爾の時の所化の、無量恒河沙等の衆生は、汝等諸の比丘、及び我が滅度の後の、未来世の中の声聞の弟子是なり。
★ → 五千起去のできごとは、まさに「増上慢恐るべし。」と在世・滅後・正・像・末の衆生を警醒し誡めるための甚深の大悲と御仏意であったと拝すべきであろう。
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★ → 釈尊の仏法においては、在世、正法・像法 の期間で釈尊と過去結縁の衆生等は、悉く救済された。
過去に下種があったが故に、救済されたのである。
つまり、釈尊の仏法は、熟益 脱益 の仏法なのである。
当然ながら、種が植えられていなければ、熟し、解脱 しようがない。
正法・像法 とはそのような過去に下種を受けた衆生が生まれてくる時代であり、
その悉くが救済された後の末法とは、全く下種を受けていない衆生が出現して来る時代なのである。
その末法には、熟・脱の仏法である釈尊の仏法では衆生救済できない。
新たに、下種の仏法の出現がなければ、末法の衆生は救済されないのである。
そういう 種・熟・脱 の大きな循環と因縁に基づいて、正法・像法・末法(法滅)の時代相は説かれている。
そのような深遠かつ壮大な御仏の御深慮を拝さずして、皮相的・表面的に仏法を見ているだけでは大きな過ちを犯す。
問難者においても、他の末法の衆生と同様、下種がないが故に末法に生まれてきているのであって、本因妙の下種の教主の仏法によってのみ救われるのである。
いつまでも熟益・脱益の教主・釈尊に執着し、拘っていることは、全く筋違い、見当ハズレなことであり、一生を無駄にしてしまうのである。
のみならず、正しい教法に背く訳であるから、膨大な重罪を積んでしまうことになるのである。
これ偏に、邪師・伊藤真乗に対する妄執から来るのである。
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