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▼ まず、龍猛とは実在の人物で南インドに生まれた人です。ナーガールジュナの音訳です。彼の教えは鳩摩羅什によって中国へもたらされました。
即ち現在、日本の法華経8巻28品を訳した人(鳩摩羅什)の師匠が龍猛です。当然、彼(龍猛)も深く法華経を理解しておられたでしょう。

以下 Wikipedia より引用

ナーガールジュナの作、鳩摩羅什の訳とされる『大智度論』には、数カ所で『法華経』の内容が引用されています。法華経を理解していなければ、引用できないようなことですから、ナーガールジュナは法華経を深く理解されていたのではないでしょうか?

たとえば、第一百巻では次のように論じられています。

般若波羅蜜非祕密法。
而法華等諸經説阿羅漢受決作佛。大菩薩能受持用。
譬如大藥師能以毒爲藥。

般若波羅蜜は祕密法に非ず。
而も法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説いて、大菩薩能く受用す。
譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し。

以上 引用終わり

ところで、法華経で言う、「我本行菩薩道」、そこからもたらされる「釈尊を悟らせた四菩薩」こそが、始まりもなければ終わりもない「久遠元初の佛」という説をそっくり大日如来に当てはめたらどうでしょう?

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   ★ → 大日如来とは、釈尊が方便で説いた架空の仏である。  もし、そうでないと否定するのならば、

@−2 改訂版 真言宗 及び 伊藤真乗 の矛盾を粗々突く

ここで挙げた種々の矛盾点に対して、経典を引き、明確に反証しましょう。
それが、成し遂げられないうちは、「大日如来」 という存在を真言宗があるいは伊藤真乗が言うようには無条件で採用できない、ということを知りましょう。

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▼ 大日如来とは宇宙そのものであり、初めもなければ終わりもなく、足す事も引くこともできない(大方広仏華厳経)ものです。

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   ★ → 華厳経 に本当に「大日如来」の定義としての経文があるのですか?
原典を掲示してください。
伊藤真乗が意訳しているのではありませんか?
もし、盧舎那仏 というのでれば、また反論できる用意があります。
いずれにせよ、正確な文献的証拠の提示をしてからでないと論は進められません。

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▼ そして、仏教では釈尊より前に悟ったという佛が沢山おられます。この佛様方は架空ではあっても、「久遠元初の佛」の教えで修行して悟ったはずです。
ここが大乗仏教の根拠です。
「伝えられた(原因)」→「修行した(縁)」→「成仏した(結果)」
五百億塵点劫の昔に悟った釈迦佛もこのプロセスから外れてはいない。
法を聞くという因縁があって悟りへと至れる。これが
大日如来(佛=すべての因)→金剛薩?(実在しないが因を得た結果としての佛)
例えれば大日如来は宇宙そのもの、それが爆発して時空間が生まれ、沢山の恒星(如来)が生まれたというイメージです。

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   ★ → ここも上記と同様。凡夫のイメージで深遠な仏教を軽々しく語ってはいけない。

@−2 改訂版 真言宗 及び 伊藤真乗 の矛盾を粗々突く

これに反論してから進めましょう。

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▼ で、それを受けてこの現実世界で教えを説くことになったのが
金剛薩?(法を伝えられた抽象的存在)→龍猛(法を伝える具体的な存在)
のプロセスです。

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   ★ → 根本の大日如来の存在を証明できないうちは、それ以降の誰をどう語っても無意味。

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▼ 少し議論が抽象的になりましたが、

・久遠元初の佛=大日如来と読んでも我本行菩薩道とは矛盾しない。

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   ★ → 同上 

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▼ むしろ、法華経では4菩薩となっている事から、他の菩薩の位置づけを無視して、ただ上行菩薩だけが久遠元初の佛(宇宙の根本)とは言えない。

  ★ → 既に破折済。

再掲(多少、加編集あり)

▼ 論点が少しずれましたが、ずれたついでにもう一つ。
「末法における法華経の要法」なるものを託されたのは、上行菩薩のみですか?四大菩薩ですか?
これは大きな問題です。
末法の世に、法華経の要法を悟った菩薩は一人しか出ないのか?複数出るのか?
また、日蓮本佛論にも直結してくる話です。

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   ★ → ほとほと論点が低劣である。
上行菩薩一人に四菩薩全てが摂せられるのである。
それでいて、 『四菩薩』 と標するのである。
仏教では 二而不二 不二而二 という基本中の基本の概念がある。
二にして二に非ず  二に非ずしてしかして二

一に他を摂し はたまた 一が開いて多 なのである。

まずは、この基本概念を少し学んできたら、この論点を詳説しましょう。』

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▼・末法の法華経(日蓮大聖人の法華経)は、釈尊の法華経と別物ではない。もしそうならば、因の無い所から勝手に「日蓮の法華経」という結果が生じた事になる。従って、釈尊の法華経の功徳が切れそうになったのを看破した日蓮大聖人がいわば「中興の祖」となったとしなければ因果律に反する。

 というような事が言いたいわけです。

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   ★ 種・熟・脱 という仏法の大きな展開を知らないのである。
これは植物が 種から始まり、果実となり、完熟し食べられる。その中に種を宿している。 
その種がまた成長し、果実となり 云々。。。。。
この循環の姿と同じである。

→ 久遠元初の法そのものが妙法蓮華経(略して法華経と呼称) 
→ 人に即して法 法に即して人 の御本仏が存在。 この仏を下種・本因妙の仏という。またこの仏法を下種仏法という。 
また善根のない生命に直ちに仏になる種を植えるが故。
→ 釈尊はその久遠元初の妙法蓮華経を修行して五百塵点劫の昔に成道する。
下種が実って成仏したので、釈尊を熟脱の仏という。釈尊が説かれる仏法を熟脱の仏法、本果妙の仏法という。
→ その後、処々に八相作仏して出生し、種々の法を説き、必ず最後に妙法蓮華経を説き、衆生を得脱せしむる。
→ インドに応誕し、種々の方便教を説いた後、妙法蓮華経を説き、過去に下種受けてここまで得脱できなかった衆生一切を得脱せしむる。
→ この時、熟脱の仏として未来末法に於いて熟脱の衆生が全くなくなり、再び巡りくる下種仏法の時代のために、上行菩薩へ付嘱する。
→ その後、正法・像法の間、熟脱の衆生は一切得脱する。
→ すると時代はまた全く下種を受けてない衆生だけの時代となり、下種の仏が応誕する。
→ それが外用上行菩薩 その内証が久遠元初の下種・本因妙の御本仏。

全く、因果律に矛盾がない。


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