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▼ 大般涅槃経梵行品

▼ なんか、樋田氏を見ていると「おお!やっとるな!」と言う気分になります。
私は、これだけ引っ張れば言いたい事は大方言い尽くしたかなとも思いますので、※@後は時に応じて対応する事にします。

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   ★ ↑ はい、※@ いよいよ、反論不能で、自分の都合のいいところだけ摘み食いしてちょこっと反論して体裁を繕う、といった図式ですかな。

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▼ ですから、日蓮正宗の皆さんはあと一息なのです。
日蓮大聖人は涅槃経をたびたび引用しながら、それを説けなかった。
まさか、「ちょっと解らないから説けない」とは言えない。
それは日蓮大聖人に限らず皆さん同じです。
「所々の箇所を見るとなんかすごい経っぽいけど、全体としてよく解らない」
実際、涅槃経の内容はこれまでの仏説とも涅槃経の内容同士でも矛盾があると言います。
涅槃宗の方々もよく解らなかった。
天台智もよく解らなかった。
で、涅槃宗の方々は矛盾を突かれて論破されたという経緯が史実としてあります。
何が言いたいのか?
誰にも説けない程、釈尊のご内証そのものを解き明かした最も難解な教え=涅槃経
その教えを説けたのは2500年になんなんとする歴史上、伊藤 真乗 大僧正猊下以外には居られなかったという事です!
これを論破して下さいと申し上げています。
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   ★ ↑ いやはや、、、閲覧者の皆様、どうですか?
もはや「狂人の雄叫び」としてしか聞こえない。
ひょっとして酔って書いているのか?
にしても酷い。
もう「論議」というテーブルから完全に転げ落ちて、ただの酔っぱらいの暴言レベルである。
居酒屋で酔っぱらった課長が、ドン引きしている部下連中に向って、があがあ、言いたい放題を言いまくっている。。。という図 である。

が、
その中でも見逃せないのは、最も難解な教え=涅槃経 ここである。
そんなことはどこにも書いていない。

そもそも、この論議の始めは、
「法華経が已・今・当において最も難信難解である。」という法華経の経文の解釈から始まったことではないのか。
この点については全く異論はなかったはずである。
つまり、法華経こそ、已に説き、今説き、当に説かん。その中でこの法華経が最も難信難解 なのである。
涅槃経ではない。
「最も難解な教え=涅槃経」
この発言は明らかに間違いである。

もし、真如教徒としての誇り・矜恃がまだあるのならば

きちんと謝罪して訂正しなさい。 
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▼ 釈尊は、大般涅槃経梵行品のなかで、弟子に涅槃経についてこれまで説いた経典との対比
「是れ即ち勝となす、善男子、この義を以ての故に、甚奇甚特(じんきじんとく)にして思議すべからず」
と、仰っています。
これが最勝だよ!それ以上、余計な事を考えてはいけないよ!」
という意味ですね。

これは怪しげな新興宗教の勧誘員の言葉ではありませんよ。
釈尊の直説です。
で、涅槃経には随所に「難思議」であり「思議すべからず」とか「不可思議(考える事も語ることも無理!ってこと)」と出てきますね。
要は、法華経までは、まだ難しいながらも説けたけど、涅槃経は如来の内証すべてなので言葉にもできなければ、いくら考えても理解できないという事です。
一応、言葉では説いているけど、36巻に渡る量です。
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   ★ ↑ これなんですけどね、後にこちらの追及に困って、すり替えてますね。

118 あれ?▼『涅槃経は「不可思議」=思う事も論ずることもできない』 って言ってましたよね? すり替えましたね〜!卑怯・姑息のの卑劣漢!

今回の文の時ははっきり ▼「涅槃経自体が最勝である、何故なら涅槃経は甚奇甚特=不可思議で、考えることも語ることもできない。からだ(趣意)」と
はっきり言ってますね。
だから、▼「法華経までは、まだ難しいながらも説けたけど、涅槃経は如来の内証すべてなので言葉にもできなければ、いくら考えても理解できない」
と、ねじ繰り回して、何だか無理くり、「涅槃 勝 法華 劣」 をごり押ししてます。

しかし、後になって、

不可思議なのは 『佛の内証』 

としらばっくれて、すり替えている。
であれば ▼最も難解な教え=涅槃経 などと、涅槃経にもどこにも書いていなかった。ということになる。 
はい、やはり、これは根拠・文証のない完全な妄執である。
潔く、男らしく、謝罪して訂正したまえ。

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で、 悩乱者は ■「是れ即ち勝となす、善男子、この義を以ての故に、甚奇甚特(じんきじんとく)にして思議すべからず」
の「甚奇甚特(じんきじんとく)にして思議すべからず」=不可思議 の箇所を

不可思議なのは 『佛の内証』  と主張を(すり)変えた。

そんなことは、無量義経・法華経(おそらく多くの他経)にも随所に説かれている。
ということは、この経文は、「涅槃 勝 法華 劣」 の根拠にはならない。ということである。

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【文証】 他、類文繁多

無量義経
善男子、是れ則ち諸仏の不可思議甚深の境界なり。二乗の知る所に非ず、亦十住の菩薩の及ぶ所に非ず、唯仏と仏のみ乃し能く究了したまえり。

無量義経
善男子、第二に是の経の不可思議の功徳力とは、若し衆生有って、是の経を聞くことを得ん者、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、則ち能く百千億の義に通達して、無量数劫にも受持する所の法を演説すること能わじ。所以は何ん。其れ是の法は義無量なるを以ての故に。

善男子、第六に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子、善女人、若しは仏の在世、若しは滅度の後に、是の経典を受持し、読誦せん者は、煩悩を具せりと雖も、而も衆生の為に法を説いて、煩悩生死を遠離し、一切の苦を断ずることを得せしめん。衆生聞き已って、修行して得法、得果、得道すること、仏如来と等しくして差別無けん。

  ★ ↑ 無量義経ですら、仏と等しくなる=成仏できる と説かれている。
何も涅槃経だけが特別に突出して勝れているなんて義はどこにもない。
真乗の単なる思い込み、我執に過ぎない。それに騙されて貴重な人生の時間を無駄にした悩乱者が哀れである。

無量義経
此の経は能く是の如き無量の功徳、不思議の力有って、衆をして疾く無上菩提を成ぜしむ。

方便品第二
舎利弗に告ぐ 無漏不思議の
甚深微妙の法を 我今已に具え得たり
唯我のみ是の相を知れり
 十方の仏も亦然なり

法華経方便品
止みなん、舎利弗。復説くべからず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。

従地涌出品第十五
爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく、
当に精進して心を一にすべし 我此の事を説かんと欲す
疑悔有ることを得る勿れ 仏智は思議し?し

法華経神力品
爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、
諸仏の神力は、是の如く無量無辺不可思議なり。若し我、是の神力を以て、無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て、嘱累の為の故に、此の経の功徳を説かんに、猶尽すこと能わじ。
要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示頭説す。

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   ★ ↑  以上、悩乱者が書けば書くほどに、ボロボロである。
少しは自分の前言に責任を持ちなさい。
そして、前言を替えた時は、しっかり謝罪して、どっちの言を採用するのか、はっきり訂正して明示しなさい。

実に、情けない。みっともない。男らしくない。男である。

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