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▼ 6、 法華経如来寿量品第十六 −日蓮本佛の根拠―

「我本行菩薩道」と一言の引用です。
これは、釈尊が五百塵点劫、正しくは五百億塵点劫の昔に佛となった因を説いています。
つまり、釈尊が「誰か」に師事し、菩薩行を重ねた結果、既に昔成仏していたと言う訳です。
で、この「誰か」が暗に上行菩薩を指すと言うのです。この事は論点8で触れます。

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7、 法師品第十・分別功徳品第十七 −日蓮本佛の根拠―

「吾が滅後の悪世に 能く是の経を持たん者をば
当に含掌し礼敬して 世尊に供養するが如くすべし 324


若し一劫の中に於て 常に不善の心を懐いて
色を作して仏を罵らんは 無量の重罪を獲ん
其れ 是の法華経を読誦し持つこと有らん者に
須臾も悪言を加えんは 其の罪復彼に過ぎん


人有って仏道を求めて 一劫の中に於て
合掌し我が前に在って 無数の偈を以て讃めん
是の讃仏に由るが故に 無量の功徳を得ん
持経者を歎美(たんみ)せんは 其の福復彼に過ぎん

以上 法師品第十

「若し我が滅度の後に 能く此の経を奉持せん
斯の人の福無量なること 上の所説の如し

悪世末法の時 能く此の経を持たん者は
(中略)
無量の功徳を得ん


若し此の法師の 是の如き徳を成就せるを見ては
応に天華を以て散じ 天衣(てんね)を其の身に覆い
頭面(ずめん)に足を接して礼(らい)し 心を生じて仏の想(おもい)の如くすべし

以上 分別功徳品第十七 460


これらの文を根拠に「法華経を説く人」は釈尊より偉い、なぜなら「一劫(とんでもない長い時間)」佛をののしり続けたものの罪よりも、「須臾(わずかな間)」法華者の悪口を言った罪の方が重いというのです。

しかし、これは根拠にならないでしょう。

※@ 「お釈迦様は肉体でなく、悟りの智慧そのものです。」
で、※A 「悟りの智慧そのもののエッセンスである法華経を罵れば、それは重罪です。」
※B 「法華経と悟りの智慧としての佛は一体」であって、どちらが偉いなどナンセンスです。※C 「さらに言えば、その悟りの智慧を説く僧も同じです。
いわゆる三宝一体です。」
※D 「勿論、肉体の釈尊と悟りの内容である法華経を比べたなら法華経が上にくるという理屈なら解ります。」

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   ★ → まず先に、こちらの主張を挙げておきましょう。

日蓮大聖人が久遠の本仏であったことの簡明な道理
   

その上で、問難者はまず仏教のイロハが分かっていないようですね。

▼ ※@ 「お釈迦様は肉体でなく、悟りの智慧そのものです。」
   
   ★ → 肉体のない「智慧」だけで、どうやって「法」を説くのか? 

▼ ※A 「悟りの智慧そのもののエッセンスである法華経を罵れば、それは重罪です。」
   
   ★ → @ その「法華経」は、一体、誰が説いたのか? 「智慧」には口があるのか?
        A 法華経が悟りの智慧そのもののエッセンスである とは誰が、いつ言ったことなのか? 「智慧」がしゃべったのか?
        B 「智慧そのもの」 と 「エッセンス」 の違いはどこにあるのか?しかもそれは誰が言ったのか? 
「智慧」 がそう言ったのか? 根拠は?どこにその証拠があるのか?

▼ ※B 「法華経と悟りの智慧としての佛は一体」
   
   ★ → 誰がどこで言ったのか?「智慧」がしゃべったのか?

▼ ※C 「さらに言えば、その悟りの智慧を説く僧も同じです。いわゆる三宝一体です。」

   ★ → これも誰が言ったのか?「智慧」がしゃべったのか? 

▼ ※D 「勿論、肉体の釈尊と悟りの内容である法華経を比べたなら法華経が上にくるという理屈なら解ります。」

   ★ → ? 「肉体の釈尊」? あれ? では先ほどの ▼ ※@ 「お釈迦様は肉体でなく、悟りの智慧そのものです。」 と矛盾しないか?
智慧そのものの釈尊 と 肉体の釈尊 の整合性を示してください。
しかも、上掲の法華経の経典に説かれる、「我」 「仏」 は一体、どっちなのか?
もし、肉体の釈尊ではない、智慧の釈尊 だというのならば、その根拠は?

もう、ボロボロですね。。。

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8、 従地涌出品第十五 −日蓮本佛論の根拠―

「是の菩薩衆の中に、四導師有り。一を上行と名づけ、二を無辺行と名づけ、三を浄行と名づけ、四を安立行と名づく。是の四菩薩、其の衆の中に於て、最も為れ上首唱導の師なり。
大衆の前に在って、各共に合掌し、釈迦牟尼仏を観たてまつりて、問訊して言さく、
世尊、少病少悩にして、安楽に行じたもうや不や。応に度すべき所の者、教を受くること易しや不や。世尊をして疲労を生さしめざるや。
爾の時に四大菩薩、而も偈を説いて言さく、
世尊は安楽にして 少病少悩にいますや
衆生を教化したもうに 疲倦無きことを得たまえりや
又諸の衆生 化を受くること易しや不や
世尊をして 疲労を生さしめざるや
爾の時に世尊、諸の菩薩大衆の中に於て、是の言を作したまわく、
是の如し、是の如し。諸の善男子、如来は安楽にして、少病少悩なり。諸の衆生等は、化度すべきこと易し。疲労有ること無し。
(中略)
爾の時に諸の大菩薩、而も偈を説いて言さく、
善哉善哉 大雄世尊
諸の衆生等 化度したもうべきこと易し

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「譬えば少壮の人 年始めて二十五なる
人に百歳の子の 髪白くして面皺めるを示して
是等我が所生なりといい 子も亦是れ父なりと説かん
父は少く子は老いたる 世挙って信せざる所ならんが如く
世尊も亦是の如し 得道より来甚だ近し
是の諸の菩薩等 志固くして怯弱無し
無量劫より来 而も菩薩の道を行ぜり
難問答に巧にして 其の心畏るる所無く
忍辱の心決定し 端正にして威徳有り
十方の仏の讃めたもう所なり 善能く分別して説けり」(これは弥勒菩薩の感想)


▼ さて、ここが先ほどの「我本行菩薩道」とつながってくるわけです。
釈尊に「お釈迦様、お疲れではありませんか?」と四菩薩はやや上から言い、いろいろ話し合ったりしますが、弥勒菩薩がそれを見て「25歳の青年」が「100歳のおじいさん」を自分の子供ですと言っているみたいだと感想を述べます。

釈尊=25歳の青年
四菩薩=100歳のおじいさん

で、樋田さんの深い所は、釈尊を教化したのは四菩薩ともってくる所です。

五百億塵点劫の過去に成仏した釈尊であっても、釈尊が「誰か」に師事し、菩薩行を重ねた結果、既に昔成仏していたと言う訳です。いわゆる「有始の佛」という奴ですね。従って有始有終。初めがあるなら終わりがあるという事ですね。※@「従って釈尊は末法の世に入ると効力を失い抜け殻だけが残る佛教観。」(※こういう解釈はしていません。)

そして、釈尊を悟らせた四菩薩こそが始まりもなければ終わりもない、「久遠元初の佛」というまぁ、壮大なお話です。

で、日蓮大聖人は内には久遠元初の佛、外観上は上行菩薩となり、自らは先ほどの時期・方角・弘める経・法難を踏まえて自分を上行菩薩としたわけです。

   ★ → こちらの主張を概説してあるだけなので、細かいニュアンスは違うところもあるが、特に大きく反論する必要はない。



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