「世界真光(まひかり)文明教団」・「崇教(すうきょう)真光」

神の矛盾について
火の洗礼 の大矛盾を突く
戦後「世界救世教」に入信した良一
昭和49年6月23日、岡田光玉が73歳(脳溢血)で死亡
ヘビースモーカーだったのが大きな原因だったのでは?
葬儀の席上
主祭神
考えられる被害の類型
先祖を祀るうえで一番大切なのは「位牌(いはい)」を作って「食事を供える」こと
位牌値段
破折
三沢抄
費用
問題は固定会費よりも、「任意」とされる各種御礼が積み重なる点
病・貧・争・災
霊体が曇っていたり汚れていたりすると、不幸な生活を余儀なくされるという。

参照 元信者の貴重なブログ 証拠写真多数あり
光玉・真光の矛盾を鋭く突く

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伊勢にはヤハエが祀ってあります。 
本家に主神神殿がない
メシアと言ってみたり、ヤハエと言ったり、ミロクといったり、日本では天照主と言ってみたり
主神というものが他に違わない
ミロクだ、天照主だ、メシアだ、何だというのは神様嫌がっている
神裁き
光玉の死後、二代目の地位をめぐって紛争が発生  スイスの高級時計
昭和四九年六月二三目に、岡田良一という初代の教え主、つまり宗教法人の代表役員が脳溢血で死亡
(宗)世界真光文明教団代表役員地位確認請求事件
裁判所は「御神示というのは、何ですか。コピーではないか。
裁判所の「秘文」についての判断
裁判所に提出された証拠資料 スイス製の時計
法定伝染病は手をつけるな
2008年現在の初級真光研修では以下の病名は治ると教義している。


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 成立・教義

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 岡田光玉(こうたま 本名良一)が創立した「世界真光文明教団」は、活動の目的を、手かざしによる「真光(まひかり)の業(わざ)」で、この世のすべてを浄化し、神の世界を地上に実現することとしています。

 また、「崇教(すうきょう)真光」は、光玉が死亡した際、後継者争いに敗れた光玉の養女・恵珠が教団から分派独立して設立したものであり、教義の大綱は世界真光文明教団と、ほとんど変わりありません。

● では、「崇教(すうきょう)真光と世界真光文明教団とでは同じ神なのか?
● 同じだとすれば、なぜ別の宗教団体として活動する必要があるのか?
● 神はなぜ自ら裁定をせず、日本の裁判によって判定されたのか?
● 本来魂が浄化されている最高幹部がなぜ裁判で継承権を争うなどと醜い争いをしたのか?
手かざしでは魂が浄化されないという証拠ではないのか?
● 両教団で御利益は同じなのか?違うのか?
● その後も激しく分裂・離脱が繰り返されているが、これも魂が浄化されていない見本ではないのか?
● 恵珠が教え主(二代目教主)になれるその因とは?どういう修行をしどのような悟りを得てその重責に就けたのか?
● それは三代目も同様。恵珠の息子という理由だけで為れるものなのか?
それでは、まさに新興宗教の人的財的財産を受け継ぐ形と全く同じではないか。

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沿革・歴史

 岡田良一(よしかず)は、戦時中、病気や経済苦などを経験し自殺まで考えたといいます。
良一は、陸軍士官学校第34期を卒業した旧日本陸軍将校で、最終階級は陸軍中佐であった。
教団関係の伝記資料によれば、昭和12年には大本営第一鉄道輸送司令部課長として、上海・杭州湾作戦および南京攻略の輸送作戦に携わったとされる。
したがって、南京攻略を兵站・輸送面から支えた軍人だったとはいえる。
ただし、南京市内における虐殺・略奪などに岡田本人が直接参加したことを示す史料は、現在のところ確認されていない。

 戦後「世界救世教」に入信した良一は、ゴム長靴や地下足袋の行商をしながら、世界救世教の浄霊法である「手かざし」活動を熱心に行なっていました
しかし、世界救世教教祖・岡田茂吉の死去により教団内に内紛がおこると、良一は宗教的独立を考えるようになりました。

● 手かざしは岡田茂吉の二番煎じ 光玉が創始したわけではない。
● 岡田茂吉の手かざしとの違いは?
● 似たような手かざしの業は幾多もある。それらとの違いは?

 昭和34年2月、良一は高熱により意識を失いました。
そのころ、
「神の道といい、経文、バイブルなどなど、おのおのそのカケラを語らしめしのみ。…汝、その奥を語らしめられん。神理のみたま、汝の腹中に入る。汝その聞く所を語らん。天の時到れるなり。起て、光玉と名のれ。手をかざせ」(趣旨・御聖言24)
との神の啓示を受けたといいます。

これは「世界救世教」の岡田茂吉が受けたとする神示と、ほとんど同じ内容です。



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昭和6年(1931年)6月15日の「夜昼転換」の啓示

岡田茂吉の教義上、最も重要なのはこちらです。
岡田茂吉は昭和6年6月15日、千葉県の鋸山において、
霊界が「夜の時代」から「昼の時代」へ転換した
という啓示を神から直接感得したとされています。
現在の世界救世教いづのめ教団も、これを「霊界の夜昼転換」の啓示として説明しています。

その意味は、およそ次のようなものです。

これまでの世界は神の光が弱い「夜の世界」だった
これからは神の光が強くなる「昼の世界」に移行する
神の光が強くなると、人間の霊体に蓄積した「曇り」が浄化される
その浄化作用が病気・災害・社会的混乱などとして現れる
神の光を人間に取り次ぐ方法が「浄霊」である
岡田茂吉には人類を浄化し、地上天国を建設する使命が与えられた

という教説です。

「手をかざす」浄霊との関係

岡田茂吉は、人間の病気や不幸の根本原因を「霊体の曇り」と捉えました。
そして、神から発する霊的な光を手掌から相手に放射すれば、その曇りが溶解・浄化され、肉体も改善すると説きました。
これが世界救世教の「浄霊」です。
信者は岡田茂吉の書いた「光」などの文字を納めた「御守り」または「おひかり」を身につけ、そこを神の光を受ける媒介として、相手に手をかざします。
この仕組みは、真光の次の教義と非常によく似ています。

世界救世教・岡田茂吉 真光・岡田光玉
神の光 真光・主神の霊光
浄霊 真光の業・お浄め
手をかざして光を放射 手をかざして霊光を放射
霊体の曇り 霊的曇り
曇りが病気・不幸を生む 曇り・霊障・毒気が不幸を生む
御守り・おひかり 御み霊
夜から昼への転換 火の洗礼・霊主文明への転換
地上天国の建設 地上天国・霊主文明の建設
岡田茂吉が神の使命を受ける 岡田光玉が神示を受ける

※「岡田茂吉の神示とほとんど同じ」とは、次の共通構造を指しています。

神から直接、世界救済の使命を授けられたとする
従来の宗教は不完全・部分的だったとする
新しい時代への転換を説く
神の光によって人間を浄化するとする
手かざしを具体的な救済方法とする
病気・不幸を霊的な曇りの浄化現象と説明する
最終的に地上天国・新文明を建設するとする

したがって、より正確に表現するなら、

● 岡田光玉が受けたと称する神示は、岡田茂吉の特定の神示をそのまま複写したものではない。
しかし、「神光による浄化」「手かざし」「霊的曇り」「文明転換」「地上天国建設」という啓示の骨格は、岡田茂吉の教説をほぼそのまま継承している。


● 実際、岡田光玉は立教以前に世界救世教へ所属し、浄霊活動に従事していました。
したがって、偶然の類似というより、世界救世教の浄霊思想を基礎に、名称と終末論的表現を変更・増幅して真光教義を構築した、と見るのが自然です。


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● 「天の時到れるなり、」というのであれば、それ以前は到ってなかったということになる。
しかし岡田茂吉が言っている内容とほぼ同様であり、むしろ光玉が茂吉の言葉を踏襲したと見るのが自然。
それは、茂吉のやり方を単純に真似た、ということではないのか?

●「魁(さきがけ)のメシア」と言うのは、虚飾・虚偽であり、信者獲得のための僭称ではないのか。
● なぜ光玉が「魁のメシア」たり得るのか?どのような因とか修行があってその立場と成り得たのか?
● ある精神疾患患者が誇大妄想でそのように神の声を聞き、自分が救世主だと宣言するのとどう違うのか?

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 「魁(さきがけ)のメシア」として立教を決意した岡田光玉は、養女岡田甲子(のちの恵珠)とともに
昭和34年6月、大田区大森にある天祖神社で第一回「真光初級研修会」を催し、
8月には神田須田町で「LH陽光子友乃会」を創設して布教をはじめ、
翌年には立川に、
36年には八王子に支部を置きました。
昭和37年2月、世田谷区羽根木に本部「元(もと)み魂(たま)座」を新築し、「世界真光文明教団」と改称して、翌年には宗教法人の認証を受けました。
昭和43年2月、大田区田園調布に仮本殿を建築し本部を移転。
昭和44年に光玉は神の啓示をまとめた『御聖言』を刊行しました。
さらに
昭和48年には、教団の崇教局長という重要ポストに関口榮が就任しています。
昭和49年6月23日、岡田光玉が73歳(脳溢血)で死亡しました。
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岡田光玉(本名・岡田良一)は、昭和49年(1974)6月23日に死去した。
死因について、光玉死後の教団代表権をめぐる訴訟を担当した大野正男弁護士は、「脳溢血で死亡」と明記している(大野正男「(宗)世界真光文明教団代表役員地位確認請求事件」『宗教法』第5号、宗教法学会、1986年11月、25〜42頁)。
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● 教祖が73才で「脳溢血」で死亡、とは手かざしなど全く効果がないのでは?なかなかの早死にでは?
● 光玉はタバコ愛飲者 タバコは生命を害する「毒」ではないのか? 自己管理が出来ずに脳溢血でそこそこの早死にをしてのでは?
● 医薬品や化学品(医薬品・食品添加物・農薬等)の毒を肉体に注ぎ込んだりすると、肉体を劣化し心までも汚れていくという。
『宗報』第23号掲載 新宗教調査報告II(新宗教研究プロジェクト 崇教真光
現宗研(※「日蓮宗現代宗教研究会」か)においては、六月二十一日に高山市の本部において調査取材の機会を正式に得ることができた。
調査に当たったスタッフ一同は、高山市の本部を訪ね、事業局長であり、広報部長の平塚林司氏よりお話を伺い、スタッフの質問にお答えをいただいた。

● ↓ 光玉はヘビースモーカー 「医薬品・食品添加物・農薬」 以上の害毒が煙草にはあるのではないか?
その結果 「肉体が劣化し、心までも汚れ」たのではないか?

● 今教団は「煙草」は排除しないのか?
上記の主義と矛盾しないか?
教祖がヘビースモーカーだったから触れられないのか?

現宗研リポート
○ 最初から土地・種を浄めてから蒔き、手かざしと言霊で育て、毒の無いものを食するということで、神様によって浄められた肉体を、毒を有する食物で汚してはいけないと、日常生活のうえから真光の教えを生かしているといえる。

● 教祖光玉が煙草まみれであったと言うことは、光玉自身は穢れていた、と言うことか?











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 葬儀の席上、教団は「光玉は生前、『第二代教え主を関口榮に』との神の啓示を受けていたとして、関口榮を後継者に指名しました。
しかし光玉の養女・恵珠は「光玉の死去の10日前に、光玉から直接『ヨの御み霊』を授けられ、教え主継承の儀式を終えている」と反論し、恵珠が教団代表役員の登記を済ませてしまいました。

 これに対して訴訟を起こした教団・関口榮側が裁判に勝利し、のちに関口が正式に第二代教え主に就任しました(宗教法人の代表役員として関口榮が登記完了)。
 これを受けて岡田恵珠は文明教団から分派独立し、昭和53年に「崇教(すうきょう)真光(まひかり)」を設立しています。

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● 争いは魂の汚れではないのか?
● 教団最高幹部の醜い裁判闘争は、まさに魂の汚れでは? 手かざしには効果がない証明ではないか?

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◇教えの概要

 主祭神は、御親元主真光大御神(みおやもとスまひかりおおみかみ)といい、主の神、または主の大神とも称しています。
教団では、この神を宇宙天地万象万物創造の大元・中心の神と規定し、神道では天照大神、仏教では聖観音、キリスト教ではヤハエ、回教ではアッラーの神と呼ばれる、これらの神や菩薩の大元の神であるとします。

参照

「陽光子祈言集」

▼ 一、神・幽・現の三大宮界即三千大千世界は観念界哲学界のものに非ずして実在界即実相界にして:……:
主の神の大深霊、光の息吹きの界なり。


元主一(もとスはじまりかむ)は万象界創造化育繁茂悠遠の弥栄えの為、それ等一切を統一運営し給う:::
ヒト万霊万物共通の主たり。
………モウシュ・釈尊・イエス・孔子共に主に神向きせる権化なり。


現代宗教研究 第23論文から

三、本尊

御親元主真光大御神(みおやもとすまひかりおほみかみ)が主祭神。
配祀神は、伊都能売大国魂大国主之大神(いづのめおほくにたまおほくにぬしのおほかみ)。

主祭神は天地創造の神で、通称「王(ス)の神」ともいわれる。
この神は誰でも信仰できる神ではなく、信仰しなくてはならね大根元の神様で、大親神様であるという。


この「主の神様」は、
惟神(かんながら)の道で述べると、御親元主「天之御中主」真光大御神、又は御親元「天照主」真光大御神、
仏教で述べると御親元主「正(聖)観音」または御親元主「アミダブハ」、
キリスト教で述べると御親元主「弥栄(ヤハエ・アーラご真光大明神と称えられるもので、

神道の天照大御神、
仏教の聖観音、
キリスト教の「ヤハェ」、
回教の「アラーの神」と、

各々称名されているのと同じであるとしている。


それは「神向き讃詞」に

▼ 御親元主真光大御神(みおやもとすまひかりおほみかみ)此の土に現われまし給いては

弥栄(※ヤハウェ)
正観音
法身大日如来
アミダ

と化し、
又或る時は

観世音菩薩

ともなり仏界に救いのみ業をなし給い、

或る時は

応身五六七救世主ともなり

顕現し世の大立て直し み救いの大きな み業を成し給う

と述べ、すべて御親元主真光大御神の化した姿として述べられ、大御神に帰一されることが述べられている。

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●  神道の天照大御神、
仏教の聖観音、観世音菩薩
阿弥陀仏 法身大日如来
応身の釈尊
キリスト教の「ヤハェ」、
回教の「アラーの神」

らは、それぞれが言っている事は、全くばらばら、統一性など全くない。
むしろ彼らの存在や主張は完全に相互に対立する内容である。
それが、此の土に真光の神の化身として顕現して、法を説き、救済をした、などとは、全くの支離滅裂な戯言である。
もし、光玉が言うことが真実だとしたら、その真光の根本の神は、まさに精神錯乱した統合失調症患者、ということになる。


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更に「神の義」には

正観音も幽界(かくりよ)ゃや現世(うつしよ)に下生致せば、如来にも菩薩にも応身の仏にも、女夜叉にも自在に化け申して、救いに降てしたるなり。
本来は神なり。
神仏元一つなり。
何れが上何れが下にてもなし。
神の子の為、心の下座行致させたり。
観音下座の行なり。


と述べ、神仏元一つと説明している。

この「主の大御神」の存在証明は、


▼ 今一つ汝のヨあり。”神は光なり”コトバなり”と示されある通り、汝はその”証人”となりて世に光とコトダマ、四十八神(ヨトヤガミ)のみ働きのサトリを与える役もあるなり。
いまだ真その証をなし 得しもの出さざりしによる。
……神と共に生き、神の光とコトダママ証致し、神の光、陽の光なることを証致せよ。
証できる人魂を次々造り育てよ 捧げよ

(昭和三十四年五月十五日の神示) にある。

即ち、救い主岡田光玉の存在がその証であり、また証明できる「種人」を育てることがその証明を示し、そのための霊術「真光の業」という神業が特に与えられていることを以ってするのであろう。

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● つまり手かざしができるから、光玉の言っていることは、真の神の存在の証明となる。ということである。
また、手かざしの業を習得した者を多数輩出できることが、真の神の使いとしての証明となる。
こういうことである。
とんだお笑いである。


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● これを主張しているのは世界中で岡田光玉一人。ではそれを証明できる根拠はどこにあるのか?
● 似たような論理は天理教でも言っている。
もし天理教が正しいと仮定すれば、「天理王命」が根本大元の神ということになり、光玉の主張は全くの虚偽、詐称となる。
では天理教を邪教と判定できる根拠はあるのか?
● 同じくキリスト教でも、仏教でも、儒教でも、日本神道でも、光玉の主張は全く違う。
これら全ての宗教の主張が間違いである、と証明できる根拠は?

●つまり、後から出てきた新興宗教はほぼこの論理を立てるが、それはまるで後出しじゃんけん、言ったもん勝ち、
でも、証明はできない、これでは全く信用できないではないか。。

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 教団では以下のような「神様のご計画」「宇宙の法則」という神理正法の教えを説いています。

 主神が人間を創造した目的は、主神が用意した資源を人間に開発させて、神の世界を地球上につくることにある。
ところが人類は物欲に執われ、罪を重ねたため、主神との交流ができなくなった。
そこで主神は、イエス、釈迦、モウシェ(モーゼ)、マホメットなどの聖者を遣わし、人類の物欲にブレーキをかけようとしたが効果がなく、ついに人類は主神を忘れ、否定するに至った。
やむなく人類の物質文明を行き詰まらせることを決意した主神は、大天変地異等による「火の洗礼」を行ない、汚れた地球と人類を浄め、その浄められた人々種人によって、次の新しい文明(霊主文明)への再出発をさせようとしている。
その実現のために、初代教え主・岡田光玉を通して、人類に火の洗礼が到来することを知らせるとともに、洗礼から逃れる方法として「手かざし」による真光の業を与えたと、このように教団では説明するのです。

 ですから、不幸の原因をすべて解消し、人々を幸福へ導く具体的方法が「手かざし」とされ、この手かざしによって人々は主神の存在を知り、神の子としての本来の姿に還り、神性化していくといいます。

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● 裁判で醜い後継者争いをする最高幹部が「神の子として神性化」されているのか?(笑)

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 手かざしは、三日間の研修会を受講することで、誰にでもできるようになり、みずからが奇跡を起こせるようになるそうです。
なお、10歳以上であれば、人種や国家、宗教の違いを問わず、誰もが受講できるとしています。


 なお「崇教真光」では、この手かざしは、人間だけでなく食品や水、動物・機械・家屋などに施しても大きな効果が得られるなどとし、それらをさらに宗教儀式や宗教商売として、さかんに利用している面もあります。

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対象 主張される効果
水・食品 「毒気」を浄め、味や鮮度を改善する
農作物・土壌 農薬・化学肥料の影響を浄め、生育を良くする
動物 病気・衰弱・霊的曇りを浄める
自動車・機械 故障部分に手かざしすると動き出すことがある
家屋・土地 霊的な曇りや憑依霊を浄め、家庭不和などを改善する
書類 契約書や訴訟関係書類に手かざしすると、交渉や裁判が有利に動く
金銭・商売 店舗・商品・帳簿などを浄め、商売の流れを良くする


考えられる被害の類型

● 医療面

病気を「霊障」「毒気」「霊的曇り」と説明される

薬を「毒気」と見なし、服薬に罪悪感を抱く

医療より手かざしを優先して受診が遅れる

治らない場合、本人や先祖の業、感謝不足、信仰不足が原因とされる

症状悪化を「浄化作用」「毒が出ている過程」と解釈する


● 経済面

初級研修を受け、「御み霊」を身につけなければ手かざしができない

研修、奉納、月々の霊線保持に関する金銭負担

建物や農場、祭典などへの奉納

不幸や病気を改善するため、奉仕・奉納を増やすよう心理的圧力を感じる

手かざしの効果を前提に、農作物や商品の価値を高く評価してしまう


確認できる真光系の裁判

よく紹介されるのは、昭和63年(1988年)に提起された「ス座奉納金返還請求事件」です。

東京地方裁判所・昭和63年(ワ)第11701号
信者らが数千万円から約1億円を奉納
「ス座世界総本山」の具体的な建立計画が実行されなかったとして、奉納金返還を請求

ただし、これは崇教真光ではなく、分裂後のもう一方である「世界真光文明教団」に対する訴訟です。
「同じ岡田光玉系の世界真光文明教団で起きた奉納金返還訴訟」と表記すべきです。

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 教団では、人間は霊体・幽体・肉体の三つからなり、この三体を司る主魂(しゅこん)が、額の奥10センチほどの所に宿っていると教えます。
人間は死ぬと肉体から主魂・霊体・幽体が抜けて幽界へ往き、200年から300年間にわたって、幽界で現界への執着を取るための行をするといいます。
そして、この行が終わり再び現界に人として生まれることを「再生」といい、行を怠ったり、物・金に執着が強いと「転生」という動物に生まれ変わるそうです。
人は再生と転生という仕組みのなかで鍛えられ、いろいろな経験を通してより高度な神性化人になっていくと教えます。

信者は日々の修行において、『御聖言』と『祈言(のりごと)集』を用います。
『御聖言』は光玉が主神より神示を受けたという内容を収録したものであり、『祈言集』は、手かざしにあたって唱える祈り言葉や光玉の教示を収録したものです。

 また教団では、人間は先祖あっての存在であり、また現実に先祖は霊界で生きて活動していると教えます。
そこで「敬神崇祖」の精神を説き、神の仕組みに則り正しく先祖の霊を祀ることが大切であるとします。

先祖を祀るうえで一番大切なのは「位牌(いはい)」を作って「食事を供える」ことと説いています。
先祖は位牌を通して、子孫が供えた食事をたべて、ひもじい思いをせず、「幽界生活」を元気に送れるのだそうです。

● 崇教真光公式サイトは、次のように説いています。

> 神界にも霊界にも宗門宗派はなく、「霊界の法則」がある。
> 各家庭で位牌を作り、食事を供える必要があり、先祖は位牌を通して食物の供養を受け、ひもじい思いをせずにいられる。
[崇教真光公式「先祖供養について」](https://sukyomahikari.or.jp/qa/index.html)

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問題は、これを真光自身が「普遍的な霊界の法則」と主張している点です。

### 1.宗派を超えた普遍法則なのに、日本・中国特有の位牌を必要とする矛盾

位牌は、古代中国の故人の官位・姓名を表示する側面と、儒教的な祖先祭祀における木主・神主としての側面があった。
それが、主に禅宗を通して日本では鎌倉・室町時代以降に仏教葬祭へ取り入れられ、江戸時代に一般家庭へ普及したものです。
ところが真光は、
* 霊界に宗門宗派はない
* 霊界には普遍的な法則がある
* その法則に従うには「位牌」が必要
と説きます。
しかし位牌を作らなかった古代人、キリスト教徒、イスラム教徒、欧米人、アフリカや先住民族の祖先はどうなるのでしょうか。
● 中国・日本で成立した特定の祭祀用具を、全人類に共通する霊界の法則とするのは明らかに不自然です。

### 2.位牌成立以前の祖先は、どうやって食事を受けたのか
位牌が日本に普及したのは比較的新しい時代です。それ以前にも無数の祖先がいました。
真光の説明を文字どおり受け取ると、
> 位牌がなければ、先祖は子孫の供えた食物を受け取れず、ひもじい思いをする
ことになります。
では、位牌という制度が存在しなかった時代の日本人の霊は、全員ひもじい状態だったのでしょうか。
もし別の方法でも供養を受けられたなら、「各家庭で位牌を作らなければならない」という必然性が崩れます。

### 3.霊が食物を必要とする仕組みが説明されていない
死者には肉体も消化器官もありません。したがって、
* 霊は何を食べるのか
* 食物の成分なのか、匂いなのか、「霊的エネルギー」なのか
* 供えた食物が減らないのに、何が霊界へ移るのか
* どの先祖が、どれだけ受け取るのか
* 位牌が通信路になる根拠は何か
という基本的な問題が生じます。
「位牌を通して供養を受ける」と述べるだけで、その作用機序を示す客観的根拠はありません。
### 4.転生・神上がりとの関係も曖昧になる
真光系の霊界観では、死者がいつまでも同じ状態で仏壇周辺にいるとは限らず、霊界で修行し、上位の世界へ進んだり、再生したりすると説明されます。
そうであれば、
* すでに再生した祖先
* 神上がりした祖先
* 守護霊になった祖先
* まだ幽界にいる祖先
のうち、誰が位牌を通して食事を受けるのかが問題になります。
再生して現世の別人となった霊が、同時に昔の家の位牌から食事を受けるとすれば、存在の重複になります。
再生後は受けないのなら、子孫は誰が再生済みか分からないため、位牌祭祀の対象自体が不明確です。

### 結論
厳密には、真光内部では、
> 位牌に魂が常住するのではなく、霊界にいる先祖が位牌を媒介として食物の供養を受ける
という理屈なので、その説明だけを切り取れば形式的には成立しています。
しかし、歴史的・論理的に見ると、
> 中国儒教由来の地域的な祭具である位牌を、宗派を超えた普遍的な「霊界の法則」にすり替えている
という重大な矛盾があります。
端的な反論文にするなら、次の表現が使えます。
> 真光は「霊界に宗門宗派はない」と説きながら、中国儒教に起源を持ち、日本で中世以降に普及した位牌を、先祖が食物供養を受けるために必要な道具としている。
しかし、位牌の存在しなかった時代や、位牌文化を持たない民族の祖先がどのように供養を受けるのかについて説明がない。
特定地域の歴史的習俗を「普遍的な霊界の法則」と称する点で、真光の先祖供養論には明白な説明上の矛盾がある。

位牌値段

崇教真光は位牌を用いた祖霊祀りを推奨しているが、公式サイトでは価格を公表していない。
元信者側の2009年の記録には、
位牌一基約一万円、小型仏壇を含む一式で十数万円かかったとの証言がある。
ただし、現在の統一料金かどうかは確認できない。

● 戒名が必要と説いているが、一人の戒名代はいくらか?
● 結局、先祖を敬う人間の心情を利用した集金目的ではないのか?

● ▼供養は、供えて養うという文字どおりに、我々と同じ食事を供え、酒・タバコまでも必要
と主張している。
しかし、煙草は完全に害毒ではないのか?
参照 ▼ 医薬品や化学品(医薬品・食品添加物・農薬等)の毒を肉体に注ぎ込んだりすると、肉体を劣化し心までも汚れていくという。


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◇ 破折

▼岡田光玉は「釈尊は、主神から遣わされた」と教えますが、釈尊が説いた八万法蔵と呼ばれる多くの教典をみても、そのようなことは一切述べられていません。
むしろ仏教では、“神”は仏や菩薩が、衆生を救済するたえに仮の姿として現れる(垂迹)と説いています。
このように、何ら根拠のない岡田光玉の教えをよりどころをする教団は、荒唐無稽な邪教と言われても、反論の余地はありません。

● 一切の大元に真光の神がいて、この世に釈尊を遣わした、というのであれば、その釈尊が絶対神」の存在を否定している。
この矛盾をどう解決するのか?

● 釈尊自身は、自分がそんな絶対神から遣わされた存在であるとは一言も言っていない。
そう言っているのは光玉(他、新興宗教の教祖等)だけである。
2500年前に出現して今日でも仰がれている釈尊の言と、最近出てきた光玉の言とどちらが信用できるのか?

● キリスト教では神は唯一絶対神ヤハウェであって、それ以外の神はいない、と説く。
後から出てきた新興宗教である光玉が勝手に「その大元に主神がいた」などと説いても、それは自己都合の信者獲得のために詐称と捉えられても致し方あるまい。

▼岡田光玉は、主神の教えを説く聖人の出現を、日蓮大聖人が「直弟子たちに伝えた極秘文書『三澤抄』の中で述べている」と主張しています。
光玉著述「神向き讃詞解説」に「三澤鈔」という独立項目がある。

これは「三沢抄」という大聖人の御書の言葉を岡田が勝手に引用し、間違った解釈を基とした思想であり、日蓮大聖人は岡田光玉の出現など、どこにも預言などされていません。

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該当すると考えられるのは、『三沢抄』のいわゆる「佐前・佐後」を述べた部分です。

日蓮正宗の平成新編御書では1204頁に当たります。

■ さどの国より弟子どもに内々申す法門あり。此は仏より後、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給ひて、口より外には出だし給はず。其の故は仏制して云はく、我が滅後末法に入らずば此の大法いうべからずとありしゆへなり。日蓮は其の御使(おんつか)ひにはあらざれども其の時刻にあたる上、存外(ぞんがい)に此の法門をさとりぬれば、聖人の出でさせ給ふまでま(先)づ序分にあらあら申すなり。而るに此の法門出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光、巧匠(たくみ)の後に拙(つたな)きを知るなるべし。此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて、但(ただ)此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候。

### 岡田光玉はどう利用したのか

日蓮宗現代宗教研究所の『崇教真光』という研究資料には、真光側の説明として、次の文言が紹介されています。

> 「未だ世に出でざりし乗り法の出現なるが故に。……今や霊文明の暁はもうそこまで来ている」

つまり真光側は、『三沢抄』の上掲部分を利用し、

> 日蓮は、一般には公開できない秘密の教えを直弟子にだけ伝えていた。
その秘密の中には、将来、従来の仏教を超える「乗り法」を説く聖人が出現することも示されていた。
その聖人こそ岡田光玉であり、真光こそ未だ世に現れなかった神理正法である。

という方向に読み替えたものと考えられます。

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### なぜ誤読なのか

『三沢抄』の本文には、

* 主神を説く聖人が現れる
* 岡田光玉が出現する
* 手かざしの教えが現れる
* 仏教を超える神道系の教えが現れる

とは一言も書かれていません。

■「此の法門」とは、文脈上、日蓮大聖人御自身が佐渡以後に顕された法門です。
▼「将来、別の人物が説く新宗教」を意味しません。

また、■「内々申す法門」も、岡田光玉の教えを予告した「極秘予言書」という意味ではありません。
日蓮大聖人が御自身の弟子に説いた甚深の法門を指します。

したがって、破折の核心は次のようにまとめられます。

> 岡田光玉は、『三沢抄』の「内々申す法門」「此の法門出現せば」という文言を切り離し、そこに真光の出現予言という、本来存在しない意味を付け加えた。
しかし「此の法門」の主体は日蓮大聖人御自身の仏法であり、後世に現れる岡田光玉や真光を指す余地はない。

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▼教団では、現実世界の背後に先祖霊や怨霊(おんりょう)、動物霊などの霊界があると主張し、人間生活のあらゆる不幸現象は、80パーセントが霊障による、などとしています。
しかし、真光の神が遣わしたという釈尊は死後の世界は法界にあって前世の因果を感じながら、縁によりまた生ずると説き、因果を無視した霊界や霊魂の存在を否定しているのです。
 岡田の教えは明らかに真光の神が遣わしたという釈尊の説く因果の道理を無視した、到底、信用に値しない低級な教えである。

▼憑依霊による障りがあるというのであれば、人生の禍福も全て霊に支配され、現実世界の努力など無意味なものになってしまう。
人生の幸不幸が霊によって決められてしまうという考え方は、因果の法則をまったく無視したものである。
むしろ「霊に憑かれている」という心理は一種の強迫観念を人間に与え、客観的な判断力を失わせて精神にぬぐい去り難い傷まで与えかねない。

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[崇教真光の地方教会幹部を破折] 

1 「真光」と 「崇教真光」の 分裂劇についての 説明を聞く

2 魂を清められているはずの 最高幹部達が なぜ醜い 跡目争いをしたのか

3 つまり「真光の行」には 全く効果が無かった のではないのか?

4 岡田光玉が予定外に早死にしたのは 神の御意志? え〜〜〜?(゜o゜)?

5 女性信徒に話しかけたら 支離滅裂

6 崇教真光の信徒に 必要な費用を訊く

7 御霊の霊力保持のために 毎月500円 納入し続けなければならない 紹介者の代納も可だって!

8 信者の退会をなかなか認めず トラブルとなるケースが多い?

9 フランス議会でカルト認定 崇教真光・創価学会・ 幸福の科学・霊友会

10 教祖岡田光玉の予想外の早死を 「神の意思」とこじつける手法は どの新興宗教も同じ

11 崇教真光を10年続けたら 貧/病/争が解決するのか?

12 岡田光玉、 他、教派神道の教祖達の 矛盾を突く

13 教派神道の教義は お互い相矛盾する理屈ばかり

14 体感だけで 宗教の正邪/善悪を判断していいのか?

15 怪しげな宗教による快感や利益らしき現象は 魔界が与える「麻薬」のようなもの

16 分裂した世界真光文明教団の神と 崇教真光の祀る神とは同じなのか違うのか?

17 神が人間を作ったのならば なぜ貧/病/争で苦しむようにしたのか

18 真言密教は正統な仏教ではない

19 既成宗教の説く「神」は 完全ではなかった〜?

20 単純な"病気治し"は 真の幸福だろうか

21 岡田光玉の発言は 実に荒唐無稽 自己優越化の欺瞞に 満ち満ちている

22 崇教真光は ネット上でどうして これほど被害報告が 多いのか

23 岡田光玉から伝授された御神体は なんと!スイス製の高級時計!

24 もし崇教真光こそ正統ならば 世界真光文明教団の手かざしにも 御利益らしきものがあるのは 何故なのか?

25 教義に首尾一貫 矛盾破綻がない宗教を選ばないと 取り返しのつかないことになる

26 日蓮正宗・富士大石寺こそ 真実・究極の 正当な宗教

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真光女性教会長をじっくり破折

1 訪問の経緯を語る

2 真光の説く「神」の矛盾を じんわり破折

3 真光の神もキリスト教の神も 同一の神だって〜? 天地創造神の矛盾を突く

4 人類絶滅させるようなウィルスも 神が造ったのか?

5 真光の神はキリスト教の神と同一 では人類は近親相姦して 増えてきたことになる

6 キリスト教では偶像崇拝を禁止 真光は大神殿を作って祀っている 同一の神ならば大矛盾ではないのか?

7 教祖「岡田光玉氏」が 後付で勝手に教義を でっち上げたんではないのか

8 理性で納得できる証明もないのに 不可思議な現証をいくら正当化しても それは正しい教義・宗教とは言えない

9 真光の手かざしで 貧・病・争は悉く 解決しているのか?

10 手かざしで魂が最高に清まっているはずの 教団最高幹部が なぜ醜い分裂騒動で 裁判沙汰になったのか?

11 教相岡田光玉が後継者に託した 「御霊」はなんと! スイス製の高級時計

12 裁判所に教団分裂紛争を持ち込むとは 「手かざし」が 無力である証拠ではないか

13 「真光」が正しいのならば 分裂した「崇教真光」の神は 邪神なのか?

14 そもそも「御霊」とは どのようなものなのか?

15 真光の神は真光を信じない人類は 焼き殺し滅亡させるそうである

16 岡田光玉は既成宗教の教義の良いとこ取りをして 新興宗教をでった上げたに 過ぎないのではないのか

17 荒唐無稽・何の根拠もない妄想に過ぎない死後の説明

18 昔、岡田光玉は 伊勢神宮への参拝を 強烈に主張していた

19 真光信仰にかかる費用の事情を訊く

20 邪な宗教は都合の悪い 教義を次々と隠蔽し 自己都合の新たな 教義を主張し始める

21 「真光」と分裂した 「崇教真光」との 信者数の比較

22 伊勢神宮に真光の神が祀ってあるのならば わざわざ伊豆に新たに世界本山とやらを 建設する必要は全くないではないか

23 岡田光玉の言は まさに荒唐無稽・支離滅裂 妄想狂の精神病者の言と全く同類

24 真光の神は 「無限の愛」を言いながら 人類を焼き殺す、精神分裂の神

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DAY, JANUARY 31, 2011

岡田光玉曰く、「世界のメッカは伊勢」? 伊勢と世界本山 (Okada says,"The Mecca of the world is Ise" ~ Ise and the World Shrine)
「マンナの壷?1」(2010/07)で紹介した『神向き讃詞解説』からの引用部分(p239?240)の直後に次の文が続きます。


▼『そういう関係で、伊勢にはヤハエが祀ってあります。したがって、世界のメッカは実は伊勢であるといえます。やはり、霊(ヒ)の元(モト)つ国に帰っておられ ます。ですから、神道家とキリスト教者はどうしても伊勢に参らなければ、モウシェもイエス・キリストも喜びはしません。
いずれ、ローマ法王以下全世界人民が、伊勢にお参りをしなければならない時代がくるようになります。そうしないと、大変な神裁きを受ける時代がくるでしょう。』ーー『神向き讃詞解説』p240

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● 根拠は? ただの妄言では?

これについて、ネットにあった見解を幾つか紹介しておきましょう。

?今の真光は世界本山の事しか言わない。
伊勢のいの字も出てこない。
● 本山なんか建てないで伊勢神宮をお参りした方がお金は掛からないのに。
伊勢神宮にご奉納しても真光にお金は入らないからか。
全世界人民が伊勢神宮にお参りする時代がくると予言している。
絶版にするはずだよね。
こんな事が書いてあったら。
  ーー「ここが変!真光の本!」219

?世界中の人が、メッカ伊勢神宮にお参りする時代が来るって???
 大真面目にそんな事書くなんてほんとに狂ってるね。 (失笑)
 ーー同220

?>ローマ法王以下全世界人民が、伊勢にお参りをしなければならない時代がくる

 光玉が調子に乗って、夢の中でみた根拠の無い妄想の産物だと考えるよ、普通。
 永遠にあり得ない事を平気で書くことは真光の18番だ (失笑 
 ーー同221

光玉は自分の「スの神」と諸宗教における神や信仰の対象とがあたかも同一か、少なくとも矛盾しないかのように説きます。〔注1〕

〔注1〕『光玉曰く「一神即多神」』『スの神と呼べ』(2008/02)参照。

そしてここで、伊勢にヤハエ が祀ってあり、伊勢が世界のメッカだと言っています。

もし、バイブルの中の天地創造の神ヤハエが真光の『スの神』と同一か矛盾しないものであり、伊勢にヤハエが祀ってあり、従って

●伊勢が世界のメッカと言うのならば、世界本山の建設など必要なかったのではないか、

●伊勢神宮を盛り上げればよいことだったのではないか、


との疑問はごく当然のことです。

伊勢神宮を盛り上げたところで、真光にお金が入って来ないことは明白です。

もう一つ、自分の「スの神」が他の宗教の神々を押しのけて、一番上の神であると見せたい、少なくとも真光の『神』が立派な神であることを内外に誇示したいとの願望があったのではないかと思われます。

結局真光を誇示するための建物が欲しかったということです。

「神に命じられた」
「神と契約し た」」
「重大な使命」

等と言うことにより、信者を煽り、自分の自己顕示欲とも言える願望をカモフラージュし、合わせて『スの神』は自分とは別人格であるという印象を作り出している
と言えます。

▼「伊勢にはヤハエが祀ってある」

との光玉の断定に 対し、「えっ!!??」と疑わしい気持ちが湧いて当然のところです。
しかしながら、『組み手』と称する真光信者はこうした教えへの疑わしい気持ちを押さえ るか、敢えて目を瞑って、「真光は実践の宗教だから」と自分に言い聞かせて手かざしを続けます。
しかし、その真光の手かざしが、嘘や作り話、無責任なことや妄想とも言えることを平気で言った教祖から来ていることを認識すれば、手かざしさえも怪しいものになります。

光玉は神道での神をバイブルでの神に置き換えてしまっていますが、誰かの珍説をそのまま借りて来たのでしょうか。
それともそうした説の断片を使って、自分勝手な解釈をねじ込んだのでしょうか。
いずれにしろ「伊勢にはヤハエが祀ってある」と、事実にしてしまっています。
しかし、伊勢神宮でこのようなことは言っていません。
「伊勢にはヤハエが祀ってある、伊勢が世界のメッカである、ローマ法王以下全世界人民が、伊勢にお参りをしなければならない時代がくる」なん て伊勢神宮でもびっくりでしょう。

このようなことを言う一方で、光玉は世界本山、主座建設推進のための教えではこうも言っています。


▼『・(略)・・その本家に主神神殿がないんですよ。あったらもってきて下さい。神道家でも仏教家でもいい。これをどうする。』 ーー『真光誌』190号ー1978(昭和53)年7月号ーp20

▼『本家の方の御神殿があるつもりでいたらなくなっちゃっているということです。事実歴史の上で、消えているんだから・・・』  ーー同p21

光玉が『本家』というのは日本のことです。〔注2〕

ここでは「日本には主神神殿がない」と言っています。
しかも、「なくなちゃった」とか「消えている」とい う表現は、「日本に主神神殿があった」ということが前提になっています。
て、いつ、どこにそのような建物があったというのでしょうか。
さらには、光玉が 言う『主神』とはどの神のことか、疑問になります。
『スの神・スシン』というのは光玉が自分の神を呼ぶのに使った名前であって、太古の昔からこの名が使わ れていたわけではありません。

ここでの『主神神殿』の『主神』とは、名前が何であれ、『天地創造神』のことを指すと思われます。
光玉は天地創造神としてヤハエもその教えによく登場させます。
「伊勢にはヤハエが祀ってある」というのもその一例です。

「伊勢には(天地創造神の)ヤハエが祀ってある」ならば、 「日本には主神神殿がない」という光玉自身の言葉に矛盾することになります。

彼の言うことはちぐはぐで、実質的には現実世界から遊離したものを自信を持っ てしゃべっている、ということであって、『奥の奥があるのだろう』と言って済ませられるものではありません。

それに、どうやら光玉の言う「歴史」とは彼の頭の中での「歴史」であり、必ずしも現実世界の歴史ではないようです。

宗教に関しても同じようなものです。
光玉 の言及する諸宗教の神は、彼の頭の中での「神」であり、必ずしも現実世界における諸宗教の「神」ではありません。
だから次のようなことが平気で言えるのでしょう。

▼お名前はいろいろありますけれど、メシアと言ってみたり、ヤハエと言ったり、ミロクといったり、日本では天照主と言ってみたり、いろいろありましょうが、みんな一つの神様を信仰しておられるということです。ーー(『御対談集』p194)

ヤハエ、ミロク、天照主...等々、宗教によって名前は違っているけれど、皆同じ一つの神、天地創造の神のことだと言っています。
具体的かつ現実的な面を無視して、簡単に同じ神にしてしまっています。
しかも、その『一つの神様』とは、自分の真光の神だというわけです。

● この主張を証明する根拠は?

次の陳述はそれを示唆する一例です。

▼『実在されている天地創造神に、帰一しなければならない。・・・(略)・・・地球は一つである。創造の神も一つである。・・・(略)・・・』  ーー『大聖主』p209

光玉の言う『実在の天地創造神』とはもちろん自分の神『スの神』ということです。
つまり「真光の神である『スの神』に帰一しなければならない」ということです。

他宗教の神々を一緒くたにして、さて、どれもドングリの背比べである、しかし、自分の神こそ一番上の大元の『天地創造の神』である、従って真光は諸宗教を超えた『人類教』である、だから他宗教でも真光の神を受け入れて、自分の真光に一体化するべきである、という主張が底にあります。〔注3〕 

むろんこのような主張は光玉の自分勝手な見方から来ているに過ぎないのですが。

それに, 真光の主神神殿では「主神以外の神を絶対に祀ってはならない」とも言っています。〔注4〕 
ここで『主神』というのは明らかに真光の神の『主神』です。
つまり、崇教真光の世界本山にしろ、世界真光文明教団の世界本山にしろ、その神殿は真光の神の神殿であって、他宗教の神を祀る神殿ではないのです。

「主神以外の神を絶対に 祀ってはならない」ということは、光玉は他宗教での神や信仰の対象を排除していることになります。

しかし、このようにも言っている。
〔注4〕『真光誌』240号p23。『真光誌』190号p19では次のようになっている。
▼・・・いわゆる主神というものが他に違わないということです。他の神様に変わらないようにしていかねばならん・・・

● 真光の神と他宗教での神や信仰の対象とは同じか矛盾しないかのように説くのは誤魔化しということになるでしょう。

さらに、光玉の『天地創造神』は

▼「ミロクだ、天照主だ、メシアだ、何だというのは神様嫌がっている
▼「どの宗 教でも自分を『主(ス)』と呼べ」
▼「神様としては、いろいろの名前をつけられてうるさいし、誤解するから、今後の人類にはことごとくス(主)と称名させよ』」

と言っているとの光玉の言葉があります。〔注5〕『スと呼べ』(2008/02)参照。『御対談集』p188、『真光誌』263号ー1984(昭和59)年8月号ーp36。

これらの光玉の弁を合わせてみると、要するに、諸宗教の神の呼び名も自分の神の名『スの神』に統一し、宗教世界を自分の真光で塗り替えようとの野心があったと取れます。

そして派手な神殿を建てて世間に見せつけることが真光(及び自分の名)を不動のものとするのに必要かつ効果的だと考えたのではないでしょう か。〔注6〕

冒頭での引用部分に

▼「そうしないと、大変な神裁きを受ける時代がくるでしょう」

と、光玉お得意の脅迫もしっかりと入っています。

今の真光は世界本山のことしか言わないということは、この脅かしも結局ハッタリだったことを教団自らが示していることになりませんか。

信者に『救い主様』と呼ばせ、奥津城と称する派手な墓も建てたけれど、真光の創設者(崇教真光の創設者ではない。崇教真光の創設者は岡田恵珠である)の元々の教えとその言葉を今の真光がそう大切にしているわけではないということでもあります。

「真光の世界本山は、一番上の神様を祀っているのだから、こちらの方が世界のメッカだ。救い主が何と言ったか知らないが、伊勢はもうどうでもいいの。」と勝手に言い張っているかもしれません。

「伊勢云々」の光玉の陳述は、自分の広げた大風呂敷に放り込んだ数多くのがらくたの一つだったと言えそうです。
 
●●●それにしても、つくづく光玉の神は、

神裁き
火の洗礼、
人類が夢想だもしなかった現象ー世界的な天変地異を起こす,
役に立たなければ(焼き)捨てる.... 等々、

相当破壊的な行為がお好きなようです。〔注6〕 〔注7〕「役に立たなければ・・・」は『御聖言』p109参照。

そのくせ

▼「神はおおらかな愛をもっている」
▼「神の愛は徹底した利他愛で、与えっぱなしである」

とも光玉は説きました。〔注8〕 『真光誌』358号ー1992(平成4)7月号ーp33。

これが同じ真光の神だと言うのならば、光玉の神って、ジキルとハイドなんでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〔注1〕『光玉曰く「一神即多神」』『スの神と呼べ』(2008/02)参照。

〔注 2〕『真光誌』190号ー1978(昭和53)年7月号ーの光玉の教え参照。240号ー1982(昭和57)年9月号ーにもほぼ同じ教えが載っているが、 削られたり、言い換えられている部分、さらには挿入部分が見られる。神がモウシェ、ダビデ、ソロモンに渡って「自分の神殿を造れ」と命じたとし、「わしの 神殿」「エホバの神の神殿」を「日の神の神殿」とも言い換えている。ダビデ(240号ではモウシェになっている)を守ったのも、「その目的は西の世界に日 の神の神殿を造らせることにあるのだ」と明かしたと言う。(190号p17/240号p20)そして、次のように言っている箇所がある。

今お話ししたことは枝(エダ)の神様、すなわち分家の方のヨーロッパの主神神殿の建設という問題の歴史です。ーー『真光誌』190号p20
今、お話したことは分家の方の主神神殿建設の歴史です。ーー『真光誌』240号p24

〔注3〕『諸宗教の役割と真光』(2008/03)参照。

〔注4〕『真光誌』240号p23。『真光誌』190号p19では次のようになっている。
・・・いわゆる主神というものが他に違わないということです。他の神様に変わらないようにしていかねばならん・・・

〔注5〕『スと呼べ』(2008/02)参照。『御対談集』p188、『真光誌』263号ー1984(昭和59)年8月号ーp36。

〔注6〕『大聖主』p253に「主座神殿の原型は、聖凰師が、何年もかけて、情熱をこめて推考を重ねられた神秘的な設計である。」との記述が見られる。

〔注7〕「役に立たなければ・・・」は『御聖言』p109参照。

〔注8〕「神の愛は徹底した利他愛で....」『真光誌』358号ー1992(平成4)7月号ーp33。

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光玉の死後、二代目の地位をめぐって紛争が発生し、裁判沙汰になったわけですが、この裁判に関し、昭和59年11月17日の宗教法学会において、大野正男弁護士による研究発表がなされ、文章にまとめられ、昭和61年に発行されています。
主に大学図書館に保管されています。

● 

大野弁護士は、後に最高裁判事になった人物ですが、自分が勝った裁判についての報告であるとしても、関口氏が受けたオミタマや、光玉の自筆遺言メモの写真が掲載されていますので、組み手にはぜひ実物を見てほしいと思います。

そこで問題なのは、少なくとも私が組み手であった頃、初代教え主は「御み霊」を必要としないと教えられていたわけですが、光玉が亡くなった二日後の通夜の席で甲子(ケイシュ)が、先代が亡くなる十日前に「自分に万一のことがあれば二代目は関口さんにお願いせよ」と言われ、自分が肌身にかけていた二代目用のオミタマと、自分用のオミタマを渡してくれた、と言ったそうです(合計2個のオミタマ)。

そもそも存在しないものを娘に与えることは不可能なのですが、その二代目用のオミタマというものが、スの神から直接与えられたものにしては、何とも説明がつかないスイス製の高級懐中時計だったということが当裁判で明らかになり、この事実だけでも光玉が如何に初めから嘘をつき、全て彼の作り話だったという、恐らく最大の証拠だと思います。

大野弁護士の講演のタイトルは (宗)世界真光文明教団代表役員地位確認請求事件――教義に関する事項を含む紛争について裁判所の審査権はどこまで及ぶか / 大野正男/p25〜42 (宗教法学会誌 宗教法. (5))で、国立国会図書館所蔵文献のコピーをインターネットで請求し、郵便で送ってもらえるそうです。(事前に利用登録が必要)。

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この資料は元ブラジルの組み手キャリーさんから寄せられたものです

光玉の死後、二代目の地位をめぐって紛争が発生し、裁判沙汰になったわけですが、この裁判に関し、昭和59年11月17日の宗教法学会において、大野正男弁護士による研究発表がなされ、文章にまとめられ、昭和61年に発行されています。主に大学図書館に保管されています
真光の業・私の体験記とあわせてご覧ください。(25)-(42)などの数字は原本の頁、画像をクリックすると大きくなります

大野弁護士は、真光教団の弁護士
後に最高裁判事になった人物。
以下の講演録には、真光二代目・教え主・関口氏が受けた御霊(おみたま)や、光玉の自筆遺言メモの写真が掲載されている。

(宗)世界真光文明教団代表役員地位確認請求事件
 −−教義に関する事項を含む紛争について裁判所の審査権はどこまで及ぶか‐−
          大野正男 弁護士

ただ今、ご紹介に預りました大野でございます。今ロ、報告をするように、ということは、川島先生からお話があったのですが、初めに具体的な内容に入る前に、何故このテーマを選んだのかということについて、若干述べたいと思います。

問 題 の 視 点

一つは、今目ご報告する事件は、宗教法人の内部紛争に関する事件ですが、この種の事件は、最近非常に増えているからであります。
統計的な数値をあげることはできませんけれども、この事件は最初東京地裁の民事第八部、通称商事部に係属しました。
東京地裁の八部というのは、会社関係の事件を扱う専門部なのですがそこの裁判宮がいうには、今は株式会社に関する事件は少なくなって、学校紛争と宗教紛争の事件か多い、今や商事部は宗教部に化した、という話をしていました。
ですから宗教法人の事件で裁判間題になっているのが、多くなっているようです(25)

二番目に、この事件を取り上げました理由は、午前中に安武先生がご報告になったことと、密接に関連しているのですが、宗教紛争に関する、裁判所の判例の最近の流れが、我々実務家にとって、非常に重大な意味を持っているからであります。
それは二つの点でいえると思うのですが、特に昭和五五年以降、この種の事件について、最高裁判所が極めて重要な判決をしているのは、ご存知の通りであります。
そして今後、判例の流れがどのような方向へ動いていくかについて、まだ十分な予測がたちえない段階にある。
それだけに現在の判例が今後この種の問題に及ぼすであろう影響を今のうちに十分検討しておく必要があろうかと思います。

その二は、この争いの対象になった宗教団体の代表者の地位の問題ですが、宗教法人の代表役員に教主とか、あるいは住職とかがなるとされているときに、その地位の有無を裁判で争えるかという問題であります。

 そしてこれに関連いたしまして、代表者たる地位が争える場合でも宗教れの教義、教理に関する事項については、裁判所は審判権がないとされますが、どの程度「関して」いる場合に審判権がないのかという間題が生じます。
私が今口標記の事件を取りれげる角度は、第一の点であるよりは、この第二の問題についてでありまして、一体どこまで裁判所が、宗教紛争の判断に関連して、教理・教義に関する問題について判断することができるのか、あるいはしてはいけないのかという問題を考えていきたいと思います。
従来の判例は住職という宗教上の地位については判断できないといいつつも、(26)

しかしそれが宗教法人の正当な代表者であるか否かなど世俗的紛争を判断する前提としてであるならできるのだという考え方が支配的であったと思うのであります。

昭和四四年七月一〇目の臨済宗慈照寺の最高裁判決は、住職としての地位については審判権はないとしつつも、但し権利・義務関係を包括する意味で、住職の地位の確認を求めるならばそれは許されるのだ、といっておりますし、
昭和五五年盲侃一日の曹洞宗種徳寺の最高裁判決も、ある法律上の紛争の前提問題として、住職の地位を争うのであれば、できるのだということをいっております。
但し、この判決で新しく最高裁が付加したのは、その判断の内容が宗教上の教義の解釈にわたるような場合は格別、そうでない限りできるのだという点であります。
さらに昭和五五年四月一〇ロの本門寺の最高裁判決は、前提事項としては、宗教活動上の地位に関するものであっても判断できるとしつつも、同時に、宗教上の教義にわたる事項については、裁判所がこれに立ち入って、実体的な審理判断をすべきでない、と判示しました。
いったいこれらの判決の射程距離が、どこまで及ぶのかということですが、以上の判決は、理論上のニュアンスは異なりますがいずれも実際には、代表者の宗教上の地位の存否について、あるいはその選出の方法について判断を示しているのであります。
ところが初めて世俗的紛争の形ではあっても、教義教理の当否が争いの中心となっているときは裁判所の判断にはなじまないという判決がでました。

昭和五六年四月七日の創価学会板まんだらの最高裁判決であります。
ここでは裁判所は紛争の実質判断を全くしなかったのであります。
これは非常に重要な意味を持っておりまして、この判決が、どういうような射程距離を持つのかという点は、実は今後の司法上の非常に大きな問題であります。
しかもこの最高裁判決の考え方を宗教上の地位の内部紛争に、直接適用したのが、静岡地裁の五八年三月三〇日、曰蓮正宗の法主に関する事件の判決であります。

そうなってまいりますと、いったいいわゆる宗教紛争のうちのどのような事項が宗教上の教義解釈にわたるような場合にあたるのか、言葉だけで中しますと、「教義の解釈にわたるような」ということがどこまで及ぶのかが、大問題となってくるのです。(27)

と申しますのは、現在における宗教団体の内部紛争というのは、必ずしも直接に教義の解釈をめぐっておこっている聖的なものではなく、もう少し生々しい、俗的紛争の様相を、濃厚に持っているからであります。
つまりどこまでが聖であり、どこまでが俗であるのかということが混然としているというのが、私共の目の前にある現実の紛争の実相であります。
それは実際には、現在紛争が起こっている色々な宗教団体においては、ある時には聖なるものを俗とし、ある時には俗なるものを聖とするような傾向があるから、こういう紛争が起こってくるのであって、それを法律家が截然と区別しなければならないというのは至難の技であるからであります。

そういう点から申しますと、今日ご報告申し上げる事件は、いったいどこまでが聖で、どこまでが俗であるのか、そこで具体的な事件に入らせていただきますが、この教団は世界真光文明教団と申しまして、昭和二六年に岡田良一という方が創姶したものであります。
これは宗教法人になっておりますが、代表役員は、この教団で甲しますと、「教え主」がなるということになっております。
世俗的地位である代表役員と宗教の最高の地位が分化していない団体でございます。
この地位は、初代の教え主は問題ないのでありますが、二代目の地位をめぐって紛争が発生しました。
宗教上の地位をめぐる紛争は跡目争いのことが多いようでありますが、この教団の規則によると後任、これは私が原告代理人を務めた事件でありますが、私にはいまだにはっきりわからないのでありまして、具体的な事案を通して、諸先生方のご批判、あるいはご意見を賜わらせていただきたいと思います。(28)

二 具体的な紛争の経過

そこで具体的な事件に入らせていただきますが、この教団は世界真光文明教団と申しまして、昭和二六年に岡田良一という方が創姶したものであります。
これは宗教法人になっておりますが、代表役員は、この教団で申しますと、「教え主」がなるということになっております。
世俗的地位である代表役員と宗教上の最高の地位が分化していない団体でございます。
この地位は、初代の教え主は問題ないのでありますが、二代目の地位をめぐって紛争が発生しました。
宗教上の地位をめぐる紛争は跡目争いのことが多いようでありますが、この教団の規則によると後任の教え主は、(28)
これを二代というのでありますが、現在の教え主が指名したものをもって当てるとあり、指名していない場合には、責任役員会の互選という定めになっていたのであります。
 
ところで、昭和四九年六月二三目に、岡田良一という初代の教え主、つまり宗教法人の代表役員が脳溢血で死亡いたします。
その二目目に通夜が行なわれました。
どうも宗教団体におきましては、よく通夜に問題が起こるようでございますが、この時に、この岡田良一には養子がありまして、これは甲子という女の方ですが、この養女が先代からいわれていたといって二代の指名のあったことを教団幹部の人に話をした。
その時の模様は法廷では詳しく証言されていますが、通夜の席に幹部が五〇人ぐらいいたところへ、皆集まってくれということで一室に集まりましたところが、その岡田甲子は、こういうことをいったのであります。
「実は、先代が亡くなるズ‥」日前の六月一三目の朝に、私は先代に呼ばれた。
神殿に呼ばれて、その席で先代の岡田良一はきびしい顔をして、自分は神様に怒られた、昨日、神様との対話があったが、神様に非常に叱られたと。」
というのは、この教団は本山をつくることになっておりまして、熱海でその本山を建てる計画をしていたのですが、なかなか建築の許可がおりないので初代は困っていた事情があります。
「夜中に神様が出てこられて、初代に『遅い、遅い、大和人遅い』とこう申された。
神様にしかられたので、これから何とかしなければならない。
こういう話が私甲子にありました。
そこで私は、初代が怯えておられるのでこわくなって『お父様にもしものことがあったら、どうすればよろしゆうございますか』と尋ねました。
そしたら初代は、『私に万一のことがあったら、二代は関ロさんにお願いせよ』こう言われました。
そして自分が肌身にかけている御霊、それを外して自分にかけて下さいました。
『これは二代用の御霊である』そういわれた。
もう一つ、ついでに私に渡して『これは父の御霊である』といわれた。
つまり二つの御霊を渡して下さった。
このように私は二代用の御霊をお預りしています。
おそろしいことでございますので、早く関ロさんにお渡ししたい。」
こういう風に甲子さんは皆にその席ににで述べたというのであります。(29)

 幹部五〇人全部がそれを直接聞いておりましたので、だいたい正確に、その話の内容を復元できます。
そしてその翌日、初代の遺体の前で、甲子さんから関□さんへ二代の御霊というものを授受されるのであります。
関□さんが受け取った御霊はどうか、どんな物であったかというのが@の写真です。
これは実は、アメリカの一八六六年の、金貨を首飾りにしているようにみえます。
しかし実は、これは金貨そのものではないので、中が開くのです。
これはスイス製の高級時計なのです。
スイス製の時計の中に、先代の書いたその「聖」という字が入っている。
それがご神体なのです。

このことは後に訴訟になってから発見されたことです。
甲子さんによる二代発表とおみたまの授受がありましたから、二代の指名を受けたということで、皆も関□氏を二代様、二代様と呼んでいたのでありますが、ことはそう簡単に進まなかった。
六月二六日に、この御霊を受けてから一週間も経たない、七月一日に、責任役員会が開かれました。
関□氏は責任役員になっていない。
岡田甲子氏はなっていた。
甲子氏を含む五名の者が、責任役員会を開いて、教団の規則に基いて岡田甲子を代衷役員に選任して、登記をしてしまったのです。
しかし、そのことは当時五人の者以外誰も知らないし、登記を行なわれたことも、この教団の人たちは知らなかった。
七月一三日の日になって、初代の正式の葬儀が日本武道館に集まって葬儀を営むのでありますが、(30)
その時に二代の発衷がありまして、初代は二代を関ロさんにお願いしなさい、こういうことを言われましたという発表が行なわれました。
その時の状況を写したのが写真Aであります。
上に飾られている写真が、亡くなった岡田良一という初代でありまして、その下で挨拶をしてモーニングを着ているのが、関口氏で、二代に指名されたのに対して受諾の挨拶をしているところです。
武道館は、超満員になるぐらいの状況でした。
このような中で二代の発表があったので、その後、色々な儀式は関ロ氏が二代として行なっていたのであります。

 ところが、一部の人々はその後甲子氏を何とかしなければいけないのではないか、霊と肉を分けて、関ロ氏の方は肉の方を、甲子氏の方は霊の方をやったら等という、色々な提案がなされますが、八月二日になって関□氏は、甲子氏から初代の本宅である熱海に呼ばれるのであります。

そこで関口氏と甲子氏と二人だけで会います。
そうすると甲子氏が関□氏に対して、こういう御神示がありましたよ、といって本人に見せたものがあります。
それが写真Bです。
これはある文章の上と下を白紙で隠して、真中の字だけをコピーしたものです。
非常にわかりにくいのですが、カツコの中は「ヨのみ霊をもちて娘に与えよ」と書いてあります。
後はちょっと判読できません。
この紙を見せて、甲子氏は白分が後継者の指名を受けていたという趣旨のことを、非常にあいまいな形ではありますが、関□氏に言いました。(31)

この時から紛争が表面化するのでありますが、一体この紙は何を意味しているのでしょうか。
「ヨのみ霊」というのは、教え主の地位を指すのだと言う人もいます。
確かに教義上、「ヨの御霊」というのは、そういうふうに解釈できなくはないような箇所があります。
「ヨ」というのは、教義に入って恐縮でございますけれども、現世を支配している霊魂をさすようであります。
この教団の教義によりますと、アイウエオ、カキクケコと支配する霊魂が変わってまいりまして、今「ヨ」の世界で、その次はラの世界になるのだそうでありますが、「ヨ」は現世を支配する霊魂を指すものであるというのであります。
しかし、この文章に続く筈の上も下もかくされていてわかりません。(32)

その後、教団のお祭りが行なわれた時に、初めて甲子氏と関ロ氏の間でどっちが上座に座るのかということで、言い合いになったことがあります。
その時は、関□氏が後に入り、甲子氏が先に入りますが、お祭の主祭は関口氏が行なうという妥協が成立いたしまして漸く会が開かれました。
そして数日後に、関ロ氏は写真Cのような通達を皆に出しました。
これは大変、わかりにくいと思うのですが、依命伝達書というのであります。
ざっと読みますと、「初代教え主様生前の御遺言により、下記の通り御神示を伝達します。ヨの御霊もちて娘に与えよ、四九年六月百百御神示、 恵珠様(注・甲子のこと)の使命、及び任務について、地上の代行者である。よってご神事一切を行なう。したがって教団全般を総括し、掌理する。よって教団規則上の代表役員である。
二代様のご使命、及ぴ任務について、二代様とは、世界本山建立と布教、宣伝拡大の陣頭指揮者であり、表面に立たれるミヤクである」
云々と書いてございまして、こういうものを秘書課長が持ってくるのです。

 この秘書課長というのは、甲子派の推進者の一人で、これにサインをしてくれということで、上の方に○というのは、関口氏が見たという印で、これによってこの通達書が道場長、その他に配られることになりました。
そしてこの日以降は、甲子派が教団の本部を占拠して、関口氏は追っ払われて別の場所に行くということになりますが、これはあまりにひどいではないかということを、幹部の一部、特に六月二五日の通夜の席で聞いている幹部等の何人かは非常に怒りまして、これでは教え主の地位を僣奪されたようなものである、こんな変なことはあるはずがない、黙っていてはこの教団は駄目になる、といって関ロ氏に理非をはっきりさせるよう迫ります。
そこで関ロ氏は自分が教団の教え主であるということを甲子側に言い渡しましたが、もちろん向うは聞かない。(33)

四九年の九月一九日になって、東京地裁に代表役員の地位を定める仮処分を提訴したわけであります。
 提訴いたしますと、その審理を通じまして今申し上げたような経過は出るのでありますが、
裁判所は「御神示というのは、何ですか。コピーではないか。もっとはっきりしたものを出せないのか」こういうことを甲子例に何回もいうのですが、甲子側はなかなか出し渋っている。

そして仮処分の一番最後に出したのが二枚ございます。それをご覧に入れます。
写真Dが表書でございまして、四九年六月コニ日午前二時、久方ぶり重大神示と書いてあります。
これは先代の岡田氏の字であることは、ほぼ確認のできるものであります。
これが表書です。
次の写真Eが本文の最後の一枚です。
これは「思い出さしめん為、しばし仮にヨだけ秘かに持ちて、ヨの御霊をもちて娘に与えよ、間に合わずこの地、時を待て、八月一〇日二七、所与えられん。思い立ったら吉日よ。もう一度他の仕組みで力 外に うまくそらさんも」というのです。(34)

 この二枚の紙を出したのですが、法廷にはこの原本の御神示綴りを持ってきました。
その原本には、四、五枚の御神示が綴られているのですが、その一番先とこの一枚分だけを開いて、後は全部封印して提出したのです。
裁判所がどうしたのか、と聞きましたら、これは宗教上の秘文であるから、他の個所は見せるわけにいかない、何が書いてあるか白分は知っているけれども、それを言うわけにはいかないと、甲子氏はその部分の供述を拒否したのであります。(35)

三 裁判所の「秘文」についての判断

さて、このような経過を辿ったなかで、裁判所が、この「御神示」すなわち宗教上の秘文に関してどのような判断を示したか。
一番先に出された五〇年七月二四日東京地裁の地位保全仮処分判決はこの点につき、次のように判示しました。
  「初代が作成したものであると認めることができる乙第一号証の一、二(注、写真E)…によると、一見、初代は、『ヨのみ霊もちて娘に与えよ』という表現をもって、その養女である岡田甲子を教団の教え主に指名したものと解する余地があるように見る。
  しかし『ヨのみ霊もちて娘に与えよ』という記載が昭和四九年六月回百に作成されたものであることは、その記載自体から直ちに認めることができないのみならず、その表書きとの編綴形式からは、必ずしも、その本文が表書きと一体をなす文書と認めるに足りず、また、その本文の記載の意味内容は、その前後の一連の文章の内容および関連性を十分に吟味して把握すべきところ、(35)
その前後の文章の内容および関逓性が本文だけからでは明らかであるといえないし、これが明らかにすることが物理的には可能であるにもかかわらず、それか神示であることを理由として、その前後の文章か記載されている文書の提出を岡田甲予側で拒否していることは、岡田甲F本人尋間の結果に照して明らかであり、このような場合には、その前後の文章の内容および関連性を顧虚することなく、初代が岡田甲jを教団の後継教え主に指名したと速断することはできないといわなければならないL

つまり、この秘文はちょっと見ると甲子を教え主に指名しているようにもみえるけれども、表書きとの関連性も分らないし、前後の文章もわざと隠しているのだから、それをみなければ分らない、全部出せば判断できるけれど、全部出さないから駄目だとこの判決はいったのです。

 次に、この仮処分事件の控訴審である東京高裁昭和五二年三月三一目判決はこういっています。
 「神示は、たとえ宗教団体の内部にあっては批判を許さない絶対的権威を有するものであるとしても、司法裁判所の訴訟において、それが役員の任免その他地位に関する当事者の主張事実を裏付ける証拠となりうるためには、裁判所の判断に服さなければならないことは当然であって、単に神示であるという一事をもって裁判所の判断を排除しうるものではない。
それ故、問題は、専ら、本件神示に前記発表(注、六月二五日に行なわれた幹部通夜での甲子の発表をさす)の内容の真実性を合理的に否定するだけの証拠力が認められるかどうかの一点にかかっているものといわなければならない」
としまして、岡田甲子自身その発表が間違っていたことが分ったなら直ぐ訂正すべきであり、その機会も十分あったのに正式訂正をしていないことなどをあげて、その発表の内容の真実性を否定できないとして次のように結んでいます。
「以上の説示によって明らかなごとく、本件神示には前記発表の内容の真実性を合理的に否定するだけの証拠力は認められないといわざるを得ない。
されば、法定証拠主義を採用していないわが国の民事訴訟法の下においては、単に本件神示が存在するという(36)
一事をもって、前記発表の事実を抹殺し、関ロ栄の被保全権利を承認しないがごときことは、到底、許されないものといわなければならない」

 このように、高裁判決は、通夜の際の二代発表という世俗的に理解しうる事実によって関□氏に後継教え主指名があったと認定し、御神示を他の証拠同様一つの証拠方法に過ぎないとして、その証明力を検討し、結局、通夜の際の発表内容の真実性を否定しうるような証明力を有しないと判断したのであります。
御神示だからといって、証拠判断をする上で特別の配慮を加えることなく、世俗人である裁判官の理解しうる範囲において、他の証拠同様その自由な心証により証明力を考えればよいというのが、高裁判決の基本的考えでありましょう。
それで良いかどうかが、私の今日のお話のテーマであります。

 そこで最後の問題に入る前に、この御神示が、その後どうなったかについて、若干触れておきたいと思います。
この事伴は仮処分だけでなく、本訴も係属しており、第一審は東京地裁で、仮処分判決同様の理由で関□氏が勝訴しました。
そして甲子側が控訴して東京高裁に係属したのですが、この段階になって、甲子側は、遂に御神示の全文を裁判所に提出したのです。
その一部が写真Fです。
これだけではよく分かりませんが、翌朝初代が書き直したところによると次のようなものでした。(37)

  二二目午前一一時お伺い 午前十時起きていそいで書き直し
 回二日二時 一一時と思う
幸子に「あす。一時だよ」と
一三口夜
 神起し賜う神前へこい 一三日午前二時急ぎ着かえて神前へ しばらくくちやくちや 御聖地と造営着手御伺い考え考えよ しばし右横へ 方向守るよ 高天原守らむなれど 時悪し 神守るなれど遅いよ/ヘ アマハラ 鎮護せしめん吐なり
ヤマト人 遅いよ/へ 時悪し しばし 時を見よこ一日夜のこと金星すてぬなれど ここ運つきよ)神の大ミソギ早足なりし 上 8/25ヤレ
 玄岳に心むけさせし時、玄光山とおぬし叫たるが、しかりなれど、あの時は玄は暗し クライ出思い出さしめん為 しばし仮にヨ丈け秘かにもちて(ヨのみ霊もちて)娘に与えよ 間に合わず 此地 時をまて 8月10日一一一一 所 与えられん  思い立ったら吉日よ もう一度 ほかの仕組で 力外に うまく そらさんも」(38)

一体この文章は何を意味しているのか。
甲子さんは控訴審に出廷して、「本山の造営が遅れているが、今は時が悪い、娘を二代とせよ、災害がおころうとしているが、皆の力で外へそらさせよう」というのがその意味であると証言しました。

 関口さんも同じく法廷で「本山の造営が遅れているが、今は時が悪い、本山はクライ山(高山の方にある)に移すことにし、とりあえず熱海にある三つの神霊のうちヨだけ秘かに娘にもっていかせなさい。熱海での本山造営は暫く時をまちなさい。災害は皆の力で外へそらさせよう」という意昧であると証言しました。

両者、肝心の部分の解釈は全然違います。
このような場合、裁判所はどれだけ立入ってこの「秘文」の解釈をすべきなのか。
全くふれてはならないのか。
ふれなかったときは、「秘文」はないとして判断するのか。
あるいは秘文所持者の主張するとおりに判断すべきなのか。
大いに興味深いところでありましたが、この事件は裁判長からの強い勧告により和解になりました。
この和解において、関口氏が二代教え主として教団の代表役員であることを甲子氏が認めて控訴をとり下げましたので、関口氏が代表役員であることを認めた一審判決通りに確定しました。
裁判長はこのような線で和解を職権勧告したわけですから、その心証は一審通りであったと思われます。
しかし和解でありますので、当然のことながらその心証形成の過程は表示されないままに終りました。(39)

四 問 題 点

以上が、事件の内容と、それに対する裁判の経過であり、特にその中で、甲子氏側が主張した「秘文」に関する(39) 裁判所の判断の仕方をのべてきましたが、本件を、代理人という立場を離れてみますと、いったいこの時に、裁判所はどういう判断をすべきなのか、大変問題であったと思います。

 先にのべました昭和五五年以来の最高裁判所の判決、特に「まんだら」の判決の延長線上で考えた時に、はたして今後、この種の紛争についてどのように考えるべきなのかと、深刻に考えざるを得ないのであります。

 つまり板まんだらの事件、あるいは日蓮正宗の静岡地裁判決のような事件も踏まえて考えますと、宗教上の秘事・秘伝によって後継者の選任を受けたと当事者の一方が主張をした時に、主張だけでもう司法判断は回避されるべきなのかどうか。
主張だけで司法判断を回避するのが無理だとすれば、後継者の指名としてなされた行為が、宗教上の秘事・秘伝になるということを立証する必要があるのか。
その場合でも指名行為が外形上存在したことの証明は必要ではないのか。
また、指名行為の具体的内容が宗教上の秘事・秘伝に当るので、それ以上の内容は言えないことについて、少なくとも俗的にみて合理的な理由があるのだということまで証明しなければいけないのかどうか。
これらのことが当然問題になると思います。

 一つの極端には、宗教上の教義事項とか、宗教上の秘事であるとかいう主張があれば、もはやそれ自体として司法判断になじまないという考え方もありましょうが、どうも私のような実務家には不安が生じます。
というのは、この事件でも感ぜられましたように、故意に教義的粉飾をこらすということもありうると思われるからです。
しかしもう一つ、反対の極端には、先程の神示の意味内容についても立入って判断すべきであるとの考え方もあるでしょう。
しかしこれまた逆に宗教論争の渦中に裁判所が介入することによって、不当な結果を招来することになります。
 この二つの極端の中間に妥当な線が存在するのでしようが、具体的に何処に線をひけるかというとかなり難しい、(40)
ケース・バイ・ケースにならざるをえないかもしれません。

 しかし、宗教団体に関する紛争といってもその実質は、多分に跡目争い、財産争いという世俗的紛争を伴っていることが多いのですから、できうる限り教義解釈や宗教的秘事の内容に入らずに、世俗的に十分理解しうる諸事実を判断することによって、裁判所は紛争に対する実値判断をすべきではないかと思います。

 本件では、最初に「秘文」があったわけではない。
幹部通夜での発表があります。
武道館での葬儀の際の発表があります。
これらは、裁判所はもとより通常の世俗人によっても容易にその存在と意味を理解できることです。

 ところが、甲子側は、それと正反対の意味内容を有するものとして、「御神示」なるものを法廷にもち出した。
この時に考え方が分かれると思うのです。
もし裁判所が判断を回避すべきだとした時に、その法律上の効果はどうなるか。

 例えば統治行為論というのがあります。
砂川事件の時最高裁がとった考えですが、高度に政治的な行為については、司法判断はなじまないとするものです。
この場合その政治的行為の違法合法について裁判所はふれないわけですから、結果としてはその政治的行為は是認されたのと同じ効果を生じます。

 その統治行為理論と同じように考えたときに、「御神示」の内容は主張者の言う通りだとして認めるのでしょうか。
それとも「御神示」に関する主張にはふれない、つまり、なかったとして扱うのでしょうか。
前者であれば、甲子氏勝訴です。
後者であれば関□氏勝訴です。
正反対の結果が生じてしまいます。

 私は、このような次元でいきなり「判断回避」をするのはおかしいのではないかと思います。
やはり、理解可能な世俗的事実からえられる心証を中心に考え、もし「御神示」が甲子側がいうように解されるとすれば、その後の甲子側の行動に矛盾がないかどうかを判断すべきでしょう、そういう形で間接に「御神示」の内容が、果して甲子さんを二代に指名するものであったか否かを判断することは、本件では可能であったと思います。
その意味で、私は、仮処分の東京高裁判決の判断は正当であったと考えます。

 つまり、御神示の内容について教義的解釈をすることは許されない。
しかし、御神示の内容が主張者の言う通りだとすれば、その他の世俗的諸事実と整合的であるか否かという形での間接的判断は許される。
そして整合的でない場合には御神示の内容が主張者の言う通りでないと判断することも許されると思います。
 しかし、もし他に重要な世俗的間接事実が存在しないか、存在してもそれだけでは心証がとれず、「宗教的秘文」の内容のみが、紛争判断を左右するような場合には、宗教法人法八五条の趣旨に則りその内容を判断すべきでなく、従ってその紛争につき裁判所は判断しないことになります。
裁判所は信仰の内容が実質上の争いになっているようなことに介入すべきではありません。
それは世俗的権力である裁判権に課せられた制約であります。

 もし、本件で「御神示」の内容のみが、何れが教え主すなわち代表役員の地位にあるかを決める唯一の判断事項であったとすれば、裁判所は、その判断を回避し、関ロ氏の請求を棄却(あるぃは却下)すべきだったでしょう。

 私としては、現在のところ、一応このように考えておりますが、冒頭に申しましたように、その点に関する判決はまだ過渡期でありますし、色々な考え方が成り立ちうると思います。
御批判を期待して報告を終らして頂きます。(42)

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光玉が亡くなった二日後の通夜の席で甲子(ケイシュ)が、先代が亡くなる十日前に「自分に万一のことがあれば二代目は関口さんにお願いせよ」と言われ、自分が肌身にかけていた二代目用のオミタマと、自分用のオミタマを渡してくれた、と言ったそうです(合計2個のオミタマ)。
kotamaomitama00.jpg

そもそも存在しないものを娘に与えることは不可能なのですが、その二代目用のオミタマというものが、スの神から直接与えられたものにしては、何とも説明がつかないスイス製の高級懐中時計だったということが当裁判で明らかになり、この事実だけでも光玉が如何に初めから嘘をつき、全て彼の作り話だったという、恐らく最大の証拠だと思います。

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真光 おかしい&矛盾だらけじゃない?

私は27歳の♂(無宗教)です。
彼女が真光二世であり、あまりにも熱心なため、月並祭なるものに参加してみました・・・。
矛盾&疑問を感じたので羅列します。

@真光では節約をすることを一つの大事な教えとしている
 →真光の創始者の銅像が金箔でできているらしい・・。
  (教えの見本となるボスがこれでよいのか?)

Cそこの道場長さんの話が変
 →病院で亡くなった人にお清めしたら、死体が笑った
  →一般人では何もできないが、手かざしができる組み手の有意義性について必死に説明していた。

はっきりいいます。この集団連中は”頭”がおかしいと思いました。
人救い=入信させる、手かざしする ということばかりしか頭に入っていません。

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法定伝染病は手をつけるな

手かざしでは、伝染病は治らないと岡田光玉の言霊が残っています。・御対談集p228より引用

▼・・・私の方では「法定伝染病は手をつけるな」と組み手には原則としていっております。
「法定伝染病」というのは医者以外に頼ってはいかん、といっておりますけれども、他の病気は大体家庭でみな治してしまいます。


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2008年現在の初級真光研修では以下の病名は治ると教義している。
(但し、医師法に接触するのを回避する為に教本には記載せず、口頭でのみ教義している)

胃ガン、胃腸病、胃ケイレン、肋膜炎、喘息、心臓病、高血圧、脳溢血、小児マヒ、てんかん、不眠症、ノイローゼ、頭痛、脳震盪、目の病気、耳の病気、子宮ガン 等々…

尚、研修内容は教団側がビデオ録画している為、医師法接触の証拠物件に成り得ると思われる。(ちなみに、研修生は録音・録画を一切許されていない)

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費用

教真光で金銭的にかかるものは、大きく分けて、
@入信時の初級研修、
A御み霊の維持御礼、
B日常的な各種御礼、
C大祭・総本山参拝などの費用です。


ただし、日本国内の現在の金額表を崇教真光公式サイトは公開していません。
以下は公開資料や元信者証言などで確認される金額であり、年代・道場によって変わる可能性があります。

項目 金額の目安 性質・内容
初級研修会 1万5,000円前後 通常3日間。修了すると「御み霊」を受け、手かざしができる組み手になる 1万5,000円前後 通常3日間。修了すると「御み霊」を受け、手かざしができる組み手になる
御み霊維持御礼 月500円〜1,000円程度との情報 御み霊を首に掛け続けるための定期的な御礼
月始祭・月並祭などの御礼 任意 金額は本人の「真心」とされる
感謝御礼 任意 日常の感謝、願いがかなった際など
特別御守護御礼 任意 病気・事故・家庭問題などの際の御礼
祖霊・先祖関係の御礼 任意または道場ごとの目安 先祖供養・慰霊など
御神体奉斎関係 要確認 家庭に御神体を奉斎する際の御礼、祭壇・神具など
総本山参拝・大祭参加 数千円〜数万円以上 奉納金とは別に交通・宿泊・団体バス代が必要
機関誌・教本・用品 数百円〜数千円 教本、祝詞集、機関誌、御神前用品など
建設・記念事業への奉納 任意、上限なし 総本山・神殿・道場建設、周年事業など
最低限の固定費


公開情報から見る限り、入信の入口で必要となるのは、おおむね、

初級研修の御礼:約1万5,000円
御み霊維持御礼:月数百円程度

● 実際に負担が大きくなり得る部分

問題は固定会費よりも、「任意」とされる各種御礼が積み重なる点です。
元信者証言では、次のような機会に御礼を勧められたとされています。


● 病気や事故を「霊障」「曇りの清算」と解釈されたとき

● 家族問題・仕事上の不振が起きたとき

● 月始祭、月並祭、立教記念祭など

● 教え主の誕生日・就任記念

● 世界総本山や道場の建設・改修

● 特別な祈願・御守護を願うとき

● 総本山への参拝や団体旅行

● 家庭への御神体奉斎

表面上は「いくらでもよい」「強制ではない」とされても、信仰上の功徳や霊的浄化と結び付けられれば、熱心な信者ほど支出が増える構造になります。
ただし、個別の高額献金証言については、崇教真光と世界真光文明教団を混同しない注意が必要です。



現宗研リポート
「御み霊」を拝受し、岡田恵珠二代教え主の体を通して主神と霊波線によってつながらなければならなく、これによって「真光の業」(手かざし)が許されるという。

● 御み霊維持御礼 に月500円かかる理由と仕組みを教えてください。
なぜ月500円なのか?その根拠は?
ただの会費集めの口実ではないのか?

●全人類を救おうとしている真光の神が、月500円を要求しているのか?
まことにせこい神ではないか。


● 全知全能の神がなぜ金銭を要求するのか?

現宗研リポートから
○ 教え主様を通して神様につながっていなければ、手かざしの奇跡はいただけず、神様からいただいていることは、神様の御心からしかいただけないことを教えられる。
● なぜ教え主様を通して神様につながっていなければ、手かざしの奇跡はいただけないのか?
どのような仕組みでそう言えるのか?
それはただ教団維持のための方便ではないのか?

現宗研リポートから
○ 家族全員が信者になる(一家総神向き)と道場長の推薦を受けて、自宅に御神体がいただける形をとっている。
● 御神体とは何か? いくらかかるのか?

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神の矛盾について

宗報』第23号掲載 新宗教調査報告II(新宗教研究プロジェクト) 崇教真光
↑本文から
現宗研においては、六月二十一日に高山市の本部において調査取材の機会を正式に得ることができた。
調査に当たったスタッフ一同は、高山市の本部を訪ね、事業局長であり、広報部長の平塚林司氏よりお話を伺い、スタッフの質問にお答えをいただいた。

と言うことであるので以下の箇所は公式見解と捉えられる。

▼ 天地を創造された主神は、御経綸を進めるため、まず神々を産み、神の世界を創造し万物万象の創造を完成された後に、人の霊成型(ひながた)を創り人体として物質化した。 
神代さながらの天国を地上に現わすために、人々に欲心を与え物質文明を興された。
そのために文明は向上したが、人は自分の欲望を満たすためのみに使い出し、その行きすぎた欲心にブレーキをかける役目の方、聖雄・聖者(イエス・釈尊等)をつかわした。

が、その警告も忘れ去り、我利我欲の物質主義一辺倒になり人類自滅の道を歩み始めたので、神の意に帰一する時期が来たと、「天意の転換」をして毒化された全てを浄化するために、「火の洗礼」(終末)をむかえるという。
そうした現状のまま火の洗礼を迎えると、人類が本当に滅亡するので、主神は救い主を通されて神の光の「真光の業」を与えて、人類を滅亡から救い、霊主文明を造らせるという。
神中心の生活に切り替えることが求められ、それが明かされる。

 

● 万象を取り分け人間をどのように造ったのか?
旧約聖書の天地創造の過程と同じで良いのか?それとも違うと言うのならば真光としてその過程を明示すべきではないか。
最初に造ったのは一人か?二人か?それがどのようにして増えていったのか?
全て不明である。
● 神が自分が造ったのになぜ人間は欲望に暴走したのか。
● 地上天国を造る程度の欲望に抑制して最初から与えておれば良かったではないか。
● 数々の聖者を送り込んでも人間を変える事ができなかったとすれば、それは神が無力・無策だったということではないか。
● それでも駄目なら「火の洗礼」(終末)を迎えるということは、神が亡ぼすと言うことか?
● 自分で作っておきながらその結果が自分の思うとおりにならなかったと絶滅させるのはまことに自分勝手な話ではないか。
● なぜ光玉だけが救世主たり得るのか?どういう基準で選ばれたのか? 


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@ 主神はキリスト教とかが説くヤハウェとか、古事記が説く ○○と 同一なのか?

A それともヤハウェを遣わした更に根源の根本神なのか?

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現宗研リポートから(○と表記)

○ 現実に(※人類は)不幸現象(病・貧・争・災等)にもまれている。
それは、罪穢(魂霊の曇りで、仏教でいう業にあたると説明する)でもって、また憑霊現象によるものとする。
現代人の八割以上が、憑依されて霊障に苦しめられていると説明する。

それ故に霊障をとりのぞき、また霊が浄化されれば人類が幸福になると意義づけている。


● そもそも全知全能の神がなぜ霊が曇るような仕組みで人類を造ったのか?
● 苦しんでいる故人の霊が憑依して霊障を起しているというならば、故人たちもなぜそのような苦しまなければならない仕組みで作られたのか?
神は全知全能j完全善意ではないのか?
● 宇宙の根本創造神ならばなぜ災害を起すのか?
底意地が悪い神なのか?

霊体が曇っていたり汚れていたりすると、不幸な生活を余儀なくされるという。
再生転生を繰り返す我々は、無意識に行なう行為による罪穢の積重ねが曇りを生じさせ、また悪想念をいだいたり、

● 医薬品や化学品(医薬品・食品添加物・農薬等)の毒を肉体に注ぎ込んだりすると、肉体を劣化し心までも汚れていくという。


それは、
清浄無垢な魂霊を入れる「汝は全智全能のみ祖の創り給いし最高の芸術品神宝」たる肉体を毒化させる点に、神に対する冒涜とみていいかもしれない。

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○ 霊体が曇っていたり汚れていたりすると、不幸な生活を余儀なくされるという。
再生転生を繰り返す我々は、無意識に行なう行為による罪穢の積重ねが曇りを生じさせ、また悪想念をいだいたり、

● 医薬品や化学品(医薬品・食品添加物・農薬等)の毒を肉体に注ぎ込んだりすると、肉体を劣化し心までも汚れていくという。


それは、
清浄無垢な魂霊を入れる「汝は全智全能のみ祖の創り給いし最高の芸術品神宝」たる肉体を毒化させる点に、神に対する冒涜とみていいかもしれない。


● 全知全能の神ならば、そもそも、毒となる、医薬品・化学薬品・食品添加物・農薬などが造られない世界を始めから設計し構築すれば良かったのでは?
そんなことすらできない神なのか?
人間の欲望が暴走して、の論理は通じないことは他所で追及してある。
「汝は全智全能のみ祖の創り給いし最高の芸術品神宝」というのであれば、いかにも過剰で制御の利かない欲望を添加したのは失敗作ではないか。
それこそ、制御不能な欲望こそ人間にとっての最大の添加物毒ではないか。