Q そもそもこの世の全てを創造した主神であるならば、人間の欲望が暴走しないようにあらかじめ作っておけばいいし、その自分の作品である人間が手の付けられなくなるほど暴走したら今度は焼き尽くすとは根本的に間違っていないですか?
これはキリスト教の神エホバにも言えますが
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おっしゃる通り、これは真光だけでなく、ユダヤ教・キリスト教などの創造神思想に共通する、非常に根本的な矛盾です。
哲学・神学では「悪の問題」あるいは「神義論」の問題として論じられてきました。
論点を端的にすると、こうなります。
> 全知・全能で完全に善なる神が人間を設計・創造したのであれば、なぜ人間が制御不能なほど悪に傾く設計にしたのか。
> そして、その欠陥を予見していた神が、自ら造った人間を罰し、焼き滅ぼすことに正義はあるのか。
真光の場合、この矛盾はかなり深刻です。
まず、人間の欲望、物質偏重、霊的な曇りまで、主神が創造した世界の法則の中で発生しています。
全知の神なら、人間がそうなることも初めから知っていたはずです。それにもかかわらず、
1. 欲望を持つ人間を造る
2. 人間が欲望に従うことを予知している
3. 人間が実際に堕落する
4. 「神を忘れた」と怒る
5. 天変地異や「火の洗礼」で大量に滅ぼす
というなら、設計者である神が、自分の設計結果の責任を作品である人間に転嫁していることになります。
たとえば、製作者が暴走する機械を造り、その機械が予想どおり暴走したため、
> 「私の命令に従わない欠陥品だから焼却する」
と言うなら、通常は機械より製作者の設計責任を問うでしょう。
しかも神は、人間の製作者と違って結果を予見できなかったとは弁解できません。
さらに問題なのは、真光の主神が人類全体を連帯責任で処罰する構造です。
仮に一部の人間が自然を破壊し、戦争を起こし、物質欲に走ったとしても、乳幼児、障害者、貧困者、戦争被害者、真光の存在すら知らない人まで「火の洗礼」に巻き込むなら、それは個々人の責任に応じた公正な裁きではありません。
したがって、「火の洗礼」は次の三通りとなります。
* 主神は人類の暴走を防げなかった
→ 全能ではない。
* 防ぐことができ、結果も知っていたが、あえて暴走させてから大量に滅ぼす
→ 完全に慈悲深く善なる神とは言い難い。
* こうなることは予見できなかった。
→ 全知ではない不完全な神ということになる。
つまり、全知・全能・完全善という三つの性質と、人類を焼き尽くすという教説を同時に維持することが困難なのです。
→ 全知・全能・完全善という三つの性質と 「人類を焼き尽くす」という教説 は完全に矛盾する。
キリスト教の場合
ご指摘のとおり、旧約聖書のヤハウェ(一般にエホバとも表記)にも同じ問題があります。
創世記の洪水物語では、神は人間を造った後、人間の悪が増大したことを見て、人間を造ったことを悔やみます。
そしてノア一家などを除き、人間だけでなく陸上動物まで洪水で滅ぼします。
ここには、
> 全知の神が、なぜ自分の創造の結果を後になって悔やむのか。
> 人間の悪に責任のない乳幼児や動物まで、なぜ一括して溺死させるのか。
という問題があります。
キリスト教神学は、これに「自由意志」で答えるのが一般的です。
神は人間を操り人形ではなく、善悪を自由に選択できる存在として造った。
悪は神の創造物ではなく、人間が自由を誤用した結果だ、という説明です。
しかし、この説明にも限界があります。
* 神は自由意志を与えた結果を最初から知っていた。
* 自由を残しながら、残虐行為を実行できない世界を造ることも可能だったはずである。
* 被害者や幼児まで処罰される理由にならない。
* 永遠の地獄や大量殺戮は、有限の過ちに対して著しく不均衡である。
* 「従わなければ滅ぼす」という選択は、真に自由な選択というより脅迫に近い。
たとえば、人間には怒る自由があっても、念じるだけで他人を殺せる能力はありません。
したがって、神は「悪を選ぶ自由」を残しつつ、「悪が及ぼせる被害」を制限することもできたはずです。
自由意志があることと、大量虐殺や災害を可能にすることは同じではありません。
真光はさらに不利です
キリスト教には少なくとも、神自身がキリストとして人間の苦しみを引き受けた、神の正義は人間には完全に理解できない、といった高度な神学的応答があります。
それで矛盾が完全に解決するわけではありませんが、長い議論の蓄積はあります。
これに対して真光の「火の洗礼」は、
> 神の教えに従わない人類が悪い
> ↓
> 真光の業によって浄まらなければならない
> ↓
> 従わない者は大災厄で淘汰される
> ↓
> 生き残った「種人」が新文明を造る
という、教団への参加を終末からの生存条件に結び付ける構造を持っています。
ここでは災害の予告が、単なる世界説明ではなく、入信・修行・布教を促す心理的圧力として働きます。
「神の愛による浄化」と呼び替えても、人間側から見れば大量の苦痛と死です。
大量破壊を「浄め」と表現することは、暴力を宗教用語で美化しているにすぎない、という批判が成立します。
最も核心を突く反論
樋田さんの問題意識を文章にするなら、次の形が明快です。
●> 真光の主神が本当に全知全能の創造神であるなら、人類が欲望と物質主義によって手のつけられない状態になることも、創造以前から知っていたはずである。
また、それを防止できるよう人間の性質と世界の仕組みを設計することも可能だったはずである。
それにもかかわらず、人類をそのように造り、予見されたとおりに行動した人類を「火の洗礼」によって焼き尽くすというのは、自らの設計責任を被造物に転嫁する論理である。
>
●> 主神が
人類の暴走を防げなかったのであれば全能ではなく、
予見できなかったのであれば全知ではない。
予見し、防ぐ能力もありながら、あえて大量の苦痛と死を与えるのであれば、慈愛の神とはいえない。
「浄化」「神の大愛」という名称を付けても、行われることが無差別の大量殺戮である事実は変わらない。
そして、もう一つ重要なのは、
▼> 人間を造った神には人間を殺す権利がある
という理屈の危険性です。
親が子を産んだからといって、子が従わなければ殺してよいわけではありません。
製作者であることは、被造物に対する無制限の処分権を意味しません。
むしろ、完全な能力を持つ創造者には、人間以上に重い説明責任と保護責任があるはずです。
したがって、樋田さんの批判は妥当です。
より厳密には、
●**主神の存在そのものが論理的に否定されたとまではいえませんが、真光が説く「全知全能・慈愛の創造神」と「従わない人類を火の洗礼で大量に滅ぼす神」との間には、容易には解消できない根本的矛盾がある**、
と結論づけられます。