M破折 覚書

@「他者を責めよと法華経から言えるか?」

邪難者のブログ
https://mildnichiren.sakura.ne.jp/textan/blog/whereishokkehagonmonri/

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目次

事前応酬
なぜ法華経を選ぶのか?
そもそも何のための問難か
「諸経中最第一」 の文言は他経にもある。
天台大師のみ法華最第一を論証
責める  諌める
 あなたも他を罵っているではないか

法華経での破折と思われる文証
 一般の法華経を求めない者へ
 法華経を誹謗する者へ
 法華経の信仰者を誹謗する者へ
 仏道を求めない者・爾前権教に執着する者両方

文 と 義 について
 井の中の蛙 大海を知らず
 安楽行品は文上では大変な差別思想ではないか?
 安楽行品 と 不軽菩薩品 矛盾を 文 だけで説明してください

開示悟入 の観点から 法華は折伏

法華経は釈尊の文章ではない
法華折伏破権門理
天台大師 法華経 摂受 涅槃経 折伏 と
五千起去
 日顕上人御指南

法華経文上では何をどうしてよいのか全く分からない
上行菩薩の再誕が末法の法華経の教主
 神力付嘱
 白法隠没
 もし日蓮を認めないのなら

ブログ破折
若し折伏せんと欲せば 当に勤めて大乗を誦し
邪難者の自己矛盾追及

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●06:50 toyoda.tv ブログ ざっと拝見させていただきました
文証の部分は全部は確認しておりませんが

この主張はつまり
法華経原典のみには他宗破折の根拠が見いだせない
と言うことですね?

ただ開結をも否定される根拠は何ですか?

法華三大経として一般的に認知されているかと思いますが

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▼06:52 M ありがとうございます。
ちょっと私自身がブログの内容を忘れているのですが、どこかで開結を否定しているでしょうか?
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●ブログから引用
▼06:53 toyoda.tv 天台?伝教あるいは?日蓮という系譜の権威を認める人にとっては、開結二経や涅槃経、天台三大部の文言・解釈を用いることができるので問題がないと思います。
しかし、認めない人に対して「法華経に基づいて他宗を責める」といった主張をどのように展開できるのでしょうか?
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●06:53 toyoda.tv この箇所は開結を認めないと読めますが?

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▼06:54 M なるほどです。そうとも読めますね。
議論としてシンプルにするためというくらいの理由で、根拠はありません。
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●06:55 toyoda.tv では開結の文証は根拠として依用してよろしいですね?
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▼06:55 M 強いていうと
・三大部という位置づけ自体が誰にされたものか分からない
・開結についてもチェック済(私は見つけられなかった)
というところです。
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▼06:56 M 元々が法華経からという限定だったので、個人的にはまずその範囲でどうなのかを話し、その上で開結と進むのが良いと思うのですがいかがでしょうか?
▼06:57 M 要するに、「観点を天台的・日蓮正宗的な方向に寄せれば、そりゃ天台や正宗が正しくなるのは当然」ということです。
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●06:58 toyoda.tv 仏教会では何も日蓮系でなくとも法華は並び開結を含めてひとまとめに認識されていますよ
●06:59 toyoda.tv その常識的な研究成果はそのまま受け入れる事が普通かと思いますが
●07:00 toyoda.tv もし違うと言うのならばまずは開結が法華と分離すべきであるという学術的根拠を示すべきですね
●07:01 toyoda.tv 開結は何も日蓮正宗的に寄せるとかそのような意味はないと思いますけど
●07:02 toyoda.tv 仏教会→仏教界

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▼07:03 M そうなのですね。仏教界における開結の位置づけについては存じ上げませんでした。
「法華経は開結と必ずセットで考えるべき」という合意が仏教界で取れているものなら、開結も含めてでお願いします。
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●07:04 toyoda.tv では文証はそこから考察させていただきます
●07:05 toyoda.tv ブログの内容に対してその反論を考察してみます

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▼07:06 M 承知しました。
何せ人力での検出結果なので漏れがあるかも知れません。
指摘していただければ幸いです。
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●07:09 toyoda.tv あらかじめ申し上げますが
本質は 文 そのものではなく 義 にあると思います
それは社会生活の運営としても通例として尊重されている規範かと思います
●07:10 toyoda.tv 世間でも言われる
論語読みの論語知らず
的な
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▼07:12 Mがメッセージの送信を取り消しました
▼07:16 M ↑取り消しは修正です
↓修正後
私自身は特にそうは思っていません。「現代社会が、そうならなくなってきている」と感じています。
しかし、私は樋田さんのご意見はご意見として尊重します。
▼07:19 M 社会(正宗外)に対して 義 が通用するという前提であれば、この話し合いは成り立たないと思います。
義が通用するならば、正宗の広宣流布について今後を心配する必要がないからです。
私は現代において 義 を用いた説明が困難になっているとの前提に立っています。
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●07:24 toyoda.tv 義 を認めないのなら仏教それ事態が成立しませんよ
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▼07:25 M そうかも知れませんね。
▼07:25 M それだけに問題意識を私は持っているということです。

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●07:25 toyoda.tv そもそも法華経だって成立が怪しいということになりますね
●07:26 toyoda.tv それなのになぜ法華経を根拠にするのですか?


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▼07:26 M そうなると、そもそも経も律も怪しいということになります。

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●07:26 toyoda.tv ですよ
●07:26 toyoda.tv どうします?


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▼07:26 M 法華経を根拠にするのは「とりえず大乗仏典について承認している人」を想定しているからです。
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●07:26 toyoda.tv 法華経を認めるならば 義 をもって解釈していかないと成立しません

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▼07:26 M その中でも法華経の知識はある程度ある人。

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●07:27 toyoda.tv であるならばいくらでも対処できます

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▼07:27 M 私は義を用いずとも(文上の解釈で)成立すると思いますが、そのような考え方は尊重します。

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●07:28 toyoda.tv ま あとは当日にしますか

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 なぜ法華経を選ぶのか
その根拠はどこからきたのか

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▼07:26 M 法華経を根拠にするのは「とりえず大乗仏典について承認している人」を想定しているからです。
▼07:26 M その中でも法華経の知識はある程度ある人。
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↑ これではあえて殊更法華経からの文証を求める確たる根拠にはならない。
法華経以外の大乗経典各所からでもいいし、法華経に拘る理由にならない。
あなたも認める涅槃経にある「責める」文言を用いて何がいけないのかその理由が明確ではない。
なぜ、「法華経」のみに限定して「他宗批判の経文があるかないか」の問を立てる根拠が不明。

もし「法華経が釈尊仏教内で第一だから。」
というのであれば、天台大師の教学を認めないと成り立たない。

「法華最第一」と慣例的にそう思っているから法華経からの文証を求めているのではないのか。
しかし「法華最第一」を論理的に明証したのは天台大師である。
もし「法華最大一」を認めるのならば、天台大師の学説を認めなければ自己矛盾であろう。

一大仏教を大きくくくり全ての経典と関連性を明確にして法華経を最大一と見出だしたのは天台だけ
他にあるというなら示してみよ。

できなのなら(できるはずもないが)ならば天台の解釈を素直に学ぶべき

その天台大師が法華玄義に「法華折伏 破権門理」
法華は折伏にして権門の理を破す と書かれている。
まさに、「折伏」
権教を手折って伏せるということではないか。

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最第一

▼ 法華経の文に「法華最第一」とあるから法華経を根拠にしたい
というのなら。

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見宝塔品第十一
354

我仏道の為に 無量の土に於て
始より今に至るまで 広く諸経を説く
而も其の中に於て 此の経第一なり

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安楽行品第十四
399
此の法華経は、是れ諸の如来の第一の説、諸説の中に於て最も為れ甚深なり。

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法師品 
■「我が所説の諸経而も此の経の中に於て 法華最も第一なり
(中略)已(すで)に説き今説き当(まさ)に説かん而も其の中に於て此の法華経は最も為(こ)れ難信難解(なんしんなんげ)なり」
ここでは最第一ではなく「難信難解」 である。

■ 「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵(ぞう)なり。諸経の中に於いて、最も其(そ)の上(かみ)に在り」(『法華経』安楽行品第十四)

等々とも説かれてるが、
「最第一」との義・文言は他経典にもある。
金光明経「是諸経之王」
密厳経の「一切経中勝」
六波羅蜜経の「総持第一」(総持 悪法を捨てて善法を持する)

文 だけでは法華経最第一を証明するには、やや弱い。
教説の内容によって初めて法華最第一を論証できる。
しかし、それは天台大師の教学のみである。

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責める と 諭す 諌める について

そもそも、「責める」とはどういうことを意味しているのか。
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▲責める
あやまちなどを相手の責任として非難する。なじる。

▲なじる
悪い点、不満な点をことさら取りたてて責めて問い詰める。

▲非難する
相手のミスや欠点などを責めること。
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●諌める
@ 禁止する。制止する。とめる。
A 多く、目上の人の悪事、欠点などについて忠告して改めさせる。
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大聖人も我々日蓮正宗も 人間として真の幸福境界を得るには、論理的な検証の結果、末法の法華経である三大秘法の南無妙法蓮華経でしかない。
との教義信条に立脚している。
その見地から、その三大秘法の南無妙法蓮華経への信仰を
・誹謗する者
・それ以外の宗教を立ち上げている者
・またその信仰に深く帰依して強く執着している者
・自ら積極的に他へ勧誘している者 
などに対しては、・本人が不幸になってしまう・悪を世に垂れ流している・悪の道に人を巻き込んでいる。などの観点から「折伏」を行う。
● 折伏とは破折屈伏の義で、あくまで邪法の存立を許さず、その非を責めて正法に帰伏せしめる教化方法。(大白法から)
これはまさに、麻薬の巣窟の経営者を罰し、その巣窟の虜になってはまり込んでいる自分の子供を目覚めさせるような心情とそのための行為に例えられるであろう。
しかしその方法は、
・悪を悪として経文上から論証し指摘する
・事実を事実として伝える
・経文上悪道に堕ちる行為であれば
「悪に心身を置いていてはいかん
速やかに心を翻しなさい」
と強く諌めているにということ。

これはあなたの言う「責める」ということなのか?
もし違うのならばあなたの定義する「責める」とはどういう内容か?

上記の正当な「折伏」「破折」以外で、単に相手を罵るような行為をしている日蓮正宗関係者がいて、あなたがもしそのことを責めているのなら、それはそれを為している本人の資質の問題であって日蓮正宗や、我々とは無関係。
我々も未熟であり成長過程であるので、そのように見受けられる行為があるとしたら、それは本人の咎であって、今回の論題の管轄外のこと。

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そもそも何のための問難か

それをやって自身が三者火宅の苦しみから逃れられるのか

あなたが引いた文証

■ 三界の火宅に住することを得ること莫れ。麁弊の色声香味触を貪ること勿れ。若し貪著して愛を生ぜば、則ちこれ焼かれなん。

三界の煩悩まみれの世界に住するな!(「莫れ」は古文的には命令形)
下らない五欲も煩悩を断て!
もし、愛欲・性欲などなどに執着すれば生命は焼け焦げるぞ!
この言葉をどう受け止めるのか。
また、これを「責めていない」と捉えるとすればあなたの読解力が極めて劣っている、というしかあるまい。

(補足 この箇所は、未だ下種を受けていない一般の五欲煩悩に明け暮れる衆生に対しての箇所であるから、折伏性が強い表現となっているのかも。)

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五千起去 

『法華経』「方便品第二」に、

「この語(ご、言葉)を説きたもう時、会の中に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の五千人等ありて、即ち座より起ちて仏を礼して退けり。所以(ゆえん)は如何。この輩(ともがら)は罪の根深重、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たと謂(おも)い、未だ証せざるを証せりと謂えり。かくの如き失(とが)あり。ここを以って住せず。世尊は黙然として制止したまわず。その時、世尊は舎利弗に告げたもう『我が今、この衆には枝葉なく、純に貞実なる者のみあり。舎利弗よかくの如き増上慢の人は退くもまた佳(よ)し』」

なぜ、釈尊は制止しなかったのか。
三千塵点劫の昔(本門から開けば久遠)に既に法華経の下種を受けている衆生
この者には 大悲を施す。
摂受門
大慈の折伏門で接すれば怨嫉・退転・誹謗して三千塵点劫の下種(本門から開けば久遠下種)そのものが失せてしまい、永劫に悪道に沈輪するから。

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釈尊時代は全て本已有善 が故に強い折伏はできない。しない。
その時代には、爾前権経がそのまま存在しているだけで、そこから派生した「宗派」は未だ発生していない。
爾前権教を機縁に法華一乗を悟り成仏できる機根も多数存在していた。
が故に強いて折伏する必要はない。
が故に経文上の表現も基本「摂受」を面としている。

その後、爾前権教を依経として様々な宗派が誕生。
これらは各教祖の我見によって、法華経を否定する形で誕生した。
が故に破折の度を強めていく必要が生じる。

特に末法時代は釈迦仏法が隠没する時代。
根拠 大集経 末法「闘諍堅固」
■ 『大集経』分布閻浮提品
「次の五百年はわが法において、闘諍言訟し、白法隠没し損滅して堅固なり。」
この教説と同意が法華経にもある。

■ 妙法蓮華経薬王菩薩本事品第二十三
我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。
悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼等其の便を得ん。(法華経・薬王品)
因みに 「「魔民」が競い起こってくる末法時代だが妙法蓮華経を広宣流布して断絶させてはならない。」とあるのだから、当然、激しい闘争の姿となろう。

衆生は本未有善(※釈尊の久遠下種の本已有善の衆生が尽きたが故に白法隠没となっている)
毒気深入の衆生の心田に下種仏法の妙法蓮華経を下すべき時代。
故に折伏が表となる。

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1986 日顕上人御指南

 そのように、この法華経は、拝読してみますと実に周到な意味で、不可思議な仏智の、到底言説しえられないところの深い仏様の慈悲により、逐次に因縁、次第を追って深い意義が説き出されております。
それによってまた、実に周到な意味で一切衆生が救われる意義が顕されております。
しかしながら、そういうことであってもなおかつ信じない者があったということを次に示されるのであります。

■ 五千席を去り人天移さる況や正像をや何に況や末法の初をや汝之を信ぜば正法に非じ

 まず、五千人が席を去ったということですが、これは方便品に説かれるところであります。
すなわち

  「説此語時。会中有比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。五千人等。即従座起。礼仏而退。
  所以者何。此輩罪根深重。及増上慢。未得謂得。未証謂証
(此の語を説きたもう時、会中に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷五千人等有り。
即ち座より起って仏を礼して退きぬ。所以は何ん。
此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり)」
(開結一六五n)

ということであります。

つまり、法華経の会座のなかで五千人がこの時、席を去ってしまったということが示されているのであります。
 さて、その時に釈尊は五千人が席を去るのをじっと御覧になっていて、ひとこともおっしゃらなかったのです。
方便品の説相を拝してみますと、釈尊が「如是相 如是性」等の略開三顕一、諸法実相の法門を説かれたのち、舎利弗等が実に尊い教えを承って有り難いという歓喜に震え、さらに深い意義を広く説き給えといってお願いしております。
それで釈尊が、よし、それならばまさに説こうとおっしゃった時に、五千人の人達が釈尊に頭を下げてその座から退場してしまったわけでありまして、いうならばまことに失礼な話であります。
つまり釈尊が、その深い意義は説こうとしても到底説けるものではない。したがってそれは説かないといわれました。
それに対して、いや、どうしてもそれを説いてくださいといって舎利弗等が願います。
その願いを釈尊は三回断られましたけれども、四回目にようやく、それでは説こうということでまさに説かんとされた時にこの五千人がいなくなってしまったのであります。
 その時に釈尊はどのようになさったかということですが、そこにおいては、化導の意味が大慈か大悲かという意味があるのです。
大聖人様は両方ですから「大慈大悲」というでしょう。
すなわちこれは慈悲ですけれども、そのうちの「慈」は怖いのです。
ですから折伏を行います。
つまり、ある人間の悪を自覚させ、そして善に進ませようとする場合には、悪いことをしている人間を黙って見過ごさないのです。
「これは悪いことだ」ということをはっきりと指摘し、きちっと化導をあそばされるわけでありまして、大聖人様の折伏の御化導がそれであります。

 あるいは昔、喜根菩薩という方があって、勝意比丘という謗法の僧侶に対して折伏を行じたことがありました。
これは大慈の上から、このまま放っておいても地獄に堕ちる、放っておかなくても地獄に堕ちるということで、どうせ地獄に堕ちるのならば成仏の種を植える意味で真実の教えを説くということであります。
そのように強いて説くことにより、それによって地獄に堕ちてもまた必ず救われるという意味で、大慈という意味からの化導があるわけであります。

 ところが、今の御文の場合の大悲の化導というのは、この人達は過去において既に成仏の種を植えられておるのであります。
したがって、今は一往増上慢でありますが――先程の方便品の御文に「未得謂得。未証謂証」という御文がありましたが、これは「未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり」と読むのであります。
つまり、いまだ全く真実の悟りを悟っていないにもかかわらず、ちっぽけなところに執われて、自分は偉いんだ、自分はもう本物の悟りを得たのだ、自分は聖人なのだというように思っているのがこの増上慢の連中であります。その五千人が退座したわけです。
 しかしこれは、その前に成仏の種があるが故にそのままにされたということであります。
もしもこれを叱って折伏すると、かえって法華経に謗りを生じて地獄に堕としてしまう。
このまま放っておけば、いずれそのうちにまた目が覚めて――いわゆる過去の種が芽をふいてきて、そのうちに悟るというような者には、大悲の上から叱らないのであります。
つまり折伏しないで、出ていきたければさっさと出ていけというのです。
そのような意味で導かれるのが大悲の化導でありまして、それが「五千席を去り」という意味であります。

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神力付嘱

釈迦仏法が滅した後の五百歳に神力付嘱を受けた上行菩薩が「妙法蓮華経」を広める。
上行菩薩の「妙法蓮華経」とはもはや隠没した釈迦の法華経ではない。
もし釈迦仏法の妙法蓮華経ならば何も「隠没」という表現はされないはず。

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白法隠没

法華経の文々句々は末法においてはそのままでは無益
何故なら、白法隠没だから。

▼ なぜ法華経以外の大集経の経文を用いるのか?

● 法華経にも大集経の教説と同義の表現がある。

■ 薬王菩薩本事品第二十三 「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。」
■ 分別功徳品第十七 悪世末法の時 能く此の経を持たん者は則ち為れ已に上の如く 諸の供養を具足するなり
■ 安楽行品第十四  如来の滅後に、末法の中に於て、是の経を説かんと欲せば、

末法 との概念があるのだから、当然 正法 像法 という概念があるのは当然。
実際に経文も多々ある。

■ 常不軽菩薩品第二十 正法像法、滅尽の後、此の国土に於て、復仏出でたもうこと有りき。
■ 常不軽菩薩品第二十 最初の威音王如来、既已に滅度したまいて、正法滅して後、像法の中に於て、増上慢の比丘、大勢力有り。

■ 普賢菩薩勧発品第二十八 普賢、若し如来の滅後、後の五百歳に、若し人有って、法華経を受持し、読誦せん者を見みては、応に是の念を作すべし。
此の人は久しからずして、当に道場に詣して、諸の魔衆を破し、阿耨多羅三藐三菩提を得、法輪を転じ、法鼓を撃ち、法螺を吹き、法雨を雨らすべし。当に天・人大衆の中の、師子の法座の上に坐すべし。

ここの、我が滅度の「後」、とありその上に「後の五百歳」とあるのは、まさに大集経の白法隠没の「後」を指す事は文義明らか。
もしこれが読めないとすれば、まさに古文の行間が読めない小学生が駄々こねて喚いているに過ぎない。

「後の五百歳」を釈尊入滅直後 とする誤読を破す

であるから、法華経文上に直接的破折の文言がなくとも、それは当たり前。
釈尊の久遠下種の衆生に対しての経典だから。

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もし日蓮を認めないのなら、では現代で法華経をどのように修行すれば、生老病死の問題を解決し成仏できるのか?
しかも、なんで法華経でなければならないのか?
他の大乗経典を適当に自分なりの解釈でしかも文上に書かれている内容だけで修行してみればいいのでは?
更には、何も大乗経典に拘る必要もないのでは?
小乗仏教で二百五十戒でもやっていればいいのでは?
なぜそれではいけないのか「経文」のみで説明してみてほしい。

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ブログ破折

あなたはこういう人ですね。

或は小(すこ)し自義に違(たが)ふ文有れば理を曲げて会通(えつう)を構(かま)へ、以て自身の義に叶はしむ。(守護国家論 127)

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■ 我が財物極り無し。応に下劣の小車を以って諸子等に与うべからず。今此の幼童は、皆是れ吾が子なり。愛するに偏党無し。我、是の如き七宝の大車有り。其の数無量なり。応当に等心にして、各各に之を与うべし。

↑▼小車は小乗の譬喩だが、それを責めろと言っていない。

● 一切衆生に小乗(法華経に対すれば全て小乗と言える)を与えてはならない。
もしその”小乗”に執着する者がいたらどうするのか?
与えてはならない。→執着心を破しなさい。 とこうなるではないか。

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■ 我れ昔、汝をして安楽なることを得、五欲に自ら恣ならしめんと欲して、某の年日月に於いて、無価の宝珠を以って、汝が衣の裏に繋けぬ。今故現に在り。而るを汝知らずして勤苦し憂悩して、以って自活を求むること甚だ為れ癡なり。

↑▼譬喩の中で「お前、それ癡だな」とは言っている。しかし、言ってるのは仏様。「そういう人を責めろ」と言っていない。何を責めたのかも確認すべき。

■ 珠を与えし親友 後に此の貧人を見て 苦切に之を責め已って 示すに繋けし所の珠を以ってす 貧人此の珠を見て 其の心大いに歓喜し 富んで諸の財物有って 五欲に而も自ら恣ならんが如く我等も亦是の如し 世尊長夜に於いて 常に愍んで教化せられ 無上の願を種えしめたまえり

↑▼ 譬喩の中で「苦切に責め」た。しかし、言ってるのは仏様。「そういう人を責めろ」と言っていない。何を責めたのかも確認すべき。

● 甚だ為れ癡なり。 (笑)
師である釈尊のしたことを踏襲してこそ仏の道であろう。
もし釈尊がしたことを弟子がしてはいけないのならば、一体、何をどう修行すれば成仏できるというのか。
師は弟子にすべき道を指し示しているのではないか。

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■ 薬王、若し悪人有って、不善の心を以って、一劫の中に於いて、現に仏前に於いて常に仏を毀罵せん、其の罪尚軽し。
若し人一の悪言を以って、在家出家の、法華経を読誦する者を毀砦せん、其の罪甚だ重し。

↑▼ 罪の重さを言っているが、その罪を犯した者を責めろと言っていない。

● 驚くべき愚かさ。

例えば念仏宗などは捨閉閣抛 捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、抛(なげす)て と言って、法華門を蔑んでいた。
こういう者はその罪大変重いですよ。斯く斯く然々、と釈尊の言葉として伝える事はむしろ釈尊の真意を伝える事であろう。

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■ 汝が父、外道を信受して、深く婆羅門の法に著せり。汝等応に、往いて父に白して、与して共倶に去らしむべし。

↑▼ 相手が外道・邪見の場合の対処例
(※ただし、太古の時代における「光明荘厳」という世界での話。地球外生命体の話と思われる)身体の上から下から火とか水を出すことで仏道に入らせている。当然、責めろと言っていない。

● 外道のバラモンの法に執着している父親をどうやったらその邪教から引き離す事ができるのか。
あなたはそういうことをやったことあるのか?(笑)

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■ 若し人有って、之を軽毀して言わん、
汝は狂人ならくのみ。空しく是の行を作して、終に獲る所無けんと。
是の如き罪報は、当に世世に眼無かるべし。若し之を供養し、讃歎すること有らん者は、当に今世に於いて、現の果報を得べし。若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之を軽笑すること有らん者は、当に世世に、牙歯疎欠、…中略…、諸の悪重病あるべし。

↑▼ 法華経を受持する人を軽毀するとどうなるかは書いてあるが、軽毀する人を責めろと言っていない。

● 我々は経典の事実をそのまま伝えるだけ。
それを「責めている」と曲解しているのあなたの眼が歪んでいるからではないのか? 

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法華経文上では何をどうしてよいのか全く分からない → 付嘱 上行 → 日蓮大聖人 によりしかない

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方便品第二 88

爾の時に世尊、三昧より、安詳として起って、舎利弗に告げたまわく、
諸仏の智慧は、甚深無量なり。其の智慧の門は、難解難入なり。一切の声聞、辟支仏の知ること能わざる所なり。

↑ 仏しか分からないのに、何をどうやって修行したら仏となれるのか?

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方便品第二 89

止みなん、舎利弗。復説くべからず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり。

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方便品第二 90

爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく、
世雄は量るべからず 諸天及び世人
一切衆生の類 能く仏を知る者無し
仏の力と無所畏 解脱諸の三昧
及び仏の諸余の法は 能く測量する者無し
本無数(しゅ)の仏に従って 具足して諸の道を行じたまえり
甚深微妙の法は 見難く了すべきこと難し
無量億劫に於て 此の諸の道を行じ已って
道場にして果を成ずることを得て 我已に悉く知見す
是の如き大果報 種種の性相の義を
我及び十方の仏 乃(いま)し能く是の事を知ろしめせり
是の法は示すべからず 言辞の相寂滅せり
諸余の衆生類は 能く得解すること有ること無し
諸の菩薩衆の 信力堅固なる者をば除く (← ★ 上行菩薩を指しているのでは)

諸仏の弟子衆の 曽て諸仏を供養し
一切の漏已に尽して 是の最後身に住せる
是の如き諸人等 其の力堪えざる所なり
仮使世間に満てらん 皆舎利弗の如くにして
思を尽して共に度量すとも 仏智を測ること能わじ

正使十方に満てらん 皆舎利弗の如く
及び余の諸の弟子 亦十方の刹に満てらん
思を尽して共に度量すとも 亦復知ること能わじ
辟支仏の利智にして 無漏の最後身なる
亦十方界に満ちて 其の数竹林の如くならん
斯等共に一心に 億無量劫に於て
仏の実智を思わんと欲すとも 能く小分をも知ること莫けん
新発意の菩薩の 無数の仏を供養し
諸の義趣を了達し 又能善く法を説かんもの
稲麻竹葦の如くにして 十方の刹に充満せん
一心に妙智を以て 恒河沙劫に於て
咸(ことごと)く皆共に思量すとも 仏智を知ること能わじ
不退の諸の菩薩 其の数恒沙の如くにして
一心に共に思求すとも 亦復知ること能わじ

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方便品第二 91

是の如き大果報 種種の性相の
我及び十方の仏 乃し能く是の事を知ろしめせり
是の法は示すべからず 言辞の相寂滅せり
諸余の衆生類は 能く得解すること有ること無し
諸の菩薩衆の 信力堅固なる者をば除く


↑ 法は言辞では示せない 
義は衆生には理解できない。 と言ってますが?

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法華経は釈尊の文章ではない。釈尊の説かれた「義」を後の弟子がまとめたもの。
釈尊の直説そして「文」のみに拘るのなら、法華経の存在自体否定する事になる。

もし法華経を釈尊の直説とするなら、原始仏教のみが釈尊の直説とする考えを捨てるか?

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大白法・平成11年5月16日刊(第525号より転載)教学用語解説(48)


法華折伏破権門理

 天台大師が『法華玄義』に示された言葉で、
 「法華は折伏にして権門の理を破す」
と読みます。
法華経は仏の真実の教えであり、その経体そのものが方便の爾前権経を破折し斥しりぞける、という意味です。

折伏とは破折屈伏の義で、あくまで邪法の存立を許さず、その非を責めて正法に帰伏せしめる教化方法をいいます。
これに対して摂受とは摂引容受の義で、たとえ衆生に違法があったとしてもそれを仮に容認し、徐々に浅から深へと導いて真実に至らしめる教化方法をいいます。

折伏は慈父の厳訓、摂受は悲母の愛訓に譬えられます。
 右文の次下に、
 「涅槃は摂受にして更に権門を許す」
とあるように、天台は
教門に約して涅槃経と法華経を対比し、
涅槃経を摂受門、
法華経を折伏門

と判じました。

涅槃経は法華経で得脱できなかった衆生に対して、重ねて随他意の三乗を用いて一仏乗へ帰入せしめる「拾」の内容を持つので摂受門であり、
法華経は三乗を用いずに直ちに随自意の一仏乗を説くので折伏門と説かれたのです。

また、『法華文句』では、
涅槃経で説く弓を持ち箭やを帯しての悪人摧伏と、
法華経『安楽行品』の四安楽行等を行門の上から対比し、
(※修行に約して )

涅槃経を折伏門、
法華経を摂受門

に配し、
その摂受柔化・折伏剛化の用捨は「適時而已」、すなわち時に適(したが)って衆生を利益するのみであると説いています。

 このように天台は、折伏を経体とする一仏乗の法華経が諸経の中で最も第一であることを説きましたが、『百六箇抄』に、
■「天台は摂受を本とし折伏を迹とす。其の故は像法は在世の熟益冥利の故なり」(御書 1691頁)
とあるように、本已有善の衆生に対する熟脱の化導がその任であるために、天台は摂受を本として法華経を弘通したのです。

 これに対して、末法御出現の日蓮大聖人の御化導においては、「百六箇抄』に、
■ 「日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む。法華折伏破権門理とは是なり」(同 1700頁)

また『開目抄』に、
■ 「夫れ、摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし。火は水をいとう、水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう、折伏の者は摂受をかなしむ。
無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前さきとす、安楽行品のごとし。
邪智・謗法の者の多き時は折伏を前さきとす、常不軽品のごとし
」(同 575頁)

と説かれているように、折伏こそが末法弘教の方軌であり、一期御化導における忍難弘教は無論のこと、その目的たる三大秘法の御建立の意義がそのまま折伏に当たるのです。

 すなわち、総本山第二十六世日寛上人が『観心本尊抄文段』で、
「法体の折伏」と
「化儀の折伏」とを御指南されていますが、
「法体の折伏」たる三大秘法の御建立は、本門以下、外道に至る一切の教えを破折することに当たるところが「法華折伏破権門理」の真義です。

そして
「化儀の折伏」は、三大秘法の正法正義をもって邪宗邪義を破折し、広宣流布に向かって闘う、地涌の菩薩たる我等の実践にあるのです。

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方便品第二 l
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97
増上慢の比丘は、将に大坑(※無間地獄)に墜つべし。

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99 五千起去に対して

此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。

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105
又舎利弗、是の諸の比丘、比丘尼、自ら已に阿羅漢を得たり。是れ最後身なり、究竟の涅槃なりと謂いて、便ち復阿耨多羅三藐三菩提を志求せざらん。
当に知るべし、此の輩は皆是れ増上慢の人なり。
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107
比丘比丘尼の 増上慢を懐くこと有る
優婆塞の我慢なる 優婆夷の不信なる
是の如き四衆等 其の数五千有り
自ら其の過を見ず 戒に於て欠漏有って
其の瑕疵(けし)を護り惜しむ(※悪行をなしてもそれに執着して懺悔しない) 是の小智は已に出でぬ(※小賢しく振舞っているが、戒律を守らない過失が外に漏れている))
衆中の糟糠(かす)なり 仏の威徳の故に(威徳にうたれて)去りぬ
斯の人は福徳尠(すくな)くして 是の法を受くるに堪えず

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110
諸仏世に出でたもうには
唯此の一事のみ実なり 余の二は則ち真に非ず
終に小乗を以て 衆生を済度したまわず


↑ 法華経以外は真ではない。仏は法華経以外では救う事ができない、と言っている。

自ら無上道 大乗平等の法を証して
若し小乗を以て化すること 乃至一人に於てもせば
我則ち慳貪に堕せん 此の事は為めて不可なり


↑ 釈尊自身が法華経以外の教のままで衆生を置いておいたら、自分自身がけちで欲ばりなこと。無慈悲なこと。となってしまう、と言っている。

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111
若し人仏に信帰すれば(よくわかることだが) 如来欺誑したまわず(仏は虚言や偽言をしない)
亦貪嫉の意無し (仏が)諸法の中の悪を断じたまえり

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111
若し我衆生に遇えば 尽く教うるに仏道を以てす
無智の者は錯乱(しゃくらん)し 迷惑して教(おしえ)を受けず
我知んぬ此の衆生は 未だ曾て善本を修(しゅ)せず
堅く五欲に著して 癡愛の故に悩を生ず
諸欲の因縁を以て 三悪道に墜堕し
六趣の中に輪廻して 備(つぶ)さに諸の苦毒を受く
受胎の微形(みぎょう) 世世に常に増長し
薄徳少福の人として 衆苦に逼迫(ひっぱく)せらる
邪見の稠林 若しは有若しは無等に入り
(※見惑 見惑 ⇒ 五利使 
@身見(我が身について「自我」に堅く執着する思想)
A辺見(自他の生命を死によって無に帰すと見る断見と死後も霊魂等によって存続するという常見)
B邪見(因果の道理を否定する思想)
C見取見(1〜3に執われて自見を最も勝ると自負するもの
D戒禁取見(原因でないものを原因と思い、正道でないものを正道と固執する外道の迷見

此の諸見に依止して 六十二を具足す
深く虚妄の法に著して 堅く受けて捨つべからず
我慢にして自ら矜高(ほこ)り 諂曲(※虚仮威し 愚か者を感心させる程度のあさはかな手段。また、見せかけはりっぱだが、中身のないこと。また、そのさま。)にして心不実なり
千万億劫に於て 仏の名字を聞かず
亦正法を聞かず 是の如き人は度し難し

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120
舎利弗当に知るべし 我仏眼を以て観じて
六道の衆生を見るに 貧窮にして福慧無し
生死の険道に入って 相続(※連続)して苦断えず
深く五欲に著すること ?牛(みょうご)(※愚かな牛)の尾を愛するが如し
貪愛(愛欲)を以て自ら蔽(おお)い 盲瞑(もうみょう)にして(※物事を正しく)見る所無し
大勢の仏 及与(および)断苦の法を求めず
深く諸の邪見に入って 苦を以て苦を捨てんと欲す(苦を捨てて楽を得ようとしても更に苦を増す)

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124
舎利弗当に知るべし 鈍根小智(※愚鈍で知恵の少ない)の人
著相O慢(世相に執着して慢心の強い)の者は 是の法を信ずること能わず

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126
五濁の悪世には 但諸欲に楽著(ぎょうじゃく)せる(耽溺している)を以て
是の如き等の衆生は 終に仏道を求めず
当来世の悪人は 仏説の一乗を聞いて
迷惑して信受せず 法を破して悪道に堕せん
慙愧(自分の智慧の及ばないのを恥じ入って)(心から)清浄(に仏様の教えを聞こうとする人)にして 仏道を志求する者有らば
当に是の如き等の為に 広く一乗の道を讃むべし

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126
舎利弗当に知るべし 諸仏の法是の如く
万億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう
其の習学せざる者は 此を暁了すること能わじ

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化城喩品第七
288

今汝が為に実を説く 汝が所得は滅に非ず
仏の一切智の為に 当に大精進を発すべし

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五百弟子受記品第八

303

咄哉(つたなや)、丈夫。
何ぞ衣食(えじき)の為に、乃ち是の如くなるに至る。
我昔、汝をして安楽なることを得、五欲に自ら恣(ほしいまま)ならしめんと欲して、某の年日月に於て、無価(むげ)の宝珠を以て、汝が衣の裏に繋(か)けぬ。
今故(いまなお)、現に在り。
而るを汝知らずして勤苦、憂悩して、以て自活を求むること、甚だ為れ癡(ち)なり。
汝今、此の宝を以て所須(しょしゅ)に貿易(むやく)すべし。(※すぐに売って必要なものを買い、安楽な生活をしなさい)
常に意(こころ)の如く、乏短なる所無かるべし。
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306
珠を与えし親友(しんぬ) 後に此の貧人(びんにん)を見て
苦切(ねんごろ)に之を責め已って 示すに繋けし所の珠を以てす

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勧持品第十三 
370

後の悪世の衆生、善根転少くして増上慢多く、利供養を貪り不善根を増し、解脱を遠離せん。
教化すべきこと難しと雖も、云々。

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371
是の娑婆国の中は、人弊悪多く、増上慢を懐き、功徳浅薄に、瞋濁(しんじょく)諂曲にして、心不実なるが故に。

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377
濁世の悪比丘は仏の方便 随宜所説の法を知らず

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常不軽菩薩品第二十
497
汝今当に知るべし。若し比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の法華経を持たん者を、若し悪口、罵詈、誹謗すること有らば、大いなる罪報を獲んこと、前に説く所の如し。

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普賢菩薩勧発品第二十八
606
若し人有って、之を軽毀して言わん。
汝は狂人(おうにん)ならく耳(のみ)。空しく是の行を作して、終に獲る所無けん。」
是の如き罪報は、当に世世に眼無かるべし。
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650
若し疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜんと欲せん者、若もし現身に十方の仏及び普賢菩薩を見んと欲せば、当に浄く操浴して、浄潔の衣を著、衆の名香を焼き、空閑の処に在るべし。応当に大乗経典を誦読し、大乗の義を思うべし。
仏、阿難に告げたまわく、
若し衆生有って、普賢菩薩を観ぜんと欲せん者は、当に是の観を作すべし。是の観を作す者、是を正観と名づく。若し他観する者、是を邪観と名づく。
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656
是の諸人等、貪求して厭くこと無く、五逆罪を作り、方等経を謗じ、十悪業を具せん。是の大悪報、応に悪道に堕つべきこと、暴雨にも過ぎん。必定して当に、阿鼻地獄に堕つべし。若し此の業障を減除せんと欲せば、応に慙愧を生じて、諸罪を改悔すべし。

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妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八
607

若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に、白癩の病を得ん。
若し之を軽笑すること有らん者は、当に世世に、牙歯疎き欠け、醜脣平鼻、手脚繚戻し、眼目角?、身体臭穢にして、悪瘡膿血、水腹短気、諸の悪重病あるべし。

過悪-------過罪悪業、十悪、五逆罪、謗法等。
白癩---皮膚や肉が白くなり腐る癩病の一種。
手脚繚戻→手足が曲がり自由に伸びない状態。
眼目角? ---瞳の方角が偏り、正常に者を見る事が出来ない事。
悪瘡---------悪性のできもの、腫れ物。
水腹---------腹部に濁水が充満する病気。
短気------息が詰まり呼吸が困難になること。

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譬喩品第三
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144
諸子等、火宅の内に於て、嬉戯(きけ)に楽著(ぎょうじゃく)して、覚えず、知らず、驚かず、怖じず。
火来って身を逼め、苦痛己を切(せ)むれども、心厭患(えんげん)せず、出ずることを求むる意無し。

↑ 火宅=四苦八苦にまみれた現実の生活
その中で短い一生なのに五欲に溺れて束の間の儚い喜びや楽しみに現を抜かしている仏道を求めない衆生を痛烈に諌めている。
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145

諸子幼稚にして、未だ識る所有らず、戯処(けしょ)に恋著(れんじゃく)せり。或は当に堕落して火に焼かるべし。
我、当に為に怖畏の事を説くべし。此の舎(いえ)已に焼く。宜しく時に疾く出でて、火の焼害(しょうがい)せられしむること無かるべし。
是の念を作し已って、思惟する所の如く、具に諸子に告ぐ、汝等速かに出でよ。
父憐愍して、善言をもって誘喩(ゆうゆ)すと雖も、而も諸子等、嬉戯(きけ)に楽著(ぎょうじゃく)し、肯えて信受せず、驚かず、畏れず、了(つい)に出ずる心無し。
亦復、何者か是れ火、何者か為れ舎、云何なるをか失うと為すを知らず。但、東西に走り戯れて、父を視る而已。

↑まさに仏道を求めない衆生を見事に言い当てている。
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151
諸の衆生を見るに、生老病死、憂悲苦悩の焼煮(しょうしゃ)する所と為る。
亦、五欲財利を以ての故に、種種の苦を受く。
又貪著し追求(ついぐ)するを以ての故に、現には衆苦を受け、後には地獄、畜生、餓鬼の苦を受く。
若し天上に生れ、及び人間に在っては、貧窮困苦、愛別離苦、怨憎会苦、是の如き等の種種の諸苦あり。
衆生其の中に没在して、歓喜し遊戯(ゆけ)して、覚えず知らず、驚かず怖じず。
亦、厭うことを生(な)さず、解脱を求めず。
此の三界の火宅に於て、東西に馳走して、大苦に遭うと雖も、以て患(うれい)と為(せ)ず。

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153
汝等、楽って三界の火宅に住することを得ること莫れ。(古文 なかれ 命令) 
麁弊の色・声・香・味・触を貪ること勿れ。
若し貪著して愛を生せば、則ち為れ焼かれん。
汝等速かに三界を出でて、当に三乗の声聞、辟支仏、仏乗を得べし。(古文 べし 命令)
我今汝が為に、此の事を保任す。
終に虚しからず。
汝等、但当に勤修(ごんしゅ)精進すべし。

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157

譬えば長者 一の大宅有るが如し
其の宅久しく故りて 復頓弊し
堂舎高く危く 柱根摧け朽ち
梁棟傾き斜み 基陛頽れ毀れ
牆壁?れ?け 泥塗褫け落ち
覆苫乱れ墜ち 掾梠差い脱け
周障屈曲して 雑穢充遍せり
五百人有って 其の中に止住せり
鵄梟G鷲 烏鵲鳩鴿
?蛇蝮蠍 蜈蚣蚰蜒
守宮百足 鼬貍?鼠
諸の悪虫の輩 交横馳走す
屎尿の臭き処 不浄流れ溢ち
??諸虫 而も其の上に集まり
狐狼野干 咀嚼践?し
死屍を齧して 骨肉狼藉し
是に由って群狗 競い来って搏撮し
飢羸?惶して 処処に食を求め
闘諍?掣し 啀??吠え吠す
其の舎の恐怖 変ずる状是の如し
処処に皆 魑魅魑魎
夜叉悪鬼有り 人肉
毒虫の属を食?す 諸の悪禽獣
孚乳産生して 各自ら蔵し護る
夜叉競い来り 争い取って之を食す
之を食して既に飽きぬれば 悪心転熾んにして
闘争の声 甚だ怖畏すべし
鳩槃荼鬼 土?に蹲踞せり
或時は地を離るること 一尺二尺
往返遊行し 縦逸に嬉戯す
狗の両足を捉って 撲って声を失わしめ
脚を以て頸に加えて 狗を怖して自ら楽しむ
復諸鬼有り 其の身長大
裸形黒痩にして 常に其の中に住せり
大悪声を発して 叫呼して食を求む
復諸鬼有り 其の咽針の如し
復諸鬼有り 首牛頭の如し
或は人の肉を食い 或は復狗を?う
頭髪蓬乱し 残害兇険なり
飢渇に逼られて 叫喚馳走す
夜叉餓鬼 諸の悪鳥獣
飢急にして四に向い 窓?を窺い看る
是の如き諸難 恐畏無量なり
是の朽ち故りたる宅は 一人に属せり
其の人近く出でて 未だ久からざるの間
後に宅舎に 忽然として火起る
四面一時に 其の?倶に熾んなり
棟梁掾柱 爆声震裂し
摧折堕落し 牆壁崩倒す
諸の鬼神等 声を揚げて大いに叫ぶ
G鷲諸鳥と 鳩槃荼等
周章惶怖し 自ら出ずること能わず
悪獣毒虫 孔穴に蔵竄し
毘舎闍鬼 亦其の中に住せり
福徳薄きが故に 火に逼まられ
共に相残害して 血を飲み肉を?う
野干の属 並びに已に前に死す
諸の大悪獣 競い来って食?す
臭煙蓬して 四面に充塞す
蜈蚣蚰蜒 毒蛇の類
火に焼かれ 争い走って穴を出ず
鳩槃荼鬼 取るに随って食う
又諸の餓鬼 頭上に火燃え
飢渇熱悩して 周章悶走す
其の宅是の如く 甚だ怖畏すべし
毒害火災 衆難一に非ず
是の時に宅主 門外に在って立って
有人の言うを聞く 汝が諸子等
先に遊戯せしに因って 此の宅に来入し
稚小無知にして 歓娯楽著せり
長者聞き已って 驚いて火宅に入る
方に宜しく救済して 焼害無からしむべし
諸子に告喩して 衆患難を説く
悪鬼毒虫 災火蔓莚なり
衆苦次第に 相続して絶えず
毒蛇?蝮 及び諸の夜叉
鳩槃荼鬼 野干狐狗
G鷲鵄梟 百足の属
飢渇の悩急にして 甚だ怖畏すべし
此の苦すら処し難し 況んや復大火をや
諸子知ること無ければ 父の誨を聞くと雖も
猶故楽著して 嬉戯すること已まず
是の時に長者 而も是の念を作さく
諸子此の如く 我が愁悩を益す
今此の舎宅は 一の楽しむべき無し
而るに諸子等 嬉戯に─ワして
我が教を受けず 将に火に害せられんとす

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訳 日達上人

譬えて申せば長者が一軒の大住宅を所有しておって、その住宅は随分古くて荒屋であります。
柱は朽ち析れ、棟や梁は斜めに傾き、階段は破れ落ち、板壁や土壁はやぶれ、さけ、地に落ち、屋根はくずれ、垂木は脱(ぬ)け、周囲の垣根も曲り倒れ、汚穢(おわい)が一ぱいになっております。

 その中には五百人も人々が居住しております。
その上に色々な動物、とび、ふくろ、くまだか、わし、からす、かささぎ、やまばと、いえばと、からすへび、うはばみ、さそり、むかで、げじげじ、やもり、おさむし、いたち、たぬき、むじな、ねづみ、その他悪虫等縦横に走り廻り、糞尿が流れ溢れて臭気に満ち、うぢがその上に集り、のぎつね、おおかみも集って来て屍肉を食いあらし、骨や肉が散乱し、又野犬も集って来て飢餓のため貪り食らわんとし、かみ合いひっかき合い、ほえ合い、実にこの住宅の恐怖のすごさは申すことができないほどです。

 至る所に魑魅もうりょうや夜叉悪鬼が住んでいて人の肉を食べ、毒虫や悪い禽獣が卵から生れ、或は母体から生まれて、親に養われていますが、夜叉が来てこれらの動物を取って食べます。
そして食べることが飽きると悪心が益々盛んになって、おたがいに闘争の声が激しくて、非常に恐怖の念にかられます。
鳩槃荼鬼(人の精気を食う鬼神)が地上に蟠踞して或る時は地上に勇躍嬉戯して遊び廻っております。
そして犬を撲ちて気絶させて両脚を以て頸に巻いて楽しんでおります。
又ある鬼神は、その身体は非常に長大で、裸で真黒で痩て、常にこの家に住んで大きな悪声を出して食を欲しがっております。
又ある鬼神は咽喉は針の様に細く、ある鬼神は牛の頭のような頭をなし、ある鬼神は人の肉を喜んで食し、ある鬼神は犬を食べます。
頭髪はぼうぼうとして蓬の様に乱れはえ、兇悪の害心が盛んで、常に飢に苦しんで、大声を出して馳り廻っております。
夜叉や餓鬼や悪い鳥獣が飢えて走り追って四方の窓からのぞき視ております。
この様な種々の恐怖に満ちております。

 この朽ちた古い家屋は一人の長者の所有物でありますが、その長者は外出して間もなくその家屋は突然に火事が起って、一時に燃え広がって火焔が盛んになり、その家の棟、梁、柱、縁等が燃え、やぶれ折れて落ち、土壁、板壁が皆、崩潰(ほうかい)します。
鬼神は大声に叫び、くまだかや、わしの類や鳩槃荼鬼等は周?狼狽して逃れ出ることができません。

 悪獣、悪虫は穴にかくれ、昆舎闍鬼(生物の精気を食う鬼神)もその穴に住んでいるが福徳が薄いため火が燃え逼まって来るのでたがいに殺し合い、血を吸い肉を食い合います。
野狐の類は早く死んで大悪獣は競ってその肉を食べます。
臭気の煙がもうもうと家中に充満しています。

 むかでやげじげじや毒蛇の類は火に追われて穴から逃げ出しますが鳩槃荼鬼はこれを取って食べます。
又餓鬼たちは頭上が然えているので飢えと熱さに苦しんで、あわてて走り廻っています。

 この家屋というのはこの様に恐怖に満ち、あらゆる毒害と火災等の総ての災難が集っているのであります。
(この世の相も同様であることを示しています)

 この時、家の主である長者は門の外に立ちよって、考え思うに自分の子供達は先刻遊ぶためにこの家に入ったのであって、その子供達は幼少でなにも知らない。
ただ遊戯、娯楽に耽っているのであると思いつき、愕然と驚き、子供達を焼死することから救出しようと燃えている家に入りました。そして子供達にこの家は悪鬼や毒虫がおり、火災が蔓延して多くの苦が段々と続発して終る時がありません。
毒虫や、からすへびや、まむし及び夜叉や、鳩槃荼鬼や野狐や犬、くまだかや、わしや、ふくろ、をさむし等が飢え渇えて走り廻っていて大変に恐怖すべき所であり、その上、大火に焼かれているのだと教え諭し、苦難を説き聞かせました。
しかし子供達は愚かであって父の長者のおしえを聞いても、相変らず娯楽に耽けり遊戯に夢中になっております。

 この時、長者は子供達がこんな有様だから自分は心から愁い悩むのであって、今、この家は何一つ楽しむことはありません。
それなのに子供達は遊戯に耽溺して私の教訓を聞き入れません。
だからこのままではぢきに火で焼き殺されてしまうと思いました。

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168
一切衆生 皆是れ吾が子なり
深く世楽に著して 慧心有ること無し
三界は安きこと無し 猶火宅の如し
衆苦(しゅく)充満して 甚だ怖畏すべし
常に生老 病死の憂患(うげん)有り
是の如き等の火 熾然(しねん)として息まず
如来は已に 三界の火宅を離れて
寂然としで閑居し 林野に安処せり
今此の三界は 皆是れ我が有なり
其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり
而も今此の処 諸の患難多し
唯我一人のみ 能く救護を為す
復教詔すと難も 而も信受せず
諸の欲染(よくぜん)に於て 貪著深きが故に
是を以て方便して 為に三乗を説き
諸の衆生をして 三界の苦を知らしめ
出世間の道を 開示演説す
是の諸子等 若し心決定しぬれば
三明 及び六神通を具足し
縁覚 不退の菩薩を得ること有り
汝舎利弗 我衆生の為に
此の譬喩を以て 一仏乗を説く
一切皆当に 仏道を成ずることを得べし


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171
(長者が火宅の子らに告ぐ)
汝等累劫に 衆苦に焼かる

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175

※ 「此の経を毀謗」 とは、殊更に特段 法華経を誹謗していなくても、他宗教は自らの宗派への信仰を信者や一般人に勧めている。
その存在とその宗教活動はそのまま法華経信仰を否定し阻害していることになるので、結果的に「毀謗」 (「毀」はけなす、「謗」はそしるの意) 人を非難すること。 そしること。 誹謗。)していることになる。
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※  与同罪

世間的にも定着

@線路の置石をしている者
Aそれを見ていて放置した者

結果は列車転覆し多数死傷者が出る。

@A双方に罪がある。

▼法華経を誹謗はしていない

●白法隠没 現時では釈尊の法華経ではない

上行付嘱 → 日蓮大聖人 → 三大秘法 ← これを誹謗しているのが創価学会 そこに在籍しているのがあなた → 法華誹謗に与同
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若し人信せずして 此の経を毀謗せば
則ち一切 世間の仏種を断ぜん
或は復?蹙して 疑惑を懐かん
汝当に 此の人の罪報を説くを聴くべし
若しは仏の在世 若しは滅度の後に
其れ斯の如き経典を 誹謗すること有らん
経を読誦し 書持すること有らん者を見て
軽賎憎嫉して 而も結恨を懐かん
此の人の罪報を 汝今復聴け
其の人命終して 阿鼻獄に入らん
一劫を具足して 劫尽きなば更生れん
是の如く展転して 無数劫に至らん
地獄より出でては 当に畜生に堕つべし
若し狗野干としては 其の形痩し
??疥癩にして 人に触?せられ
又復人の 忌み賎しむ所と為らん
常に飢渇に困しんで 骨肉枯竭せん
生きては楚毒を受け 死しては瓦石を被らん
仏種を断ずるが故に 斯の罪報を受けん
若しは?駝と作り 或は驢の中に生れて
身に常に重きを負い 諸の杖捶を加えられん
但水草を念うて 余は知る所無けん
斯の経を謗ずるが故に 罪を獲ること是の如し
有は野干と作って 聚落に来入せば
身体疥癩にして 又一目無からんに
諸の童子の 打擲する所と為り
諸の苦痛を受けて 或時は死を致さん
此に於て死し已って 更に蟒身を受けん
其の形長大にして 五百由旬ならん
聾?無足にして ?転腹行し
諸の小虫の ?食する所と為りて
昼夜に苦を受くるに 休息有ること無けん
斯の経を謗ずるが故に 罪を獲ること是の如し
若し人と為ることを得ては 諸根暗鈍にして
?陋躄 盲聾背傴ならん
言説する所有らんに 入信受せじ
口の気常に臭く 鬼魅に著せられん
貧窮下賎にして 人に使われ
多病?痩にして 依怙する所無く
人に親附すと雖も 人意に在かじ
若し所得有らば 尋いで復忘失せん
若し医道を修して 方に順じて病を治せば
更に他の疾を増し 或は復死を致さん
若し自ら病有らば 人の救療すること無く
設い良薬を服すとも 而も復増劇せん
若しは他の反逆し 抄劫し竊盗せん
是の如き等の罪 横さまに其の殃に羅らん
斯の如き罪人は 永く仏
衆聖の王の 説法教化したもうを見たてまつらじ
斯の如き罪人は 常に難処に生れ
狂聾心乱にして 永く法を聞かじ
無数劫の恒河沙の如きに於て
生れては輒ち聾?にして 諸根不具ならん
常に地獄に処すること 園観に遊ぶが如く
余の悪道に在ること 己が舎宅の如く
駝驢猪狗 是れ其の行処ならん
斯の経を誇ずるが故に 罪を獲ること是の如し
若し人と為ることを得ては 聾盲??にして
貧窮諸衰 以て自ら荘厳し
水腫乾? 疥癩癰疽
是の如き等の病 以て衣服と為ん
身常こ臭きに処して 垢穢不浄に
深く我見に著して 瞋恚を増益し
婬欲熾盛にして 禽獣を択ばじ
斯の経を謗ずるが故に 罪を獲ること是の如し
舎利弗に告ぐ 斯の経を謗ぜん者は
若し其の罪を説かんに 劫を窮むとも尽きじ

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訳(日達上人)

 もしこの妙法蓮華経を信じないで、しかもこの妙法蓮華経を謗るならば、世の中の人々の仏となるべき種子をも断じ尽すことになります。
あるいは又、この妙法蓮華経を嫌って顰面して、疑いの心を持てばこの人は必ず、死後は無間地獄に堕つると、説かれていることをよく心に留めなさい。
又、仏様の御在世においても滅後においても、この妙法蓮華経を謗る者や、この妙法蓮華経を受持、読涌し、書写する人を見て軽侮し、侮辱して心中に怨を含めばこの人も必ず、死後は無間地獄に堕ち、この世界のあらんかぎりの年代を無間地獄に過しこの世界の寿命が終われば、又他の世界の無間地獄に生まれて、その苦を受け、この様に数代の劫数を経るのであります。

 遇々地獄より出ることがあっても、ただちに畜生界に生れ、野犬や、野狐と生れ、その形体は痩細りて、色が黒く疥癬(※ヒゼンダニ(疥癬虫、Sarcoptes scabiei)が皮膚の最外層である角質層に寄生し、人から人へ感染する疾患である。 非常に多数のダニの寄生が認められる角化型疥癬(痂皮型疥癬)と、少数寄生であるが激しい痒みを伴う普通の疥癬(通常疥癬)とがある)ができていて、人々の、なぶりものにされます。
又、人々に悪まれ、賤しまれ、常に飢え、渇え、骨と皮だけになり、生きている時は毒を呑まされ、死なば石や瓦を被せられる。
この苦は妙法蓮華経を謗って世間の人々の仏になる種子を断尽した報いによるのであります。

もしくは、騾(らば)、驢(ろば)駱駝と生れ、身体には常に重荷を負わされ杖や靴でたたかれつづけて、ただ、水や草を求める外になんの念うこともありません。
この妙法蓮華経を謗った故に、この様な罰を受けるのであります。

 あるいは野狐と生れ、部落に迷い込んで来て、身体には疥癬ができていて、しかも片目しかないため、常に子供達にいぢめられて、種々の苦痛を受けて、時には命を落します。

一度死んで更に蛇身に生れ、その形体は長く大きく五丈にも及び、足がないから盲目に転々として腹ばって進行しますが、多くの小さな虫に身を噛まれ、喰われ、昼夜に苦しみを受け、少しも休まる時がありません。
これもこの妙法蓮華経を謗った故にこの罰を蒙るのであります。

 遇、人に生まれ来ても愚鈍であって、丈が短く、いざりで、せむしで耳も聞えず目も見えません。
なにか考えたことを述べても他人は信用してくれません。
常に口臭があって、物の怪に付かれ、貧乏で賤しく、他人に使用せられ、多病質で痩せおとろえ、頼みとする人もなく、他の人に親しみ従うとしても、その人は心に留めてくれません。
もしなにかしら得る所があっても、すぐまた忘れ失くしてしまいます。
もし医者にかかって一つの病気が癒っても、又ほかの病気が出て来てそのために死ぬのであります。

 もし自分で病にかかれば他の人は治療してはくれません。
たとい自分で良薬を服しても益々病が劇しくなるだけであります。

 もしくは他の人の反逆を企てたのに附随して略奪したり、窃盗して、この様な罪をほしいままにして、仏天の罰を蒙るのであります。
この様な人は永久に、仏様の説法を聞いて教化を受けることができません。

 又この様な人は常に苦難の住所に生れ、狂人の唖の如く心が錯乱して、永久に、仏の法を聞くことができません。
非常に長い年代に幾回となく生れて来ても、唖で、聾で、身体は不具であります。
いつも地獄におり、他の悪い所に生まれいついているから地獄も庭園の気でおり、悪い所も自分の家屋におるのだと考えているのであります。

時として駱駝や猪や野犬等に生まれたのは、地獄から地獄への中途の住所にすぎないのであります。

 この妙法蓮華経を謗った故に、この様な罰を蒙むるのであります。

 たまに人と生まれることがあっても聾で、盲目で、唖で、実に痛々しい貧相な姿をしており、その身体は、むくみで、しかも渇え、疥癬や、癰疽(ようそ 癰(浅くて大きなできもの)と、疽(深くて悪性のできもの)。 悪瘡。 毒瘡。)が一ぱいにできていて、身体から臭気を発し、不潔であります。

 常に我見に執し、瞋恚の心を燃し、情欲が激烈で、獣でもかまわず欲望をとげるのであります。
この妙法蓮華経を謗った故にこの様な罰を蒙むるのであります。

 舎利弗よ、この妙法蓮華経を謗る人の罰を説くならば長い年代をかかって説いても説ききれません。

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邪難者の自己矛盾追及
かつてこのように発言していた。

▼ 口頭対論の公開=承認欲求と戦闘欲求の表れ=みっともない
▼ 私は絶対にやりたくない

なのに今回は自分から法論を申し出てきた。
この自己矛盾について説明せよ。





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文のみに拘り、義が読めないのは、
「論語読みの論語知らず」
行間が読めない知恵の低い者

例 高校入試などで、「この箇所の作者の真意・意図を読み取り書きなさい」
などという設問に全く答えられない者、ということで入試失敗ということになるようなもの。

行間が読めず、紙背に徹して文を読むことができないのに「文そのものにないではないか!」と拘る者は、つまりは、小学生が高校の現国や漢文・古文の文章の含蓄ある深い内容が分からないでただ聞き分けもなく喚いているに過ぎない。
それはつまり、自身の知能の低さを声高に喧伝しているようなもの。
それは世間でも、よく「空気が読めない」とか「人の心の機微が分からない人」など、異性や他人から疎まれ相手にされない人。

参照

眼光紙背に徹する
あたかも眼光が書物の紙の裏側まで見通すかのごとく、書かれた言葉の真意を深く理解するような深い読解力があること。

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義 を用いないのなら 「譬喩」 も理解出来ないことになる。
たとえば 

井の中の蛙大海を知らず

これを文だけで読むと、
「井戸の中に棲んでいる蛙は、大海を知りません。」
とだけになって、そりゃそうですね。となり、何ら価値的な意義を見出す事ができない。

 義 を用いるから、この句から 慢心を自制し向上心を持とうと人生に活かせる教訓になるのであって、文だけではなんの意味も価値も生じない。

つまり 義 の否定は譬喩の否定にもつながる。
となれば法華経の七譬の意義も全く灰燼に帰す。
法華経を説かれた釈尊をも否定することになる。

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妙法蓮華経如来神力品第二十一
P516

能く是の経を持たん者は
諸法の義 
名字及び言辞に於て
楽説窮尽無きこと 
風の空中に於て
一切障礙無きが如くならん

如来の滅後に於て
佛の所説の経の 
因縁及び次第を知って
『義』 に随って實の如く説かん

日月の光明の 能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除くが如く 斯(こ)の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す

↑ まさに 『義』 の重要性を述べている。
仏滅後に仏の諸々の教説の因縁次第の位置づけ関連性を把握して、その『義』において仏の真実の教えを説き、一切衆生を救済する。というのであるから、
「義」を用いないとの幼稚な論は崩れた。

しかも、仏は諸法をあらゆる教説をもって衆生に知らしめたのであるから、『諸法の義』とは、仏のあらゆる教説、つまり経典 ということでもある。
とすれば法華経に限らず、あらゆる経典を引用して仏の説かんとする『義』に通じていく事はまさに『文』でも証明されている。

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無量義経 17

善男子、一の法門有り。能く菩薩をして、疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得せしむ。若し菩薩有って、是の法門を学せば、則ち能く阿耨多羅三藐三菩提を得ん。
世尊、是の法門とは、号(な)を何等(なんら)と字(なづ)くる、其の云何。菩薩云何が修行せん。

仏の言わく、
善男子、是の一の法門をば名づけて無量義と為す。菩薩、無量義を修学することを得んと欲せば、応当に一切諸法は、自ら本・来・今、性相空寂にして、無大無小、無生無滅、非住非動、不進不退、猶虚空の如く、二法有ること無しと観察(かんざつ)すべし。
而るに諸の衆生、虚妄に是は此、是は彼、是は得、是は失と横計(おうけ)して、不善の念を起し、衆の悪業を造って、六趣に輪廻し、諸の苦毒を受けて、無量億劫自ら出ずること能わず。

↑ では、「文」だけで、今我々は何をどう修行したら、即身成仏という大果報を得ることができるのか?
「文」だけで御説明願えますか?

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無量義経 18
衆生の諸の根性欲に入る。性欲無量なるが故に、説法無量なり。説法無量なるが故に、『義』 も亦無量なり。
無量義とは一法より生ず。其の一法とは、即ち無相なり。是の如き無相は、相無く、相ならず、相ならずして相無きを、名づけて実相と為す。

↑説法とは経文といえる。がそれと同様に「義」が存在する、と仰せ。
また、「文」だけで、無量義が一法より生じるその根本の「無相」とは何かを説明願いたい。

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無量義経説法品第二
P22

善哉善哉、大善男子、能く如来に是の如き甚深無上大乗微妙の 『義』 を問えり。
當に知るべし、汝能く利益する所多く、人、天を安楽し、衆生を抜苦す。
眞の大慈悲なり、眞実にして虚しからず。
是の因縁を以て、必ず疾く無上菩提を成ずることを得ん。
亦一切の今世、来世の諸有の衆生をして、無上菩提を成ずることを得せしめん。

↑ ここでも『義』の重要性を示している。

甚深無上大乗微妙 の法の『義』について質問した弟子をかくも褒めているということでそれが分かる。
ここでも、「文」にこだわるあなたの痴執は崩れ去った。

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安楽行品第十四
389

若し難問すること有らば 義に随って答えよ

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分別功徳品第十七
455

若し深心有らん者 清浄にして質直に
多聞にして能く総持し 義に随って仏語を解せん

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458
他人の為に、種種の因縁をもって、義に随って此の法華経を解説し、復能く清浄に戒を持ち、柔和の者と共に同止し、忍辱にして瞋無く、志念堅固にして、常に坐禅を貴び、諸の深定を得、精進勇猛にして、諸の善法を摂し、利根智慧にして、善く問難に答えん。

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随喜功徳品第十八
473
何に況んや一心に聴き 其の義趣を解説し
説の如く修行せんをや 其の福限るべからず

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法師功徳品第十九
494
是の義を解し已って、能く一句一偈を演説すること、一月、四月、乃至一歳に至らん。諸の所説の法、其の義趣に随って、皆実相と相違背せじ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
495
是の人は意(こころ)清浄 明利(みょうり)にして穢濁(えじょく)無く
此の妙なる意根を以て 上中下の法を知り
乃至一偈を聞くに 無量の義を通達せん

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
495
無量の義を思惟し 説法すること亦無量にして
終始忘れ錯(あやま)らじ
 法華を持つを以ての故に
悉く諸法の相を知り 義に随って次第を識り
名字語言に達して 知れる所の如く演説せん


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
如来神力品第二十一
516
能く是の経を持たん者は 諸法の義
名字及び言辞に於て 楽説窮尽(ぎょうせつぐうじん)無きこと

風の空中に於て 一切障礙無きが如くならん
如来の滅後に於て 仏の所説の経の
因縁及び次第を知って 義に随って実の如く説かん

日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く
斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し
無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
勧発品第二十八
602
若し受持し、読誦し、正憶念し、其の義趣を解し、説の如く修行すること有らん。
当に知るべし、是の人は普賢の行を行ずるなり。無量無辺の諸仏の所に於て、深く善根を種えたるなり
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
602
何に況や、受持し、読誦し、正憶念し、其の義趣を解し、説の如く修行せんをや。
若し人有って、受持し、読誦し、其の義趣を解せん。
是の人命終せば、千仏に手を授けられて、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為て、即ち兜率天上の弥勒菩薩の所に往かん。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
94

仏、一解脱の義を説きたまいしかば、我等も亦此の法を得て、涅槃に到れり。而るに今、是の義の所趣を知らず。
安楽行品 と 勧持品 とでは大矛盾だが、これを文だけで説明せよ。

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「経文」にこだわるならば、そもそも、釈尊は一切経文を書いていなかったんだから、仏教それ自体が泡沫に帰するのでは?

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無量義経 32

其れ衆生有って、聞くことを得ざる者は、当に知るべし。是等は為れ大利を失えるなり。
無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ずることを得ず。所以は何ん。菩提の大直道を知らざるが故に、険逕を行くに、留難多きが故に。

↑法華経でなければ絶対に成仏できない。ならばその執情を破すのは釈尊の出世の本懐であろう。弟子もまた然り。
それを放置することは、菩薩として失格であり、釈尊に叱られる事必定であろう。
そういう道理も分からぬか?

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無量義経 45

是の善男子、善女人は、即ち是の身に於て、便ち無量の諸の陀羅尼門を逮得せん。凡夫地に於て、自然に初めの時に、能く無数阿僧祇の弘誓(ぐぜい)大願を発(おこ)し、深く能く一切衆生を救わんことを発して、大悲を成就し、広く能く衆の苦を抜き、厚く善根を集めて、一切を饒益せん。
而して法の沢(うるおい)を演べて、洪(おお)いに枯涸(ここ)を潤し、能く法の薬を以て、諸の衆生に施し、一切を安楽し、漸見(ぜんけん)超登(ちょうとう)して、法雲地に住せん。恩沢(おんたく)普く潤し、慈被すること外無く、苦の衆生を摂(せっ)して、道跡(どうしゃく)に入らしめん。
是の故に此の人は、久しからずして阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得ん。

↑ 一切衆生を救うためには、爾前権経に執着する者のその心根を破らねばならない。
あなた実際にそういう行動をしたことがあるのか?

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開示悟入 の観点から

■ 方便品第二
「舎利弗、云何なるをか、諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして、仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
舎利弗、是を諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと為づく。」

釈尊は一切衆生を開示悟入させ、成仏の境界へ導くことが最第一の目的でこの世に誕生された。
それが可能なのは法華経のみ。
ならば、成仏できない爾前権教を否定し排除し、そこへ執着する者の根性を破る事は当然の帰結。
爾前権経では女人・二乗・悪人は成仏できない。

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無量義経 51

爾の時に仏、大荘厳菩薩摩訶薩及び八万の菩薩摩訶薩に告げて言わく、
汝等当に此の経に於て、応に深く敬心を起し、法の如く修行し、広く一切を化して、勤心に流布すべし。
常に当に慇懃に昼夜守護して、諸の衆生をして、各(おのおの)法利を獲せしむべし。
汝等、真に是れ大慈大悲なり。
以て神通の願力を立てて、是の経を守護して、疑滞せしむること勿れ。
汝当時に於て、必ず広く閻浮提に行ぜしめ、一切衆生をして、見聞し、読誦し、書写し、供養することを得せしめよ。
是を以ての故に、亦疾く汝等をして、速かに阿耨多羅三藐三菩提を得せしめん。

↑ 一切衆生に法華経を修行させよ。との命令。
抵抗する者にはどうすればいいのか? 

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方便品第二

■ 正直捨方便 但説無上道
正直に方便を捨てて 但無上道を説く

釈尊自らが方便教を捨てる。と仰せ。
ならば弟子檀那も同様に捨てるべきであろう。
では、捨てたくない、と執着する者にはどうするのか?
捨てさせるべく働きかけることは当然。


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■ 十方仏土の中には唯一乗の法のみ有って二も無く亦三も無し。(法華経・方便品)

この一仏乗が宇宙法界の真実相

つまり、二乗のみに空を説いた小乗教 菩薩に幼稚な中道を説いた別教などは全て、未完成・未熟・偏頗な教えであって、その教に執着する者の根性を破らなければその者は成仏させることができない。
それは釈尊の悲願が叶わないことになる。
その故に、破することは当然。

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■ 十方仏土の中には 唯一乗の法のみ有り
二無く亦三無し 仏の方便の説をば除く
但仮の名字を以て 衆生を引導したもう
仏の智慧を説かんが故なり 諸仏世に出でたもうには
唯此の一事のみ実なり 余の二は則ち真に非ず
終に小乗を以て 衆生を済度したまわず(※ 法華経以前を全て小乗と呼ぶ)
仏は自ら大乗に住したまえり 其の所得の法の如き
定慧の力荘厳せり 此を以て衆生を度したもう
自ら無上道 大乗平等の法を証して
若し小乗を以て化すること 乃至一人に於てもせば
我則ち慳貪に堕せん 此の事は為めて不可なり


↑釈尊自ら法華経以前は真実ではない。
法華経以前の教えのまま放置して置いたら釈尊自身が慳貪の罪となる。
このことはあってはならないことである。
と言っているのであるから、法華経以前の経に執着する者を目覚めさせるように行動する事は弟子として当然の道。

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■ 法華経開経・無量義経・説法品 「四十余年未顕真実」

四十余年には未だ真実を顕さず

真実でないものを信じたらどうなるのか。
成仏できないどころか、真実でない教説によって歪んでしまうであろう。
ならば真実の教から真実でない教を破るのは当然。

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■ ●法華経譬喩品第三

若し人信せずして 此の経を毀謗せば
則ち一切 世間の仏種を断ぜん
或は復?蹙(ひんじゅく)して 疑惑を懐かん
汝当に 此の人の罪報を説くを聴くべし
若しは仏の在世 若しは滅度の後に
其れ斯の如き経典を 誹謗すること有らん
経を読誦し 書持すること有らん者を見て
軽賎憎嫉して 而も結恨を懐かん

此の人の罪報を 汝今復聴け

其の人命終して 阿鼻獄に入らん
一劫を具足して 劫尽きなば更生れん
是の如く展転して 無数劫に至らん

法然は浄土三部経以外は全て捨閉閣抛(捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、抛(なげす)て)せよ。と宣言した。
まさに上記法華経の文の禁制を犯す者。
一切衆生を救済せんとする仏が、このような罪業を自らも積み他へも積ませる行為をしている者を放置すると思うか?
また我々も放置していて良いと仏が思っているというのか?
そんなこと有り得ない。

弘法は法華経を三重の劣と下した。これも同様。
禅宗は経典そのものを「月を指す指」として全否定している。やはり同様
他はこれに準じて知るべし。

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● 我々は「諌める」であって相手を罵るような意味での「責める」ではない

▼ あなたの発言でも責めるは多々ある

● 人間的に未熟だから

しかし経典にはこうもある 
■ 善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀(いぎ)を修せずして、応(まさ)に刀剣・弓箭(きゅうせん)・無槊(むさく)を持すべし (立正安国論 文応元年七月一六日 三九歳 245)

若し五戒を受持せんの者有らば名づけて大乗の人と為すことを得ざるなり。
五戒を受けざれども正法を護(まも)るを為(もっ)て、乃(すなわ)ち大乗と名づく。
正法を護る者は、当に刀剣器仗(とうけんきじょう)を執持(しゅうじすべし)すべし。
刀杖(とうじょう)を持つと雖も、我是等(これら)を説きて、名づけて持戒と曰(い)はん

▼ 涅槃経ではないか

● 涅槃経を用いていけないという根拠は?

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▼※なお、「折伏」の語は大般涅槃経に書いてあり、「破折」の語は法華経・涅槃経で検出できませんでした。

647
若し折伏せんと欲せば 当に勤めて大乗を誦し
仏の大覚身 力無畏の所成を念じたてまつるべし

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安楽行品は文上では大変な差別思想ではないか?

あなたのブログから

▼法華経が一仏乗・久遠本仏・平等をテーマにした経典であることに特に異論はないと思います。もちろん、他にも重要な記述はありますが。
それらのテーマは、いずれも一般的には「優しい」とか「受容・寛容」のようなイメージになるだろうと思います。
例えば、安楽行品や常不軽菩薩品を見れば「法華経を受持していないからと言って責める」ということにはなり得ません。

では以下の記述は極めて差別的な、平等とは程遠い内容だが、この矛盾を 文 だけで説明して下さい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
菩薩摩訶薩は、国王、王子、大臣、官長に親近せざれ。
諸の外道、梵志、尼?子等、及び世俗の文筆、讃詠の外書を造ると、及び路伽耶陀、逆路伽耶陀の者に親近せざれ。
亦、諸の有らゆる凶戯、相扠、相撲、及び那羅等の種種変現の戯に親近せざれ。
又旃陀羅、及び猪羊鶏狗を畜い、畋猟漁捕する諸の悪律儀に親近せざれ。是の如き人等、或時に来らば、則ち為に法を説いて、?望する所無かれ。
又、声聞を求むる比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷に親近せざれ。亦問訊せざれ。若しは房中に於ても、若しは経行の処、若しは講堂の中に在っても、共に住止せざれ。或時に来らば、宜しきに随って法を説いて、?求する所無かれ。
文殊師利、又菩薩摩訶薩は、応に女人の身に於て、能く欲想を生ずる相を取って、為に法を説くべからず。亦見んと楽わざれ。若し他の家に入らんには、少女、処女、寡女等と共に語らざれ。亦復、五種不男の人に近づいて、以て親厚を為さざれ。独他の家に入らざれ。若し因縁有って、独入ることを須いん時には、但一心に仏を念ぜよ。

(中略)

爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく、
若し菩薩有って 後の悪世に於て
無怖畏の心をもって 此の経を説かんと欲せば
応に行処 及び親近処に入るべし
常に国王 及び国王子
大臣官長 凶険の戯者
及び旃陀羅 外道梵志を離れ
亦 増上慢の人
小乗の 三蔵に貪著する学者に親近せざれ
破戒の比丘 名字の羅漢
及び比丘尼の 戯笑を好む者
深く五欲に著して 現の滅度を求むる
諸の優婆夷に 皆親近すること勿れ
是の若き人等 好心を以て来り
菩薩の所に到って 仏道を聞かんと為ば
菩薩則ち 無所畏の心を以て
?望を懐かずして 為に法を説け
寡女処女 及び諸の不男に
皆親近して 以て親厚を為すこと勿れ
亦 屠児魁膾
畋猟漁捕 利の為に殺害するに親近すること莫れ
肉を販って自活し 女色を衒売する
是の如きの人に 皆親近すること勿れ
凶険の相撲 種種の嬉戯
諸の婬女等に 尽く親近すること勿れ
独屏処にて 女の為に法を説くこと勿れ
若し法を説かん時には 戯笑することを得ること無かれ
里に入って乞食せんには 一りの比丘を将いよ
若し比丘無くんば 一心に仏を念ぜよ
是れ則ち名づけて 行処近処と為す
此の二処を以て 能く安楽に説け
又復 上中下の法
有為無為 実不実の法を行ぜざれ

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訳 日達上人

 どういうことが、菩薩の親近処と申すかというと、菩薩は国王、王子、大臣、諸官長等の権位を遠ぎかり、それに親近してはなりません。

 又、仏道以外の道を修する者、梵志(婆羅門の一派、梵天を理想とする者)尼乾子(裸形外道)等の外道の人々や、世間の文学、詩歌の外典の書、順世外道(物質的享楽主義の外道)逆順世外道(師敵対者、極端な唯物主義の外道)等を遠ざかって親近してはなりません。

 又、種々の唐手、拳法、相撲、柔道等や文身、幻術等すべて心の散逸するような遊戯に親近してはなりません。

 又、屠殺者、家畜を飼う者や屠殺や漁獲についての儀式、作法、等の悪律儀には慈悲心を害うから親近してはなりません。もしそれに従事する人が来たならば、法を説いて聞かして、自分が加わるようなことを望んではなりません。

 又、声聞を志す僧、尼、男、女には菩提に遠ぎかるから親近してはいけません。又、それ等の人々を訪問したり、一緒の家に住んだり、共に修行したり、共に講義を聞いたりしてはいけません。もし、自分を尋ねて釆たならば、随時に説法をしてやって、自分が声聞を望むようなことをしてはなりません。

 文殊師利菩薩よ、又、菩薩は、女人に情欲の思いを起こさせるような恰好で説法してはいけません。又、自分からそんな恰好を見ようとしてはいけません。情欲は菩提心を害しますから、そういう行動をしてはいけません。
 もし他人の家に入ったならば、童女、処女、未亡人と二人だけで語らい合ってはいけません。

 又、五種不男の人(一、生れつき男根のない人、二、男根を切断した人、三、両根の人、四、一生の間に女根から男根へ、男根から女根に変る人、五、毎月、男、女根の変化する人) は意志弱く仏道修行に適しないから親しく交ってはいけません。

 単独で、危難の加えられる様な家に入ってはいけません。もし止むを得ず入らなければならない時は心に仏を念じ、仏様の加護を得なさい。

(中略)

 もし、菩薩が仏様の滅後の濁悪の世に於て何等の恐怖心もなく、この妙法蓮華経を説こうと思うならば、その理に入る者は速かにその理を行じ、理に入らない者はその理に近づく様にすべきであります。
そして常に、権位にある国王、王子、大臣、諸官の長や、心を散逸させる伎戯や屠殺を業とする人々、及び仏道以外の道に志す者等から遠ざかりなさい。
又、声聞に執する者、小乗の縁覚や菩薩を志願する学者、破戒の憎、実のない名だけの羅漢、及び色好みの尼等には親近してはいけない。
又深く愛欲の煩悩に執著し、邪見を起こす女人等には皆、親近してはいけません。
 もし、この様な人々が好奇心で正法弘通の菩薩の所に来て仏法を聞くことを望んでも、菩薩は少しも畏れず毅然とした態度で、少しの野心もなく、説法をしなさい。
又、未亡人や処女、及び両性の人等には皆、親近したり特にねんごろにしてはいけません。
又、猟師、漁夫で利欲のために生物を殺害する者に親近してはいけません。
 又、売春する女や売春を業とする人々に皆、親近してはいけません。
肉体を相打つ種々の伎戯や、種々の娼婦等にはすべて親近してはいけません。
独りで婦人と一室に閉じこもって説法してはいけません。
もし止むを得ず法を説く時は、微笑してはいけません。
又、町を托鉢する時は必ず一人の憎を連れなさい。
もし憎が無い時は、ただ一心に仏を念じなさい。
これらのことが、行処、近処の行を実行することによって、能く安楽に妙法蓮華経を説きなさい。

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安楽行品 と 不軽菩薩品 矛盾を 文 だけで説明してください

常不軽菩薩品第二十

遠く四衆を見ても、亦復故(ことさら)に往いて、礼拝讃歎して、是の言を作さく、
我敢えて汝等を軽しめず。汝等皆、当に作仏すべきが故に。

若し我宿世に於て、此の経を受持し、読誦し、他人の為に説かずんば、疾く阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わじ。我先仏の所に於て、此の経を受持し、読誦し、人の為に説きしが故に、疾く阿耨多羅三藐三菩提を得たり。

応当に一心に 広く此の経を説くべし

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