4. ▼「不敬の御開扉」なる妄言を砕く
顕正会は何故、日蓮正宗の御開扉を誹謗するのでしょうか。
多くネットに破折内容はありますので、それらも御参照頂ければと思います。
きっと顕正会をあまり知る機会がない方から見れば“なぜ顕正会は御開扉を不敬と云うのか”がなかなかわからない所かと思います。
以下、簡単ながら概要も含めて述べさせて頂きますが、マニアックな話になれば・・・
浅井会長のこの「不敬の御開扉」は実は平成十年四月の「御遺命守護完結奉告式」以前と以後では内容が変わっています。
平成 10 年以前、昭和 49 年の 8 月の妙信講(顕正会)の解散処分の頃、既に解決して鞘を納めた筈の正本堂問題を浅井会長は恥ずかしげもなくほじくり返し、解散処分後には正本堂を“誑惑の殿堂”と言い出し、自分の正当を主張します。
内容としては
▼「誑惑の正本堂に戒壇の大御本尊様を居え奉っているのがいけない。
すみやかに奉安殿に御遷座すべき。それまでは不敬だから中止せよ」
というのが「不敬の御開扉」の起源だった筈なのです。
その証左として平成 10 年の正本堂の崩壊後の浅井会長の発言を見て欲しく思います。
<平成 10 年 4 月、正本堂が崩壊し奉安殿へ御戒壇様が御遷座された以降の浅井会長の発言>
▼「誑惑は根底から精算され、不敬は完全に解消された」
(顕正新聞平成 10 年 4 月 15 日号)
▼「顕正会は、今の宗門には、もう求める何ものもない」
(顕正新聞平成 10 年 5 月 5 日号)
▼「戒壇の大御本尊様さえ還御あそばされれば、顕正会はもう宗門に求める何も
のもないのです。解散処分を取り消すかどうかは、向こうのやることです」
(顕正新聞平成 10 年 7 月 5 日号)
御遺命守護完結での約束
つまり、見ての通りですが正本堂から御戒壇様が御遷座された時、
浅井会長が主張していた「不敬は解消された」筈なのです。
(元より「奉安殿の延長としての正本堂」と浅井会長自身が昭和 46 年に“「正本堂」に就き池田会長に糺し訴う”で既に書いているのですから元々不敬はなかったのですがね・・・・)
しかし平成 12 年 3 月、浅井会長は新たな不敬の御開扉の定義を出したのです。
これに気付いている会員もまた少ないのですが・・・・
浅井会長曰く
▼「阿部管長はいま、正本堂の跡地に、奉安堂なる巨大な建物を建てんと企てている。
(中略)戒壇の大御本尊様を利用して本山の収入を図るためであります。
『いいかげんにしないか』と私はいいたい」(顕正新聞 H12.4.5 号)←御開扉批判 @ A B
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参照
昔自らが嬉々として御開扉を受けていたにもかかわらず、戒壇の大御本尊への御開扉を口を極めて批判している。
(御開扉批判 @ A B 参考文献 御開扉(正本堂での御開扉を申請していた)
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この平成 12 年から顕正会は日蓮正宗の登山を本格的に
「御開扉料稼ぎ」「金儲け」と言い出しての「不敬の御開扉論」が始まっています。
では最近の顕正会員の登山観はどういうものかといえば・・・簡潔に言えば多くの顕正会員は「御目通りは広宣流布の暁に─」そういう認識の会員がほとんどではないかと思われます。
これは日亨上人の「富士日興上人詳伝」において次の箇所を指導されているからです。
■「開山上人は、これ(本門戒壇の大御本尊)を弘安二年に密附せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついに今日のごとき常例となったのは、もったいない限りである……」と。
(上記の部位の→「ついに」は"ついには" と最後は "もったいない事であるから” が本当の原文です。
浅井会長は文章を変えて指導している時があります。
唯、平成 30 年 11 月 5日の顕正新聞は原文に直しての掲載をしていました)
この上記の日亨上人の内容を教条主義的な解釈に誘因して指導し、
▼「御開扉は本当は広布の時なのである。ただ篤信の信者にのみは特別に許される」
という旨の内容で顕正会では何度も教えられます。
その上で法華講の登山は数集めであり、金儲け。
広宣流布の熱意もない上に御遺命に違背している。
更には昨今の時代ではどんな不審者が戒壇の大御本尊様に危害を加えるかわからない。
ましてや大地震の恐れもある。
その状態で登山など不敬千万・・という感じの認識で思っている事でしょう。
然しながら、事実として浅井会長は何度も妙信講時代に登山をし、今では偽戒壇と強弁する正本堂建立後の翌年の昭和 48 年、そして昭和 49 年にも浅井会長は登山を願い出ています。
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参考文献 御開扉(正本堂での御開扉を申請していた
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まずここで、「偽戒壇の正本堂に浅井会長は登山を願い出た」、という事になります。
また、「金儲け」と顕正会は言いますがその根拠は勝手な言い掛かりです。
「御開扉料稼ぎ」という以上、どう稼いでいるのか、という事ですが
御開扉の御供養は現在 2000 円ですが、これは浅井会長が御開扉料云々を言い出す遥か以前の時代から、その供養の金額はほとんど変わっていないのですね。
また、登山の頻度に於いては昭和四十七年発行の「日蓮正宗大石寺」には
「昭和 36~47 年の間は毎日御開扉が行われており」、
今の週四日の御開扉よりも余程頻度は多いのです。
それに現在の様な登山の形式は昭和 27 年頃からです。
顕正会が批難する日達上人以前の日淳上人の代にも既に現在の様な登山形式であったのです。
今の登山形式を批難するのなら顕正会は日淳上人へも批難している事となります。
加えて不審者や爆発物などの懸念は現在よりも昭和中期の不安定の時代の方が余程あったとも思えます。
そしてなによりも顕正会の姿勢は顕正会の教科書の一つの
「試練と忍従の歴史」30 ページに示されているごとく、
▼『私共の思いには、御開扉を許す許さぬは、昔より血脈の御一人の為されるところにして、一般僧侶すら口にする所ではない』と発言しているのです。
浅井会長並びに顕正会が何の権限があって「不敬冒涜の御開扉を中止せよ」などと言えましょう───
本来は顕正会が「口にする所ではない」のです。