其の上多を捨て小に付くとも法華経の文分明ならば少し恃怙(じこ)有らんも、法華経の文に何(いず)れの所にか十界互具・百界千如・一念三千の分明なる証文之(これ)有りや。随って経文を開拓するに「諸法の中の悪を断じたまへり」等云云。
-----------------------------------------

 次に 「毀謗」 の文が挙げられ、初めに「法」 についての毀謗が示されます。
これに二あり、その一は「無文」 つまり法華経には十界互具一念三千に当たるべき文がないことの非難です。

 「其の上多を捨て小に付くとも法華経の文分明ならば少し恃怙(じこ)有らんも、法華経の文に何(いず)れの所にか十界互具・百界千如・一念三千の分明なる証文之(これ)有りや。」−

たとえ爾前経の多きを捨てて小さい法華経に付くとしても、その法華経の文において十界互具ということが、もし分明に説かれてあるならば、少しは「恃怙」すなわち恃(たの)みとするところがある、依りどころがある。
けれども、法華経のいずれのところに 「十界互具・百界千如・一念三千」ということを証明する文が説いてあるかと、その 「無文」について毀謗しています。

 もちろん、一念三千という言葉自体は、法華経の六万九千三百八十四字のなかにありません。
一念三千の法門は釈尊滅後、像法の時に出現した天台大師が、法華経の義によって述べられた法門ですから、ないのが当たり前なのです。

 しかし、一念三千を証明する文と義は明らかに法華経にあります。
つまり、一念三千という深い意義は、法華経において二乗作仏、久遠実成というような形において示されておるのです。
故に、有文なのです。
けれども、明らかな眼のない者、爾前経に執われている者は、それを見ることができないのであり、そこでこのような難を立てるに至るのであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「十界互具」ということですけれども、その十界互具だけでは三千になりません。
あとは何かと言いますと、「世間」と「如是」とが、具わるのです。
世間という法門は、竜樹菩薩が般若経を土台として講じた『大智度論』という論のなかに三つの世間があるということが言われております。
(観心本尊抄講話@ 日顕上人)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://toyoda.tv/shinnyokyoto.hasyaku161.htm

http://toyoda.tv/shinnyokyoto.hasyaku174.htm

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 次は、法の毀謗に関する二の「無義」についての毀謗です。

 「したがって、法華経の経文を開いてみると、そのなかに『諸法の中の悪を断じたまへり』という、十界互具や一念三千と矛盾する断悪の義が説いてあるではないか」と言うのです。
これは、文がないということに対して、今度は一念三千の義がないという謗りです。

 諸法のなかの悪を断ずるということは、先程も三経(※ 華厳経・仁王経・金剛般若経)ならびに二論(馬鳴・起信論・天親・唯識論)が引かれ、その内容には、煩悩を全部断尽して初めて成仏があるというように説いてありました。
それは、煩悩というのは悪そのものなのだから、それをなくして初めて悟りを得るということが、諸法のなかの悪を断ずるという意味と同じことになる。

 しかるに、法華経の方便品に、

  「諸法の中の悪を断じたまえり」 (法華経一一一)

という文があるから、権経権論の三経二論と同じことになり、これは煩悩を即、菩提と開くという一念三千の義と反することになるではないか、と難じているのであります。

 しかしこれは、のちほど大聖人様がその理由をきちんとお示しになってありますが、爾前経の意義を一往、法華経の上に示されたわけです。
それだからといって、法華経の文々句々が全部、その意義によって占められておるかというと、そのようなことは全くないのであって、一念三千、十界互具の深い意義が法華経に究竟して説かれておるのであります。

-----------------------------------------

天親(てんじん)菩薩の法華論にも、堅慧(けんね)菩薩の宝性(ほうしょう)論にも十界互具之(これ)無く、漢土南北の諸大人師・日本七寺の末師の中にも此の義無し。但天台一人の僻見(びゃっけん)なり、伝教一人の謬伝(みょうでん)なり。
                              
-----------------------------------------

 次は「人」に対する毀謗であり、人とは天台大師のことです。′

 「天親(てんじん)菩薩の法華論にも、堅慧(けんね)菩薩の宝性(ほうしょう)論にも十界互具之(これ)無く、漢土南北の諸大人師・日本七寺の末師の中にも此の義無し。」と誹謗しております。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A6%AA#:~:text=%E4%B8%96%E8%A6%AA%EF%BC%88%E3%81%9B%E3%81%97%E3%82%93%E3%80%81%E6%A2%B5%3A,%E5%86%99%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

つまり天台以前においては、論師・人師の説において、全く文もなければ、その義も説かれていないということを挙げているのです。

 その天親菩薩の『法華論』というのは、実際には『妙法蓮華経憂波提舎』と言います。
それを通称として『法華論』と言っておるのですが、それには法華経のことを説いてあるのです。

 ただし、法華経もその他すべての経々も、滅後の正しい論師、人師は仏様の付嘱の段階、その内容によって法を説かれるわけなのです。
同じ法華経を扱うにしても、日本の国では聖徳太子が法華経を説かれましたが、聖徳太子の説かれた法華経と伝教大師が説かれた法華経とは、内容が全く違うのです。
それと同じように、天親の法華経と天台の法華経とは内容が違うのです。

 なぜ違うかといえば、天親菩薩は権大乗のところまでの付嘱しか仏様から受けていないのだから、それ以上の法華経の迹門の実相は、時と機がないために説くことができないのです。
したがってへ爾前経の意味で法華経を説いておることがある。
それを直ちに挙げて、一念三千を説いていないから法華経にその意義はないと言うことは、全く一を知って十を知らず、あるいは百を知らないということになるのです。

 例えば、上慢あるいは決定性の二乗という二種の声聞においては、これはまだ機が熟していないから授記しないということが、天親の 『法華論』には説いてある。
しかしそれは、爾前当分の意味からそこに説いたものである。
けれども、それでいて永久にそれらの者が授記されないかというと、そんなことは全く言われていないのです。
ところが、その文に執われて、法相宗の得一等は自分勝手に都合のよいように、法相宗の教義に基づいて法華経の法門を誹謗する。
これが大変な誤りです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%B8%80#:~:text=%E5%BE%B3%E4%B8%80%EF%BC%88%E3%81%A8%E3%81%8F%E3%81%84%E3%81%A4%EF%BC%89%E3%81%AF%E3%80%81,%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%A7%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
それはともかく、『法華論』においては一念三千の義は見られないということを、誹謗者は一往ここに難問としております。

 次の「堅慧菩薩」という方は西暦五世紀ごろ、インドのマカダ国に出た方で、ナーランダという寺があって、その寺の学者だったそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E5%83%A7%E9%99%A2
その方が如来蔵の義を『宝性論』に述べておるということで、小乗を究め、大乗の義をも深く伝えた方であると言われておりますが、これにも十界互具ということはないと言うです。
 如来蔵は、一切に如来の性ありと説くが、煩悩の断絶を説く権大乗経の教えであり、そこに十界互具一念三千の法門がないのは当然なのです。

 それから「漢土南北の諸大人師」というのは、南三北七と言われるところの中国における仏教家のことで、各十家の教学においてもそれが見られない。

 また「日本七寺」というのは奈良仏教の諸寺であります。
南都六宗といって六つの宗旨があったけれども、そのうちで特に華厳宗と法相宗と三論宗が有名であって、華厳宗には東大寺に華厳経の教主を象(かたど)ったところの奈良の大仏があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E5%AE%97#:~:text=%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E5%AE%97%EF%BC%88%E3%81%91%E3%81%94%E3%82%93%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%86,%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%81%AB%E3%82%82%E5%BA%83%E3%81%BE%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
それから法相宗は、西大寺、薬師寺、法隆寺−法隆寺は以前、金堂が焼けて有名になったけれども、そういう寺があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97#:~:text=%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97%20%EF%BC%88%20%E3%81%BB%E3%81%A3%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%86,%E9%96%8B%E3%81%84%E3%81%9F%E5%AE%97%E6%B4%BE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
それから三論宗は、興福寺、元興寺、大安寺というお寺があって、それらを「七寺」と言われております。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%AB%96%E5%AE%97
それらのところの末師、いわゆる華厳、法相、三論等の学者のなかにも十界互具百界千如一念三千を説いた者はないということです。

 したがって 「但天台一人の僻見なり、伝教一人の謬伝(みょうでん)なり」−ここではっきりと、例証の結論として、これら人師を毀謗しておるわけです。
まさしく天台の間違いである、伝教の言っておることは違っておるという主張を、ここに示されております。

-----------------------------------------
故に清涼(しょうりょう)国師の云はく「天台の謬(あやま)りなり」と。慧苑(えおん)法師の云はく「然るに天台は小乗を呼んで三蔵教と為(な)し其の名謬濫(みょうらん)するを以て」等云云。了洪(りょうこう)が云はく「天台独(ひと)り未(いま)だ華厳の意を尽くさず」等云云。
-----------------------------------------

 ここからは天台を誤りとして毀謗するための「引証」すなわち証文を引くのです。

初めの「清涼国師」というのは、中国の五台山という山の清涼寺という寺に住んでいた、中国唐代の有名な華厳宗の僧・澄観のことでありまして、この人が天台は誤っておるということを言っておるのです。
結局、これは華厳宗の立場から十界互具一念三千を誹謗しておるのであります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%84%E8%A6%B3#:~:text=%E6%BE%84%E8%A6%B3%EF%BC%88%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%8B%E3%82%93%E3%80%81738%E5%B9%B4%20%2D,%E4%BF%97%E5%A7%93%E3%81%AF%E5%A4%8F%E4%BE%AF%E3%80%82

 それから「慧苑法師」というのも中国唐代の華厳宗の学者でありまして、これは有名な法蔵、いわゆる賢首大師という人の弟子であります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[生]咸亨4(673)?
[没]天宝2(743)?
中国,唐の法蔵門下の最もすぐれた華厳学者。『続華厳経略疏刊定記』 (15巻) を撰した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%94%B5_(%E5%94%90)

賢首大師は則夫武后の前で華厳経の妙義を説いた人で、最初、華厳の教義を説いた時は、非常に難しいものだから、則天武后はなんのことやらちっとも解らず、茫然として聞いていたというのです。
そこで賢首大師が、目の前に金の唐獅子があったので、その唐獅子を譬えとして、華厳経の十玄・六相という非常に難しい意義を説いたところ、理解ができて、則天武后はたいへん感心し、それから朝廷の帰依を受けたということです。
慧苑はその賢首大師の弟子であります。

 その慧苑法師が「然るに天台は小乗を呼んで三蔵教と為(な)し其の名謬濫(みょうらん)する」というような難癖をつけたというのであります。
これは天台大師がそのように言われたこともきちんとした理由があるのですが、天台は小乗教のことを三蔵教と言う誤りを犯したというのです。

 その三蔵という意味は本来、経・律・論の三つを言います。
ところが、阿含経等の小乗経について天台が直ちに三蔵あるいは蔵教と言っておることは間違いだということを慧苑法師は言っておるのです。

 なぜならば、大乗においても経・律・論の三蔵は当然なければならない。
それはたしかに、あるといえばあるのであります。
しかし、部の形からきちんと経と律と論の三つが具わっているのは小乗だけなのです。
大乗経において、律という部はどこにあるかといえば、全くありません。
大乗の梵網経菩薩心地戒品や瓔珞経(『菩薩瓔珞本業経(ぼさつようらくほんごうきょう)』二巻。後秦の竺仏念(じくぶつねん)訳とされる。八章からなり、菩薩の法である十波羅蜜(じっぱらみつ)、四諦・修行の階位(五十二位)などについて説いた経。)に十重禁戒と四十八軽(きょう)戒が説かれており、つまりお経のなかに大乗の律が説かれているだけなのです。
故に、きちんとした律部の形というものは、大乗にはなく小乗だけです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
四十八軽戒 戒相
No. 戒 戒相
1 軽慢師長戒 仏弟子が国王・大臣・官役に就くときには先ず菩薩戒を受けなければならない。そのとき和上・阿闍梨や同行の人を軽んじてはならない。
2 飲酒戒 自らの意思で、酒を飲んではならない。酒を人に与えて飲ませてはならない。その相手が神や動物であれ、酒を飲ませてはならない。
3 食肉戒 自らの意思で、それがどのような種類(鳥・肉・魚)のものであれ、肉を食べてはならない。
4 食五辛戒 大蒜・革葱・慈葱・蘭葱・興渠の五辛*を、自らの意思で食べてはならない。(*五辛が具体的に何を指すか諸説あって不明瞭)
5 不挙教懺戒 諸々の戒を犯した者を見過ごし、その罪を教えて懴悔・悔過させないことがあってはならない。
6 不敬請法戒 大乗の法師、客比丘の来訪があった時、これを種種にもてなし、その説法を請わないことがことがあってはならない。
7 不聴経律戒 何処であれ比丘が律蔵や経典を講説をしていたならば、その場所に行ってそれを聴聞しないということがあってはならない。
8 背正向邪戒 大乗常住の経律に背いて(大乗は)仏説では無いと言って、声聞・縁覚や外道の、誤った禁戒や経律を受持してはならない。
9 不瞻病苦戒 病に苦しむ者に出会ったならば、これを仏の如くに供養しなければならない。怒りなど悪心をもって、助けぬ事があってはならない。
10 畜諸殺具戒 刀や槍、弓矢、鉾や斧など戦闘のための武器を所有してはならない。および生類を殺傷するための道具を蓄えてはならない。
11 通国入軍戒 自分の利益や悪人の為に、国の使者となって軍隊の陣に出入りしてはならない。軍を動かし、大量殺人の助長をしてはならない。
12 傷慈販売戒 人身や牛・馬・犬・羊・豚・鶏など家畜の販売をしてはならない。および人の遺体を納める棺などを販売してはならない。
13 無根謗人戒 悪心に基いて、根拠無く、善人や法師・師僧・国王・貴人など他者が七逆・十重を犯したなどと、誹謗してはならない。
14 放火損焼戒 悪心に基いて、山林・広野を四月から九月の間、火を放って焼いてはならない。および他家や田畑、官庁、神を焼いてはならない。
15 法化違宗戒 仏弟子や外道、親戚や善知識に大乗の経律を教えず、悪心に基いて、声聞・縁覚の経論や、外道の論書を教えてはならない。
16 惜法規利戒 大乗の経律を求め来る新学の者には、まずその身や腕、指を焼かせて諸仏を供養しなければならない。そして、利養のためにその問いに答えず、大乗を誤って教えてはならない。
17 依官強乞戒 自らの名聞・利養の為に、国王や大臣など権力者におもねり、さまざまにその権勢を頼みに利益を求め収得してはならない。
18 無知為師戒 戒を学び読誦する者は、常に菩薩戒を憶持してその義利と、仏性とを解しなければならない。しかるにそれを解せずに偽って解すといい、他者の師となって戒を授けてはならない。
19 闘謗欺賢戒 持戒の比丘が菩薩行を行じているのを見て、悪心をもって、彼らが相争うようにしたり、嘘言して悪行を行っていると謗ってはならない。
20 不能救生戒 六道の衆生は、生死輪廻の中、ことごとく我が父母であったものである。囚われた畜生があれば放生し、また父母兄弟の命日には、法師を屈請して菩薩戒経を講説せしめなければならない。
21 無慈酬怨戒 怒りに対し怒りをもって返し、危害に対して危害をもって報いてはならない。たとえ父母・兄弟・親戚を殺害されたとしても、復讐してはならない。
22 慢人軽法戒 出家して間もなく、いまだ理解していないところが多くあるのに、己の才覚や出自・財産を誇り、先学の法師であるけれども出自が悪く、あるいは年下であると蔑んで、教えを受けないことがあってはならない。
23 軽新求学戒 仏滅後、菩薩戒を受けようと志す者で、親しく面前に授戒しえる師がいない場合は、仏・菩薩像の前で七日以上および一年間、好相を得るまで懺悔しなければならない。そこで、新学の菩薩が来たって様々な質問をされた時、軽蔑や慢心、悪心に基いて、それに答えないことがことがあってはならない。
24 背大向小戒 大乗の正法を、学び修習する価値の無いものとして捨て、むしろ誤った声聞・縁覚や外道、俗典や阿毘達磨、書法や数学などを学ぶことは、道の障害となるものである。学んではならない。
25 為主失儀戒 仏滅後、能化や禅師・威儀師となるならば、慈心をもって僧達の争いを鎮めず、三宝物を管理して私物化してはならない。
26 待賓乖式戒 客比丘の来訪があったならば、これを迎えて様々にもてなし、送り迎えしなければならない。施主があって衆僧を供養する時には、客比丘をその招きから外してはならない。
27 受別請戒 施主があって特定の僧に対する供養の招き(別請)があったとき、これを受け、あるいは受けた布施を衆僧に分かたず、個人のものとしてはならない。
28 故別請僧戒 僧であれ俗であれ、僧に布施をするのに際しては、特定の僧を指定して招いてはならない。
29 悪伎損生戒 悪心によって、利益を得るために、売春したり、調理したり、男女の占い、夢の占い、呪術、書画・彫刻に携わったり、鷹匠の法を学び行ったり、毒薬を調合したり、金属加工に関わったりしてはならない。
30 違禁行非戒 悪心によって、三宝を謗っていながら表面的には敬意を示したり、口だけで空を説きつつもその行いは有に執していたり、在家の男女に交際を薦めて淫行に及ばせ、六斎日・三長斎月に、殺生・偸盗など破斎・犯戒させてはならない。
31 見厄不救戒 外道や悪人・盗賊が、仏・菩薩像や経律を売り、比丘・比丘尼を売り、または大乗の菩薩を売って奴隷とされていたならば、それらすべてを慈心をもって買い取らないことがあってはならない。
32 畜作非法戒 刀や槍、弓矢などや、不正な秤や重りを販売してはならない。権力を傘にきて人の財産をかすめ取ったり、捕縛したり、失脚させてはならない。猫・狸・猪・犬を飼ってはならない。
33 観聴作悪戒 悪心によって、いかなる種類のものであれ、男女の諍い、戦争、盗賊の争いを観たり、音楽を鑑賞してはならない。囲碁・将棋・サイコロ・鞠・投石・投壺・髑髏などによって、占いをしてはならない。盗賊の使いをしてはならない。
34 賢持守心戒 固く禁戒をまもり、常に戒を誦しなければならない。自らを未成の仏、諸仏は已成の仏であると知って菩提心を発し、一瞬たりとも忘れてはならない。一瞬たりとも、声聞・縁覚や外道を求めてはならない。
35 不発大願戒 常に誓願を立てなければならない。父・母・師僧・三宝に従い、師・同朋・善知識が、自分に大乗の経律と十発趣・十長養・十金剛・十地とを教えて悟りに導いて、法に違わず修行し、戒を持って、命に変えても捨てないという願いを持たないことがあってはならない。
36 不起十願戒 十大願を立て、仏陀の禁戒を持ったならば、以下の願を立てなければならない。
@ むしろこの身が猛火・深坑・刀山に墜ちるとも、三世諸仏の経律を損って、どのような女性とも性交しない。
A むしろこの身に灼熱の鉄の羅網が千重にも巻きつくとも、破戒の身でありながら、信者からの衣服(などの布施)を受けない。
B むしろこの口に熱い鉄玉や溶鋼を呑んで、百千劫を経るとも、破戒の口でありながら、信者からの飮食を受けない。
C むしろこの身が猛火の羅網・高熱の鉄板に臥せるとも、破戒の身でありながら、信者によって設けられた座に着かない。
D むしろ三百の鉾によって貫かれ、一劫二劫を経るとも、破戒の身でありながら、信者からの医薬を受けない。
E むしろこの身が高熱の鉄鍋に落ち、百千劫を経るとも、破戒の身でありながら、信者からの建物・園林・田地を受けない。
F むしろこの全身が鉄槌によって打ち砕かれるとも、破戒の身でありながら、信者からの尊敬・礼拝を受けない。
G むしろ百千の熱鉄の刃物で両目をえぐられるとも、破戒の心をもって、他の好ましき物を見ない。
H むしろ百千の鉄錐で鼓膜を突き刺され、一劫二劫を経るとも、破戒の心をもって、好ましい音を聞かない。
I むしろ百千の刃物で、鼻を削ぎ落とされるとも、破戒の心をもって、好ましい香りを嗅がない。
J むしろ百千の刃物で、舌を切り落とされるとも、破戒の心をもって、他からの食事の布施を食しない。
K むしろ鋭利な斧で、身体を切り刻まれるとも、破戒の心をもって、好ましい肌触りの衣類を着ない。
L 願わくは、一切衆生を悉く成仏に導かん。
これら十三願を発さないことがあってはならない。
37 故入難処戒 (比丘は)春・秋は頭陀行を、冬・夏には坐禅し、雨季には如法に安居しなければならない。常に楊枝・澡豆・三衣・瓶・鉢・座具・錫杖・香炉・漉水?・手巾・刀子・火燧・鑷子・縄床・経・律・仏像・菩薩像の十八物を用いなければならない。これらは頭陀を行ずる時は必ず携帯しなければならない。月二回の布薩の日には、各自三衣をまとい、十重四十八軽戒を誦しなければならない。ただし布薩に何人集まろうとも、誦すのは一人でなければならない。頭陀を行ずる時は、どこであれ危険や困難ある難処に入ってはならない。
38 衆坐乖儀戒 先に受戒した者は前に、後に受戒した者は後ろにと、(布薩など儀式が行われる時には)席次を守って如法に坐らなければならない。年齢の老少、比丘・比丘尼、国王・王子など貴族、性的不能者や奴隷など、その社会的地位や出自等によって席次を決めてはならない。
39 応講不講戒 一切衆生を教化し、僧坊を建て、山林や田園地帯に仏塔を建立しなければならない。冬・夏の安居や坐禅処など、すべての修行の場にて、それは行われなければならない。そこで一切衆生のために、大乗の経律を講説しなければならない。様々な苦難・危機の時や、家族・和上・阿闍梨が亡くなった日や四十九日までの七七日の節目にも、貪・瞋・癡が盛んなる時、多病なるときにも、大乗の経律を読誦・講説しないことがあってはならない。
40 受戒非儀戒 人の為に授戒する時は、その受者の、社会的地位や出自、神や悪鬼、不具などを問うて拒絶せず、ことごとく授戒しなければならない。ただし、七逆を犯した者には、戒を授けてはならない。(出家者が)身に着ける袈裟・座具などは、(くすみ濁った)青・黄・赤・黒・紫などの壊色としなければならない。袈裟衣は、その土地独自の衣服があったとしても、かならずそれらと異なった(如法の)ものでなければならない。出家者は、国王・父・母・親族・鬼神を礼拝してはならない。法を求め来る者があるのに関わらず、悪心によって、誰であれ戒を授けないことがあってはならない。
41 無徳詐師戒 人を教化して信心を起こさしめ、戒を授けるために、人の教誡師〈教授師〉となる時は、和上と阿闍梨とを請わさせなければならない。和上と阿闍梨とは、受者に七遮〈七逆を犯した過去の有無〉を問わなければならない。もし十重禁戒を犯していたのであれば、戒を誦させ、また三千仏を礼拝させて、その上で好相を得るまで懴悔させなければならない。四十八軽戒を犯していた場合は、対首懴〈僧侶に面と向かって罪を告白し、懺悔すること〉にて出罪させる。大乗の経律など諸々の教えを理解していないにも関わらず、名聞利養を得ようと求めるが故に、理解していると詐り、人に戒を授けてはならない。
42 非処説戒戒 利養を得る目的で、いまだ菩薩戒を受けていない者や国王を例外として、誰であれ外道・悪人・邪見の人の前で、この菩薩戒を説いてはならない。
43 故毀禁戒戒 信心を起こして出家し、仏の正戒を受けておきながら、意図的に聖戒を犯したならば、いかなる信者からの供養も受けてはならない。また国王の土地を通行し、国王の水を飲んではならない。五千の大鬼が常にその前を遮って、鬼から「大賊め!」と言われるであろう。すべての世俗人は罵って「仏法中の賊である」と言って、見ることすら厭うであろう。犯戒の人は畜生、木頭と異ならない。正戒を(意図的に)犯してはならない。
44 不敬経律戒 常に大乗の経律を受持・読誦しなければならない。その(自らの)皮を剥いで紙とし、その血をもって墨とし、その髄をもって水とし、その骨を割いて筆として、仏戒を書写せよ。木皮・穀紙・素絹・竹帛にも、戒を書いて持たなければならない。様々な宝などで納める箱を作り、経律を納めて如法に供養しなければならない。
45 不化衆生戒 常に大悲心を起こし、どのような場所であれ一切衆生を見たならば、「汝ら衆生、ことごとく三帰十戒を受けよ」と唱えなければならない。牛・馬・猪・羊などあらゆる畜生を見たならば、「汝は畜生であるが、菩提心を発せ」と、心に思い、口に言わなければならない。どこにあっても、菩薩は、一切衆生をして菩提心を発させるべきである。衆生を教化しないということがあってはならない。
46 説法乖儀戒 常に教化を行じ、大悲心を起こして、信者や貴人の家など人々に交わった時、立ちながら在家信者の為に説法してはならない。在家人の前で説法などする時には、高座の上に坐ってなさなければならない。法師の比丘は、比丘・比丘尼・在家男・在家女の四衆の為に説法するときには、法師は高座に座して如法に説法し、四衆は地に座って法師を香華などで供養しなければならない。
47 非法立制戒 国王・王子・百官、あるいは(比丘・比丘尼・沙弥・沙弥尼、もしくは出家・在家の)四部の弟子であろうとも、自らの権勢を傘にきて、仏法の戒律を改変し、新たな禁則事項を作って四部の弟子を管理し、出家・修行などしてはならない。また、仏像・仏塔を建立し、経律を印刷することを制限したならば、破三宝の罪となる。行ってはならない。
48 自壊内法戒 好ましい動機によって出家したにも関わらず、むしろ名聞利養を目的として、国王・百官の前で七仏戒を説いて(仏弟子の罪過をあげつらい、)菩薩たる比丘・比丘尼を逮捕・拘束させることは、獅子身中の虫に等しい。もし仏戒を受けたならば、その仏戒を護持することは「我がひとり子」を護るように、父母に仕えるようにしなければならない。外道や悪人が、仏戒について誹謗中傷するのを聞き放しにしてはならない。自身が誹謗中傷することについては言うまでもなく、また人に教えてさせてもならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 したがって、経・律・論の三つがきちんと具わっているのは小乗だから、それを天台は三蔵と言われたのです。
そういう形から、大乗との立て分けの上の色々な意義を明らかにするために名づけられたのに過ぎない。
しかし、慧苑は自らの誤りに気づかず、その揚げ足を取って悪口を言ったということです。

 次の「了洪(りょうこう)」という人のことはよく判らないのですけれども、日本の国の華厳宗の学者だったようであります。

 その人が「天台独り未だ華厳の意を尽くさず」と言っております。
華厳経こそ仏様の真実、本意の教えであるということを説くのが華厳宗の立て方です。
法華経と華厳経は、たしかに両方とも非常に勝れた教えだけれども、仏様の真実の心は華厳経に示されており、華厳経こそ極大乗であると言うわけです。

 しかし、一切衆生を救うべき仏の真の智慧・慈悲は華厳に顕れておりません。
したがって、無量義経には華厳経、阿含経等の経々について、
  「四十余年。未顕真実」 (法華経二三)
と、はっきり説いてあります。

 もちろん、天台の法華中心の判教が正しいのですが、華厳だけに執われて全体を見ない者達は、そういうことから天台は華厳の心を尽くしていないと誹謗しておるのです。

-----------------------------------------

得一(とくいち)が云はく「咄(つたな)いかな智公、汝は是(これ)誰が弟子ぞ。三寸に足らざる舌根(ぜっこん)を以て覆面舌(ふくめんぜつ)の所説の教時を謗ず」等云云。弘法大師の云はく「震旦(しんだん)の人師等諍(あらそ)って醍醐(だいご)を盗んで各(おのおの)自宗に名づく」等云云。

-----------------------------------------

 ここも、引き続いて天台誹謗の文証を挙げるところです。

 ここに示される「得一」とは、伝教大師と盛んに抗争した人で、法相宗の僧であります。

 法相宗では「五性各別」といって、声聞定性(じょうしょう)とか縁覚定性とかいうような、声聞なら声聞の性として決まった者、縁覚なら緑覚の性と決まった者があり、それは菩薩の命は持っていない。
そういう者は、いくら仏教を修行して仏縁に触れても菩薩になれないし、したがって仏には成れない。
それぞれ命はみんな違うのであり、差別ということが真理であって、平等ということは絶対にないということが、法相宗における五性各別の教理になっております。

 ですから、法相宗は声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗が真実であって、一乗は方便だと言うのです。
天台大師のほうでは、一乗が真実であり、三乗は方便である。
三乗の方便から、すべてが一乗に開会されるのである。
一乗とは、すなわち一仏乗でありますが、そこに大きな相違がある。

 その得一が「咄(つたな)いかな智公、汝は是(これ)誰が弟子ぞ。三寸に足らざる舌根(ぜっこん)を以て覆面舌(ふくめんぜつ)の所説の教時を謗ず」と言って、天台大師を誹謗したのです。

 初めに「咄いかな智公」とありますが、この場合の 「公」 の字は悪口なのです。
いわゆるこの 「智公」というのは、天台大師は智者大師と言われてたいへん崇められた方だけれども、得一から見れば迷僧・誤僧という意味で「智公」と呼び、軽んじているわけです。

 そこで、天台よ、おまえは一体だれの弟子なのだ、三寸に足らないような舌の根をもっで「覆面舌の所説の教時を謗」じておる。この覆面舌というのは、仏様の舌は顔を覆ってしまうほど長いと言われます。
舌が長いということは、インドにおいては絶対にうそを言わないということで、本当の正しいことを言われる仏様のお徳と教説を顕すわけです。

 そして、この場合の 「覆面舌の所説」ということは、解深密経を言うのであります。
解深密経に「三時教」ということが説いてあり、その内容において、有相教、無相教、中道教という教えが説かれてあります。
そのうち、小乗教は 「我空法有」ということを言い、我はないけれども宇宙法界の法は存在しておる。
これが有相教です。

 それが、もう一歩進んで般若の教えになると「我空法空」といって、自分も無我であるけれども、宇宙法界の法も有ると執着すべき存在はないというように、空によって徹底するのが般若経であります。
これが無相教です。

 しかし、それもまた解深密経から言えば第二時の教えであって、まだ本当の教えではない。
本当に存在するものは心なのだと言うのです。
そこから唯識という教えが出てくるわけです。
心だけが厳然としで存する。
その心の本体が、先程言った八識浄分であるということになる。
そこからあらゆるものが、様々な悪縁とか穢れに染まって、それで差別の宇宙法界の諸相が顕れてくる。
それらはすべて妄説・妄情であるけれども、元の唯識の八識というものは厳として存するということで、「我空法有」と「諸法皆空」を打ち破って八識中道の教えを示したのが、唯識の中道であると言うのであります。

 その中道教というのは解深密経の法相宗の教説であり、それを天台が謗じておるのは、はなはだ誤りであるという意味であります。

 次に、弘法大師の「震旦(しんだん)の人師等諍(あらそ)って醍醐(だいご)を盗んで各(おのおの)自宗に名づく」という文を引かれております。
この弘法大師は大変な誑惑の人で、今、日本では密教ブームですから、近ごろ、テレビでもなんでも密教のことが紹介されておるようです。
ああいうことを企画する人が仏教の正しい教えを知らないものだから、なんでも仏教でさえあればよいと思って、テレビなどでも、たくさん密教の宣伝のようなことをしておる。
そのなかの「南無大師遍照金剛」というのはこの弘法大師のことを言うわけですが、この人は正しい仏教から見ると大変に間違ったことを説いたのです。

 この弘法は「震旦」すなわち中国の人師等が争って醍醐を盗んだと悪口しておりますが、これは主として天台大師のことを指しておるのです。

 この「醍醐」というのは、牛乳を精製すると酪味といって、今のチーズとかバターのようなものになる。
その酪昧をさらに精製していくと生蘇味になり、それが熟蘇味となり、それから醍醐味となる。
その醍醐は最上の味であると言われておるのです。
しかし今、醍醐の製法がインドにおいてどの程度残っておるか判らない。
ところが昔は、経典を読むと醍醐の製法がちゃんとあったということです。
そして、醍醐味を造った蔵があり、その蔵のなかに泥棒が入って、その醍醐味を盗み出した。
ところが、たくさん盗んできたけれども、その醍醐味を蓄えておく方法を知らないものだから、みんな腐らせてしまったというようなことが経典に説いてあります。
やはり、持つべからざる者がいくら良いものを持ってもだめだということの、一つの譬えなのです。

 ところで、弘法大師の言う醍醐味とは何かというと、密教をもって醍醐味とし、顕教はすべて生蘇味、熟蘇味までの教えであるというのです。
法華経もまた不充分な教えであって、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の密教の三部経が最も勝れた、秘密真言の教えであるということを勝手に言い出したのです。

 これは、どこにも経文の論拠がないのです。
法華経にはきちんと、過去に説き、現在に説き、未来に説く、そのあらゆる教えのなかで法華経が最高であり、最上であるということが説いてあります。
すなわち、仏様の証明つきなのです。
ところが、大日経を説く大日如来自体、どこで、どのようにして生まれた仏なのか、全くはっきりしません。
これは仏様の悟りのなかの、一種の象徴的存在にしか過ぎないのですから、釈尊の境界のなかの、ある分形的な仏と考えてもよいのです。

 ですから、正しく一切衆生を化導した方は釈尊なのです。
その釈尊の教説について、そのすべてを見通した上から、天台大師が法華経のみが醍醐味であるということを正しく論証したにもかかわらず、弘法は真言の経典が醍醐であるとし、それを盗んで 「各自宗に名づく」と言って天台大師を誹謗しておるのです。

 ところが、真言の経典が中国に渡ったのは天台の滅後であり、天台当時、中国にはなかったのだから、その真言の醍醐なるものを天台は盗みようがないのです。
かえって、そのように天台を謗る弘法自身、法華の義を盗んでおるのです。

 泥棒が正直な人を見ると、かえって不正直な人間に見える。
そこで泥棒が、その正直な人を泥棒呼ばわりするようなことが、世間にはよくあります。
自分が泥棒をしていながら、他人を泥棒と言う。
弘法の言は、まさにそれであります。

-----------------------------------------
夫(それ)一念三千の法門は一代の権実に名目(みょうもく)を削(けず)り、四依の諸論師其の義を載(の)せず、漢土日域(にちいき)の人師も之を用ひず。如何(いかん)が之を信ぜん。
-----------------------------------------

 この文は、以上の毀謗をずっと述べられてきて、その最後の「難を結ぶ」ところです。

 すなわち、一念三千の法門は一代の権実の経々において、ことごとく名目を削っており、表れていないではないか。
そして「四依の諸論師」すなわち、インドの馬鳴、竜樹、天親等の方々も、また、その弟子もこのことを載せていない。
それから、中国の南三北七等の人々、あるいは日本の南都七大寺等の人々もこれを用いていない。
どうしてこれを信ずることができようかということが、この難の締め括りの意であります。

 ここのところは、要するに、凡愚の我々の命のなかに釈尊のような、それも爾前、迹門、本門を説かれたその尊い仏の命が具わって、はたしてよいものだろうか、はたして本当だろうかということについて、強く疑問を構えられるわけです。
そして、この次の文からが、今までのこれらの難に対する答えが示され、次第に大聖人様が大慈大悲をもって末法の衆生に受持即観心の一念三千の法華経の真実義を説き示し給うところに及んでいく次第であります。

 しかし、かように考えてみますと、先程も言いましたが、今現在、民主主義も大事だと言うし、人間の幸せのためにはその理念として自由であり、平等であり、尊厳ということが言われる。
しかし、自由といっても平等といっても、法相宗の教義のように、ある人は人間の命しかない、ある人は声聞の命しかない、あるいは縁覚の命しかないということで、みんなが違っておるならば、平等ということは少しも成り立たないのです。
そうであるならば絶対に、平等という意味において多くの人々が本当の幸せを得ていくことはできないのです。

 故に、間違った、方便の教えに執われてはならないのであって、我々は現実の姿において、いかに多くの人々のなかに信じられないような姿があっても、そこに仏様の法華経の教えであるところの十界互具一念三千、そして法華経を唯一無二に信心修行をしていくところに初めて、その人の命のなかから、また、その周りから本当の人間の自由と平等と尊厳とが顕れてきて、家庭も幸せになっていけば、それらの集積において国家社会も真実の平和と幸せが来るということを確信するのであります。

 その意味からも、本当の人類の未来の幸せは正しい仏法の広宣流布にあるということを知るべきであります。

-----------------------------------------

答へて曰く、此の難最も甚(はなは)だし最も甚だし、但し諸経と法華との相違は経文より事起(お)こりて分明なり。未顕(みけん)と已顕(いけん)と、証明(しょうみょう)と舌相(ぜっそう)と、二乗の成不と、始成(しじょう)と久成(くじょう)等之を顕はす。諸論師の事、天台大師云はく「天親・竜樹、内鑑冷然(ないがんれいねん)たり、外には時の宜(よろ)しきに適(かな)ひ各(おのおの)権に拠(よ)る所あり。而るに人師偏(ひとえ)に解し、学者苟(いや)しくも執し、遂(つい)に矢石(しせき)を興(おこ)し各一辺を保ちて大いに聖道に乖(そむ)けり」等云云。章安大師云はく「天竺の大論すら尚(なお)其の類(たぐい)に非ず、真旦(しんだん)の人師何ぞ労(わずら)はしく語るに及ばん、此誇耀(こよう)に非ず法相(ほうそう)の然(しか)らしむるのみ」等云云。天親・竜樹・馬鳴・堅慧等は内鑑冷然なり。然りと雖も時未(いま)だ至らざるが故に之を宣べざるか。人師に於ては天台已前(いぜん)は或は珠(たま)を含み或は一向に之を知らず。已後(いご)の人師は或は初めに之を破して後に帰伏(きぶく)する人有り、或は一向に用ひざる者も之有り。但し「諸法の中の悪を断じたまへり」の経文を会(え)すべきなり。彼は法華経に爾前の経文を載(の)するなり。往(ゆ)いて之を見るに、経文分明に十界互具之(これ)を説く。所謂(いわゆる)「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云。天台此の経文を承(う)けて云はく「若し衆生に仏の知見無(な)くんば何ぞ開を論ずる所あらん。当(まさ)に知るべし、仏の知見衆生に蘊在(うんざい)することを」云云。章安大師の云はく「衆生に若し仏の知見無くんば何ぞ開悟する所あらん。若し貧女に蔵(くら)無くんば何ぞ示す所あらんや」等云云。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 右の文は、従来の教主と経論に関係した問いに対する答えの初めの部分です。
つまり、以前より「まさしく受持に約して観心を明かす」内容のなかの「問い」として、凡夫に仏が具わるという十界互具一念三千は、その教主たる仏の勝れた徳からいっても、また多くの経論で言う内容に照らしても、全く考えられないという質問でありました。
これに対し、その質問の考えは全く誤りであることを明らかにするのが、次の「答え」 の部であり、これは観心段の終わりまで続きます。
右文は、その初めの部に当たっています。

 さて、前の問いの一連の文は、まず教主に関しての質問があり、次に経論の難が挙げられました。
ところが、これからの答えのほうは順序が反転して、まず経論に対する答えが示され、そのあと教主に関する答えが述べられています。

 この理由を考えますと、経論に対する難、すなわち前文の最後において、一念三千の法門は一代の権経と実経のすべてに名目を削られており、故に「如何が之を信ぜん」と強い語気をもって詰問しておりますので、その難勢をおのずから受ける形で「此の難最も甚だし最も甚だし」と応じたので、引き続いて、直接これに答える流れが生じ、教主の前に、経論についての釈明の内容につながったように思われます。

 しかし、さらに深く拝考すると、あとの教主に関する答えのなかに、実に秘奥にして重大な法門が、受持に関する観心の結論として説き出だされるので、法門展開の順序の上から、あえて経論の答えを先にし、教主に関する一連の答えをあとにされた意も具わるように思われます。

 さて、これより「経論の難に対する答え」としての右文について拝説してまいります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
答へて曰く、此の難最も甚(はなは)だし最も甚だし、但し諸経と法華との相違は経文より事起(お)こりて分明なり。未顕(みけん)と已顕(いけん)と、証明(しょうみょう)と舌相(ぜっそう)と、二乗の成不と、始成(しじょう)と久成(くじょう)等之を顕はす。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このところは、この前の文において三経二論を挙げて天台所立の法華経の一念三千を難じたのに対する「正論の会通」を示される文です。

 さて、答えの初めに「此の難最も甚だし最も甚だし」と論難者に対して言われるのは、あなたの言う、そのようなことは絶対にありえないという反論は、最もはなはだしく、著しいものであると、一往、肯定されるのです。

 しかし、次の「但し諸経と法華との相違は経文より事起こりて分明なり」という言は、問者が今までの経論にそういうようなことは一切ないと言うけれども、それは法華経という教えを正しく見ないからである。
もし法華経の教えをきちんと拝するならば、その違いは明らかである、という正論を示されます。
つまり、この前のところで華厳経、仁王般若経、金剛般若経の三つの経を挙げ、論としては馬鳴菩薩の 『大乗起信論』と天親菩薩の 『唯識論』 の二論を挙げて、十界互具一念三千を否定しているが、諸経と法華経との相違は、釈尊の説かれた経文を見れば明らかであると言われるのです。

 それはどういうことかというと、まず第一に「未顕と已顕」ということである。
未顕とは、すなわち法華経以前の四十余年間に説かれた方便の教えであり、已顕は真実の教えを已に顕すということです。

 未顕の「未」は「未だ……せず」ということですから、未顕ということは「未だ顕さず」ということです。
これは、法華経の直前に無量義経という経文がありまして、そこに釈尊は、

  「四十余年。未顕真実」 (法華経二三)

ということを仰せであります。
すなわち、

  「諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。 種種に法を説くこと、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」(同)

ということが、きちんと経文に説かれてあるのです。これが未顕です。

 次に、已顕ということは、已に顕すということです。
これは方便品に、

  「諸法実相」 (同八九)

等の経文がありますが、それからあとに、

  「正直捨方便 但説無上道 (正直に方便を捨てて 但無上道を説く) 」(同一二四)
という御文があります。あるいは、
 
 「世尊法久後 要当説真実 (世尊は法久しうして後 要ず当に真実を説きたもうべし) 」 (同九三)

という御文もあります。
この 「久しうして後」というのは、四十余年間という方便の教えを説かれたあと、必ず真実を説かれるということです。
そのほか様々に説かれた文がありますが、今までの方便を捨て、仏様の本当の心を顕し、真実の法において衆生を導くという主旨が、法華経にはっきり示されてあるのです。
それが已顕ということです。

 すなわち、方便品の教えのなかには教・行・人・理といいまして、まず教えという立場から、次に修行の上から、次に人、つまり行者の位と人格的意義の上から、さらに理、すなわち真理の面からと、この四方面を確実に考慮しつつ、悟りの道へ導く最高の形が説かれておるのです。
ひとくちに言えば、仏様の真実の悟りと教えは、この法華経の方便品へ来たって明らかに顕れたということが已顕ということであります。

 次に「証明と舌相」というのは、法華経は多宝如来の涌現および証明と、それに続いて現れる十方分身の諸仏の来集や証明がある。
ところが爾前経においては、ほとんどそういうものがない。

 ただし、ここに舌相と言うのは、阿弥陀経の説相を言うのです。
これは浄土三部経の一つですが、浄土と言うも、阿弥陀仏と言うも、すべて釈尊が方便として説いたもので、阿弥陀仏が実際に、この我々の国土に出現して法を説いたのではありません。

 阿弥陀経は、釈尊が舎衛国の祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)に在って、大比丘衆千二百五十人と倶なる時、特に舎利弗に向かって、

  「西方十万億の仏土を過ぎて世界有り。名づけて極楽と曰う。其の土に仏有り。阿弥陀と号す」

と述べ、以下、極楽国土と阿弥陀仏の勝相が説かれています。

 この阿弥陀仏の不可思議の功徳とともに、東南西北上下の六方に諸仏あって、
各々の国において広長舌相を出し、三千世界を覆い、誠実(じょうじつ)の言を説いたということが続いています。
ただし、阿弥陀仏は舌相を示していません。
要するに、舌相の諸仏は、此の土に来たのではないのですから、法華経の多宝如来の宝塔の証明と十方分身の証明とは天地の相違があり、とても比べることはできないのであります。

 この舌を出したということは、インドの昔の習慣で、舌を出すことが正しいことの証明になるのです。
だから、特に仏様は舌を出されることによって、教えの正しいことを証明されたのです。

 また阿弥陀仏は、釈尊が此の土に出現されて、その阿弥陀仏の化導の形を説かれたのですから、我々娑婆国土の衆生からは、本質的には全く縁がありません。無縁の国土ですから、したがって、その証明は娑婆世界の我々すべての衆生となんら関係なく、名があって実がないということになります。

 諸経に時々そういうものがあっても、法華経の 「三仏の証明」と言いまして、法華経が最上の教えであることについて、釈尊の方便品その他、各品における証明、宝塔品の多宝如来の証明、それから十方分身の仏様等が出現して広長舌相を示し、これら三仏が一代仏教中、法華経が最上の教法であることを証明したということからすれば、この舌相は部分的なものであり、全く意義が不明である。つまり、法華経がいかに正しく真実であるかということを、証明の上から対比して示されたのです。

 それから「二乗の成不」というのは、声聞・縁覚という二乗の人は、爾前経においては全く成仏することを許されていない。
法華経へ来たって初めて、二乗の成仏がはっきりしました。
すなわち、法説・譬説・因縁説の三周の説法により、上中下三根の声聞が初めて仏と成る記別証明を得て、十界皆成の真実が顕れ、十界互具の義が成就したのです。

 けだし、二乗が永不成仏と言われたことは、凡夫や菩薩との相違観、すなわち差別観によるものです。
この差別ということは、一つひとつが違うということです。
能力が違い、先天的な種も違う。
故に、仏様に成る種と仏様に成れない種とがあるから、いくら修行しても仏様に成る種を持っていなければ仏様に成れないというのが、この二乗の不成仏という意味であります。

 差別が真実なら平等は不真実で、平等が真実なら差別は不真実というのが一般の人の考えです。
故に、差別という見方も部分的には真実性を持っているのです。
その差別の万差の機根に応同して、釈尊が差別に対応する様々なことをお説きになったのが、爾前四十余年間の方便の教えであります。

 本当の教えに来ると、その差別のなかに絶対の平等が存しておるのです。
また、その絶対の平等のところに、紛れもない差別が存在し、差別即平等、平等即差別の大真理が存します。
しかし、そのところを信ずるのが容易ではないのです。

 世の人々は、あれはあれ、これはこれと区別して生活しておる。
そういう生活観は、もう既に差別に立脚した生活観です。
そういうなかにおいて生活しているから、その方面からの価値観だけしか、我々の眼や心に入らないのです。

 しかし、そこにもう一つ、その奥底を貫いた差別即平等、平等即差別という絶対的な価値観というものが存し、その仏法上の功徳が、個人はもちろん、国家社会の人心を通じて、あらゆる国民生活の機構や活用に生かされるべきである。
それが妙法の仏法において本当に確立しないと、一切の人の幸せと、健全な世の中の幸せは現出しないと思います。

 はっきり言って、思想・道徳が変化万立し、このように乱れているのは、差別の機根に対応した方便による爾前権教の宗教宗旨の邪見に執われているからです。
今の世の中がもっと幸せになるためには、本当の正しい法華経がさらに広く流布し、正しい法が社会の上に確立されていかなければならないのです。

 それはともかく、この「二乗の成不」というのは、爾前経においては二乗は成仏することができず、法華経に来て初めて成仏できたことによる、爾前と法華の優劣を示される法門です。

2022.10.8
262
 次の 「始成と久成」というのは、釈尊がインドに出現して、十九歳で出家し、三十歳で成道して以来、仏様に成ったということの上から教えを説かれるのが始成の教え、すなわち四十余年間の教えであります。
ところが、法華経の迹門を過ぎて本門の涌出品から寿量品に来て初めて、釈尊は今世において仏に成ったのではなく、久遠の古えからの仏であるという教えが示されてくる。
これが久成、すなわち久遠実成ということですが、これこそ法華経と爾前経との最も大きな違いである。

 このように、法華経の法門をよく拝してみると、爾前経とは全く違っているということが指摘される次第です。

 また、御文の 「等之を顕はす」 の 「等」というのは、そのほかにもたくさん違っておることがあるという意味です。
例えば、即身成仏ということは爾前経ではできないけれども、法華経ではできる。
これもはっきりと道理、文証、現証が法華経に顕れておるのでありますが、そういうことを含めて、ここでは 「等」と言われておるのです。
つまり、四つの大きなところを挙げられて、あとは略されてあるということです。

 そのほかにも、爾前経になく、法華経にのみ存し、勝れている法門が多くあります。
「五仏道同」(※総諸仏・過去仏・未来仏・現実仏・釈迦仏の五仏が、共に必ず説法の筋道をとること。法華文句 方便品第二の五仏章にある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『妙法蓮華経方便品第二』

  五仏章

   第一諸仏章
   第二過去仏章
   第三未来仏章
   第四現在仏章
   第五釈迦仏章

五仏章
第一諸仏章
◎歎法希有 (法の希有を歎ず)

[真読]
仏告舎利弗。如是妙法。諸仏如来。時乃説之。如優曇鉢華。時一現耳。
[訓読]
 仏舎利弗に告げたまわく、
 是の如き妙法は、諸仏如来、時に乃し之を説きたもう。優曇鉢華の時に一たび現ずるが如きのみ。

◎説無虚妄 (説に虚妄無し)

[真読]
舎利弗。汝等当信。仏之所説。言不虚妄。

[訓読]
舎利弗、汝等当に信ずべし、仏の所説は言虚妄ならず。


◎聞方便 (方便を開く)

[真読]
舎利弗。諸仏随宜説法。意趣難解。所以者何。我以無数方便。種種因縁。譬喩言辞。演説諸法。

[訓読]
舎利弗、諸仏の随宜の説法は意趣解し難し。所以は何ん、我無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て諸法を演説す。


◎顕真実 (真実を顕す)

[真読]
是法非思量分別。之所能解。唯有諸仏。乃能知之。

[訓読]
是の法は思量分別の能く解する所に非ず。唯諸仏のみましまして、乃し能く之を知しめせり。


◎標出世本懐 (出世の本懐を標す)

[真読]
所以者何。諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。舎利弗。云何名諸仏世尊。唯以一大事因縁故。出現於世。

[訓読]
所以は何ん、諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう。舎利弗、云何なるをか、諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもうと名くる。


◎正釈真実 (正しく真実を釈す)

[真読]
 諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。
[訓読]
 諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。

[真読]
 仏告舎利弗。諸仏如来。但教化菩薩。諸有所作。常為一事。唯以仏之知見。示悟衆生。舎利弗。如来。但以一仏乗故。為衆生説法。無有余乗。若二。若三。

[訓読]
 仏、舎利弗に告げたまわく、 諸仏如来は但菩薩を教化したもう。諸の所作あるは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て衆生に示悟したまわんとなり。舎利弗、如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二若しは三あることなし。

◎結諸仏同道 (正しく真実を釈す)
[真読]
舎利弗。一切十方諸仏。法亦如是。

[訓読]
舎利弗一切十方の諸仏の法も亦是の如し。

第二過去仏章

[真読]
舎利弗。過去諸仏。以無量無数方便。種種因縁。譬喩言辞。而為衆生。演説諸法。是法皆為。一仏乗故。是諸衆生。従諸仏聞法。究竟皆得。一切種智。

[訓読]
 舎利弗、過去の諸仏も、無量無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て、衆生の為に諸法を演説したもう。是の法も皆一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の諸仏に従いたてまつって法を聞きしも、究竟して皆一切種智を得たり。


第三未来仏章

[真読]
舎利弗。未来諸仏。出当於世。亦以無量。無数方便。種種因縁。譬喩言辞。而為衆生。演説諸法。是法皆為。一仏乗故。是諸衆生。従仏聞法。究竟皆得。一切種智。

[訓読]
 舎利弗、未来の諸仏の当に世に出でたもうべきも、亦無量無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て、衆生の為に諸法を演説したまわん。是の法も皆一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の仏に従いたてまつって法を聞かんも、究竟して皆一切種智を得べし。

第四現在仏章

[真読]
舎利弗。現在十方。無量百千万億。仏土中。諸仏世尊。多所饒益。安楽衆生。是諸仏。亦以無量。無数方便。種種因縁。譬喩言辞。而為衆生。演説諸法。是法皆為。一仏乗故。是諸衆生。従仏聞法。究竟皆得。一切種智。舎利弗。是諸仏。但教化菩薩。欲以仏之知見。示衆生故。欲以仏之知見。悟衆生故。欲令衆生。入仏知見道故。

[訓読]
 舎利弗、現在十方の無量百千万億の仏土の中の諸仏世尊の、衆生を饒益し安楽ならしめたもう所多き、是の諸仏も亦無量無数の方便・種々の因縁・譬喩・言辞を以て、衆生の為に諸法を演説したもう。是の法も皆一仏乗の為の故なり。是の諸の衆生の仏に従いたてまつりて法を聞けるも、究竟して皆一切種智を得。舎利弗、是の諸仏は但菩薩を教化したもう。仏の知見を以て衆生に示さんと欲するが故に、仏の知見を以て衆生に悟らしめんと欲するが故に、衆生をして仏の知見の道に入らしめんと欲するが故なり。



第五釈迦仏章
◎開権 (権を開く)

[真読]
舎利弗。我今亦復如是。知諸衆生。有種種欲。深心所著。随其本性。以種種因縁。譬喩言辞。方便力故。而為説法。

[訓読]
 舎利弗、我も今亦復是の如し。諸の衆生に種々の欲・深心の所著あることを知って、其の本性に随って、種々の因縁・譬喩・言辞・方便力をを以ての故に、而も為に法を説く。

◎顕実 (実を開く)

[真読]
舎利弗。如此皆為。得一仏乗。一切種智故。

[訓読]
 舎利弗、此の如きは皆一仏乗の一切種智を得せしめんが為の故なり。

◎挙濁釈権 (濁を挙げて権を釈す)

[真読]
舎利弗。十方世界中。尚無二乗。何況有三。舎利弗。諸仏出於。五濁悪世。所謂劫濁。煩悩濁。衆生濁。見濁。命濁。如是。舎利弗。劫濁乱時。衆生垢重。慳貪嫉妬。成就諸不善根故。諸仏以方便力。於一仏乗。分別三説。

[訓読]
 舎利弗、十方世界の中には尚お二乗なし、何に況んや三あらんや。舎利弗、諸仏は五濁の悪世に出でたもう。所謂劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁なり。是の如し、舎利弗。劫の濁乱の時は、衆生垢重く慳貪嫉妬にして、諸の不善根を成就するが故に、諸仏方便力を以て、一仏乗に於て分別して三と説きたもう。

〓偽敦信 (偽を〓びて信を敦む)

[真読]
舎利弗。若我弟子。自謂阿羅漢。辟支仏者。不聞不知。諸仏如来。但教化菩薩事。此非仏弟子。非阿羅漢。非辟支仏。又舎利弗。是諸比丘。比丘尼。自謂已得。阿羅漢。是最後身。究竟涅槃。便不復志求。阿耨多羅三藐三菩提。当知此輩。皆是増上慢人。所以者何。若有比丘。実得阿羅漢。若不信此法。無有是処。

[訓読]
 舎利弗、若し我が弟子、自ら阿羅漢・辟支仏なりと謂わん者、諸仏如来の但菩薩を教化したもう事を聞かず知らずんば、此れ仏弟子に非ず、阿羅漢に非ず、辟支仏に非ず。又舎利弗、是の諸の比丘・比丘尼、自ら已に阿羅漢を得たり、是れ最後身なり、究竟の涅槃なりと謂うて、便ち復阿耨多羅三藐三菩提を志求せざらん。当に知るべし、此の輩は皆是れ増上慢の人なり。所以は何ん、若し比丘の実に阿羅漢を得たる有って、若し此の法を信ぜずといわば、是の処あることなけん。
[解説]

阿羅漢(あらかん) サンスクリット arhan の音写。応供(おうぐ)と漢訳される。尊敬される人、供養するに値する聖者という意味。小乗仏教の修行者たる声聞(しょうもん)の最高位。

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい) 最高の正しい悟りの意味。サンスクリット anuttara samyaksambodhih の音写。阿耨多羅(あのくたら anuttara)は「無上の」という意味。三藐(さんみゃく samyak)は「正しい」の意味。三菩提(さんぼだい sambodhih)は「悟り」の意味。



[真読]
除仏滅度後。現前無仏。所以者何。仏滅度後。如是等経。受持読誦。解其義者。是人難得。若遇余仏。於此法中。便得決了。舎利弗。汝等当。一心信解。受持仏語。諸仏如来。言無虚妄。無有余乗。唯一仏乗。

[訓読]
 仏の滅度の後、現前に仏なからんをば除く、所以は何ん、仏の滅度の後に、是の如き等の経を受持し読誦し其の義を解せん者、是の人得難ければなり。若し余仏に遇わば此の法の中に於て便ち決了することを得ん。舎利弗、汝等当に一心に信解し仏語を受持すべし。諸仏如来は言虚妄なし。余乗あることなく唯一仏乗のみなり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



→  とか.

「十喩」 →
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
十喩(じゅうゆ)
 薬王十喩ともいう。法華経薬王菩薩本事品第二十三(『妙法蓮華経並開結』五九四n〜五九六n)に説かれる。
十喩とは法華経が諸経のなかで最高の教えであることを示すために説かれた十種類の譬喩。すなわち
@水喩(諸水のなかで海が第一であるように、法華経も諸経のなかで最も深大である)、
A山喩(諸山のなかで須弥山が第一であるように、法華経も諸経のなかで最上である)、
B衆星喩(諸星のなかで月天子〈月〉が第一であるように、法華経も諸経のなかで最も明るく輝いている)、
C日光喩(日天子〈太陽〉が諸の闇を除くように、法華経も一切の不善の闇を除く)、
D輪王喩(諸の王のなかで転輪聖王が第一であるように、法華経も諸経のなかで最も尊い)、
E帝釈喩(帝釈天が三十三天の王であるように、法華経も諸経の王である)、
F大梵王喩(大梵天王が一切衆生の父であるように、法華経も一切の賢聖や菩薩の心を起こす者の父である)、
G四果辟支仏喩(しかびゃくしぶつゆ)(一切の凡夫のなかで須陀?(しゅだおん)、斯陀含(しだごん)、阿那含(あなごん)、阿羅漢(あらかん)、辟支仏(びゃくしぶつ)が第一であるように、法華経も諸経のなかで第一である)、
H菩薩喩(一切の声聞・辟支仏のなかで菩薩が第一であるように、法華経も諸経のなかで第一である)、
I仏喩(仏が諸法の王であるように、法華経も諸経のなかの王である)である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

→ が説かれてあるなど色々ですが、ともかく、それらのことをすべて含めた上で、法華経と爾前経とは大きく違い、法華が絶対に勝れておるということを、まずここに挙げられたのは、前の三経二論において、十界互具一念三千などということは全く説いていない、考えられないし、信じられない、だからそれは虚偽だと問者が反論したことに対しての破折がなされたのであります。

 その当時、むしろ仏様の考え違いは、仏が正当と主張する法華経のほうに存するのだという議論でいっぱいだったのです。
しかしそこに、そういう邪説を排して、正しい教えというものが仏様の遣わされる正しい仏勅使に従って顕れてきておるという意味が存するのであります。

264
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
諸論師の事、天台大師云はく「天親・竜樹、内鑑冷然(ないがんれいねん)たり、外には時の宜(よろ)しきに適(かな)ひ各(おのおの)権に拠(よ)る所あり。而るに人師偏(ひとえ)に解し、学者苟(いや)しくも執し、遂(つい)に矢石(しせき)を興(おこ)し各一辺を保ちて大いに聖道に乖(そむ)けり」等云云。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このところは、諸々の論師の学説において、そのなかに天台の一念三千は無文無義、すなわち文もなく、義もないという非難を会通して、論師の内鑑に持っておられる正意を示すのであり、そのために「天台大師云はく」として 『止観』第五のなかの文を挙げられるのです。

 まず初めに「諸論師」という言葉がありますが、聖人、哲人が現れて色々と正しい法を論じてそれを述べたのが「論」という意味であります。
つまり、仏教の文献には経蔵・律蔵・論蔵という三つがあります。
「経」というのはお経のことで、修多羅と言います。
それから「律」は今日、四分律→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(部派仏教の一派の曇無徳部で伝えた律典。六〇巻よりなる。後秦の仏陀耶舎訳。
内容を初分より第四分にわけるのでこの称がある。
初分は比丘(びく)の二五〇戒、
第二分は比丘尼(びくに)の三四八戒と受戒・説戒・安居・自恣の四、
第三分は先の自恣を補足して皮革・衣・薬・迦?那衣など一四、
第四分は房舎・雑の二と集法比丘五百人・七百集法毘尼・調部・毘尼増一(ひにぞういつ)の四を説く。
中国・日本の律宗はこの律を用いる。四分。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
→とか五分律→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
部派仏教の上座部系統から分れた化地部 (弥沙塞部) Mah???sakaに伝わる律。内容が五分されるところからこの名がある。漢訳『弥沙塞部和醯五分律』として現存。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
→等として残っておりますが、要するに、あらゆる善悪のけじめを説き、悪いことをしてはいけないという、多くの悪事を示してそれを制止し、文献に留めたのが律蔵であります。

 経は本来、仏様の説かれた教えですから、特に「経師」という言葉はありません。
律と論には、後世においてそれを説明し、また集めた律師と論師という語があるのです。
特に釈尊の本当の教えの心としての大乗を研鑽し、その論義の上から深く広く教えを述べたのが論師と言われる人達であります。

 竜樹菩薩は仏滅後六、七百年のころに出ておる。
それから天親菩薩、これは世親とも言いますが、この方は仏滅後九百年、それから馬鳴菩薩という有名な人がありますが、この方は仏滅後六百年に出世しました。
このように、特に大乗の義を広く顕した方が論師と言われます。

 それについて天台大師が『止観』の第五に「天親・竜樹、内鑑冷然たり、外には時の宜しきに適ひ各権に拠る所あり」と、まず言われておる。
ここに天親と竜樹の二人の名前を挙げられております。

 それでは、なぜこの二人を特に挙げられたかということですが、これには理由があります。
というのは、仏教の大乗と言われる教えの考え方には大きく分けて「相宗」と「性(しょう)宗」という二つの考え方があるからです。
つまり、万物の相という見方から有を中心に説く法相宗の説き方と、万物の性という見方から空を中心に説く三論宗の説き方があるのです。

 性というほうは、仏性とか法性というような言い方によって、その意義が示されます。
表に顕れてはいないけれども、万物の、あるいは人間を含めた宇宙法界の真理はなんであるかというと、それはいわゆる法の姿であり、また仏の命である。
その尊い仏の命は、現実には見えないようですが、法界の法のなかにおいては厳然とそれが存在すると考え、その仏の命を拝察し、顕していくという見方です。
 それを性宗と言いまして、仏性とか法性というような意味から法を示していくと、空というところに入っていきます。
一切の事々物々の本質は、一つひとつが独立して、いわゆる我として存在しておるのではなく、すべてがお互いの縁によって存在しておる。
その縁によって存在しておるところの一番の本質を考えると、これは一つひとつのものが独自に存在するものは何一つとしてないのだから結局は空なのだという、この空という意味から万物の本体を示していく、これが竜樹菩薩を中心とする三論宗系の見解であります。
竜樹は般若経を中心として大乗の論説を立てましたので、この仏性、法性を衆生のなかから開顕していくという意味で、万物の実相を示す実相論という筋道になっているのです。
したがって、竜樹のほうは無所得の空を中心として法義を述べるのであります。

 それからもう一つは、現実の我々の生活の姿、つまり有という見方に立脚する大乗教があり、それが相宗、つまり天親菩薩の論などを中心とする唯識の教学です。
天親は解深密経等の経文によって 『唯識論』等を説いております。
これは唯識という法門で、一切の万法は心の顕現であるというのです。

 その唯識では三性を立てます。
まず初めの遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仏教用語。三自性,三性相,三種自性,三相などともいう。
インドの唯識学派の所説で,すべての存在の本性や状態のあり方を有,無,仮,実という点から3種類に分けて説いたもの。
(1) 遍計所執性 (へんげしょしゅうしょう) ,
(2) 依他起性 (えたきしょう) ,
(3) 円成実性 (えんじょうじっしょう) の3つ。
(1) は,あまねく分別によって構成された性質のものという意味で,世俗的生活で経験されるもろもろの事物は主観が妄執によって構想したものにすぎないことをいう。
(2) は,他に依存して生起する性質のものという意味で,万物は純粋に主観の作用のなかに存在し,因果関係によって他者に依存して生起することをいう。
(3) は,円満,完成,真実の性質のものという意味で,絶対の境地を表わしている。
(1) は虚妄の存在,
(2) は相対的存在を表わし,それぞれ無自性であるが,この両者の無自性を正しく認識するとき,存在の絶対的様相,すなわち
(3) が現れる。それは無常で変遷する現実世界のなかに現れながらも主客の対立をこえている。それはまた実相,真如,法界と呼ばれるもので,まったく清らかな悟りの世界である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
→という意味では、一切の我々凡夫の持つ認識と価値観は間違っておるというのです。
本当の幸せでないものを幸せと思い、恃(たの)むべからざるものを恃んで、そういう認識の上から生活をしておるから不幸になって、六道を廻るのである。
それは、いわゆる妄想である。
故に、恃むべからざるものは全部捨てて、正しいものを見なければならない。
すなわち、このような自我に執われた観念を捨てて、もう一歩入ってお互いがお互いによって存在し、お互いに他によって起こるところの性、いわゆる依他起性であることに眼を開けば、そこから正しく自分の心の奥を探っていくことができると示します。

 すなわち、如実の智慧を研(みが)くことによって我が心のなかの六識という迷妄のところから一歩入ってきて七識に行き、八識に行き、そして八識のなかの勝れた円明の境界のところにまで到達して円成実性という真実の仏の性を悟れば、この世の中のことをすべて正しく見ることができる。
そういう正しい悟りは空ではなく、有だと言うのです。
だから悟りもあるし、仏様も存在する。
また、我々もそこへ行くことができる。

 ただし、そこまで行くには生まれ変わり、死に変わりながら行かなければならないほど遠く長いのです。
ですから、最後の最後のところへ到達して、最後の煩悩を断破して悟りを開くということは大変なものだということが、それらの教えに説いてあるのです。

 要するに、仏滅後五百年から千年の間に流布した大乗仏教は大きく分けて、空と有、相と性という二つの大きな立て分けがあったのであります。
しかし、竜樹は般若経中心に説き、天親や無著等は解深密経とか唯識、瑜伽の方面を説いたけれども、これらの人々の考え方はまるっきり違っていたのかというと、そうではないのです。
竜樹の教学のなかにも唯識を取り入れて説明をしておるところがあり、また、無著、天親のような方々の教えのなかにも大乗の空を説く竜樹の教えを讃歎しておるところがある。
ですから、お互いに両面があるということです。

 つまり空を徹底してくれば、どうしても諸法の存在の「幻有」という、幻の存在という意味の有に到達しなければならないし、有というものを徹底していけば結局、その内心において空というものに通ずるわけだから、有のところに空があり、空のところに有があるということにもなる。
しかし、これらの論師は時機に従って大乗教のなかの一部分、一部分を中心として説かれたのであって、内心はどうであったかというと、さらにそのもっと大本に、釈尊の本当の悟りは解深密経とか般若経にあるのではなく、そのもう一歩奥の、最後に説かれた法華経に存するのであるということをよく御存じであったということなのです。
それがここに示す「内鑑冷然たり」という意味です。

 竜樹菩薩は 『大智度論』 に、般若経を百巻にわたって説きながら、しかも最後の百巻目に、その般若経を否定して、その真実の元意を左の如く述べています。
すなわち、
  「般若波羅蜜は秘密の法にあらず。而して法華等の諸経には阿羅漢の決を受けて作仏するを説き、大菩薩は能く受持し用う。誓えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」
とあることは、やはり内鑑の意味であります。
竜樹菩薩は、内にはこの法華経が最も勝れておるということをよく知っておられた。
これが内鑑であり、しかし外においては、その真義を言われなかった。
これを冷然と言うのであります。
すなわち竜樹はその一切を通暁した上で方便の教えを説かれたということであります。

 天親もまた 『法華論』という書において法華経を釈しておるなかで「無上」ということを説き、種子無上、修行無上、増長力無上、令解無上、乃至、教化無上、成大菩提無上、勝妙力無上というような十種の無上の意味から、法華経が最高の教えであることを説いております。→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
法華論 
『妙法蓮華経憂波提舎[みょうほうれんげきょううばだいしゃ]』の略。世親(ヴァスバンドゥ)の著作。インドにおける法華経の注釈書として唯一現存する。法華経が諸経より優れている点を10種挙げた十無上などを説く。如来蔵思想による法華経解釈を特色とし、天台大師智や吉蔵(嘉祥)、基(慈恩)らに影響を与えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

→ そのうちの種子無上ということは、最高、最上の種が法華経だというのです。
種には色々あります。
迷いのほうの六道の種は大変です。
地獄の種をうっかり授かるとその人は地獄になっていくし、畜生の種を授かると畜生になるのです。
人間の生活を見ていると、その思想・行為において、それぞれ六道の迷いを廻る種がある。
仏教のなかに入ってもまた、その教えにより色々な種類の種があり、声聞は声聞の種、縁覚は緑覚、菩薩は菩薩の種とあるけれども、法華経の種が最高であるということを天親菩薩が説かれたのです。

 唯識を説きながらこういう意味を所々に示されてあるということは、やはり内鑑の辺が示されてあるというわけであります。
しかしながら、外においてはそういうことをあまり広く露わにされないで、それぞれの立場で空を説き、また唯識等の法門を説かれたのであります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
而るに人師偏(ひとえ)に解し、学者苟(いや)しくも執し、遂(つい)に矢石(しせき)を興(おこ)し各一辺を保ちて大いに聖道に乖(そむ)けり」等云云。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

という文のなかの 「人師」というのは、論師より少し格が下がるのであります。
 仏教の教えを自らも修行し、悟り、学びつつ衆生をも導いていくという人を、人の師という意味で人師と言うのです。
ですから、論を立てて深く大乗の義理等を顕す論師から見れば、ちょっと人師のほうが格が下がる。
 そういう意味で、竜樹・天親等の論師のあと、人師等が出たけれども、この人師達は論師の教学について、その表面の形だけを取り、片方だけしか示していないように思い、竜樹は竜樹、天親は天親の教えだけが正しいと思って、三論宗の人師は唯識のほうと論争をする。
唯識のほうでは、玄奘(※西遊記・孫悟空)とか慈恩→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中国、唐代の法相宗の祖、基(き)の諡号(しごう)。後世、窺基(きき)とも呼ばれる。師の玄奘(げんじょう)とともに唯識の学を確立し、特に成唯識論の漢訳にたずさわり、これを注釈して「成唯識論述記」など多くの著作をなし、法相宗を大成させた。百本の疏主と称される。(六三二‐六八二)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
→ というような人々の教学だけが正しいと思って空宗の人々と論争をするというようなことで、お互いに片方の立場に執われてきたと言われるのであります。
それが「人師偏に解し」 の意味です。

 そして次に「学者筍しくも執し」というのは、その仏教全体の教えをなおざりにして片方に執着したことを言い、ついにその執着が表面化して「矢石を興し」すなわち評論を起こしたということです。

 矢は石に当たると撥ね返ってしまい、石に立つことがない。
つまり、石は矢を否定し、矢は石を否定するから、お互いに否定するという意味で、論争を起こすことを「矢石を興し」と言います。

 したがって「各一辺を保ちて大いに聖道に乖(そむ)けり」
−後世の者達がその祖たる竜樹あるいは天親等の本意を知らず、天親側は天親のほうの立義、竜樹側は竜樹の教義の一辺だけを保って論争をすることによって、結局「聖道」すなわち仏様の正しい道に対し大なる誤りを生じ、それに背いてしまったということを、天台が指摘されたのであります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

章安大師云はく「天竺の大論すら尚(なお)其の類(たぐい)に非ず、真旦(しんだん)の人師何ぞ労(わずら)はしく語るに及ばん、此誇耀(こよう)に非ず法相(ほうそう)の然(しか)らしむるのみ」等云云。天親・竜樹・馬鳴・堅慧等は内鑑冷然なり。然りと雖も時未(いま)だ至らざるが故に之を宣べざるか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このところも、前文に引き続いて、章安大師の文を挙げられるとともに、さらに論師等の内鑑冷然を指南されております。
 
 ここで章安大師は 「天竺の大論」はなお、その類いではないと言っております。
この 「天竺の大論」とは普通、竜樹の 『大智度論』 を言うのですが、この場合はさらに広く、多くの論師の論を総称していると思われます。
すなわち、天親菩薩の『十地経論』 『倶舎論』等、また竜樹の 『十住毘婆沙論』 『釈摩訶衍論』 『中観論』等々、多数の論があります。
それらとの内容を比較・検討して、天台大師が説かれたような法華経の深義は、類例がなく勝れているというのです。

 これは、つまり天台大師が法華経の義について 『玄義』 の釈名段に、境妙、智妙、行妙、位妙、三法妙、感応妙というような法門を説かれています。
その内容は省略いたしますが、要するに法華経の「妙」 の義を本迹、観心のそれぞれ十妙において深く説かれたのです。
それについて 『玄義』 二巻において章安大師が、この教えこそ実にすばらしいものであるということを述べているのであります。

 したがって 「真旦(しんだん)の人師何ぞ労はしく語るに及ばん」−この 「真旦」とは中国のことでありますが、この天台大師の説かれた法華経の勝れた解釈が存する以上は、天竺の大論すら及ばず、まして中国の人師等、すなわち天台以前においては南三北七等の諸師がわずらわしく諸義を述べているが、それらの内容は、なんら語る必要もないほど劣っていると評しているのです。
 そして、こう言うのも「此誇耀に非ず法相の然らしむるのみ」と述べ、これは、あえて自分自ら誇り、自慢するのではなく、法の優劣というものがおのずからはっきりとしているのだから、自然にその正義が顕れてくる、と結んでおります。

 次の「天親・竜樹・馬鳴・堅慧等は内鑑冷然なり。然りと錐も時未だ至らざるが故に之を宣べざるか」というのは、天台、章安の語の次に、大聖人様がさらに示されておるのであります。
つまり、天親、竜樹、馬鳴、堅慧等の方々も、その内心においては十界互具一念三千という教えが勝れておるということを知っておられたわけです。
内鑑の辺では知っておられたけれども、時が来なかったが故に、これをまだ述べていないのである、ということを仰せであります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人師に於ては天台已前(いぜん)は或は珠(たま)を含み或は一向に之を知らず。已後(いご)の人師は或は初めに之を破して後に帰伏(きぶく)する人有り、或は一向に用ひざる者も之有り。但し「諸法の中の悪を断じたまへり」の経文を会(え)すべきなり。彼は法華経に爾前の経文を載(の)するなり。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ここは、人師が法華を無文無義であると非難することについての批評会通であります。

 さて、天親、竜樹というような、インドに出現した大論師と言われるような方は内鑑冷然であるということを先に述べられましたが、今度はそれ以下の、中国等に現れた人師として仏教を説いた人々のことについて触れられます。
こういう人は昔から今日に至るまで、実に多いのであります。
今の日本でも、こういう人がたくさんおります。
けれども、この人々のなかには色々雑多な考え方を持っておる反面、本当の教えは全く無知であることが実に多いのであります。

 この「天台已前は或は珠を含み」というのは、法華経を翻訳された羅什三蔵という人がいました。
あるいは守文の徒のなかにあって独り闡提成仏を称えた道生→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[??434]中国、東晋代の僧。廬山(ろざん)の慧遠(えおん)、さらに鳩摩羅什(くまらじゅう)に師事。頓悟成仏(とんごじょうぶつ)説を唱えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
等の人、あるいは天台大師の師匠であった南岳大師という方、そのまた師匠である慧文禅師→
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
慧文(えもん、生没年不詳)または慧聞は、中国南北朝時代の北斉の仏教僧侶(禅師)。 天台宗の初祖(開祖)。 弟子である慧思(南岳大師)の弟子、すなわち慧文から見て孫弟子に当たる智が天台宗を確立したため、遡って慧文が初祖とされる。 鳩摩羅什が漢訳した『中論』等の龍樹の著作を所依として禅観につとめ、「一心三観」を悟った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
→というような方がいるが、そういうような方は、一念三千の法門を実はよく知っておられたのである。
けれども、はっきりとそれを口に出して言われなかったということを「珠を含む」と言われておるのです。

 また「或は一向に之を知らず」というのは、南三北七といって、天台大師以前において揚子江の南に三家、北に七家、それぞれ仏教の学者がたくさん出て仏教の形を述べた。
けれども、本当の意義のあるところを知らなかった人々がほとんどすべてであるというわけであります。

 「已後の人師は或は初めに之を破して後に帰伏する人有り」
−これは、初めには実義を知らないから、法華経の教えあるいは天台大師の教えに対して、さんざん悪口を言った。
しかし、そのうちに自ら、どうもおかしいと考えてきて、最後は
「ああ、やはりこれは自分が悪かったのだ」といって天台を称え、あるいは法華経の意義を、あるいは十界互具一念三千の法門を心のなかで信じ、そして弟子にそれを教えた人もいるということです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
嘉祥(かじょう)寺の吉蔵大師は三論宗の元祖、或時は一代聖教を五時に分け、或時は二蔵と判ぜり。然りと雖も竜樹(りゅうじゅ)菩薩造の百論・中論・十二門論・大論を尊みて般若(はんにゃ)経を依憑(えひょう)と定め給ひ、天台大師を辺執(へんしゅう)して過ぎ給ひし程に、智者大師の梵網(ぼんもう)の疏を見て少し心と(解)け、やうやう近づきて法門を聴聞(ちょうもん)せし程に、結句は一百余人の弟子を捨て、般若経並びに法華経をも講ぜず、七年に至って天台大師に仕えさせ給ひき。高僧伝には「衆を散じ身を肉橋と成す」と書かれたり。天台大師高座に登り給えば寄りて肩を足に備え、路を行き給えば負(お)ひ奉り給ふて堀を越え給ひき。(善無畏抄505〜  文永八年  五〇歳) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 また「或は一向に用ひざる者も之有り」ということは、天台大師の教えが顕れたのちにおいてもなおかつ、そんなものはありえない、自分達の教えのほうが正しいというように考えて、例えば天親菩薩の系統の人々が法相宗という宗旨になった。
あるいは竜樹の系統が三論宗になった。
それから華厳宗という宗旨もまだ日本に存在しておる。
今はほとんど信徒もなくなっているが、昔は非常に力が強かったのです。
それから特に真言−この真言というのは大きな邪義をもって弘法大師という人が間違った仏法を弘めておる。
今もこの真言が盛んに邪義を宣伝しておるような姿があります。
これらの末の人々がみんなその根本のことを忘れて、そして自分の宗旨だけが正しいと思っておるということを「或は一向に用ひざる者も之有り」と言われておるのであります。
                                  
 次に「但し『諸法の中の悪を断じたまへり』の経文を会すべきなり。彼は法華経に爾前を載せたる経文なり」とありますが、そろそろ論難者の以前の質問論難を会通すべきであるとして、これは法華経に爾前の意を載せているのだと答えられます。
つまり、論難者の質問が意味のない無義のものであるとして、一言のもとに退けられる語であります。

 この文のことは、この前のところに出てきております。
すなわち、
  「随って経文を開拓するに 『諸法の中の悪を断じたまへり』等云云」(御書六五〇)
とありました。
これは問者が「法華経に 『諸法の中の悪を断じたまへり』 という文があるではないか」ということを挙げて、「だから十界互具一念三千などということはありえないではないか」という論証としたわけであります。

 この「諸法の中の悪を断じたまへり」というのは、法華経の方便品に、
「若し人仏に信帰すれば 如来欺誑したまわず 亦貪嫉の意無し 諸法の中の悪を断じたまえり 故に仏十方に於て 独(ひとり)畏るる所無し 我相を以て身を厳り 光明世間を照す 無量の衆に尊(そうと)まれて 為に実相の印を説く」(法華経一一一)
という御文があります。
これは「五仏道同」という法門が法華経の方便品にあって、総諸仏、過去の仏、未来の仏、それから現在の仏、さらには釈迦仏という五種類の仏様について、釈尊がそれぞれの仏の法華経に対する信仰と悟り、あるいはそのすべてが全く同じであるということを説いておるなかの、総諸仏章のなかにある文なのです。
その経文は、施権・顕実・勧信・五濁・不虚という五つの細科のなかの勧信、つまり衆生に正しい法華経の信を勧める文です。

 ここは要するに、如来は絶対に衆生をごまかすことはしないという文意なのです。
また、仏様はすべての心が平らかで広くなっていらっしゃるから、貪りとか嫉むというようなことによって衆生を悩ますことは絶対になく、したがって、あらゆる諸法の悪を断ぜられたのであるということを言われておるのです。

 これに対する論難が、先程の「諸法のなかの悪を断ずるということになると、十界互具にはならないではないか」ということなのです。
なぜならば、十界互具ということは、迷っている人間に十界が存するか否かということが最終的には大事なことになるが、一番元としては、仏様の命について、そこに二つの考え方があるのです。

一つは、仏様という方は、我々のような凡夫が不幸になっていく要素としての煩悩、すなわち貪りとか瞋りとか愚痴というものをだんだんに減らしていき、しまいにはなくしてしまって、明煌々(めいこうこう)たる智慧と、同じく大きな慈悲というものだけが残っている。
あとの、いわゆる地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩までの九界は全部迷いの境界と言えますが、こういったものを全部なくしてしまった方である。
特に最後のところなどというのは、この前に、
  「金剛喩定が現在前する時、極円明の純浄の本識を引く」.(御書六四九)

という文がありましたが、その文からいけば一番最後の、菩薩の性分のなかの一つだけ残った迷いをもたたきつぶして、そして仏様だけの清浄な境界になるところが本当の仏様だと言い、また普通はそう思っています。

 奈良や京都へ行くと金ピカの仏様がありますが、なぜあれは金ピカの仏様になっているか。
それはそのように経文に書いてあるからです。
教えを説かれる時に仏様は「光明、世間を照らす」といって、三千世界をすべて照らしたということが経文に書いてあるから、ああいうふうに金色に造ってあるのです。
そういう仏様は全部、煩悩をなくしてしまって、もう悟りの境界だけになってしまった仏様ということになっております。
それは、爾前経では全部そのように説いてきたのです。

 ところが二つ目としては、法華経に来ると、仏様のなかに九界が具わっておるというのです。
どんなに最高の仏様に成っても、なおかつ九界が具わっておるということは、地獄、餓鬼、畜生等の命が具わっておるというのです。

 ここが大事なところなのです。
煩悩をすべてなくしてしまったのが仏様だという考え方と、もう一つは、仏様がその最高の立場においでになっても、世の中のあらゆる邪悪なものまでも全部が仏様の命のなかに存在しておるのだ、ということを説かれたのが法華経の諸法実相の法門なのです。

 ですから、性善・性悪と言いまして、善も悪もことごとく、菩薩のところにも仏のところにもこの十界が具わっておる。
だから凡夫にもまた具わっておるということが、その仏様の証明によって解るのであるし、したがって仏様も凡夫も十界互具いう意味において本質論は同じなのだから、その十界互具の用きを−正しい妙法の筋目に従ってその妙法の用きをしていけば、一切衆生はことごとく正しい道と正しい幸せを得ることができるのである、ということが法華経の妙法の教えなのです。

 ところが、ここにある「諸法の中の悪を断じたまへり」という意味は、仏様は悪を断じたと言われているではないか。
断じてしまったのならば、もう九界の迷いはないのだから、十界互具ということは言えないはずである。
しかも、その文が法華経に説いてあるではないか。
だから法華経に十界互具を説いてあるというのは虚偽である、という論難者の質問なのです。

 ところが、これに対して大聖人様は、先程の如く「彼は法華経に爾前を載せたる経文なり」と答えられております。
これは質問者がそういう誤った考え方で質問してきましたから、性悪を断ずるという別教の意味においてこの文を説かれたと拝するならば、当然それは爾前経の教えだから、爾前経の経文をここに載せられたに過ぎないではないかということで、相手の武器を取って相手の意を亡じたという言い方なのであります。

この宗祖大聖人の御文について、当宗の学匠日寛上人は、
 「『彼は法華経に爾前を載せたる経文なり。往いて之を見るに、経文分明に十界互具之を説く』応に是くの如く点ずべし。其の義自ずから明らかなり」(御書文段二二二)
と指南されました。

『本尊抄』の文は漢文で、返り点もなく、原文は、
  「彼法華経載爾前経文也」 (平成校定日蓮大聖人御善一−七五六)
とあり、これは二とおりの点じ方ができます。

一は「彼は法華経に爾前の経文を載するなり」と点じ、
二は「彼は法華経に爾前を載する経文なり」と点ずるので、日寛上人は後者を採られたのです。

一の読み方では、爾前経のなかに「断諸法中悪」の文があって、それを法華経に載せたと解され、しかるに経文自体は法華経にあるのですから実状に反します。

二の読み方では、法華経のこの文は、爾前経の意義をもってそれを法華経のなかに載せたものであると解されます。
このように点ずることで、「其の義自ずから明らかなり」と、日寛上人は達観されました。
ただし、その義の解説は示されてありません。

 今これについて少々解明しますと、「法華経に爾前を載せたる経文」ということは、爾前経大乗の教昧のことです。
すなわち、それは華厳経が別・円の二教、方等部経典が蔵・通・別・円の四教、般若部経典が通・別・円の三教であり、すべてに円教が含まれていますが、また、それ以外の方便の教味である蔵または通・別が付いております。
 蔵教は但なる空理のみを証する修行のため、いわゆる諸法中の悪の一部である見・思二惑を断じます。
通教も被接(ひしょう)という義によって円教に転ずる以外の当分のところにおいては、蔵教と同様、二惑を断ずるに変わりありません。
別教は空と仮の二辺を修しつつ、これを否定して、その中間に当たる中理のみを証するため、諸法中、すなわち十界中の悪の全体たる、見・思二惑のほか、塵沙の惑、無明の惑を断尽するために、無量劫の修行を必要とします。

 要するに、蔵・通・別の三教を含む爾前経は、すべて諸法中の悪、すなわち十界中、菩薩以下の迷いである煩悩悪をすべて断除する修行を行う意味があります。
蔵教は声聞・縁覚・菩薩の三乗、通教も同じく三乗、別教は菩薩のみの位となります。
したがって、大乗は菩薩が中心ですから、別教における迷いを断ずるのが爾前の大乗の意となります。

 故に「断諸法中悪」という経文が法華経に爾前を載せた文というのは、主として爾前の別教の意を載せた経文ということです。

 これには性と修という問題がありまして、性悪というものは絶対に断ずることはできないし、また断ずるものではないのです。
その性悪ということは、すなわち仏様の命のなかにあるところの地獄・餓鬼・畜生の境界であり、この三悪道はそのまま性において存在しておるのです。

 ただし、仏様の実際のお振る舞いはどうかというと、地獄の形をそのまま顕すことはないのです。
仮りに地獄の形を顕しても、その地獄の形を顕すことによって衆生を導くという意義が存するわけであります。
いわゆる地獄の形を顕して、それによって自分をも他人をも地獄に堕としていくのは凡夫のすることでありまして、仏様は実際のお振る舞いの上においては、悪は行わないのです。
つまり瞋っても、その瞋ることによって衆生が救われれば、この瞋りは地獄ではない。
実際は仏の慈悲の瞋りであり、仏の化導になるわけです。
そういう意味において、実際の修行においての悪は行わないけれども、性においての悪は具わっておるのであります。
この実際の振る舞いにおいて悪を行わないということをもって「断諸法中悪」と拝するのが円教の意であります。

 しかし、大聖人様は、あえて円教をもってこの文を解すべきであるとは仰せられず、次の御文に述べられるように、十界互具の義は法華経においてあまりにも明らかであるから、「断諸法中悪」などの文に対する論難は会通にも及ばないとの意を含んでいると思われます。

 つまり、爾前執着の誹謗者に対し、性の上において、仏様の命のなかの悪を断じた文であるというように汝が見るならば、それは爾前経の意における経文というだけのことであると言われておるのです。
これは答弁に与・奪の二義あるうちの与の義であり、次に挙げる文からは奪の義をもって問難者の誤りを破斥(はせき?)されるのであります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

往(ゆ)いて之を見るに、経文分明に十界互具之(これ)を説く。所謂(いわゆる)「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云。天台此の経文を承(う)けて云はく「若し衆生に仏の知見無(な)くんば何ぞ開を論ずる所あらん。当(まさ)に知るべし、仏の知見衆生に蘊在(うんざい)することを」云云。章安大師の云はく「衆生に若し仏の知見無くんば何ぞ開悟する所あらん。若し貧女に蔵(くら)無くんば何ぞ示す所あらんや」等云云。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このところは、質問者の批難することが全く法華経の文における根拠がないこと、すなわち十界互具には明らかな文証があることを示されるのです。

 この「往いて之を見るに」ということは、実際に法華経の文の前後をずっとよく拝するならば、ということであります。
そうすればこの法華経の文において、「諸法の中の悪を断じたまへり」という一つを挙げて、だから法華経に十界互具という法門はないなどということは絶対にありえない、経文には分明に十界互具を説いておると言われるのです。

 それは何かというと、いわゆる、
  「欲令衆生。開仏知見」 (法華経一〇二)
ということである。
すなわち「衆生をして仏知見を開かしめんと欲する」ということが説かれてある。

 大聖人はこの経文を受けた形で、さらに天台の文を引かれました。
すなわち、天台は
「若し衆生に仏の知見無くんば何ぞ開を論ずる所あらん。当に知るべし、仏の知見衆生に蘊(うん=奥底)在することを」と言われておるのである。
つまり、衆生のなかに仏の智慧、仏の見解、仏の勝れた心がないならば、どうして衆生のなかにおいて仏知見を開かしめるということを言われようか。
衆生に仏知見を開かしめんと言われたということは、どんな衆生にも仏の知見が蘊在しておるということである。

 ただし、この 「蘊在」ということが問題です。
蘊在の 「蘊」という字は、一つは積み重なるという意味なのです。
それから、もう一つは奥底という意味がありまして、この場合は奥底という意味をもって 「蘊在」という言葉を示されておるわけです。

 ですから、表面にはないが、奥底に存在する。
表面を見れば、荒凡夫のどこにもそんな仏知見などは見当たらない。
しかし、奥底にはきちんと存在しておる。
だから、莫迦なことを考え、莫迦なことをしているようなときには、全く人間というものはしょうがないものだということしか考えられません。
また、そのような人間が世の中には多い。
もっと悪い人間も大勢いる。
そういう姿を見ると、絶対にその人間のなかに仏様の命があるなどということは解らないけれども、しかし「蘊在」という意味は、あらゆる人の奥底に仏様の命があるということです。
                            
次に大聖人様が、章安大師の
「衆生に若し仏の知見無くんば何ぞ開悟する所あらん。若し貴女に蔵無くんば何ぞ示す所あらんや」
という文を引かれております。
この文のうち、初めの「衆生に若し仏の知見無くんば何ぞ開悟する所あらん」というのは、今の天台大師の文と同じ意味であります。

次の「貧女」というのは衆生に誓えておるのであります。
一切衆生の心がいかに貧しいかということを、この貧女で誓えておるわけです。
つまり、なんらの財産もなければ正しい心もなく、幸せになれるようなものは何も持っていない、そういう貧しい女を衆生に誓えておるのです。

 しかし、その貧しい女であっても、そこに「蔵無くんば」−この「蔵」という字は「しまう」という意味です。
だから宝蔵中に覆蔵しておるところの金銀財宝ということであり、宝蔵の中にいくら金銀財宝があっても、蔵されていてその存在を知らなければなんにもならない。
けれども、それを取り出してくれば財宝の価値を生ずるのと同じように、それを知っておる人に教えられてその宝を取り出せば、富貴の人になることができる。
しかし、それを教えられなければ、いつまで経っても判らないということで、この 「貧女に蔵無くんば何ぞ示す所あらんや」というのは、宝蔵があるからそこを示すことができる如く、衆生に仏の知見があるから、やがて開悟するということを教えられておる次第であります。

 仏教はインドから中国にかけて、色々な義を含み、種々な方向性をとってその時代、その時代の人を導いてきたのであり、そのなかには空という法門を中心として竜樹が般若系の仏教を示し、『大智度論』等によって多くの人々を導いてきたという姿もあります。
あるいは 『西遊記』 で有名な、十七年間インドに行って新たにたくさんの経典を訳出した玄奘三蔵という人がいますが、そういう人は法相宗系の唯識等の法門を中心として示したわけであります。

 そういうことによって色々な人が、それぞれに応じての仏教の利益を得ることができたのであるけれども、その一番元の仏様の真実の教えというのは、それらの空と有をさらに真実の上から見ほどいていくと、中道という立場がはっきりと顕れ、その空と仮と中というものが、空に仮が具わり、仮に中が具わり、中にまた空が具わる、これが空仮中円融三諦という不思議の法の姿であり、その空仮中円融三諦ということを一念に約していえば、その一念に即、十界が具わるということなのです。
だから一念のなかには最高悪の不幸から、最善の幸せの状態までが必ず具わっておるのであるし、その中間にも様々なものがある。
しかし、そのすべてを網羅して、これを仏が衆生を導く形としてお示しになったのが、在世と正法・像法二千年の間の法華経二十八品の釈尊の化導であります。

 末法においては御本仏大聖人様の教えに基づいて、釈尊の法華経の要中の要たる本門の本尊、事の一念三千の妙法の当体を拝しつつ題目を唱えていくところに、我々の命が必ず妙法の命として永遠無始の、現在および未来の成仏が開かれるということを確信すべきであります。