―身延における紙幅御図顕と、離山後の板曼荼羅造立の可能性―
日蓮正宗 妙相寺信徒 樋田昌志
本稿は、日蓮大聖人が弘安二年に戒壇の大御本尊を御図顕され、日興上人に密付嘱されたことを教学上の前提とし、その御図顕時の形態と板曼荼羅としての造立時期を考察するものである。
堀日亨上人が『富士日興上人詳伝』において、日興上人の身延離山時の奉持品のうち、板本尊について■「研究の余地が存ずる」(212)とされた点を出発点とする。
○ 搬出の物理的条件、
○ 上代から近世に至る関連史料、
○ 造立伝承の具体化、
○ 日亨上人の史料批判と宗門内でのお立場
を順次検討し、『身延では紙幅として御図顕・密付嘱され、その紙幅を日興上人が離山時に御奉持し、後に板曼荼羅として造立された可能性』を提示する。
この仮説は、身延での巨大楠板造立を前提とする他門流からの疑難の多くの前提を無力化することができる。
もっとも、紙幅から板曼荼羅への移行を直接証明する史料は、現段階では確認されていない。
キーワード:戒壇の大御本尊、日興上人、身延離山、板曼荼羅、堀日亨、史料批判
目次
日蓮大聖人が弘安二年に出世の御本懐を遂げられ、三大秘法の根本の法体である本門戒壇の御本尊を御図顕されたことは、本稿における教学上の前提である。
本稿が検討するのは、この御図顕そのものではなく、御図顕時の御本尊が紙幅であったのか、すでに楠の板曼荼羅であったのかという形態の問題、および板曼荼羅としての造立時期である。
したがって、
●「弘安二年に御図顕されたこと」
と
★「弘安二年に身延で楠板に造立されたこと」
は、検討上区別されなければならない。
前者を教学上の前提としても、後者の場所・材質・制作工程については、史料に即した考察の余地がある。
日亨上人は、日興上人の身延離山時の奉持品について、『富士日興上人詳伝』212頁に次のように記されている。
御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。(富士日興上人詳伝(以下 詳伝 212)
この記述について、まず次の三つの可能性を検討する。
第一は、板曼荼羅を身延に残した後、日興上人または御弟子方が再び身延を訪れ、御奉持したという可能性。
第二は、離山以前に板曼荼羅を身延以外の場所へ移して秘蔵し、離山時またはその後に、その場所から御奉持したという可能性。
第三は、離山時には板曼荼羅とは異なる形態で御奉持された可能性。
第一の可能性は、本稿の教学上の前提からは考えにくい。
日興上人に密付嘱・親付嘱された、日蓮大聖人の出世の御本懐たる戒壇の大御本尊を、日興上人が謗法の地と判断された身延に残すことは、御本尊の護持という観点から重大な危険を伴う。
さらに、離山後、波木井実長との対立がある中で再び身延を訪れ、板曼荼羅を搬出されたとは到底考えられず、そのような事実を記した文献や伝承は、本稿で検討した範囲では確認できない。
第二の可能性についても、巨大な板曼荼羅が久遠寺から搬出されたなら、何らかの見聞記録や伝承が残ることが考えられる。
しかし、その移転先や移転経緯を具体的に示す史料や伝承は、現段階では確認できない。
したがって、この可能性も採り難い。
第三の可能性は、当時の御本尊は紙幅であり、板曼荼羅としてはまだ造立されていなかったのではないか。との仮説が成り立つ。
論理を整理すると以下の如くとなる。
- 生御影・御骨・板本尊の御奉持は、近世以降の史料でともに伝えられている。
- それにもかかわらず、日亨上人は板本尊の御捧持だけを留保された。したがって、単なる搬出記録の不足では、その区別を説明できない。
- 「日興上人は戒壇の大御本尊を必ず御奉持された」という教学上の前提を維持し、身延に残して後から搬出した可能性と、事前に別の場所へ移した可能性を排除するなら、「御奉持されたのは大御本尊であっても、当時の形態は板ではなかった」と考えるしかない。
- その具体的な形態として根拠をもって挙げられるのは、紙幅である。
したがって、「離山時には紙幅として御奉持され、板曼荼羅への造立はその後であった」という仮説が、これまでの検討から消去法で導かれる。
しかしこれは「日亨上人が紙幅説を明言された」という意味ではなく、日亨上人の戒壇の大御本尊の御捧持だけを選択的に留保されたという事実を、提示された条件のもとで論理的に説明すると、紙幅説に帰着することになる。
つまり、本稿の教学上の前提に即して消去法で考えるなら、身延離山時に御奉持された戒壇の大御本尊は紙幅であったという結論となる。
以上の検討から、本稿は、『身延において紙幅の戒壇の大御本尊が御図顕され、日興上人へ密付嘱され、離山時にはその紙幅御本尊を御奉持された後、板曼荼羅として造立された』という仮説を、最も整合的な説明として提示し、以下、この仮説を搬出条件と関連史料の両面から検討する。
日亨上人は、生御影と戒壇の大御本尊について、次のようにも記されている。
正御影も、戒壇本尊も、身延山に波木井に直接の関係はない。いずれも興師直受・開山直造の宗宝で、五老も日円も手を附け綺(いろ)うべき権利はない。(詳伝 218)
両者は、波木井実長や身延山の常住物との関係から区別される宗宝として扱われている。
したがって、生御影は御奉持されたとしながら、板本尊についてのみ「研究の余地あり」と指摘された理由が、物理的な搬出の困難さにあったのかを検討する必要がある。
生御影を等身の御影とする理解に基づき、日因上人『有師物語聴聞抄佳跡』(『富士宗学要集』第1巻250頁)の寸法を参照する。
同書に記された御長は二尺六寸五分である。
楠の乾燥材で造立されたと仮定した場合、本稿で用いた概算重量は次のとおりである。
これらは実測値ではなく、材質・形状・内刳(ぐ)りの程度を仮定した参考値である。
| 対象・仮定 | 概算重量 |
|---|---|
| 生御影:内刳りなし | 約29 kg |
| 生御影:内刳りによる体積減少を20%と仮定 | 約23 kg |
| 生御影:内刳りによる体積減少を40%と仮定 | 約17 kg |
| 戒壇の板曼荼羅:原稿の寸法・形状仮定による概算 | 約36 kg |
板曼荼羅については、日量上人『富士大石寺明細誌』の寸法に基づき、縦四尺七寸五分(約143.9
cm)、横二尺一寸五分(約65.2 cm)、厚さ二寸二分(約6.67 cm)を基準とする。
中央部の厚さ二寸八分(約8.48 cm)は、「堀日記」の記載に対する金原明彦氏の誤記推定を参照した仮定値であり、日亨上人の記録そのものに明記された数値ではない。
この点は、実測値と区別しなければならない。(寸法・背面形状に関する引用資料は付録二に収める。)
本稿の概算によれば、板曼荼羅の重量は、生御影に比べて搬出が不可能になるほどの重量ではない。
また、生御影は坐像であるため、梱包や運搬姿勢の確保において相応の困難があったと考えられる。
これらを踏まえると、板曼荼羅にのみ特段の搬出の困難さがあったがゆえに身延離山時に奉持されなかった。という理由にはならない。
「いずれも興師直受・開山直造の宗宝」という表現については、修飾関係の理解により、次の三つの読み方が考えられる。
第一 文法上可能であるが、すでに木像として成立している正御影を日興上人が直受した後に、同じ木像を改めて造立したという矛盾が生じることになるので採用できない。
第二 戒壇本尊を日興上人が造立されたと解することになる。
第三 戒壇本尊を日興上人が直受されたとする伝統的な理解に対応するが、本文における語の配列としては文法上不自然となる。
第二の読み方を採るなら、身延離山後、密付嘱された紙幅の戒壇の大御本尊を、場所と時期を選んで板曼荼羅として造立されたと解しても、表現上の矛盾は生じない。
他方、日亨上人は同書277頁に、次のように記されている。
本門戒壇にはむろん本門の大曼荼羅を安置すべきことが、とうぜんであるので、未来勅建国立戒壇のために
、とくに硬質の楠樹(くすのき)をえらんで、大きく四尺七寸に大聖(だいしょう)が書き残されたのが、いまの本門戒壇大御本尊であり、すなわち、小乗の三師にあたり、円頓の釈迦文殊弥勒にあたり、当時の法主は伝戒の大任を負うのみである。
開山(かいさん)上人は、これを弘安二年に密付(みつぷ)せられて、正(まさ)しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝(けんでん)せられなかったが、いずれの時代(中古か)からか、遠き広布を待ちかねて、特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついには今日のごとき常例になったのは、もったいない事であるから、四十余年前には、有名な某居士(ぼうこじ)が懇願して月一回という事にもなった事があったが、永続しなかった。
開山上人より三祖日目上人への富士総跡の御譲り状にも『日興が身に宛(あ)て給わる所の弘安二年の大御本尊』として、戒壇本尊とは書かれなかったのは、大いにこの味わいがある」(詳伝 277)
また、弘安二年十月十二日の御図顕について、次の記述がある。
�A 大聖人は、興上弘教の熱誠を賞し、その功績の重大なるにともないて、法難の熾烈なるは、実に末法怨敵の当鉾(とうむ=※私註・鉾先がまさに大聖人門下に向かった)なりといえども、これまったく日蓮出世の本懐満足の画期として、これを記念するために、
弘安二年十月十二日に、本門戒壇の大御本尊を興上に親付し、万年広布流溢(りゅいつ)の時、大戒壇に安置すべく堅牢の楠板に書写せられたり。
(詳伝 125)
これらの記述は、日蓮大聖人が楠板に直接書写されたという伝承を採用している。
そのため、「板本尊にいたっては研究の余地が存ずる」という記述との関係を検討しなければならない。
以下では、まず造立伝承を構成する要素が、どの時代の史料に現れるかを整理する。
関連史料は、
○ 戒壇の大御本尊の伝持を直接述べるもの、
○ 板曼荼羅の形態や造立を述べるもの、
○ 相承・本尊書写の制度的背景を示すもの
に分けて検討する。
紫宸殿御本尊系の模刻板本尊は、板曼荼羅造立の歴史を考察するための関連資料であり、戒壇の大御本尊そのものの造立記録とは区別する。
各史料の引用と個別の論点は付録一に収める。
用語の比較では、「戒壇の大御本尊」「弘安二年」「板本尊」「楠」の四要素を取り上げる。
ただし、各語が史料のどこかに存在するかではなく、戒壇の大御本尊に関する掲載引用の中で、どの要素が明記されているかを判定する。
●『聖人御難事』の ■「余は二十七年なり」は、先行する釈尊・天台・伝教の出世の本懐に関する記述との連続性と対照性から、●「余は二十七年に出世の本懐を遂げた」と拝する。
本稿は、この教学上の理解に立ち、弘安二年十月一日前後に出世の御本懐を遂げられたことを前提とする。
一方、この御書自体には、楠板への書写や板曼荼羅の彫刻を明示する記述はない。
●『日興跡条々事』には、■「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊」(詳伝 277)を日目上人へ授与する旨が記されている。
この文は弘安二年の大御本尊の伝持に関する重要な史料であるが、掲載引用には「板」や「楠」という材質・形態の明示はない。
注記 ■「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊」 との御記述は ●「日興上人御一人の身に宛てて授与される」という意味であり、もし、身延において弘安二年に日蓮大聖人が御顕示された戒壇の大御本尊が紙幅の御本尊であったならば、日興上人お一人に秘かに密付嘱されたという意義を表すには、実に整合性がとれ親和性がある仰せともいえまいか。
●『御伝土代』の熱原法難記事には、■「その時大聖人御感あって日興上人と御本尊にあそばす」(富要 5−8)とある。
この記述も御本尊の御図顕と日興上人との関係を考察する材料となるが、掲載引用には板曼荼羅としての造立や楠という樹種の記載はない。
●『原殿御返事』の■「追って申し候。涅槃経の第三・第九の二巻、御所にて談じて候いしを、愚書に取り具して持ち来って候。聖人の御経にてわたらせ給い候あいだ、たしかに送り進らせ候。」との御記述、および日亨上人が引用する『日尊実録』の■「一紙半銭も持ち出ることなし」は、身延山の常住物に関する記述として理解すべきである。
日亨上人が生御影・御骨の奉持を認めておられる以上、大聖人から日興上人に親付された宗宝と身延山の常住物を区別する必要がある。
これらの文証をもって▼「日興上人は身延から何物も一切持ち出していない」とするのは、史料の適用範囲を広げすぎた解釈である。
●日主上人『日興跡条々事示書』は、本門戒壇の御本尊を別付嘱・唯授一人の法体相承と結び付ける重要な史料であるが、掲載引用に板という材質の明示はない。
●他方、大法院日憲『当家諸門流継図之事』には、板本尊を実見したとする記録があり、寸法・勧請・脇書・弘安二年十月十二日の年記が具体的に記されている。
●また、元和三年とされる日陽の拝観記録にも「日本第一の板御本尊」という表現がある。
●日精上人『家中抄』は、身延離山の記事に板御本尊の奉持を記し、日法伝には戒壇院の本尊の造立、大聖人の書写、日法の彫刻を記す。
しかし、その日法伝の掲載引用には、造立年が弘安二年であることや、材木が楠であることの明記はない。
また、『家中抄』および『日蓮聖人年譜』では、弘安二年の項に戒壇の大御本尊の造立が明示されていない点も検討を要する。
●日寛上人『当家三衣抄』に引用された『蓮師御伝記』では、「弘安二年」「戒壇」「板本尊」が結び付いて現れる。
●日因上人『有師物語聴聞抄佳跡』も、弘安二年の板本尊彫刻を述べ、寸法や金箔について記している。
●さらに、日量上人『富士大石寺明細誌』には、楠板への書写、日法による彫刻、黒漆・金色文字、願主、弘安二年十月十二日の年記が一体となった造立伝承が示される。
次表の判定範囲は、各史料のうち戒壇の大御本尊に関する掲載引用に限る。
他の御本尊の年記や材質は数えない。
○は指定語の明記、△は異表記・対応表現、−は掲載引用に明記がないことを示す。
| 原番号 | 年代 | 史料名 | 戒壇の 大御本尊 |
弘安二年 | 板本尊 | 楠 | 戒壇の大御本尊に関する御文・判定根拠 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 弘安2年(1279) | 日蓮大聖人『聖人御難事』 | − | − | − | − | 関連史料。「余は二十七年なり」。本文には「弘安二年」があるが、戒壇の大御本尊を明示した年次ではないので本表では数えない。 |
| 2 | 元弘2年(1332) | 『日興跡条々事』 | △ | ○ | − | − | 「弘安二年の大御本尊」。戒壇の語は引用にないため、同じ本尊を指すとする対応は△。 |
| 3 | 14世紀 | 日道上人『御伝土代』 | △ | ○ | − | − | 関連史料。熱原法難記事の「御本尊」を戒壇の大御本尊に関連付ける解釈がある。「熱原の法華宗二人は頸を切られ畢んぬ。その時大聖人御感あって日興上人と御本尊にあそばす」との文脈から弘安二年を示された文と判断される。 |
| 4 | 年代要確認 | 北山本門寺日浄『日浄記』(『重須日浄記』逸文) | − | − | ○ | − | 日有上人による戒壇板本尊造立説の根拠として引用される逸文。「未聞未見ノ板本尊ヲ彫刻シ」。この逸文自体は戒壇の大御本尊と明記せず、原本・写本と対象本尊の同定は未確認。 |
| 5 | 16世紀末〜17世紀初頭 | 日主上人『日興跡条々事示書』 | ○ | ○ | − | − | 「大聖より本門戒壇の御本尊」。板・材質の明記は掲載引用にない。 掲載引用に「弘安二年」の明記はないが日興跡条々事の本文に「弘安二年」と明記されているので、当然その意を了知されていたと考えられるので○とした。 |
| 6 | 日昌上人在任期(1596〜1622)に関連・年代要確認 | 大法院日憲『当家諸門流継図之事』 | △ | ○ | ○ | − | 「大石寺板本尊」「板御本尊」「本門戒壇の願主」「弘安二年十月十二日」。本尊名の完全一致はなく、戒壇との対応を△とした。 |
| 7 | 元和3年(1617)とされる | 京都要法寺日陽の拝観記録 | △ | − | ○ | − | 日陽『祖師伝付録』――『富士宗学要集』第5巻59頁。元和3年(1617)4月24日の大石寺参詣に際し、日昌上人との旧交により霊宝を拝観し、「日本第一の板御本尊」と記録する。戒壇の大御本尊を指すと解されるが、当該部分には「戒壇」「弘安二年」「楠」の明記はなく、紫宸殿大曼荼羅との句切り・関係について異説がある。 |
| 8 | 17世紀 | 日精上人『家中抄』 | ○ | △ | ○ | − | 日法伝「此ノ木を以ツて戒壇院の本尊ヲ造立し」「大聖戒壇院の本尊を書し、日法之を彫刻す。今の板本尊是レなり」。身延離山記事には「板御本尊」。この本尊の造立年と木の樹種は明記されない。万年救護本尊の記事の「弘安二年」は数えない。しかし「戒壇の大御本尊は弘安二年御図顕」とはこの時代には既に常識化しており日精上人も当然了知されていたと考えられるので表記は△とした。ただ、「家中抄」「年譜」の弘安二年の項に「戒壇の大御本尊建立」を記されていない。 |
| 9a | 18世紀 | 日寛上人『観心本尊抄文段』 | ○ | ○ | − | − | 「弘安二年…十月十二日に戒壇の本尊を顕して」。 |
| 9b | 18世紀 | 日寛上人『文底秘沈抄』 | ○ | ○ | − | − | 「本門戒壇の本尊」「弘安二年の大本尊」。 |
| 9c | 18世紀 | 日寛上人『当家三衣抄』 | ○ | ○ | ○ | − | 所引『蓮師御伝記』に「弘安二年、富士の戒壇の板本尊を造立し奉る時」。引用史料としての出現である。 |
| 10 | 日寛上人講義・成立年要確認 | 『観心本尊抄』日相聞書 | ○ | ○ | − | − | 「弘安二年…本門戒壇の御本尊を図す」。 |
| 11 | 宝暦7年(1757) | 日因上人『有師物語聴聞抄佳跡』 | ○ | ○ | ○ | − | 「弘安二年に板本尊を彫し奉る、本門戒壇の御本尊是なり」。御端書の引用日は「十月十三日」。 |
| 12 | 19世紀前半 | 日量上人『富士大石寺明細誌』 | ○ | ○ | ○ | ○ | 「本門戒壇の大御本尊」「弘安二年十月十二日」「本門戒壇の板大漫荼羅」「楠の板に書く」。 |
この比較から、本稿で掲げた史料の範囲では、弘安二年の大御本尊の伝持に関する記述と、板形態・造立工程・楠という材質を一体として述べる記述とは、出現の時期が異なることが分かる。
造立伝承は、近世に至る過程で次第に具体化しており、四要素を備えたまとまった記述は、ここに掲載した引用では日量上人『富士大石寺明細誌』に初めて見いだされる。
本稿では、この「戒壇の大御本尊造立の伝承が時代と共に徐々に具体化されてきた史実」を、身延での楠板造立説を再検討する重要な理由と考える。
日亨上人は、身延離山史に関する『家中抄』の記述について、次のように厳しい史料批判を加えておられる。
離山史については、自他各通の中で、この家中抄の開山伝が、まず詳密である。
これにかかわらず、後世にいたるほど詳細になっておるのは、愚俗の伝説をも加えてその時代の凡眼に適するように作為せらるるからで、綿密になればなるほど杜撰となりて、正伝に遠かるものであるのは、一般史伝の情勢である。
御開山伝ことに離山に関するもの、すでに、辰師の祖師伝において、この傾向が見える。
精師の家中抄は、さらにこれに加上して、少しも当時の実情を顧みぬ形を呈しておるよりも、むしろ無智で無精で単に自己の経験世界に準じて書きなぐっておるように見ゆる。
例を徳川時代の院本類に取ると、その題材が源平時代であろうが、鎌倉であろうが、足利であろうが、戦国代時(※原文ママ 時代)であろうが、一向お構いなしに作者の時代に基いた頭で、背景でも衣装でも性格でも戯作する。
純文学や史学良心を忘れて幼稚なる観客本位で著作するからであるために、ややもすれば、史実を歪曲して故人を褒貶し過ぐることになり、一般民衆を迷惑せしむる。
仏教家の史談も、強ちにこの傾向のものばかりではなかろうが、教化的効果のあがるように、俗受けのするようにとばかり考えてこしらえたものが多いようである。
家中抄の御筆も、いささかこれに類するやに思うが、とにかく宗門人の史談の種本が精師以後、今日にいたるまで家中抄そのまま、またはここに輪を掛けた俗悪低流の物の多きを顧みて、いまの引文をここに批判するの止むを得ぬにいたり、ついにあるいは冗漫あるいは失礼(先師に対する)にわたりしことを許されたし、むろん富士宗学要集の中には間々天註に注意しておいたし。
この批判の中心は、「後世の記述ほど伝説や教化上の脚色を取り込み、詳細になっても、かえって正伝から遠ざかる場合がある」という点にある。
これを戒壇の大御本尊の造立伝承に適用するなら、上代史料には明示されず、近世以降に具体化した制作工程や材質についても、同様の吟味が必要となるはずである。
にもかかわらず、日亨上人は『富士日興上人詳伝』において、19世紀前半、第四十八世日量上人の『富士大石寺明細誌』に初めて上記の四項目の全ての構成要素が出揃った「「弘安二年」に大聖人が「楠」の「板」に「戒壇の大御本尊」を書写された」という伝承をそのまま採用しておられる。
本稿の問題意識は、この採用と、日亨上人の通常の史料批判の方針との間に、説明を要する緊張関係があるのではないかという点にある。
日亨上人が、この最終的な四項目完成形態の伝承をどのような理由と根拠に依って採用されたかは、現時点までの調査では確認できていない。
日亨上人の宗門内でのお立場を考察する材料として、昭和二年十一月二十日の「告白」がある。
この文は「謹んで宗内道俗一同に告ぐ」と題され、「第一、管長となりし因縁」「第二、管長の任期」「第三、管長辞職の素因」「第四、管長辞職の近因」から成り、退座の意思を示すものであった。
そこには次のような御言葉がある。
五、昨年の宗制改正案について、自ら七、八の新案を参考に提出せしも、起草委員又は宗務職員又は評議員等が、其中の重大案までも殆(ほと)んど黙殺せるを強制し得ざりし平凡管長の悲哀、否(いな)時期到らずと淡薄に見切りを附けた事が、却って無責任なりし苦しみに自ら堪え得ぬ事」
六、就任已来財物を私有せずして職員に充分の腕を揮うべき便宜を与えておる、代替虫払会の収入等の大部分をも修繕工事費に使用して、収入に対して過々分の営繕を為しておる為に、職員にも過分の辛労かけておる計りでない。
自分の懐中に残るべきものなきを顧みぬ苦行をしておるが、未だ法主も職員も大に務めたりと云う善声を聞かぬのみか、却(かえ)て兎角(とかく)の悪評ありと聞く。
此の調子では差迫(さしせま)る御遠忌の報恩大事業などは出来る見込は立たぬ。
此不徳無能の法主は一日も永く位すべからず、寧ろ辞職勧告状の来らぬを怪しむ位である」
これらの御言葉には、御自身の提案が十分に受け入れられなかったことや、営繕への尽力が適切に評価されなかったことに対する苦衷が表れている。
本稿は、日亨上人が宗門内で孤立感や制約を抱えておられた可能性を読み取る。
ただし、この文は昭和二年当時の状況を述べたものであり、後年の著述時にも同じ状況がそのまま続いていたと確定する資料ではない。
日亨上人に師事した大橋慈譲師は、『仏教思想と富士教学』354頁に、昭和二十九年十二月、後の日淳上人から研究姿勢について御教導を受けた体験を記している。
以下にその体験談を掲げる。
なお、この出来事は、日淳上人の御在位期間(昭和三十一年から昭和三十四年)より前のものである。
私は、昔はどちらかというと古文書中心の堀日亨上人に師事し、将来古文書読みになろうと志しておった。
処が昭和二十九年十二月であった。
それは、舎弟正淳房が淳師の弟子にして頂き、私が果せなかった淳師を師と仰ぐ夢を、舎弟を弟子にとって頂く事によって、いささかでも願望がかなえられた目出度い得度式の日であった。
今日は目出度いといって淳師は私と当時常泉寺の執事であった、故大塚興純師とを常泉寺の奥へ入れられ酒宴となった。
その時、話が法門の事に及び、淳師の仰せになるのには、
「大橋もよく勉強して結構だが、学問する態度はよくない。
堀上人について古文書を勉強しているが、堀上人の弟子となって何になる。
古文書読みはあれは技術屋のやる仕事だ。
材料を集めてそれで終りになって何になる。
材料は使う為に集めるのだ、
堀上人は歴史的な事に専念しておられるが、同上人はそれでよいとしてお前迄も古文書読みになっては駄目だ。
歴史上の事はそれを研究する人の扱い方によってどの様にでも変化するものだ。
堀上人が苦労して整理されても、後日別の人が同じ材料を使用して、くつがえす事も可能である。
そんな浮き草の如き事をやるよりも、根本的教理をやれ。
大聖人様の御教とは一体何かというオーソドックスの教義を研究しろ」 と叱咤された。
私は当時勿体なくも堀上人は御歴代であり、堀米上人は当時一介の末寺の常泉寺の住職という点にとらわれて少しも理解出来なかった。
私が師と仰ぎ最も崇拝する堀上人を軽視されたことは私としては納得出来なく、堀米上人と私(堀上人の立場)との論争になった。
四時間位大きな声をはりあげてやりあった。
大塚師も奥様も心配して、脇ではらはらしてみておられた。
最後には無理矢理、承伏させられ私は
「まあ宗祖の教学に、寛師の教学、堀上人の教学、堀米さんの教学とあって不思議ではない」ともらすと、又おいかりになって、
「何をいう、宗祖の教学に、寛師教学、堀上人の教学、堀米の教学等あるものか、
あるものは、ただ一つ大聖人の教えのみである」 と叱かられた。
その時は先輩が後輩を力でおさえつけるという型にて渋々私は承服させられてしまった。
というよりは承服しないと、目出度い席が喧嘩になるからであった。
然しこの時の御教導は私をして将来百八十度の転回をさせる動機となった。
問もなく私は自然と法義中心、教理中心の淳師御指南の研究態度となった。
淳師は最後は教理であり、歴史的研究はおのづから宗門を毒するという見方にもあられた様である。
(晩年は大いに古文書をやられておった。一がいにはいえないとも思える)
この体験談からは、少なくとも当時の日淳上人が、大橋師に対して、史料の収集や読解にとどまらず、根本的な教理の研究を重視するよう求められたことが読み取れる。
大橋師は、その姿勢を「歴史的研究はおのづから宗門を毒するという見方にもあられた様である」と受け止めている。
ただし、これは大橋師の心証であり、引用末尾には、日淳上人が晩年には古文書を大いに研究されていたとの留保もある。
本稿は、このような教理研究と史料研究の緊張が、戒壇の大御本尊の造立伝承に疑義を呈することを難しくした可能性を考える。
宗門の重要な伝承について、歴史的検討の結果を公に示す際、日亨上人が御自身のお立場や教理上の受け止められ方に配慮された可能性はある。
しかし、この体験談だけで、造立伝承に関する発言が禁じられていたことや、日亨上人への具体的な圧力があったことまでを立証することはできない。
4 歴代御法主上人の御戒壇説法との整合性
以下、第六十世日開上人の御戒壇説法の一部を挙げる。
■ 此の大御本尊を尽未来際までも御利益あらせらるべくが故に、永久の事を慮らせ給いて、楠の厚き板に御認め遊ばされ、彫刻をば御弟子和泉公日法に仰せ付けられし事なり。
三大秘法の随一たる此の本門戒壇の大御本尊を、至尊陛下未だ拝し給わざる已前に、各々は之を受持信行し奉る事、誠に以て宿縁深厚の幸い、実に比類なき果報、いみじき身の上なる程に、必ず忽せに思うべからず。一向謗法の念慮を絶して、信心に拝し奉るべき事専一なり。南無妙法蓮華経。
尚また、大御本尊の東の方、御宝殿に安置し奉るは、日法上人此の大御本尊彫刻の砌、大聖人滅後の弟子檀那等、大聖人の尊容を拝し奉りたく、恋慕の思いを生ずるなるべしと思惟せられ、此の大御本尊の板の余材を以て、大聖人の尊影を一体三寸に彫刻し奉り、大聖人の御剃髪を灰して薄墨の衣・白五條の袈裟に御彩色申し上げ、大聖人の尊覧に供えてあれば、大聖人之を左の御手に据えさせられ、つくづく御覧遊ばされ、莞爾と笑みを含ませ給いて、能く我が姿に似たりと允可し給う御影様、則ち最初仏と称し奉るなり。
この御戒壇説法とは、大石寺での重要な法要の際の御開扉の折りに特別に御法主上人がされる御説法である。
筆者も第六十七世日顕上人の御戒壇説法を幾度か聴聞したことがある。まさに、概ね上記日開上人の御説法と同様の内容であった。
特に記憶に鮮明なのは、戒壇の大御本尊と最初仏の造立縁由で、まさしくこの通りであった。
ここから考察できるのは、第六十世日開上人の御説法と第六十七世日顕上人の戒壇の大御本尊造立の縁由の御説法が同様であるということは、少なくともその中間の御法主上人も同様の御説法をされていたであろうということである。
となれば、日亨上人が史学的探求の上で得た見解が、御法主上人の御説法と違った場合、その見解を公に述べるということは大いに憚られたであろうことが推測できる。
5 日興跡条条事
畑日記 竹尾清澄著 6
日興跡条々の御真筆のこと
御虫払いに拝見するもの、即興尊の御真筆にて、それには薗城寺申状及下文の御文字あり、本門寺に掛け奉るべしの字はなかった。
それが第十四代日主上人の御写しには、「本門寺」以下十文字が加えられている。
目師以後その時代までに添加されたことになるが、何誰の御筆か判明しない。(樋田注 ここまでは日亨上人の御講話と考えられる)
(註 私(竹尾清澄氏)が拝見した日精上人のお写しの写真は、日主上人以後であるが「本門寺云々」の文字はない。
この問題について、北山本門寺の玉野日志と本山の日霑上人との間に文書による問答が行なわれ、富士宗学要集問答部に詳しく載せられてある。猶日蓮正宗聖典には、本門寺云々の文字がある。)
この点について、私は同書の編纂者である日淳上人のご講話を拝聴した。
それによると、「興尊は本門寺の建立を最後まで御自身の大願とせられたが、御遷化の前年の冬頃その不可能なるを察せられ、急いでご加筆遊ばされた。墨色が異うのはそのためである」ということであった。
それについて亨尊にお伺いしたところ、「それは淳師の説である」と仰せられたが、間違いであるとまでは仰せられなかった。そこにご当職の淳師に対する微妙なお心遣いが窺われる。
この史料から、御当職第六十五世日淳上人に対して、御陰尊猊下である日亨上人が御遠慮されており、率直な発言を控えられていたのではないか、という推測が成り立つ。
5 日興上人身延入山時期の見解
日亨上人の身延離山史では日興上人が身延へ入山されたのは弘安六年秋から年末頃と推定されている。
日亨上人 「身延離山史」 興師の入山
とすれば、日興上人が大聖人の御骨を奉持して身延に戻られたのが弘安五年十月日二十五日、そうして弘安6年正月大聖人の百箇日法要を奉修されて、その後下山され、再度入山されたのが弘安6年の秋から年末という見解を日亨上人は取っているので、約九ヶ月から一年間ほどお留守をしていたことになる。その間、当然留守居僧とかは配されていたとは思われるが、御堂に安置してある戒壇の大御本尊に日興上人が直接のお目通りや御給仕はされなかったことになる。
日亨上人が果たしてそのような状況を善しと考えていたであろうか。
ここでも、もし、戒壇の大御本尊が紙幅御本尊であって、日興上人が常に身に帯しておられたとすれば、そのような御不敬とも思われることにはならず、日亨上人も内心そのようにお考えであったから、日興上人入山弘安6年秋か年末説を言い出されたのではなかろうか。
以上を踏まえると、日亨上人は、一往は従来の造立伝承に従い、大聖人が身延で楠板に書写されたと述べながら、再往は、離山時の板本尊奉持について「研究の余地が存ずる」と記し、後学に検討の課題を残されたのではないかと考えられる。
本稿は、この御言葉を、日興上人へ密付嘱された御本尊が紙幅であった可能性を考察する示唆として拝する。
ただし、これは日亨上人の意図に関する本稿の推測であり、御自身が紙幅先行説を明言されたという意味ではない。
身延における紙幅の存在を直接証明する史料は、現段階では確認されていない。
紙幅から板曼荼羅への移行という筋立てに関連するものとして、『両山問答』の他門流側の疑難を挙げられる。
▼ 其(※戒壇の大御本尊の)彫刻は現に久遠院弁(※便)妙・国学の友大堀有忠に【今猶在生】語って云く大石寺に戒壇の本尊あり惜いかな九代目有師之を彫刻して其の本紙を失すと
この文は、日有上人が日蓮大聖人の戒壇の大御本尊の紙幅を彫刻して本紙を失ったという伝聞を述べている。
しかし、その造立者・造立時期・本紙喪失を裏付ける根拠史料は、本稿では確認できていない。
したがって、この伝聞を日有上人造立説の証明として採用することはできない。
本稿が示す紙幅先行説も、日有上人を造立者と断定するものではない。
久遠院便妙を久遠院日騰、大堀有忠をその友人とされる在俗の国学者とし、日騰から話を聞いた大堀が、記事執筆時には「今猶在生」であったという時系列で理解できる。
この文脈では、「今猶在生」は大堀にかかる。
人物比定、日騰の没年、記事の成立年代については、別途出典の確認を要する。
他宗・他門の疑難を、論点ごとに以下に掲げる。
これらは批判側の主張の要約であり、各主張の正しさを本稿が認めるという意味ではない。
狭い身延の庵室に、巨大板本尊を安置できたのか。
三間四面、高さ七尺とされる庵室に、五尺弱の厚板を台座に据えて安置する余地があったのか。
その狭い庵室で、大きな楠板の彫刻作業ができたのか。
安置場所だけでなく、板を置き、彫刻する作業空間が確保できたのか。
多数の僧俗が出入りする身延で、巨大板本尊の制作・存在を隠せたのか。
多くの弟子や参詣者がいたなら、材木の搬入、彫刻、完成後の板本尊を誰かが見聞したはずではないか。
見聞した僧俗がいたはずなのに、なぜその記録が残っていないのか。
巨大板本尊が実際に身延に存在したなら、弟子・信徒の書状、見聞記、伝記などに、その存在への言及があるはずだ。
庵室に安置せず秘蔵したというなら、どこに保管したのか。
巨大板本尊を人目から隠す蔵・収納施設が必要になるが、その施設の所在や記録はあるのか。
身延に、これほど大きな板を取れる楠の大木があったのか。
身延の気候・楠の分布から、そのような大木の存在を疑う議論。さらに、寒冷期には生育できなかった、以前に育った大木も枯れたはずだ。
楠を遠方から調達したなら、どう運び込んだのか。
身延に適当な楠がなかったという前提から、巨大な材木を遠方から山中へ搬入する運搬手段と費用を問う疑難。
身延での生活状況から、造立費用を負担できたのか。
衣食の不足を述べる御書などを根拠に、大きな楠材の調達・加工に費用をかける余裕があったのか。
木材加工だけでなく、漆塗り・金箔加工まで行う資力と技術があったのか。
漆・金箔・職人の手配を含め、身延山中で完成させられる制作環境があったのか。
大聖人が、木製化・彫刻を指示した証拠はあるのか。
大聖人御自身が板にせよと命じた記録や、日法の彫刻を指導した記録を示すよう求める問難。
大聖人在世の板本尊造立という化儀が、なぜ御書や上代文献に現れないのか。
紙幅御本尊の存在を認めつつ、板本尊への加工は後代の化儀ではないか、とする疑難。
漆塗り・金箔という装飾は、大聖人の御本尊のあり方にふさわしいのか。
紙と墨で御本尊を顕すことで十分なのに、なぜ彫刻し、漆・金箔で装飾する必要があるのか。
漆の仕上げから見て、板本尊の制作は後代ではないか。
漆塗りを理由に、足利時代、あるいは徳川時代の制作とする疑難。
日法彫刻説と、木材入手の伝承が食い違っているのではないか。
日法が七面大明神に祈って浮木を得た話、大聖人が楠板に書いて日法へ彫刻を命じた話、弥四郎国重が霊木を取り上げて献じた話は、制作経緯が一致しないではないか。
日法彫刻説は、後代の板への加工を隠す説明ではないか。
『両山問答』の北山側は、日有上人が紙幅を板に彫刻して原紙を失ったという伝聞を挙げ、日法彫刻説はそれを隠すための日精上人の説明ではないか、と問難している。
日尊・日順・日代らが、なぜ板本尊を指示しないのか。
身延から奉持された板本尊が早くから大石寺に安置されていたなら、これらの僧が知らないはずはない。しかも戒壇・本門寺の本尊を論じる際に、なぜそれを具体的に挙げないのか、という北山側の問難。
後世の身延の板本尊をもって、大聖人在世の造立を証明できるのか。
日向の板本尊や日祐の記録を挙げても、それは滅後の制作・存在を示すにとどまり、大聖人が身延で巨大楠板を造立した証明にはならない。
古記録に「板本尊」とあるだけで、彫刻・漆・金箔まで同じだったといえるのか。
板に墨書しただけのものもあり得るため、後世の板本尊の記録から、戒壇の大御本尊と同じ加工方法を遡って推定することはできない、という疑難。
狭い庵で彫刻すれば、誰かの目に付くはずではないか。
身延の庵中で日法が板本尊や御影を彫刻していたなら、出入りする人の誰かが見たはずだ。
見た者がいるなら、誰かが書き残すはずではないか。
日蓮遺文や弟子の記録に彫刻の言及がないことを、身延で制作されなかった根拠としている。
七面山に、材料となる楠が生育していたのか。
楠の生育地域を根拠に、七面山で楠の浮木を得たという伝承を虚構としている。
実際の彫刻地は、身延ではなく沼津付近ではないか。
光長寺に彫刻の鉋屑があるという話、伊豆の楠、妙海寺の類似曼荼羅を結び付け、沼津付近での制作を推測している。
日法彫刻説を裏付ける文献は、後から作られたものではないか。
浮木・彫刻伝承を記す、いわゆる「松野殿御書」を、大石寺による謀作としている。
日法彫刻説は、日有による彫刻を隠す説明ではないか。
日有の彫刻と病気を結び付け、それを隠すため、彫刻者を日法とする伝承が生じたと主張している。
板本尊の制作には、大石寺の優位を主張する動機があったのではないか。
北山との根本道場論争を背景に、日有が大石寺の主張を有利にするため板本尊を作った、としている。
身延では紙幅の御本尊であったと仮定すれば、庵室での巨大板本尊の安置や彫刻、楠材の調達・搬入、漆塗り・金箔加工の資力と技術、巨大板本尊の秘蔵場所などを問う疑難は、その前提を失う。
また、身延における制作や存在を見聞した記録が乏しいという問題も、板曼荼羅が当時まだ造立されていなかったとすれば説明が可能となる。
この意味で、紙幅先行説は、従来の疑難の大部分を根本から再整理しなければならない反論説明となる。
ただし、板曼荼羅への移行がいつ、どこで、誰によって行われたかという課題は残る。
本稿は、「弘安二年の戒壇の大御本尊御図顕と日興上人への密付嘱」を教学上の前提とし、その御本尊の形態と板曼荼羅の造立時期を区別して検討した。
日亨上人の■「板本尊にいたっては研究の余地が存ずる」という御言葉は、板曼荼羅を離山時に御奉持されたという伝承について、検討の余地を認めるものである。
生御影との概算比較からは、板曼荼羅にのみ搬出不能に近い物理的困難があったとは考えにくい。
また、関連史料において、弘安二年の大御本尊の伝持を述べる記述と、楠板への書写・彫刻を一体として述べる造立伝承とは、具体化の時期が異なり、後世になる程詳細となる。
これらを総合すると、「身延で紙幅の戒壇の大御本尊が御図顕され、日興上人へ密付嘱され、離山時にはその紙幅を御奉持された後、板曼荼羅として造立されたと」いう仮説が、本稿の前提のもとでは最も整合的であると考える。
この理解に立てば、身延での巨大楠板造立を前提とする多くの疑難も、その前提が崩れる。
日亨上人が従来の造立伝承を記しながら「研究の余地」を残された背景については、御自身の史料批判の姿勢と、宗門内のお立場への配慮の双方が関係していた可能性を考える。
ただし、この点は御内心に関する推測であり、紙幅先行説を日亨上人御自身の明示された見解として扱うことはできない。
本稿の結論は、「紙幅先行・離山後板曼荼羅造立説」を、従来の史料と伝承を整合的に理解するための有力な試論として提示することにある。
紙幅から板曼荼羅への移行を直接証明する史料は未確認であり、その造立者・造立地・造立時期の確定は、今後の課題として残る。
本文の史料比較表とは対象範囲が異なり、別の御本尊の模刻、相承の制度的背景、他門流の論争資料も含む。
引用文の旧字・旧仮名・異表記は原稿所引の形を基本的に保持する。
読めない文字や原典未確認箇所は明示する。
熱原法難を背景に著された御書。
「余は二十七年なり」との記述があり、弘安2年10月の戒壇の大御本尊図顕時期を考察する際の重要な関連史料である。
去ぬる建長五年=太歳癸丑=四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年=太歳己卯=なり。
仏は四十余年、
天台大師は三十余年、
伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。
余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。(聖人御難事 弘安二年一〇月一日
五八歳 1397)
ただし、この御書自体に板曼荼羅の造立を明示する記述があるわけではない。
本稿は、先行する釈尊・天台・伝教の文との連続性と対照性から、「余は二十七年に出世の本懐を遂げた」と拝する。この理解に基づき、弘安二年十月一日前後に出世の御本懐を遂げられたことを教学上の前提とする。
日蓮大聖人から日興上人への付嘱に関する文書。
本門戒壇の大御本尊の伝持と血脈相承を考察するうえで重要な関連史料である。真偽・伝来については別途検討を要する。
日興上人への身延山久遠寺の付嘱に関する文書。
日興上人への相承を検討するための関連史料。真偽・伝来については別途検討を要する。
追伸
追って申し候。
涅槃経の第三・第九の二巻、御所にて談じて候いしを、愚書に取り具して持ち来って候。
聖人の御経にてわたらせ給い候あいだ、たしかに送り進らせ候。
兼ねてまた御堂の北のたなに四十九院の大衆の送られ候いし時の申し状の候いし、御覧候いて便宜に付し給うべくや候らん。
見るべきこと等候。
毎事後信の時を期し候。恐々。
日亨上人は、身延山の常住物について、次のように記されている。
「すでに原殿抄(原殿御返事のこと)の末文に あるごとく、延山(身延山久遠寺のこと)の常住物は何一つ持ち出していない。
涅槃経の 中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、十二月十六日に返還せられてあるくら
いで、したがって日尊実録の中にも
『身延沢御退出の刻、公方、聖教、世事雑具等、 皆悉く御墓所に之を置くべきの由、衆徒に触れられし時、面々供奉の人々、一紙半銭
も持ち出ることなし』
と書いておる。
とうぜんのことである」(日蓮正宗大石寺59世法 主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」p280〜281より
日亨上人は生御影・御骨の奉持を認めておられる。したがって、大聖人から日興上人へ親付された宗宝と、身延山の常住物とは区別する必要がある。
この記述をもって「日興上人は身延から何物も一切持ち出していない」とするのは、常住物と親付された宗宝の区別を踏まえない解釈である。
日興上人の身延離山に関する重要史料。
身延離山の事情と、什宝を持ち出したか否かという問題を検討する際に参照する。
戒壇の大御本尊が当時どのような形態で、どこに安置されていたかを考察するための間接史料である。
弘安2年の大御本尊を日目上人に相伝(※原本では「授与」)する旨が記されている。
日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之れを相伝(※元字→授与)す。/P1883
戒壇の大御本尊の初期の伝持を検討するうえで、特に重要な史料である。
さて熱原の法華宗二人は頸を切られ畢んぬ。その時大聖人御感あって日興上人と御本尊にあそばすのみならず、興の御弟子日秀・日弁二人上人号し給う。
日蓮大聖人の御伝記に関する史料。
熱原法難、弘安2年の出来事、戒壇の大御本尊に関する記述を検討する。
執筆時期と後世の書き入れの有無についても確認が必要である。
関連考察:『御伝土代』熱原法難記事の検討
「日興上人と御本尊にあそばす」の文法・史料・伝承をめぐって
日尊師による板曼荼羅の模刻があったとされる記録。
模刻の対象がどの御本尊であったのか、記録の原典、現存する実物の有無を確認する必要がある。
富士門流における板曼荼羅造立を検討する関連資料である。
紫宸殿御本尊系の模刻板本尊とされるもの。
表下
右願主薗部
日重弟子小輔
阿闍梨日経造立
および、
遺弟日影代
応永十九年太歳壬辰
十月十三日
文字を普通に読めば、
「日影代の応永19年10月13日、願主・薗部日重弟子小輔阿闍梨日経によって造立」 となる。
「堀ノート」の信行寺調査記録は、
「本堂 楠板 宗祖御真筆 弘安三年庚申三月 宗祖在御判 応永十九年十月十三日」
その伝来、原典、現存状況については未確認である。
紫宸殿御本尊系の模刻板本尊とされるもの。
有師加筆
(客殿安置紫宸殿彫刻檜板本尊に加筆)大檀那大伴氏浄蓮、時に応永二十七年太才庚子卯月十五日 磐城妙法寺 富要8−194
堀ノート 当時にては戒壇御本尊と云いけるとのこと (※要注意 原文 未確認)
日有上人が模刻されたのか、既に板本尊となっていたところに日有上人が加筆されたのかは不明。
信行寺の板本尊と同様、原典・伝来・現存状況の確認を要する。
(弘安三年三月日紫宸殿の本尊を模刻し左の加筆を為す)文安二年乙丑十一月六日、九世日有在判、須津(すど)
の庄島窪の住持日伝に之を授与す、 総本山。
編者曰く 一時天王堂に安置せしが廃堂の後宝蔵に在り、御身替り本尊と称して奇怪の伝説あるは近古の訛伝か、鳥窪の旧地存すれども今其址だに無し、或は本広寺の前身にあらざるなきか。(要集 8−194)
日亨上人は、両山問答での「御身替り本尊」説を否定。
宗史における訛伝や謬伝に対する、日亨上人の厳しい史料批判の姿勢が表れている。
山口範道師 日蓮正宗史の基礎的研究 151 によれば、立正安国会「御本尊集」 82番 とされる。
紫宸殿御本尊を板曼荼羅に模刻したとされる記録。
弘安3年3月の紫宸殿御本尊との関係も重要な検討事項となる。
本尊書写、法主の権能、相承などに関する制度的背景を検討するための史料。
戒壇の大御本尊の造立を直接証明するものではないため、関連史料として扱う。
『本宗史綱』第一章「宗門守成時代」245〜246頁の脚注�B
�B『重須日浄記』に、
日有此頃未聞未見ノ板本尊ヲ彫刻シ、猶ホ己義荘厳ノ偽書ヲ作リ、併テ邪智謗法ノ現罰ヲ蒙リ、癩病人ト為テ杉山ニ隠入云々、
読み下し
『重須日浄記』には、
「日有はこの頃、未聞未見の板本尊を彫刻し、なお自己の教義を荘厳するための偽書を作り、あわせて邪智謗法の現罰を受け、癩病人となって杉山に隠れ入った云々」
『重須日浄記』が独立した一冊の書物として現存していたのか
原本・写本の所在がどこだったのか
正式な書名が本当に『重須日浄記』なのか
『両山問答』などに引用された逸文を、便宜上『重須日浄記』と呼んだのか
日浄自身の自筆原本なのか、後世の伝写・聞書なのか
日有上人による戒壇の板本尊造立説に関連する史料。
日有上人の彫刻とされる記事の原文、成立年代、写本の伝来を確認する。
他門流の史料として、宗門内部の記録と区別して検討する。
現段階では原本・写本の所在と伝来を確認できていない。したがって、この逸文だけをもって日有上人による戒壇の大御本尊造立の根拠とすることはできない。
編者(※日亨上人) (中略) 云く此の聞書の成れる時代を知るの由なし、大石の有師と妙本の要師(※保田妙本寺第11世(1436〜1514)とを列挙するなり。
一、大石寺は四帖の聖教とて先師の作之れ有り、此の内・日目の耳引法門と云ふ事之れ有り・本尊の大事なり三箇の秘法なり、
其の中には本門の本尊なり是れ教主の依用なり・大小乗共に二仏並出を許さず、
去れば此の大事は門徒の首長計り伝へて本尊を書くべし、余は書くべからず、二仏並出と云々、
去れば一切の仏をば無作の一仏とし・一切の菩薩をば上行の一菩薩とするなり云々。
(歴全1−459)
一、日興跡条々事示書
正本、大石寺蔵
富士四箇寺の中、三箇寺は遺状を以て相承せられ候。
これは総付嘱の分なり。
大石寺は御本尊を以て遺状と成され候。
これ則ち、別付嘱・唯授一人の意なり。
大聖より本門戒壇の御本尊、興師より正応の御本尊、法体の御付嘱、例せば上行薩[土+垂]、結要付嘱の大導師たるを以て、意得(こころえ)かくの如し。
御本尊の処、肝要なり。
久遠より今日、霊山神力の結要、上行所伝の御付嘱、末法の日蓮・日興・日目、血脈付嘱の全体、色替わらず、そのままなり。
八通・四通は総付嘱か。
(※八通は日代譲り状 四通は日順師への譲り状か)
当寺一紙三箇条の付嘱遺状(※ 三箇条の遺条が書かれている日興跡条条事)は、文証として寿量品の儀なり。
御本尊は、久遠以来、未だ手に懸けざる所の付嘱なり。
大石寺は御本尊をもって遺状とする旨を述べ、本門戒壇の御本尊と別付嘱・唯授一人の関係を明示する。
戒壇の大御本尊を相承の法体として位置付けた重要史料。
ただし、この記述自体には板という材質の明示がない。
『日蓮宗宗学全書』第18巻149〜150頁)
『日蓮宗宗学全書』
「当家諸門流継図之事」
一、富士門徒大石寺継図之事
日興、日目、日道、日行、日時、日阿、日影、日有、日乗、日底、日鎮、日院、日主、日昌。当住、已上十四代なり。
日昌語って云わく、(※日昌上人御在籍期間 1596年〜1622年)
大石寺というは寺号に非ず。この所に大石有り。日興、身延を出でてこの処に宿す。世人、大石寺という。故に寺号を号して大石寺というなり。
身延山出歩の事、古老伝えて云わく、
蓮祖御入滅の後、六老僧一同に身延をば二十日番に持ち玉えり。
而して御一周忌の時、御報恩の行、池上に於いてこれ有り。(※弘安6年10月13日であるはず。)
各衆、向後は百日宛、御番たるべき事。
故は、上総・下総等より遠路なれば、二十日番なれば行歩ばかりなりと云々。
時に日興云わく、
向後は御番御無用なり。
その故は、大聖人、身延の隠居所をば拙者に御付嘱と仰せらると云々。
自余云わく、この義、口惜しと云々。
(※日興上人は)即ち急ぎ身延山に帰り、板御本尊と岡宮日法御作の大聖人御影木像とを盗み取りて出山し玉う。
(※頭注 興師の離山は正応元年也(※現在の日蓮正宗見解では正応二年春)読者惑う勿れ。)
故に自余と御不和の故、勝劣を建立し玉うなり。
故に根本は我慢と盗偸とより起こるなり。
一、大石寺板本尊の事
日憲、参詣の時、委(くわ)しく拝し奉る。
堅(※たて)五尺、横二尺四寸なり。
さて御勧請の次第は、
上段には釈迦・多宝・本化の四菩薩、
次の段には文(殊)・普(賢)、薬(王)、彌(勒)、舎(利弗)、迦(葉)・大梵・釈提・大日月明星、
次の段には、天(台)章(安)、伝(教)、転(輪聖王)、阿闍(世)、
次の段には鬼子(母神)、十羅(刹)、天(照大神)、八(幡大菩薩)、
仏滅後二千二百二十余年〇大漫荼羅也、日蓮御判、
その下に、横右
現当二世の為、造立件の如し、
御判の右の脇に 本門戒壇の願主、彌四郎国重法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日」云々。
彌四郎とは波木井殿の事也。
(頭注 彌四郎云々是誤り也)
私に云わく、板御本尊を彫りしも、御影も、日法の御作也。
大石寺の板本尊を実見したとする記録。
寸法、勧請、脇書、年月日などの具体的な記述を含む。
他門流の僧侶による実見記録として重要である。
ただし、日憲の人物比定、実見年代、文章の成立年代については未解決の問題がある。
四月廿四日大石寺に着く、当住日昌上人は本来要法寺の住僧所化為るに依ツて日[貝+周]・性両師の下にて同学累年の故恋志斜ならず、殊に要法寺に於て雲石両国宿坊の手筋の僧為るに依ツて、御霊宝等残らず頂拝す、中にも日本第一の板御本尊、紫宸殿の大漫荼羅、病即消滅曼荼羅、其ノ外曼荼羅数幅、・・・(富要5−59)
大石寺の板本尊を拝観したとされる記録。
原典、成立年代、記述内容を確認する必要がある。
日憲の記録との比較対象となる。
此年(※文永十一年)十二月、万年救護の本尊之を図し日興に給う
金原氏は『日興跡条々事』草稿の文を根拠に「弘安二年の大御本尊」を万年救護本尊とするが、本稿は、この理解が日精上人御自身の文永十一年の記事と整合しないと考える。
此の年(※弘安二年)に、大曼荼羅を日興に授与し給う、万年救護の本尊とは是れなり。
日興より又日目付属して今房州に在り、
此西山に移り、うる故、今は西山に在るなり。
(※ 日亨上人は 「西山に移り」 「うる」 この箇所に疑念を抱く ○ が打たれている)
日亨上人 頭注
万年救護の本尊は文永十一年なり。本師誤まる。
西山に在りしは寸時なり、直に房州に返る。
この弘安二年の記事には、戒壇の大御本尊の造立を明示する記述はない。
身延離山 (※日興上人伝)
日興は波木井の謗法改まる可らずと思し召しければ謗法の地には居るべからずとて出で給ふ、板御本尊、生御影、其外御書物御骨等まで取り具して離山し給ふ、
この板御本尊奉持の伝承に対して、日亨上人が本文冒頭のとおり検討の余地を示された点が、本稿の出発点である。
日法伝
或る時日法御影を造り奉ラんと欲す。七面大明神に祈念し給ふ。感応の至りか浮木出来せり、
此ノ木を以ツて戒壇院の本尊ヲ造立し、
次に大聖の御影を造ること巳上三体なり、
其ノ一体は纔(わずかに三寸なり。上行所伝抄の意なり、
大聖戒壇院の本尊を書し、日法之を彫刻す。今の板本尊是レなり、
則チ身延の大堂に立て給へる御本尊是レなり、
又師細工に長ずる故に大聖の御影一体三寸に造立して是レを袖裏に入れ御前に出て言上して云ハく
「願クは末代ノ聖人未聞不見の者の為に御影を写し奉ラんと欲す免許に於ては不日に造立すべし」と、
聖人此ノ像を取り掌上に置き之レを視(みそ)ナはし笑を含ミて許諾す、
日法、仏師鳥養助二郎、太郎太夫と云ふ者と供に日法之を彫刻し等身の影像即成す、
但シ背脊(はいせき=背中)少し高し(※盛り上がっていた)。
釿(ちょうな)を取り之を[金偏に産、原字要確認](けず)る、
大聖曰ハく背脊甚タ痛しとの給ふ故に御影の後皆釿名なり(※、釿で削る作業が進められなかったので、釿の削り跡が全面に残っている)
此ノ因縁に因て生御影とも号し奉ると申すなり
板本尊・生御影・並に三寸御影、皆今富士に在るなり。
本稿が掲げた『家中抄』の各記事のうち、戒壇の大御本尊の造立を具体的に述べるのは、この日法伝である。
草稿本・上巻・中巻などの成立年代が異なる可能性があるため、写本ごとの区別が必要である。
(※ 文永十一年)十二月、万年救護本尊書写して以て日興に授与したまう。
弘安二年の項には熱原法難が詳しく記されているが、戒壇の大御本尊の造立についての記載はない。
大石寺の什宝とその伝来を検討するための史料。
戒壇の大御本尊の形態、寸法、安置状況などに関する記録の有無を確認する。
完則によるとされる本尊図についても、原典と伝来の確認が必要である。
現段階では原典を確認できていないため、史料としての使用には注意を要する。
観心本尊抄文段
弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕して四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり。
文底秘沈抄
百六箇に云わく「日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべし乃至何の在処たりとも多宝富士山本門寺と号すべし」云々。
嫡々相承の曼荼羅とは本門戒壇の本尊の御事なり。
故に御遺状に云わく「日興が身に宛て賜わる所の弘安二年の大本尊は、日目に之れを授与す。本門寺に掛け奉るべし」云々。
故に百六箇の文の意は本門戒壇の本尊所在の処を本門寺と号すべし云々。
当家三衣抄(富要3−224)
次に引証とは
第一には生御影、即ち重須に在すなり。
第二には造初の御影、即ち当山に在すなり。
蓮師御伝記の八に云わく
「弘安二年、富士の戒壇の板本尊を造立し奉る時、日法心中に末代の不見不聞の人の為に聖人の御影を造らんと欲するの願有り。
故に先ず一体三寸の御影を造って便ち袂に入れ、聖人の高覧に備え奉る。
而して免許を請うに聖人此の御影を取って御手の上に置き、笑を含ませられ即ち免許有り。
之れに因んで等身の御影を造り奉り、而して聖人の御剃髪を消し、御衣を彩色し給うなり」云々。
「一体三寸」とは即ち造初の御影なり。
「等身の御影」とは即ち是れ生御影の御事なり。
此の両御影、並びに是れ薄墨の素絹五条の袈裟なり。
この引用では、弘安二年と、戒壇の板本尊の造立が結び付けられている。
岩城妙法沙門覚応日相之を記す
講師 大石寺廿六世日寛上人
日因上人が書写
弘安己後は終窮の極説也。但し正し〈極を論ぜば弘安二年御年五十八にして本門戒壇の御本尊を図す是れ則ち宗祖終窮究竟の極説也。
弘安2年に本門戒壇の御本尊を図顕した旨の記述があるとされる。
著者、成立年、現存写本の系統、原文の確認が必要である。
(要集1−250)
蓮祖御存生の弘安二年に板本尊を彫し奉る、本門戒壇の御本尊是なり、
又一体三寸の御影を刻り奉る、
後御免許にて大聖人等身の御影を之を刻彫し奉る、
伝に云、鳥養助次郎、太郎太夫と云う人と日法と与に之を刻彫し奉り後御覧に入るるの処に、御背脊少し高し、釿を取て之を「[金偏に産、原字要確認](けず)」り奉る時、大聖仰せ曰く背脊甚た痛し云云、仍之を相止む、
今に以て御影、後、釿目高し、故に生御影と号し奉る、又正御影と申す、今重須に之在り云云、
今御生仏の寸尺を記せん
御長金さし弐尺六寸五分、
御ひざ両の御そでまで壱尺八寸五分余、
又横ふかさ御うしろより御ひざのまへまで弐尺弐寸余あり、
又御耳の長さ三寸、
御つむりの丸さ御耳の上まで弐尺八寸、
又御つむりのたけ・ぼんのくぼより御鼻筋の通りより御あごまで弐尺、
又両御眼の長さ壱寸四分、
又御衣の袖八寸宛両方へ出るなり、
又御ひざのあつさ五寸弐分已上、
古筆之有り、
今之を書写し奉るなり、次に最初仏長け弐寸弐分なり、
此最初亦造初御影とも六坪の御影とも看経所の御影とも号するなり、
当山に之有り、日法の作なり、
次に本門戒壇の御本尊の寸尺、
長四尺七寸五分、
横弐尺壱寸七分、
厚弐寸弐分
御首題御勧請皆金薄入りなり、
仏滅後二千二百廿余年等と云云、
御端書、
右為現当二世造立如件、本門戒壇之、願主弥四郎国重敬白、法華講衆等、弘安二年十月十三日云云、
当山に之有り、
又之に就て二箇御相承、
又興師より日目上人に御遺状等之有り
後代の為に之を書きおく者なり、
日亨上人は各所に頭注を加えておられるが、造立伝承全体に対する批判的論評は示されていない。
同二年弥四郎国重なる者【一説に南部六郎実長の嫡男と云ふなり】霊瑞に感じて良材を得以て蓮祖に献ず、
蓮祖満悦し本門戒壇の大御本尊を書して日法に命じ之を彫尅せしむ、
日法材端を以て蓮祖の小影を作る【作り初の御影とも最初仏とも号す右二種大石寺宝庫に安ず】、
蓮祖又日法に命じて等身の像を模刻せしむ【生御影と号し重須の寺に安す】、此の三種を師に付与せらる、
最初の引用中の「弥四郎国重は実長の嫡男」とする説には、日亨上人の○・△の記号がない。
ただし、注記がないことだけで、日亨上人がその説を認めておられたとは断定できない。
一、本門戒壇の板大漫荼羅 一幅
日蓮聖人十界勧請御判の下、横に並べ、
「現当二世の為め造立件の如し、本門戒壇の願主、弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日」 と、
末代不朽の為に楠の板に書く、
厚二寸二分
竪四尺七寸五分
横二尺一寸五分なり、
彫刻は中老僧日法に之を仰せ付けらる、
地黒塗文字金色なり、
広宣流布の時に至り、勅宣御教書を申請け、富士山に本門寺戒壇を築く可き用意と為て兼て之を造り置かる、
此御本尊は宗門の肝心、蓮祖出世の本懐、日興所属の簡要当山霊宝の随一なり、
此御本尊を将て日興に付属する時の遺状に曰く、
日蓮一期弘法白蓮阿闍梨日興付属之可為本門弘通大導師也、国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可、待時而已、事戒法謂是也等云云、
又日興より日目に付属するの状に曰く、
一日興身に宛て賜る所の弘安二年大御本尊日目に之を授与し本門寺に掛け奉るべきなり等云云、
又三大秘法抄に曰く、戒壇とは王法仏法に冥し仏法王法に合し王臣一同三秘密法持時、勅宣並御教書申下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇建立すべき者か、時を待つべきのみ事戒法申是なり、三国並一閻浮提人懴悔滅罪戒法なるのみならず、大梵天王帝釈等来下して踏み給うべき戒壇なり等云云、
「古伝に云く」(△)、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、
南部六郎実長の「嫡男弥四郎国重」(△)之を取り上げ以て聖人に献ず等云云、
又弥四郎国重の五字に就て表示し有りと相伝云云。
日亨上人の頭注記号、○は誤謬、△は疑義を示す。各所に記号はあるが、造立伝承全体に対する批判的論評は、ここに掲げた範囲では示されていない。
戒壇の大御本尊の造立・伝持をめぐる論争資料。
日有上人造立説、日法師彫刻説、楠板への書写、弥四郎国重による材木の奉納などを検討する。
宗門側と他門流側の主張を区別して整理する必要がある。
『両山問答』の補足資料。
日尊・日代ら初期の弟子の文献に戒壇の大御本尊への明示的言及が乏しいという問題について、宗門側の反論を確認する。
要法寺第三十八代 日生 嘉永3年(1850年)
一、伝へ聞く彼が云ハくと、大石寺には戒壇の大御本尊ある其ノ余の本尊は有れども何国何所の皆一機一縁のための本尊 にして無益の本尊なりと云云。
答ヘて云ハく最も戒壇の御本尊は高祖より興師・興師より目師え御伝へ給ふ御本尊にして大切なり、本門寺建立の時は 本堂に懸け奉る大本尊なる事異論無し、之レ宗内一流の重宝にして今の大石寺は預り主なり、
戒壇の板本尊を執する愚痴の事。汝云ふ本尊に従一出多・従多皈一のと申す名目・前代未聞の珍説なり、即身成仏の義を論ずるには私了簡無用なり、
金原明彦『日蓮と本尊伝承』84頁以降として、引用を以下に収める。
引用中の「一寸八分」を「二寸八分」の誤記とする見解は金原氏の推定であり、本稿が日亨上人の記録を訂正して確定したものではない。
以上を、センチ単位にしてまとめると――
日因記 縦一四三・九一センチ 横六五・七五センチ 厚六・六六センチ
日量記 縦一四三・九一センチ 横六五・一五センチ 厚六・六六センチ
「日蓮正宗 大石寺」 縦一四〇・八九センチ 横六六・六六センチ 厚六・六六センチ
(「日蓮正宗 大石寺」八五頁)
記述者によって、多少の違いが見られるが、これは測定の位置の違いか、転写の誤記であろうと思われ、概要を知る上で問題になるほどの差異ではない。
ただし、その厚みについては、いずれも単に「二寸二分」と記すのみで、あたかも均厚の平板を想像させるが、実際はその背面が丸みを帯びた膨らみを有していることを、大石寺六十六世細井日達が説法の席で述べている。
日達は、昭和五十二年五月二十六日に、大石寺大講堂で行われた第十九回寺族同心会において、その形状をかなり具体的に説明している。
戒壇の御本尊様は楠の厚木です。表から見るとこういう板です。
ところが此れは大変な板です。ただの板ではないのです。こういう板になっているのです。
だから後ろから見ると丸木です。丸木を表だけ削ってあるわけです。大変なものです。重たい。上はただ三寸そこそこの板ですけれども、まわりは丸木です。真丸い木です。その丸い木を、前を削って板にしたにすぎません。
しかもこの削ったのは、手斧、手斧でも昔、足利時代以後、徳川時代の手斧はこうなってますね。これで削って行く。これでこういうふうになって削っています。
これを削った手斧は、槍手斧とも槍鉋ともいうのですね。それで削った。
それは赤沢朝陽氏がちゃんと言明しております。だから鎌倉時代のものである。この手斧の削り方は徳川時代以後のものではない。
(「大日蓮」三十七号、八頁)
日達の表現からは、板背面にかなり大きな膨らみがあり、あたかも半丸太の如き印象をうける。ところが一方、同寺五十九世堀日亨の記述には、日達の形容とはかなり相違した戒壇本尊の寸尺確認が見られる。
堀日亨は登座間もない大正十五年八月に、戒壇本尊の精査を行っており、その時の模様が「堀日記」に記されている。
> 御開扉あり 所願也しかば後に御本尊の裏を拝す 下は二寸ほどツカとなりをれり 左方は角と共に少し腐朽す 裏面は下之方より朽たり 弥四郎等の下の左の方ほど彫刻ぬり箔とも変りあるは此の為か 表面の塗り方から見れば子細あるべしとも見えず 又厚は左右は一寸五分計にして中央厚みをまし一寸八分もあらんか。(「堀日記」大正十五年八月八日)
この「堀日記」に記された寸尺から推測すると、背面の膨らみはさほど大きなものではないように覗える。
ただし、「左右は一寸五分計にして中央厚みをまし一寸八分もあらんか」との表現には、文章的に少々違和感を感じざるをえない。
六六センチ程も巾のある板の、わずか三分(一センチ弱)の厚みの変化を、「厚みをまし……もあらんか」と表現するであろうか。
中央厚の「一寸八分」との表記は、誤記である可能性も考えられる。
いずれにせよ、背面に丸み・膨らみがあることは確かなようである。
また、下部には束(ツカ)が施されているようだ。
このような、大石寺各歴代の不安定な記録・発言とは別に、当本尊の形態を示す客観的な資料が存在する。
昭和四十七年十月の正本堂建立に合わせて、仏師「赤澤」において戒壇本尊の寶筐(厨子の内側にあって板本尊を直接収納保護する箱)が新調されており、その時の制作風景を撮った写真及び概略図面が残っている。
さらにまた、平成十四年十月の奉安堂建立時にも再び寶筐が新調され、この時には、その寶筐の正確な寸法が確認記録された。
通常の寶筐と異なり、裏に底板をはった完全な箱形で、束(ツカ)の部分も箱内に収まるよう仕立ててある。
長年の腐朽による傷みを保護するためか。
(※ 写真 イラスト 割愛)
この寶筐の寸法を基準として、収納時のためにわずかな余裕が取られていることを勘案すると、戒壇本尊のサイズは、丈一四四センチ・幅六六センチ・最大厚七・五センチ、ということになる。
この数字は日因等の記録とほぼ一致している。
日達の、「上はただ三寸そこそこ(九センチ強)の板ですけれども、回りは丸木です。真丸い木です」との表現はかなり誇張されたものであると言わざるを得ない。
近年における通例の本堂安置の板本尊の厚さが約四センチ程度であるから、七・五センチはかなり厚いとは言えるが、「半丸太」と表現する程ではないようである。
また、堀日亨の記述は逆に薄すぎるようで、「中央厚みをまし一寸八分もあらんか」は、「二寸八分」の誤記ではないかと思われる。
不定形な膨らみであれば正確な寸法は測り難く、旧来の「二寸二分」説も平均値的表現をしたとなれば、「一寸五分」と「二寸八分」の平均がまさに「二寸二分」となるのである。
以下は、原稿に明記された書名と掲載箇所に基づく参照一覧である。引用頁は、版によって異なる場合がある。
本稿の論旨を保持したまま、引用と推論の関係を明確にするため、次の確認事項を残す。
これらは紙幅先行説の結論を変更するものではなく、論文として出典を追跡できるようにするための課題である。
原稿: https://toyoda.tv/kaidanhonzon.zoryu.shiron.htm / 体裁・文章整理:2026年10月2日