竹尾清澄氏についての調査『畑毛日記』の著者・日蓮正宗信徒 調べたところ、竹尾清澄氏は、幼少時から日蓮正宗を信仰し、直達講の副講頭を務め、歴代上人と親しく接した古参信徒です。特に、日亨上人の宗学研究を支援したことが、日亨上人ご自身の文章からも確認できる人物でした。 ご質問の書名は、公開資料では『畑毛日記』(はたけにっき)となっています。以下、本人の文章の転載、研究論文、公的資料を照合して、確認できた範囲をまとめます。原本未確認の情報は、その旨を区別します。
1.生年・家庭・信仰の始まり『唯信唯行』の前書きには、昭和38年(1963)1月25日、七十歳と記されています。また、本人の回想では、初登山は明治33年(1900)の御大会、小学校一年生のときでした。この二つを合わせると、明治26〜27年(1893〜1894)頃の生まれと考えられます。ただし、満年齢か数え年かが確定しないため、生年の断定は避けます。[1][2] 幼少期の家庭は信仰に熱心で、登山に連れてもらう条件が、学校に上がって寿量品を覚えることだったといいます。朝夕に千遍以上の唱題をし、就学前には寿量品を読めるようになっていたとの回想です。成人後に入信した人ではなく、幼少期から宗門の信仰と生活を身につけていた人と判断できます。[2] 家族については、本人が七人の子の父だったと記しています。昭和20年の戦災で生活設計が大きく変わり、戦後には吉祥寺の仮住まいで暮らしたことも記されています。[1] 2.所属寺院と直達講での立場公開された回想には、「妙光寺 元直達講副講頭 竹尾清澄」という署名があります。品川の妙光寺に関係した古参信徒であることは、複数の紹介で一致しています。[3][4] 直達講については、大木道惠氏の資料紹介で、三谷素啓氏が講頭、竹尾氏が副講頭だったと説明されています。同紹介は、三谷氏の没後、牧口・戸田両氏による講の掌握を拒むため、竹尾氏らが直達講を解散したと述べています。ただし、解散の経緯と動機は紹介者の説明であり、今回、講の原記録までは確認できていません。[1] なお、竹尾氏を「常在寺の直達講副講頭」とする引用もあります。妙光寺との関係と常在寺・直達講との関係が、どの時期にどう重なっていたかは、所属の変遷をさらに確認する必要があります。[5] 3.軍人としての経歴軍職に就いていたことは、本人の回想から確認できます。 『唯信唯行』の「日正上人」の項には、大正6年(1917)5月から11月まで、病気休職中に大石寺に滞在したとあります。当時無住だった百貫坊で寝起きし、寂日坊の小笠原慈明師を親許のように頼り、毎日、日正上人の丑寅勤行に参詣したと記しています。その後、軍職に復帰してからも、度々お目通りしたということです。[6] 公的資料にも、同じ名前が見つかりました。
東京外国語学校の一覧とアジア歴史資料センターの記録に、竹尾清澄の名前が掲載されています。[7][8] 防衛研究所の目録には、「1922年 露書 労農陸海軍金銭給與に関する指針 第1輯 陸軍高等出版会議」訳・竹尾清澄とあります。請求番号は文庫―若松史料―386です。1922年は目録に示された原資料の年であり、翻訳年と断定はできません。[9] したがって、軍人だったことは本人の文章で確認でき、さらにロシア語を学び、軍事資料を翻訳した人物である可能性もあります。ただし、最終階級、部隊歴、陸軍士官学校の期別などは未確認です。 4.歴代上人との関係竹尾氏の回想には、形式的な参詣を超えた交流が記されています。
日応・日正上人との関係は、本人の回想の公開本文で確認できます。[10][6] 日柱上人から賜った子供の名前は国清・寿美子。また、大正14年頃には、大久保の自宅へ法友十数人と共に上人をお招きしたと記されています。[11] 日開上人からは澄雄・国安の名前を賜り、母の御見舞いの際には「無疑曰信」の揮毫をいただいたとあります。[12] 日隆・日昇上人との交流も本人の文章に記されています。これらから、竹尾家そのものが、複数の歴代上人と長年にわたる関係を持っていたと考えられます。[13][1] 5.日亨上人との関係――今回、最も重要な確認事項これは竹尾氏自身の回想だけでなく、日亨上人側の文章から裏づけられます。 創価大学公開の研究資料『「新教」第6巻第1号掲載の牧口常三郎の論考5編』の278頁に、『雪山書報』昭和10年9月6日付の日亨上人の文章が引用されています。 その内容は、竹尾氏が日亨上人の編集上の苦労に同情し、信友である牧口常三郎氏と神子精氏による編集協力を申し出たというものです。[14] ここから確実に言えるのは、次の点です。
竹尾氏は、日亨上人について後世に聞き集めただけの人物ではなく、その研究活動に実際に関わっていた信徒です。これは『畑毛日記』に収められた日亨上人の談話を評価するうえで、かなり大きな裏づけになります。 また、『唯信唯行』の「日亨上人」の項では、御遷化の姿を身近に拝したことへの深い感激と御報恩の誓いを述べています。公開本文からは、日亨上人を強く敬慕していたことが読み取れます。[15] 6.確認できた著作
『唯信唯行』には、「十二代法主の化に浴して」として日布上人から日達上人までの回想があり、ほかに在家の教学や先師の御指南に関する文章が収められています。大木氏は、紹介に使用した本が著者直筆の書き入れ本のコピーで、通常流布する本文と多少異なると説明しています。また、同氏の使用本には奥付がなく、正確な発行日は不明です。[1] 『畑毛日記』の昭和55年・41頁という情報は、現物を扱った出品者の説明によります。初版か再刊か、本人による刊行か、編者の有無などは、奥付未確認のため確定できません。[4] 7.『畑毛日記』が引用されている主な論点公開された引用からは、少なくとも次の内容が確認できます。
竹尾氏の記録は、宗門を支持する側と批判する側の双方から引用されています。ただし、同じ引用が複数のサイトにあることと、独立した複数証言があることは別です。多くは共通の本・記事からの転載でした。 8.記録者として、どう評価できるか今回確認した範囲では、竹尾氏は宗門内部の事情を知り得る位置にあった、重要な在家の記録者と評価できます。その根拠は、長い信仰歴、半年間の在山、歴代上人との私的交流、そして日亨上人の研究への協力です。 一方、個々の記述については、次の区別が必要です。
「日亨上人が竹尾氏にそのように語られた」という証言の価値と、「語られた内容が史実として確定する」ということは、分けて扱う必要があります。ただし、日亨上人との接点自体は、今回かなり明確に裏づけられました。 未確認なのは、氏名の確実な読み、生年月日、没年月日、詳しい軍歴、職業の全容、『畑毛日記』の成立・編集・刊行経緯、原稿の現所在です。特に昭和55年という刊行年を、そのまま各記事の執筆年と見なすことはできません。 現段階で人物紹介を書くなら、次の表現が適切です。
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