竹尾清澄氏についての調査

『畑毛日記』の著者・日蓮正宗信徒
調査日:2026年10月6日


調べたところ、竹尾清澄氏は、幼少時から日蓮正宗を信仰し、直達講の副講頭を務め、歴代上人と親しく接した古参信徒です。特に、日亨上人の宗学研究を支援したことが、日亨上人ご自身の文章からも確認できる人物でした。

ご質問の書名は、公開資料では『畑毛日記』(はたけにっき)となっています。以下、本人の文章の転載、研究論文、公的資料を照合して、確認できた範囲をまとめます。原本未確認の情報は、その旨を区別します。

目次
  1. 生年・家庭・信仰の始まり
  2. 所属寺院と直達講での立場
  3. 軍人としての経歴
  4. 歴代上人との関係
  5. 日亨上人との関係――今回、最も重要な確認事項
  6. 確認できた著作
  7. 『畑毛日記』が引用されている主な論点
  8. 記録者として、どう評価できるか
  9. 出典・参考資料

1.生年・家庭・信仰の始まり

『唯信唯行』の前書きには、昭和38年(1963)1月25日、七十歳と記されています。また、本人の回想では、初登山は明治33年(1900)の御大会、小学校一年生のときでした。この二つを合わせると、明治26〜27年(1893〜1894)頃の生まれと考えられます。ただし、満年齢か数え年かが確定しないため、生年の断定は避けます。[1][2]

幼少期の家庭は信仰に熱心で、登山に連れてもらう条件が、学校に上がって寿量品を覚えることだったといいます。朝夕に千遍以上の唱題をし、就学前には寿量品を読めるようになっていたとの回想です。成人後に入信した人ではなく、幼少期から宗門の信仰と生活を身につけていた人と判断できます。[2]

家族については、本人が七人の子の父だったと記しています。昭和20年の戦災で生活設計が大きく変わり、戦後には吉祥寺の仮住まいで暮らしたことも記されています。[1]

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2.所属寺院と直達講での立場

公開された回想には、「妙光寺 元直達講副講頭 竹尾清澄」という署名があります。品川の妙光寺に関係した古参信徒であることは、複数の紹介で一致しています。[3][4]

直達講については、大木道惠氏の資料紹介で、三谷素啓氏が講頭、竹尾氏が副講頭だったと説明されています。同紹介は、三谷氏の没後、牧口・戸田両氏による講の掌握を拒むため、竹尾氏らが直達講を解散したと述べています。ただし、解散の経緯と動機は紹介者の説明であり、今回、講の原記録までは確認できていません。[1]

なお、竹尾氏を「常在寺の直達講副講頭」とする引用もあります。妙光寺との関係と常在寺・直達講との関係が、どの時期にどう重なっていたかは、所属の変遷をさらに確認する必要があります。[5]

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3.軍人としての経歴

軍職に就いていたことは、本人の回想から確認できます。

『唯信唯行』の「日正上人」の項には、大正6年(1917)5月から11月まで、病気休職中に大石寺に滞在したとあります。当時無住だった百貫坊で寝起きし、寂日坊の小笠原慈明師を親許のように頼り、毎日、日正上人の丑寅勤行に参詣したと記しています。その後、軍職に復帰してからも、度々お目通りしたということです。[6]

公的資料にも、同じ名前が見つかりました。

資料記載内容本人との照合状況
『東京外国語学校一覧 自大正11年至12年』陸軍砲兵中尉・竹尾清澄(東京)軍職の回想と整合するが、同一人物の最終確認は未了
アジア歴史資料センター「外国語学依託学生成績の件」竹尾清澄の名前詳細画像の照合は未了
防衛研究所の史料目録ロシア語軍事資料の訳者「竹尾清澄」同姓同名の可能性を残す

東京外国語学校の一覧とアジア歴史資料センターの記録に、竹尾清澄の名前が掲載されています。[7][8]

防衛研究所の目録には、「1922年 露書 労農陸海軍金銭給與に関する指針 第1輯 陸軍高等出版会議」訳・竹尾清澄とあります。請求番号は文庫―若松史料―386です。1922年は目録に示された原資料の年であり、翻訳年と断定はできません。[9]

したがって、軍人だったことは本人の文章で確認でき、さらにロシア語を学び、軍事資料を翻訳した人物である可能性もあります。ただし、最終階級、部隊歴、陸軍士官学校の期別などは未確認です。

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4.歴代上人との関係

竹尾氏の回想には、形式的な参詣を超えた交流が記されています。

上人確認できた交流
日応上人御隠居後、蓮葉庵で単独のお目通り。少年時代の御説法や勤行のお声も記憶していた
日正上人大正6年に半年間在山し、日夜方丈へ出入り。諸行事を所化と共に勤めた
日柱上人蓮蔵坊で法義を尋ね、御筆記を拝借。長男・長女の名を賜る
日開上人昭和6年1月6日、危篤の母を大久保の自宅に見舞われる。子供の名も賜る
日隆上人御隠居後、登山途中の汽車で会い、後に病床を見舞う
日昇上人戦後、吉祥寺の仮住まいに立ち寄られ、登座に関する手紙を賜る

日応・日正上人との関係は、本人の回想の公開本文で確認できます。[10][6]

日柱上人から賜った子供の名前は国清・寿美子。また、大正14年頃には、大久保の自宅へ法友十数人と共に上人をお招きしたと記されています。[11]

日開上人からは澄雄・国安の名前を賜り、母の御見舞いの際には「無疑曰信」の揮毫をいただいたとあります。[12]

日隆・日昇上人との交流も本人の文章に記されています。これらから、竹尾家そのものが、複数の歴代上人と長年にわたる関係を持っていたと考えられます。[13][1]

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5.日亨上人との関係――今回、最も重要な確認事項

これは竹尾氏自身の回想だけでなく、日亨上人側の文章から裏づけられます。

創価大学公開の研究資料『「新教」第6巻第1号掲載の牧口常三郎の論考5編』の278頁に、『雪山書報』昭和10年9月6日付の日亨上人の文章が引用されています。

その内容は、竹尾氏が日亨上人の編集上の苦労に同情し、信友である牧口常三郎氏と神子精氏による編集協力を申し出たというものです。[14]

ここから確実に言えるのは、次の点です。

  • 竹尾氏は、昭和10年には日亨上人の宗学研究・編集作業を支援していた。
  • 日亨上人は、その協力を文章に記している。
  • 竹尾氏は牧口氏とも交流があり、日亨上人への編集協力を仲介できる立場だった。

竹尾氏は、日亨上人について後世に聞き集めただけの人物ではなく、その研究活動に実際に関わっていた信徒です。これは『畑毛日記』に収められた日亨上人の談話を評価するうえで、かなり大きな裏づけになります。

また、『唯信唯行』の「日亨上人」の項では、御遷化の姿を身近に拝したことへの深い感激と御報恩の誓いを述べています。公開本文からは、日亨上人を強く敬慕していたことが読み取れます。[15]

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6.確認できた著作

著作・媒体確認事項
『唯信唯行』A5判の私家版小冊子。前書きは昭和38年1月25日
『畑毛日記』現物の出品説明では昭和55年、非売品、A5判、41頁
『妙の光』への投稿『唯信唯行』前書きに、直近2〜3年の投稿を集録したと記される

『唯信唯行』には、「十二代法主の化に浴して」として日布上人から日達上人までの回想があり、ほかに在家の教学や先師の御指南に関する文章が収められています。大木氏は、紹介に使用した本が著者直筆の書き入れ本のコピーで、通常流布する本文と多少異なると説明しています。また、同氏の使用本には奥付がなく、正確な発行日は不明です。[1]

『畑毛日記』の昭和55年・41頁という情報は、現物を扱った出品者の説明によります。初版か再刊か、本人による刊行か、編者の有無などは、奥付未確認のため確定できません。[4]

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7.『畑毛日記』が引用されている主な論点

公開された引用からは、少なくとも次の内容が確認できます。

  • 牧口氏と堀米泰栄師〔後の日淳上人〕との関係悪化。日亨上人から伺った話として紹介されています。ただし、転載によって年次や表記に違いがあるため、正確な本文は原本との照合が必要です。[16]
  • 戦前の相伝書・宗学資料の閲覧状況と、『富士宗学要集』公開の意義。松岡幹夫氏『日蓮正宗の神話』を引用する公開記事では、『畑毛日記』37頁に関連する竹尾氏の証言が取り上げられています。今回は原本ではなく、孫引きの確認です。[17][18]
  • 昭和20年の大石寺火災後の中島廣政師の説明を記録した文章。『地涌』第888号は、竹尾氏が同年9月の妙光寺での話を直接聞き、数日後にまとめたと紹介しています。ただし、この記事では、その記録が『畑毛日記』所収なのか、別の記録なのかまでは明示されていません。[19]

竹尾氏の記録は、宗門を支持する側と批判する側の双方から引用されています。ただし、同じ引用が複数のサイトにあることと、独立した複数証言があることは別です。多くは共通の本・記事からの転載でした。

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8.記録者として、どう評価できるか

今回確認した範囲では、竹尾氏は宗門内部の事情を知り得る位置にあった、重要な在家の記録者と評価できます。その根拠は、長い信仰歴、半年間の在山、歴代上人との私的交流、そして日亨上人の研究への協力です。

一方、個々の記述については、次の区別が必要です。

記録の種類史料としての意味
本人が見聞した出来事竹尾氏自身の体験証言
日亨上人から直接聞いた話日亨上人の発言を伝える聞き書き
他者から聞いた過去の出来事伝聞として出所を確認する必要がある
竹尾氏自身の感想・判断竹尾氏の認識や信仰的立場を示す

「日亨上人が竹尾氏にそのように語られた」という証言の価値と、「語られた内容が史実として確定する」ということは、分けて扱う必要があります。ただし、日亨上人との接点自体は、今回かなり明確に裏づけられました。

未確認なのは、氏名の確実な読み、生年月日、没年月日、詳しい軍歴、職業の全容、『畑毛日記』の成立・編集・刊行経緯、原稿の現所在です。特に昭和55年という刊行年を、そのまま各記事の執筆年と見なすことはできません。

現段階で人物紹介を書くなら、次の表現が適切です。

「竹尾清澄氏は、明治期から信仰を続けた日蓮正宗の古参信徒で、直達講の元副講頭。軍職に就き、歴代法主と親交を持ち、堀日亨上人の『富士宗学要集』編集活動にも協力した。著作に『唯信唯行』『畑毛日記』がある。」

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出典・参考資料

本文の[番号]は以下の出典に対応します。公開記事に転載された本人の文章、研究論文、公的目録、出品説明など、資料の性質は本文に記したとおりです。外部リンク先の内容・公開状況は変更されることがあります。

  1. 大木道惠『唯信唯行』01(目次・前書き)
  2. 城内啓一郎「明治33年の初登山の記憶」
  3. 城内啓一郎「日正上人・日柱上人の思い出」
  4. 『畑毛日記』現物の出品説明(書誌情報の参考)
  5. 「戦時下の問題」
  6. 大木道惠『唯信唯行』05(日正上人)
  7. 『東京外国語学校一覧 自大正11年至12年』PDF
  8. アジア歴史資料センター「外国語学依託学生成績の件」
  9. 防衛研究所・史料目録(文庫―若松史料―386)
  10. 大木道惠『唯信唯行』04(日応上人)
  11. 大木道惠『唯信唯行』06(日柱上人)
  12. 大木道惠『唯信唯行』08(日開上人)
  13. 大木道惠『唯信唯行』09(日隆上人)
  14. 創価大学公開『「新教」第6巻第1号掲載の牧口常三郎の論考5編』278頁
  15. 大木道惠『唯信唯行』07(日亨上人)
  16. 「価値[再]創造」掲載記事(『慧妙』転載)
  17. 『日蓮正宗の神話』を引用する公開記事
  18. 『畑毛日記』37頁に言及する公開記事
  19. 報恩社『地涌』第888号(1995年11月5日)

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