日亨上人 身延離山史
【47頁】
二、興師の入山
△他門では興師の主權を認めず任意輪番としてをる形であるから何年何月に晋山した等の傳説すら無いのが當然である。
輪番帳の順次は九月が興師の御番で十月が卿公の目師と但馬公の番である。
溯れば八月が法師と位師で六月が辨師と秀師で五月が持師で三月が越前公と淡路公とで近所の人も多く又興師の系統に屬する、
四月と七月だけが遠國の人で又自系でないばかりで、此間の出入が自由であったので、格別出入に目立たなかった事も與(あずか)って御入山の事の文献が無いのとも思はるゝ、但史上の考察は後世から見るのと其當時とは見當違ひに成り勝であると思ふ。
△御晋山を富士門の文献で求めても古い所に殆んど見當らぬのは大體惣(すべ)ての記事が到って粗枝大葉(おおざっぱ)であるからでもあり、故に無いとか書かなかったとか散佚(さんしつ)したとか云ふ理由では無からう。
祖師傳の興師の下には
「御遺言ニ任セテ御墓ヲバ身延山ニ立テ玉フナリ、日興彼ノ別當ニシテ六人ノ御弟子懈怠無ク香花有ル可キ由、定メ仰セラル」
とあり
家中抄の興師傳の下には、
「日興獨り身延ニ留り朝暮讀經唱題ノ外、所作ナク廟所ヲ見テ敬(けい)ヲ思ヒ彌ヨ勸行シ給フ、時移リ日重レドモ御弟子衆一人モ參詣シ給ハズ」
とあり、兩傳等しく弘安五年の末の總大衆登山の時の儘、延山の住持として居給へる書きぶりである。
又吾山でも他の富士系の山でも僧俗識無識、皆然か信敬し奉って居たのである。
○然るに西山本門寺藏の波木井文書を見て此を檢討するに及んで以上の六百年來の史傳を改めざるを得ざる事に立ち到った。
今左に其具文を引いて愚解を述べやう。〔明治卅九年白蓮華誌上に掲げしと同意。〕
『ハル(春)ノハジメ(始)ノ御ヨロコビ(悦)、カタガタ(旁)申コメ(籠)候ヌ、
サテ(扨)ハクヲンジ(久遠寺)ニホクエキヤウ(法花經)ノヒロ(弘)マラセ、ヲハ(御座)シマシテ候ヨシ(承)ウケ給ハリ候事メデ(慶)タク(賀)ヨロコビ(悦)入テ候。
サテ(扨)御ワタリ(渡)候事コ(故)シヤウ(聖)人ノ御ワタリ候トコソ思マイラセ候ヘ。』
御文給ハリテ候シニ、ヤガテ御返事申ベク候シトコロニ、ヤガテマカリ(罷)下(くだり)候ベキニテ候シアイダ(間)ケザン(見參)ニ申候ハントアイ存ジ候テ申サデ候シ事、ハリマ(播磨)房ニ申候シガ申シテ候ケルヤラン、
ナヲナヲ御返事スナワチ(即)申サデ候シ事ナゲキ(歎)入リテ候、
マカリ(罷)クダリ(下)候テケザン(見參)ニマカリ(罷)イル(入)ベキヨシアイ存ジ候トコロニ、サタノアクタノ事ノビ(延)候ハンズラント存ジ候ホドニ、マカリ下テ候テケザン(見參)ニ入ラズ候事ナゲキ(歎)入テ候、又御キヤウ(經)アソ(遊)バサセヲハシマシ候ヨシウケ給ハリ候事ヨロコビ(悦)イリマイラセテ候。
『又ミンブ(民部)ノアザリ(阿闍梨)ノ御房ノ御文給ハリテ候事ヨロコビ(悦)入テ候、ソレ(其)ニツキ候テモサテ御ワタリ(渡)候ウヘ(上)ハセケン(世間)シユツセ(出世)ノ事ニツケ候テモ何事モフ(不)ソク(足)ニモアイ存セズ候
ナヲ(猶)ナヲミンブ(民部)ノ阿闍梨ノ御房ノ御ハカ(墓)ヘ御マイリ(詣)候ベキヨシウケ給、モン(問)ダウ(答)モノビ(延)テ候ヘドモコノ(此)ホド(程)チカク(近)モン(問)ダウ(答)バシ候ヌトオボエ(覺)候、
御コヽロ(心)ニイレ(入)テ御キヤウ(經)アソ(遊)バシテ給ルベク候。
サテワタラ(渡)セ給候コトハヒト(偏)ヘニシヤウ(聖)人ノワタラセ給候ト思マイラセ候ニ候。
恐々謹言。
沙彌日圓(花判)。
二月十九日
進上、白蓮阿闍梨御房』
此は西山本門寺波木井文書六通の一であるが日圓入道の正筆の古文書は全國に此の外には見當らぬやうである。
延山に二通あるが一通は文體如何にも整って正文書と思へるが不幸にして未だ眼福を得ぬ、
一通は寶物舘で見たが「南部隱士」等と肩書のある文體、筆樣、紙質共に僞文書と拜した。
實は西山文書の鑒定に念を入るゝ、為にとの考へであったが殘念であった。
西山文書は愚見では確に正本である。
故に此に依りて校(かんが)ふれば興師の御晋山は富士門流古傳の如く弘安五年の冬から其儘御住持遊ばしたのではない、
さりとて二箇の相承の中の池上相承を放棄すべきものでは無い、
弘安六年の春夏は混雜でもあったし富士の諸關係もあるし旁(かたがた)其年の暮頃に、彌名實共に常住と云ふ事になったと思ふ。
但し所掲の文書には年號の記入がないから果して弘安幾年であったらうか、
六年とすれば日圓入道が改めて年賀状の序(ついで)に晋山の祝著を鎌倉より申し送る筈はない。
八年には別に年號を記入した正月四日の状(てがみ)がある。
九年とすれば餘りに延引になる輪番すらも始めから滿足に行はれぬ延山を放下(ほか)して御遺命を顧みぬと云ふやうな事があらう。
殊更弘安七年十月の美作公への御状の御旨意に違ふ、
其は次項に委しく引くが大意は弘安七年の御第三回忌には其以前より常住延山の御文意である
彼是推考して弘安七年に定めたのであるが、此に就いて猛烈な反撃を受けた事は明治三十九年の白蓮華誌上を御覽ください、
さり乍ら本項所掲の文に就いて少々解説を試みやう。
「『」印を施してをいた首尾の文は興師の入山を祝して大歡喜を起した、即(すなわち)當項入用のものである、
中間の文は晋山の通知が興師より鎌倉勤番の波木井日圓入道に送られた其御返事を申すべきであるが何(いず)れ近々歸國して御目にかゝりての上と播磨房〔波木井住にて興師の弟子〕に傳言したが申し上げたであらうか、此樣な次第で御返書を出さなかった事は殘念である等、又其に就いて外に事件があるので遂に延々になったとの御斷りの意であるが本項には直接の用はないけれども古文書の意味が取り難いので念註する、
其は「申テ」とあるのが「申シテ」とも「申サデ」とも兩樣に肯否の區別を讀者が判斷する責任を負はされてゐる事、他の文書にもあるから今一寸解説をしてをくのである。
其處で必要の文を更に解説するが首の文では。
先づ新年の悦びより身延山久遠寺に法花經を御弘めなさると云ふ事を拜承しました事の祝賀を申されて、尊師(あなた)が身延山に御出でになった事は日蓮大聖人樣が御出でになったやうに存じますと絶大の恐悦を述べられてをる、
中間の分は前に述べましたから略しまして尾の文では。
民部向師が上總から久々に御状を下さった、悦しい事である、
尊師が身延に御出でになったからは一切の俗用も佛法用も如何樣に御取計ひ遊ばされても決して不足がましい事は申しませんから宜しく御願ひ申し上げます、
猶又民部向師が大聖人樣の御墓參に見ゆるやうな事を伺ひました、
問答は延期になったが近々有るらしく見ゆる〔此問答は多分岩本件であらう〕、何うか精神(こころ)こめて理運の御經をあげて頂きたいと興師の事と向師の事とを互に交えて書いてある、
最尾に。
首の文を繰り返して尊師(あなた)が身延に御座りになった事は大聖人の御座りになってると同然に難有事(ありがたきこと)に存じますと書かれた、
暫くの間であっても主人の居無い久遠寺を心配するは地頭として當然の責任である
其が思ふ通りに出來上った事の滿悦である、
無論南部一族を代表しての、又全宗門に代りての御祝いの御状と見るべきであらう、
爰に興師の云はれた初發心の弟子として永々の因縁を含める深情が味はるべきである。