仏立宗開祖 長松清風→日扇


↑見るからに悪相

逮捕され在家主義を捨て僧侶となることを条件に釈放
十界曼荼羅本尊を否定 他宗の本尊を”謗法本尊”と貶しているではないか。
  ↑「創価学会・顕正会に「ニセ本尊」と呼ぶな」と我々に要求できないではないか?
幹部から退去要求
清風没後 協調路線
悪臨終
在家主義破折 僧俗の筋目 法華経 破折

要法本尊 破折 @ A
 ↑日隆は十界曼荼羅本尊を正意とした 日扇はそれを否定 この矛盾はどうするのか?
読経否定 破折 @ A
三祖血脈 破折 @ A
三途不成仏 破折
御影の矛盾

現世利益主義
現世利益主義 破折
病人に「御供水(おこうすい)(仏壇に供えた水)」を飲ませる「病気治し」←文証挙げよ

日扇は変節の後 僧侶主導主義となった。
在家主義の本門正宗はなぜその日扇の首題本尊を拝むのか?


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 本門仏立宗

[創始者] (開導)長松日扇(清風)
[立 教]安政四(一八五七)年、本門彿立講として開講
  昭和二二年「本門佛立宗」として本門法華宗から独立
[本尊]日扇自筆の要法本尊

[経典]妙法蓮華経開結十巻 
[教典]高祖日蓮大士遺文(特に『観心本尊抄』『四信五品抄』『如説修行抄』を用いる)門祖日隆、開導日扇の著述
[本 山]宥清寺 京都市上京区御前通一条上ル東竪町一一〇
[寺院・教会数]三三六
[教師数]七九一
[信徒数]三八五、四九二

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【沿革】

 本門彿立宗は、長松日扇(一八一七〜一八九〇)が京都ではじめた在家組織「本門彿立講」を起源とし、今日の在家主義新興宗教の原形といわれる教団である。

 「本門佛立宗」の宗名は、日扇が『法華初心成仏抄』の

■「法華経をば仏立宗と云ひ、又は法華宗と云ふ」(新編一三〇七)

との文によって、

「別にわれと一宗を開くに非ず、仏説のままを宗祖立てさせられて本門彿立宗也」(日扇上人全集) と、名乗ったものである。

 日扇は、もともと八品派(本門法華宗) の僧侶として出家したが、まもなく教団に対する不信から還俗し、後に在家のみによる信仰組織を起こし、独自の本尊や教義を立て、病気なおし等の現世利益中心の布教をすすめ、教線を伸ばしていった。
この間、日扇が信仰の変節をするたびに教団に内紛が起こり分裂し、現在に至っている

 日扇は、江戸末期の文化一四(一八一七)年に京都で生まれた。
幼名は大路仙二郎といい、幼い頃より書画や和歌を学び、雅号を長松清風と称した。

 天保一三(一八四二)年、二五歳のとき、母と死別して出家を志し、二九歳のとき、本能寺(本門法華宗)の秀典日雄の教化で入信し、嘉永元(一八四八)年、三二歳のとき、淡路隆泉寺の無著日耀を師として出家した。

 しかし、中年での出家を理由に、本興寺にある尼崎檀林への入檀を拒否された清風は、当時の保守的な教団に失望して東山の西行庵に退き、同志と布教生活を送ることとなった。

 ここでも、清風の折伏布教が周囲の反感を招き、やがて西行庵を追われ、その後も住居を転々とした末、ついに還俗して「禅門清風」と称し、在家の立場で教団の改革を決意した。

 当時、宗内では、
信行なき地獄・餓鬼・畜生も成仏できると主張する「皆成派」(本山側)と、
成仏は信行を実践できる人界の衆生に限ると反発する「久遠派」(改革派)
との論争が激化していた。
なかでも高松藩主松平頼儀の庶子である頼該(よりかね)は、全国に講員三、一〇〇余名・五三の組織を持つといわれた在家組織・高松八品講の中心者と
して、本山側(本門法華宗)の番神雑乱、葬式仏教化、唱題軽視に対して反発し、刷新運動を展開していた。

 同じ反教団という立場にあった清風と頼該は、互いに共鳴して親交を結び、安政三(一八五六)年一一月、清風は頼該に招かれて高松に赴き、大いに感化された。
そしで翌年一月、清風四二歳のとき、京都蛸薬師の谷川浅七宅で華洛八品講を起こし、「彿立講」と称した。
これが、今日の本門彿立宗の起源である。

 開講後の清風は、難しい法門を説く僧侶に対抗して現証を中心とした「現証利益主義」を唱え、頼該の政治的庇護を利用しながら徹底した在家主義を主張した。
その後も、清風は高松八品講と深く関わりながら、信仰のあり方を判りやすく説いた独自の「教歌」を用いて、当時の既成教団を痛烈に批判し、京都、大津、大阪の商人を中心に教線を伸ばしていった。

 しかしその後次第に、高松八品講より清風の現世利益中心の布教法や、清風の頼該に対する態度をめぐって批判の声が高まり、文久元(一八六一)年、頼該は清風と義絶している。

 その翌年、清風は大津に法華堂(現・彿立寺)を開き、ここに講の本拠を移したが、頼該という後ろ盾を失った清風は、慶応元(一八六五)年、大津の諸宗六四箇寺より「切支丹の邪法を行い、在家の身で法を説く不審者」として訴えられ、取り調べを受けた。

明治元(一八六八)年には、再び大津の諸宗に告訴されて、数名の弟子や幹部とともに投獄された。

 このとき、維新直後の京都府知事は全員を無罪にしたうえ、清風に対して再出家と寺院止住を条件に布教活動を許可し、五日間で赦免した。
赦免後、清風はこれまで強弁してきた三途不成の主張や、曼荼羅の書写・授与を止めて本門法華宗に従う旨の誓約書を提出することで再出家を許され、同じく明治元年の九月に本能寺塔中の竜雲院に入り、講の再建にかかった。

 その翌年、清風は無住であった妙蓮寺末の宥清寺(京都北野)を借り受け、再び寺に入ったが、これを契機に清風の信仰は変質し、これまで主張してきた僧侶否定の純粋在家主義から、僧侶と寺院をもつ出家主義へと大きな変貌を遂げていった。

また病人に「御供水(おこうすい)(仏壇に供えた水)」を飲ませる「病気治し」などの現世利益をさらに強調し、法華宗とは一線を画した独自の信仰を打ち出していった。

明治一〇(一八七七)年、還暦を迎えた清風は、宗祖の曼荼羅を書写した従来の本尊を止め、自ら一遍首題の題目に脇書を書き、これを「要法本尊」と称して講員に配布しはじめた。
 



 また、翌年には「本門彿立妙講一座」という法要式を制定して独立に向けての準備を進め、やがて彿立講は三三組、信徒10、000人という規模にまで発展した。

さらに同一五(一八八二)年、宗祖六〇〇遠忌を終了した頃から、清風は「読誦謗法・口唱専一」「番神雑乱・別勧請本尊への参拝禁止」を講員に徹底し、大胆な改革を実行した。

 しかし、本山妙蓮寺の貫主にさえ強言を吐く清風に対し、これに反発する多くの講員が離反し、彿立講の教勢は三分の一にまで激減したといわれる。

明治一六(一八八三)年一一月、この事態を憂慮した主要幹部五〇余名は、清風に対して宥清寺からの退去要求を突きつけ、その三カ月後、清風は止むなく宥清寺を出て、綾小路の私宅(現・長松寺)に退いた。

 ここで晩年を過ごした清風は、明治二三(一八九〇)年七月、大阪に向う途中、七四歳で急逝し、遺言によって第二世論有(後継者)には、御牧日聞が就いた。

 清風の没後、本山妙蓮寺は彿立講に対して本尊書写の禁止や読誦謗法の主張の撤回を迫り、教団は苦境に立たされた。
しかし、明治三二(一八九八)年四月、妙蓮寺との対立を不利と見た彿立講は、講員による妙蓮寺団体参詣を実施して協調路線をとり、関係修復を図った。
 これによって両者は互いの目論見を持って歩み寄り、一気に和融共存の道を進んでいった。

 翌三二(一八九九)年、本門法華宗は清風に対して「日扇上人」の諡号を送り、また、明治三七(一九〇四)年五月には、二世講有の御牧日聞が上総の鷺山寺貫主に就任、半年後に管長となり、六年後には京都妙蓮寺の貫主に迎えられ、三世講有の野原日隨も妙蓮寺貫主となり、同四五(一九一二)年、本門法華宗は、再び日扇に対して大僧正位を追贈した。

このように本門法華宗が佛立講の組織力に依存する一方で、佛立講は着実に本門法華宗内での勢力を広げ、本来の在家主義から僧侶主導へと、大きな変貌を遂げていった。

この頃から、変質した佛立講に対し、純粋な在家組織を目指す一部僧俗は反発して、次々に教団を離れて分派していった。
その主なものは、次のとおりである。

 ●「大日本獅子吼教会」大正二(一九一三)年、大塚目現が創立(法華宗本門流所属)
 ●「在家日蓮宗浄風会」大正五(一九一六)年、多羅尾清車が創立(事務所東京都文京区千駄木)
 ●「本門経王宗」大正一一(一九二二)年、麻生日宏が創立(事務所東京都調布市緑ヶ丘本山・日宏寺)
 ●「日蓮主義佛立講」昭和三(一九二八)年、橋本日種が創立(事務所愛知県春日井市松新町)

 大正八(一九一九)年、清風の再出家以後、寺院と僧侶を持つようになった佛立講は積極的に僧侶を養成して自立を目指し、教線を拡大していった。
その結果、昭和九(一九三四)年、宗内で「佛立講特別教区制」が実施され、佛立講は講有を中心とした自治権を獲得した。

 そして終戦後の昭和二二(一九四七)年三月、本門法華宗(旧八品派)から独立して「本門佛立宗」と改称し、昭和二七(一九五二)年、宗教法人を設立して現在に至っている。

 日常の信仰活動の特徴としては、毎月の「お講(お講席)」が挙げられる。これは各地域の「組」と呼ばれる信徒のグループが、寺院の出先である信徒宅の拠点に集まり、法事・祈願・聴聞などを自主的に行うもので、清風が佛立講を開講以来、最も重視してきたものである。

佛立宗では「お講」を開催できる信徒は信心強盛とされ、信徒に対し、盛んに「お講願主になれるように」と、物心両面の指導をしている。

 また、初信者への指導や病気治し等の手助けをすることを「お助行」と呼び、仏前に「御供水」と呼ぶ水を供えて「御看経(おかんきん)(拍子木を打ちながらの唱題)」の後、この水を飲めば病気が治る等、常に現世利益を説き、組織の維持と布教を行っている。

 また、大聖人を高祖大士、日隆を大聖人の後身として門祖、日扇を「開導」と呼んで「三祖」と仰いでいるが、実際には清風が残した三、三八〇余首にのぼる「教歌」をはじめ、俳句、詩、今様、謡曲、長唄、地唄、いろはがるたに至る、さまざまなものを教えの根本として教化活動に用いている。

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【教義の概要】

 日扇の教学は、
日扇が本門法華宗の僧として出家してから、還俗、再出家を経て佛立講をはじめた日隆教学中心の前期と、
還暦を契機に「要法本尊」を自作し、本門法華宗からの独立を目指して独自の教学を創り上げた後期とに区別できる。

 その特徴を一言でいえば、日扇と生涯対立関係にあった本門法華宗に対する体制批判から生まれた改革教学であり、既成宗教の難しい教義や信仰を切り捨て、信徒中心の判りやすい教えと信仰を目指した新興宗教の先駆といえる。

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(要法本尊と口唱専一)

 佛立宗では、宗祖自筆の曼荼羅を「雑乱勧請の広式本尊」と否定し、日扇が自作した「要法本尊」のみを信仰の対象としている。
これは日扇が、中央に題目、その左右に「三箇秘法之中一大秘法」「本門肝心上行所伝」と脇書したものであり、明治一〇年に還暦を迎えた日扇が、「本尊書写は貫主に限る」などの制約を受けていた本門法華宗からの独立の宣言書ともいえる。

 また、日扇は本門法華宗で行っていた一部読誦に対し、「題目で御布施がとれぬもの故に在家のしらぬ御経よむなり」と批判し、難しい読誦は信徒の信心の妨げになるとして、その翌年に 「本門佛立妙講一座」という唱題中心の法要式を発表し、講員に徹底した。

 現在も法要・勤行は、これに従って行われており、要法本尊に向かって拍子木を鳴らしながら題目のみを唱える「口唱専一」を正行とし、これを「事行の題目」と称している。

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(現証利益主義)

 日扇は 「法の浅深・勝劣・邪正は現証利益の有無に依って自ら知るなり」 と述べ、教学や法門は理談に過ぎず、智恵による信仰を嫌った。
自ら 「佛立宗は無智宗なり」 といい、 「現証利益こそ事の法門である」 と説いて、信仰の目的、正邪の基準、功徳のすべてを現世利益に結びつけたところに、この教団の特徴がある。

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【破折の要点】

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★ 日扇自作の 「要法本尊」 は、宗祖の正意に非ず

 佛立宗では日扇自作の 「要法本尊」を本尊と立て、曼荼羅に十界を顕すことを雑乱勧請・別勧誘といって嫌い、さらに十界互具の曼荼羅は宗祖の本意ではないと主張している。

 しかし、宗祖が 『観心本尊抄』 『報恩抄』 『日女御前御返事』をはじめ諸御書に明示された正意の御本尊は、十界互具の曼荼羅本尊である。
別して『聖人御難事』には、

「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。
 仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十
 余年に、出世の本懐を遂げ給ふ (中略) 余は二十七年
 なり
 (新編一三九六)

と明示されているとおり、宗祖の出世の御本懐は、弘安二年一〇月一二日御図顕の戒壇の大御本尊であることは明らかである。

 これに対し、佛立宗が立てる「要法本尊」は、明治一〇年に本門法華宗から曼荼羅の書写・授与を禁止された日扇が、法華宗からの独立を目指して、自ら一遍主題の左右に文字を並べたものを自作し、これを勝手に 「要法本尊」と称したに過ぎない。

 日扇の自作だけに、宗祖の御書のどこを探しても「要法本尊」という言葉すらなく、宗祖の認められた曼荼羅御本尊とは似ても似つかぬお粗末さである。
にも関わらず、かえって宗祖が「日蓮が魂」と仰せられた大曼荼羅を雑乱勧請の謗法本尊と下すこと自体、大聖人本意の御本尊を否定する大謗法であると同時に、自ら門祖と仰ぐ日隆の教えにも敵対する愚論である。


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★ 佛立宗の「口唱専一」は大聖人に背く

 佛立宗では法華経の読誦を謗法であると主張しているが、大聖人は『月水御書』に、

■「されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ」 (新編三〇三)

と、日々の助行として『方便品』と『寿量品』の読誦を御教示されている。
門祖の日隆も「日蓮薩?も又、方便品と寿量品と二の略門修行、之れ有り」(十三問答抄)と認めている。
その経文読誦を謗法と下し、拍子木を鳴らして題目さえ唱えればよしとする佛立宗の「口唱専一」は、本門法華宗の煩雑な一部読誦の修行を嫌った日扇が、
宗祖の実践された正助の二行を勝手に省略し、題目だけにした怠慢行に過ぎない。
 宗祖の化儀化法を我見で解釈し、勝手に作った「要法本尊」と「口唱専一」の修行を説く佛立宗は、修行ひとつを見ても師敵対の輩であり、謗法を謗法と恐れぬ日扇が勝手に作った「我立宗」にほかならない。

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 自ら証明する「三祖血脈」のあきれた実態

 佛立宗では、日蓮−日隆−日扇と連なる「三祖血脈」
なるものを主張して、宗祖以来の正統を宣伝しているが、その具体的な証拠や説明は何もない

 現実には、大聖人と日隆には百数十年の隔たりがあり、さらに数百年も下った日扇への血脈相承や相伝などあり得るはずもない。
 
 逆に、日扇は
信仰の根幹である本尊について、大聖人の正意たる曼荼羅本尊を否定し、勝手に自作の「要法本尊」を用いたり、
また修行についても、大聖人が御教示された方便・寿量の二品読誦に対して、日隆は「一部読誦」、日扇は「口唱専一」などと、
本来師弟一体であるべき本尊・教義・修行に水火の相違を生じている。

 この実態のどこに、大聖人の血脈が存するというのであろうか。

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本門仏立宗
                         
 「本門仏立宗」 は、「八品正意・八品所顕」を標榜し、本仏を久遠実成の釈尊として日蓮大聖人を上行菩薩の再誕に止どめており、この点は、「本門法華宗」 「法華宗(本門流)」とまったく同様である。

 ただ、本門仏立宗(以下、仏立宗と略す) の場合は、異流儀の中から出た異流儀であり、さらには在家仏教を宣揚してきた宗派であるだけに、日蓮大聖人の御教えからの逸脱・改変が著しく、特筆すべき点がいくつかあるので、それらについて述べることにする。

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   大 僻 見の 要法本尊

 まず、要法本尊と称する本尊(中央に「南無妙法蓮華経」と書き、その左右に「三箇之中一大秘法」「本門肝心上行所伝」と脇害したもの)についてであるが、これを本尊とする根拠として、仏立宗は、『本尊問答抄』

■「末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや 答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし」(御書一二七四)

との御文を挙げる。
そして、
"「三箇之中一大秘法・本門肝心上行所伝」と脇書したことによって、この要の本尊がもととなり、他の略式本尊・広式本尊も開き出される
とまで言う。

 しかし、これはまったくの己義で、日蓮大聖人は、題目だけの本尊を顕わされているわけではないし、ましてや、「三箇中之一大秘法…」などという脇書を入れよとする文証など、御書のどこにもない。

また、『本尊問答抄』の
■ 「法華経の題目を以て」云々の仰せは、その次下に、
■ 「舎利を安んずることを須いず」(法華経法師品)
■ 「諸仏の師とする所は所謂法也」(涅槃経)
■ 「形像舎利並びに余の経典を安んずべからず。唯法華経一部を置け」(天台の法華三昧)
等の経釈を引き、
■ 「法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず」(御書一二七四)

と仰せられていることからも明らかなごとく、釈尊の仏像を本尊とせずに法を本尊とせよ、と示されたものであって、その法の本尊の具体的相貌を仰せられたものではない。
その証拠に、大聖人は、仏立宗等が八品正意≠フ依処とする『観心本尊抄』の御文に、

■ 「此の本門の肝心、『南無妙法蓮華経の五字』に於ては仏猶(なお)文殊薬王等にも之を付属したまはず、何(いか)に況(いわ)んや其の已外(いげ)をや。
但(ただ)地涌千界を召して八品を説いて之を付属したまふ。
『其の本尊』の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空(くう)に居(こ)し、塔中(たっちゅう)の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士(きょうじ)上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属(けんぞく)として末座に居し、迹化(しゃっけ)・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処(しょ)して雲閣月卿(うんかくげっけい)を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。
『是くの如き本尊』は在世五十余年に之(これ)無し、」(御書六五四〕

と仰せられ、この南無妙法蓮華経の御本尊の相貌が十界具足であることを、具体的に示されているではないか。

 また、『日女御前御返事』には、
■ 爰(ここ)に日蓮いかなる不思議にてや候らん、竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大曼荼羅(だいまんだら)を、末法二百余年の比(ころ)、はじめて法華弘通のはたじるし(旗印)として顕はし奉るなり。
是全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中(たほうたっちゅう)の大牟尼世尊(だいむにせそん)・分身(ふんじん)の諸仏のすりかたぎ(摺形木)たる本尊なり。
されば
首題の五字は中央にかゝり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化(ほんげ)の四菩薩肩を並べ、普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)等、舎利弗(しゃりほつ)・目連(もくれん)等座を屈し、日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅(あしゅら)・其の外(ほか)不動・愛染(あいぜん)は南北の二方に陣を取り、悪逆の達多(だった)・愚癡(ぐち)の竜女一座をはり、三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)等、加之(しかのみならず)日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神々、総じて大小の神C(しんぎ)等、体の神つら(列)なる、其の余の用(ゆう)の神豈(あに)もるべきや。

宝塔品に云はく「諸の大衆を接して皆虚空(こくう)に在り」云云。
此等の仏・菩薩・大聖(だいしょう)等、総じて序品列座の二界・八番の雑衆等、一人ももれず此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明(こうみょう)にてらされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる。
是を本尊とは申すなり。


経に諸法実相と云ふは是なり。
妙楽云はく「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土」云云。
又云はく「実相の深理、本有の妙法蓮華経」等云云。
伝教大師云はく「一念三千即自受用身(じじゅゆうしん)、自受用身とは出尊形の仏なり」文。
此の故に末曽有(みぞう)の大曼荼羅とは名付け奉るなり。
仏滅後二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はずと云ふ事なり。

( かゝる御本尊を供養し奉り給ふ女人、現在には幸ひをまねき、後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて、闇に灯(ともしび)の如く、険難の処に強力を得たるが如く、彼(かし)こへまはり、此へより、日女御前をかこ(囲)みまぼ(守)り給ふべきなり。相構へ相構へて、とわり(遊女)を我家へよ(寄)せたくもなき様に、謗法の者をせ(急)かせ給ふべし。「悪知識を捨て善友に親近(しんごん)せよ」とは是なり。此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如(くしきしんのうしんにょ)の都とは申すなり。)

十界具足とは十界一界もか(欠)けず一界にあるなり。
之に依って曼陀羅とは申すなり。
曼陀羅と云ふは天竺(てんじく)の名なり、此には輪円具足(りんねんぐそく)とも功徳聚(くどくじゅ)とも名づくるなり。
」(御書一三八七)

と仰せられ、中央首題の妙法五字(仏界)を中心に十界が具わってこそ、本尊・曼荼羅となることを示されている。

 そして、現実に大聖人が御図顕された御本尊は、この十界互具の御相貌なのである。

 したがって、仏立宗が立てる要法本尊なるものは、十界互具・一念三千の法門や大聖人の御意をまったく理解しておらない、爾前ずりの大謗法本尊である。

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   読経否定は天魔の所為

 次に、題目だけを唱えればよい。経典読誦は謗法だ≠ニすることについてであるが、仏立宗は、この説の文証として

■ 「此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆゝしきひが(僻)事なり」 (御書一二一九)
を挙げる。

 しかし、ここで言われる「南無妙法蓮華経」とは、御本尊のことであって、口唱する題目のことではない。
つまり、御本尊の信仰に、他の信仰を交えてはならないことを戒められた御金言であって、経典読誦を禁じられたものではないのである。

 仏立宗は、題目といえば口唱の題目″しか知らないようだが、そもそも、御書中に出てくる「南無妙法蓮華経」もしくは「法華経の題目」との仰せは、口唱の題目をさす場合の他に、法体そのものをさす場合が多くある。

 それは、前の『観心本尊抄』(御書六五四〕に、
■「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては…」と始まる御文が、
■「其の本尊の為体…」
■「是くの如き本尊…」
と続いている(すなわち、前の題目の五字″と後の本尊≠ニは全く同体である)ことからも明らかであろう。

 では、日蓮大聖人は、経典読誦について、どのように仰せられていたのか、というと

■ 法華経は何(いず)れの品も先に申しつる様に愚(おろ)かならねども、殊(こと)に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍(はべ)り。余品(よほん)は皆枝葉(しよう)にて候なり。されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ。(中略)寿量品・方便品を読み候へば、自然(じねん)に余品はよみ候はねども備はり候なり。(月水御書 303)  

と、方便品と寿量品を読誦すべきことを示されている。

また、
■ 「御文に云はく、此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱へ申し候なり」(松野殿御返事 建治二年一二月九日 五五歳一〇四六)

との仰せから、御在世の弟子檀那等も、大聖人の仰せに従って、唱題と併せて方便品・寿量品を読んでいたことが明らかである。
このように大聖人が示ざれているのに、経典読誦を謗法とする仏立宗は、まさに

■ 「私ならざる法門を僻案せん人は、偏に天魔波旬の其の身に入り替はりて、人をして自身ともに無間大城に墜つべきにて候。つたなしつたなし」 (御書一三七〇)

と仰せのように、私ならざる法門を僻案した天魔波旬の者″ で、無間大城は必定である。

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    浅識による三途不成仏説

 次に、無信無行の者は成仏できないのであって、三途(三悪道) に堕ちた未入信の死者を追善回向するのは間違っている″という、「三途不成仏」 の説についてであるが、これまた、浅識である。

 大聖人は、
■ 「今此の妙経は十界皆成仏道なること分明なり。彼の達多無間(だったむけん)に堕するに天王仏(てんのうぶつ)の記を授け、竜女成仏し、十羅刹女(らせつにょ)も仏道を悟り、阿修羅(あしゅら)も成仏の総記を受け、人天・二乗・三教の菩薩円妙の仏道に入る。経に云はく我が昔の所願の如きは今已(すで)に満足しぬ。一切衆生を化して皆仏道に入らしむ云云。衆生界尽きざるが故に、未だ仏道に入らざる衆生有りと雖も然れども十界皆成仏すること唯今経の力に在り。(爾前二乗菩薩不作仏事 正元元年 三八歳 一八二)

と仰せられ、妙法の功徳は三途も含む十界の悉皆成仏であることを示されている。
さらに三途の中には、当然、犬や猫などの畜生も含まれるが、これについても、
■ 「涅槃経と申す経には、法華経の得道の者を列ねて候に「虫+羌」「虫+良」蝮蠍こうろうふくかつ)と申して糞虫を挙げさせ給ふ。竜樹菩薩は法華経の不思議を書き給ふに、「虫+昆」虫と申して糞虫を仏になす等云云」 (御書一五二五郎−)
(「虫+羌」「虫+良」は糞虫、黄金虫(こがねむし)のこと。好んで人畜の糞を転がして丸くし、卵をその中に産む。この故に糞虫という。蝮はまむし、蠍はさそりのこと。)
と仰せられ、虫ですら仏になれることを御示しである。

さらには、

■ 丈六のそとば(卒都婆)をたてゝ、其(そ)の面(おもて)に南無妙法蓮華経の七字を顕(あら)はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ(魚族)、其の風にあたりて大海の苦をはなれ、東風(こち)きたれば西山の鳥鹿(ちょうろく)、其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率(とそつ)の内院に生まれん。(御書一四三四)

と、塔婆に当たった風が魚や鳥などに触れれば、それだけで魚鳥も悪道を免れられる、と仰せられているのである。

仏立宗は、回向成仏説では、折伏ができなくなる。折伏のためには、現世利益主義でいくべきだ≠ニ考え、「三途不成仏」と言い出したのであるが、そのような自分達の都合で、大聖人の御法門を変えて平然としていられるのは、彼らが日蓮大聖人の御意など何一つ受け継いでいない、という何よりの証拠である。

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   立宗は堕獄必定の邪宗教

 また、仏立宗は、門祖・日隆を日蓮大聖人の再誕だとし、さらには、開導の祖・日扇を日隆の生まれ変わり(つまり、大聖人の再々誕)だとする。

 しかし、当然のことながら、そのような文証はどこにもなく、これは邪宗教ならではの、詐称である。

 日蓮大聖人は、

■ 「玄の三に云はく『文証無きは悉く是邪偽にして彼の外道に同じ』」(御書六一四〕
と示されているが、文証もなく、好き勝手に怪しげな義を立てる仏立宗は、もはや仏教教団を騙る外道にして、堕地獄は必定というべきであろう。

そして事実、日扇は、臨終において堕地獄の相を現じている。
 日扇は、大阪・神戸に布教に行く途中の茶店で、昼寝中に死んでいるが、その遺体は真っ黒で、まさに地獄の相だったのである。

(生前この悪相であれば、臨終時に大悪相であったことは容易に類推できる)

これを見、また伝え聞いた、当時の大幹部連は、大いに不信を起こし、大挙して仏立宗(当時は仏立講)から離れた。
その数は七十世帯以上に及び、大幹部達の離脱で、一時、仏立講は壊滅同然になったという。


 今日、仏立宗において、大聖人の御影像と称し、真っ黒な衣を着け顔まで黒色にした像を祀っているのは、日扇が黒色となって堕獄したことを粉飾しようとの、せめてもの奸智なのかもしれないが、大聖人は

■ 「色の黒きは地獄の棄と定むる事は仏陀の金言ぞかし」(御書一〇二三)
と仰せである。

 哀れ、かかる堕地獄の黒像を拝まされている大衆も、また堕獄することは必定であろう。