● 2018/08/08 11:07

こんにちは

アップ開始しました。

日蓮正宗こそが仏教の唯一正統・王道であることの論証    質問者とのメール往還

http://toyoda.tv/seitorongi.htm

取り急ぎまずはご連絡まで。

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● 2018/08/08 11:31

▼ 私自身は大乗非仏説を主張しませんし、仏教学における経典成立史が推論の域を出ない点も概ね了承しています。

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● 大乗教が非仏でないとすれば、無量義経の「四十余年 未顕真実」との経文はどう解釈されていますか?

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(1)現代の感覚から理解しがたい 

まず、現代人の理解として「釈尊が本当に五時の通りに説いた」と説明することには無理があるように感じます。たとえ「概ね」との注意がつくとしてもです。あるいは「順序ではなくて、内容で分けたのだ」としてもです。

仏教学の中では釈尊が在世時に説いた内容は概ね「経集・法句経・阿含経典(※)に含まれるであろう」という見解で一致しており、私もそう考える方が自然と考えております。現代における仏教学の主張を支持するものです。
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● これについて、なぜどうといえるのか、その根拠を教えてくださいますか?
その具体的な根拠が明示されないと、検討し論考することはできないです。

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▼※阿含経典の中にも古層や後の増補などが認められ、古層が重視される。

つまり、「歴史上の釈尊が説法した内容は、五時で言うところの阿含時の中の古層部分に概ね限定される」ということです。

その他の華厳・方等・般若・法華涅槃については、説いたとしても部分的であろうと考えるのが自然と思います。少なくとも、まとまった教説あるいはテーマとしてそれらが釈尊によって説かれたと理解することが困難なのです。
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● これも上記と同じで、そう結論付けるだけの根拠と教えてください。

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▼(2)五時が一切経を踏まえていない

仏教学で最古層の経典と判定されているスッタニパータ(経集)については、まとまった形で中国・朝鮮・日本には伝来していませんでした。そのため、天台大師と言えども仏教経典の全貌を知ることが不可能であったということになります。日本にスッタニパータが知られるようになったのは西洋学問の導入以降のことです。「江戸期以前には、一切経に含まれていない経典があった」ということです。

智様はそのような制限ある環境下で「欠けている経典もある」という中で教判を行わざるを得ませんでした。不備のある一切経に基づいた教判は現代において説得力を持たないと考えます。「五時(に限らず、中国仏教界が考察してきた種々)の教判が必要な前提条件を欠いていたのではないか?」という疑問です。

※スッタニパータについては釈尊在世の教説を知る手がかりとして、非常に重要と考えます。
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● これは、既述の仏教の伝播の次第の推論からすれば、全く問題はないことかと思います。
それを詳述する前にまず、▼「スッタニパータ(経集)については、まとまった形で中国・朝鮮・日本には伝来していませんでした。」との学術的検証の論を教えてください。

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(3)仏教における正統性の根拠

もちろん、釈尊が「華厳・方等・般若・法華涅槃の内容を部分的に説法した可能性がある」ということを私は否定しません。否定しない故に、大乗非仏説を主張しません。

釈尊が教説を文字に残さなかった以上、私たちは釈尊の教説を確定することができない、という制限を受けます。そのため「釈尊の教説はこうであった」と知るためには、種々の考察を経た推測によらざるを得ません。
その際「成立時期古いから釈尊の言説に近い」という類の推測は、完全ではないにしても尊重すべき観点と思います。

反対に、「成立時期が新しいから釈尊の言説に近い」という主張は成立しないと思います。その主張が成立する場合、10世紀以降にチベットで成立した時輪タントラの方が釈尊の言説により近いものとなってしまいます。当該タントラは終末論を説くような内容ですが、これを正統な仏説と主張するのは無理があるという点についてはご同意頂けるものと思います。

「時間的に離れているから釈尊の教説に近い」とは言えませんが、「時間的に近いから釈尊の教説に近い」という理屈は、一般的な感覚としても受け入れられる主張と思います。その観点を無視して議論する場合、「過去の師の言説よりも、現代の言説こそが正しい」という主張が生じ得ます。

つまり「部分的にでも経典に説かれていれば、あるいは説かれていなくても全体の印象を以て、後代の者が新たな説を生み出し、それを正統と主張する」ことが可能になるということです。これは「一般的な感覚からは導出が困難な正統性」であろうと思います。

天台智様の一念三千論も、日蓮様の文底秘沈の下種仏法も、それらに類する「一般的な感覚からは導出が困難な正統性」を主張したものと考えております。一般的な感覚から導出困難な正統性は、一般の人に対して説得力を持たないと思うのです。

私は「そういった正統性に基づく教説が誤っている」と言っているではありません。「そのような正統を主張しても良いが、現代において説得力を持たないのではないか?」と言っています。

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● おっしゃる意味が少々分かりかねるのですが、前回の私の仏教伝播に関する推論からすれば、これも釈尊の時代に近い遠いは特段問題はないと思いますが。
つまり、私の説も推論の域を出ませんが、一方、時代が近い方が釈尊の言説に近い、と考えるのも一つの推論に過ぎない、ということですね。

ここで、参考に、ある説を引用します。
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井沢元彦 逆説の日本史 古代黎明編 175

何度も繰り返すが、歴史学者側の論理には、相も変わらず「史料至上主義」と「宗教的知識の無視ないし軽視」が見られるからだ。

 まず「信仰」と「史料」ということを考えてみよう。

 たとえば仏教だ。
仏教の開祖はシャカである。紀元前五世紀の人だ。この人の教えはいわゆる「お経」で知ることができる。
もっとも今ある経典のほとんどはシャカ時代のものではなく、後世の人間によって作られたものだというが、シャカ自身の言葉を伝えているとされる「お経」も確かにある。

 こういう「お経」は仏教の信者にとっては「神聖なる教え」だが、歴史学者にとっては「史料」になる。
このことにはおそらく異論は無いだろう。
                                       

 シャカは前五世紀の人だが、その教えが、いわゆる暗記・口誦(こうしょう)ではなく文字の形でまとめられた、つまり歴史学者にとっての「史料」の形でまとめられたのは前一世紀のこととされる。
つまり、この間、四百年のズレがあるわけだ。

 では、ここで一つ質問をしたい。

 この四百年間、シャカの教えを文字で記したもの(つまり史料)が無かったから、「仏教の信仰は無かった」と言えるかどうか。
あるいは「仏教信仰の始まりは(それが史料で確認できる前一世紀からである」と言っていいものかどうか。

 常識のある人間なら、わかるだろう。

 その四百年間、「史料が無かったから仏教信仰は無かった」のではない。
むしろ、まったく逆で、前五世紀にシャカが播(ま)いた種が大きく実を結び、世界のあちこちで仏教が信仰されるようになった。
だからこそテキストが必要になったのだ。

 古代では、重要なことは口誦(口伝え)で伝承される。
ギリシアの叙事詩がそうだし、日本の『古事記』もそうだ。
『論語』も「子(し)曰(いわ)く(先生はこうおっしゃった)」という文体で全編つらぬかれているから、やはり元は口調で伝えられたのだろう。
それが信者が広がり、より多くの人間に知ってもらう必要がでてきたから、文字にしたのである。

(中略)

 だいたい宗教などというのは一朝一夕にできるものではない。 引用以上
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(4)初期仏教との乖離

釈尊の教説としての正統性を主張するために、教説間の整合性を取る際の根拠が必要です。私は、仏教学者が主張するところの初期仏教をその根拠とするべきと考えます。初期仏教の内容とは、まとめれば以下のような教説です。

・苦集滅道
・諸行無常、諸法無我、一切皆苦
・縁起
・上記を正しく認識することによる解脱
・その解脱を最上のものとし、その他の何かはないという位置づけ
・解脱を実現するための修行指針(四念処、八正道、三十七道品など)
・生活指針(道徳的な事柄や、原初的な戒律)
・形而上学的な原理についての無記

これらが初期仏教あるいは釈尊在世時の教説だったと考えられていますし、私はそれを支持します。これらと矛盾あるいは乖離する教説を教義の中心に据える場合、それを釈尊の教説として正統であると主張することは困難であると考えます。
法華涅槃寺の教説は初期仏教と矛盾または大きく乖離するため、「法華涅槃時の教説を最上と位置づける五時教判には説得力がないのではないか?」と考えます。

※「華厳・方等・般若・法華涅槃のいずれかを最上とする教判」の全てに疑問を持つものですが、ここでは日蓮様あるいは富士門流の教学とその基礎となる天台教学に絞り、法華涅槃時について言及しました。
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● 初期仏教に説かれていることが釈尊の教説の全てであったと断定できる根拠はどこにありますか?
もしあればそれを教えてくださればありがたいです。

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以上、特に(2)?(4)の辺りを根拠に五時の教判が説得力を持たないと思うのですが、如何でしょうか?


※問題提起の仕方として、そもそも「説得力を持つかどうか」というのは良くないのかも知れません。説得力があるかどうかは他人の主観によるためです。
個人的に「天台教学をベースとした日蓮仏法にも正理があってほしいなぁ。それで育ったんだもん。(樋田様もその点については近い考えがありそう、それが故に共有できるかもしれないなぁ)」と願うために提起したものです。
もしかしたら、「折伏相手の中には近代仏教学云々を言ってくる輩もいるぞ、そいつらにも正しく反論できなければ」という観点においては、樋田様にも有益な時間になるかもしれません。お付き合い頂ければ幸いです。

引用についてですが、あまりに長くなるため、もう少しテーマが絞られてからの方が良いと判断して割愛しています。


・このコミュニケーションについて、個人名等を伏せる形で公開することについて了承します。同時に、私も何らかの形で公開、伝達させて頂く可能性がある点についてご承知ください(現時点でそのような公開手段を持っているわけではありませんが、そのうちブログなどを開設する可能性はあります)。

・公開について、公開した場合はその公開先について、リンク等を教えて頂けるでしょうか(私も読みたいので…)。

・本件と直接関わることではないのですが、私は個人的に「将来における創価学会からの円満な脱会」を目論んでおります(「誠意を以て疑義を提出したのに除名された」という大義名分が欲しい=周囲の会員を傷つけたくない)。その際に提出する疑義について、このコミュニケーションで得られた知見を含める場合があることをご了承ください。


長くなって本当にすみません。。。

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● 今異移動中で揺れが激しい列車の中で書いてまして、はなはだ粗略にて失礼します。<m(__)m>

つまり主張される内容の学術的な根拠を明示していただければ、検討できる素材となる。。。ということに尽きますかね。

では、よろしくお願いします。。

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▼ 2018/08/08 17:02

ご返信ありがとうございます。

アップの件もありがとうございます。「テレビに映った!」的な嬉しさがありますね。

今回から引用を開始しましたが、けっこう大変ですね。次回以降は返信にかなり時間かかるかも知れないです。
(電子書籍はコピペ文字数が制限されています&物理的な書籍から手打ちするのに時間かかります。ヘタレですみません。)
しかも私は引用してメール書くのが下手くそすぎますね。読みにくいのもすみません。。。

電車という制約ある環境の中で、引用を含むご回答・ご質問、嬉しく思います。

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▼ 私自身は大乗非仏説を主張しませんし、仏教学における経典成立史が推論の域を出ない点も概ね了承しています。

● 大乗教が非仏でないとすれば、無量義経の「四十余年 未顕真実」との経文はどう解釈されていますか?
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まず、
「大乗非仏説」=「大乗経典は釈尊の教えではないから信じるべきでない。」…(1)
との主張がその主旨であると理解しています。
私はそうは思わないので、「私自身は大乗非仏説を主張しません」と言いました。

もし、
「大乗非仏説」=「大乗経典は釈尊の教えではないものが比較的多く含まれるから注意を要する。」…(2)
ということであれば、私は賛成するので大乗非仏説を主張します。

ただし、その場合は『大乗には非仏説が多い』説」くらいの用語であるべきで、「大乗非仏説」という単語が極端過ぎるということになります。
これは最初に大乗非仏説という単語を作った人が悪い気がします。

いずれにせよ、(2)のような定義で大乗非仏説という用語をお使いだったならば、私の配慮が不足していました。すみません。
大乗非仏説という単語は(1)のような大乗経典への強い否定の印象をもたせると思ったため、「私は主張しない」と言いました。

つぎに、無量義経の「四十余年 未顕真実」との経文の解釈についてです。

主語があると仮定すると、「(主語は)40年余りの間、真実を顕したことはなかった」と解釈します。
漢文を素直に読むとそうなると思いますが、中国語に詳しい訳ではないので、誤っていたら教えてください。
もしかしたら、「真実」が副詞的な意味かもしれないので、その可能性は否定しません。

この「四十余年 未顕真実」ですが、単純に天台智様の引用誤りではないですか?

ーーーーーー引用始(WEB大正新脩大蔵経より)ーーーーーーーー
・無量義經 (No. 0276) 0385b23 - 0387a15:
「説法種種説法以方便力四十餘年未曾顯實是故衆生得道差別不得疾成無上菩提善男子法譬如水能洗垢穢若井若池若江若河溪渠」

・妙法蓮華經玄義 (No. 1716) 0732b21 - 0739c09:
「皆合故不論廢成道已來四十餘年未顯眞實法華始顯眞實相傳云佛年七十二歳説」

・妙法蓮華經玄義 (No. 1716) 0807b28 - 0811b27:
「華始得合實故無量義云四十餘年未顯眞實若於法華未合於涅槃得合法性論明中」
ーーーーーー引用終ーーーーーーーー

今の漢字に直すと、
・無量義経「未会顕実」
・智様「未顕真実」
です。

智様が参照した無量義経自体が誤植していたか、あるいは智様が誤って引用したか。
いずれにせよ、これは誤引用の類であり、日蓮様はその誤引用を忠実に採用されています。
このような誤引用を仏説理解の根拠として採用することはできません。


引用者は「大師」や「本仏」と崇められ、あるいは信仰さえされる方々です。
彼らの主張に従えば地獄に落ちるか成仏できるかの重大な話になります。
私のような場末の凡夫が誤引用や誤字をするのとは訳が違います。
ちなみに、私は誰が何を信じていても、それが原因の堕地獄(現世的な意味の不幸)を主張しません。



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▼仏教学の中では釈尊が在世時に説いた内容は概ね「経集・法句経・阿含経典(※)に含まれるであろう」という見解で一致しており、私もそう考える方が自然と考えております。現代における仏教学の主張を支持するものです。

● これについて、なぜどうといえるのか、その根拠を教えてくださいますか?
● その具体的な根拠が明示されないと、検討し論考することはできないです。

▼※「歴史上の釈尊が説法した内容は、五時で言うところの阿含時の中の古層部分に概ね限定される」ということです。
▼ その他の華厳・方等・般若・法華涅槃については、説いたとしても部分的であろうと考えるのが自然と思います。少なくとも、
▼ まとまった教説あるいはテーマとしてそれらが釈尊によって説かれたと理解することが困難なのです。

● これも上記と同じで、そう結論付けるだけの根拠と教えてください。
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岩波「ブッダのことば(中村元訳)」における以下の解説を根拠としています。
ーーーーーー引用始ーーーーーーーー
『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。シナ・日本の仏教にはほとんど知られなかったが、学問的には極めて重要である。これによって、われわれはゴータマ・ブッダその人あるいは最初期の仏教に近づきうる一つの通路をもつからである。
ーーーーーーーーーーーーーー
いま聖典成立史上における位置づけを示すと、次のようになる。一、歴史的人物としてゴータマ・ブッダ(釈尊)の逝去(北方の伝説によると、西紀前三八三年頃になる)ののちに、仏弟子たちはその教えの内容を簡潔なかたちでまとめ、あるいは韻文の詩のかたちで表現した。いずれにしても暗誦の便をはかったものである。ことに教えの内容がひとたび詩の形でまとめられると、そのまま、大した変更も加えられることなしに、後世に伝えられた。多数の詩のうちには、あるいはゴータマ・ブッダ自身がつくったものも含まれているのではないか、と考えられる。最初は古マガダ語或いはマガダ語の影響の強い俗語(東部インド語)の一種で唱えられていたのであろうが、或る時期にそれがパーリ語に書きかえられて、現在では、パーリ語聖典のうちに伝えられている。しかしマガダ語の影響を完全に消し去ることはできないで、その痕跡をとどめている。こういう詩あるいは短い文句の集成がいくつも伝わっているが、『ダンマパダ(法句経)』(岩波文庫『ブッダの真理のことば』)もその一つである。これらの詩あるいは短い文句は大体アショーカ王(西紀前約二六八─二三二年)以前に成立したものである。それらの集成のうちでも『スッタニパータ』は特に古く成立したものであり、それらの第四章(アッタカ・ヴァッガ)と第五章(パーラーヤナ・ヴァッガ)とは最も古く成立したと考えられる。最初のうちはこれらの各章が別々に独立の経典として行われていたが、或る時期に一つの『スッタニパータ』にまとめられたのである。
ーーーーーーーーーーーーーー
もともとインドでは耳で聞いて口づてに伝承されていたものであるから、この性格をやはり保持したいと思った。耳で聞いても解らぬような漢訳語を使うことは、およそ原典の精神から逸脱している。
ーーーーーーーーーーーーーー
『ブッダのことば(スッタニパータ)』の詩句は右の諸段階のうちで、第一の段階に属するもののうちでも最も古いものである。また散文の説明は第二の段階に属するものである(この岩波文庫の翻訳では、通し番号を打ってある短い文句が詩、番号を打ってない長い文句が散文である)。詩の部分はアショーカ王以前につくられたものであるから、西紀前二六八年よりも以前のものであり、散文の部分は西紀前二五〇─一五〇年頃にほぼ現形のようにまとめられたのだろうと考えられる。
ーーーーーー引用終ーーーーーーーー


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● それを詳述する前にまず、「スッタニパータ(経集)については、まとまった形で中国・朝鮮・日本には伝来していませんでした。」との学術的検証の論を教えてください。
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同じく岩波「ブッダのことば(中村元訳)」における以下の解説を根拠としています。
ーーーーーー引用始ーーーーーーーー
この『スッタニパータ』五章のうちで、第四章が漢訳され『義足経』として漢訳大蔵経のうちにおさめてあるが、全体としては漢訳されていないし、したがってシナや日本の仏教には直接の連絡や影響はまずなかったと言ってよい。しかし歴史的人物としてのゴータマ・ブッダに最も近いものであり、文献としてはこれ以上遡ることができない。仏教の起原をたずねるためには、他のどの聖典よりも重要であると考えられる。
ーーーーーー引用終ーーーーーーーー


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もちろん、釈尊が「華厳・方等・般若・法華涅槃の内容を部分的に説法した可能性がある」ということを私は否定しません。否定しない故に、大乗非仏説を主張しません。
…(中略)…私は「そういった正統性に基づく教説が誤っている」と言っているではありません。「そのような正統を主張しても良いが、現代において説得力を持たないのではないか?」と言っています。

● おっしゃる意味が少々分かりかねるのですが、…中略…ここで、参考に、ある説を引用します。
井沢元彦 逆説の日本史 古代黎明編 175…(後略)
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参考資料、ありがとうございました。
確かにこのまま進めると推論と主観の話になってしまうので、いまは置いておきましょうか。
(この議論の中で自ずと明らかになると思います。いま書くと絶望的に長くなる気がするので控えます。)


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(4)初期仏教との乖離
釈尊の教説としての正統性を主張するために、教説間の整合性を取る際の根拠が必要です。私は、仏教学者が主張するところの初期仏教をその根拠とするべきと考えます。初期仏教の内容とは、…(中略)…苦集滅道…(中略)…初期仏教あるいは釈尊在世時の教説だったと考えられていますし、私はそれを支持します。これらと矛盾あるいは乖離する教説を教義の中心に据える場合、それを釈尊の教説として正統であると主張することは困難であると考えます。
法華涅槃寺の教説は初期仏教と矛盾または大きく乖離するため、「法華涅槃時の教説を最上と位置づける五時教判には説得力がないのではないか?」と考えます。

● 初期仏教に説かれていることが釈尊の教説の全てであったと断定できる根拠はどこにありますか?
もしあればそれを教えてくださればありがたいです。
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「初期仏教に説かれていることが釈尊の教説の全てであった」と断定しているのではないですよ。
「釈尊の教説としての正統性を主張するために、教説間の整合性を取る際の根拠が必要ですよね。その有力な基準として仏教学者が主張するところの初期仏教をその根拠とするべきと考えます。」と言いました。

もうすこし詳しく書くと、
「頭から法華最勝という立場を全ての前提にするならば、どうとでも牽強付会できてしまう。それは議論として不毛だし、誠実さに欠ける。それを防ぐために、『そもそも釈尊が説いた中心的な内容は何なのか?』をちゃんと定義すべき。(さもなければ、仏教史を少し知ってる程度の人間に対する説得力に欠けるから)」と言っています。

数的な示し方をするのは証拠集めに何年(あるいは何十年、何百年)もかかりそうなので、喩えも用いて言います。
私の立場は以下のような感じです(数字は何となくの数字です)。

ーーーーーーーーーーーーー
「釈尊の教説」は、上記の通りにオリジナルをスッタニパータ(あるいは阿含部)に求めるべきだろう。
確かにスッタニパータと法華経(大乗仏典)とでは、記述内容にかなり大きな隔たりがある。
※どう隔たっているのかについては両者を読めば分かる話ですが、違いすぎて共通点を抽出する方が難しいくらいなので引用はご勘弁頂けるでしょうか。※

例えば「バファリンの半分は優しさでできています(残りの半分はきっと有効成分なのだ)」と言っているが、
・「阿含経(スッタニパータ)の20%は後代の付加でできています(残りの80%くらいは釈尊の教説と矛盾しない)」
・「法華経(大乗仏典)の90%は後代の付加でできています(残りの10%くらいは釈尊の教説と矛盾しない)」
と言えるだろう。
ーーーーーーーーーーーーー

という感覚を持っているだけであって、「いわゆる小乗だけが正しい」「大乗だけが正しい」「法華経だけが正しい」という主張ではないです。
また、「いわゆる小乗は間違っている」「大乗は間違っている」「法華経は間違っている」という主張でもありません。
さらに言えば、「小乗=阿含」「大乗=阿含以外」のようなバシッとした分け方ができるとも思っていません。
そのような主張は議論として誠実さに欠けると思っています。


以上です。
宜しくお願い致します。

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● 2018/08/09 23:03

返信します。
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▼ 私自身は大乗非仏説を主張しませんし、仏教学における経典成立史が推論の域を出ない点も概ね了承しています。

● 大乗教が非仏でないとすれば、無量義経の「四十余年 未顕真実」との経文はどう解釈されていますか?
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▼まず、
「大乗非仏説」=「大乗経典は釈尊の教えではないから信じるべきでない。」…(1)
との主張がその主旨であると理解しています。
私はそうは思わないので、「私自身は大乗非仏説を主張しません」と言いました。

もし、
「大乗非仏説」=「大乗経典は釈尊の教えではないものが比較的多く含まれるから注意を要する。」…(2)
ということであれば、私は賛成するので大乗非仏説を主張します。

ただし、その場合は『大乗には非仏説が多い』説」くらいの用語であるべきで、「大乗非仏説」という単語が極端過ぎるということになります。
これは最初に大乗非仏説という単語を作った人が悪い気がします。

いずれにせよ、(2)のような定義で大乗非仏説という用語をお使いだったならば、私の配慮が不足していました。すみません。
大乗非仏説という単語は(1)のような大乗経典への強い否定の印象をもたせると思ったため、「私は主張しない」と言いました。
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● これは、大乗「経典」非仏説
 
  と    大乗「教説」非仏説

が混同されているのが実情で、そのために起こる齟齬だと思います。

ですから私は、 『大乗「教説」その根本部分は仏説』  という立場を取ります。
その点では概ね同じ立ち位置ではないかと思いますがいかがでしょうか?

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▼つぎに、無量義経の「四十余年 
未顕真実」との経文の解釈についてです。

主語があると仮定すると、「(主語は)40年余りの間、真実を顕したことはなかった」と解釈します。
漢文を素直に読むとそうなると思いますが、中国語に詳しい訳ではないので、誤っていたら教えてください。
もしかしたら、「真実」が副詞的な意味かもしれないので、その可能性は否定しません。


この「四十余年 未顕真実」ですが、単純に天台智様の引用誤りではないですか?

ーーーーーー引用始(WEB大正新脩大蔵経より)ーーーーーーーー
・無量義經 (No. 0276) 0385b23 - 0387a15:
「説法種種説法以方便力四十餘年未曾顯實是故衆生得道差別不得疾成無上菩提善男子法譬如水能洗垢穢若井若池若江若河溪渠」

・妙法蓮華經玄義 (No. 1716) 0732b21 - 0739c09:
「皆合故不論廢成道已來四十餘年未顯眞實法華始顯眞實相傳云佛年七十二歳説」

・妙法蓮華經玄義 (No. 1716) 0807b28 - 0811b27:
「華始得合實故無量義云四十餘年未顯眞實若於法華未合於涅槃得合法性論明中」
ーーーーーー引用終ーーーーーーーー

今の漢字に直すと、
・無量義経「未会顕実」
・智様「未顕真実」
です。

智様が参照した無量義経自体が誤植していたか、あるいは智様が誤って引用したか。

いずれにせよ、これは誤引用の類であり、日蓮様はその誤引用を忠実に採用されています。
このような誤引用を仏説理解の根拠として採用することはできません。


引用者は「大師」や「本仏」と崇められ、あるいは信仰さえされる方々です。
彼らの主張に従えば地獄に落ちるか成仏できるかの重大な話になります。
私のような場末の凡夫が誤引用や誤字をするのとは訳が違います。
ちなみに、私は誰が何を信じていても、それが原因の堕地獄(現世的な意味の不幸)を主張しません。


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▼すみません、先ほど17:02送信のメールですが、誤記を訂正致します。

「會」と「曾」を読み間違えました。

今の漢字に直すと、
・無量義経「未曾顕実」←「未会顕実」となっていたのを訂正させてください。
・智様「未顕真実」
です。

漢字が苦手で、注意はしますが誤記は今後もあると思います。
注意はします。

宜しくお願いします。

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● ということは、当該箇所は 「四十餘年未曾顯實」  → 四十余年 未だ曾(かつ)て実を顕さず  でよろしいですかね。
これは、「四十餘年未顯眞實」 → 四十余年 未だ眞実を顕さず  とほぼ同義と考えて良かろうと思いますがいかがでしょうか?

更に、私が調べた大蔵経では、全て 「四十餘年未顯眞實」 でした。

そこで当該箇所を調べました。
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http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php

無量義經 (No. 0276   曇摩伽陀耶譯 ) in Vol. 09

SAT大蔵経DB
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これでよろしかったでしょうか?

その当該箇所は確かに 「四十餘年未曾顯實」 となっておりましたが そこに脚注(footnote)が御座いました。
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footnote(脚注)  曾顯=顯眞<三><宮>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり、<三>本<宮>本 では  「曾顯」 は 「顯眞」 になっておる。  ということですね。

私は不勉強でこの<三><宮> の意味が掴めませんでしたが、
大蔵経は添付のように多くの異本があり、それによると、「四十餘年未曾顯實」とするところもあり、「四十餘年未顯眞實」と両説あり、ということかと思います。



(ちなみに貴方は大変に勉強家かとお見受けしますので、是非 この <三><宮> の意味を教えていただければありがたいです。)

ですから、「天台大師の誤植では絶対にない。」ということですね。
その点、ご了承いただけますでしょうか?

となれば、それ以下の
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▼智様が参照した無量義経自体が誤植していたか、あるいは智様が誤って引用したか。
いずれにせよ、これは誤引用の類であり、日蓮様はその誤引用を忠実に採用されています。
このような誤引用を仏説理解の根拠として採用することはできません。


引用者は「大師」や「本仏」と崇められ、あるいは信仰さえされる方々です。
彼らの主張に従えば地獄に落ちるか成仏できるかの重大な話になります。
私のような場末の凡夫が誤引用や誤字をするのとは訳が違います。
ちなみに、私は誰が何を信じていても、それが原因の堕地獄(現世的な意味の不幸)を主張しません。

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この箇所の訂正、撤回をお認めいただけますか?

その点のご回答よろしくお願いします。