顕正会本部職員 浅野恭浩君 最早完全なサンドバッグ状態 
こと信仰者の大事である「本尊」の問題に関して全く返答できず反論もできず、ひたすら見当違い明後日の方向向いて必死にコメントして強がっている。
こんな愚人の悩乱したコメントなど相手にする時間が勿体無い。

顕正会ニセ本尊論 次行きましょう。

ちなみに第一弾の砲撃
@  浅井昭衛が日蓮正宗元僧侶松本氏から手に入れた日寛上人本尊は上限六百体 現時の自宅拠点の数には明らかに足りない 不足分の本尊は誰が作ったのか?

★ 顕正会本部職員 教学部委員 浅野恭浩君を完全論破 浅野君完全反論不能の全記録
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では第二弾

▼ 昭和60年2月23日 本部会議における浅井会長指導
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「顕正会で護持している御本尊は、すべて日蓮正宗妙縁寺住職・松本日仁尊能師より授与され、私が護持申し上げてきたものである。(中略)妙信講に解散処分が下された時、私は松本尊能師に将来の広布推進のため、御本尊を大量に御下げ渡し下さるよう願い出た。松本尊能師には私の意をよくお聞き下され、自ら護持されていた
大幅の常住御本尊七幅と、日寛上人書写の御形木御本尊数百幅を私に託して下さった。
この七幅の常住御本尊とは、
・二十八代日詳上人
・五十四代日胤上人
・五十五代日布上人
・五十六代日応上人
・六十代日開上人
・六十四代日昇上人

等の歴代上人御書写の御本尊であり、
このうちの日布上人書写の御本尊が高知会館に御安置されたのである。

また御形木御本尊については、宗門の全末寺において昭和四十年までは日寛上人の御本尊が下附されていたが、四十一年からは日達上人の御形木御本尊に替わった。
松本尊能師は四十年以降この日寛上人の御形木御本尊を妙縁寺に秘蔵しておられたが、私の願い出により、これをすべて託して下さったのである。
いま、顕正会において、地方における入信勤行の際に幹部が奉持する御本尊も、また地方拠点に御安置される御本尊も、みなこの日寛上人の御本尊様である。
(顕正新聞 昭和60年3月15日号)


ここで今回の追及点は最後の箇所

▼「いま、顕正会において、地方における入信勤行の際に幹部が奉持する御本尊も、また地方拠点に御安置される御本尊も、みなこの日寛上人の御本尊様である。

この浅井昭衛の発言について顕正会元総支隊長(顕正会脱会後法華講員)から貴重な証言を得た。

●「顕正会版日寛上人の御本尊」は、60を超える地方会館の各集会室に一幅と、「おたもち御本尊」と言って、県外に出向く時に持って行く本尊があり、高知会館には三体ありました。
これだけでも200〜300はありそうです。」引用以上。

まさに浅井昭衛の発言を裏付ける事実である。
とすると、顕正会が所有している日寛上人本尊は最大で600体(この論証は
@  浅井昭衛が日蓮正宗元僧侶松本氏から手に入れた日寛上人本尊は上限六百体 現時の自宅拠点の数には明らかに足りない 不足分の本尊は誰が作ったのか?

その内、約300体は会館に安置された分と「おたもち御本尊」として使用されていることになる。
残り約300体となる。
それが全国の自宅拠点に割り振られていることになる。
東京都、大阪府は人口が多いので仮にそれぞれ自宅拠点が50軒とし、全国の都道府県の自宅拠点の平均値を出すと、

300−100=200
200÷45≒4.4

一県に5軒にも満たない計算になる。
脱会した元顕正会員からの証言を総合してもそんなはずはない。
一県に5軒よりは遥かに多い。
となるとその不足分の日寛上人本尊は一体どこから湧いてきたのか?
誰かが大量に印刷したとしか考えられない。
その誰かとは誰か?
浅井昭衛自身以外にないであろう。
在家の分際で本尊を勝手に印刷していいのか?

さ、顕正会本部職員 浅野君 この問題に教学的に明確に答えたまえ。

@ 本尊は在家が勝手に印刷複製していいのかどうか?
A 良いというならばその教学的な根拠

浅井昭衛から給料貰っている立場なのだから、下らんコメントをチマチマ書いている暇があったら少しは仕事して浅井を擁護したまえ。この役立たずが。

反論期限は1月31日正午とする。「給料泥棒」と日本中から馬鹿にされないようにせいぜい気張ってや。

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前回からここまでの経緯