顕正会本部職員・男子部総部長という大幹部 浅野恭浩君 これが大いに痛かったようである。

顕正会本部職員にして大幹部のAとK 精神疾患の法華講員を利用し都合よく誘導して自分等に有利な発言を引き出し
法華講員・樋田とのメールの応酬の中で樋田中傷の道具とした。この極悪非道ぶりを暴く。
https://youtu.be/zXbZCBHY0cw

全く思考停止の繰り返しコメントを執拗に送ってくるだけの完全に万策尽きたぶざまな末期。
そんな無能な内容につきあうのは無意味なのでいよいよ顕正会ニセ本尊論に入る。

因みにここまで浅野君が反論不能の全記録

★ 顕正会本部職員 教学部委員 浅野恭浩君を完全論破 浅野君完全反論不能の全記録
http://toyoda.tv/asano.matome.htm


では本題

▼ 昭和60年2月23日 本部会議における浅井会長指導
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「顕正会で護持している御本尊は、すべて日蓮正宗妙縁寺住職・松本日仁尊能師より授与され、私が護持申し上げてきたものである。(中略)妙信講に解散処分が下された時、私は松本尊能師に将来の広布推進のため、御本尊を大量に御下げ渡し下さるよう願い出た。松本尊能師には私の意をよくお聞き下され、自ら護持されていた
大幅の常住御本尊七幅と、日寛上人書写の御形木御本尊数百幅を私に託して下さった。
この七幅の常住御本尊とは、
・二十八代日詳上人
・五十四代日胤上人
・五十五代日布上人
・五十六代日応上人
・六十代日開上人
・六十四代日昇上人

等の歴代上人御書写の御本尊であり、
このうちの日布上人書写の御本尊が高知会館に御安置されたのである。

また御形木御本尊については、宗門の全末寺において昭和四十年までは日寛上人の御本尊が下附されていたが、四十一年からは日達上人の御形木御本尊に替わった。
松本尊能師は四十年以降この日寛上人の御形木御本尊を妙縁寺に秘蔵しておられたが、私の願い出により、これをすべて託して下さったのである。
いま、顕正会において、地方における入信勤行の際に幹部が奉持する御本尊も、また地方拠点に御安置される御本尊も、みなこの日寛上人の御本尊様である。
(顕正新聞 昭和60年3月15日号)

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↑ この発言によれば顕正会が所持している「日寛上人書写の御形木御本尊」は「数百幅」ということである。

辞書によると
『「数百」 とは百個単位で、おおよそ二百から三百、または五百から六百程度の数量。』 とある。

さて現時において顕正会の自宅拠点は何軒あるのか?
上記、「数百」の定義の最大限をとっても顕正会は六百体の日寛上人の本尊を所有しているに過ぎない。
これを単純に都道府県47で分割すると、一県 13軒弱となる。
もちろん都道府県に人口差があるがゆえに、都市部はもっと多く、地方の県はもっと少なくなる。
仮に東京都 大阪府は大人口なので、それぞれ50軒と仮定し(これでも少ないに決まっているが)再度計算すると、
600−100=500
500÷45≒11.1
一県に約11軒となる。
市に自宅拠点が一軒すらないという市が多数存在することになる。
そもそも会員が最低でも200万〜300万人などと公称している顕正会が、東京・大阪の都心部で自宅拠点が40軒などという少数であるはずがなく、
しかもその仮定の上での算出でも、一市に一軒もないという市が多数存在するという計算になるのである。。。。
そんなはずがある訳がない!
つまり、全国の自宅拠点は総数で600軒以上確実に存在しているはずである。
(もし「違う」と言うのならば本部職員の責任として自宅拠点の数とそれを証明できる根拠を公表したまえ。)
とすると顕正会が所持している日寛上人の形木本尊は上限として600体しかないのだから、それ以上の分の自宅拠点の本尊は、一体どこから湧いて出てきたのか?
誰かが印刷複製したとしか考えられないではないか?
因みに浅井昭衛の父親、浅井甚兵衛の元の生業は”印刷屋”であった。
これが何を意味するか?・・・・

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前回からここまでの経緯