暫くこちらで、ご厄介になります。
降魔の剣 の樋田昌志です。
宜しくお願い致します。
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> 降魔の剣 に以下の投稿がありました。
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> 投稿日時:2006/03/21(Tue) 12:31
> ホスト名:59.141.100.209
> ブラウザ:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1)
>
> おなまえ:エロ如68号
> Eメール:
> タイトル:ドツボで溺れるポンポコリンよ
> URL :
>
▼> 本来、君が先に答えやなあかんのやで!クダラン質問ばかりして誤魔化そうとし、ましてや前からこちらが先に質問した事に対してまともに回答できない上、駄文撒き散らかして煙にまこうとする珍カス?くんにサービスしてあげよう(笑)
> 以下、述べることに対しての見解は後で聞いてあげるから先に何度も質問している法道院の事について明確にキッチリ答えやなあきまへんで あんさん「法道院は間違っていた」と明言した黄倉くんの助っ人でっしゃろ〜
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●何度もくどくどしく喚いても当方の姿勢は何も変わらない。
以下の通りである。
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#1
更に、もっと丁寧に説明したにも拘わらず、痴犬が理解できないだけである。
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●↑の破折文そのままであり、これ以上何を論じる必要もない事項である。
何故かなら、この30年ほども昔の顛末がどうであれ、現に、今宗門では宗内一丸となって僧俗和合して前進しているからである。
それは取りも直さず、日蓮正宗の全ての僧俗が成仏の大果報を受けることができる信心の道を共々に歩んでいると言うことであり、大いに喜ばしいことであり、別段問題は何もないのである。

ところが、寧ろ痴犬にとって大問題なのは、痴犬らが所属している創価学会とやらの日蓮正宗の本尊・教義を真似て運営されている、似非新興宗教の立てる”本尊もどき”と”教義もどき”が果たして、大聖人の本尊義や教義として正しいかどうかである。
もし、創価学会の立てる”本尊もどき・教義もどき”が大聖人の仏法と違背するようなものであるならば、堕獄必定であり、痴犬はまず先にこの件を最優先事項としてその検証に懸命にならねば、痴犬自らの今生・後生が恐ろしいこととなるのである。
こいう『道理』は随所に示されている。

▼むかし、ある家の門前に飢えた修行者が乞食してきた。
家のあるじは食物を施す前に、修行者にいろいろな質問をした。
あなたはどこから来たのか、何を求めているのか、名前はなんというのか、今まで修学した内容は何か、などと際限なく質問をくり返しているうちに修行者は倒れ、死んでしまったという。

▼また、ある比丘は宝珠を施す大会に行く途中で、大きな橋にさしかかったとき、近くにいた智者に対して、この橋は誰が作ったのか、この河はどこから来て、どこへ流れていくのか、橋の材木はどこの林で育ったか、誰が伐り、どこの象が運んだのか、などと次々に疑問を質し、無為な時間を費やしたために宝珠を得ることができをかったという。

▼天台大師は『摩訶止観』では
 「方等に云く、種々に橋を問う、智者の呵する所なりと。」
 「彼の橋を問ふが如く、何の利益かあらん」
と呵責している。

日寛上人「苟くも糟糠に執し橋を問う、何の益かある。」

である。

つづく。