京都・奈良辺りの痴犬どもへの破折 7 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日:2006/03/20(Mon) 21:52 No.3536 [返信]

> 投稿日時:2006/03/20(Mon) 20:18
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ここまで駄犬とは、ある種驚きである。
教義的には最早完全に反論不能であるから、一点だけにでもしがみ付いて、際限なく繰り返し吠え付く様は、滑稽を通り越して、哀れさが漂う。
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▼> おいおい何誤魔化してんねん 早よ答えんかい
> しょうもない事いってんと法門理解における誤解は誰がしたんでっか?答えてや!いつ、何をもって決着したの?おせーてーや!それとももうお山に逃げ帰ったか?
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●以下の破折文そのままであり、これ以上何を論じる必要もない事項である。
何故かなら、この30年ほども昔の顛末がどうであれ、現に、今宗門では何の問題もなく僧俗和合して前進しているからである。
それは取りも直さず、日蓮正宗の全ての僧俗が成仏の大果報を受けることができる信心の道を共々に歩んでいると言うことであり、大いに喜ばしいことであり、別段問題は何もないのである。

ところが、寧ろ痴犬にとっても大問題なのは、痴犬らが所属している創価学会とやらの日蓮正宗の本尊・教義を真似て運営されている、似非新興宗教の立てる”本尊もどき”と”教義もどき”が果たして、大聖人の本尊義や教義として正しいかどうかである。
もし、創価学会の立てる”本尊もどき・教義もどき”が大聖人の仏法と違背するようなものであるならば、堕獄必定であり、痴犬はまず先にこの件を最優先事項として自己正当化に懸命にならねば、痴犬自らの今生・後生が恐ろしいこととなるのである。
こいう『道理』は随所に示されている。

▼むかし、ある家の門前に飢えた修行者が乞食してきた。
家のあるじは食物を施す前に、修行者にいろいろな質問をした。
あなたはどこから来たのか、何を求めているのか、名前はなんというのか、今まで修学した内容は何か、などと際限なく質問をくり返しているうちに修行者は倒れ、死んでしまったという。

▼また、ある比丘は宝珠を施す大会に行く途中で、大きな橋にさしかかったとき、近くにいた智者に対して、この橋は誰が作ったのか、この河はどこから来て、どこへ流れていくのか、橋の材木はどこの林で育ったか、誰が伐り、どこの象が運んだのか、などと次々に疑問を質し、無為な時間を費やしたために宝珠を得ることができをかったという。

▼天台大師は『摩訶止観』では
 「方等に云く、種々に橋を問う、智者の呵する所なりと。」
 「彼の橋を問ふが如く、何の利益かあらん」
と呵責している。

日寛上人「苟くも糟糠に執し橋を問う、何の益かある。」

である。

破折文。http://toyoda.tv/neirakuji.htm#1

さて、予選と言うのならば、まさに、当方が示した詰問こそ、予選通過レベルを判定するのは相応しい内容である。
痴犬らの今までの反応パターンを閲すると、あまり、知能は高くなく、反論不能な論議には、ほっかむりを決め込み、愚論を執拗に喚き続ける、これだけの程度である。
このようなレベルでは、当然対面対論でも、同等の反応しか出来ようがなく、不毛である。
当方は、いくら痴犬が不毛の愚論しか吐けなくても、相応に呵責するが、痴犬から「予選」というコンセプトが提案されたのなら、これはいいアイディアである。
せめて下記の検定に合格してからでないと、確かに予選通過レベルとは言えないかもしれない。

せいぜい、種々に橋を問うて、智者に呵責されないように、頑張りたまえ。

1、また、▼「歴代法主は「嫡々付法」であればという条件付きであり」というが、
「嫡々付法」であるか、否かは
@、誰が、
A、何を基準にして
判断するのか。
文証を用い、教義的に証明せよ。
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2、『四恩抄』
■「仏宝法宝は必ず僧によりて住す』
この御文の
@「僧」とは誰か。
Aその「僧」はどのようにして「仏宝法宝」を「住」せしめるのか。
明確に答えよ。
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■『故に大集経に云く五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云って・是を悩すは此の人仏法の大燈明を滅せんと思えと説かれたり、』
@この「無智無戒なる沙門を失ありと云って・是を悩す」とは、まさに痴犬のいう、「条件きで尊信する・しない」などと寝惚けたことを言うものではないのか。
Aそういう馬鹿者は「此の人仏法の大燈明を滅せんと思え」ではないのか。
違うと言うのなら、教義的に痴犬の立場を正当化してみよ。
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3、■凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。
@「僧」を謗る痴犬は謗法ではないのか。
A「僧」であるか、ないかを、在家の立場で、何を基準にして判定するのか文証を引き、教学的に立証せよ。
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4、『法華初心成仏抄』
■「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」(新編一三一四n)
@「檀那」=在家、以外に「よき師」があられて初めて祈りが成就する、との御心と拝するが、在家以外の「よき師」とは現時では誰か?
Aその在家以外の「よき師」がいない、創価学会は祈りが叶わない、ということだが、痴犬の最近の功徳らしい現証を挙げてみよ。
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5、■頭を剃り架裟を著せば持戒及び毀戒をも、天人彼を供養すべし。則ち為れ我を供養するなり。是我が子なり。若し彼を過打すること有れば則ち為れ我が子を打つなり。若し彼を罵辱せば則ち為れ我を毀辱するなり。
@この御言葉の御心からすれば痴犬らは、大聖人を謗り、辱めていることになるが、どうか。
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6、「返す返すも本従(ほんじゅう)たがへずして成仏せしめ給ふべし。」1040
@本従の「本」とは何か。
A「従」とは何か。
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7、「在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。」1051
@創価学会の「財務」などは全く、僧を供養することにならないから、肝心の修行でもなく、つまりは堕獄の業因だが、どうか。教義的に反論せよ。
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8、■「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよは(弱)く、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬へば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩(あゆ)みをはこびて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠(なが)め候べき。」1457
@まさに痴犬ら創価学会の姿ではないか。教義的に反論せよ。
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9、■「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし。」1457
@「此の経の心をしれる僧」とは誰か。
Aそもそも「此の経の心」とは何か。
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10、■「末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるが(忽)せにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。」1461
@痴犬ら創価学会は悪道に堕ちるのではないか。
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11、■「後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賤(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。」1461
@「法華経」とは今時では何か。
A「法華経を説かん僧」とは誰か。
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12、■「止観に云はく「師に値(あ)はざれば、邪慧(じゃえ)日に増し生死月に甚だしく、稠林(ちゅうりん)に曲木を曳(ひ)くが如く、出づる期有ること無し」云云。凡そ世間の沙汰(さた)、尚(なお)以て他人に談合す。況んや出世の深理、寧(むし)ろ輙(たやす)く自己を本分とせんや。」29
@在家で無い「師」に値わなければ、邪智が酷くなり、絶対に成仏しない。とあるが、痴犬ら創価学会がまさにこれだが、教義的に反論せよ。

13、■「然れば僧の恩を報じ難し、されば三宝の恩を報じ給うべし(乃至)末代の凡夫・三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」
@現時の「僧」を供養しなければ、絶対に成仏しない。痴犬ら創価学会は成仏でいない。教義的に反論せよ。
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類文繁多であるが、とりあえず以上の詰問に、文証を引き、教義的に矛盾破綻なく、明確に反駁してみよ。
できなければ痴犬は信仰上の、全くの落第。落ちこぼれである。

であり、予選失格である。
だが、仮に痴犬が失格でも、当方は対面対論はもちろん受ける心算だが、痴犬には無理か?
それともまだ、ごねて遁走するか?