京都・奈良辺りの痴犬どもへの破折 3 投稿者:管理人(樋田昌志) 投稿日:2006/03/19(Sun) 22:56 No.3399 [返信]

> 投稿日時:2006/03/07(Tue) 02:51
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> おなまえ:愛しの留美子
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> タイトル:助っ人の助っ人?あほ〜ん
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●とことん、浅見・我見・僻眼の者である。
―――――――――――
▼> 末法下種の僧宝の一分でしかない者を無条件に久遠元初の僧宝に抱き合わせし三宝破壊しているオジサンが地獄行きなんだよ〜ん

> マサシ君云く
> ○創価学会では猊座について、「あそこに座られる歴代の法主は三宝へ取り次ぐ単なる役であって、三宝以外、三宝以下だ」と見下している。これは、御法主上人猊下を僧宝と認めてしまうことは何かと都合が悪いために、敢(あ)えてこのような狂った説を出してくるのである。

> ●日達上人猊下御説法(蓮華第74号 S52.6月)我が宗の三宝は御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。
> それに対して日目上人は座主である。今云った通り、官領して、その大聖人の仏法を治めていく、よく受け取って治めていく、即ち官領という意味を行くのである。統べ治める、そして統治をしていく。その日目上人の後は、皆筒の流れのように、それを受け継いで行くにすぎない。・・・三宝はどこまでも、大聖人・日興上人・御本尊、これが本宗の三宝の立て方です。

▼> (゜o゜)ほーけい講員、マサシくんは日達上人の説法を狂った説とおしゃってますね エライことゆーたはりますなぁ〜 
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●こういう馬鹿者には、最早日本語が理解できないようだ。
ニセ本尊の害毒が、その脳髄深く食い入り、食い破り、壊れたテープレコーダー状態となり、自分の浅識による妄見をただ、無闇に繰り返すだけの、無能者と成り果てている。
既に完摧済みである。

http://toyoda.tv/neirakuji.htm#15

この痴犬らは、例えば茶筒を目の前に示しても二次元的に真横や真上からしか見ることができず「これは長方形のものだ」とか「これは円形の物体だ」と固執しているだけの愚か者である。三次元的に見る目も、思考も失せてしまった哀れな犬である。
つまり、茶筒は「円筒形」なのである。

痴犬には僧宝に

@一体三宝(内証)
 末法出現の仏・法・僧は、内証においてはともに久遠元初の三宝であり、大御本尊と一体のものと拝する三宝。

A別体三宝(外用)
 末法における仏宝は宗祖日蓮大聖人、法宝は本門戒壇の大御本尊、僧宝は唯授一人血脈付法の日興上人と、形式の上から立て分けて拝する三宝。

B住持三宝(化導)
文底下種の三宝を令法久住せしめ、末法万年の衆生を済度する意義から拝する三宝。歴代上人はすべて僧宝として尊信される。

とあることが読めないだけである。

「円筒形」を真横からみて「長方形」としか認識できない脳の未分化の者≒幼稚である。

▲「我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。それに対して日目上人は座主である。今云った通り、管領して、その大聖人の仏法を治めて行く、よく受取って治めて行く、即ち管領という意味を持って行くのである。統べ治める、そして統治をして行く。その日目上人の後は、皆筒の流れのように、それを受継いで行くにすぎない。だから本宗の考えは、広宣流布の時は日目上人の再現、出現だという意味をとっております。即ち日目上人が広宣流布の時の座主として再誕なされるとの指南であります。だから代々の法主が日蓮大聖人ではない。大聖人そのものと間違って書かれてよく問題が起きますが、その点ははっきりしてもらいたい。」(昭和五十二年五月二十六日)

▲「三宝はどこまでも、大聖人・日興上人・御本尊、これが本宗の三宝の立て方です。「法主が大聖人様の代わりだ」と、即座にこう云う事を云うと、外から非難されますから、よくその点に注意していただきたいと思います。」(昭和五十二年五月二十六日)

との日達上人の仰せは、Aの化導の法体のとしての三宝=別体三宝、について仰せになったのである。
しかしそれは僧宝義の全体ではない。(あえて例えれば円筒形を真横から見て長方形と見える部分である。痴犬はここしか見えない。愚かだからである。)

その同じ日達上人はこうも仰せである。

昭和三十八年五月、
▲「二祖日興上人より歴代を僧宝と立てておるのでありまして、古来より少しも変っておりません。」

これはBの化導における住持三宝義について仰せになったところである。(ここは円筒形を上から見て円形と見る見方である。)
痴犬はこの三義を弁えていないから、混乱して喚いていてるだけである。

日寛上人 文底秘沈抄 
■諸の法相は所対に随って同じからず、敢えて偏執すること勿れ、敢えて偏執すること勿れ。

痴犬へ日寛上人がお叱りである。

痴犬にはこの日達上人の一見矛盾すると思える御指南を上記の三宝の三義を用いず、しかも教義的整合性を以って説明することができるか?
もし、できるというのなら、即、書き込んでみよ。
大いに楽しみである。
所詮、円筒形を長方形・円形としか見れない、未熟者は、どんなに諭しても、その諭されている内容すら理解できずに、ただ自見に閉じこもり、喚くしか能が無いのである。
喚けば喚くほど、惨めさが浮き彫りになるだけである。
しかし、それもまた創価学会青年部員の無能さが鮮明になる行為であるから、大いに喜ばしい。
今後も、壊れたレコーダーでどんどんエンドレステープを回したまえ。
―――――――――――

▼> 日蓮正宗の三宝の立て方は無条件で南無する尊信の対象となる久遠元初の三宝やゆーたはりますで〜ヌケガラ顕ちゃん67号のような三宝破壊のエロハゲは条件付の住持三宝にも入りゃせんわな あんた一体、何宗?

● 
1、▼「無条件で南無する尊信の対象となる」という表現の根拠となる文証を挙げよ。
挙げられなければ、これも痴犬の勝手な定義付けであり、全くの妄説であるから、不可である。

2、僧宝に「無条件で尊信する」対象と、「条件付で尊信する」対象との縦分けがあるとする、その具体的な「条件」とは何か。
文証を挙げ、その「条件」を説明せよ。

痴犬には無理か?
―――――――――――
> マサシ君云く
> 「凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(新編六〇八頁)
> 仏宝・法宝と一体であられる僧宝(住持三宝)を謗っている創価学会は大謗法である。

▼> (゜o゜)三宝一体の僧宝が住持三宝でっかー笑かさんといてーな  
> (日蓮正宗要義)
> 広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝であるといえる。

●痴犬は
▼「日興上人のみを僧宝として直接尊信しているのだから信仰上では全く問題なく、自分達こそ僧宝の一分である。」とでも思い上がっているようであるが、それは

化儀抄二十七条(要集一巻六四)
● 信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず(中略)出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心・妙法蓮華経の色心なり。

●『有師化儀抄註解』日亨上人
信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通う有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云うが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにはあらず・攪乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし、爰に強いて絶えずと云はば其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・猶仏法断絶なり、信心の動かざる所には・幾世を経ても正しき血脈系統を有し仏法の血液活溌に運行す、其は世間にて云えば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を乱さぬが・其家の血統正しきが如く・仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違えぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違う時は・法水の通路徒らに壅塞せられて・我等元の儘の粗凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり。(富要一―一七六n)

等の御指南の御心に真っ向から反しており、
日興上人⇒御歴代御法主上人⇒御当代御法主上人⇒所属寺院の御住職 との血脈の流れを無視・誹謗・背反・・・する痴犬ら創価学会員など、全く「僧宝」の一員ではない。のみならず、堕獄必定の大謗法の集団に過ぎない。

またこの要義の意味するところも上記の御指南と同義である。
つまり、
●法体の三宝の内の僧宝として日興上人を尊信し、更には一体三宝の法体を伝持される歴代御法主上人を尊信し、更にまた手続ぎの師匠であるところの所属寺院の指導教師であられる御住職を尊信するところに成仏の血脈が流れ通うのである。そしてそのような純真な信行に励む在家信徒もまた、その他の衆生を妙法へ引率するべき立場として、他の新入信者やまたは未入信者にとっては、尊信の対象となるのである。
僧宝義とはこのように開くのである。⇒との謂である。

やはり、痴犬らの妄執は以下の御文でバッサリ斬られている。

■「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。」
■「総別の二義少しも相そむけば成仏思いもよらず輪廻生死のもといたらん」

である。

痴犬らは、信行学においてあまりにも邪信・邪行・邪学であり、全く不可。である。

―――――――――――

▼> はよー「予が如き無知無戒も僧宝の一分なり。」について説明しなはれ〜

●完摧済み。

http://toyoda.tv/neirakuji.htm#23
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#25

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▼> それから「法道院は間違っていた」と糾弾する黄倉くんを応援されていますが京都乃鬼新聞のご感想をお聞かせくださいな

●これも完摧済み。

1、まず冒頭から学会側は、この法論が、日蓮正宗の教義と創価学会の教義との法義論争の場であることを理解できないらしく、大きく逸脱し、何を血迷ったか、いきなり「法道院の三宝とは何か?」などとおよそ見当違いな愚問を発する。
しかも、ただ自分たちが言いたいことだけを、御僧侶や法華講員の発言を強引に制止してごり押しし捻じ込んでいるだけの、まことに自分勝手な、礼儀、道義を弁えない、非礼・醜悪・低俗な態度である。

そもそも、今から30年ほども昔の、しかも宗門の公式文書でもない、一講中の機関紙のごく一部分の記述をあげつらって、殊更に大きな瑕瑾の如くに誇大に強調し、”揚げ足取り”に終始している様は、まさに三匹の痴犬が吼えるが如きの痴態であった。
この映像を見た者は、通常の良識があれば誰人でも、彼らの無恥・無慙な狂態に、間違いなく辟易するであろう。

内容的にも、学会側が殊更にあげつらっていることなど、信心修行の途上で誰人にも起こりうる法門理解における誤解であって、結局は第六十六世日達上人の御采配によって全て円満に決着している問題である。
それを、”日蓮大聖人を標榜して、その実、大聖人の御本懐、三大秘法随一の本門戒壇の大御本尊から遠く離れた、平成の新興似非仏教団体創価学会”の会員がどのように穿ってみても、それはちょうど、伝統ある名門校を退学処分に処された学業不振・生活放埓で劣等性の問題児の、子供か孫たちが、その名門校の30年も前の、ある一学級内の少々の行き違いを、今になって、正門前で、声高に叫んで、シュプレヒコールをあげている様なものである。実に的外れな滑稽さである。