> <■『故に大集経に云く五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云って・是を悩すは此の人仏法の大燈明を滅せんと思えと説かれたり、』
> @この「無智無戒なる沙門を失ありと云って・是を悩す」とは、まさに痴犬のいう、「条件きで尊信する・しない」などと寝惚けたことを言うものではないのか。
> Aそういう馬鹿者は「此の人仏法の大燈明を滅せんと思え」ではないのか。
> 違うと言うのなら、教義的に痴犬の立場を正当化してみよ。
>
> (゜o゜)当家三衣抄は、下根を導くための方便で末法下種の僧宝について定めている
> 日興上人以外の歴代法主については「嫡々付法」であればという条件がついていると前に述べた通り、信仰の対象となる僧宝は当流行事抄に定める開山上人お一人ですな
> 日達法主も「我が宗の三宝は御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。それに対して日目上人は座主である。今云った通り、官領して、その大聖人の仏法を治めていく、よく受け取って治めていく、即ち官領という意味を行くのである。統べ治める、そして統治をしていく。その日目上人の後は、皆筒の流れのように、それを受け継いで行くにすぎない。・・・三宝はどこまでも、大聖人・日興上人・御本尊、これが本宗の三宝の立て方です。」と前にも述べた通り 日蓮正宗の宗規にも本宗は大曼荼羅を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝とし血脈附法の人 日興上人を僧宝とする。」と定めている事から何も寝ぼけてませんが〜先師の言葉を否定し三宝破壊を述べるあんさんの方がよっぽど寝ぼけたノーラン状態でっせー ハッハハハハー

●痴犬の壊れた脳髄にはもはや人間の言葉は通じないらしい。だから、痴犬 と読んだのだが。
何度も言っているが、痴犬は当方からの指摘した矛盾点に未だ答えられずに、痴論を繰り返すだけの、反論不能状態に何度も陥っている。
こういう状態を「馬鹿の一つ覚え」というのである。

ここに完摧済みである。
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#9
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#10
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#11
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#12
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http://toyoda.tv/neirakuji.htm#17
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#20
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#26

では、更に、ずばり一点、その同じ日達上人が、以下の如くの、三宝一体の法義から歴代上人のお立場を仰せであるが、痴犬の↑の言い分だと、この御指南に真っ向から背く「先師の言葉を否定し三宝破壊を述べるあんさんの方がよっぽど寝ぼけたノーラン状態でっせー ハッハハハハー」という状態だが、この矛盾を明確に反駁してみよ。
(一体、何回言ったら、答えが出るのか。まっ、円筒形を、長方形とか、円形にしか見れない、未熟者もしくは僻眼のものには無理であろうが。だから、闇雲に痴論を繰り返すだけしか能がないのだが。まっ、この際、最後のチャンスとして、衆人環視の場で、弁駁してみよ。以後、更にこの矛盾を説明できずに痴論を吐いてきたら、法華講・創価学会内の未だ良心の残っている会員双方から哂われるだけである。対面対論では完全に「負け」で、改宗、といった場面である。)

▲66日達上人昭和三十八年5月
「二祖日興上人より歴代を僧宝と立てておるのでありまして、古来より少しも変っておりません。」


●66『日達上人全集』
「猊座というものは、大聖人様の生れ変りを表わす意味なんです。大聖人様が常在、常にここにいらっしゃるということをあらわすところの猊座であります。(中略)だからいつでもその時の法主は大聖人様のお仕事をつかさどっておる」(二―六―九一n)

●66『日達上人全集』
「『日蓮正宗宗規』に、管長は法門の正邪を決定する≠ニいう意味のことが明らかに載っております。そのとおりであります。血脈を受けてその法門に従って、そして法門の正邪を決めるのは貫首ではないですか。だから、貫首が己義を構えると考える人はとんでもない考えの人です。それでは血脈相承を受けてない人ということになってしまいます。血脈相承によってご法門を解釈していくのでありますから、少しも己義を構えるということはないわけであります。大聖人の教えのとおりにやっていくのでありますから」(二―七―三四二n)

●66『日達上人全集』
「大聖人様が広宣流布の時の大導師日目上人様として、第三代を継いで現われたのが猊座であります。(中略)そこが大聖人様のお席である。だから大聖人様は、あの席に常に生れ替っている」(二―三―三二〇n)

●66「広宣流布の暁には、日目上人が再誕する」という、昔からの伝統の相伝があります。これはすなわちそれを意味するので、だからいつでもその時の法主は大聖人様のお仕事をつかさどっておる」(二―六―九二n)

●66『日達上人全集』
「信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるかということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人のご当体たる本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の法水は流れないのであります。大聖人は『一代聖教大意』に『此の経は相伝に有らざれば知り難し』と申されております。また日寛上人は『口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな』と申されております。師資相承とは師より弟子に相承することであります」(二―五―五九二n)

●66「大聖人よりの血脈相承がないということは、口先だけの法門であります。あるいは大聖人の仏法に異解を生じ、ついに謗法一闡提となるのであります。特に、「信心があれば謗法をしてもよいのだ」と考えることはもってのほかで、大聖人からの法体の血脈相承を無視した、信心の血脈の法水にも浴しない者であります」(二―五―五九四n)