▼> 君は嫡々付法でない単なるハゲに信伏随従してるんかい?気の毒な奴やのう〜

●痴犬は「御書によって、御法主が嫡々付法であるかないかを決める、」という馬鹿丸出しの痴論を吐いている。
大いに哂うべし、である。

まず、定石であるが
■「一、衆議たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事。」
痴犬の妄論など、御法主上人が一言で摧破するのである。

また、痴犬が己見を正当化するための根拠とした、「宗規」の、その第十五条の五には、御法主上人である管長の宗務として、
■「教義に関して正否を裁定する。」
とある。
痴犬が、痴犬の分際で、「御書の御文によって、御法主上人を云々する」など、百万年経っても有り得ないことである。

そして、痴犬のいう「御書」には

■背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

■上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。

とあり、痴犬の妄論など、完摧され尽くしているのである。

痴犬はこう書くと、「後加文だから云々」と言ってくるだろうが、全く不可である。

■65日淳上人
百六箇抄については香浦氏は「その成立を大聖人の時ではなく後世であるか」の如く評してをるが、(中略)しかし察していへば恐らく同抄の後尾に明らかに大聖人の御時でないことが書かれてをるからそれを理由に言ふのであらうと思ひます。若しそうであるならばそれは御相伝書の拝し方を知らないのによります。御相伝書は順次相ひ伝へるに従つて加筆があつてもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで僞作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗つて拝し直すことです。

▼3【池田指導】(百六箇抄講義)
本抄(百六箇抄)には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。

また、両巻抄については、ここで詳論してある。
http://toyoda.tv/neirakuji.htm#27

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