▼ 樋田 様
突然のメール失礼いたします。
私はK県在住、創価学会壮年部のTと申します。
メールをいたしましたのは、樋田様のYouTubeでの動画を拝見しまして、非常に感銘を受けました。ただ、創価学会がどうのとか、宗門がどうのとかはありませんし、スキャンダラスの内容は性に合いませんのですが、御書を通しての破折等については気になり突然ですみませんがお手すきの時間にでも、添付しました書面を読んでいただき、ご指導を頂ければ幸いです。
本日、書面で書かせていただきました内容は、「開眼供養」についてです。御書を以って質問させていただいておりますので、宜しくお願い致します。
突然のメール本当に申し訳ありません、また、お気に障りましたら申し訳ありません。

T

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御本尊の開眼供養について
「木絵二像開眼之事」の『法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり』
以って、「御本尊」も開眼供養が必要であるとのことで、質問をさせてください。
法華経に“仏”の御心が顕されている御書二編を記しました。
◆「本尊供養抄」
『法華経の文字は六万九千三百八十四字・一一の文字は我等が目には黒き文字と見え候へども仏の御眼には一一に
皆御仏なり』
◆「四条金吾殿御返事」(梵音声御書)
『此等の梵音声一切経と成つて一切衆生を利益す、其の中に法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し
給う仏の御心はこの文字に備れり』
この御書から法華経が仏の御心であることが分かり、「木絵二像開眼之事」での御文について納得します。ただ、別の
御書を読みますと、すっきりと致しませんのでご指導願います。
先ず、「草木成仏口決」では、「妙法蓮華経」自体が有情非情の成仏の五字であり、『一念三千の法門」=法華経を『ふ
りすすぎたるは大曼荼羅』=法華経のエッセンスを取り出したのが「御本尊」であると。「御講聞書」では、法華経の極理
は「妙法蓮華経」に納まっているとあり。「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」でも同様の事が述べられています。それ
と、日寛上人の「観心本尊抄文段」では、「南無妙法蓮華経」自体、『名体宗用教』とあります。
これらの御書御文から私なりの解釈では、五字七字の「文字曼荼羅」を書き顕した時点で法華経の“仏力”“法力”が全
て備わっており、よって、「開眼供養」は必要ないと思うのですがいかがでしょうか。
ご指導をお願い致します。
◆「草木成仏口決」
『問うて云く情非情共に今経に於て成仏するや、答えて云く爾なり、問うて云く証文如何、答えて
云く妙法蓮華経是なり・妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり』
『一身所具の有情非情なり・此の有情・非情・十如是の因果の二法を具足せり、衆生世間・五陰世間・国土世間・此の
三世間・有情非情なり。一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり』
◆「御講聞書」
『さて本門の極理と云うは如来秘密神通之力の文是なり、所詮日蓮が意に云く法華経の極理と
は南無妙法蓮華経是なり、一切の功徳法門・釈尊の因行果徳の二法・三世十方の諸仏の修因
感果・法華経の文文句句の功徳を取り聚めて此の南無妙法蓮華経と成し給えり』
◆「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」
『釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼
の因果の功徳を譲り与え給う』
◆「観心本尊抄文段」(日寛上人)
『是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり』

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● メールありがとうございました。
ファイルもざっくり拝見したしました。
大変興味深い内容です。

ですが、私は文書での応酬は今はほとんどしておりません。
その理由は、文書では個対個となってしまい、多くの人々への訴求性に欠ける点と、
仮に公表したとしても、文書での応酬では、今の人々の機根としてはやはり大きな訴求性がないからであります。
開眼の要不要というテーマは多くの方に知っていただきたい重要なテーマと考えます。
なので、個人間での応酬だけで終わらせてしまうにはもったいと思います。
しかも、大聖人様の御指南にも背くことにもなります。(詳細は略しますが)
そこで、電話もしくはリモートでの対話ならお話したいと思います。
その内容は録画して公表することが前提です。
もちろん個人が特定できないように編集加工した上での公開ですが。

こういう状況で御了解いただけるのなら大いに論議したいと思います。

ご返事お待ちします。
ご検討よろしくお願いします。

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▼ 樋田様

早速、読んでいただきありがとうございます。

ご回答の通り、書面では、ですね。
リモートは苦手なので、電話が良いですね。
樋田様は何時ごろが良いのでしょうか。
宜しくお願いします。

T

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● では、Tさんの主張を精査してそれに対して研鑽しますので少々お時間をください。
研鑽が完了したら連絡いたします。

私は毎日日中ならば基本的にはいつでも時間調整できます。

よろしくお願いします。

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● お待たせいたしました。

質問書の検討がほぼ済みました。
なので電話での応対が可能です。
昼間の時間帯なら今のところ対応可能です。
ご希望の日時を三候補くらい教えて下さい。

よろしくお願いします。

(参照 創価学会壮年部からの質問に対して回答するための備忘録

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▼ 樋田様

お忙しいのにありがとうございます。
あれからも考察を重ねておりまして、今一度整理した上でお話が出来る状態にしたく、少しお時間を下さい。
私からご依頼をしながら勝手な話とは存じますが、感情論などでのお話はしたく、少しでも大聖人のお心が理解できればとの思いです。
お忙しいとは思いますが、宜しくお願い致します。

T

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▼ おはようございます。

整理が出来ましたので、宜しくお願い致します。
尚、書面を添付いたしましたが、先に述べました内容を少し訂正追記をしましたので、確認をお願い致します。

お電話の日時ですが、3月2日(火)〜4日(木)のいづれかで、時間帯は10:00頃はいかがでしょうか。
電話をこちらから掛けるにも、掛けていただくにも通話料が掛かると思いますので、LINEでの無料通話で良いでしょうか。それとも他にありましたらお教えください。

一応お知らせをしておきます。
携帯番号:××・・・・・

T

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御本尊の開眼供養について
  訂正追記

「木絵二像開眼之事」の『法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり』
以って、「御本尊」も開眼供養が必要であるとのことで、質問をさせてください。

ここまでは先の書面と同じです。

仏の「梵音声」である法華経は、「本尊供養抄」等で『法華経の文字は六万九千三百八十四字・一一の文字は我等が目には黒き文字と見え候へども仏の御眼には一一に皆御仏なり』とあり、「草木成仏口決」の『一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり』と、併せ見ると、御本尊の「南無妙法蓮華経」五字七字が「梵音声」=「心法」になると思いますが。いかかでしょうか。
他にも様々な解釈はありますが、多くを述べてもしょうがないので。

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● 返信ありがとうございました。

では3月2日午前10時でお願いします。
LINEでの通話で大丈夫です。

更に当日まで研鑽を深めます。
よろしくお願いします。

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▼ ありがとうございます。

それでは、3月2日午前10時でお願いします。
確認ですが電話番号はYouTubeに記載の「090−3343−9338」で宜しいですか。

T

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▼ 樋田様

KのTです。
先日はありがとうございました。また、失礼を致しました。

その後、樋田様にいただいた書面を読み、色々と調べておりましたら、東洋哲学研究所の方が「唯授一人血脈相承」等について、
学会の主張と宗門の主張について、非常に面白く気になる箇所が多々ある論文がありました。
ご存知でなければ、一読をするのも良いかと思い、添付(6MB)いたしました。

それでは、また。
失礼いたします。

T

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「唯授一人血脈相承」等(東洋哲学研究所 (1).pdf へのリンク


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● こんにちは

書類ありがとうございます

中々精読している時間はないのでまずは前回の会話の内容をきちんと精査していただいてTさんなりのご意見とか反論を次回は伺いたいと思います

それに対してこちらももし教義的に反論があればさせていただくかも知れません

よろしくお願いいたします

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▼ おせわになります。

一か月ぶりに書面をまとめましたのでメールしました。
3月2日は、お忙しい中、お時間を空けていただきありがとうございました。
ただ、丁度2時間の中で、貴方様が9割方話をされ、私としては非常に聞いてるだけでしたけど、疲労困憊でありました(笑)
あのような、戦術で来られたら、私から話すのが嫌になってしまうため、メールでの対応とさせて頂きますので、宜しくお願い致します。

前回に続き、御本尊の開眼等について、私として見解を書きましたので、お時間がある時に読んでいただければ幸いです。
また、ご意見があれば、もっと良いです。

それと、先日の「東洋哲学研究所」の書面はお読みいただけましたでしょうか、併せてご意見を頂ければと思います。

T(昭和生まれのすりはんどく)より

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昭和生まれのすりはんどく一言物申す

今回、「ニセ御本尊」とか、「御本尊への開眼が必要」とかと、様々な形で真面目に発信されていることに対し、一
言物申す。
1.草木成仏「不改本位の成仏」の義による御本尊建立について (日寛上人「観心本尊抄文段」より)
2.草木成仏「木画二像の成仏」の義による木画成仏について ( 同 上 )
3.木絵二像開眼之事の「法華を心得たる人」「智者あって法華経を讃歎」等の解釈
1.草木成仏「不改本位の成仏」の義による御本尊建立について
日寛上人は観心本尊抄文段(各一仏性・各一因果あり縁了を具足す文)において
『今謹んで諸御抄の意を案ずるに、草木成仏に略して二意あり。一には不改本位の成仏、二には木画二像の成仏
なり』。この二義に則して、論を進める。
「不改本位の成仏」の義
<本 文>
不改本位の成仏とは、謂く、草木の全体、本有無作の一念三千即自受用身の覚体なり。外十三十四に草木成仏の
口伝に云く「『草にも木にも成る仏なり』云云、此の意は草木にも成り給ヘる寿量品の釈尊なり」と云云。また二十三
二十一に云く「又之を案ずるに草木の根本、本覚の如来・本有常住の妙体なり」と云云。総勘文抄に云く「春の時来
りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の
縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す」等云云。応
に知るべし、この中に草木の体はこれ本覚の法身なり。その時節を差えざる智慧は本覚の報身なり。有情を養育す
るは本覚の応身なり。故に不改本位の成仏というなり。
不改本位の成仏の義
不改本位の成仏とは、本の姿のまま変わることがなく仏と成るとの意である。(仏界即九界)
日寛上人は不改本位の成仏の義を、久遠元初以来、草木全体が一念三千即自受用身の仏であると述べられている。
その文証として草木成仏口決を上げられ、草にも木にもなる仏(寿量品の釈尊)であり、いわゆる一念三千・久遠元初
自受用身如来が草にも木にも成るとの御文を引かれている。また、総勘文抄の草木の体すなわち草木それ自体が本
覚の「法身」であり、その時節を違えず花咲き菓の成る智慧は本覚の「報身」であり、有情を養育する慈悲は本覚の
「応身」の法報応の無作の三身を引かれ、日寛上人は大聖人の諸御書からも、法界全体が久遠元初以来、自授用
身如来即日蓮大聖人であり南無妙法蓮華経であると述べられていることを言われ、この義を不改本位の成仏の義と
明かされている。
その上で、結論を先に述べれば日蓮大聖人が建立された三大秘法の大御本尊は、この不改本位の成仏の義によっ
て成仏している草木を元に顕されたのである。
法界全体に流れる久遠元初自授用身如来即日蓮大聖人の魂を、『日蓮がたましいをすみにそめながしてかきて候
ぞ』である。人法一箇(体)の「南無妙法蓮華経・日蓮」を中央に認められ、左右には竜王・阿修羅・鬼子母神等にて、
久遠元初の虚空会の儀式の相貌を以って、十界互具・一念三千・三大秘法の大御本尊を顕されたのである。
更に、この義の冒頭、『草木の全体、本有無作の一念三千即自受用身の覚体なり』とあり、次の木画二像の成仏の義
の末尾に、『御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり』とあるのを確認していただきたい。この二文を
重ね読めば一目瞭然である。『草木の全体』=『御本尊の全体』。言葉は異なるが同意であり、続く文も同意である。
よって、草木を元とした墨を以って顕された文字曼荼羅は生身の仏となるのである。日蓮大聖人はこの文字曼荼羅を
末法幼稚の我等衆生の即身成仏の為に、一閻浮提相与・三大秘法の大御本尊として建立してくださったのであり、
同様にこの草木を元にした墨・インクを使って顕した、三大秘法の御本尊書写の御形木御本尊も、生身の仏であり、
現在、創価学会が下付している、第二十六世・日寛上人書写の御形木御本尊も間違えなく十界互具・一念三千・三
大秘法の大御本尊に間違いのである。
2.草木成仏「木画二像の成仏」の義による草木成仏
上記同様に草木成仏の「木画二像の成仏」の義を基に、木絵二像の開眼について述べたい。
「木画二像の成仏」の義
<本 文>
木画二像の成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。二十
八十三四条金吾抄に云く「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり乃至第三の国土世間と申すは草木世
間なり乃至五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入
るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木
成仏と申すなり」と云云。文の中に「此の法門」とは、一念三千の法門なり。また三十一巻二十骨目抄に云く「三十一
相の木画の像に法華経を印すれば木画二像の全体全身の仏なり、草木成仏といへるは是れなり」と云云。若しこの
意を得ば、答の大旨自ら知るべし。またまた当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の
御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。
木画二像の成仏の義
木画二像の成仏とは、木画二像が仏と成るとの義の意である。(九界即仏界)
本文では、木画二像に一念三千の仏の魂を入れれば、この二像が生身の仏となることを木画の二像の義と述べられ、
大聖人の御書・四条金吾釈迦仏供養事の、一念三千の法門は第三の国土世間・草木世間の草木が元の絵具や木
にて造られた画像に御本尊の如来秘密神通之力にて仏の魂を入れれば、一念三千法門により、衆生であれば即身
成仏し、画木であれば草木成仏となることを引用され、また、木絵二像は色相荘厳・三十二相の理想の二像を造りあ
げる上で、梵音声と云う仏の魂の一相だけが造り顕せすないことから生身の仏ではい。しかし、この木絵二像に仏の
魂を入れれば、木画二像が生身の仏と成ることが出来き、草木成仏となると、木絵二像開眼之事の文を引かれ、木
画二像の成仏の義を述べられているのである。
尚、この義の末尾には、「不改本位の成仏」と「木画二像の成仏」の二義を理解し、三大秘法の大御本尊を文字や木
画であるなどと謂わぬことといさめられており、ここでも創価学会が下付している日寛上人書写の御形木御本尊(三大
秘法の大御本尊)への開眼は必要ないことが解るのである。
一つ踏み込んで述べれば、日女御前御返事の『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だ
にも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が
自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり』との御文をどの様に解釈するのか。
正法時代の竜樹・天親も、像法時代の天台・妙楽等さえも顕わさなかった御本尊を、日蓮大聖人が、はじめて顕わさ
れたと述べられている。 「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん」の一文には、仏法史上の大論師、偉大な先覚者
でさえも顕わすことのできなかったこの御本尊を顕わすなどということは、並みたいていのことではない、との意が含ま
れている。
すなわち、この三大秘法の大御本尊を顕わすということは、仏法上の偉大な意義を含んでいるのである。それ故にこ
そ、日蓮大聖人は、御本尊の建立をもって「出世の本懐」とされたのではないか。しかし、この御本尊が半完成品の
様に扱で、開眼しなければ「ニセ本尊」あるとかとは、最大の邪義としか言いようがないのである。それも一介の信徒
の考えであるのであれば別であるが、自称、日蓮大聖人の直系の代々法主ともあろう者が堂々と話していることは、
『般泥?経に云く「当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経を
誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云』である。世界の情勢が者がっている。
3.木絵二像開眼之事の「法華を心得たる人」「智者あつて法華経を讃歎」の解釈について
「法華を心得たる人」について
この「法華を心得たる人」文の前段で、『然りと雖も法華をもつて或は華厳に同じ或は大日経に同ず其の義を論ずる
に澄観の見を出でず善無畏・不空に同ず』に掛かる言葉であり、澄観・善無畏三蔵・不空金剛の様に、法華経よりも
金剛厳・大日経等が優れていると言う輩とは違い、法華経が諸経の中で最勝の経であり、一切衆生の成仏を叶えら
れる三大秘法の御本尊を信じ日々「南無妙法蓮華経」と唱えている者が、「法華を心得たる人」であり、言い換えれば
大聖人の仏法を正しく信仰している大聖人信徒が「法華を心得たる人」である。
「智者あって法華経を讃歎して」について
「智者あって法華経を讃歎して」文の前段、『今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼をば
奪命者といふ魔入つて功徳をうばふ魔をば奪功徳者といふ、鬼をあがむるゆへに今生には国をほろぼす魔をたとむ
ゆへに後生には無間獄に堕す、人死すれば魂去り其の身に鬼神入り替つて子孫を亡ぼす、餓鬼といふは我をくら
ふといふ是なり』に掛かる言葉であり、“真言によって仏を供養せば鬼が入って人の命を奪う、また、魔が入って功徳
を奪う、鬼を尊重するゆえと。法華経以外の真言等では、絶対に成仏させられないことを知り得た者を”智者“と呼ば
れているのであり、その智者が御本尊の仏力・法力を借りて追善供養することを勧められているのである。
「法華を悟れる智者」について
「法華を悟れる智者」とは、法華経を悟っておられる方は、日蓮大聖人しかいない。しかし、御本尊を信じ日々行事て
いる日蓮大聖人門下であれば、御本尊の一念三千法門により、必ず成仏させられることは間違いない。
この「法華を悟れる智者」を日蓮正宗の法主または僧侶と言われているが、一日に何人の方が亡くなっているのか、
日蓮大聖人御在世当時の侶の数は何人であったのか、現代の正宗僧侶は何人いるのか。正宗信徒の全葬儀に行
って追善供養が出来るはずがないのである。物理的に全葬儀に行けもしないのに、大聖人が僧侶にしか死骨成仏
は出来ないとするわけがないのである。御文の意は大事であるが、道理から考えれば僧侶だけが行うのは無理であ
る。よって、大聖人門下の信徒が行うことが一番良いのである。
ここで、木絵二像開眼之事で、日蓮大聖人は冒頭から木絵二像の開眼を述べられているのは何故かである。画木二
像の成仏義の本文内で『骨目抄に云く』とあり、起用の文は木絵二像開眼之事の御文をである。よって少なくとも日
寛上人当時は「骨目抄」等の御書名で、大聖人は「骨目抄」等の御書名を付けていたことが解る。すると、御書の意
は木絵二像開眼ではなく、死骨供養が意であったと推測されるのである。では、なぜ冒頭から木絵二像開眼につい
て述べられているのかである。
その一つは大聖人御在世当時の鎌倉時代は時世の影響から天台・真言、更に念仏が蔓延りだし、絵像・木像が急
激に造立され、民衆は絵像・木像を信仰の対象としていた時代である。その中で、日蓮大聖人が御出現になり鎌倉
の地で辻説法等の折伏により天台・真言・念仏の信徒が大聖人に帰依しだした。しかし、帰依した民衆の中には以
前の仏像等を本尊としていたことから、大聖人の教義おから云えば本来、仏像等は謗法であり不幸の根源であるから
用いないことを促すのであるが、民衆の気持ちも汲み取り、仏像等を認め、しかし、当時、真言で行っていた開眼が
如何に邪義であり不幸の原因であることから、開眼をする上で、法華経以外を用いぬこと、必ず不幸になる事を民衆
に教えたかったのである。
故に四条金吾殿等が仏像を造立したことをお聞きになると、その旨のお手紙を出され、法華経による開眼を進められ
ている。
今一つは、先に挙げました様に、『五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし、十善論と云うを置けば帝釈とひとし、出欲
論と云うを置けば梵王とひとし全く仏にあらず、又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、方等般若の一時一
会の共般若を置けば縁覚とひとし、華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず、大日経・金剛頂
経・蘇悉地経等の仏眼・大日の印真言は名は仏眼・大日といへども其の義は仏眼大日に非ず、例せば仏も華厳経
は円仏には非ず名にはよらず』といさめられ、『三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり』
との法華経が諸経の中で最勝であることを促すことと捉えられるのである。
中段以降については、死骨供養(非情成仏)の大切さを説明する上で、仏像等の非情成仏を述べられたものと推測
される。
尚、本抄は御手紙の体裁になっていないことから、仏像造立等の質問に対する返事の草案として、準備されたもので
なないかとも推測が出来る。
最後に、自身の想いからの主張は良しとして、その主張に合うように御書の一部を抜き取り、さも正論の様に述べたり、
自分の主張に合わない御文は省いたりしている。今後、時が進む上で、身口意の三業の罪により、大聖人からの鉄
槌が下されることは明々白々であることを申し上げておきます。
何かご意見がありましたら、メールにてお待ちしております。
文内で誤字脱字につきましては、ご容赦ください。
2021 年4 月3 日
昭和のすりはんどく

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● こんにちは

当初に申し上げた通り個人的な文書のやり取りはもはやほとんどしておりません
その理由は既に申し上げた通りです
御確認下さい
またそれを納得された上での電話でのやり取りとなったのではないでしょうか

私はこの方向性で一貫しております

916 強仁状御返事 建治元年一二月二六日 五四歳

■ 強仁(ごうにん)上人十月二十五日の御勘状(ごかんじょう)、同十二月二十六日到来す。

此の事余も年来欝訴(うっそ)する所なり。忽(たちま)ちに返状を書きて自他の疑氷(ぎひょう)を釈(と)かんと欲す。

● 但し歎ずるは田舎に於て邪正を決せば、暗中に錦を服して遊行し、澗底(かんてい)の長松(ちょうしょう)匠(たくみ)に知られざるか。

兼ねて又定めて喧嘩出来の基なり。貴坊本意を遂げんと欲せば、

公家と関東とに奏聞(そうもん)を経て露点(ろてん)を申し下し是非を糺明(きゅうめい)せば、上一人咲(え)みを含み、下万民疑ひを散ぜんか。其の上大覚世尊(だいかくせそん)は仏法を以て王臣に付嘱(ふぞく)せり。

● 世出世(せしゅっせ)の邪正を決断せんこと必ず公場なり。

(中略)

速々(はやばや)天奏を経て疾(と)く疾く対面を遂げて邪見を翻(ひるがえ)し給へ。

● 書は言を尽くさず、言は心を尽くさず。 

● 悉々(ことごとく)公場を期す。

『嘆くことは田舎など大勢の人の目につかない場所などで仏法の正邪を決したとしても所詮それは暗闇に最高の服を来て歩いているようなもの
また山奥の谷底にどんなに立派な枝振りの良い松が生えていたとしても庭木職人の匠に知られなかったとしたら何の価値もないではないか
さらには双方とも自分が勝った勝ったと主張したりして結局ただの喧嘩にもなりかねない。(中略)だから法論というものは必ず公にして大勢の目に触れさせるべきなのである。』

■ 私の問答は事行き難く候か (行敏御返事 472)

「私的な法論や問答では真に邪正を決するには不適当である」

ですので私との対話を望むのならばあくまで実際の対話を動画に収録しそれを発表する という形でお願いいたします

前回の内容はそれなりに大きな反響を呼んでおりまして次回が見たいという声が多くあがって来ております
まさに大聖人様が主張するように多くの他者への影響があってこそ対論する価値があると言うことの実証の現れです
もしその方向で進まれるのであれば送付されてきた文書を教義的に精査致しますがあくまでも文書の往還のみを御望みならば私は遠慮致します

あと「戦術」という語句は甚だ心外ですね
そもそもTさんは私に質問したいというスタンスではなかったですか?
であるならば「戦術」も何もないでしょう
私は完全な文証を以て「説明」させていただいたのであってそれを即時に理解出来なかったのは偏にTさんの法門未熟故と存じます

以上返答致します

もし今後電話もしくは対面による対話を望まれるのならばその意思を再度送信して下さい

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追伸

もしどうしても文書での往還を望まれるのならば私でなくとも妙相寺メンバーの中に文書対論から実力をつけて行きたいという研修中のメンバーもいますので紹介したしますよ。
研修中とはいえ充分お相手できると思いますよ。
ご検討ください。

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▼ 良くわかりました。

まあ、それならそれで、結構です。
送らしていただいた書面の内容に反論は出来ないでしょうから。

それでは、大聖人の鉄槌が下されないと良いですね!

失礼いたします。

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▼ あま、添付書面をお読みに成ってから、ご検討ください。

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● 今流し読みしただけでTさんの教学未熟度がさらに確認できますね。
こんな稚拙な主張で私に反論不能になるとはよく言えますな。
ま、せいぜいこの程度の幼稚なレベルで粋がっているがよろしい。
教学未熟ゆえの愚かさゆえに悪鬼魔神入りのニセ本尊を拝んでいくと必ずこうなります。
@ 身心の不具合→病気・事故・怪我などなど、他、精神の病、痴呆、アルツハイマーなど、頭破七分、(今回の最初に言っていたことの前言を平気で覆すなどまさに頭破七分) 人格の破綻、怒りやすくなり、我侭な言動が他者から呆れられ、相手にされなくなる。孤独死
A 経済的困窮
B 家族間も含め、周囲との人間関係の悪化。憎悪。険悪など
C 絶対に即身成仏できずに老後は悲惨に、死後は三悪道必定
もう既に相当な現証が出ているのかもしれないですね。

では。

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▼ ありがとうございます。

教学未熟な者ですから、貴方に解るように語ることが出来ず、申し訳ありませんでした。
反論が出来ないようで。

罵詈雑言をされるのは悪鬼入其身だある証拠ですね。

お疲れ様です。

失礼いたします。

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▼ もう、邪義・邪論はお止めください。

こんな、しょうもない邪義、小学生レベルですよ(笑)

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昭和生まれのすりはんどく 第二弾
ネット上で拝見をしたのでしっかり破折をしておきます。
観心本尊抄の『此の仏像出現せしむべきか』について邪義を書かれているので、それを正します。
貴方は、《末法出現の文字曼荼羅御本尊の御相貌を顕示された後に、「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ
べきか。」と仰せの「仏像」とは、釈尊像などでないことは一目瞭然である。つまり、「木絵二像」も「仏像」も
元意の辺はまさに「曼荼羅本尊」のことである》更に、日寛上人・末法相応抄を引きながら、《大聖人が言われる
「仏像」という御表示は、木絵の釈迦像だけとは限らないぞ。大聖人は「生身の仏」という意義で「仏像」とも
用いておられる」と仰せである》と、末法相応抄の『「仏像」の言未だ必ずしも木絵に限らず、亦生身を以て仏像
と名づくるなり、(中略)若し必ず木絵と言わば出現の言恐らくは便ならず』の文を起用し、《それは、もし「仏
像」が本当に釈尊像とかであったら、「出現」という語は、「現れ出でる」という生身の能動的行動を表現されて
いるが故に、不適切であろうと仰せである。実に論理的・合理的な指摘である》と、貴方は述べられている。
では、該当の日寛上人の末法相応抄下の文を確認したい。
『其の本尊の為体等とは正しく事の一念三千の本尊の為体を釈するなり。故に是れ一幅の大曼荼羅即ち法の本尊
なり。而も此の法の本尊の全体を以て即ち寿量品の仏と名づけ亦「此の仏像」と云うなり。寿量品の仏とは即ち
是れ文底下種の本仏久遠元初の自受用身なり。既に是れ自受用身の故に亦「仏像」と云うなり、自受用身とは即
ち是れ蓮祖聖人なるが故に出現と云うなり。故に山家さんけ大師秘密荘厳論に云わく「一念三千即自受用身、自
受用身とは出尊形の仏」云云。全く此の釈の意なり、之を思い見る可し。又「仏像」の言未だ必ずしも木絵に限
らず、亦生身を以て仏像と名づくるなり。即ち文句第九の如し、若し必ず木絵と言わば「出現」の言恐らくは便
ならず、前後の文「本化出現」と云云。』である。
日寛上人は先ず、『本尊の為体等とは正しく事の一念三千の本尊の為体を釈するなり故に是れ一幅の大曼荼羅即
ち法の本尊なり。而も此の法の本尊の全体を以て即ち寿量品の仏と名づけ亦「此の仏像」と云うなり』と述べら
れ、御本尊の相貌は事の一念三千であり、法本尊を顕しており、この法本尊の全体が寿量品の仏であるので「此
の仏像」と表現されているのであると。また、『出現』については、『自受用身とは即ち是れ蓮祖聖人なるが故に
出現と云うなり』と。日寛上人は述べられているではないか。教学力が無い私でも解るのであるが、それを、意
図的に、この文を省き、都合の良いところだけ抜き出し、日顕宗お得意技であるから致し方ないのであろうが、
ここまでやられると、ある意味尊敬をしてしまうが、邪義は邪義である。悪?入其身である。
日蓮大聖人・御本尊の裁きをご覧あれである。
2021 年4 月3 日
昭和生まれのすりはんどく

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● よほど孤独なんでしょうね
良い歳をして道理が分からないらしい
私は文書での対論は卒業したと言っているのであって文書による反論はしないだけ
という理屈が分からないんですかね
そんなに私に絡みたいのなら対面もしくは電話かリモートでやりますか?
それならばいくらでも反論して摧破してあげますよ
その教学力ありますか?
もっとも前回の動画を見てコメントをいただいたすべての人はあなたの法門未熟で全く論議のレベルに届いてない無様さを憐れんでますよ
ただあの時点では素直な面もあったので好感度はありましたがね

その惨めな結果に恐れをなして今回お互いの直接の対話による法論してそれを動画でアップするという約束事を破って文書対論を持ち出してきたのでしょう

実に浅はかですわ

しかも今回のそちらからの内容などざっと見ただけで分かるがこれ迄に破折し尽くした拙劣お粗末な駄文

ま しかし孤独で誰からも相手にされていない惨めな老人にこちらから研修中のメンバーを紹介しましょう
あなたが必死にあちらこちらから漁ってきた寄せ集めの痴文等、研修生で十分木っ端微塵に粉砕できることでしょう

後日破折文が送信されるでしょうからせいぜい反論してみてください

誰もかまってくれない孤独な老人にも張り合いが出ることでしょう

ではお楽しみにお待ちください

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▼ ありがとうございます。

お待ちしましょう。