▲ 真如苑が邪宗教である理由
■ 本尊に迷走する真如苑
昭和10年の不動明王に始まり、
昭和32年には寝釈迦像、さらに
昭和54年には十一面観音を加えて、
▼「衆生の化導法(けどうほう)が整った(=三輪身満足)」などと主張した伊藤真乗ですが、それでは
● 衆生の化導法が整う以前の信者たちというのは「救済されなかった」ということになります。
その時々の思いつきで本尊を追加したりするから、こういうワケの分からないことになるのです。
信仰の根本である本尊がこの有り様では、どんなにもっともらしい理屈をこじつけても、ご都合主義の批判は免れません。
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▼ この方のHPは拝見していますが、私と佛教観・仏像観の違いがあります。
「救済されなかった」とはどういう意味でしょうか?
そもそも佛教というのは、人を悟らせる教えです。人を悟らせるのが救いと考えるのか、人の困難(家内安全・病気平癒等)を解決するのが救いなのか?
仏教は、本来は人を悟らせるものですが、普通の人はそんな事には興味がありません。
そこで加持祈祷による利益というものが注目されました。佛の力で病を治すとか、安産祈願するというニーズに仏教は答えて行きました。
その過程で、信心とは商売繁盛や病気平癒の利益を願うものという風潮すら生まれました。
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★ → そもそも、この仏教の捉え方が間違っている。
真言系の目先の現世利益のため、呪い、戦勝祈願 などの祈祷は、それ自体が、既に本来の仏教の教えでなはい邪教なのである。