TOP / 教義的資料目次 / 真如苑教徒反論目次
▼ ただ、ある事実についてそれを善意に捉えるか、悪意に捉えるかはそれを聞いた人次第です。
★ → 真言亡国 男子早逝 という厳罰を地でいっているまさにその象徴的な現証ではないか?と指摘しているだけ。
善意、悪意、という感情論で指弾している事柄ではない。
敢えて言うならば、その男子早逝に代表される真言系害毒を、誠意と勇気を持って相手に伝える行為は、むしろ「善意中の善意」であろう。
--------------------------------------------
▼ 私が特筆したいのは、全てを投げうって半年たらずで長男を亡くすという目に遭った教主夫妻が匙を投げなかったという事です。
★ → 誤った宗教の害毒に毒されてしまえば、つまりは魔に魅入られれば、もはや通常の人間性豊かな感覚は失われ、どんな不幸もそれを不幸と考える感覚が麻痺してしまう。
--------------------------------------------
▼ 私だったら「インチキな宗教をしてしまった」と嘆き、恨み、さっさと元の職場に復職したことでしょう。というか、立ち直れずに自殺するでしょう。
★ → 魔に魅入られた者達は、正常な思考能力を失い、正しいものの見方が出来ず、その結果、正しい反省、慙愧ができない、ということ。
--------------------------------------------
▼ しかも自分の家内安全を願っての立教ではなく、「こんなに悩み病める人が多いのなら、自分としても二束の草鞋ははけない」と衆生を救うために立教しています。
★ → どの宗教でも、立宗神話など何とでも言える。書ける。
--------------------------------------------
▼ 長男、次男の早逝の件は世間の見方とは裏腹に、私は真乗夫妻がニセモノの聖者ではなかった事の証だと捉えています。
★ → それは、貴方が、既に魔に魅入られて、正常な価値判断が出来なくなっているだけの事。
--------------------------------------------
▼ 誰にも形では真似できない事だと思います。
★ → そんなことより、真言の修業にのめり込んだら、結果、男子二人とも幼くして失くしてしまった、この現実の方が重大事。
「師は針の如し、弟子は糸の如し」
つまり、宗祖の姿に弟子・信者は似てくる。
宗祖の方向性が間違っていれば、その苦痛・苦悩の道を万人に味あわせることになってしまう、その罪業がいかに大きいか深く思慮すべき。
--------------------------------------------
▼ お釈迦様も、伊藤夫妻も、教えてくれるのは
「困難のない人生を求めるよりも、困難を乗り越える智慧を求めなさい。そして、その知恵を他にも施して他の人生も豊かにしなさい」
という事ではないでしょうか?
★ → 男子早逝 という真言亡国の害毒を世の中にまき散らしても、云う事だけは誰でも、綺麗ごとは言えるものである。
では、現実に真如苑信徒が、男子早逝の害毒を知らず内の飲まされ続けながら、一体どういう方法で、
▼ 「困難のない人生を求めるよりも、困難を乗り越える智慧を求めなさい。そして、その知恵を他にも施して他の人生も豊かにしなさい」
このようなことを世に為せるのか?
美辞麗句だけならば、政治家でも、実業家でも、夢想家でも、誰でも言える事。
--------------------------------------------
▼ そうした私の解釈はともかく、長男、智文の死を境に接心で先祖の状況が解るようになり、接心がスムーズになったと言う事実から抜苦代受という教義が生まれたようです。
★ → これなどはまさに真如苑教団内の理屈であって、社会的に何ら客観性、正当性を持たない内輪話である。
しかも、「接心」「抜苦代受」など、そもそも、正当な仏教的行為なのかどうかすら論証、証明、されていない、教団内の単なる理論と行動に過ぎない。
TOP / 教義的資料目次 / 真如苑教徒反論目次