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これはまさに正鵠を射ている指摘ではないか。
さ、問難者転じて惑乱者よ。どう答える?
それとも、ぼちぼち、二回目の敗走宣言でもするか?

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問難者は、
▼「経」は言葉で書かれている以上、全て方便です。
「法」とは、それが書かれている「経」の内容であり、「真理」です。
真理は言葉では伝えることはできません。

と言いながら、一方で、
▼髄自意とは、「お釈迦さまの自らの意識のままの教え」といえるでしょう。

と、仏の教説に随自意・随他意が存するという説を自身の論として用いる。
「お釈迦さまの自らの意識のままの教え」とは、そのまま「真理」ではありませんか。

随自意・随他意の真の意義を知らないが故に、このように矛盾する言動となるのであろうが、きわめて恣意的で、その場さえ凌げればよいという姑息かつ狡猾な心根がこういうところにも見えるように思います。

また、▼「真理は言葉では伝えきれない」との説は、問難者の依経たる涅槃経にある
涅槃経の十五「願わくは諸の衆生悉く皆出世の文字を受持せよ」
とも相容れないものではないでしょうか。
他にも、像法決疑経には「文字に依るが故に衆生を度し菩提を得」とありますが、どう解釈するのでしょうか。

▼法華経や涅槃経が指示している「真理そのもの」は言葉ではありません。「悟り」という状態に至る事です。

▼従って、その法を授かった者がいう事に、凡夫がどうこう言うべきではないのです。

その悟りの状態に至った釈尊がいう事に邪見をもって云々し、どうだこうだと道理を無視して抗っているのが問難者自身ではないでしょうか。



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