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★ → 人に即して法 法に即して人 の御本仏が存在。 この仏を下種・本因妙の仏という。またこの仏法を下種仏法という。 
また善根のない生命に直ちに仏になる種を植えるが故。

 ▼ 「下種・本因妙の仏」の八相作仏は?
それがない佛は信用できないのでは?

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   ★ ↑ そうくるでしょう。
「久遠即末法」 という教説がある。
この教説を基に考察すれば、ある概念として導き出されることは、種・熟・脱 は大きく循環・回転 しているということである。
つまり、時間というものが途方もなく大きな循環をしている、、という概念である。
であるから、末法の日蓮大聖人の振る舞いと、同様の出来事が久遠に存在したと拝するのである。
もちろん、ビッグバンからできた狭隘な宇宙を言っているのではない。
今我々が存在する宇宙も、その他の空間に存在する数ある宇宙の一つである。という物理学・天文学の見地も現実にある。
そういう意味での広大無辺な宇宙、存在そのもの、という次元での宇宙観である。
三千塵点 も 五百塵点 も単純に計算したって、ほとんど無限である。
でも、ビッグバンなどはおよそ138億年前の出来事。
つまり、仏法の世界観、仏の悟りから見たならば、「昨日の出来事」のようなものである。
その永劫の時間であるが、この時間軸がとてつもない大きな輪を為している。。と考えられるのである。
相対性理論からも、そういう概念が導けるそうだ。(その方面は詳しくはないが)

昔、古代人は地球は円盤状と考えていた。
たとえば真っ直ぐ東へ歩いて行けば、いつかは円盤の淵に行き着いて、そこからば奈落の底へ堕ちてしまう。と。
しかし地球は球体だった。
東へ向かってひたすら歩けば出発地点に西から現れるのである。
時間もそうであるかも知れない。
というか、無始無終と因果律を熟考した結果、存在そのものはもともと存在していた。とする以外ない。
となれば存在そのものの時空はもともと存在している。としなければ、因果律が成り立たない。

ちなみに面白いことに、
ギリシャ・ヘレニズム・中国、ヒンドゥー神話・エジプト神話・北欧神話・アステカ神話などの古代文明・古代神話には、己の尾を咥えて環となった蛇のシンボルが登場する。
古代ギリシャの哲学者達は、このシンボルを「ウロボロス」と呼んだ。
もともと生命力の象徴として考えられてきた蛇が、自らの尾を食べて環状となることで始まりも終わりも無い「完全なもの」としての意味が持たされており、他にも永続性・始原性・無限性・不死などを表すものとして、多くの文明・神話で用いられている。


ということで、古代から時間の円環性という概念があったということである。

本題に戻ると、
久遠元初に於いての本因妙の仏も、もちろん三身相即の八相作仏された仏なのである。
ただ、鎌倉時代と全く寸分違わず同じである必要もなく、その時の人界に生じた凡夫が妙法蓮華経を弘通し、その時の大法難を受けて、発迹顕本されて本仏の内証を顕され、衆生済度の「妙法蓮華経」を説かれる、その姿において全く「久遠即末法」なのである。
(もしかすると、時間が完全に円環するとしたら、鎌倉時代そのものが「久遠」なのかもしれない。ここについては諸説あってもいいであろう。
重要な点は、法身 というような理上の仏ではない。ということだからである。)



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