TOP / 教義的資料目次 /  真如苑教徒反論目次


  ▼ 以下、フライデーの記事については長女・次女の言い分ややらせが多く、議論すべき余地がないので、聞きたい所だけ絞って聞いていただけますでしょうか?
こちら側の言い分としての事実関係だけ申し添えます。

・長女の夫、幹二は覗き行為などがあった事は真如苑学生夜警の記録に残っています。

・後妻である松島氏は長女の強い勧めで再婚となり、これに反対した三女などは真如苑を追放されました。なぜ伊藤真乗が何も言わずに受け入れたのか、記録にはありませんが当時、皆が噂していたことです。

・次女の焼香騒ぎは、実際には次女がフライデー記者を引き連れて真如苑慧燈院に車で乗り付け、輪宝にヒールをひっかけて敷地内に潜入しようとしたところを警備の者が止め混乱した所を撮影、記事にしています。

輪宝にはその時のヒールの傷が残ったままでしたが、真如苑ではあえてそれを修理せず、「自分の心にも破壊の心はないか」と問うために残していました(平成8年頃の話)。
なお、長女、次女、どちらも結局は権力によって正気を狂わされたと考えております。
人はお金を持ちすぎたり、分不相応な権力の座に座ったり、ハニートラップのような色情には本当に弱いです。
真如苑の最高幹部まで登りつめ、紫の衣(教団の重役)を与えられたものでもこれらのどれかで躓いています。

最近では、現真如苑主 伊藤真聡の妹、乗鈴も権力欲しさに姉との不仲が噂された時期がありました。
涅槃経にも「闡提とは見極めがきわめて困難で、また、予め決まっているものではない」と示されています。
昨日までの聖者が、今日は悪魔になっているかもしれない。
故に釈尊は、どこまで修行が進んだ弟子に対しても「それでよし」とはされませんでした。

釈尊最後の言葉は

「ヴァヤダンマー・サンカーラー・アッパマーデーナ・サンパーデータッパン」
(おしなべて 常にこの世は移りゆく 皆怠らず 勤めはげめよ)

でした。

私はこの釈尊の御遺言を承け、真実の教えは何か?を求めている次第です。

        −合掌−

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

● 伊藤真乗の長女 映子氏の証言

■ 長女・次女が告発 真如苑教主カネと女の乱脈 

小誌八月三日号既報の通り、信者による暴行で、教主・伊藤真乗の長女は全治一週間の打撲傷、次女は三週間の入院を強いられた。 
かつて四姉妹が君臨し、数多くの女優が入信する宗教として一見華やかな真如苑に、いったいなにがあったのか。 
石もて教団を追われた長女・映子さんが、敢えて父の罪を告発する。 

■ 真如苑は、映画「マルサの女2」のモデルになった教団だとか、お手当てを出して女優さんに教団をPRさせているとか言う人がいます。 
かつてそこに籍を置いた者として、それは信じたくないことですが、もし真如苑に問題があるとすれば、それは、
「教主である父親の異常なほどの性欲と、 お金への執着心」が原因です。 

七月十九日に亡くなったばかりの父親をそこまで言うのは、何も父が惜いからではありません。
父の後桧者である私の妹たち,信者たちに目覚めてほしいからこそなのです。 

教主は教団の台所を担当する女性を総ナメして、まるで大奥のようでした。 

古参幹部のKさん、私の息子の乳母役だったKさん、それにその後父が再婚した松島文枝さん……、数えあげればキリがありません。 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

「次女・鈴木孜子の証言」 

「母が亡くなる前の晩でした。
私が『お父さん、お母さんはもう長くないよ』と言うと、父は、

▼『おれにはこんないい娘が四人もいるから再婚なんかしない』 

とはっきり言い切りました。
それが父ときたら、母の通夜になるともう、それも母の遺骸を前にしながら、

▼『女なら誰でもいいわ。早く再婚したい』

と言いだしたのです」 
初七日もすまないうちに、父は私たち夫婦にこう頼みました。 

▼「いいか、お前たちがオレに再婚を勧めたことにするんだぞ。
オレは再婚する気持ちはないことにしてな。
早く女を世話しろ」 


また、母の本葬の日、父と夫の間でこんな会話があったそうです。 

▼「幹司、お前いくつになる」

 「三十一歳です」

▼「若いな。お前、映子とうまくいっているのか?」

 「(夫婦仲の意味で)はい」 

▼「お前たちなら毎晩でもできるだろうな。オレはもう我慢できないんだ」 

夫は、これがすべてを捧げてきた教主様の言うことか、と信じられなかったそうです。 

それで仕方なく私たちと最高幹部が相談して、先ほどお話した二人のKさん、同じく信者のIさん、順天堂大学病院看護婦のAさん などを候補に挙げました。その中でも、看護婦で教主の健康管理も安心して任せられるAさんが適任だとの結論に達しました。 
すると父は

▼「おれはあんなバアアは嫌だ。相手は映子(当時34歳)より若くてもいいくらいだ」

と、言い出したのです。 


■ 母の死で金銭感覚が一変」 

金銭感覚も、母が亡くなった後ではまったく変わりました。 

教主の誕生祭(三月二十八日)には、万単位のお金の入った熨斗袋がお祝いとして信者の方々から入って来ました。 
母の生前は、それはすべて、いったん教団の財務(会計)に入り、後でその一部が父のところに届けられましたが、 
母の死後は、父はそれに不満を鳴らすようになりました。

▼「真如苑に入ったものの中からもらうんじゃおもしろくない。 
誕生祭のお祝いなんだから、まずオレがもらうんだ。そこから財務にやる」 

父は自分のベッドの下に井村屋のダンボール函を置き、その中に札束を入れるのが癖で、 

▼「映子、見てみろ。今年はダンボール何函だ」

その中から逢瀬のホテル代を抜き出したりしていました。 

後に周りから再婚に反対された時のこと、教主は旅行カバンに札束を詰めて、

▼「皆が反対するから、オレは家を出る」 

そうして裸足で出て行こうとしたこともありました。 


当時信者数は15万人ほどでしたが、宗教団体というのは有力な「票田」です。
中でも本部のある立川市には信者が多く、例えば立川市議会議員などの選挙は金儲けの絶好のチャンスで、"票を売る"のが通例でした。 
選挙が近付くと教主から指示が出ます。 

▼「Nは百万円出すと言うから、Hには150万円要求しろ」 

それでH陣営がその通り出すと答えると、 またN陣営に連絡します。
それも水増しして、

▼「Hは二百万円出すと言っているがお宅はどうしますか」

そうして吊り上げておいて、投票直前に高い方に信者の票を売るわけです。 
それでも、開票速報を見ていて、推薦した候補が危ないことがあります。
すると、教主はその候補に電話をかけてしゃあしゃあと、

▼「危ないようですな。いやあ、票は水ものですからな、 ハハハ」 

そうして票を売って得たお金は、すべて教主のポケットマネーになりました。 

一度、夫が
「教主様、そんなことなら、事務局から一人立候補させたらどうですか」
と言ったことがありましたが、

▼「幹司は若い。そうしたらお金が入らなくなるだろ。オラ知らね」
  
"オラ知らね"というのは山梨弁で、父の口癖なのですが、父にとって宗教は商売のタネだったようです。 



■ 「添い寝させられた娘たち」 

父の気に入る人が居ないので、とりあえず元女優で信者のWさんに“面倒”をみてもらうことになりました。
けれど、母が亡くなって間もない時期に子供が出来たら、信者に言い訳ができません。 

それで、「お父さん、子供が出来ない様にしてもらえませんか」と頼むと、父は、

▼「お前たちはそんなもの(避妊具)を使っているのか、そんなんじゃダメだ」 

仕方なく、もしも父の子供を宿したら、Wさんと私の夫の間にできた不倫の子として堕胎することに決まり、手術はかかりつけのT医師の病院でする手筈にまでなっていました。 
父の再婚相手が決まるまで、夫のいる私でさえも、添い寝の役をさせられたものです。

次女孜子の証言

「私とすぐ下の妹の真砂子も一週間交代で父の添い寝をさせられました。 
父は『郷里の山梨では父親と娘が関係することもあるんだぞ』と、親娘のセックスを匂わせました。 
当時、私は婚約中で、その相手から、『親不孝と言われてもいい。教主様とだけはやめてくれ』と頼まれました。
幸い、そばに寝ていればいいだけで、肉体関係はありませんでした。 
でも、父が夜中にお手洗いに行くたびに布団を直してやったり、時々起きて寝相を見てやったり、いくら娘でもそれは辛い仕事でした」 

その後、末娘・志づ子の勧めで、友人のお母さんである松島文枝の名前が上がりました。
父は大変乗り気でした。
父とその女性の初デートの日---。
当日は私たち夫婦が同行することになっていましたが、大雪で電車も車も動きません。 
それでも、教団本部のある立川から電車を乗り継いで、なんとか東京駅に着き、近くのホテルまで連れて行きました。 

▼「お前たち、映画でも見てこい」

父は上機嫌です。
しばらくして迎えに行くと、

▼「映子、ありがとう。文枝とは切っても切れない仲になった。本当に感謝しているぞ」 

それは母の一周忌も済んでいないうちのことでした。 

母の友司は、心臓発作で死んだことになっています。
しかし、実際は「後退性鬱病」といった症状で、少しずつ衰弱していきました。
はっきり言って、母は父の女性問題に悩んで体を悪くし、死んだのだと思っています。 
女性に走る父に「お父さん、お父さん」と、か細い声で呼び戻そうとしていた母の声が今も耳に残っています。 

昭和四十二年、母はべッドで休むことが多くなりました。 
ある日、母が休んでいる部屋から父の怒鳴る声が聞こえてぎたので、私と夫の幹司の二人で駆けつけました。 
すると父は、

▼「三月以降、何方月も妻の役目を呆たしとらん。実家に帰れ」

と怒っています。 
病気で衷ている母に、父は無理に関係しようとして拒否されたらしいのです。
その時、父は六十一歳、母は五十五歳でした。 
夫がたまりかねて、「教主様、それは苑主様(母のこと)がご病気ですから」とかばうと、父はさらに逆上して、あろうことか、 

▼「映子、見てみろ。幹司と母親は親子丼だ!」

と言って、母に、「ヤカン」を投げつけます。
そんな夫を見て情けなくなった母は、 
「お父さん、この年になって孫もいるのに、実家に帰れないでしょう」
そう言いながら、涙を溜めた目で父をじっと見つめていたものです。 
母の死後、性欲を抑えきれない父に、当時ピンク女優として映画に出ていた女性を寝所に送り込んだこともありました。 


■ 「教団に頭は二つ要らね」 

教団に追い出されてから、私たち夫婦は生活に困りました。
手元には私の退職金が1140万円あるだけ。
夫は追放処分ですから退職金はゼロ。
まず37坪の家を買い、電気釜から買い揃えなければなりませんでした。 
夫が就職しようとしても、履歴書の「真如苑」が採用を妨害しました。
人事担当者が教団に問い合わせると、教団の人間が夫の悪口を言うのですから、それも当然です。
私の裁縫と編み物で細々と食いつなぐ毎日、 どれほど教主を、教団を恨んだことでしょう。 

「次女の証言」 

▼「姉が出て行ってから、父は、『妹たちが束になってもおまえの霊能にはかなわないから、お前に真如苑を任せたぞ』

と言っていました。
それなのに、私の力が教団内で強くなってくると

▼『教団に頭は二つ要らね。オラ知らね』 

と私を追い出しにかかったのです。 
私は、城南支部があった奥沢(世田谷区)の土地と家屋(当時で5000万円相当)を退職金としてもらいました」 

私たちは「闡提」(仏教用語で救われない弟子)の烙印を押されました。
けれど、私は教団に楯突いたことも無ければ、信心をやめる、と言った覚えも無いのです。
闡提と言うなら、亡き父に手を合わせに行った私と孜子に集団リンチを加えさせた真砂子と志づ子こそ、その言葉がピッタリです。
父の後継者となった2人は、信者たちの行動の責任を取るべきでしょう。 

父が亡くなった直後に父の恥部を世間にさらすのは、娘の取るべき道でないことは承知しております。
でも、8月28日の本葬が済むと、父は教主から教祖となって崇め奉られてしまうのです。 
 私たちの真意を、信者の方にもわかっていただけると良いのですが。 

「次女の証言」

「財務を見ていた母が亡くなってからは、教主のお金に対する考え方が変わりました。
私にこう言ったこともあります。

▼ 『オレはもう宗教家でなくていい、宗教屋で』。 

信者さんから歓喜(真如苑独特の用語で寄付の意味)を受ける態度も横柄になりました。 

▼『おれは百万や二百万じゃ(歓喜する信者に)会わない。孜子代わりに受け取ってこい』

"長者の万灯より貧者の一灯"という諺は、真如苑には適用しなくなっていたのです」 

43年の暮れになって、父親の再婚話で、教団幹部を巻き込んだ騒動が持ち上がりました。
強硬に再婚に反対した孜子は父親から勘当を言い渡され、真砂子と志づ子は家出してしまいました。 
私も再婚には反対でしたが、長女の私まで出て行ったらお父さんが一人ぼっちになってしまうと思い、夫とともに教団にとどまりました。 
しかし、結婚に反対しない私たちに教主は

▼「文枝と結婚させてくれないのはヘビの生殺しと同じだ」

の一点張りで、次第に私たち夫婦を疎ましく感じるようになったようです。 
44年9月、当時、教務長という教団ナンバー2の夫に内容が知らされないまま"宗教裁判"が開催され、「義妹たちの風呂を覗いたり、暴行を加えたりした」という濡れ衣で追放処分が下されました。 
もし本当に夫が、言われるような痴漢だったら、私は妹を狙うような男とは離婚したはずです。
しかし、夫の無実を信じた私は、教団を出て行く夫と行動を共にすることにしました。  

結局、教主の再婚話から生じた教団内のトラブルは、「伊藤幹司の痴漢が原因だった」と話題をすり替えて、妹たちを教団に戻しました。 
妹たちも、自分たちがいない間に再婚の既成事実ができてしまったのを諦めていたようです。 



押し問答の末、結局、映子さんと孜子さんのみが通用門から中へ入ったが、その直後、「中から"ギャーー"という女性の悲鳴や"ウォーー"という叫び声が聞こえた。 
つきそってきた男性が中へ入ろうとするのを「真如苑」側の人間10数人がスクラムを組んで妨害。
脚立を立てて塀から撮影していた、姉妹に同行してきたカメラマンが "大変だ、中でやられている"と叫んだ直後、引きずりおろされ暴行を受けたので、それを撮影しようと近づいたところ、10数人の若い男に下半身を蹴りつけられ、その場に倒されてしまった。
何回も何回も 足蹴にされ、本当に殺されるのではと思いました」(本誌写真記者) 

その際、カメラとストロボも壊されてしまう。
状況を危険と判断した同行の本誌記者が110番。
パトカーが到着したときには、映子さん、孜子さんはすでに 「二度とくるな!」の怒号を背に立ち去った後だったが、「真如苑」側の攻撃は今度は本誌記者に向げられる。
蹴りつけたり押したりの暴行を操り返し、駆け付けた警察官に向かって「こいつは悪いカメラマンだ」「オマエたちは悪魔だぁ〜!」と叫ぶ始末。
あげくに教団側のビデオカメラのライトを記者に向け 「顔をかくすな!」 
本誌の抗議に対して、「真如苑」側は後に、「長女、2女側のカメラマンだと信者たちが思ってしまった」(広報部長代理・西川勢二氏)と語っている。 




3.「真如苑」四姉妹 教主が死んで骨肉の争い リンチ暴行事件 

「不信心者に宗教が分かるはずがない、と言われればそれまで。
しかし、実の娘を父親の遺骸と対面させではいけないとは、 
どんな宗教の教典にも書かれていまい。新興教団で四番目の信者数を誇る真如苑とは、一体いかなる教団なのか。 
四姉妹と父・教主との確執は?」 
* * * 

その場に居合わせた目撃者たちの証言によると、暴行は次のようにして加えられた―――。 

十九時十分頃、映子さん、孜子(あつこ)さん、映子さんの長男(19)らが本部前に到着。
守衛が「お焼香したいなら中へ」と脇門を明ける。 
姉妹が門をくぐると、その直後に中から鍵が掛けられた。 
そこには、六十人ほどの信者がいて、突然、二人はコンクリートの床に叩ぎつけられた。
孜子さんは頭を打って脳震盪を起こす。 
映子さんが抱き起こそうとすると、信者たちは、「脳震盗の演技をしている」 
別の信者は 孜子さんにツバを吐きかけて、腹部を中心に体中を蹴る。
二人が抱き合って互いをかばおうとすると、信者たちは二人を引き難してはまた蹴る。 
映子さんの着物の袖は引きちぎられて、草履もビこかにいってしまった。 

「もういいから帰らせて」と孜子さんが叫ぶと、「お焼香に来たんだろ」 
そうして信者の集団は、焼香台ヘ二人を引ぎずって行った。
焼香台といっても、それは中庭に香台を置き、 
台の上に白い布をかけただけのものだった。 
やっとのことで二人が焼香を始めると、
「教主様を返せ。お前たちはどんな顔してお焼香できるんだ」 
そして二人を取り囲み、
「教主さまを殺した!教主さまを殺した!」のシュプレヒコール……。

==================


真如教徒による暴行事件が述べられていますが、問題は暴行そのものに在る、と考えるのではなく、 

「信者がそのように動かされている」

という観点を持つことが大事です。
マインドコントロールされれば、 おかしな論理も信じるようになりますし、結局は、教団の操り人形になってしまうのです。 

そして2つ目は、「長女の夫が、義妹たちに痴漢行為を働いた」という部分ですが、まず、その結婚を許したのは教主である「伊藤フミアキ」ですが、 
特長としている『真如霊能』が贋物でなければ、娘の「婿」になる者の本質も事前に分かるはずですし、
のちに「痴漢」の症状を発症させたのも「真如苑」である、と言うことができるでしょう。

何故ならば、真如苑では「帰苑(参拝)するだけで浄まる」と謳っています。
それが真実であるならば、 教主に最も近い位置で修養したと言われる長女、そしてその夫は「ずいぶんと浄まっている」はずです。

(※「帰苑(参拝)するだけで浄まる」というのは、 カルトの手口「まず環境に引き込む」であることは明白です) 

もちろん、「痴漢」そのものが、権力争いの為の、単なる「濡れ衣」である可能性は高いでしょう。 

長女は、「形見分けをしてもらえないことは寂しい。せめて、焼香させてもらえませんでしょうか」と語っているようですが、真如苑としてはそれを許可するべきではないでしょう。 
なぜならば、それをネタにして、長女・次女が「遺産の分配」を主張してくることが考えられるからです。



TOP / 教義的資料目次 /  真如苑教徒反論目次