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● 伊藤真乗の妻 友司の手記

長男 智文

▼ 「苦しみ喘ぐ智文」
▼ 「ウウウウム・・・・・と苦しい声を残したきりで、母なる私のひざに抱かれたまま深い眠りにーーー。
(中略)
あの時、智文は決して満足して死んでいったのではありません。
(中略)
何年かかって行けるかわからぬ浄土へ浄土に旅立っていったのであります」


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次男、友一

死期が迫りくる中で、病室で喘ぎ苦しんだことが述べられている。
さらにその臨終に際して

「お前、男なら潔く智文兄さんのところへ行って、力を合わせて「抜苦代受」の基となるのだよ」

と、死を励ました、という。

  ↑
守護経 等の経典

■ 臨終に呻き苦しむのは三悪道に堕した証拠

地獄に堕ちた者を頼れば、地獄の生命と感応して、自らが地獄の業苦を感じる。
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  ▼ 両童子が臨終に当たって呻き苦しんだという記録は当然残っていません。
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   ★ → 上記の手記全文を検証しましょう。
しかも、それは母親であり、教団設立の責任者が書いたものであるから、そこに十分すぎるほどの主観と、教団の正当化が入っていることは誰人も首肯できるところである。
その点を考慮しながら、手記全文を検証しましょう。
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  ▼ 樋田様はその臨終を見たのでしょうか?「うううむ」がその根拠ですか?
人は「阿」と言って生まれ「吽」と言って死ぬといいますが?
まして、両童子が地獄へ堕ちたと断ずる根拠は何ですか?
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   ★ → 手記から
●「苦しみ喘ぐ智文」
●「ウウウウム・・・・・と苦しい声を残したきりで、母なる私のひざに抱かれたまま深い眠りにーーー。
(中略)
あの時、智文は決して満足して死んでいったのではありません。
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★ 上記の如く、実の母親であり、教団設立者が書いた文章である。
当然、教団を正当化する文言であるはずのところに、ここまで悲惨な状況が書かれているとすれば、実際は、もっと凄惨な死に方であったことが類推される。
また、この記述の通りだとしても、これまさに、守護国界主陀羅尼経 阿闍世王受記品第十 に説かれる地獄へ堕ちる相を想起させる状況である。

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一は自の夫妻男女眷属を惡眼もて瞻視(せんし=見る、見守る。)す。
二はその両手を挙げて虚空を捫?(もんぼ=悶絶のこと。)す。
三は善知識の教えに隨順せず。(不相隨順(ふそうずいじゅん)=不相は「〜がない、しない」隋順は従う事。)
四は悲號啼泣嗚咽(ひごう ていきゅう ういん=悲しみ、大声をあげ、さけび、むせび、泣くこと。)して流涙す。
五は大小便、利を知らず覚えず。
六は閉目して開かず。
七は常に頭面を覆う。
八は臥して飮?(いんだん、いんたん、?=喰らう事。)す。
九は身口臭穢。(しんくしゅうえ)
十は脚膝戰掉(きゃくしつせんじょう)。戦=おのの-く、そよぐ掉=じょう(2) 脱落する(3) なくす,抜け落ちる(5) 逆方向を向く,向きを変える(6) 互いに取り替える,入れ替える
十一 鼻梁欹側(びりょういそく)。欹=い そばだてる。そば立つ
十二 左眼[目*閏]動(さがんじゅんどう)。
十三 両目變赤。(りょうがんへんせき)
十四 面仆臥(めんふが、めんぼくが)。仆=たおれる。
十五 ?身(けんしん=身が縮こまるorうつむく様)して左脇を地につけて臥せる。


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★ 少なくとも、以下↓の天界以上に生じる状態ではない。

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一は憐愍心を起こす。

二は善心を發起す。

三は歓喜心を起こす。

四は正念が現前す。

五は諸の臭穢無し。

六は鼻の欹側(いそく)すること無し。欹=そばだつ。そばだてる。

七は心に恚怒無し。

八は家財寶妻子眷屬に心に愛戀すること無し。

九は眼色清淨。

十は仰面して笑を含み天宮まさに来たりて我を迎うと想念す。

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★ 更に教義的に解析すれば、当時、伊藤夫妻は真言の修行にのめり込み、神憑り、立教したのが昭和11年2月8日
その後、成田山新勝寺(真言宗)と縁を結び、「立照閣」設立に動いていたその最中、同年6月9日つまり、立教から4か月後に、三歳の長男な急死。

これは、まさに貴方が反論を放棄した、真言宗 の害毒に他ならない。
既に真言宗は、道理・文証によって「亡家、亡国」「主人・長男 立たず」「男子早逝」と喝破されきっている低級な邪仏教である。
その悪しき現証そのものではないか。
(しかも、その後、次男までも15歳で亡くしている。これ「男子早逝」の厳罰の現証以外何ものでもないではないか。)
その低劣・邪悪な宗教による害毒によって死んだ者が、地獄もしくは三悪道に堕ちないはずがない。
ましていわんや、後々、こじつけられて祀られるような、人々の苦しみを「抜苦代受」できるような境界に居られよう筈もない。


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