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その通り!

★ ↑ しかし、人間ここまで卑怯・姑息・卑劣に成れるものなのか?と毎回投稿を見る度に感心する。
なにか、植物の成長を毎朝観察するような、科学的な興味にも似ている。
ではいって見ましょう。

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▼ その通り!
どうやら、言葉が絶対だと言う迷いから解放されそうですね?
今、やっているのは般若部の事ですよ?
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★ 法華経にもちゃんと説かれていました。
■ 「止みなん、舎利弗。復説くべからず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。」
→ 「舎利弗、もう自分の智慧・才覚で考えるの止めなさい。何故かならば、仏の悟りは真に希にして、難解な法である。
ただ、仏と仏のみが諸法の真の姿・在り方を極め尽くしているのである。」
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ですよね?
仏説を言葉で知り尽くすなんてことは出来ないと法華経にも説かれているでしょ?
そこに気づければ良いのです。
およそ凡夫が知るにしては難しすぎる、不可思議な領域が仏法にはある。
なぜならば、お釈迦様の悟りは言葉では表しきるのが困難だから。
それだけの※@「悟りがある方」でなければ説きようがない。
仏説の性質が理解された事は誠に喜ばしいですな。

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   ★ ↑ もしかして本当に馬鹿なのか?それとも馬鹿のふりをしているのか?

私は初めから、「仏の内証が不可思議にして思議思惟し難し。」という点などは全く否定していない。
しかし、それはあくまで「経典を基にしないでは理解・体得できない。」
と言っている。

ところが悩乱者は、こちらの経典を基にした論究に完全に反論不能になり、そこから逃げ出すために、
▼「仏の智慧は不可思議。だから、論議しても無駄。」
と煙にまこうとしているだけ。
実に、見苦しい醜態である。

★ 当方の主張
仏の悟りそのもの=不可思議 → 仏はそれを教説として説き表した → 修行者はその経典を基にして、修行しその不可思議の仏の悟り、内証へ向かう → 仏と一如する。

▼ 悩乱者の主張
仏の悟りそのもの=不可思議 → 経文も不可思議なのだから論議思惟できない → 仏の悟りがある人が説くことをただ行じればいい

こういうことである。
真に幼稚・稚拙・愚かである。一言ですっきり言えば バカ である。

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矛盾点

※@ 「悟りのある方」 は 何によって証明されるのか? 
→ 経典であろう。
→ でその@「」は誰か?と問えば、当然 「伊藤真乗」 と答える。
が、その示すところの経典は、全く曖昧にして、伊藤真乗などを指定しているとは到底言えない。

104 【資料】 「伊藤真乗が末法の教主であることの予言」として説かれている涅槃経の経文として真如惑乱者が挙げている箇所

↑ この箇所を真乗の予言とするために必要な前提根拠は、「法華 勝 涅槃 劣」 を崩すことである。
なぜなら、「真乗が唯一「涅槃経を弘めた」こと」を根拠にしているからである。
ところが悩乱者は当方の「法華 勝 涅槃 劣」の論証に完全に反論不能になって今や支離滅裂な痴言を喚いているだけとなった。
まさに、例えば自分を世界の救世主と信じ込んで他の人には全く意味不明なことを鉄格子の中で喚き散らしている狂人 の類
あるいは、裁判で懲役刑が確定し収監された犯罪者が、牢獄の中で、「俺は無実だ〜」と喚いている姿
であるから、涅槃経に説かれている内容は、ザックリ言えば法華経の追説・補説という意義であるから、涅槃経に「此の経を弘める」とある箇所にはその元意とするところは「法華・涅槃を弘める」である。
となれば真乗は法華を涅槃に比べて下す訳だから、魔師・邪師・ペテン師 ということになる。

これを受け入れられない悩乱者が今、必死に悪足掻きをしてみっともない醜態を晒し続けている訳である。


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