立正佼正会 釈迦像を本尊とすることを破す


★ 法華経・天台大師からの証文

■法華経の第四法師品に云はく

「薬王、在々処々に若しは説き若しは読み、若しは誦(じゅ)し若しは書き、若しは経巻所住の処には皆応(まさ)に七宝の塔を起(た)てヽ極めて高広厳飾(こうこうごんじき)ならしむべし。
復舎利を安(やす)んずることを須(もち)ひず。
所以(ゆえん)は何(いかん)。此の中には已に如来の全身有(ましま)す」

■涅槃経の第四如来性品に云はく

「復次に迦葉、諸仏の師とする所は所謂(いわゆる)法也。
是の故に如来恭敬(くぎょう)供養す。法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」

■天台大師の法華三昧に云はく

「道場の中に於て好き高座を敷き、法華経一部を安置し、亦必ずしも形像(ぎょうぞう)舎利並びに余の経典を安んずべからず。
唯法華経一部を置け」

普賢経に云はく

■「此の大乗経典は諸仏の宝蔵也、十方三世の諸仏の眼目なり、三世の諸の如来を出生する種なり」

■「此の方等経は是(これ)諸仏の眼なり。諸仏は是に因って五眼を具することを得たまへり。
仏の三種の身は方等より生ず。
是大法印(ほういん)にして涅槃海(ねはんかい)を印す。
此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。
此の三種の身は人天の福田(ふくでん)、応供(おうぐ)の中の最なり」


以上、日蓮大聖人の引文

以下、参照

■ 無量義とは一法より生ず。
其の一法とは、即ち無相なり。
是の如き無相は、相無く、相ならず、相ならずして相無きを、名づけて実相と為す。(無量義経説法品第二 19)

実相=御本尊

文証

■ 是を本尊とは申すなり。経に諸法実相と云ふは是なり。
妙楽云はく「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土」云云。
又云はく「実相の深理、本有の妙法蓮華経」(日女御前御返事 弘安二年八月二三日 五八歳 1388)

■ 薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾(こうこうごんじき)ならしむべし。
復舎利を安んずることを須いず。
所以は何ん。
此の中には、已に如来の全身有(いま)す。
此の塔をば応に、一切の華香瓔珞(ようらく)、
(糸偏に曾)
蓋幢幡(ぞうがいどうばん)、
伎楽歌頌(ぎがくかじゅ)を以て、供養恭敬し、尊重(そんじゅう)讃歎したてまつるべし。
若し人有って、此の塔を見たてまつることを得て、礼拝し供養せんに、当に知るべし、是等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近づきぬ。(法師品第十 326)

■ 此の宝塔の中に、如来の全身有す。(見宝塔品第十一 337)

■ 是に於て釈迦牟尼仏、右の指を以て七宝塔の戸を開きたもう。
大音声を出すこと、関鑰(けんやく)を却(しりぞ)けて大城の門を開くが如し。
即時に一切の衆会(しゅえ)、皆、多宝如来の、宝塔の中に於て、師子座に坐したまい、全身散ぜざること、禅定に入るが如くなるを見 云々(見宝塔品第十一 345)

■ 爾の時に多宝仏、宝塔の中に於て、半座を分ち、釈迦牟尼仏に与えて、是の言を作したまわく、釈迦牟尼仏、此の座に就きたもうべし。
即時に釈迦牟尼仏、其の塔の中に入り、其の半座に坐して、結跏趺坐したもう。
爾の時に大衆(だいしゅ)、二如来の、七宝塔中の師子座上に在(ましま)して、結跏趺坐したもうを見たてまつり、云々

↑日蓮大聖人御図顕十界文字曼荼羅の御相貌

■ 阿逸多、是の善男子、善女人の、若しは坐し、若しは立ち、若しは経行せん処、此の中には、便ち塔を起つべし。
一切の天、人、皆応に供養すること、仏の塔の如くすべし。(分別功徳品第十七 460)

■ 其の所住止の処 経行し若しは坐臥し乃至一偈をも説かん 是の中には応に塔を起てて荘厳し妙好ならしめて 種種に以て供養すべし
仏子此の地(じ)に住すれば 則ち是れ仏受用(じゅゆう)したもう
常に其の中に在(ましま)して 経行し若しは坐臥したまわん

■ 若しは経巻所住の処、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若もしは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆、応に塔を起てて供養すべし。(神力品第二十一 513)

■ 若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え
衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す

実相=御本尊 上記


末法に於ける「南無妙法蓮華経」の創始者・日蓮大聖人が文字曼荼羅正意の論証

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立正佼正会が他宗と謗法与同している点を破す

■若し人信せずして 此の経を毀謗せば
則ち一切 世間の仏種を断ぜん
或は復?蹙して 疑惑を懐かん
汝当に 此の人の罪報を説くを聴くべし
若しは仏の在世 若しは滅度の後に
其れ斯の如き経典を 誹謗すること有らん
経を読誦し 書持すること有らん者を見て
軽賎憎嫉して 而も結恨を懐かん
此の人の罪報を 汝今復聴け
其の人命終して 阿鼻獄に入らん(譬喩品第三 175)


▼念仏宗 浄土三部経以外は「捨閉閣抛」→捨てよ閉じよ閣(さしお)け抛(なげう)て →法華経も含む。
       善導「千中無一」法華経では千人が内、一人も成仏しない。
       →法華経誹謗。

▼禅宗  「教外別伝」一切経の他に悟りが以心伝心された。→法華経誹謗。

▼真言宗 法華経を大日経より三重の劣と下す。(1大日経 2 華厳経 3法華経)
       →法華経誹謗 

この点を指摘しなければ仏弟子に非ず。

■ 諸仏世に出でたもうには唯此の一事のみ実なり 余の二は則ち真に非ず
終に小乗を以て 衆生を済度したまわず(方便品第二 110)

■ 若し小乗を以て化すること 乃至一人に於てもせば
我則ち慳貪に堕せん 此の事(じ)は為(さだ)めて不可なり

※この小乗は法華経以前の経

■法華経の方便品に云はく「仏は自ら大乗に住し給へり。乃至自ら無上道大乗平等の法を証す。
若し小乗を以て化すること乃至一人に於てもせば我則(すなわ)ち慳貪(けんどん)に堕(だ)せん。此の事は為(さだ)めて不可なり」と。
此の文の意は法華経より外の諸経を皆小乗と説けるなり。亦寿量品に云はく「小法を楽(ねが)ふ」と。
此等の文は法華経より外の四十余年の諸経を皆小乗と説けるなり。(守護国家論 正元元年 三八歳 129)

■舎利弗当に知るべし 鈍根小智の人
著相?慢の者は 是の法を信ずること能わず
今我喜んで畏れ無し 諸の菩薩の中に於て
正直に方便を捨てて 但無上道を説く
菩薩是の法を聞いて 疑網皆已に除く

■舎利弗に告ぐ 斯の経を謗ぜん者は
若し其の罪を説かんに 劫を窮むとも尽きじ(譬喩品第三 181)

■世間に二乗として、滅度を得ること有ること無し。唯一仏乗をもって、滅度を得る耳(のみ)。
比丘、当に知るべし。如来の方便は、深く衆生の性に入れり。
其の小法を志楽し、深く五欲に著するを知って、是等の為の故に涅槃を説く。
是の人、若し聞かば則便ち信受す。(化成喩品第七 277)

■若し声聞の人、是の経を聞いて驚疑し怖畏せん。当に知るべし、是を増上慢の者と為づく。(法師品第十 329)

■ 仏の滅度の後の恐怖悪世の中に於て 我等当に広く説くべし
諸の無智の人の 悪口罵詈等し
及び刀杖を加うる者有らん 我等皆当に忍ぶべし
悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に
未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん
或は阿練若に 納衣にして空閑に在って
自ら真の道を行ずと謂いて 人間を軽賎する者有らん
利養に貪著するが故に 白衣の与に法を説いて
世に恭敬せらるること 六通の羅漢の如くならん
是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い
名を阿練若に仮って 好んで我等の過を出さん
而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は
利養を貪るを為ての故に 外道の論議を説き
自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑し
名聞を求むるを為ての故に 分別して是の経を説くと
常に大衆の中に在って 我等を毀らんと欲するが故に
国王大臣 婆羅門居士
及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて
是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん
我等仏を敬うが故に 悉く是の諸悪を忍ばん
斯に軽しめられて 汝等は皆是れ仏なりと言われん
此の如き軽慢の言を 皆当に忍んで之を受くべし
濁劫悪世の中には 多く諸の恐怖有らん
悪鬼其の身に入って 我を罵詈毀辱せん
我等仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし
是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん
我身命を愛せず 但無上道を惜む
我等来世に於て 仏の所嘱を護持せん
世尊自ら当に知ろしめすべし 濁世の悪比丘は
仏の方便 随宜所説の法を知らず
悪口して?蹙し 数数擯出せられ
塔寺を遠離せん 是の如き等の衆悪をも
仏の告勅を念うが故に 皆当に是の事を忍ぶべし
諸の聚落城邑に 其れ法を求むる者有らは
我皆其の所に到って 仏の所嘱の法を説かん
我は是れ世尊の使なり 衆に処するに畏るる所無し
我当に善く法を説くべし 願わくは仏安穏に住したまえ
我世尊の前 諸の来りたまえる十方の仏に於て
是の如き誓言を発す 仏自ら我が心を知ろしめすらむ(勧持品第十三 375)

■ 難問する所有らば、小乗の法を以て答えざれ。
但大乗を以て、為に解説して、一切種智を得せしめよ。(安楽行品第十四 388)

■ 我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。
悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼等其の便を得ん。宿王華、汝当に神通の力を以て、是の経を守護すべし。
所以は何ん。此の経は則ち為れ、閻浮提の人の病の良薬なり。
若し人病有らんに、是の経を聞きくことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん。(薬王菩薩本事品第二十三 539)

■ 若し折伏せんと欲せば 当に勤めて大乗を誦し
仏の大覚身 力無畏の所成を念じたてまつるべし(仏説観普賢菩薩行法経 647)

■ 涅槃経第三に云はく「若し善比丘あって法を壊らん者を見て置いて呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)し挙処(こしょ)せずんば、当に知るべし是の人は仏法中の怨なり。
若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子真の声聞なり」

■ 若し大乗経を誹謗(ひぼう)する者有らば、当に勢力(せいりき)を以て之を摧(くじ)きて伏せしめ、既(すで)に摧伏(さいふく)し已(お)はって然して後に勧めて大涅槃を読ましむべし。(守護国家論 152)

■ 天台大師「法華折伏 破権門理」

■ 章安大師云はく「寧(むし)ろ身命を喪(うしな)ふとも教を匿(かく)さゞれとは、身は軽く法は重し身を死(ころ)して法を弘めよ」

■ 南岳大師の四安楽行に云はく
「若し菩薩ありて悪人を将護し治罰すること能(あた)はず。乃至其の人命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん」と。
此の文の意は若し仏法を行ずる人有って、謗法の悪人を治罰せずして観念思惟を専(もっぱ)らにして邪正権実をも簡(えら)ばず、詐(いつわ)って慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云ふ文なり。
今真言・念仏・禅・律の謗人をたゞさず、いつ(詐)はて慈悲を現ずる人此の文の如くなるべし。(聖愚問答抄 文永五年 四七歳 404〜)

■ 総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ。
さだにも候はゞ、釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし。/P1371
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四諦・六波羅蜜について

▼「『四諦』『六波羅蜜』というのは、どうしたらわたしたちが日常の生活において直面する苦しみや悩みを根本的に解決して、絶対安穏の境地を得られるかを教えた法門で、釈尊の教えの大きな中心をなすもの」(法華経の新しい解釈)


■ 善男子、是の故に初説・中説・後説、文辞是れ一なれども、而も義別異なり。義異なるが故に、衆生の解異なり。
解異なるが故に、得法、得果、得道亦異なり。
善男子、初め四諦を説いて、声聞を求むる人の為にせしかども、而も八億の諸天、来下して法を聴いて、菩提心を発し、中ろ処処に於て、甚深の十二因縁を演説して、辟支仏を求むる人の為にせしかども、而も無量の衆生、菩提心を発し、或は声聞に住しき。
次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども、而も百千の比丘、万億の人・天、無量の衆生、須陀?に住し、斯陀含を得、阿那含を得、阿羅漢果を得、辟支仏因縁の法の中に住することを得。善男子、是の義を以ての故に、故に知んぬ。
説は同じけれども而も義は別異なり。義異なるが故に、衆生の解異なり。
解異なるが故に、得法、得果、得道、亦異なり。(無量義経説法品第二 25)

四諦・十二因縁・六波羅蜜は、声聞・縁覚・菩薩へのまさに三乗方便の教え。

■ 善男子、第七に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子、善女人、仏の在世、若しは滅度の後に於て、是の経を聞くことを得て、歓喜信楽し、希有の心を生じ、受持し、読誦し、書写し、解説し、説の如く修行し、菩提心を発し、諸の善根を起し、大悲の意を興して、一切の苦悩の衆生を度せんと欲せば、未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し、即ち是の身に於て、無生法忍を得、生死、煩悩、一時に断壊して、菩薩の第七の地に昇らん。

妙法蓮華経の修行をすれば、六波羅蜜の修行しなくとも自然に具わる。

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安楽行品における「摂受」修行に対しての日蓮大聖人の御指南

■ 或人(あるひと)日蓮を難じて云はく、機を知らずして麁義(あらぎ)を立て難に値(あ)ふと。或人云はく勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違すと。
或人云はく、我も此の義を存ずれども言はず」云云。或人云はく、唯教門計りなり、理は具(つぶさ)に我之を存ずと。
卞和(べんか)は足を切られ、清丸(きよまろ)は穢丸(けがれまろ)と云ふ名を給ひて死罪に及ばんと欲す。
時の人之を咲(わら)ふ。
然りと雖も其の人未だ善き名を流さず。
汝等が邪難も亦爾(しか)るべし。
勧持品に云はく「諸の無智の人有って、悪口罵詈(あっくめり)す」等云云。
日蓮此の経文に当たれり。
汝等何ぞ此の経文に入らざる。
「及び刀杖を加ふる者」等云云。
日蓮此の経文読めり。
汝等何ぞ此の経文を読まざる。
「常に大衆の中に在って、我等の過(とが)を毀(そし)らんと欲す」等云云。
「国王・大臣・婆羅門(ばらもん)・居士に向かって」等云云。
「悪口して顰蹙(ひんじゅく)し、数々擯出(しばしばひんずい)せられん」と。
数々(さくさく)とは度々(たびたび)なり。
日蓮が擯出は衆度(たびたび)、流罪は二度なり。
法華経は三世説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品なり。
今の勧持品は未来に不軽品たるべし。
其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし。(寺泊御書 文永八年一〇月二二日 五〇歳 486) 


■ 疑って云はく、念仏者と禅宗等を無間と申すは諍(あらそ)ふ心あり。修羅道(しゅらどう)にや堕つべかるらむ。

又、法華経の安楽行品に云はく
「楽(ねが)って人及び経典の過(とが)を説かざれ。亦、諸余の法師を軽慢(きょうまん)せざれ」等云云。
汝、此の経文に相違するゆへに、天にすてられたるか。

答へて云はく、
止観に云はく
「夫(それ)仏に両説あり。一には摂(しょう)、二には折(しゃく)。安楽行に長短を称せずといふが如きは是(これ)摂の義なり、大経に刀杖を執持し、乃至首を斬れといふは、是(これ)折の義なり。与奪(よだつ)、途(みち)を殊(こと)にすと雖も倶(とも)に利益せしむ」等云云。

弘決に云はく
「夫(それ)仏に両説あり等とは、大経に刀杖を執持すとは、第三に云はく、正法を護る者は五戒を受けず、威儀を修せず。乃至下の文、仙予(せんよ)国王等の文、又、新医、乳を禁じて云はく、若し更に為すこと有れば、当に其の首を断つべし。是くの如き等の文、並びに是破法の人を折伏するなり。一切の経論此の二を出でず」等云云。

文句に云はく
「問ふ、大経は国王に親付(しんぷ)し、弓を持ち箭(や)を帯(たい)し、悪人を摧伏(ざいふく)せよと明かす。此の経は豪勢(ごうせい)を遠離(おんり)し、謙下(けんげ)慈善せよと剛柔碩(ごうにゅうおお)いに乖(そむ)けり。云何(いかん)ぞ異ならざらん。

答ふ、大経は偏(ひとえ)に折伏を論ずれども、一子地(いっしじ)に住す。何ぞ曽(かつ)て摂受(しょうじゅ)無からん。此の経は偏(ひとえ)に摂受を明かせども、頭破七分といふ。折伏無きに非ず。各一端を挙げて時に適(かな)ふのみ」等云云。

涅槃経の疏に云はく
「出家・在家、法を護らんには、其の元心の所為を取り、事を棄(す)て理を存して、匡(まさ)しく大経を弘む、故に護持正法と言ふは小節に拘(かかわ)らず、故に不修威儀と言ふなり。○昔の時は平らかにして法弘まる。応に戒を持つべし、杖を持つこと勿(なか)れ。今の時は嶮(けん)にして法翳(かく)る。応に杖を持つべし、戒を持つこと勿れ。今昔倶に嶮なれば応に倶に杖を持つべし。今昔倶に平らかなれば応に戒を持つべし。取捨宜しきを得て一向にすべからず」等云云。

汝が不審をば、世間の学者、多分道理とをもう。いかに諫暁すれども、日蓮が弟子等も此のをもひすてず。一闡提(いっせんだい)人のごとくなるゆへに、先づ天台・妙楽等の釈をいだして、かれが邪難をふせぐ。

夫(それ)、摂受・折伏と申す法門は、水火のごとし。火は水をいとう、水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう、折伏の者は摂受をかなしむ。

無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす、安楽行品のごとし。

邪智・謗法の者の多き時は折伏を前(さき)とす、常不軽品のごとし。

(中略)

末法に摂受・折伏あるべし。所謂(いわゆる)、悪国・破法の両国あるべきゆへなり。

日本国の当世は悪国か、破法の国かとしるべし。

 問うて云はく、摂受の時折伏を行ずると、折伏の時摂受を行ずると、利益あるべしや。

答へて云はく、涅槃経に云はく
「迦葉(かしょう)菩薩、仏に白(もう)して言(もうさ)く○如来の法身は金剛不壊(ふえ)なり。而るに未だ所因を知ること能(あた)はず、云何(いかん)。仏の言さく、迦葉(かしょう)、能く正法を護持する因縁を以ての故に、是の金剛身を成就することを得たり。迦葉(かしょう)、我、護持正法の因縁にて、今、是の金剛身、常住不壊(ふえ)を成就することを得たり。善男子、正法を護持する者は、五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣、弓箭(きゅうせん)を持つべし。是くの如く種々に法を説くも、然も故(なお)、師子吼(ししく)を作すこと能(あた)はず○非法の悪人を降伏(ごうぶく)すること能(あた)はず。是くの如き比丘(びく)、自利し及び衆生を利すること能はず。当に知るべし、是の輩は懈怠懶惰(けだいらんだ)なり。能く戒を持ち浄行を守護すと雖も、当に知るべし是の人は能く為す所無からん。乃至、時に破戒の者有って是の語を聞き已(お)はって、咸(みな)共に瞋恚(しんに)して是の法師を害せん。是の説法の者、設(たと)ひ復命終すとも、故(なお)持戒、自利利他と名づく」等云云。

章安の云はく「取捨得宜(ぎ)不可一向」等。

天台云はく「適時而已(ちゃくじにい)」等云云。

譬へば秋の終はりに種子(たね)を下し、田畠をかえ(耕)さんに稲米をうることかたし。

建仁年中に、法然・大日の二人出来して、念仏宗・禅宗を興行す。
法然云はく「法華経は末法に入っては、未有一人得者・千中無一」等云云。
大日云はく「教外別伝(きょうげべつでん)」等云云。
此の両義、国土に充満せり。
天台・真言の学者等、念仏・禅の檀那をへつらいをそるゝ事、犬の主にを(尾)をふり、ねづみの猫ををそるゝがごとし。
国王、将軍にみやつかひ、破仏法の因縁、破国の因縁を能く説き能くかたるなり。
天台・真言の学者等、今生には餓鬼道に堕ち、後生には阿鼻(あび)を招くべし。
設(たと)ひ山林にまじわって、一念三千の観をこらすとも、空閑(くうげん)にして三密の油をこぼさずとも、時機をしらず、摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき。(開目抄 )


■   一 不謗人法の事
 安楽行品に云はく「人及び経典の過(とが)を説くことを楽(ねが)はざれ。亦諸余の法師を軽慢(きょうまん)せざれ」文。
止観の十に云はく「夫(それ)仏説に両説あり。一に摂(しょう)、二に折(しゃく)。安楽行の長短を称(とな)へざるが如き是(これ)摂の義なり。大経の刀杖を執持(しゅうじ)し乃至首を斬る、是(これ)折の義なり。与奪(よだつ)途(みち)を殊(こと)にすと雖(いえど)も、倶に利益せしむ」文。
 弘決の十に云はく「夫(それ)仏法両説等とは、大経の執持刀杖等とは第三に云はく、善男子正法を護持する者五戒を受けず威儀を修せず、乃至下の文は仙予国王等の文なり」文。
 文句の八に云はく「大経には偏(ひとえ)に折伏を論じ一子地に住す。何ぞ曽(かつ)て摂受(しょうじゅ)無からん。此の経には偏に摂受を明かせども頭(こうべ)七分に破る。折伏無きに非ず。各一端を挙げて時に適(かな)ふのみ」文。
 顕戒論(けんかいろん)の中に云はく「論じて曰はく、持品の上位は四行を用ひず、安楽の下位は必ず四行を修す。摩訶薩(まかさつ)の言定めて上下に通ず」文。
 文句の八に云はく「持品は八万の大士忍力成ずる者此の土に弘経す。新得記の者は他土に弘経す。安楽行の一品なり」文。
 疏(しょ)の記の八に云はく「持品は即ち是(これ)悪世の方軌(ほうき)、安楽行は即ち是始行の方軌、故に住忍辱地(じゅうにんにくじ)等と云ふ。安楽行品に云はく、他人及び経典の過を説かざれ。他人の好悪長短を説かざれ」文。(一代五時継図)


■ 難じて云はく、左様に方便権教たる諸経諸仏を信ずるを法華経と云はヾこそ、只一経に限りて経文の如く五種の修行をこらし、安楽行品の如く修行せんは如説修行の者とは云はれ候まじきか如何。
答へて云はく、凡(およ)そ仏法を修行せん者は摂折(しょうしゃく)二門を知るべきなり。一切の経論此の二を出でざるなり。されば国中の諸学者等、仏法をあらあらまな(学)ぶと云へども、時刻相応の道理を知らず。
四節四季取り取りに替はれり。夏はあたヽかに冬はつめたく、春は花さき秋は菓成る。春種子を下して秋菓を取るべし。秋種子を下して春菓実を取らんに豈取らるべけんや。極寒の時は厚き衣は用なり、極熱の夏はなにかせん。涼風は夏の用なり、冬はなにかせん。仏法も亦是くの如し。
小乗の法流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり、実教の流布して仏果を得べき時もあり。然るに正像二千年は小乗・権大乗の流布の時なり。末法の始めの五百歳には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり。
敵有る時は刀杖弓箭(とうじょうきゅうせん)を持つべし、敵無き時は弓箭兵杖(きゅうせんひょうじょう)なにかせん。今の時は権教即実教の敵と成る。
一乗流布の代の時は権教有って敵と成る。まぎ(紛)らはしくば実教より之を責むべし。是を摂折の修行の中には法華折伏と申すなり。
天台云はく「法華折伏破権門理」と、良(まこと)に故あるかな。
然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、冬種子を下して益を求むる者にあらずや。
鶏(にわとり)の暁に鳴くは用(ゆう)なり、よい(宵)に鳴くは物怪(もっけ)なり。
権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ篭りて摂受の修行をせんは、豈法華経修行の時を失ふべき物怪にあらずや。
されば末法今の時、法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へる。誰人にても坐(おわ)せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音(こえ)も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵(ごうてき)来たらん事は疑ひなし。(如説修行抄 文永一〇年五月 五二歳 762)


以上から 摂授・折伏 は 時 と 国 とに約される。

        時        国
摂授 正像二千年間  無智悪国
折伏 末法悪世     邪智謗法

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末法の初めにこそ末法の法華経の行者が出現する預言
昭和の庭野日敬氏に対する預言はどこに?

0255
    後五百歳合文   文応元年  三九歳
 経の第七に云はく 薬王(やくおう)菩薩品、宿王華(しゅくおうけ)菩薩を対揚と為す。 

■「我が滅度(めつど)の後、後五百歳の中に広宣流布して、閻浮提(えんぶだい)に於て断絶して悪魔・魔民・諸の天竜・夜叉(やしゃ)・鳩槃荼(くはんだ)等に其の便りを得せしむること無けん」文。

文句(もんぐ)の一に云はく

■「但当時大利益を獲(う)るのみに非(あら)ず、後五百歳遠く妙道に沾(うるお)はん。故に流通分有るなり」文。

記の一に云はく

■「然(しか)るに五五百とは且(しばら)く一往に従ふ、末法の初め冥利(みょうり)無きにあらず。且く大教の流行すべき時に拠(よ)る。故に五百と云ふ」文。

義決の一に云はく 道邃(どうずい)撰 

■「文旨を判ぜば、勧発品(かんぼっほん)に云はく、後五百歳の濁悪世(じょくあくせ)の中に於て、其れ是の経典を受持すること有らん者は、我当(まさ)に守護すべしと。大師は彼に依るが故に後五百と云ふ。然れども毘尼母(びにも)論の意に合せず。正しく大集に会へり。所以(ゆえん)は何(いかん)。安楽行(あんらくぎょう)品に云はく、末法の中に於て、是の経を説かんと欲(ほっ)すと。又云はく、後の末世の時此(こ)の経を持(たも)たん者と。明らかに知んぬ、五百は末法の初めを指すことを。彼の大集経の五五百の中、第四の多聞(たもん)とは且く一往に従ふ。小乗の多聞なり。末法の初め大利無きにあらず。今は且く法華の大流行すべき時に拠る。故に後五百歳遠沾妙道(おんでんみょうどう)と云ふ」已上決文 

守護章上の下に云はく

■「当今(とうこん)の人は機皆転変(てんぺん)して都(すべ)て小乗の機無し。正像稍(やや)過ぎ已(お)はって末法太(はなは)だ近きに有り。法華一乗の機、今正(まさ)しく是其の時なり。何を以てか知ることを得ん。

安楽行品に云はく、

■「末世法滅の時」と。又云はく
■「小乗権教の禅定堅固(ぜんじょうけんご)已に過ぎぬ」文。
経の第五に云はく 安楽行品、文殊師利(もんじゅしり)菩薩を対揚す 
■「又文殊師利、如来の滅後末法の中に於て是の経を説かんと欲せば応(まさ)に安楽行に住すべし」 口安楽行の処。 又云はく
■「文殊師利菩薩摩訶薩(まかさつ)後の末世の法滅せんと欲する時に於て」 意安楽行の処。 又云はく
■「又文殊師利菩薩摩訶薩、後の末世の法滅せんと欲する時に於て、法華経を受持すること有らん者」 誓願安楽行の処。 

経の第六に云はく 分別功徳(ふんべつくどく)品の滅後五品の中の第二品の下 
■「悪世末法の時、能(よ)く是の経を持たん者は、則ち為(こ)れ已に上の如く、諸(もろもろ)の供養を具足(ぐそく)するなり」と。

経の第八に云はく 普賢(ふげん)菩薩勧発品の成就(じょうじゅ)四法の普賢菩薩の誓願 
■「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」云云。

瑜伽論(ゆがろん)に云はく 弥勒菩薩無著菩薩の請に趣きて云はく 

■「東方に小国有り、其の中に唯大乗の種姓のみ有り」文。

法華翻経(ほんぎょう)後記に云はく
■「予昔天竺国に在りし時遍(あまね)く五竺に遊びて大乗を尋討し、大師須利耶蘇摩(しゅりやそま)に従ひて理味を餐稟(さんぼん)し、慇懃(おんごん)に梵本を付嘱して言はく、仏日(ぶつにち)西に入りて遺耀(いよう)将(まさ)に東北に及ばんとす。茲(こ)の典東北の国に有縁なり、汝慎みて伝弘(でんぐ)せよ」文。

天竺別集(てんじくべっしゅう)に云はく 遵式(じゅんしき)の記、智礼の弟子、

妙楽第八代の弟子 
■「始めは西より伝ふ、猶(なお)月の生ずるがごとし。今復(また)東より返る、猶日の昇るがごとし。素影円暉(そえいえんき)終(つい)に我が土に環回するなり」 此の言、唐土へ三河入道の渡せるを見て書けるなり。 

秀句(しゅうく)の下に云はく 上中下三巻、伝教大師の御釈、嵯峨天皇の御宇弘仁十二年辛丑に之を作る 
■「爾の時に仏復(また)薬王菩薩摩訶薩に告(つ)げたまはく、我が所説の経典無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為(こ)れ難信難解なり。薬王、此の経は是(これ)諸仏秘要の蔵なり。分布して妄(みだ)りに人に授与すべからず。諸仏世尊の守護したまふ所なり。昔より已来(このかた)未だ曽(かつ)て顕説(けんぜつ)せず。而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉(おんしつ)多し。況んや滅度の後をや 已上経文。 当に知るべし、已説の四時の経、今説の無量義経、当説の涅槃経は易信易解(いしんいげ)なり、随他意(ずいたい)の故に。此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意(ずいじい)の故に。随自意の説は随他意に勝る。但し無量義経の随他意とは、未合の一辺を指す。余部の随他意に同じからざるなり。
代を語れば則ち像の終はり末の初め、地を尋ぬれば唐の東、羯(かつ)の西、人を原(たず)ぬれば則ち五濁の生闘諍(とうじょう)の時なり。
経に云はく、猶多怨嫉(ゆたおんしつ)況滅度後と。此の言良(まこと)に以(ゆえ)有るなり」文。
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末法の 「南無妙法蓮華経」 は日蓮大聖人が始めて他に向かって唱え出された。
庭野日敬氏のオリジナルではない。
ということは、創案者の意向・指示に沿うべき。
 
■此の経は相伝に有らざれば知り難し。(一代聖教大意 正嘉二年二月一四日 三七歳 92)

庭野氏がどう法華経を解釈しようが、「相伝」がない。
全然ダメ、である。

■かヽる日蓮を用ひぬるともあしくうやま(敬)はヾ国亡ぶべし。(種々御振舞御書 建治二年 五五歳 1066)


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名無量義 教菩薩法 仏所護念 (無量義と名づくるなり。菩薩を教うる法にして、仏の護念したまう所なり。)

名妙法蓮華 教菩薩法 仏所護念(妙法蓮華と名づくるなり。菩薩を教うる法にして、仏の護念したまう所なり。)

傍証

薬王、此の経は是(これ)諸仏秘要の蔵なり。分布して妄(みだ)りに人に授与すべからず。諸仏世尊の守護したまふ所なり。昔より已来(このかた)未だ曽(かつ)て顕説(けんぜつ)せず。

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補足

日蓮大聖人の「舎利」についての御指南

■法華経の悟りと申すは、此の国土と我等が身と釈迦如来の御舎利と一つと知るなり。
経に云はく「三千大千世界を観るに乃至芥子の如き許りも、これ菩薩にして身命を捨てたまふ処に非ざること有ること無し」@文@。此の三千大千世界は、皆釈迦如来の菩薩にておはしまし候ひける時の御舎利なり。
我等も此の世界の五味をなめて設けたる身なれば、又我等も釈迦菩薩の舎利なり。故に経に云はく「今此の三界は皆是我が有なり。其の中の衆生は悉く是吾が子なり」等@云云@。法華経を知ると申すは、此の文を知るべきなり。(11)

■舎利と申すは天竺の語、此の土には身と云ふ。我等衆生も則ち釈迦如来の御舎利なり。されば多宝の塔と申すは我等が身、二仏と申すは自身の法身なり。真実には人天の善根を仏因と申すは、人天の身が釈迦如来の舎利なるが故なり。(11)


■「復舎利を安んずることを須ひざれ」と。涅槃経に云はく「諸仏の師とする所は所謂法なり。是の故に如来恭敬供養す」等@云云@。法華経には我が舎利を法華経に並ぶべからず。涅槃経には諸仏は法華経を恭敬供養すべしと説かせ給へり。(624)

■   第十 是好良薬 今留在此 汝可取服 勿憂不差の事
 御義口伝に云はく、是好良薬とは、或は経教、或は舎利なり。さて末法にては南無妙法蓮華経なり。是とは即ち五重玄義なり。好とは三世の諸仏の好み物は題目の五字なり、今留とは末法なり、此とは一閻浮提の中には日本国なり、汝とは末法の一切衆生なり、取とは法華経を受持する時の儀式なり、服とは唱へ奉る事なり。服する
により無作の三身なり、始成正覚の病患差ゆるなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは是なり。(1769)