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池上本門寺蔵 (国の重要文化財不認定) 『御遺物配分帳』 『身延山久遠寺番帳事』 が完全に偽書であることの証明


西山本門寺蔵 (国の重要文化財指定) 『墓所可守番帳事』 と 
池上本門寺蔵 (国の重要文化財不認定) 『御遺物配分帳』 『身延山久遠寺番帳事』   

この両書は共に「日興上人筆」と伝承されてきたが、内容は全く異なるものである。
既に多くの先達方が御指摘のごとく、『墓所可守番帳事』(西山本) こそが日興上人直筆の正文書であり、その内容・字体・筆跡が大きく異なる 『御遺物配分帳』・『身延山久遠寺番帳事』(池上本)は偽書であることは既に完全に論証済みである。

池上本門寺所蔵・「身延山久遠寺輪番事」は偽書

その上で、池上本が偽書であることを、更なる事実と角度から論証する。

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@ 「御遺物配分帳」 の 「執筆 日興 在判」 の大矛盾を突く。

以下の写真は池上本門寺所蔵の 「御遺物配分帳」 といわれるものである。


                                                  大日蓮展 図録 から

ここに、池上本門寺所蔵の 「御遺物配分帳」 が偽書である重大かつ決定的な証拠が遺されていた。
上掲写真の下段中程に 「執筆 日興 」 とあり、その右下によく見るとうっすらとではあるが 「在判」 との文字が読み取れる。



この件に関しては 立正大学の中尾尭氏も認めている。

また、日蓮正宗総本山第五十九世日亨上人も指摘されておられる。

興風談所発行の「日興上人全集」においても、この「御遺物配分事」の当該箇所を 「執筆 日興 在判」 と読み取っている。

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右配分次第如レ件

弘安五年十月 日     執筆 日興 在判      (120頁)
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その上、多くの疑義を呈している。

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「日興上人全集」 から引用

「御遺物配分事」 (中略) 御筆は花押といい書風といい、日興上人のものとは認めがたい。
また、次注のように内容的にも疑問があり、全体的に問題が多い。
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本文

「 御遺物配分の事           
註法華経一部十巻 弁阿闍梨(日昭) 御本尊一體(釈迦立像) 大国阿闍梨(日朗)」
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【註法華経】  前出の「宗祖御遷化記録」では「御遺言云、…同じく墓所の寺に籠め置き…」と記されており、本記と矛盾する。
【御本尊一體】 同じく「宗祖御遷化記録」に「御遺言云、仏(釈迦立像〉は墓所の傍に立て置くべし」と言われている。

引用以上
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「在判」とは、他人が書いた文章を筆写する際に、花押の所在を示すもので、日興上人御本人が、「執筆 日興」 と御自分で執筆されていながら、「在判」 と書き記す事は絶対にあり得ない。
もし本当に日興上人の御自筆ならば、そこにあるべきものは御花押である。
ということは、この文書は日興上人以外の誰かが書いた文書であることは確定的である。

しかも、 この文書は 「在判」 の文字が削られており、幽かに判読できる程度である。
別の箇所に、日持・日朗・日昭が花押と共に連署されている中、同列に 『日興 花押』 とある。

  

「在判」が削剥される前の状態通りにこの文書を解釈すると、
「ある人物が日興上人自筆の文書を書写したその書面に、日興上人御本人が「この文書に書かれている内容に納得し了承した」という意味において他の五老と共に連署された。。。。」
という誠に珍妙極まる文書ということになる。
日興上人がなぜそんな回りくどいことをする必要があるのか?
この文書以外に日興上人の御正筆が存在しているはずなのだから、「宗祖御遷化記録」のように、その文書に五老達と連署すればいいことではないか。
大矛盾である。
こういうものをまさに「怪文書」というのであろうか。

こういう矛盾に、この文書を作成した当の本人か、それとも後の門人が気付いたが故に、「在判」の文字をこっそり削剥したのであろう。
随分とみっともない醜態を演じたものである。

つまり、日蓮宗が古来から主張してきた、"「御遺物配分帳」 は日興上人御正筆" という主張は全くの虚偽であった訳である。


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A 次に 「御遺物配分事」 と 同じく池上本門寺に蔵する 「身延山久遠寺番帳事」 を比較する。

御遺物配分事 身延山久遠寺番帳事
大日蓮展 図録 から


この二紙は、全く同じ紙質であり、経年劣化の状況も同様であり、さらに紙の横中央部分に、両紙全く同じ個所に折れ目がついており、同時期に作成され、同様に保存された可能性が極めて濃厚である。

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B 両書の字体の比較検討

↓御遺物配分帳 連著部分
↓久遠寺番帳事 連著部分

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御遺物配分事 久遠寺番帳事


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越後公
御遺物配分事 久遠寺番帳事

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但馬公
御遺物配分事 久遠寺番帳事


まだまだ挙げればキリはないが、この短い文書の中で、これだけ筆跡・筆法・字体が酷似していれば、両文書は同一人物が書いたことは間違いないであろう。

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以上の

@ 「「御遺物配分帳」が日興上人の御正筆」という日蓮宗側の主張は真っ赤な嘘であった。 
A B 「御遺物配分帳」 と 「久遠寺番帳事」 は同一人物が、ほぼ同時期に作成したもの。

との検証により、

偽文書 「御遺物配分帳」 と同一人物が作った 「久遠寺番帳事」 も、当然、偽文書であり、両書は、日興上人御正筆ではない、全くの偽造文書であったことが確定的である。
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● 日付について

「御遺物配分帳」 には 「弘安五年十月 日」 とあり、 「久遠寺番帳事」 には 「弘安六年正月 日」 とある、この異なった作成年月日も、同一作者が、あえて意図的に別の年月日とした可能性が濃厚である。

この偽文書製作者は既に、日興上人御正筆である 「宗祖御遷化記録 → 御所持仏教事(弘安5年十月十六日) → 墓所可守番帳事(弘安六年正月 日)」 という一連の連続した文書の存在を知っていて、この正文書の日付に擬して、模倣して書き分けた、といえる。

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● 「執筆 日興」 について

下図右が、日興上人御正筆 「御所持仏教事」(弘安5年十月十六日) である。
最後に 「執筆 日興 花押」 とある。
「御遺物配分帳」 の偽作者は、ここを模して「執筆 日興 在判」としたのであろう。


ちなみに 「久遠寺番帳事」 においては 「執筆 日興 在判」 という記述がない。
これは、御正筆 「墓所可守番帳事」 に 「執筆 日興 花押」 がなかったところを模倣したがゆえであろう。

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● 下図左は 前の紙と次の紙との繋ぎ目の裏判(左)である。

「御遺物配分帳」 と 「久遠寺番帳事」 の両書にある「五老の連署」は、この繋ぎ目の裏判の連署を模したのであろう。
日興上人がこの正文書作成時には日頂師 日向師 は他行で、不参であった所も模している。
(ちなみに日興上人の御花押が全く違う筆跡であることは、論証済みである。)

こうして詳細に矛盾を暴かれた今となっては、この偽文書の作者が日興上人の正文書を必死になって真似して本物と偽装した姿がむしろ哀れに思えてくる。

                      興風談所発行 日興上人全集 から

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● 偽文書成立過程の推測

この人物は、どういう心理でこの偽文書を謀作したのだろうか。
偽文書を作る者の心理を推測してみても詮のない事ではあるが、あまりに稚拙な製作プロセスが垣間見えて、実に興味がそそられる。

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仮説@

この偽文書の作者は、日興上人御正筆の、「宗祖御遷化記録 → 御所持仏教事(弘安5年十月十六日) → 墓所可守番帳事(弘安六年正月 日)」 という年号順に、まずは弘安五年十月の 「御所持仏教事」 に対抗する偽文書の作成から始めたのであろう。
順調に本文を偽作して書いて行って、その最後に、これが日興上人の真筆ということにするために、「執筆 日興」と書いて、日頃、数々の書写をしている習性で、そのまま「在判」と書いてしまった。
当初はその矛盾に全く気が付かず、五老の連署の偽造に取り掛かった。
その後、弘安六年正月の「久遠寺番帳事」を捏造するにあたり、御正筆には「執筆 日興」となかったので、それを模倣して連署と花押だけにしたのであろう。

仕上がって出来栄えを確かめて悦に入っていた時、「ん?こりゃ変だぞ?」と初めて、「執筆 日興 在判」の矛盾に気が付いた。
「こりゃ、たいへん!」と、慌ててこの「在判」をガリガリと削って何とか取り繕ったのではあるまいか。
あるいは、当の本人は呑気なもので一向に気が付かず、ドヤ顔で「どうよ!」と『偽文書作成班』仲間に見せた。
その中で少々知恵の回る者がいて、「あの〜〜、日興上人が執筆されたという文書に偽装するんだったら「在判」はおかしくないっすか?」と指摘した。
そこで、「おお〜〜!」と言うことになり慌てて「在判」を消した。。。。

それならばなぜ新たな紙に書き直さなかったのか?
これは今では想像できないほど紙は貴重品であったことと、ただ、書き直すのが面倒くさかった。ということであろうか。

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仮説A

あるいは、当初は誰もこの矛盾に気付かず、後代になってから「在判」の大矛盾に気付いた誰かが、こっそり削剥した。
とも考えられる。
それならば、新たに書き直さなかった理由はもっと合理的に説明できる。
つまり、既に存する "日興上人御正筆"と謳ってきた 「久遠寺番帳事」 と、後代の門人が全く同じ字体・筆跡・筆法で書けるはずもないし、紙の経年劣化が進んでしまっていて、今更一紙だけ書き直したら、もう一紙との違いが歴然としてしまう。。。。
ここは、こっそり、人目を忍んで「在判」を削剥するしかなかった。。。

ということであろうか。



もちろん、これは仮説であって、真偽のほどは分からない。(そもそも、どうであってもかまわない内容である。)

ただ、日蓮大聖人がかく仰せである。

■ 「(※弘法大師の心経の秘鍵(ひけん)(=空海によって書かれた『般若心経』の注釈書で、『般若心経』を密教の立場で解釈した論書である。)に弘法大師が智拳の印を結んで南方に向かふに、)面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。面門とは口なり、口の開けたりけるか。眉間(みけん)開くとか(書)ヽんとしけるが誤りて面門とかけるか。ぼう(謀)書をつくるゆへにかヽるあやまりあるか。(報恩抄 建治二年七月二一日 五五歳 1027)

日蓮宗系の上古の者が邪意をもって姑息に謀書を作ろうとしたが故に、こんな惨めでみっともない偽文書の醜態を今日まで晒し続け、今後も永劫に晒し続けるハメになったのである。

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● 偽文書作成の意図

なぜこんなに御苦労し、失策を重ねてまで、こんな駄文の偽文書を作らなければならなかったのか?
この偽文書の作者が意図する所は明々白々、つまり、身延から日朗師が奪取して行った、本来日蓮大聖人の墓所に立て置く所の釈迦一体仏と、同じく日昭師が奪取していった「註法華経」の正当性を主張するためである。

更には日興上人が大聖人からの唯授一人・血脈相承を承けられた唯一無二の正統正嫡の第二祖であることを否定し、五老門流である自分達にも正統性がある、と主張したいが為である。

ただ、ここで面白いことは、こうまでして日興上人の御正筆に擬して偽文書を作るということは、日興上人という御立場に権威を認めていることの裏返しの心理であり、日興上人が、日蓮大聖人御遷化後の教団の最高権威者にして最高指導者であり責任者。一宗の統率者としての御立場であったという事実を証明する傍証とも言える。

日蓮宗が宗祖御遷化以来、今日までおよそ750年にもわたって、日興上人が、大聖人から別付嘱である唯授一人の血脈相承を継承された正統なる第二祖であることを否定してきた重要な根拠の一つとしてきたのが、この 「御遺物配分帳」 と 「久遠寺番帳事」 であった。
しかし、これらが全くの偽文書であることが、更に確定的になったことで、日蓮宗の主張する自宗の正統性はいよいよ根こそぎ崩れ去った、ということである。
我々は、この事実をもって更に強盛に日蓮宗を破折し切っていこうではないか。




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