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 日興跡条条事(日蓮正宗聖典 519)  高橋粛道師


通解
語句の解釈
日興跡条々事の批判を破す

一、作者について
二、成立年について
  堀上人も 元徳四年 説 (富要八巻一八頁)
   要法寺日辰 元徳四年 三月 
三、日目上人への付属について
  「日代置状」は偽書((堀上人詳伝五九四頁)


参考文献

日霑上人(富要7・94) 両山問答
日淳上人
日達上人
創価学会教学部 日蓮正宗創価学会批判を破す・64
松本佐一郎(富士門徒の沿革と教義・59)
尾林広徳師(学報二号一〇九貢)




一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主(ざす)と為し、日本国乃至一閻浮提の内山寺等に於いて、半分は日目嫡子分(ちゃくしぶん)として管領せしむべし、残るところの半分は自余の大衆等之れを領掌すべし。

一、日興が身に宛(あ)て給(たま)わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之れを相伝す、本門寺に懸(か)け奉るべし。

一、大石寺は御堂(みどう)と云い墓所(むしょ)と云い日目之れを管領し、修理(しゅり)を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり。

 右日目は十五の才日興に値い法華を信じてより以来七十三才の老体に至る敢(あ)えて違失の義なし、十七の才日蓮聖人の所に詣で=甲州身延山=御在生七年の間常随給仕し、御遷化(せんげ)の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞(そうもん)の功他に異なるに依つて此くの如く書き置くところなり、仍つて後の為め証状件(くだん)の如し。

(元徳四年) 十一月十日     日 興 判


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通  解

一、本門寺が建立された暁には新田卿阿闇梨日目を座主として、日本国及び一閻浮提の内の寺院の半分を日日が嫡子分として領有し、残りの半分はほかの大衆(僧侶) が管理しなさい。

一、日蓮大聖人から日興が付属した弘安二年の大御本尊を日日に授与 (相伝) する。本門寺本堂に奉安しなさい。

一、大石寺の御堂といい、墓所といい日目がこれらを管理し、修理を加え勤行して広宣流布を待ちなさい。

 右日目は文永十一年(一二七四)、十五歳の時日興に値い、これより法華経を信仰して七十三歳の老体になるまで少しも達矢の義はなかった。
日目は建治二年(一二七六)、十七歳の時宗祖大聖人のおられた甲州身延山に詣で、大聖人御在生七年の間常随給仕した。
大聖人御遷化後弘安八年 (一二八五) から元徳二年 (二二三〇) までの約五十年の間上奏を行い、その功績が他の人より優れているのでこの様に書き置くのである。よって後世の為に証書前の如くである。
 (元徳四年) 十一月十日                     日興 判

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語句の解釈


〔本門寺〕 

大聖人が相承書に 「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」 (全集一六〇〇貢)と言われたのは、武家或は公家を中心とした封建社会では本門寺建立は国主の帰依を条件としたと考えられていたからにちがいない。
当時の考えとして大石の寺を本門寺と本称出来るのは国主の帰依を必要としたのである。
本門寺公称の時は国主が日蓮正宗の仏法に帰依する時であり、帰依とは邪教を一掃し、正法を信仰することであるから、国主の権限によって諸乗一仏乗となって全寺院が本門寺の傘下に収まるのである。


 ざす
〔座主〕 

大寺の寺務を統括する首席の僧。
天台座主にはじまり、当家もこの名を用いた。
座主を東寺は長者といい、園城寺(おんじょうじ)・勧修寺・横川楞厳院(よかわりょうごんいん)等は長吏(ちょうり)、金剛峯寺(こんごうぶじ)は検校(けんぎょう)、東大寺・興福寺・法隆寺・仁和寺・四天王寺等は別当といった。
日興上人は宗祖大聖人を法主上人と尊称し、日目上人を座主と呼んだように宗門上古に於いては宗門の首席の僧を座主とよんでいた。
ところが座主の名は宗内の長という意味が強く、法体継承者としての特殊性が薄らいでくるので、大聖人以来の血脈伝灯者を最も良く表示する名称として代々の座主を「法主(ほっす)」と尊称するようになったと思われる。
後の門弟が宗門の長を座主といわずに「法主」と尊称するようになったのは、座主を御内証に於いて宗祖と同体とみたからであろう、いかに当宗が「血脈」「法主」を重視したを知ることが出来、そこに富士の信仰と清流を見ることが出来ると思うのである。


 ちやくしぶん
〔嫡子分〕 

家督を継ぐものの取り分、支配分。嫡子とは家督を継ぐべき子。よつぎ。あとつぎ。
財産の半分を嫡子が取り、残りの半分を多数で取るとは中世の習慣である(松本佐一郎著『沿革と教義』六〇貢)。


〔管領〕 管理、支配すること。

〔自余〕 それ以外。そのほか。日目上人以外の僧分である。

〔領掌〕 領有して支配すること。

〔弘安二年の大御本尊〕 現在正本堂(※奉安堂)に奉安せる大聖人出世の本懐たる大曼荼羅のこと。

〔御堂・墓所〕 日寛上人は「戒壇の本尊を伝うるが故に御堂といい、又蓮祖の身骨を付るが故に墓所と云うなり」(六巻抄二一九貢)と記している。

〔証状〕 証明書。証文。証書。

〔奏聞〕 天子に上奏すること。日興上人は本門寺建立という御遺命達成のために特に上奏を重視された。
廿六箇条に
■「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事」
■「弘通の法師に於ては下輩たりと雖も老僧の思いを為すべき事」
と遺誠されたのもこの為である。
又本状に「弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なる」と記して特に称讃されているのは国主帰依の熱願を示されている。
本尊脇書に「最前上奏の仁、新田阿日目に之を授与す一が中の一弟子なり」(富要八巻・一八八頁)とて、目師の給仕第一よりも、法論の功績よりも、東北弘教よりも、国諌
を重大視されている所に日興上人の御意を拝せるのではあるまいか。

〔十一月十日〕 正本は十一月十日とあるが、案文には月日がない。又年号も両本ともないが、日目上人が七十三歳の時は元徳四年 (正慶元年・一三三二) であるから、この年の成立と考えられる。
日興上人は翌年の正慶二年 (一三三三) 二月七日の御入滅であるから誤りない。
尚、日目上人が正慶二年に御遷化されたとする文献は、日位が建武元年 (一三三四) に陸前新田に日目上人百力日忌の供養碑を建てていることと、翌二年に同所に三回忌の供養碑を建てていることから (久保常晴著 『宮城県の題目板碑』 四貢)、日目上人の御遷化の年は正慶二年が確定である。

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    日興跡条々事の批判を破す

 日興跡条々事への批判・偽書説は

▼玉野日志 (富要七巻四二頁)、
▼日蓮宗々務院(創価学会批判・四八頁)、
▼高田聖泉(興尊雪冤録・四一頁)

等が挙げられるが、これらに対して宗門側から

● 日霑上人(富要七巻九四頁)、※  

● 日淳上人(淳師全一三四三頁)、(←※ これは1462ページではないか?) ※  

● 日達上人(達師全二−五−四四一頁・同四五二頁)、※ 

● 創価学会教学部(日蓮正宗創価学会批判を破す・六四頁)、※ 

● 松本佐一郎(富士門徒の沿革と教義・五九頁)、※

● 尾林広徳師(学報三号一〇九貢) (※← 学報2号では?)

等の反論・破折があって富士の正義は顕照された感が強い。
この為ここでは重説を避け、二三の私見を開陳することにする。


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一、作者について

 ▼「公開の上、学会の正当な判断をまつことをしない以上、無条件に正本の実在を信ずるわけにはいかない」 (創価学会批判四九頁)

として、身延派は日蓮正宗では資料も公開せず本物だといっても信用出来ない、偽書であると述べているが、本譲り状は宗門の僧俗に於いてさえ、年一度お虫払い法要で遠くから拝することが許されるだけである。
これが宗史以来の伝統的な方針であるから、部外者には公開しないのである。
しかし、公開しないからといって直ちに偽書と判定出来ない。
公開しようがしまいが本物は本物だからである。

たまたま堀上人が本状の本文と案文の二通の模写本を残されているので、他の日興上人の筆跡と比較すれば真偽は一目瞭然である。
私は一文字一文字を切りはなして照合したが、正しく跡条々事は日興上人の筆であることに確信をもった。
「十一月十日日興花押」の興の字は日興上人晩年の筆跡であり、花押にいたっては元徳年間の数種の花押と一致する(山口範道師編『日興上人御筆御本尊目録付御本尊・消息花押臨写集』を参考)。

これは私の独断と思われると困るので、古文書に造詣が深い山口範道師に依頼しての結果である。
将来日興跡条々事を公開することはないかもしれないが、跡条々事が真筆であることは正しい研究によるものなのであるから、正本の実在は信ずべき事を申し上げておきたい。

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二、成立年について

 宗門に於いても案文は元徳二年(一三三〇)、日興上人八十五歳の作で、本文は健康を回復された二年後の元徳四年(正慶元年)と考えられていたが、案文を拝見すればこの説は正しくないと思われる。
それは本文同様、案文にも「七十三歳の老体」とあるから、案文も日日上人七十三歳、即ち元徳四年に書かれたと考えられる。
案文には月日が欠如していることから、本文は案文が出来た直後に出来たとするのが妥当ではないかと考える。

 本文には末尾に「十一月十日」とあるだけで年号は記されていないが、日興上人は翌年の正慶二年(一三三三) 二月七日に御遷化されていることを思うと、跡条々事の案文も正本も元徳四年に成立したことになる。
堀上人も本状を元徳四年と考えられていた (富要八巻一八頁)。


 要法寺日辰が元徳四年三月と書いているのは大石寺使僧大納言の将来本によるのであろうが、根拠が不明である。
恐らく大納言か、それ以前の写主が案文には年月日のないことから勝手に「元徳四年三月」と付したのであろう。

 ここで日辰が案文によったであろうと想像されるのは、
本文には「仍為後証状如件」とあり、
案文には此の一文がなく、
日辰本にも此の七字がないからである。
もし、日辰が本文の伝写本を写したなら必ずや「仍為後証状如件」 の一文がなければならないはずである。

 又、
▼「日精は現在、正本(本文)と称するものは譲状の形式を具へぬ偽書であることを看とって日辰の云ふ案文が譲状の条件を具備している所からこの方を選んで家中抄に入れたのであろうと推察される」 (「創価学会批判」五八貢)

と邪推を恣(ほしいまま)にしている。
いくら案文を拝していないからといって、これだけの的はずれの論を発表することが許されるのであろうか。

 現在大石寺には案文と本文が現存するが、内容に於いては特別かわりがない。
案文は草稿であるから走り書きであり、正本は清書のように落ち着いた字体である。
この両筆を切りはりして二文を並べて書体を比較すると、筆の走りに相違がみられるのは案文と本文との違いからくるだけのことで、筆跡は同一人物、即ち日興上人の筆であることがわかる。
それを▼「日精上人は本文を偽物、案文を本物と考えた」というごときはどこから導き出せるのであろうか、案文は案文であり、本文こそ本物と考えるのが一般常識であるのに、本文を偽物、案文を本物と逆に取るのは跡条々事を偽書としたい画策のあらわれであろう。

 日精上人が日辰本を写しているのは案文とか正文とかの区別を心にとどめなかったからだけのことである。
日精上人の時代に跡条々事に関して何らかの論義があれば日精上人は配慮されたであろうが、別段そういう問題もなかったのでそのまま家中抄に写されたのであろう。

案文は日興上人の筆で内容も本文と変らない、だとすれば本文を写すことが正で、案文を写すことが誤りだとは云えない。
仮りに本文を紛失して案文のみが残ったとしても、その筆跡から日興上人筆が証明出来るわけであるから、日精上人が日辰本(案文)を書写したとしても問題にならない。

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三、日目上人への付属について

 日興跡条々事は譲り状で、日興上人が日日上人へ付属した証状である。
ところが身延派の学者は本状を偽書といい、かわりに「日代等付属状」 (宗全二巻一三九貢)※を持ち出して、日代こそ日蓮聖人の仏法を受けた人であると主張している。

しかし「日代等付属状」が偽書(堀上人詳伝五九四頁)であることは既に周知の事実であり、偽書をつかっての論証は所詮偽証でしかない。

 日興上人は大聖人の例にならって本六を制定した。『本尊分与帳』には「此の六人は日興第一の弟子」 (歴全八九頁)とて、寂日坊日華、日目上人、下野公日秀、少輔公日禅、摂津公日仙、了性房日乗の名が列記されている。
三位日順の日順阿闇梨血脈(宗全二巻三三五頁) によれば本六が過半逝去した為に新たに六人の若徒を加え新六と呼んだようである。新六の内で日代は筆頭に挙げられているものの、本六の日目上人を飛び超えて付属を受けることなど考えられない (堀上人や松本佐一郎氏の日代八通状への批判を見れば日代付属の嘘が明確である※)。
又、日代は日興上人滅後の事であるが、仙代問答で失脚するなど一門の棟梁の地位たる人ではなかった。

 日興上人から付属を受けたとする証拠に「譲座本尊」がある。譲座本尊とは日興上人が日目上人に座主の位を譲ったことを証する御本尊である。
日主上人は日興跡条々事示書に

■「大石寺者御本尊を以て遺状成され候、是則別付属唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇御本尊、興師より正応の御本尊は法体御付属」 (歴全一巻四五九頁)
とて、唯授一人の証しとして正応三年の譲座本尊を授与されたと述べている。
又、同じく日主上人は

■「日興御判客座・御隠居、日目本座・嫡子分」

といい、更に

■「此御本尊の御示がきは日興上人より日目上人法水血脈唯授一人なり是は法体付属」

と記するように元徳四年に先立つこと約四十年前に日目上人は付属を受けていたのである。しかし、未だ御本尊の御書写が晩年までないから、本宗では正応三年の付属を内付と呼んでいる。

 もう一つ日目上人が付属を受けたとする証拠に「お手継本尊」がある。この御本尊は日興上人が元徳四年(一三三二)十一月三日に日目上人に授与された御本尊で、これには

■「最前上奏の仁、新田阿日目に之を授与す、一が中の一弟子なり」 (富要八巻一八八頁) 

と認められている。

■「一が中の一弟子」

とは宗門の長として座主に日目上人を撰定したことを示すものである。付属の証左となるお手継本尊は日興上人に限ったものでなく、たとえば日道上人にも見ることが出来る。日道上人の暦応二年(一三三九)六月十五日のお手継本尊の端書に

■「奥州加賀野郷阿闍梨日行に之を授与す、上奏代日行は日道の弟子一が中の一なり」(富要八巻・一八九頁)とあり、この日、日道上人が日行上人に猊座を譲られている。

以上のことから日目上人は日興上人から付属を受けているのであり、日興跡条々事と内容を一にするものである。

〔上代の賢聖に対し尊称を省略したことをお詫び申し上げます〕



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資料


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日目上人譲状に就て会答

一、目師の譲条に云はく日興跡条々の事本門寺建立の時等と云々。
教正師云はく
▼是れ大事とす、当山日浄記に曰く日有未聞未見の板本尊之れを彫剋し猶己義荘厳の僞書を作る。其の僞書とは此の文並に番帳を指すなり。言ふ所全く、実跡たらば驚歎に堪へざる所」と云々。

● 愚謂らく此の遺文を以て案するに興師御在世に「本門寺」の号なき事顕然なり、故に重須日浄日専等の諸師大に之を患ひ此の僞言をなし、或は「其の現罰を蒙り日有癩人となり甲の杉山に蟄す」等と無根の悪口を極め「戒壇の本尊及び此の遺状をも僞物なり」と言掠して後生を誑惑せし者ならん、
爾れども開山已来其の七世国師の代までは「本門寺」の号なかりし事は永正十二年に今川家より始めて「本門寺」の号を許可せられしを以て知るべきなり、
以何となれば彼の宗祖の御染筆と誇耀せる「富士山本門寺根源」の額面は是れ何の為なるぞ、額と者必ず寺門及び本堂等に掲げて其の寺山号を標するにあり、決して宝蔵等に秘蔵し置く品にはあらざるべし、
若し爾らば開山御在世已来・「本門寺」の号あらば必ず此の額面を本堂等に掲示して、公然其の寺山号を標し給ふべきは勿論なり、
然らば何ぞ永仁六年より以来た北条足利の数世を経・始めて今川家の此の国に興れるに至り改めて額面標札等の支証を持出して其の寺号の許可を受くるの理あらん、
是れ必ず其の前は「本門寺」の号なきが故なるべし、
若し爾らば与へて之れを論ぜば、家中抄に
「二には富士山本門寺と者・興師の滅後に喚ぶ所の寺号なり、額は大聖人の御筆跡なり、然るに高開両師の御本意国主之帰依を受け富士山に三堂を建立して額を本門寺と打つべし是れ両師の本意なり、故に御在世の時は重須の寺・大石の寺と云って寺号をば喚ばず古き状に其の赴き見へたり、日澄の遺状等をも見るべし、相伝へて云ふ中頃甲駿不和の時・駿兵甲武に籠めらる、此時の重須の衆僧密に書状を通用して駿兵無事に帰る事を得たり、其の時褒美として今川家より寺号免許の状を日国に賜ふ、其の文に日蓮聖人従り的々相承並に本門寺の寺号証文等何れも支証明鏡の上は領掌相違無き者也仍て状件の如し永正十二乙亥年六月二十六日、本門寺日国上人・修理太夫」と云々。
然れば日国已来「本門寺」と書けるものか、西山も双論家なる故に日出、日典・以来亦「本門寺」と云ふ也。


問ふて曰はく 日興御代に「本門寺」と謂ふ其の証拠御棟札是れ也、其文に云はく「法華本門寺根源」と何ぞ疑を生せんや、

答て云はく 此の文、重須本門寺の証とせば誤り也。其の故は此の棟札と者未来の標札なり、以何となれば「国主此の法を建てられば三堂一時に造営すべし」と已上。
此の文之を思へ、
況や澄師遺状並に日代状に本門寺建立の時也と{已上家中抄の趣なり}已に乾元三年八月十三日に故寂仙房日澄師の跡を弔ひ給ふ興師の遺文には法華皆信の将来・本門寺建立の期と云ひ、棟札には国主此法を建てらる時と云ひ、目師遺状には本門寺建立の時と云ふ、三文符を合せたるが如し、
若し爾らば彼の「本門寺根源」の額面は勿論・棟札迚も皆是れ未来に本門寺を建立すべしと云ふの支証にして興尊の在世に本門寺の号なかりしは論に及ばざるなり、
但し是れは与へて論ずるのみ、若し奪って之れを云はば其の額面や棟札や皆是れ本門戒壇の根源たる当山の法威を掠め奪はん為の謀計に彼の身延相承の「国主此の法を立られば富士山に本門寺の戒壇」等とあるに附会し是れを偽造せる事明なり、
家中抄に微く其の意を示して云はく
「永仁六年は日妙十四歳也、延慶三年は日妙二十六歳也、此年の本尊に猶日号を許されず。況や十四歳の新発意に上人号を授けらるべけんや。年代之を思へ」等と云々、如何にも今下条妙蓮寺に蔵する所の妙師二十六歳・延慶三年六月十三日、興師より授与し給ひし御本尊の端書には、「寂日坊弟子式部公に之を授与す」と有りて猶日号をだに書し給はずとなり、
況や何程の才知発明たりとも僅に十四歳の小沙弥として争か師と肩を並べ棟札の裏書に日号を顕し花押を加るの理あるべき、
何に況や其の時本門寺を以って妙師に譲り給ひし状とて
▼「富士山本門寺日妙上人へ之を授与す。永仁六年二月十五日 日興判」と遊されし杯申し伝ふるは更に論なく其の偽妄たるの確証なり、
且つ「富士山本門寺根源」の額大に以って不審なり、
宗祖御在世に富士に本門寺と称せし寺あらば此の額あるも道理なれ、未だ其の寺なきに「富士山本門寺根源」とは最も怪しき御筆なり、
況や根源の二字は余の本門寺に対するの語なり、此の時に当て未だ池上の本門寺もなく西山の本門寺もなし、何れの本門寺に相対して独り本門寺根源の称号を顕し給ひしものなるぞ、
亦其の独一根源と称すべき本門寺だにも未だあらざるに、独り此の額あるは如何にも解しがたき事ならずや、
但し御遺状に「富士山に本門寺の戒壇を建立すべし」とある、其の本門寺に懸くべき為に兼ねて御認めありし額にして、其の本門寺は則今の重須本門寺是れ則後々に建立すべき一切の本門寺の根源なりと云はば、何が故に興尊永仁六年に根源の本門寺御建立の其の日より此の額を本堂の正面に高掲し、其の根源の本門寺たる事を広く一宗に耀かし、遠く末代に顕示し、以って末徒の争論なからしむに至らずして、漸く足利の末・世乱の時に乗じ僅に一国の主たる今川家の鼻息を伺ひ・竊に是れを持出して纔かに本門寺の称号を始めて許可せらるるに至りしぞ。是れ亦怪しむべきの至りなり、
若し亦設ひ左なくとも真に宗祖の御正筆ならば更に世間を憚るに及ばず。何ぞ其の額面を今しも本堂客殿等に懸くるか、
亦は宝庫中に掲るかして、参詣の真俗に拝せしめ、自他の疑滞を解かざるぞ、折角本門寺の根源たる事を世に耀さんと其の未然に予め遊ばし置かれし額面を門にも懸けず堂にも打たず、亦容易に人にも拝せしめずば世に知るもの更にあるべからず、実の宝の持腐れ、宗祖開山の御心尽くし泡沫となしぬるにあらずや、
爾るに老禿若年の砌り本門寺方丈客殿等猶厳然未焼の時・一老僧に牽かれ彼の所に至り、殿宇を一見せるに、客殿正面に当山戒壇堂十分一の図といへる大ひなる板額の掲げあるは見しかども、「富士山本門寺根源」の額をば更に拝せず、後両三度虫払に参詣し、余の御真蹟は拝せしかども、額面に於ては未だ曽て拝せし事なし、
或は近傍の村民に問ひ、或は本門寺檀家と称する者に尋ねしかども、誰れ有って其御真蹟を拝せしと云ふ者なきは最も不審しく亦遺憾の至りなり、
若くは従前は正御影堂に掲げありしかども、文政某年正月六日の夜の炎上に額面も棟札も正御影と共に烏有に付し給ひしか、
若し左もあらば泣血悲歎言ふも詮なく、焉に贅論を止め畢んぬ。


一、譲状に云く「一閻浮提の内半分は日目嫡子分と為て」云々。

教正師云はく
▼「今此の文を按ずるに目師一閻浮提の座主にして半分を領すべき理なし、乃至一国の大王にして其の半分を領するの国王ありや」と云々。

愚謂らく国に封建群県の制あり、支那の昔し夏殷周の三代の如き封建にして天子の所轄僅に畿内千里に過きず。余は皆封じて諸侯の国とせり、
西伯文王天下を三分して其の二を有つ以て殷に服事する等之を思へ、
我が日本国の古代は郡県の制にして四海悉く王有にあらざるはなしと雖も源頼朝覇府を鎌倉に開き武家一たび政権を執りしより已来た、北条足利織田豊臣徳川に至るまで奕世封建の制と変じ、日本皇帝の管内は僅に畿内数郡に過きず。余は皆諸侯の封土たり、
何れの所にか一国の大王にして其の半分を領せる国王ありや、とは纔に十箇年後の形勢にのみ著目して未だ其の前近古の世態を知り給はざるに似たり、
就中我が開山の時代は北条氏の末・専ら封建の時なる故に是れに擬らへ、一閻浮提の内・山寺等半分は座主の管内とし、其の余は自余の大衆之を知るべきの所分を遺命し給ふのみ。何の疑難する所かあるべき。


▼「座主とあれば言足りぬ後に日目を嫡子分と為すの六字頗る無益剰長の詞なり、又嫡弟・付弟は仏門の通語なり。いま珍しく嫡子分と云ふ、不審し」

とは更に教正師の一言とも存ぜられず、愚禿素より暗愚・古文の法を知らず。而れども宗祖安国論に云く、「釈迦の已前の仏教に者其罪を斬ると雖も能仁已後の経説に者則其の施を止」云々、能仁は釈迦の翻名・仏教経説又同じ、「前に釈迦の仏教とあれば言足りぬ、後の能仁経説の四字頗る無益剰長の詞なり」とて又宗祖の安国論をも捨て給へるか、
嫡子分とは其の所分を遺命し給ふに付いて且らく世王の遺状に擬し、父子の字を仮借し給ふのみ、師を父とし、資を子に比する事・経釈の文更に珍しからず、
今其の一二を出さば
今経序品に云はく「是文殊師利法王之子」と又云く「又見仏子造諸塔廟」と又云く「仏子文殊」、方便品に云はく「仏口所生子・又云我当為長子」と・譬喩品に云く「其の中衆生悉是吾子」と・宝塔品に云く「是真仏子住淳善地」と其の他具に挙ぐるに遑あらず、
嫡子分とは興尊自を国王に比し、目師を嫡子太子に擬して其の所分を遺付し給ふ、是則高開両師の法水・目師の心中に流入せる写瓶の仏長子・真長子なる事を標し給ふのみ、嫡子の語已に経文に先例あり。何と珍とするに足らん、
而るを学識有名な教正師に於いて猶此の語ある。是れ則鹿を逐ふ猟師は目に大山を見ざるの謂ひか、将た上手の掌より水を漏らし、空海の筆の誤りなる者か、不審し。


一、「日興宛身所給弘安二年の大本尊」と文。
教正師云はく
▼「聖武天皇は東大寺を建立し給ひ、桓武天皇は伝教大師の大檀那なり、本門戒壇何ぞ独り姓氏形状も明かならざる弥四郎国重を以って願主とするの理あらん、身延相承・秘法抄等の文並に造立せらるる願主施主は国王なる事明か也」等云々。

愚謂らく、事の広布の時至り本門の大戒壇を建立せん事、勿論国王の力にあらずんば叶ふべからず。誰か弥四郎国重が大願主大檀那たりと云ふべき。
蓋し国重の名を茲に標する事、微しく鄙懐あり。今試に之れを弁ぜん。取捨は衆情に任すべし、
謂く本門戒壇の大事は容易にあらず。故に宗祖諸抄中に會て之れを明言し給はず、
報恩抄の下巻に等しく三大秘法の形貌を掲問し給ふに、本尊と題目の二箇に於ては問に随ひ其の形貌を明言し給へども、戒壇の一箇に於ては只名義のみを挙げて形貌を欠答し給へり。
取要抄亦知りぬべし、
爾るに弘安二年に至り始て我が興尊に対し三大秘法の口決ありといへども猶未だ他に漏らし給はず、
漸く弘安四年の四月に至り太田禅門に対し、具に戒壇の形貌を示して「戒壇と者王法仏法に冥じ仏法王法に合し乃至梵帝等来下して踏み給ふべき戒壇也」と始めて之れを明言し給ふなり、
然れども其の結文に「予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き附けて留め置かずんば遺弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし、其の後は何と悔ゆるとも叶ふまじくと存ずる間貴辺に対して書遺す。一見の後は秘して他見すべからず。口外も詮無し。」と是を厳誡し給へば宗祖の在世に於ては実に吾が興尊及び太田氏の外は、本門戒壇とは其の形貌の何物たるを知れるものは至って稀なるべきなり、
爾るに彼の国重なる者・云何なる宿縁の深厚なるに由ってや、将た本仏の加被力に由ってや、衆に先だち弘安二年十月の頃より深く本門戒壇の義理を信解し永く未来の一切の衆生の為に本門戒壇大本尊を遺し給はん事を希望す、是れ則ち本門戒壇の発起対告衆者なり、
故に宗祖之を褒美して本門戒壇之願主弥四郎国重・法華講衆等敬白と表し給ふのみ、
而れども此の本尊や全く国重等の一機の為に書図し給ふにあらず、其の実は滅後の一切衆生の為・事の広布の時・大戒壇堂に掛け奉るべき設として顕し給ひ、是れを以って本門弘通の大導師たる我が興尊に附し給ふ也、
故に今の遺状に「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大本尊乃至本門寺に掛奉べし」と遊ばされし事と確信せるのみ、
本門戒壇の四字あればとて文字雖一而義各異なり、決して大日本国の皇帝の受戒し給へる本門事の戒壇の本尊にあらざるなりとは何を以って確信し給ふや、
聖武帝の造らせ給へる大像・桓武帝の立て給へる薬師仏と雖も必ず天皇手づから之れを作り給ふにもあらず、
亦良弁伝教の自作にもあらず。皆是れ下賤なる鋳物師仏工師の手になれるや必然たり、
而れども之れを立てて本尊と崇むるに至っては皇帝自ら王冠を傾け地に伏して其の宝前に受戒し給ふなり、
況や宗祖自ら末代の為に図し中老日法に命じ彫剋せしめ師資相承して末世に伝へ給ふ閻浮提第一の大本尊たるに於いて、其の時来時の尊師之れを指揮して本門戒壇の大本尊と崇めんに、弥四郎国重の文字あればとて爾の時の帝王何ぞ之れを賎み厭ふて受戒せざるの理あるべき、
又若し実に上野に事の戒壇の本尊を安んずるに由にてとなれば何ぞ更に当山を建立して等と者、此の者前に弁ずるの間・煩しく焉に贅せず。
又正応二年に大石寺に事の戒壇の本尊を安置し、本六人已下守番勤仕すとならば日尊日順日代等の俊傑之を見聞せざるの理あらん、乃至一も指示せざるとは当らぬ難状なり、
彼の三師等之れを見聞すといへども別に指示すべき事なき故に黙するのみ、
例せば富永仲基の出定後語に大論一百巻の中に一も大般若経を引用せざるを以って此の経は釈迦滅後七八百年竜樹滅後の偽経と決せり、然れども前代の諸師及び宗祖等曽て之を以って偽とせず。殊に信用し給へり、是れ他なし大論弘博といへども此の経を引くに用なきが故なり、
況や彼の三師等が僅に五紙七紙一巻二巻の筆語中に是れを指示する事なしとて何ぞ之れを偽と決せん、
況や今現に此の大本尊在すをば如何がすべき。
弥四郎国重は波木井の嫡男なりと乃至永仁六年の記に独り此の大願主を漏らせる理有るべからずと。
其の永仁六年の記とは興師の弟子分帳の事なるや、彼の記に波木井の一門を悉く記し給ひしや覚束なし、亦弥四郎は決して波木井の嫡男にあらざるべしとは何を以って之れを証し給ふや不審し、
又其の彫剋は久遠院便妙・国学の友大堀 有忠に語って云はくとは死人に口なし能き証人なり、彼の便妙なる者、吾が信者ならざる方外の友杯に妄りに法話をすべきの人にあらず、是れ必ず死して其の人の亡きを幸とし斯る胡乱なる証人を出し給ひし者か、
若し万が一彼の人にして此語あらば彼の人の殃死は必ず此の妄言を出せし現報なるばし豈慎まざるべけんや。

▼「有師板本尊を彫剋して癩病を感ぜりとは日興一派の伝説なり一定癩病にして杉山に籠るとは家中抄に見へたり」等と云々。

是れ大ひなる誣妄・其の本とは重須日浄日専等の諸師首唱して其の末徒等是れを妄伝蝶々するのみ、
家中抄には宿病有て甲州下部の湯に入る宿主子息多し一人我に授けよ即ち弟子と為んと、家主云く我は子息唯一人のみ之有り余は我子に非ず是より已来代々子息一人の外は之無し之れに依て子息乏きを嘆き昌師に憑み奉り有師の墓所に啓め其れより子息おおしく生ると中略、
是の如き瑞を見るに凡人に非るを知る其後尊崇日々に重し終に血脈を日乗に附し甲州河内杉山に蟄居等とありて癩病にして杉山に籠るの語更に見へず、
何ぞ教正の重職にして妄りに讒謗を構へ更に後生を誑惑し給へるや、
況や日有実に法罰に依って癩人とならば誰か此の人を帰依渇仰するものあらん、爾るに其の在世は勿論滅後の今に至るまで其の徳を仰ぎ自他の渇仰日に新にして杉山は九月二十九には今に遠近の参詣群をなすと云へり、
若し爾らば怨嫉家の習ひ古今此説をなす者は当山を嫉妬し戒壇の本尊を妄偽に所せんと謀る貴山の一門のみ、其の余更に此の悪説をなす者あるを聞かざるなり。

蓋し日有の彫剋せる本尊と者宗祖の御真筆紫宸殿の本尊と称する者之れを模写して彫剋せし事あり。
伝へ言ふ其の時乱離の世に乗じ身延の群徒来りて戒壇の本尊及ひ其の他の諸霊宝を?掠せんとするの説あるに仍って、日有計って真の本尊及諸霊宝をば駿東郡東井出村井出某氏に蔵し此家子孫今に連綿し村内一之旧家今の家主弥平台と号す、此?今に存し御穴と称し常に香花を供すと云々 
日有彫剋の本尊を仮立して且らく戒壇の本尊に擬せしとなり、事鎮静の後・日有自判を加へ是れを鳥窪の住僧日伝に授与するの文字あり、
是れ則方今天王堂に安置せる板本尊なり、
惟ふに後世之れを訛伝して日有真の戒壇の本尊を彫剋するの説あるか知るべからず、
爾れども其の彫剋の手際彼と是と非を同ふして論ずべきにあらず、
実に戒壇之本尊の如きは上代質朴の世に於ては尤も細工に有名なる日法師の外にはあるべからざるの手際なり、
旧く伝聞す岡の宮、光長寺に戒壇の本尊の剋屑を蔵し彼の徒常に誇り言ふ、
宗祖曰はく日蓮が魂を墨に染め流すと。大石寺に戒壇の本尊を蔵ずと雖も法魂は我にあり、彼は蝉蛻のみと、此の言伝説にして未だ其の実を正さざれば徴するに足らざれども取る所有るが如し。
其の七面に祈念する等の説に至りては頗る奇怪戴せて先師の書にありといへども老禿は取らざるなり。


一、文に云はく「大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ」等云々。

教正師云はく
▼「今案ずるに波木井入道日円・興師へ贈れる状に云はく「無道に師匠の御墓をすて失なき日円を」等と云々、門徒存知抄に云く「甲斐の国波木井の郷身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興御廟に通ぜざる子細条々」等云々、所破抄に云はく「身延山の群徒猥に疑難して云く富士の重科は専ら当所離散に在り乃至身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず強に御廟の参否を論ぜば」等云々、日尊実録に云く云々、此の四文を以って之を照すに興目の在世には大聖人の御骨大石寺にあらざる事皎として白日の如し、若し夫れあらば日尊日順等何ぞ是を知らざるの理あらん、今現存する者は後世身延の墓をあばいて盗み出せる者か、蓋し将た作物にして偽説するにすぎざる也」と云々。

愚謂らく甚ひかな此の言や、興門一派の明鏡たる教正師にして此の暴言ある怪むべし、
興尊一たび延嶽を去り給ひし後我が徒の微力争か延嶽に嚮ひ此の暴働をなす事を得べけん、
況や円頂方袍の徒の行ふべき業にはあらざるべし、
凡そ人心あるもの凡夫臭穢の枯骨を納め、大聖の仏骨と称し、宝瓶高臺に安奉し、自ら拝礼供養をなし、以って他を欺き、自を欺くに忍びんや、
設ひ一人此の謀計をなす事あらんも、他人争か此の邪謀に与する者あるべき、
仮ひ一人二人与みする者あらんも一山与みすべからず、
一山与みすとも衆徒檀越争か之を許すべけん、
若し一僧一信檀越之を許さずんば決して此の邪計を当時及ひ末世に施す事は叶ふべからず、
蓋し教正師の如きは若し其の時にあらば依然として是に与みし給ふ意なるか、決して与し給ふまじ、師若し与みするの意なくんば他人も亦爾るべし、
鳴呼是れ羅漢に似たる一闡提の徒にあらざれば行ひがたきの謀計・我が興目の末流にして誰か是れに与みする者あるべき、
若し爾らば此の事決して後世の偽計りにあらざるや明けし、
蓋し宗祖の正墓延山に在って未来際迄も法魂を爰に止むべしとは宗祖の遺命祖文に在って顕然なり、
故に日円及び群徒等是れを以って訃頻りに難を焉になす、
故に且らく仏者の正意は生法二身に於ては専ら法身の舍利に在って生身の全砕に依るべからざるの義を示し、其の勝劣を明了にせんが為、切に此の理を述べて生身偏執の見を破責し御墓不通の競難を強遮し給ふのみ、此の時に臨んで何ぞ砕身の有無を論ずるに及ばん、
故を以って且らく之れを黙し給ふのみ、爾りと雖も何ぞ必ずしも御骨を取収して当山に移し給はずと確言せんや、
抑も興尊の身延を離散し給ふは何故ぞ、是れ偏に地頭の謗法を悪み、終には末代までも大謗法の魔境とならん事を恐慮し給ひし故にあらずや、
興尊自身をすら永く謗地に居せん事を厭はせ給ひながら争で本師の御生骨を永く謗法魔境の土中に埋め置かん事を決とし給ふべき、
凡俗といへども父母の身骨を悪土に置く事を厭ひ、勝地を選んで改葬する者あり、
彼の土木氏の如き其の身法華の持者として領地も亦多し、其の領内の墓地に埋葬し、朝暮自手に香花を供し追孝を尽さんに何の不足かあるべき、
然れども後世領地替等に由り永世謗法の土とならん事を慮りてや母骨を首に懸け遥々延嶽に詣られし事載せて祖文にあり、
是れ孝子の情なり故に宗祖深く之れを賞し給ふ、
況や興尊に於て今や身延一山謗法の地となり永世無間の土とならん事を慮り、御身すら爰を去らんとし給ひ、余の霊宝・御本尊及び聖教重器に至るまで牛馬に駄し、離散し給ふに臨み、僅に一瓶に満たざる本師の遺骨を砕身取るに足らずと永く謗土に捨てて顧みざるの理あるべからず、
西伯文王は野に枯骨あるを見て厚く之れを葬り、華氏城の波羅門は髑?の耳の孔達る者を買ひ是れに塔して礼拝供養せり、
仁人信士は他人の枯骨すら捨てず。況や本師の遺骨を捨て顧みざるの仏弟子はあるばからず、何に況や吾が興尊に於てをや、
故に愚輩に於ては設ひ教正師百口を極めて疑難を設け之れを破らんと欲し給ふとも、此の一箇に於ては確乎たる信心決して退すべきにあらざる也、
蓋し当山瓶中に盛る処の者は全骨にはあらざず僅に胸部より頭脳に至るまでの御骨にして其の余は身延に残し給へるか其の情知るべからず。

一、教正師云はく
▼「抑も聖賢の砕骨を玻●塔に納めて宝庫に安置し、衆人に礼拝せしむるとは何等の経論釈抄に候ぞや」と云々。

愚反詰して謂く、抑も仏祖の砕骨を玻●塔に納めて其信心の四衆に拝せしめ弥よ断疑生信せしむべからず。とは何れの経論釈抄に候ぞや、
宗祖曰く「又身軽法重・死身弘法と申して候は身は軽ければ人打はり悪むとも法は重ければ必ず弘まるべし、法華経弘まるならば死かばね返って重かるべし、かばね重くなるならば此かばねは利生あるべし、利生あるならば今の八幡大菩薩といははるるやうに、いはうべし」と云々、
此の死かばねと者生身の砕身にあらずして何ぞや、所詮不信の人の前には金剛不壊の仏舍利も猶是れ瓦礫の如し、
所謂伝奕の悪言・韓愈の罵詈等是れなり、況や末法下種の機の吾輩に於ては設ひ七宝宝塔に奉じ供養を延ぶとも古暦昨食何の利益かあるべき、
若し吾が信者の前には示同凡夫の宗祖の砕骨猶是れ久遠本仏の御舍利にして彼の金剛不壊の仏舎利に勝るる事は百千万倍なり、
何ぞ是れに塔して礼拝供養をなさざるべけんや、
爾るを宗祖大聖の砕身に於て猶通途賢聖の臭骨に同視して此の難をなせるは、更に宗祖の内徳を尊信覚知せる教正明師の一言とは思うはれざるなり鳴呼。

一、教正師又云く「一疑去って一疑来る。草稿の反古と、本紙ともに付与し給へる理なし、元徳四年は師、当山(※北山)に在り。然れば、則(すなわち)其の草稿は当山(※北山)に蔵すべし」等と云々。

此の言至れり尽せり、愚(※自分)も此の言を拝し、思はず顰蹙し(山+π)(こつ)頭(※はげあたま)を掻き、喟然(※きぜん ため息をつく)として歎じて云く、
「大講義(※日布上人)の答書に贅言(※無駄なことをいう)して乍(なが)ら此の難義を醸(かも)せり(※事態作り出してゆく。もたらす。)
古人言はずや「駟も舌に及ばず」と(しもしたにはおよばず※《「論語」顔淵から》いったん口に出した言葉は、4頭立ての馬車で追いかけても、追いつくことはできない。言葉は慎むべきであるというたとえ。)
況や筆跡に於いてをや。鳴呼。と、
而して退き稍(なお)沈吟(※思いにふけること。考え込むこと。)し、掌を拍(う)ち大に笑って曰はく
「奇なる哉、妙なる哉、大講義の一筆や。反って我が胸中を豁然(※心の迷いや疑いが消えるさま。)たらしむ」、
云何(いかん)となれば、

興尊、当山(※大石寺)を目師へ内付し給ふ事は、果して其の前にあるべし、といへども、表然たる遺付は、全く此の時(※元徳四年)を正とす、
爾らば興尊、永仁中に一たび重須に退去し給ふといへども、猶、元徳四年に至るまでは両山兼住の姿なり、
今改めて大石寺を目師に付し、其の遺跡を定め給はんに、興尊、争か重須に居ながらにして是を扱ひ給ふの理あるべき、
必ず駕(が 乗り物)を当山(大石寺)に促がし、是処(このところ)にして、此の遺状を認(したた)め、衆檀に披露して、公然、其の式を行ひ給ふ事、当然なり、
而して其の艸(草)稿也や、粗々(あらあら ※きめが粗い)たる半裂の紙に禿筆を以って、僅かに三四行を艸(草)して余白尽きぬ、
当時質素の状、僻陬(へきすう ※へきち)、乱離(らり  国が乱れて人々が離散すること。)の世・紙筆に乏しきの様、自ら見るべきに足れり・
惟(おも)ふに師、此の草を成し畢り、若くは自ら手丸め机上に置き給ふか、若しくは座側に捨て給ひしを、後、之れを拾ひ、全く師の御真跡なるを以って本書に添へ、同く筐中(きょうちゅう 箱の中)に納めて、今に当山(※大石寺)に蔵せるや必然たり、
若し然らば此の艸稿(草稿)の当山に蔵せる、反って是れ御遺状の真跡に紛れなきの確証なり、

是に於いて教正師、猶氷解せず重ねて疑難を設けば、吾輩の及ぶべきにあらず、其れは実に吾が大講義(※日布上人)の明言の如く、興尊に地下に見(まみ)へ、自ら疑を決し給ふの外は設ひ真跡を拝する事あらんも、猶、断疑の期あるべからず、故に焉(ここ)に筆を絶し畢ぬ。  

明治十二年一月             沙 門 日 霑 謹 誌

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五、弘安二年出世本懐は僻解なりとの謗言を駁す

 雪冤録第五項は「弘安二年出世本懐説は僻解なり。」である。

 その理由とするところは、
▼ 「大石寺派の主張するのは聖人御難事鈔に大聖人が本懐を遂げ給ふと仰せられてをるから此の御書の御述作が弘安二年十月であらせられ、而して所謂戒壇の御本尊が其の同年月の御建立であるから御本懐の御本尊だといふのであるが、此の御難事鈔は大聖人が御本懐を遂げ給ふというのでなく、二十七年の間大難にお遇ひ遊ばされたことを御述べ遊ばされたのであるから此の主張は成立しない」

といふ。而も
▼ 「大石寺日道上人の御伝草案によれば此の御本尊は日興上人への御授与の大曼荼羅である。
而してまた「日興跡条々事」によれば熱原法難に因縁のあること、本門戒壇の大御本尊などと称すべきでないことが明らかである。
それは

「日興跡条々の事」の御文は「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊は日目に○○○○之を授与す(之れを相伝す本門寺に懸け奉るべし)となつてをり、その○○のところは削つてあり、( )の中は他人の筆である。
此れは後年都合の悪い文字を削り、都合のよい文字を加へたのである。


此れをもつて本門寺の戒壇御本尊といふのは誤りであるは明らかだ」

といふ。

 かく論じて大聖人の御本尊は田中智学氏が奠定した佐渡始顕の本尊こそ、最も大切な御本尊である。然るに大石寺派では此れに対して、一、始顕本尊は未だ御本懐を遂げ給ふ以前だから未究竟である。二、佐渡は配所であるから不浄の処で重要な御本尊の建立がある筈がない、と論難するが、佐渡こそは発迹顕本の地であらせられ重要御書の御著作地であるから、一の論難は当らない。二に就ては大聖人は弘安四年五月十五日に護国の大曼荼羅、文永十一年七月二十五日に閻浮未曽有の大曼荼羅、文永十一年十二月万年救護の大曼荼羅を御顕し遊ばされてをつて、此れ等の御本尊こそ重大である。(此のところは高田氏の論述は支離滅裂でその真意を捉へることが困難である。) 以上が概略であるが先づ初めに御難事鈔についていへば、高田氏の見解こそ鷺を烏といひくるめるものである。聖人御難事鈔の御文は次の如くである。
 「仏は四十余年天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す許りなし先先に申すが如し、余は二十七年なり、其の間の大難は各々かつしろしめせり」。
 此の御文に於て「余は二十七年なり」は釈尊の四十年、天台の三十余年、伝教大師の二十余年に比較して本懐について仰せられ次の其の間の大難より下は上の其の中の大難申す許りなしに並説し給ふは明かである。かやうな論議をしてをるのは世間の識者からその頭を疑はれる。如何に日蓮門下は馬鹿げた論争をしてをるかと笑はれる程の問題である。
 本御鈔は大聖人の御施化が漸く確立されて妙法の信仰が命にかへても受持されるを御覧遊ばされ本懐を遂ぐと仰せ給ふのである。しかし乍ら猶その受難に堪ふべきを御身の体験に照して激励遊ばされた御文である。此の文の読み方は中学校過程の問題で御話しにならない。
 此の御難を御覧なされた大聖人は、所弘の仏法此に確立せりとして、大御本尊を建立せりとして、大御本尊を建立遊ばされたのであつて戒壇の願主と御撰定遊ばされるのは当然である。
 なほ此れについては御難事鈔の御文から考へついて戒壇御本尊を偽作したとまで極論するものがあるが、此の御文を引くのは田中智学氏の流類が戒壇御本尊のことは御書にないから偽作だというので、大聖人の御本懐は弘安二年十月にあるといつてそれを証明する為である。面白いことには国柱会では戒壇の御本尊のことは御書にないから偽作だといふ。
しかして国柱会で立てる佐渡始顕の本尊はどうかといふに御書に一言半句も仰せられてをらない。此れをこそ身勝手な議論といふべく、識者の笑ふところである。
 次に戒壇の御本尊といふのは日興上人へ授与されたもので、唯熱原の法難を因縁としたにすぎないといふのはまるきり話にならない議論である。日道上人の御伝草案にあるのは「大聖人熱原の法難に御感あつて日興上人と御本尊をあらはす云云」といつて日興上人と御相談にて御本尊を建立遊ばされたのであるは明かで、其の対告衆は熱原であることに矛盾するものではない。此れを日興上人へ御授与遊ばされるためとの意味に解するは文章を読むことのできない幼稚な頭の持ち主である。此の文によつて熱原の人々を願主として御本尊を建立遊ばされたことは、炳乎として明かである。しかして此の弘安二年の御本尊をやがて日興上人に賜はつたことは、「日興跡条々事」に於て「日興が身に宛て給はる弘安二年の御本尊」と仰せ給ふを拝すれば少しの疑義をはさむ余地はない。日興上人を宗団の大導師として給はつたのである。「身に宛て給はる」とは日興上人が御本尊の願主でないことを雄弁に証明遊ばされてをる。


 次に

▼ 「此の御本尊については、日興上人は何とも仰せられてをらない。
それを後年御譲状に「本門寺に懸け奉るべし」との文字を加入して本門寺の戒壇の御本尊と称するに至つたので、その謀略を此に暴露してをる」

といふが、其の論拠は

▼ 「日蓮宗々学全書の冠註にある。」


全く馬鹿ばかしくて御話しにならない。
成程御真跡の文字の削除や加入は冠註の如くである。
しかし、これは後年どころか日興上人が直々なされたことである。
此れこそ上人の御用意が万々籠らせ給ふところで、我々が涙をもつてその思召の程を拝察申上げるところである。
此には此れ以上は申さない。
軽々しく申すべきではないからである。
高田氏に一分の道念があれば日蓮正宗に帰依してその御真書を拝したら此のことは納得がゆくといふことだけを申してをく。
それともそれが明らかになれば帰依をするといふならば、何時でも説明をする。
総じて他門流の考へるところは高田氏の程度を出てない憐むべきである。

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授与  可奉懸本門寺  空白なし  の形式


これは日興上人がご入滅の前に、日日上人に後々のことを書き残されたご教示でございます。これはご正本が本山に在って、お虫払の時に常に拝読いたします。
毎年寺族同心会の時にご夫人方を主としてなにか述べることになっておりますから、これについて少々申し述べたいと思うのであります。
 これは最後に十一月十日となっております。これが、十一月十日がいつの年かということが問題でありますが、それほだんだんやっていけば分ると思います。
 まず「本門寺建立」、この大石寺は、広宣流布の時には本門寺と名乗るということに、前もってみなさまご承知のとおりと思いますが、それまではいまだ出来ておりませんからいちおう大石寺を指しておりますが、その出来上った時に、いわゆる広宣流布の時です。

■「建立の時は新田卿阿閣梨日日を座主と為し」、

座主というのほ貫主です、法主ともいいます。禅宗では住持といっております。よく住持、寺の住持といいますが、禅宗の方でいって、
天台では座主といっております。

■「日本国乃至」、

この日本乃至、および「一閻浮提」、一閻浮提は世界を指しております。この世すべての内「山寺」、山寺というのは山の寺をいう。別にこれは山寺といって特に山の寺とい
う意味でほなくして、この大聖人時代、日興上人の時代は主に寺院が山岳に在りましたからして山寺といいますが、鎌倉時代になってくるとはとんど平地に寺院が建てられた。しかし昔の習慣で寺院には山号がついておる。
だから何々山何々寺というから山寺と申しますが、ここでは単に寺といって差し支えないと思います。

■「半分は日目嫡子分として管領せしむ」、

その所領の半分、あるいは支配の半分という意味ですね。嫡子分、すなわち大聖人様の仏法を伝える分として管領せしむ、管領というのは統べ治めるという意味ですね。

■「残るところの半分は自余の大衆等之れを領掌すべし」、

あとの半分ほ多くの大衆たちがそれぞれの寺を支配し、領掌ほすなわち聞き入れるということですね。聞き入れる、受取るという意味です。受け収めるという意味ですね。受け収める、自分の責任として収めていくのを領掌と。
で、これは全部の寺を総本山において支配する。その内で、またその更に細かい部分は各住職が支配するという意味にとって差し支えないと思います。

 管領と、領掌について、管領は統べ治める、統治、統べ治めるという意味です。領掌は領承とも領収ともとられます。これは同じ意味にとって、受け収める、こういう意味にとっていけばいいんです。
それに対して「代管」という言葉がありますね。代管はこう書くのが本当です、「代管」。今はこう書いております、「代官」。だからこれは間違いですね。こっちの代官となると地方自治官というようなものになってしまう。この代管というのは今の管領した人の単に代わりという意味です。この代管という字は、代わりという意味です。

だから本山において、法主が何か用があって不在の時は、その代りをなす人を代管という。これは昔から寂日坊を代管坊とせられております。その代管にこの字を書く。それを間違って、こっちの官という字を書く、そうすると非常に力が強くなってくるんです。で、こっちの昔から書くべき代管ならば単に代理という意味、だからこれは昔からあるわけなんです。これは、ある人が、「代官なんていう言葉は外道の言葉で、それを正宗で使うのは変だ。」というようなことを書いた人がありますが、それは、その人が宗門の歴史ということを知らないからであります。
代管というのは寂日坊が代々その名を得ていたのです。寂日坊は能化の寺ですから、貫主、法主の留守、あるいは何かの事故があった時には必ず山務法要のお代理を務める。すなわち代管というのです。だから今の人が分からずに、ただ外道の言葉を使ったとか何とか悪口を言うのは、これは当りません。
現にいちばん近い人でも、寂日坊でも最近まで、明治の初めごろでの有名な人は、玄収阿闇梨取要院日専ですか。徳川の末期ですか。これらもやはり代管として有名だった。代々寂日坊の歴代は代管という名前で有名であります。
 
それから

■「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊は日日に之れを相伝す本門寺に懸け奉るべし」。

 これは重大な問題です。

■「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊」、

すなわち戒壇の大御本尊であります。
これに対してある一部では、万年救護の本尊をもって弘安二年に日興上人に与えられたから、それをいうのだという説を立てる人があります。本宗ではそんな人はありませんけれども。ところがそのいわゆる世間でいう万年救護の御本尊というのは、文永十一年太歳甲戌十二月の本尊ですが、これは『讃文』に

■  甲斐の国波木井の郷、山中においてこれを図す。大覚世尊御入滅後、二千二百二十余年を経歴す。然りと雖も、月漢日三箇国の間、未だこの大御本尊あらず、或は知ってこれを弘めず、或はこれを知らず、我慈父、仏智をもってこれを隠し止め、末代の為にこれを残す。後五百歳の時、上行菩薩世に出現して、始めてこれを弘宣す。

と書いてあります。これには万年救護ということはちっとも書いてありません。この言葉をよく拝読いたしますと、この天台・伝教等も知って弘めなかった。それ以外の人は知らなかった。しかし後五百歳の時に上行菩薩が出現して始めてこの本尊を造るのだという意味を、この文永十一年に書かれたに過ぎない。すなわち、それから後、上行菩薩がこの世において南無妙法蓮華経を下種し、御本尊を建立せられるのだという意味に取るべきであります。決して、これが万年救護で、日興上人がこの御本尊を受けて、それを中心としなければならないという意味ではない。

この弘安二年の戒壇の大御本尊こそ、日興上人が身延においてお受けして、身延の正本尊として安置し奉った。もしそうでなければ、大聖人様は海中出現の釈迦像を拝んでおった。では大聖人様の後には御本尊、その海中出現の釈尊は墓所の傍に立て置けとおっしゃっておるから、立て置いた後にはどうなるか、御本尊がないことになります。すなわち戒壇の御本尊がおわします、日興上人が戒壇の御本尊を受けて、戒壇の御本尊を祭ってあったから、そういうことが言えるのである。

その海中出現の釈迦像は、日朗が鎌倉に持って行ってしまった。その後に新潟の三条の本成寺ですか、あそこへ持って行った。さらに京都に本圀寺ができた時に、その海中出現の仏像を京都へ新潟から海で運んだ。その途中能登の海で難破して海中へ戻ってしまった。結局海中出現の釈迦像は海中へ帰ってしまったということになるわけなのです。

 戒壇の御本尊は楠の厚木です。表から見るとこういう板です。ところがこれはたいへんな板です。ただの板ではないのです。こういう板になっているのです。だから後ろから見ると丸木です。丸木を表だけ削ってあるわけです。大変なものです。重たい。上はただ三寸そこそこの板ですけれども、まわりは丸木です。まん丸い木です。その丸い木を、前を削って板にしたにすぎません。
しかも、これを削ったのほ手斧、手斧でも昔、足利時代以後徳川時代の手斧はこうなってますね。これを削った手斧は、鑓手斧(やりちょうな)とも鑓錐(ありかんな)ともいいますね。それで削った。それは赤沢朝陽氏がちゃんと言明しております。だから鎌倉時代のものである。この手斧の削り方は、徳川時代以後のものではない。足利時代から今日使用のああいう手斧ができてきますが、鑓手斧は鎌倉時代の絵を見ればわかります。
そういう御本尊ですから、決して最近出来たものでほない。

この前、去年の秋に札幌で私は、学会の大会の時に述べておきましたが、身延に向うの板本尊があった、あれは、あの文章は、菅野憲道が私に教えてくれた文章ですけれど、ちゃんと身延の方の宗学全書に出ております。
そういう本尊で、決して後から出来たものではない。

■ 「本門寺に懸け奉るべし」、

その懸け奉るというところに、また邪宗の人は非常に力を入れて、
▼「懸け奉るだから板ではない、紙に違いない」
という変った説を立てる人がいます。
それは、この懸けるというのは、特に形容してこう申しあげたのです。
今の戒壇の御本尊様もそうです。遠くから見れば、ちゃんとあそこに懸かっているように見えます。敬っていうのです。
その例として、富士山を見なさい、富士山は大地にがっちり構えておる。これを詩で形容する時には、

  白扇 逆しまに懸かる 東海の天

という立派な詩があります。白扇が逆しまに天に懸かっているというのです。富士山が天に吊り下っておったらたいへんなことで、やっぱり大地にきちっとしておる。それを懸かるという、これと同じことです。

 懸かるとは懸示(かかげ示す)、懸命(命をまかす)の意であります。すなわち一生懸命に信心して成仏を願う意であります。戒壇の御本尊が、木の立派な御本尊が、須弥壇の上にきちっと構えておるのを、懸け奉ると申すのでございます。

■ 「大石寺は御堂といい墓所」、

墓所(はかしょ)というのは、昔から墓所(むしょ)と読んでおります。あえて墓所(むしょ)という必要はありませんけれど、私は昔のことを知っているような顔をして墓所(むしょ)と読んでおります。

■「御堂」、

すなわちこれは、最初仏様を指しておる。

■「墓所」、

墓所とはすなわち、ご灰骨を指しておるのです。これは、もし大聖人のお骨が本山にないというならば、どこにあるか。彼ら身延の方では、ちゃんと身延の墓に埋めたんだから、大石寺の日興上人が墓から持って行くわけがないという説を立てます。しからば今現在、身延の墓所に大聖人のお骨があるかというと、墓所にないでしょ。大聖人のお骨と称して、やはり堂に祭ってある。何も身延の墓にあるならば、身延の人が何も墓から掘る必要はないではないか。結局日興上人が墓から本山へ持って来たから、墓にはお骨はない。それゆえに身延の方は誰かのお骨を堂へ祭ってある。だから、その人たちの身延のお骨の説は成り立たないのです。大聖人のお骨が墓にない。それは、いちばん先に日興上人が、この富士へお移ししたからであります。

■「日目之れを管領し」、

すなわち受け奉り、受けて護る。

■「修理を加え勤行を致し」

修理すなわち修理です。寺院を、大石の寺が古くなれば修理をする。

■「勤行を致し」、

これは、今は丑寅の勤行をいっております。それじゃ丑寅と書いてない。どこを丑寅というかと非難するでしょう。昔は、電気もランプもなかった時代には、夜、日が暮れると寝て、朝、日が出る前に、薄明るくなった時に起きて勤行する。これは習慣であります。

 弘安二年四月二十日の『上野殿御返事』に、

■ 三世の諸仏の成道はねうしのをはりとらのきざみの成道也。(新定三−一九七四)

という言葉があります。寅のきざみ、丑寅の刻に仏の成道がある。これを取って本宗では、夜中に、昔は三時から四時になっておりますが、今我々は十二時ちょっと過ぎに行います。世間では、丑寅勤行といって十二時にやるのはおかしいと言った人がありました。それは、そう言う人がおかしい。我々は、昼飯を食べるといって、一時に食べたって昼飯です、十時に食べても昼飯です。朝六時に朝飯を食べる人もあれば、八時に食べる人もあります。その時間時間のずれをもって非難するのはおかしい。二時間三時間早くても、丑寅勤行の精神で、丑寅勤行としてやっておるのですから、決してそういう非難に脅かされる必要はありません。そういう勤行をして、修理を加え、寺を立派に保ち、そして勤行を怠慢なくして、広宣流布を待つべきであるとおっしゃっております。

■ 「右日目は十五歳日興に値て法華を信じてより以来七十三歳の老体に至る」、

これが重大問題ですね。日目上人が十五歳の時は、すなわち文永十一年甲戌の年です。文永十一年に、十五歳にして熱海の走湯山で日興上人に値い奉って法華を信じた。始めて法華に帰依し、そして、「以来七十三歳の老体」、七十三歳というのは、すなわち正慶元年になります。正慶元年

■ 「七十三歳の老体に至る敢て達矢」、

仏法において間違ったことはない。その間十七歳にして

■ 「日蓮聖人の所に詣で」、

十七歳の時甲州身延山へ上った。すなわち建治二年十一月二十四日に身延へ上って大聖人の弟子となる。大聖人のもとに上って常随給仕する。

■ 「御在生七年の間」、

その建治二年から七年、すなわち弘安五年まで常随給仕した。

■ 「御遷化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間」、

これが問題になるわけですね。これは、ご遷化というのは弘安五年ですから、弘安五年を五年と書くのを八年と書き間違えた
か、あるいは元徳二年に書いたか。
これは、弘安八年から元徳二年までならば四十六年にしかならないわけですね、五十年にならない。これを世間では問題にするんですね。
これはその前に、「七十三歳の老体に至る」というのが正慶元年ですね。だから、この書き物は正慶元年に出来てるわけです。正慶元年の十一月十日にお書きになっておる。その前に、そのお書き物の下書きがあります。一枚の紙にいろいろお書きになっておりますね。だから、これはすぐお書きになったものではない。
いわゆる元徳二年のころからお考えになり、書いたりやめたりされた。それが、日興上人の頭にお在りになるのですね。
日興上人はご遷化が八十八歳ですから、元徳二年というと四年前、八十四歳、八十四歳の時、一度お書きになったに違いない。これは、堀米猊下の説ですけれども、体が非常にお弱わりになったから、書き置きみたいに「跡条々事」をお書きになったが、またしばらくたって丈夫になったから、そのままにしといて、四年たった正慶元年にまた悪くなって、ついに正慶元年十一月十日にこれをお書きになって日目上人に渡された。これは間違いないと堀米猊下がおっしゃっております。そのとおりだと思います。
 これはいちおう元徳二年にお書きになったけれども、休まれて、そしてまたお体が丈夫になったから書き直された。それでこれを加えた。
すなわち

■「日目は十五歳日興に値て法華を信じてより以来七十三歳の老体に至る」、

すなわち文永十一年から正慶元年に至るまでというのを、正慶元年にこれをお書きになったのだから最後にこれを加えられた、ということをおっしゃっております。
だから正慶元年の十一月以後、日目上人は御本尊をお書きになっておる。それまで御本尊はお書きになっておりません。それを見るとやはり日目上人は、跡をすっかり日
興上人からお承けして、始めて座主としての御本尊をご書写になられたということが明らかでございます。
これは、お書きになった下書きも現在本山に残っておりますから、検討せられれば分ります。
要するにこれらの言葉によって、すなわち代管という言葉とか、あるいは弘安八年から元徳二年に至るまでが四十六年間なのにどうとかこうとか、あるいは弘安五年のご入滅から元徳二年までは四十八年だとか、弘安五年から正慶元年までは間違いなく五十年だというふうに書かれてきますが、それはたいした問題ではないと思います。要するに、この書をお書きになったのは、その前の
■「十五歳日興に値て法華を信じてより以来七十三歳」、すなわち正慶元年である。
これを達矢の義なく、しかも「奏聞」すなわち天奏の功が他に異なるによって、このように書き、すなわち、前の
■「本門寺建立の時」と
■「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊」あるいは
■「大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ」という三力条を書き置くところなりと、

■「後日の為め件の如し」

と、日目上人が間違いなく跡を継がれ管領せられて、御本尊を確かに預かったと。

管領というのは管は筒、筒の流れを伝えて行く、代々の法主がこれを伝えて行くのであります。

 ここで考えなければならないのは、我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。それに対して日目上人は座主である。今言ったとおり、管領して、その大聖人の仏法を治めていく、よく受取って治めていく、すなわち管領という意味を持っていくのである。統べ治める、そして統治をしていく。その日目上人の後は、みな筒の流れのように、それを受継いでいくにすぎない。だから本宗の考えは、広宣流布の時は日目上人の再現、出現だという意味をとっております。すなわち日目上人が広宣流布の時の座主として再誕なされるとの指南であります。だから代々の法主が日蓮大聖人ではない。大聖人そのものと間違って書かれてよく問題が起きますが、その点ははっきりしてもらいたい。ただ三宝をお守りする座主、日目上人は永代の座主、広宣流布の時の座主、それを忘れてはいけないですね。
だから客殿のあの座席、法主のあの座席は目師の座席なのです。
真中に御本尊、向って左は大聖人、右は日興上人、目師がそれをお守りしていくと、その座が目師の座、今の管長の座は目師の庭です。だから永代、広宣流布の時にはあの座主がすなわち日師の再誕ということになる。
三宝ほどこまでも、大聖人・日興上人・御本尊、これが本宗の三宝の立て方です。法主が大聖人様の代わりだと、即座にこういうことを言うと、外から非難されますから、よくその点に注意していただきたいと思います。
 ではまた、満山供養がありますから、これで失礼いたします。

昭和五十二年七月号

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日蓮正宗 創価学会批判を破す 創価学会教学部編 64


三、日蓮正宗の歴史に対する疑難
     日 日 目譲状

日興上人の日目上人に対する御相伝は、「日興跡条々事」と称する御譲り状の、日興上人の御直筆が、現在、富士大石寺に厳護されてきている。
身延流の徒輩が、いかに疑難し反論してみたところで、日興上人御自身のお譲り状が厳然として実在する以上、もはやいかなる疑義も氷解して、これ以上、反論を述べたてる必要もないのである。
しかるに、彼らの論難は、まったく史実を無視した妄難であるから、その愚痴無智を指摘して、妄難に鉄ツイを加えておくことにしよう。

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(イ) 第一条について

 まず第一条は、

■「本門寺建立の時は新田卿阿閣梨日目を座主となし、日本国乃至一閻浮提の山寺等に於て半分は日目嫡子分として管領し、残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし」

となっている。

 これに対する彼らの論難は、まず日志の妄説をそのまま挙げて、

▼「座主が半分を管領するのがおかしい」

という。

これに対して、日霑上人が明快にお答えになっている通り(要集 問答部之二 七七ページ)交通不便の封建制度下にあっては、当然のことだったのである。
日本の天皇も、封建制度下にあっては、わずかに近畿地方の一部を領していたに過ぎないし、また幕府にしても、直轄領というものは、そんなに広くあるものではない。
このような社会的背景を無視して、現在の国主が全国を統治し、現在の貫主が全国の寺院を統括しているのを見て、御真筆の御譲り状を論難するとは、じつに驚いた頭の持ち主たちである。邪宗の害毒に染まると、そのような愚論妄説に、自分自身が迷っていることに気がつかないものとみえる。

 次に、日興上人が御入滅の直前に、「広宣流布の暁には日目を座主とせよ」、とおおせられたのに対し、

▼「日目の生存中に半分の山寺を与えるというような事態を、興師が考えるとすれば、興師は余程耄碌しているといわねばならぬ」(創価学会批判50ページ)

といっている。
                    
思うに、猫のごとく、猟師のごとく、信者の布施を狙っている身延派の迷僧愚侶たちが、日興上人・日目上人の御雄図を論難するにあたり、これよりはなはだしきものはないであろう。
時あたかも、後醍醐天皇に政権が帰したので、広宣流布の大願のもと七十四歳の御老体をもって天奏に出で、垂井の露と消えた日目上人の御雄図も、身延派あたりの邪智謗法の徒にわかるはずがない。
さらに、地涌千界の出現等々の仏法の深義は、諸君の腐った頭では、とうてい理解できるものではないことを指摘しておく。


 次に、日目上人への御相承を否認する論拠として、「日代等付嘱状」を挙げている。
しかるに、古来「日代八通の譲状」などというのは、偽文書もはなはだしいと決定ずみである。
何でいまごろ、こんなものを引いて論拠にしようとするのか。まったく真意の了解に苦しむ。

まず、身延派の批判者が挙げている文は、

▼ 「日蓮聖人の御仏法、日興存知の分は日代阿闍梨に之を付嘱す。 本門寺三堂の本尊は式部阿闍梨日妙二十七箇年の行学為るに依って之を付嘱す。東国は法華の頭領卿阿闍梨日目に之を付嘱す、西国三十一箇国は法華の頭領讃岐阿闍梨日仙に之を付嘱す、北陸道七箇国は法華の別当日満阿闍梨に之を付嘱す。門徒の大事之に如かず。

  正中二年乙卯十月十三目   白蓮阿闇梨日興判」(日蓮宗全書 興尊全集 139)

 右の文について、堀日亨上人は、富士日興上人詳伝に、

●「日妙二十七年の行学」も「東国法華経の頭領」も「西国三十一箇国の法華経の頭領」も、まったく偽文書である。いわんや、「北陸道七箇国は別当日満」といっても、日満はまだ少年時代であった。これよりみても、躊躇なく偽文書と決定すべきである、趣意(大白蓮華 第32号 9)とおおせられているにも明らかである。

なお、「日代八通の遺状」に対しては、詳細なる批判があり、これを「北山批」として、さらに堀上人の御意見を加えた批判が公表されている。(大白蓮華 第三十二号十一ぺージから三十三号に至る)
身延派の妄難者たちよ、御正本の現存する日目譲状を論難するために、このような、年代からいっても、史実からいっても、偽文書なり、と決定されている偽文書を引くとは、どうしたことか、頭破七分か、悪鬼入其身か。


 (ロ)  第二条『弘安二年の本尊』

 次に、御付嘱状の第二条は、

■ 「日興が身に充て給わる所の弘安二年の大御本尊日目に之を授与す」

であるが、これに対する身延派の非難がまた、前項と同じ愚説のくりかえしである。
彼らは、弘安二年の本尊について、幾多の妄論を並べているが、すでにそれらの邪難は、ことごとく究明し、破折し去ってきたところである。

ところが、彼らはまた「日代置状」を引き、

▼ 「たとえ弘安二年の本尊があったとして、それは盗難にあって紛失し、もし発見されたら日代がこれを相続するという趣旨の、次の文によって論難している。

▼ 日代置状(日蓮宗全書 興尊全集 136))

 「正中二年十一月十二日の夜、日蓮聖人御影堂に於て日興に給う所の御筆本尊以下廿鋪・御影像一鋪・並に日興が影像一鋪・聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢んぬ、日興帰寂の後、若し弟子分の中に相続人と号し之を出さしむるの輩は門徒の怨敵・大謗法・不孝の者為る可きなり、謗法の罪に於ては釈迦多宝・十方三世の諸仏・日蓮聖人の御罰を蒙る可し、盗人の科に於ては御沙汰として上裁を仰ぐ可し、若し出で来る時は日代阿闍梨、之を相続して本門寺の重宝たる可し、仍て門徒存知の為・置状件の如し。
  正中二年十一月十三日    日興在り判」

 これら日代八通の置状は、日代が重須を濱出せられてから、西山方面の徒が日代の権威をつけようとして偽造したものであることは、先にも述べた通りである。
しかして、本状に対する「北山批」と、堀上人の批判は、大白蓮華第三十二号十二ページに明かされているごとく、

●「正中二年十一月」云云の年月についても、「また検討の余地があれどもまったく偽文と決定せばその要もなかるべし」

とおおせられている通りである。
なお、本状について研究の余地があるというのは、大石寺の弘安二年の本尊がどうこうとか、それを日代が相伝するというようなバカげた話ではないのである。
 このように、盗難と戒壇の大御本尊とは関係がなく、いわんや盗まれたものが出てきたら日代がこれを相伝せよとは、まったく日代を権威づけんがための偽文書である。

そこでまた、身延派の批判者は、日興上人あての本尊を詮索している。
本門戒壇の願主弥四郎国重と日興上人の関係は、寿量品の弥勤菩薩と、神力品の上行菩薩の関係にあることは、前述した通りである。
邪智誘法の身延派では、これらの深義がわからないところから、盛んに弥四郎国重と、戒壇の大御本尊を論難するけれども、富士大石寺に厳護し奉る大御本尊の大功徳と厳罰は、ますますその御威光を輝かせておいでになる現証のみは、彼らといえども、どうすることもできないのである。

 さて本題にもどり、日目譲状の第二条を、彼らが日代置状を論拠として非難することは、このように史実からも、道理からも、不当なることが明らかになった。

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(ハ) 第三条『大石寺と墓所の管領』

 御付嘱状の第一条では、「広宣流布・本門寺建立の暁に、日目上人を一閻浮提の座主とせよ」、とおおせられ、第三条では、「大石寺を日目上人が管領し、修理を加え勤行して、広宣流布を待つべし」、とおおせられている。
この二個条について、彼らは▼「矛盾している」と、盛んに非難する。
しかし、何が矛盾であるか。これを矛盾と考えるような頭が、むしろ矛盾しているのだ。

「広宣流布の暁に本門寺が建立されたらこうせよ」、と第一条でおおせられ、しかし、広宣流布は仏意仏勅であらせられるから、本門寺建立の日までは、本門戒壇の大御本尊を安置し奉る大石寺が義の戒壇にあたらせられるゆえに、「第三代日目上人が御堂といい、墓所といい、これを管領して広宣流布の時を待て」、とおおせられている。
これに対して、▼「日興上人は耄碌している」とか、▼「矛盾している」という徒輩は、まったく日蓮宗と名のる獅子身中の虫である。

 次に、「御堂と墓所を管領せよ」、とおおせられているところから、大石寺に宗祖大聖人の御霊骨が安置せられた事実を証明している。
これに対し、身延派は躍起になって非難する。
おそらく、この御譲り状の論難にあたっても、本尊なんかどうでもよい、せめてこの譲り状を否定して、御骨だけは大石寺にない、身延にある、といいたいような筆法である。

 そういう諸君と同じような考えの連中が、日興上人御在世中の身延派の連中であった。
そこで、「五人所破抄」等では、全身の舎利と砕身の舎利とに分け、
■「身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず」
と指摘し、「なんじらは御骨のことをどうこういう前に、まず法水の清濁を考えよ。本尊はどうか、教義はどうか」、等々とおおせられるのが所破抄の御趣旨である。

現在の身延派でも、御骨が身延にあるとはいうけれども、本尊についてはかつて身延にあったとか、現在もあるとかいうことを聞いたことがない。
だから、「五人所破抄」をよく拝読せよ。

身延には本尊がない。
その上なお、御骨までニセものだとなっては、いよいよもって日蓮宗と偽ってきた妄説が崩れ去るところから、躍起になっているのであろう。
しかるに、いくら彼らが弁護してみたところで、日興上人はきちっと御骨を奉持して、大石寺へお移しになっている。
その証拠は、日興上人の御自筆の御付嘱に「墓所」と、はっきり御指定になっていることによって明々白々である。

 凡愚のわれわれであっても、父母の骨を謗法怪山に放置するのは、忍びえないことである。
かの富木入道は、母の骨をわざわざ身延山へ納めていることは、大聖人の御抄に明らかな通りである。
まして日興上人は、第二代の貫主として、波木井と日向の謗法から、身延山を出て富士の霊地へ移られたのである。
御自身さえお住まいになれない謗法無間の身延へ、どうして先師大聖人の御霊骨を放置できようか。

 これについて、身延派では、
▼「もし日興上人が御骨を持って行かれたとするなら、墓を掘りかえして盗んだ」とか、
▼「後世になって身延の墓をあばいて持って行った」とか、勝手な罵言雑言を並べている。

 もし▼「墓を掘りかえさなければ御骨がない」というなら、現在の身延で信者に拝ませているものは土の中から掘り出したものかどうか、また、いつ掘り出したのだ。
 ▼「後世になって盗まれた」というなら、現在身延にあるものは正しく二セものかどうか。
 ▼「日興上人が盗んだ」というなら、その時の所有者はだれだったか。
 先師大聖人から一期弘法の御付嘱を受け、第二世の貫主として御行動なされた日興上人が、盗んだとかどうしたかとかいうのは、まったく日修や日憲等の邪智謗法の徒の妄想説であることは、すでに明らかに指摘した通りである。

 また、「五人所破」抄等に御骨のことが出ていないのは、前述の通り現在の身延派の連中と同じに、本尊のことや教義のことがさっぱりわかっていない。
しかも、自身の謗法を追及されても、いっこうに宗祖大聖人の御正義を求めようともしない。
ゆえに、彼らの邪智謗法を破折せんがため、■「法身の舎利を求むべし」、と指摘されたのが「五人所破抄」である。


 以上により、本条に対する身延派の論難も、まったく荒唐無稽の妄説であることが明らかになった。

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(ニ) 最後の『日付』等について

 最後に、身延派では、
▼ 「御付嘱状に年号がない」、とか、
▼「写しによって年号が元徳二年と四年の両方があっておかしい」、等の理由で偽書扱いにしている。

ところで、御真筆はどこまでも御真筆であって、いかに身延派が非難しょうとも、真筆が偽筆に変わるものではない。
また、その批判がいかにもバカバカしくて、
▼「弘安八年より元徳二年に至るまで五十年の間奏間の功他に異なるによって」云云とある文から、弘安八年より元徳二年まで四十六年であって、五十年とあるのはいぶかしい」、などという。
しかしまた、実際には元徳四年で四十八年になるが、このような時に、大数に約して五十年とおおせられることは、大聖人の御書にも幾多の事例がある。

 だいたい、身延あたりには、このように大事な御付嘱状など一通もない。
日向にもなければ、その他、身延を正統なり、とするような証文は一通もない。
ただ、大石寺を疑難しているだけだ。
それゆえに、御付嘱状が賜われるような場合や経過を知らないのである。
身延派の諸氏が得意どする文献批判と称するものは、都合の悪いものは、何でも偽書だ、というのが特徴だ。
それゆえに、宗祖大聖人から日興上人へ、日興上人から日目上人へと伝燈された必然性を知らないのである。
証人がどうの、形式がどうの、といってみたところ、日目上人以外のだれが、日興上人の御相承を受けられたのか。

 結論として、日興上人の御付嘱は日目上人が相承されたことは、厳然たる事実であり、また御付嘱状は、そうだれでも簡単に見てくるようなわけにはいかないから、写しによって多少の入れ違いもあるが、現在、大石寺には、一点の非難も許されない御真筆が現存しているのである。

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 この遺状には、本門寺建立の時に約して日目師に対して明らかに一閻浮提の座主職を約束して居り、目師が富士門徒のみの大導師ではないと暗黙の内に宣言してゐる。
 
先づ第一候は日目師を本門寺建立、即ち一国同帰して国立戒壇の建てられた時、その総本寺の座主とする事、及びその直接管領の寺ほ嫡子分として世界中に散在する末寺の半分たるべきことが示されてゐる。

この半分管領を盾に取って、▼「半閻浮提の座主だ」と悪口を言った者が有るが、其は中世の習慣を知らないからで、その実例は『吾妻鑑』建仁三年八月廿七日條(大系本前603)頼家将軍の不例に際し、関西地頭職の三十八ケ国を弟の千幡に、源氏に縁の深い関東二十八ケ国地頭と惣守護職を長子一幡に与へ、それを不服として比企能員が地頭職を二手に分ける事は喧嘩の原因だとして反対してゐるから、嫡子の半分領掌といふことが必しも良策と考へられてゐたのではない事は明かだが、一人が半分領有して残半分の嫡子に対抗するのと、嫡子以外の多数が半分を取るのとでは大変なちがひになる。
むしろこの分け方ほ頼家の方法とよく似てゐる所が、如何にも鎌倉時代の風を良く見せてゐる事に著目すべきだ。

(中略)

 最後に結語は目師を付処とする理由書だが、ここに一箇所不審といへば不審な点が有る。それは本文に元徳二年とある部分である。
家中抄によれば目師は文応元年生でそれなら十五才文永十一年に興師の弟子となり、建治二年十七才で身延に登り、以後七ケ年在山したことになるが、さうすると七十三才は正慶元年となって元徳二年ではない。
弘安八年から数へると四十六年で五十年でないがこれは概数だから良いとしても元徳二年では七十一才で二年足りない。
元徳二年七十三才とすると今度は十七才登延山は文永十一年となり、在山が九年間になってやはり数が合ほない。
もっともこれはひねった場合かういふ疑問も提出できるので、元徳二年三月の興師の申状の写本が石山に残ってゐる(要類435)(亨師の註によれば正安元年、正和二年、年嘉暦二年のものだけが掲載されてゐる<同435>)。
さうすると元徳二年が興師の最後の奏聞で、目師が七十一才のこの年に師の代官として上京されたものであらう。
保田日我師が「元徳二年の申状は目上天奏の時に副へ進ぜらると雖も樽井(垂井)に於いて御円寂の間奏聞無きか」 (申状見聞 要疏一・191)と疑ってゐるのは、目師が御自分の元弘三年の申状(要 類433)に副へて以前提出の元徳二年申状の写本を持って行かれたのが途中御遷化の為日郷師が持って帰り(そのため正本が保田の蔵中に残ることになった)(要 類438)、日導師はそのまま上洛して自分で改めて申状を作って上奏した(要 問史207)。
それだから奏聞されなかったのは元弘三年目師の申状で、元徳二年の申状は目師が代官として上奏して居られる。
この外保田我師の申状見聞には弘安八年の申状も見えてゐるから、興師は自身上洛されたのは弘安四年の時だけで、それ以後はすべて目師を代官とされ、その為に弘安八年から元徳二年までの奏聞の功を特に表彰されたものであらう。
さうするとこの文書の元徳二年といふのはその作られた年ではなく、最後天奏の年を指してゐるのだから、今年七十三才は何等矛盾するものでは無く、正慶元年の作製としてよいことになる。
大石寺客殿過去帳に目師の遷化を正慶二年七十四才としてあるのもその傍証にならう。

(中略)

 以上の如く、日目譲状は何等疑点のないばかりでなく、興師の大導師意識を明瞭に示してゐる。

(中略)

 ※日目譲状が偽作とすれば偽作者は年号を外すやうなことはせぬ筈、若し年号を入れる事さへ知らぬやうな者なら、外にも幼い誤をしてゐたであらう。

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日亨上人録 ※1 目師譲状、祖滅五十一年、富士開山日興上人より三祖日目上人に総跡を譲られたるもの、正本案文共に総本山に厳存す

日興跡条々の事。

一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主として日本国乃至一閻浮提の内に於いて山寺等の半分は日目嫡子分として管領せしむべし、残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし。

一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(五月廿九日)御下文、日目に之を授与す。

一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を官領し修理を加へ勤行を致し広宣流布を待つべきなり

右日目十五の歳日興に値ひ法華を信じてより已来た七十三歳の老体に至るまで敢て違失の儀無し、十七の歳日蓮聖人の所甲州身延山に詣り御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後弘安八年より元徳二(四)年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依つて此の如く書き置く所なり、仍て後の為に証状件の如し。
 (元徳四年)十一月十日 日興在り判。

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※ 日代等付属状

日蓮聖人ノ御仏法日興存知ノ分ハ日代阿闍梨付(ニ)属ス之ヲ(一)
本門寺三堂ノ本尊ハ式部阿闍梨日妙二十七箇年依テ(レ)為ス二(二)行学ヲ(一)付(二)属ス之ヲ(一)
東国ハ法華ノ頭領卿阿闍梨日目ニ付(二)属ス之ヲ(一)
西国三十一箇国ハ法華ノ頭領讃岐阿闍梨日仙二付(二)属之ヲ(一)
北陸道七箇国ハ法華ノ別当日満阿闍梨二付(二)属ス之ヲ(一)
門徒ノ大事不(レ)如(レ)之二

正中二年乙卯十月十三日

白蓮阿闍梨日興判  (宗全二ー139)

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「日代置状」等の本六の列次は史実であるが、差定の年紀は三十余年も繰り上ぐべきであり、たとえ新六を主としても元徳ではない。
すでに死亡後の日乗(本六)日澄(新六)などがあるのみならず、日代遺状の多数は代師重須濱出後に師を光顕(こうけん)して、先輩の目師・仙師、新参の日妙等に対向せしめんための偽文書という批判が古来盛んであることに関心する必要があり、したがって「日妙二十七年の行学」も「東国法華の頭領」も「西国竺箇の法華の頭領」もまったく偽文書である。
いわんや「北陸道七箇国、○、別当日満」云云は、満師の少年時代で、阿仏に現存する両個の正文書と反するより見ても躊曙なく偽造とすべきである。」

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