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富士学報02  1972 発行

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「日興跡条々事」について
創価学会批判等の邪義を破す  尾林広徳

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目次


本論
第一節 系年と伝承について
第二節 第一条について
第三節 第二条について
第四節 第三条について
第五節 付文について
結論


日達上人 講評

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▼「立正大学日蓮教学研究所の編纂になる日蓮教団全史に依れば、この日興跡条々事は古来より富士門流の内でもやかましい真偽の論がありまた事実この状は内容文書形式の上から見て日興の真筆でない (同書122)」

とし、この事はすでに昭和三十年の創価学会批判に詳論しておいた如くであると述べている。
しかもその後本宗乃至は創価学会より出された反駁の書はいづれも非学問的で客観性のない非科学的主観的な感情論的論述で、問題の解明に少しも役立っていないとの批判を加えている。
しかし乍ら日蓮宗宗務院発行の創価学会批判といい、この日蓮教団全史といい、富士門下、とりわけ日蓮正宗に対する論述はおよそ立正大学に於て宗学史を専攻し、それをきわめて客観的学問的に教授する学者には似ても似つかぬ論述に終始し、富士門下の動向と展開等の名目を挙ぐるとも、その内容は見苦しいばかりに本宗に対する悪意の中傷と反撃の繰り返しとなっている。
私はむしろ日蓮教学研究所の学者こそ、これ迄の一切の偏見を捨てて、富土門流の宗義とその歴史を正しく謙虚にそしてまた冷静かつ学問的に把握すべき事をお勧めするのである。

そこで私はその手がかりとして日興跡条々事に於ける此の御文の持つ意味を考えつつ、この両書の疑難を破しこれを如何に拝すべきか、その一端をまとめてみたのである。

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第一節   系年と伝承について

いま創価学会批判に於ける本書の系年と伝承に関する偽書説を要約すると、

▼ 第一には 公開の上、学界の正当な判断のない以上、無条件に正本の実在を信ずる事が出来ない。
▼ 第二には 年月日のない譲状、付属状は謀書であり、偽作としか名づけ様がない。
▼ 第三には 日辰の祖師伝に於ける案文に元徳四年三月とあるのに正本に年号か記されていないのはどうした事か

と言うのである。

しかし一体これが天下の学者の学問的科学的客観的批判であろうか。

この日興跡条々事は周知の如く
宗学全書(2−134)はもとよりの事、

富士宗学要集(八ー17) @

日蓮正宗聖典(五一九)等に、A

正本との校合ずみの本文が既に公表され、また案文と共にその正本の所在も広く知られているところにも拘らず正本の実在を信ずる事が出来ないとは何事かと言わなくてはならない。
大石寺に正本がある、草案がある、あるいは時代写本があると言われれば、素直に信ずる事が学問的良心と言うものである。

しかも大石寺に於ては例年四月の御虫払大法会に御法主上人御自らが此の御文を拝読され一般信徒にまで御披露遊ばされているのであり、正本の大石寺に現存する事は歴然たる事実なのである。

従って正本の現存する以上、年号があるとか無いとかの議論や、系年が祖師伝に於ては元徳四年三月、家中抄「日興跡条々事」について日目伝には元徳四年三月十五日になっていると言う様な事は、当時の正本に依らない筆録者の誤りを、更にまた後世の人師が誤り伝えたのであって、現存の正本の前には無用の詮索と言う可きであろう。
むしろ正本に年号の記載がない事か今日そうした誤記の詮索や想像の論議を超越して、いよいよ正本の真実性を如実に物語るものと言わなくてはならない。
御書といいこうした文書といい、あまりにも整い過ぎる事の方がかえって疑わしいのであって、偽作者がこの様な年記のない文書を作るはずがないのである。

しかし立正大学の学者達はかたくなに正本現存の日興跡条々事を偽書とし、しかも正本もなく後に述べるが如き、誰が見ても偽書なる事が明らかな日代への置状をあえて真書とみなす偏頗な御都合主義はひいては大石寺を批難する為の文書は全て真書だとし、白宗に不利な文書はそのことごとくを偽書扱にする策謀以外の何物でもない。

ちなみに日蓮宗年表に依ると日蓮宗に於てまだしも良識ある学者は、すでにこの日興跡条々事を以て元徳二年の項にはっきりと「十一月十日日興大石寺を日目に付す」(同書三O)と記しているのである。

しかし曾て堀上人が共に正本を校合して出されたものにも拘らず、宗全本と要集本の記文に多少の出入のあるのは何故であろうか。

例えば

第二条の 「弘安五年御下文」 の文字が 要集本 にあって 宗全本 になく、
「相伝之可泰懸本門寺」 の文が 宗全本 には 頭註され、 要集本 では抹消せられている。

これは思うに、堀上人が正本との校合の際に、同時に平行して草案との対照も合わせて行なわれた結果、その正本と案文との聞に於ける多少の相違を取拾せられたものと思う。
その結果同じ正本に依られたものとは言え、その間に多少の出入の生れる事はむしろそれは自然な事であって、どちらか一方が正しく一方が誤りと言うものではなかろう。
何故なら案文も正本も共に日興上人の正筆であり、共に日目上人に相伝せられたのであるから、後世の我々がとやかく言う可きものではないであろう。


今この日興跡条々事を日興上人と日目上人の御事跡の上に拝するならば、正応三年十月大石寺を御建立遊ばされた日興上人はその十月十三日御座替の本尊を授与して日目上人に法を内付され、そして永仁六年重須に御影堂を建立して重須の談所に弟子の教育に当られ、万年の救護に備えられた。
しかし重須に御影堂が建立せられ、談所が開かれでも日興上人の本拠はやはり大石寺の大坊にあり日目上人は本六の筆頭第一の弟子として蓮蔵坊に居られたのである。
いわば日興上人は霑尊の仰せられる如く、両山兼住の姿であったのである。(富要七ー105) B

その事は三位日順師が法華本門見聞に

『文保第二の天・初月八日の候、之を始め畢ル、但シ、朝タ大坊(※大石寺)に奉って之を承り、夕べ御影堂(※北山)に於て私に之を説く者なり (富要二ー124)

と記されている事を以てしても容易に知れる所である。

又日目上人は如何に法の内付を受くるとも正慶に至る迄、依然として御本尊を書写される事もなかったのである。

かくして日興上人は大聖人御入滅後、この間に於ける日目上人の奏聞の功績と智徳にかんがみて元徳二年十一月十日、日興跡条々事を成案せられ、日目上人を一閻浮提の座主と定められたのである。

そして其の後、元徳三年、大聖人の五十回遠忌をすまされた後、元徳四年、つまり正慶元年になって改めて、十一月三日に手続の御本尊を、そして十一月十日に、この日興跡条々事の正本を授与遊ばされ、大石寺の御堂に安置し奉る、日興が身に充て給わった戒壇の大御本尊と、また大石寺の総跡を譲られのである。

従って日目上人が名実共に大石寺を継がれたのは正慶元年十一月の事であり、日興上人はこの時より重須へ常住され、新六人の制を定められたのである。

爾来大石寺にはこの日興跡条々事に於ける第一条の御文より、広宣流布の暁の御法主は日目上人の再誕なりとの伝統的信仰を生むに至ったのであり、
私はかくて本書の御文を、

第一条は一閻浮提の座主としての日目上人への末法万年にわたる総付属と拝し、
第二条はその法体の別付、
第三条は大石寺の付属と広布への勧戒

と拝す可きであろうと思うのである。

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第二節  第一条について

第一条は

本門寺建立之時新田卿阿闍梨日目為座主於日本国乃至一閻浮提之内山寺等半分者日目為嫡子分可令管領所残自余大衆等可領掌之

となっている。

これに対する創価学会批判をみると
一には、彼の玉野日志以来の悪説を踏襲して、

▼「閻浮の座主が半分しか領しないという事があろうか」 と言うのである。

しかも

▼「目師七十一歳乃至七十、日興上人八十五乃至八十七歳の晩年に、本門寺の建立と全世界の帰伏を予期し、目師の生存中に半分の山寺を与える、と言う様な事態を日興上人が考えられるとは余程老耄している」

と批難している。

しかしこれに就ては日霑上人が既に両山問答に

■「一国の大王にして其半分を領せる国王ありや 乃至 就中我が開山の時代は北条氏の末・専ら封建の時なる故に 」(富要七ー九八)

と、中世封建の習慣を知れば何ら疑難の余地のない事を指摘せられているところである。

けれども私はこうした悪口の徒は全てこの第一条の読み方がまちがっていると思う。

この第1条は

「本門寺建立之時新田卿阿閤梨日目為(ニ)座主(一)」

と、先づ第一に本門寺建立の広布に約して日目上人を一閻浮提第一の御座主と定められたのであり、畢竟(※つまるところ。結局)末法万年尽未来際にわたって、閻浮の座主は日目上人である事を仰せ遊ばされていると拝するのである。

次に

「於(二)日本国乃至一閻浮提之内山寺等(一)半分者日目為(ニ)嫡子分(一)可(レ)令(二)管領(一)」

とは、日目上人が常に閻浮の座主として、日本のみならず世界中の山寺等の半分を「日目の嫡子分」として、後継の代々の御法主に管領せしめよう、との御遺命と考えるのである。

つまり日目上人が嫡子分として半分管領するのではなく日目上人が後継の人師に日目の嫡子分として管領せしめるのである、と言う事を知る可きである。

従ってこの所は

「半分者(ハ)日目ガ 為シテ(二)嫡子分ト(一) 可シ(レ)令ム(二)管領セ(一)」

と読まなくてはならないのであり、特に管領せしめるのは誰か、そして誰に管領せしめるのかと言う事は留意すべきなのである。

しからばここは日目上人を中心とする未来広布への最大の指針を仰せ遊ばされている事が領解せられるであろう。

故に私は
▼「半分管領の座主」
だの、
▼「老耄」
だの、あるいは
▼「『為座主』とあれば言足んぬ 後に『日目嫡子分』の六字、頗る無益剰長の詞なり」 (富要七ー四二)

等と言う前に、すべからく此の第一条の御文を正しく熟読玩味すべしと主張したい。

さればこうした疑難はたちどころに氷解するはずである。


第二に創価学会批判の学者は「日代等付属状」の

日蓮聖人ノ御仏法日興存知ノ分ハ日代阿闍梨付(ニ)属ス之ヲ(一)
本門寺三堂ノ本尊ハ式部阿闍梨日妙二十七箇年依テ(レ)為ス二(二)行学ヲ(一)付(二)属ス之ヲ(一)
東国ハ法華ノ頭領卿阿闍梨日目ニ付(二)属ス之ヲ(一)
西国三十一箇国ハ法華ノ頭領讃岐阿闍梨日仙二付(二)属之ヲ(一)
北陸道七箇国ハ法華ノ別当日満阿闍梨二付(二)属ス之ヲ(一)
門徒ノ大事不(レ)如(レ)之二

正中二年乙卯十月十三日

白蓮阿闍梨日興判(宗全二ー139)

の文を挙げて本状に見える分譲の形態こそ真実性があると言うのである。

ところが当文は、すでに日精上人が家中抄(富要五ー119)日妙伝に綿密な検討を加えられ、偽書なる所以を十項に分かって教示せられている。※ C

しかも更に堀上人が日興上人詳伝に

日妙二十七年の行学も、東国法華の頭領も、西国三十一箇の法華の頭領も、まったく偽文書である。
いわんや北陸七箇国○別当日満云々は、満師の少年時代で、阿仏に現存する両個の正文書と反するより見ても臨時なく偽造とすべきである (同書五九四)

と、はっきりと断定遊ばされている。

考えてもみよ。
現実に日興上人を継がれた大聖人直参の日目上人を指しおいて日代に大聖人の仏法を付属せられるはずではなく、佐渡日満を北陸道七箇国の大別当と定められたのは七年も後の元弘二年十月の事である。

私はここにこの日興跡条々事は、こうした批難悪口に紛動せられる事なく、大聖人が日興上人を本門弘通の大導師と定められたあの一期弘法抄と軌を一にした、広布への御遺命の大事として拝さなくてはならないと思うのである。

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第三節   第二条について

第二条の「日興充身所給弘安二年大御本尊」に就ては大石寺の本門戒壇の大御本尊対して悪口する全ての徒輩が共通して

▼「日興上人に弘安二年十月十二日授与の本尊は一鋪もない」

と言い、さらに「創価学会批判」は「日代置状」(宗全二ー136))を引いて、

▼「もし日興授与の本尊があったとしでも、正中二年十一月十二日に盗難にあい、そしてそれが出て来たとしても日代か本門寺の重宝として相続したと考えられ、日目上人に譲られるはずがない」  と言うのである。

しかしこれも全く気の毒な議論と言わなくてはならない。しかも

▼ 興師に与へられた本尊が一鋪しかなく、それが日代に与へられた事は石山の権威を失ふことであり、到底これに耐へられぬ所からどうしても日興宛本尊を事実石山門徒の初祖である日目に授与された如く仮装してせめて条目だけを作り添へ本書は紛失したかの如くよそほったものと考えられる (創価学会批判 五二)

等の、このあらぬ想像のたくましさはまったく笑止にたえない。
いやしくも立正大学の学者なら学者らしく、もう「日代置状」の様な偽書を根拠に想像の詮索をする様な事は慎んでもらいたい。

この第二条には

「日興充(レ)身所(レ)給弘安二ノ大御本尊」 

とあって、「日興充(レ)身所(レ)給」 については、授与書があるとかないとか、授与の本尊があるとかないとか、そんな姑息な議論はいらぬ事である。
これは大聖人か日蓮が魂を心肝に染めて末法万年の一切衆生の為に身命を賭して御建立遊ばされた本門戒檀の大御本尊を、身延の堂宇に御安置の上、本門弘通の大導師としての日興上人の御身の上に給わったのであり、弘安二年の「大御本尊」の四字に注目していただきたい。

この「大御本尊」こそ大聖人の御本懐の法体にあらせられる。
そして未来本門寺の本堂安置の本尊として興上人の御身に給わった所の本門戒檀の大御本尊を、今ここに日目上人の、また御身にあてて御授与遊ばされたのであって、以来連綿として我が総本山に厳然として安置せられているのである。

私共はすべからく、この大御本尊が現に大石寺に安置せられ、日興跡条々事の正本も合せて現存するこの事実をこそ信じ、渇仰すべきなのであって、偽書を以て虚を構える事はもう止め給えと叫ばずには居られない。

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第四節 第三条について

第三条は

「大石寺者云御堂一五墓所日目管領之加修理致勤行可待広宣流布也」

となっている。

いま「創価学会批判」の中傷を要約するとこれまた日志の論議を踏まえて、

▼ 第一条に「半分を与える」と一言いながらこの条ではせいぜい「大石寺の管領をして広布を待て」とはいささか矛盾しており、
第二には興師は絶対に大聖人の御墓をあばいて遺骨を収取して持って帰る様な事はしていないと言い、
五人所破抄の

抑身延の一沢の余流未だ法水の清濁を分かたず、強いて御廟の参否を論ぜば汝等将に砕身の舎利を信ぜんとするか云々 (聖典 五五三)

の文は、身延に御遺骨と御廟のある事を証している と主張するのである。

けれども此の第三条は前述の如く、大石寺の付属と広布への勧戒であり、その意味する所は、大石寺は御堂といわず墓所といわず、大坊塔中を含めて全て日目上人か之を管領し、修理を加え丑寅の勤行をし、広宣流布に直進せよ。との御意である。
従って第一条の半分が、ここでは大石寺のみになったなどと、子供みたいな事を言っていてはいけないのである。

また五人所破抄は、大聖人の法体の血脈と妙法の弘通を忘れて、身延九ヶ年の遺跡、遺跡と固執する身延一徒の顛倒を破されたのであって、御遺骨の有無を論ぜられているのではない。
しかも身延の廟所には大聖人の御遺骨は決して埋葬せられていたのではなく、それは曾て日達上人猊下の御指南の如く、
美作房御返事に

御墓に御入堂候わん事苦しく候わじと覚え候 (聖典五五六)

と御墓に御入堂というこ言葉を使っておられるのを見ると、やはり大聖人の御遺骨は埋葬ではなく、廟所に安置せられていたと拝す可きであろう。

従って日興上人が御墓をあばいて御遺骨を収取などと言うものでは決してないのである。
日興上人はあの身延の十間四面の堂に安置せられその御身に充てて給わった所の本門戒壇の大御本尊と、大聖人の御廟所に安置せられていた御遺骨とを奉持して、大石ケ原に大石の寺を建立遊ばされたのであって、故にこそ

「大石寺者云(ニ)御堂(一)云(二)墓所(一)」

と仰せられたのである。

かくて私は安置の本尊もなく、安置の御遺骨もなく謗法の山と化した身延の堂宇や廟所にいかで日興上人が参詣せられるであろうかと言いたいのである。

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第五節 付文について

日興跡条々事の付文には、

「自弘安八年至元徳二年五十年之間奏聞之功」

という御丈がある。

「創価学会批判」によると、この弘安八年より元徳二年は正確には四十六年であって、五十年と言うのはいぶかしいと述べているのである。

これに就て日辰の祖師伝は

「蓋し大数に約するか」(富要五ー32)といい、

松本佐一郎氏は「富士門徒の沿革と教義」に於て、この弘安八年より元徳二年というのは、目師が日興上人の代官として奏聞に出られた事を意味し、けだし元徳二年は興師の代官としての最後天奏の年を指すのであろうと記されている。

しかし私はこの元徳二年は最後奏聞の年のみならずこの日興跡条々事を成案、内示せられた年であり、
正本の系年はやはり 「七十三歳之老体」 から言って、つまり正慶元年(※元徳4年)十一月十日とすべきであろうと思う。

そして五十年というのは大数に約して五十年と仰せられたのではなく、この御文の裏には大聖人滅後、五老を始めとして大聖人直参の弟子といい、多くの檀越といい、そのことごとくが師敵対を重ね、軟風に染って行く中にあって、日興上人唯一人大聖人の御遺命の孤高を守り続け、日目上人は又その間に日興上人の代官として、天奏の長途に寧日がなかったのである。

こうした折、いわゆる元徳三年に大聖人の五十回遠忌を迎えて、大聖人御滅後の五十年をかんがみられて、

「御遷化之後自(二)弘安八年(一)至(二)元徳二年(一)五十年之間」

と仰せ遊ばされたのであると拝したい。

また祖師伝や家中抄日目伝に、その系年を元徳四年三月と記している事については、既に述べた如く、正本を見ずして筆録された後人の記録を、そのまま依用せられたのであって、現に大石寺所蔵の正本にいささかの疑点もない以上、そんな事に左右されてはならないと思う。

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結論

以上私は日興跡条々事に対するこれ迄の疑難とりわけ日蓮宗宗務院発行の「創価学会批判」の邪義を要約してこれを破し、本書の条々を如何に拝す可きか、またその系年に就ても合せて論究して来たつもりである。

そして大石寺に正本があり、日興上人の御身に充てて給わった本門戒壇の大御本尊か厳然とましまし、今、正本堂か建立せられて、広布への布石か着々と進展する様相を目の当りに見る時、日興上人の御配慮の深さ、周到な御遺命に、新たなる感銘を覚えるのである。

実に日目上人は永劫にわたっての一閻浮提の御座主にあらせられ、私共はこの御座主の嫡子たる御法主上人猊下のもとに、広布への精進を重ねて行かなくてはならないのである。

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参考文献

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日亨上人録 ※1 目師譲状、祖滅五十一年、富士開山日興上人より三祖日目上人に総跡を譲られたるもの、正本案文共に総本山に厳存す

日興跡条々の事。

一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主として日本国乃至一閻浮提の内に於いて山寺等の半分は日目嫡子分として管領せしむべし、残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし。

一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊弘安五年(五月廿九日)御下文、日目に之を授与す。

一、大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を官領し修理を加へ勤行を致し広宣流布を待つべきなり

右日目十五の歳日興に値ひ法華を信じてより已来た七十三歳の老体に至るまで敢て違失の儀無し、十七の歳日蓮聖人の所甲州身延山に詣り御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後弘安八年より元徳二(四)年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依つて此の如く書き置く所なり、仍て後の為に証状件の如し。
 (元徳四年)十一月十日 日興在り判。
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A

※2 日興跡条条事

一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内山寺等に於いて、半分は日目嫡子分として管領せしむべし、残るところの半分は自余の大衆等之れを領掌すべし。

一、日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之れを相伝す、本門寺に懸け奉るべし。

一、大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり。

 右日目は十五の才日興に値い法華を信じてより以来七十三才の老体に至る敢えて違失の義なし、十七の才日蓮聖人の所に詣で\=甲州身延山\=御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依つて此くの如く書き置くところなり、仍つて後の為め証状件の如し。
  十一月十日                               日興 判

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B

解読の便に、句読点・読みなど挿入(樋田)

※3 一、教正師又云く「一疑去って一疑来る。草稿の反古と、本紙ともに付与し給へる理なし、元徳四年は師、当山(※北山)に在り。然れば、則(すなわち)其の草稿は当山(※北山)に蔵すべし」等と云々。

此の言至れり尽せり、愚(※自分)も此の言を拝し、思はず顰蹙し(山+π)(こつ)頭(※はげあたま)を掻き、喟然(※きぜん ため息をつく)として歎じて云く、
「大講義(※日布上人)の答書に贅言(※無駄なことをいう)して乍(なが)ら此の難義を醸(かも)せり(※事態作り出してゆく。もたらす。)
古人言はずや「駟も舌に及ばず」と(しもしたにはおよばず※《「論語」顔淵から》いったん口に出した言葉は、4頭立ての馬車で追いかけても、追いつくことはできない。言葉は慎むべきであるというたとえ。)
況や筆跡に於いてをや。鳴呼。と、
而して退き稍(なお)沈吟(※思いにふけること。考え込むこと。)し、掌を拍(う)ち大に笑って曰はく
「奇なる哉、妙なる哉、大講義の一筆や。反って我が胸中を豁然(※心の迷いや疑いが消えるさま。)たらしむ」、
云何(いかん)となれば、

興尊、当山(※大石寺)を目師へ内付し給ふ事は、果して其の前にあるべし、といへども、表然たる遺付は、全く此の時(※元徳四年)を正とす、
爾らば興尊、永仁中に一たび重須に退去し給ふといへども、猶、元徳四年に至るまでは両山兼住の姿なり、
今改めて大石寺を目師に付し、其の遺跡を定め給はんに、興尊、争か重須に居ながらにして是を扱ひ給ふの理あるべき、
必ず駕(が 乗り物)を当山(大石寺)に促がし、是処(このところ)にして、此の遺状を認(したた)め、衆檀に披露して、公然、其の式を行ひ給ふ事、当然なり、
而して其の艸(草)稿也や、粗々(あらあら ※きめが粗い)たる半裂の紙に禿筆を以って、僅かに三四行を艸(草)して余白尽きぬ、
当時質素の状、僻陬(へきすう ※へきち)、乱離(らり  国が乱れて人々が離散すること。)の世・紙筆に乏しきの様、自ら見るべきに足れり・
惟(おも)ふに師、此の草を成し畢り、若くは自ら手丸め机上に置き給ふか、若しくは座側に捨て給ひしを、後、之れを拾ひ、全く師の御真跡なるを以って本書に添へ、同く筐中(きょうちゅう 箱の中)に納めて、今に当山(※大石寺)に蔵せるや必然たり、
若し然らば此の艸稿(草稿)の当山に蔵せる、反って是れ御遺状の真跡に紛れなきの確証なり、

是に於いて教正師、猶氷解せず重ねて疑難を設けば、吾輩の及ぶべきにあらず、其れは実に吾が大講義(※日布上人)の明言の如く、興尊に地下に見(まみ)へ、自ら疑を決し給ふの外は設ひ真跡を拝する事あらんも、猶、断疑の期あるべからず、故に焉(ここ)に筆を絶し畢ぬ。  

明治十二年一月             沙 門 日 霑 謹 誌

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Cーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※ 或る人云ハく 「日妙は興師付所の弟子なり、故に日妙授与の譲状之レ有り其ノ状に云ハく「富士本門寺日妙上人永仁六年二月
十五日、日興、在判 」 【私に云く此年号は日妙十四才年号ぞ】 (←日亨上人 頭註 年代合わず)

(日亨上人 頭註 ↓ 此下五項 年代等合わず。或いは後人の偽造か)
日蓮聖人ノ御仏法、日興存知ノ法門日代阿闍梨に之レを付属す、
本門寺の三堂本尊、式部阿闍梨日妙二十七箇年の行学たるに依ッて之を付属す、
東国法華の頭領を卿阿闍梨日目に之を付属す、
西国三十一ケ国法華ノ頭領を讃岐阿闍梨日仙に之レを付属す、
北陸道七箇国法華ノ別当を日満阿闍梨に之を付属す、
門徒此ノ旨を心得べきなり、仍て件の如し。

 正中二年十月十三日  白蓮阿闍梨日興在判駿河の国富士上方重須本御影堂に於て唯授一人日妙に相伝す秘すべし【已上全文なり】。

一には三堂本尊の躰、何様の物ぞや不審し、
二には日目法華頭領の付属なり、爾りと雖モ頭領の下知を信ぜざる者手下にせんと思ふ者あり是ノ故ニ信ぜられざる一なり。

一、本門寺三堂の本。(←「本」の下に「尊」を脱するか。日亨上人) 何等ぞや。
一、日代遺状には日目、日仙、日代等との給へり、今此ノ付属先例に違す。其ノ外不審多々なり云云。

(↓事実に合せず 頭註)
日蓮聖人の御仏法、日興慥に給はる所なり、就中日妙ハ三堂ノ本尊ノ守護申すべき仁なり、末代の為に日代判を以て証人として書写し畢ぬ、
我カ門弟等以後に於イて諍ふ事有るべからず候、仍て後日の為メ件の如し。

  元徳三年二月十五日            日興在判

本門寺日妙に之レを授与す  已上全文。


右長篇を以ッて日妙に之レを授与す、故に興師滅後遺状に任せ重須本門寺を領知してより已来タ、今に師々伝授して絶えず、
爾るを日代流、猥りに興師付所の弟子と云ふ者は日代なり(← 「には」の誤りか 頭註)八通の遺状之レ有り、日妙は代師離山の以後の住持なり云云、
此クの如きの義、信用すべからず、日代は大石寺より西山に移らる云々。

此ノ両義何レが是、何レが非なるや、愚謂ヘらく、謹ンで両家の御遺状を拝見し奉るに邪正自ら分明なり、
若シ之を評せば日代遺状に於ては全く疑滞無し、妙師遺状に於て不審多々なり、興師の尊意を案ずるに遺状は定メて一人に賜ふべし、若シ両人に下さるれば異論の根源なり、争か此ノ義有らんや、若シ爾らば一方は偽書顕然なり、妙師遺状に就て数多の不審有り中に

第一には 文章野卑なり、故に興師の筆跡に非ず、末弟、妙公を尊敬して興師の付弟と称せんと欲する故に書ける者か、

二には 富士本門寺とは興師滅後に喚はる処の寺号なり、額は大聖人の御筆跡なり、然らば高開両師の本意、国主の帰依を受けて富士山に三堂を造立して額を本門寺と打つべし、是レ両師の本意の故に御在世の時は重須の寺、大石の寺と云ッて寺号を喚ばず、古状どもに其趣き見えたり、日澄の遺状等をも見るべきなり。

相伝へて云ハく、中比、甲駿不和の時、駿兵甲武に籠めらる、此ノ時、重須の衆徒、密に書状を通用して駿兵無事に皈(※「帰」の異体字)ることを得たり、
其ノ時、褒美として今川家より寺号免許の状を日国に賜ふ、其ノ文に云ハく

「日蓮聖人より的々相承、並びに本門寺の寺号ノ証文等何レも文証明鏡の上は領掌相違無き者なり、仍て状件の如し。
永正十二乙亥年六月二十六日  修理太夫在判本門寺日国上人」
【私に云ハく、永正十二年より延宝五年に至るまで百六十二年か、而れば寺号をよぶ事、重須日国、西山日出已来ぞ】。

然れば日国已来書ける者か、西山も双論の家なるが故に日出、日典、已来亦本門寺と云ふなり。

問フて云ハく 日興の御代本門寺と謂ふ其ノ証拠、御棟札、是レなり、其ノ文に云ハく 法華本門寺根源 と云へり、何ぞ疑を生ぜんや、
答ヘて云ハく 此ノ文を以て重須本門寺の証と為すは誤なり、其ノ故は此ノ棟札は未来の棟札なり、其ノ故は国主此ノ法を立てらるる時は三堂一時に造営すべきなり已上、此ノ文之レを思へ、況ヤ亦、澄師遺状並びに日代状は本門寺建立の時なり 【已上下に之を出す】、
凡ソ額を打つ事、日本通同にして山門には山号の額、本堂には寺号の額、御影堂には祖師堂の額、を打つこと是レ天下一同の義なり、惣じて富士は唯一ケ寺なり。各別の寺と思ふべからず、具に日目の下に之レを出すが如し。

次に 本門寺根源 の事、日蓮一大事の本尊有る処、寺中の根源なり。若シ爾らば、板本尊の在す処、本門寺の根源なり、若シ重須に此ノ御筆有るが故にと云はゞ、二ケ相承、今、他寺に在り。彼ノ寺を指して本門寺と云はんや、愚案の至極、道を論ずるに足らず。


三には 日妙上人と云ふこと永仁六年、日妙十四歳、延慶三年二十六歳なり、此ノ年の本尊に猶日号を許されず。何に況ヤ十四歳ノ新発意に上人号を授けらるべけんや。年代之レを思へ、若シ救して正中・元徳に授けらるる故に後を以て初に望んで爾か云ふとならば、初の日興判は謀判か。


四には 西国三十一国法華頭領等とは日仙何ツ比、高瀬大坊ノ別当と作るや、凡ソ日仙讃州上洛の事、建武元年。日仙、日代、問答以後の上洛なり、其ノ間は日華、日乗土州と讃州に有るなり。能く之レを勘ふべし。

五には 付属の次第乱る故、今文ニ、代・妙・目・仙・満 と列ぬ。是レ新本混乱するなり、代師遺状の如き日目、日代、日仙等と云へり、
彼レを以て之レを案ずるが故に不審有り。

六には 三堂本尊とは板本尊、生御影、垂迹堂本尊と云ふ事か、若シ爾らば板本尊とは日興、日目已来相続して而も大石寺に有るなり、垂迹堂の本尊は是レ日目御相伝にして、今房州妙本寺に在り。天王鎮守の神ヒと云ふは是なり 【日濃の代に至って井上河内の守に取らる。】

問ふ 本尊所々に有りと雖モ、日妙付属に於ては妨げ無し。其ノ証拠は高祖本尊を日興に付属して譲状有り。高祖の御筆なり、其ノ文に云く
「日興上人に之を授与す。此ノ本尊、日蓮の大事なり。日蓮在判」、
裏書に云ハく
「日妙に之を授与す、正中二年十月十三日、日興在判」 と、
既に三堂本尊日妙に之を授与する明鏡なり。誰か之レを信ぜざらん、

答ふ 裏書を以て正と為さば日国、日耀、日出等大妄語の悪人なり、其ノ故は右諸師万人に対して日代擯出の旨を説き、諸師の口伝を聞イて之レを記録し世に流布す。若シ三師の口伝を本とせば裏書は謀判謀書なり。能く糺明せよ。

七には 白蓮阿闍梨とは有職を遊ばさる久遠寺離散の時分の書状等には之レ有り、日目、日代付属遺状数通の中に終に遊はさず、六十已前ハ有職有りと雖モ「六十已後」(←此の推定 或いは麁浪(※麁(あら)い・粗い事 )か・頭註)には全く之レを書く事無し。

八には 本御影堂の本ノ字、尖り言葉なり。日本一州に於て誰か正御影に非ラずと謂ハんや、他門徒既に深信を致す、況ヤ自門に於てをや、爾るに今本御影堂と云へる事甚タ穏便ならざる言葉なり。

九には 二十七年行学とは日妙何ツ比より興師の座下に詣リて、何ツ比より行学せらるゝを二十七ケ年と謂ふや、若シ二十七ケ年の言葉に就イて之レを論せば、日妙十四歳、已後行学して、正中二乙丑四十一歳なり、然るに妙公二十六歳、日華の弟子にして甲州に在りと云ふは虚説たるべし、奈何ん。

十には 日代判を以て証人として書写し畢ぬとは、若シ日代の加判治定ならば末弟三百余年、彼ノ遺跡を相論するは代師の誤なり、
若シ謀書ならば罪過日妙に有り、斯の如く不審有るが故に妙師遺状は信用せざる所なり、況ヤ給ノ字備なり、 供なり供給なり、亦守護とは正付属に非ず旁た信用し難し。

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法主上人講評  (※ 日達上人)

「日興跡条々事」について

「日興跡条々事」について論者は、「山寺等の半分は日目「が」嫡子分として管領せしむべし」といって、この日目の下に「カ」(※が)という字を助詞として入れている。
まことにおもしろい説だと思う。
「日目嫡子分として管領せしむべし」というのを、「カ」を入れて「日目「が」嫡子分として領掌せし(※「め」が脱字か)」と、あとの人にもこれをちゃんときちっとせしめる。
日目上人が支配して末法万年の支配に於てすべての山寺等のものを領掌してゆく。こういう意味にとってまことにおもしろいと思います。

その後、弘安八年より元徳二年に至るまでの間、
「奏聞の功、他に異なる」 これが四十何年に足らない、五十年に足らないといってよそでは批難しています。
しかしこれは御遷化した弘安五年から元徳二年までが四十九年である。
だからこれを一応五十年としたのであり当然のことである。
その間に弘安八年から元徳二年に至る奏上の功が他に異なる。こう解すべきだと思います。

以上の五十年というのは御遷化の後からこの元徳二年に至るまで大略五十年と数え、その文章の内に重複しておるけれども、弘安八年から元徳に至るまで公家に奏上したことが他に異なっておるとこう取るべきだと思います。
そうしてみると五十年と解釈しても少しも不思議ではない。
ここにちょっと御遷化より弘安八年と書いてあったからおかしいといっているが、しかし日興上人はこの時八十五オであり、この元徳二年には御病気でいらっした。
これは堀米祝下の説によると体か悪いから一応後々の事をお書きになられたので、それが元徳二年のこの書である。
そしてこの書をお書きになってから、こんどは病気が良くなって一時小康を得たのでこの譲状をそのままにしてしまっておられた。
それでいよいよ御遷化の前、正慶元年の暮時分に本書をあらためて、そのままお渡しになったんだろう、という説をとっております。
だから
▼「ここに元徳二年とあってほかに年号がないからこれはにせものだ」
などといっても 実際はほんものがあるのだからしかたがない。
そういうふうに堀米猊下はとっておられます。


▼「弘安二年の日興上人に与えられた御本尊か一幅もない」
とよく他宗の方ではいいますが、弘安二年の大御本尊かあるのにこれを無視して「一幅もない」と騒いだって仕様がない。

又お骨については他になくても大石寺にあるのだからしかたかない。
墓をあばくという事は先程論者のいった通りでいいわけです。
例えばもし墓に入れたならばいまでも墓の中にあるわけです。
ところが身延では墓の中には無い、ちゃんと大聖人のお骨はお骨として本堂に安置してある。
なんの為に身延が自分で墓を掘る必要があるのか、自分のところのお墓にあった骨を掘って本堂におく必要はない。
それをもし墓にあるとするなら実際は墓じゃなくて堂に置いであったのである。
墓の廟に置いであったのを日興上人が大石寺にお移しになった。
でもこれでもう身延にはお骨がなくなったということでは困るから別にお骨を作ってまつったということにすぎない。
また最近墓地へお骨を返すんだとか何とか評判があるけれどもまだそのままになっています。



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