法華文化研究(第31号)

(※ リンク及び樋田の覚書を挿入。青字。幼学の自分が理解しやすくするために 空字 段替え 行替え 句読点 「」 棒線 太字 なども挿入させていただいた)

順決択分に関わる 「三善根」 説の一考察

『無量義経』「序」の検討

周 柔含

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1 問題の所在

2 横超氏の指摘

3 『無量義経』「序」

4 まとめ

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1 問題の所在

▼ 「『無量義経』(Ananta−nirds(sの上に´)a) (1) が中国撰述である」 

という学界の定説 (荻原雲来[1935」,横超慧日[1954],古田和弘[1977ab])がある。

一方、三友健容[1983」 は 

● 「『無量義経』lはインド撰述である」   と主張する。

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 荻原[1935,9−11」は、

(1)翻注(「阿若橋如若・阿若拘隣」)が一様ならぎること、

(2) 顕著なる訳語に二様(「十地・十住」)あること、

(3)「菩提樹下端坐六年」の語は未だ仏典中他に類例を見ず、

(4)「諦録度」の法門を三時に配当するのは後世に配当すること、

(5) 用語文体が支那の臭味あること、

(6)内容は法華の要点を採録したるのが如き感あること、

という論拠によって、本経の 中国偽撰説 を主張した。


 これらの指摘に対する検討については、詳しくは三友[1983 1131−1135」・を参照されたい。

本文でこれらを検討しない。

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 横超[1954,109]は下記のように結論を述べている。


▼ 『私は 『無量義経』 の如き 『法華経』 を解釈して頓悟義を実証せんとする経典が、中国において頓悟論者の側より編纂されるということは、恐らく考えられぬことでなかろうと思う。
 ……強く想像すれば、経序の作者 劉「虫+礼の右」 その人がまたこの経の編成者ではなかったろうか。
無論、慧表も曇摩加他耶舎も架空の人物である。』

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 つまり、 『無量義経』 の編者が中国の頓悟論者であると推測され、あるいは 序 の作者である 劉「虫+礼の右」 (A.D.438−495) 自身の作かもしれないと想定している。
 
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また、古田[1977a,145〕は横超氏の意見を支持し、更に

▼ 『劉「虫+礼の右」が 『無量義経』 を著わし、頓悟成仏論の正当性を強調したとすれば、それは単に頓悟論への抵抗というにとどまらず、むしろ頓悟漸悟の対立関係の中に妥協的ともいうべき折衷案の夾雑を許さず、またその折衷案が南朝仏教の涅槃経至上主義こよるならば、それに対する批判もしくは巻返しであったことになる。』

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とある。

 つまり、単に頓悟論者というだけではなく、南朝仏教の涅槃経至上主義が頓漸論争(2)にもたらした妥協的思想に対する抵抗がそこに含まれていたと指摘している。

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 そして、荒牧典俊[254〕は

▼ 「中国仏教思想史の立場に立つと、 劉「虫+礼の右」 が 『法華経』 の原義を誤解して、 『無量義経』 を撰述したところにこそ、返って中国仏教において何故 『法華経』 が根本的に重要であったかを理解するための鍵があるということもできる」

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と指摘している。

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 ところで、 『無量義経』 の真偽について、三友[1983]は 荻原[1935]・ 横超[1954]二氏の論証について、 『無量義経』「序」 及び 『無量義経』 の内容・形式という両面から検討した結果、


● 【小結】

以上のように考察を進めてくると、 劉「虫+礼の右」 の 序 がかなり作意的な要素が感じられるため 『無量義経』 そのものが中国で撰述されたのではないかと疑われるが、 『無量義経』 そのものを中国撰述であるとする根拠はまったく成立し得ず、逆に 

@ 『煖・頂・世第一法とする』 特殊な教学が述べられていたことにより、 『発智論』 系説 一切有部 の教学か、あるいはこのような 三法説 を採用する 阿含経典 かの影響が認められ、 

A 十地 ・ 十住 の訳例によって、 十住 から 十地 へと変化してくるインド大乗仏教教理の混乱さえ認められることなどによって、 

『無量義経』 はインド撰述であると断定することができるのである。(3)

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という論結を述べている。

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 一方、 『無量義経』 のインド撰述鋭となる重要な論拠 「三善根」 について、筆者は先行研究において 「順決択分」 の 「三善根」(煖・頂・世第一法) 説を検討したが、 『発智論』 の 「順決択分」 が成立した時点においては、「忍」はまだ成立していない、有部の 「四善根」 数学はまだ完成していなかったという結論に至った (4)。

 要するに、それは単に先学(5)が指摘したように、 「忍が略してある」 ということではない。
 『無量義経』 における 「三善根」 の記述は十分に理解が可能であると思われる。
 「三善根」 という理由のみで、 『無量義経』 は中国撰述であるという説は成立しないのである。

 しかしながら、先学が 『無量義経』 を中国撰述説と疑う原因の所在は、どうも 劉「虫+礼の右」 が 『無量義経』「序」 に書いた経典の由来の記述(撰縁記)・教判説にあり、また当時の 「頓悟漸悟」 論の論評にも関わっているところから、 「中国撰述」 説と疑われたのであろうと思われる。

 しかし、 『無量義経』「序」 をめぐる問題によって、『無量義経』 は 「中国撰述」 とするなら、それが妥当な論考であるとは納得しかねる。
また、 『無量義経』「序」 に関わる指摘はやや強引であるように思われる。

このため、新たに 『無量義経』「序」 について一歩踏み込んで検討する必要があると考える。

『無量義経』 は 『法華経』 以前の方便経(権経)から一転して、 『法華経』 の真実経(実経)を開き出す先序、即ち開経の位置を占めるものとされる(6)。

本研究は 『無量義経』「序」 の問題を視野において、文献学の見地から 『法華文句』・ 『法華義疏』・ 『法華文句記』 における 『無量義経』 の引用の考察に従い、この問題の検証を試みたい。

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2 横超氏の指摘

 ここで、横超氏が『無量義経』「序」に関して指摘した六点を検討する。

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▼ 【横超氏(1)】

翻訳者 曇摩伽陀耶舎(Dhamagathas'ayas) は 中天竺沙門 というのみで、その他の一切伝記が不明であり、 『無量義経』 が翻訳された 年月 もその 関係者の氏名 も明らかでなく、 『無量義経』 の外に何か翻訳したことがあるかどうかも知られていない。

当時海上より渡来せる梵僧は皆、栄・斉 の都・金陵 へ来ているのに、なぜ彼が 広州 に住まって 京都(按:現在南京)まで来なかったか不審である。

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● 確かに、持摘されたような疑問が残る。

南斉(A.D.479−502)の訳経事業について 『仏教経典総論』 (7) には

『 之を経典翻訳史の上から見て、齊代として大した異なったところはない。宋代の後を受けて数人の三蔵により若干の経典が訳出されたといふに過ぎない。
……唯々その経典の翻訳等につきては、宋代における〔北魏〕 吉迦夜 の業績以外さして消息を聞くことは出来ぬ。
  それは必ずしも 吉迦夜 以後その事が無かったといふのでは無く、
その地が遠隔であったために南方に伝はる機会が無かったのかもしれない。
吉迦夜 の訳本ですから、 僧祐 (※「出三蔵記」) が之を手にすることを得なかったのであるから、実情は余り弘く世に伝はらなっかたのであろう。』
 
(※:下線は筆者による)

とある。

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『仏教経典総論』 の 「南斉の訳経」 を参照し(8)、南斉の訳経者を下表Aにまとめて示す。




 この表から、必ずしも 訳者 の 伝記 ・ 翻訳の年月 ・ 関係者 が記載されているとは限らないことがわかる。 (※太字・棒線 樋田)

また、当時 殆どの経典が広州で訳された ということがわかる。


一方、 経録 における 訳経に関する 年月の記載 の有無は、さまざまである。

例えば、 玄奘 が訳した経典こついて、 経録 における 翻訳年月の記載の有無 が 一致していない例 もある(9)。

そして、訳文の文字表現は実際には「筆受」の能力に関わっているのである(10)。

 また当時、訳経に参与する関係者は信仰心が厚く、経典が世の中に流伝するのを望んでいるため、自らの名などをあげないのはよくあることで、
現存し収録されている経典においても「訳者不明」、あるいは序の「作者不明」ということはよく見られる。


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 【横超氏(2)】

曇摩伽陀椰舎 が中国の言語文字に通じていて、この経を伝えんと欲しながら未だ誰に授くべきやを知らなかったとき、 慧表 が心形倶に至る慇懃なる致請によって僅か一本を得た。
というのは、秘法単伝の神秘化によって翻訳の史実を曖昧模糊の中に葬り去らんとした作為と観ぜられる

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 これは、あくまも 『無量義経』「序」 の作意的な書き方の問題である。

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 【横超氏(3)】

 慧皎の 『高僧伝』「序」 が訳経中に 曇摩伽陀耶舎 の名をあげないのは、伝記資料の不足というよりも、寧ろこの経序の史料価値に不審を懐いたためではなかろうか。
 大通三年(529)に歿した 法雲 の 『法華義記』 中に 『無量義経』 を認めていないもの 経序 を信頼しなかった証拠といってよいであろう。

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上の表Aにより、同じ時代の七人の翻訳者の中で、ただ一人(求那毘地、Gun,avr,ddhi)が 『高僧伝』 に記載されたのである。

(※ 逆に言えば 同じ時代の七人の翻訳者の中で、ただ一人(求那毘地、Gun,avr,ddhi) しか 『高僧伝』 に記載されていない  と言える)

例えば、その中で18巻の 『善見律毘婆沙』 を訳した 僧伽跋陀羅 も記載されていなかったのである。

恐らく、当時国内の紛争、また通信手段の不便なために、経典の情報が伝えられていなかったことは考えられ得ることである。



 例えば、A.D.445以前(435−445) 求那跋陀羅(Gun,abhadra)は 「言+焦」王 に従って、 荊州(※:今湖北省江陵県) に行き、 楊都 で 『雑阿含経』 を訳した。

 『歴代三宝紀』巻10 「訳経宋」・ 『大唐内典録』巻4 には 道慧 の 『宋齊緑』 に

「 『雑阿含経』 の梵本は 法顕 が将来したのである 」

と記載している(11)。


しかし、このことについて、 

僧祐(445ー518)の 『出三蔵記集』 ・ 

慧皎(497−554)の 『高僧伝』 には紀載されていない



 また、

法琳の 『辨正鎗』巻3 には 

「右齊世 合寺 二千一十五所、 訳経 一十六人、 七十二部。 僧尼 三萬二千五百人 」(12) とある。

(※ 斉世時には)  ここで記載される 訳経者の人数は 16人 であり、上表Aには 七人 しかないのである。

これを見る限り、当時記載されていなかった訳経者は予想以上に多いのである。


 恐らく、当時 『無量義経』 の流伝は 慧皎 に伝わっていなかったのであろう(13)。
つまり、 「記載していない」 という事実のみを指摘して 「中国撰述」 とするのは無理のある論証である。


 また、法雲(467−529)が 『無量義経』 を認めていないのではなく(14)、それは (※法雲)個人の 『無量義経』 の内容に対する解釈・認知に関わる問題である。(15)

「経序」 の問題は 序の作者、或いは 作者の見解に関わる問題である。

二者の問題の主体が違うのを、同じ問題として扱い、前者にかかる問題によって後者を指摘することは合理的ではない(16)

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 【横超氏(4)】

伝持 慧表は羌冑の出で偽帝姚略の従子というから、羌族後秦姚興(※:394−416)・(字は子略)の甥であったというのである。
国破れた時(※417)晋軍の何澹之に捕われ、その時数歳で聡黠であった彼は澹之より螟蛉(17)と字付けられ養われて仮子となっていたが、俄かにして放れて出家したと序はいっている。
姚興の死後その子泓が位に即くや長安は晋将劉裕の為に破られ、敵は建康に送られて斬られたから、姚氏の一族と言われる慧表が数奇な運命をたどって江南に赴いたというのも不思議でない。
然し求道のためとはいえ何故特に嶺南(※:五嶺以南の地、広東・広西・・越南北部)まででかけたのか不自然の感なきを得ぬ。

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 この疑惑は 「中国撰述」 とする確定的な論拠とならない。

宋斉両朝にかけては中国史上まれにみるように、天子の廃立が容易に行われ、また同族がお互い虐殺レあう風潮が甚だしかった(18)。
内政が非常に不安な時代であった(19)。
そのため、異族で雲水僧である慧表が内乱の危険を避けるため、もしくは安全に仏道を求めるために、南へ赴いたとしても不自然なことではないのである。

 ところで、慧表との関わりのある 「何澹之」(20)・ 「姚略」・ 「姚興」(21) という人物の史料が存在し、また彼が養子(「螟蛉」)とされる記録があることは、返って、慧表が確実に史上に存在した人物であるという証拠になる。

横超氏が指摘したように

▼ 「慧表 も 曇摩伽陀耶 も架空の人物である」(22)

ということではないのである。

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 【横超氏(5)】

慧表が嶺南へ往った斉の建元三年(481)は後秦滅亡の東晋義熙(き)十三年(417)より六十四年の後に当たり、慧表は当時七十歳に近かった筈である。
そのような老齢の比丘か困苦を冒して嶺南へ往復するということばネ可能ではないにしても奇異に思われることは確かである。

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 この疑惑も 「中国撰述」 とする確定的な論拠とならない。

一方、七十歳の慧表の「落葉帰根」という内面的な感情、あるいは都の建康・武当山の周辺にまだ伝わっていない 『無量義経』 を人々に伝えたいという宗教的な情熱を考えれば、「武当山」に戻ったことは特別奇異なごとではないのである。

この他、釈尊が八十歳で入滅に至るまで、徒歩で教化を続けた史実等を考えあわせても、老齢であるから不可能であるということ自体が説得力に欠ける論述である。

また、たとえば 法顕 は六十歳になってから、インドへと求法の旅に趣いているのであるから、宗教的使命と情熱を無視した老齢論は成り立たないのである。

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 【横超氏(6))】

今永明三年(485)九月十八日に頂戴して山を出たというが、特に 劉劉「虫+礼の右」 が 慧表 より伝授された年月自を明示するのは何故か。
翻訳の史実が明確でなく他の何人もこの経を得ている者がないのであるから、これが伝持者よりの確かな禀承(ぼんじょう)なることを示す為の作為の痕と考えぎるを得ぬ。
劉「虫+礼の右」 は斉の建武二年(495)に五十八歳で死んでいるから、この年は四十八歳であった。

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 経典に明確に史料の年月を書くことは望ましいことである。

現存三蔵における経典に関わる「序」を見ていくと、作序者が自ら知っている経典の由来の事実を記述するのはよくあることである。

仮に、 『無量義経』 が 劉「虫+礼の右」 によって明確に経典の伝来の年月を書いているからということで、 「偽作」・ 「中国撰述」 であるという説が成立するならば、現存収録される経典において、明確に経典の伝来・訳経の起源などの史料を記載している経典は、すべて 「偽作」 か 「中国撰述」 ということになる。

これは明らかに道理に合わない。

 よって、 「人物・年日」が書いてあるということによって、『無量義経』の「中国撰述」 とする指摘は成り立たないのである(23)

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 以上、横超氏が 『無量義経』「序」 に関わる指摘は納得できかねるのである(24)。


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3 『無量義経』「序」

 さて、劉「虫+礼の右」の撰述について、 『出三蔵記集』巻9 に 「無量義経序」 として収録されている(25)。

しかし、 『大唐内典録』巻4 には

「注法華経十巻。注無量義経。右二部経、一十一卷。南部武當山、隠士 劉「虫+礼の右」撰、并製 序 」   とある(26)。

 そして、 劉「虫+礼の右」 の撰述の 『無量義経』「序」 について、 

『法華文句』 は 「劉「虫+礼の右」云」 とあり、

『法華義疏』 は 「無量義経云」 とあり、

『法華文句記』 は 「注無量義経序云」 と述べている。

下記表Aにまとめて示す。





まず、 表A「*4」 という箇所に注目したい。

「謹立序注云」

これは 「序と注」 であろうか。
あるいは 「注の序」 であろうか(28)。

古田和弘氏がこれらの資料を検討した上で、下記の見解を示している(29)。

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● 劉「虫+礼の右」 に 無量義経 の 注 があったと解し、この 序 は 注疏 の 序分 であったと見るべきであろうが、今は定かでない。……
しかし、これら(* 表Aの出典)に先立つ 出三蔵記集 にはそれらしい記録はとどめていない(30)。

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 そして、加藤勉氏はこれらの資料を検討した結果、下紀のように説いてある(31)。

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● 『出三蔵記集』 は 経論の序 ・ 諸師の伝記 ・ 経録 を収めたもので、撰述書は収録しないのが前提である。
このために 『注無量義経』 としてあった一つの撰述の 序 のみを 『無量義経序』 として 僧祐 は 『出三蔵記集』 に収録したのが、現代に伝わったと考えられはしないであろうか。

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 筆者は加藤氏の意見に賛成である。

すなわち、現存の 『無量義経』「序」 は本来 『注無量義経』 の 「序」 であると思われる。

なぜなら、

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(1) 天台大師智(A・D・538ー597)が引用したのは 「劉「虫+礼の右」注云」(*;表A *1)である。
 
すなわち彼(天台大師)は 「劉「虫+礼の右」の注釈書」 として認識しているのである。

また 『法華文句』 同巻

「今按(考える)彼経釈:無量義者、従一法生。其一法者、所謂無相。無相不相、名為実相。従此実相、生無量法」(32

とある。

 ここの 「彼の経釈」 とは前の 「劉「虫+礼の右」注云」 すなわち 『注無量義経』 であると考えられる。

しかも、この引用文は現存 『無量義経』「序」 に説かれる前出の文面

(*:表A  無量義経者。取其無相一法広生衆教含義不貲(シ・たから)。故曰無量) との内容が違う。

よって、 劉「虫+礼の右」 が 『無量義経』 の注釈書 『注無量義経』 を撰したことが判る。 
(※ 劉「虫+礼の右」 が 「注無量義経」 を撰し、その 「序」 も著わしたということ)

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(2) 嘉祥大師吉蔵(549−628) が引用したのは 「注無量義経云・…」 (*:表A *2)である。

すなわち 『注無量義経』 として扱い、引き続き 「更に注解して云く」 (*‥表A *3) と述べ、すなわち 劉「虫+礼の右」 の引用文が続いているということである。

劉「虫+礼の右」 が 『注無量義経』 を撰したことが判る。

更に、嘉祥大師の 『法華義疏』 にはこの 『無量義経』「序」 にはない引用文があり(33)、これは 劉「虫+礼の右」撰述の 『注無量義経』 が存在していた論拠になる。

また 『法華玄論』 には、劉「虫+礼の右」 の編纂による 『注法華経』 を引用して 『注法華経』「序」 からと汲み取られる引用文がある(34)。

よって、 劉「虫+礼の右」 撰述の 『注法華経』 及び 『注法華経』「序」 が存在していたという論拠になるのである。

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(3) 荊渓湛然(711−782)は 「注無量義経序云」(*:表A *2) として扱い、すなわち本来のまま引用している(35)。

『注無量義経』「序」 が存在していたことが判る。

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 以上の検証により、 劉「虫+礼の右」 が 『注無量義経』 という注釈書を撰したこと、
また彼がその 『注無量義経』 に 「序」 をも書いてあったことがほぼ確実
であろうと考えられる。


恐らく、彼の撰述が 荊渓湛然 の時代までは、現存していたのであろう。

そして 僧祐 (445−518)がその 「序」 の部分のみを 「無量義経序」 として 『出三蔵記集』 に収録したのではないか.と思われる。

 つまり、現存の 『無量義経』「序」 は本来 『注無量義経』「序」 であると推定できる。

なぜなら、湛然 『法華文句記』 に引用される 「注無量義経序云」 という部分は現存の 『無量義経』「序」 の内容と一致しているからである。

 仮に、劉「虫+礼の右」が 『無量義経』 の撰述者であるとするならば、彼が新たに 『無量義経』 の注釈書を撰述する必要はないであろう。
『無量義経』 の存在があったからこそ、彼は 『注無量義経』 を撰したと考えるのが道理である。

 彼が 『無量義経』 を注釈した後に、慎重にその 『注無量義経』 の撰述縁記とする 「序」 をも書き足しているということは理解できるのである。

これだけではなく、彼は 『法華経』 の注釈書 『注法華経』 を撰述し、 『注法華経』「序」 をも著したのである。
これらの撰述はすでに 『大唐内典録』 に記載されている(36)。

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それでは、表Aの 「*4 謹立序注云」 について、如何にして理解すべきであろうか。

現存 『無量義経』「序」 に(37)

「真実の文章を拝観し、誠に欣ばしく、恭しいことである。詠歌したとしても〔この心を十二分に〕表現できず、手足を動かし踊ったとても知らせることができないほどである。
恭しくも長い間の解答を尋ね、常に思いを取り払い、謹しんで 『序注』 を表すものである。」

とある。

 この箇所を見る限り、ここの 「序注」 は 「序と注」 であると理解すべきである。

そしてその 「序」 とは 『注無量義経』 の 「序」 である。


一方、全体から検討するなら、現存の 『無量義経』「序」 は 『注無量義経』「序」 であると言うべきである。


 なお、現存の 『無量義経』「序」 は当時の頓悟漸悟論諍に関わっているため、本来経典の序とする体裁を整えていない。
もし、現存の 『無量義経』「序」 が実際には 『注無量義経』「序」 であるということが理解できるなら、その書かれた内容はいずれにしても、劉「虫+礼の右」個人の見解で
ある
と分かる。

よって、現存 『無量義経』「序」 に説かれた内容は、 『注無量義経』 における 劉「虫+礼の右」 個人の所見などであるとして扱うべきである。

 しかしながら、 『注無量義経』 に属する 『注無量義経』「序」 が抱えている問題そのものをとらえて、それをもって 『無量義経』 は中国撰述説であることを主張するなら、筋の通らないことであると思われる。

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§4 まとめ

 以上、 『無量義経』「序」 に関する問題について検討を試みた。

現存の 『無量義経』「序」 は本来、劉「虫+礼の右」自撰の 『注無量義経』「序」 であることが明らかである。

恐らく、彼の撰述が 荊渓湛然 の時代までは、現存していたのであろう。

そして、 僧祐 がその 「序」 の部分のみを 「無量義経序」 として 『出三蔵記集』 に収録したのである。


 一方、 『無量義経』「序」 に書かれた 「護立序注云」 について、この箇所を見る限り 「序と注」 であると理解すべきである。

いずれにしても、その 「序」 とは 『注無量義経』 の 「序」 である。

 そして、 『無量義経』 が 「中国撰述」 であるかどうかは、経の内容を考察していく以外に方法がないのである。

従って、 『注無量義経』 に属する 『注無量義経』「序」 の内部的な問題そのものをとらえて、それをもって 『無量義経』 は中国撰述説であると主張するなら、筋の通らな
いこと
である。


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● 書名・引用にあたって、旧漢字は意味のかわらない限り、現行体に改めた。(※ 樋田 旧字体の使用にさほどの意義を認められない場合は、現行字体へ変更した)
● 本文における下線・傍線・大文字・綱影・囲み線などは筆者による。(※ 割愛されている箇所がある)
● 『書名』(数字)はぺ−ジ数。

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1)『無量義経』は全一巻で、「徳行品」・「説法品」・「十功徳品」の三品よりなる。
三品はそれぞれ「序分」・「正宗分」・「流通分」に相当する。
本経の註疏について:
 (1)『無量義経疏』、一巻、斉劉「虫+礼の右」(欠)。
 (2)『無量義経疏』、三巻、唐円測(欠)。
 (3) 『無量義経疏』、二巻、宋智円,(欠)。
 (4)『詮無量義経』三巻、日本最澄。
 (5)『註無量義経開示抄』、一帖、日本貞慶。
 (6)『詮無量義経』、一巻、日本証真。
  などがある。

 『仏書解説大辞典』10巻(424)には、本経は前後二訳があると伝えられている。
それは、
 (1)は劉宋の求那跋陀羅(Gunabhadra、功徳賢;A.D.39ー468;A.D.来華)の訳一巻である。
 (2)は蕭(しょう)斉の建元三年(A.D.481)曇摩伽陀耶舎(Dharmagatbaya(sの上に´)as,法称)の訳一巻である。

前訳は伝わらず、後訳のみが同時代の劉「虫+礼の右」居士の「序」と共に伝えられている、とある。

 一方、『歴代三宝紀』巻10(訳経宋)
「……無l量義経一巻(見李「广+郭」録)‥…・右七十八経、合一百六十一巻。文帝世、中天竺国三蔵法師求那跋陀羅、宋言功徳賢」
とある(T49,92a15−b16)。

同巻10 「齊無量義経一巻(見僧祐法上等録)、右一経一巻、高帝世建元三年、 天竺沙門曇摩伽陀舎、齊言法生稱、於広州朝亭寺、手自訳出、伝受人沙門慧表」(T49,
95b9−12)。

これについて、『仏教経典総論』(103−104)
「83 求那跋陀羅……求那跋陀確の訳経については十三部七十三巻を列ねている。・・…・歴代三宝紀等の諸緑に、七十八部又は五十二部と称する如き今より数倍の歴目を出し現に入蔵のもの二十八部の多きに及んでいるが、前記祐法師所出の八部を除くの他は、例の如く失訳経等の中からその名を拾ひ上げ釆たもの多く、訳語訳文等経典そのものに徴して概ね求那跋陀羅の訳でないものばかりである」とある。


しかしながら、現存最古の完本の経録である僧佑(A.D.445ー518)『出三蔵記集』巻2「……
無量義経一卷(闕)……右十三部、凡七十三卷、宋文帝時、天竺摩訶乗法師求那跋陀羅、以元嘉申及孝武時、宣出諸経。沙門釈宝雲、及弟子菩提法勇伝訳。……無量義経一卷、右一部、凡一巻。齊高帝時、天竺沙門曇摩加他耶舎訳出」とある(T55,13a3−b15)。

 『李廓録』は現存しておらず、確かめることほできない。
しかし、以上の考察によって、本来、伝えられている求那跋陀羅訳『無量「義」経』(闕)という経典ま、実は『無量「壽」経』(闕)の誤認であろう。
『無量義経』は単訳本であることば、荻原[1935,479〕;横超[1954,100コ;三友[198a,1122−1123]にも指摘してある。

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2) 『無量義経』 に問わる「頓悟漸悟」問題いついて、ここで扱う問題ではないので検討しない。

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3)三友[1983,一 1144]。

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4)拙稿 周[2005a]。

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5
(1)『国訳一切経』(経部・第−)[1974,213註10]:「煖法・頂法・世第一法此の三に忍法を加えて四善根位又は四加行位と名く。今は三法を挙げて一法を略せるなり」とある。
(2)小林[1988 216」:「忍法」について、「ここには略してありますが」とある。
(3) 鈴木[1979,69−70]では、経文の部分に「若し聞くこと有る者は、或は煖法・頂法・忍法・世第一法……」と説かれている。
ここでは、「忍法」が増添されていた。

 なお、「忍法」が略されているのではなく、本来「煖、頂、世第一法」という「三善根」説は、有部の四善根教学がまだ完成していなかった時点の説である。

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6) 『仏書解説大辞典』10巻(424):『無量義経』(Ananta−nirds'a)の 〔説時及び位置〕、本経の説時は 「説法品」 の初めに 「如來久しからずして当に般涅槃すべし」 とあり、又如来の得道より巳来四十餘年とあることによって、成道後四十餘年を経過した晩年の説法であることは明らかで、更に 『法華経』 の 「序品」 に 「大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念と名づくるを説きたまふ。仏この経を説き巳って結跏趺坐し、無量義処三昧に入って身心動じたまはず」 とあるのを綜合すれば、 『法華経』 の直前であることが推定できる。
随って 『法華経』 が最後八箇年の説法であるとすれば、本経は八箇年の最初の説法であると言ふてよい。
本経は 『法華経』 の直前の説法であるばかりでなく、 「説法品」 には有名な 「種々に法を説くこと方便カを以てす。四十餘年には未だ真実を顕さず(種々説法以方便カ、.四十餘年未顕真実)是の故に衆生の得道差別して疾く無上菩提を成ずることを得ず」
 と説いて、本経以前の説法を凡そ方便説とし本経似後の説法即ち 『法華』 の説法を真実説と断定しであるが故に、本経は 『法華』 以前(爾前)の方便経(権経)から一転して 『法華』 の真実経(実経)を開き出す先序即ち開経の位置を占めるものとせられ、殊に 『法華』 以前と 『法華』 との権実を判定する根拠として教判上に重要な位置を占めている。
古来本経を以て 『法華』 の開経とし、結経たる 『観普賢菩薩行法経』 と併せて 「法華三部の経典」 と称している (引文の括弧は筆者による)。

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7)『仏教経典総論』(113)。

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8)『仏教経典絵論』(113−116)。

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9) 経録における玄奘が経典の訳出月日の記述について、『開元釈教録』巻8(T55,555b28ー557b12)に至ってから、経典の訳出月日が明確に揃い記載される。
 一方、翻訳年月日の異同も例もある。
例えば、牧田[1981,296】より 『大毘婆沙論』 が唐代写本 『説一切有部発智大毘婆沙論』巻178 の奥書に 「永徽六年九月廿日」 とある (『正倉院聖語蔵目録』所収唐経第二號)。 同様に他の例もある。

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10) 萩原[1935,478」は 「〔『無量義経』の〕 用語文体が支那の臭味あること」 と指摘する。

 これは 「筆受」 の問題である。
曇摩伽陀耶舎が 『無量義経』 を慧表に授けたということから、当時 『無量義経』 の 「筆受」 者は慧表であろう。

 一方、 『古今訳経図記』巻4 「沙門曇摩伽陀耶舎、此言法生稱、印度国人。借物居情、導利無捨、以齊高帝建元三年、歳次辛酉(按;481)、於広州朝亭寺、訳無量義経(一卷)。沙門慧表筆受」(T55、363b4−7) とある。

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11) 『歴代三宝紀』巻10 「雑阿含経五十卷(於瓦官寺沢。法顯齎来。見道慧宋齊録)」(T49,91a24)
; 『大唐内典繚』巻4 「雑阿含経五十卷 (瓦官寺釈法顯齎持來見道慧宋齊録)」(T55,258c12)

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12) 『耕正論』巻3(T52,503a20−21); 一方、『法苑珠林』巻100 「前齊朝伝訳道俗*一十九人。所出経伝四十七部(三百四十六卷)」(T53,1020a16−17;「*一」:明註曰一南蔵作二(按:二十九人))。

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13) 経録の記載について、同時代に記載されていなかった、後世の人の手により加筆され、追補されることもよくあるのである。
例えば、川口[2000,128]:『大唐内典録』において、隋代以前の訳撰人についても『歴代三宝記』以後に新たに見出されたものであり、道宣が正確を期するために追補したものである。

 一方、僧佑の 『出三蔵記集』 に記載されていない理由について、本論の 注1 を参照されたい。

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14) 梁の三大法師の一人である光宅寺法雲(A.D.467−529)は(『妙法蓮華経文句』巻2
「下光宅云:無量義以萬善同歸、能成仏道。法華正明無二無三破三、與歸一為異、故即為序」(T34 27b28−c1)とある。
『無量義経』 が 『法華経』 の序であることを認めている。

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15) 『法華義疏』巻2 「光宅法師、猶存印師之解也。今以五義、證此無量義経、是法華前無量義経。
一者處同、同在王舎城鷲山所説故。
二者衆數大同、謂萬二千声聞、八萬菩薩故。
三者時節同、法華云:成道以來四十餘年説之。無量義経亦云:我成道以來四十年餘未説實相法。
四者義同、雖未彰言明開三顧−、而旨趣密開一乗也。
五者翻経之人、中天竺沙門自云是法華前説。宜應用之也」(T34,467c9−17)

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16) なお、法雲の 『無量義経』 に対する認知の検討について、平井[1985,544−551];安達[1987]を参照されたい。

17) 「螟蛉」は虫の名で「くわむし」である。
「螟」、『漢語大辞典』(1202)「螟虫、螟蛾的幼蟲。主要生活在稲茎中、吃稲茎的髄部、危専很(※非常に、たいへん)大」。
『詩・小雅・大田』 「去其螟「?((文語文[昔の書き言葉])) 害虫(とう) 及其『「矛↓虫虫」(の根を食べる害虫根切り虫』賊、無害我田穉(いと-けないおさ-ない、おく-て、お-ごる)!」
すなわち、螟とうが螟蛉の子を負って養うことから、他姓から迎えた養子の喩えである。

A

トックリバチがアオムシの体内に卵を生みつけ,ふ化した幼虫がアオムシをえさにして育つことを古人誤解して,アオムシがトックリバチをわが子のように養っていると思ったことから)養子





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18) 宋の皇帝:
(1) 高祖武帝(劉裕、在位420−422年);
(2) 廃帝営陽王(劉義符、在位422−424年)武帝の子;
(3) 太祖文帝(劉義隆、在位424ー453年)武帝の子・廃帝営陽王の弟‘;
(4) 世祖孝武帝(劉駿、在位453−464年)文帝の子;
(5) 廃帝.(劉子業、在位464−465年)考武帝の子;
(6) 太祖明帝(劉ケ、在位465−472年)文帝の子・.廃帝子業の叔父;
(7) 廃帝蒼梧王(劉c、在位465−472年)明帝の子;
(8) 順帝(劉准、在位476−479年)明帝の子・廃帝蒼梧王の弟。

 斉の皇帝:
(1) 太祖高帝(蕭道成、在位479−482年);
(2) 世祖武帝(蕭「臣旧字+責」在位482ー493年)
(3) 廃帝昭業鬱林王(蕭昭業、在位493−494年);
(4) 廃帝昭文海陵恭王(蕭昭文、在位494年);
(5) 高祖命帝(蕭「らん」・中国の想像上の霊鳥。鳳凰(ほうおう)の仲間と言われている。 姿かたちはキジをうんと豪奢にしたようで、鳴き声は鶴に似ており、青っぽい羽色をしていると言われる。、在位494−498年);
(6) 廃帝宝巻東昏侯(蕭宝巻、在位498−501);
(7) 和帝(蕭宝融、在位501−502年)。

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19) 南朝の仏教(宋・斉)について、詳しくは鎌田【1984 85−185」を参照されたい。

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20) 「何澹之」 の名は 『晋書』巻99 の桓(カン・ガン)玄の伝に見え、その避撃将軍の任にあったという。
 また、『南史』巻1 「宋本紀上第一」 ; 『宋書』巻51 「列伝第十一」; 『魏書』巻97 「列伝記」第八十五」; 『資治通鑑』巻110「隆安二年九月」条、及び同巻112「元興三年正月」条にもその名が見られる。

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21
「姚(よう)興」について、『晉書』巻117 と 『魏書』巻10: 後秦の人、萇(ちょう)の長子。字は子略、諱は文桓帝。
苻堅の時、太子舎人とある。
萇の僭(しん・おごる)位後、立って太子となり、其の死後、即位して皇初と改元。
前秦の苻登・西秦の乞伏乾歸を破り、後涼滅す、後に夏を伐って敗る。
 在位二十二年、廟號は高祖。

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22) 横超[1954,462」。

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23) 一方、劉「虫+礼の右」について、『南斉書』巻54・ 『南史』巻50 「劉「虫+礼の右」字靈預、南陽涅(土→工)陽人(按‥河南省)也。
舊(臼→日)族、徒居江陵。「虫+礼の右」少両抗節好學、須得禄便隠。栄泰始中(按‥465−472)、
仕至晋平王驃騎記室、當陽令。 罷官帰家、静処断穀、 餌朮(ジュツ・シュツ・おけら)及胡麻。建元初、豫(ヨ・あらかじめ)章王為荊州、教辟「虫+礼の右」為別駕、
與同郡宗測、新野「广+臾」(ユ・くら)易並遺書礼請、 「虫+礼の右」等各修牋(セン・ふだ)答、而不応辟命。永明三年(按:485)、 刺史廬(リョ・いおり)陵王子卿(右・即)表「虫+礼の右」及同郡宗測・宗尚之・「广+臾」(ユ・くら)」易・劉昭五人、請加蒲車束帛(ハク・ビャク・きぬ)之命。 請徴為通直郎、不就。……「虫+礼の右」精釈氏、衣「广+鹿鹿鹿」(ソ・あらい)布衣、礼仏長斎。注法華経、自講仏義。
以江陵西沙洲去人遠、乃「彳歩」(チョク)居之。建武二年、詔徴国子博士、不就。其冬「虫+礼の右」病、正書有白雲徘徊檐(エン・タン・ひさし)戸之内、又有香気及磬(ケイ・キョウ)聲(ショウ・セイ・こえ)、某日卒、年五十八」  とある

(下線は原著;原文「虫+叫の右」は「「虫+礼の右」」と記す)。                       

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24) 一方、横超氏の 『無量義経』 の内容・形式に対する批判の検討について、詳しくは 三友[1983,1128−1131] を参照されたい。

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25) 『出三蔵記集』巻9(T55,60c25)。

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26) 『大唐内典録』巻4(T55,263c14−17);同巻10(T55,331a27−28)。

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(27) ここで記載される 「宋元嘉三年」 は明らかに 「斉建元三年」 の誤記であり、広州の 「朝亭寺」 が 「朝廷寺」 と誤寫されている。

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(28) 中嶋[1993,229]: 「謹んで序と注をあらわすものである」 と訳す;
林屋訳 『国訳一切経』(266) 「史伝部1」 には 「謹んで序注を立てる」 とある。

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(29) 古田[1977b,53注15]。

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30) 『出三蔵記集』 にこれらの資料を記載していないのは当然のことである。
なぜなら、 『出三蔵記集』 の編者僧祐(A.D.445−518)の生年に天台大師智(A.D.538−597)・嘉祥大師(A・D・549ー623)・荊渓湛然(A.D.711ー782)はまだ生まれていないからである。

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31) 加藤[1990,94]。

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32) 『法華文句』巻2(T34,27c17−19)。

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33) 『法華義疏』巻1 「注無量義経云:至人説法但為顕如。唯如為是故云如是也」(T34 454a29−b1)

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34) 『法華玄論』巻2 「・…‥劉「虫+礼の右」集注・採安・林・壹(イチ・ひとつ)・遠・什・肇・融・恒八師之説。其序大意云  
:教凝於三一之表果玄於丈六之外。無名無相者、此経之旨帰」(T34,381a2_5);
 加藤[1990,94]。

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35) 一方、古田[1977b,53注15] : 湛然は 『法華文句記』 において、智による 無量義経 序 の引用(T34,27b25−27)の字句に補足訂正を加えつつ、「注無量義経序に曰く」 として、この序文を引用している(T34,192cー9)。

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36) 『大唐内典録』注法華経十巻。注無量義経。右二部経、一十一卷。南都武當山隠士劉「虫+礼の右」撰、并製序」(T55.263e14−17);
同巻10(T55,331a27ー28)。
残念ながら、劉「虫+礼の右」撰述の 『注無量義経』 ・ 『注法華経』 は今に伝わっていないのである。

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37) 『無量義経』「序」  「奉覿真文、欣敬兼誠、詠歌不足、手舞莫宣; 輒(チョウ・すなわち)虔(ケン・ゲン・つつしむ・つましい)訪宿解、抽刷庸思、
 謹立序注云」(T55,68b9−11)。

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第一次資料:

TO9.0276 『無量義経』

T26.1544 『発智論』巻1.

T34.1718 『法華文句』一巻2.

T34.1719 『法華文句記』

T34.1721 『法華義疏』巻1・巻2.

T49.2084 『歴代三宝紀』 卷10

T52.2110 『辨正論』巻3.

T53.2122 『法苑珠林』巻100.

T55.2145 『出三蔵紀集』巻9

T55.2149 『大唐内典録』巻4・巻10.

T55.2151 『古今訳経図記』巻4.

T55.2154 『開元釈教録』巻8.

『晋書』巻99・巻117.

『宋書』巻51.

『魏書』巻10・巻97.

『南史』巻1.

『資治通鑑』巻110・112.

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第二次資料:(図書、年代順)

国民文庫刊行会編[1974],『国訳一切経』(経部・第一)・東京・第一書房.

鈴木修学[1979],『無量義経略義』 青山書院.

牧田諦亮[1981],『中国仏教史研究』第一,大東出版社.

鎌田茂雄[1984],『中国仏教史』第三巻(南北朝の仏教,上),東大大学出版社.

小林一郎著・久保田正文増補[1988」,『法華経大講座』第1巻, 日新出版.

荒牧典俊訳[1993」 『出三蔵記集』[僧佑編著],中央公論杜.

中嶋隆蔵[1993」,『出三蔵記集序巻注釈』,平楽寺.

平井俊栄[1985」; 『法華文句の成立に関する研究』,春秋社.

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第二次資料:(論文.年代順で排列)


荻原雲来[1935」,「無量義とは何か」,『日本仏教学協会年報』 7,pp.1−14.
      (『荻原雲来文集』 pp.470一482,1972,三喜房)

横超慧日[1954】,「無量義経について」,『印度学仏教学研究』 2−2,pp.100−109.
      (『法華思想の研究』 pp.68一83,1971,平楽寺)

古田和弘[1977a」,「劉「虫+礼の右」の無量義経序の背景」,『印度学仏教学研究』 25−2,pp.144−145.
   [1977b」,「劉「虫+礼の右」の無量義経序」,『仏教学セミナー』25,pp.44−55.

三友健容[1983」 「『無量義経』インド撰述説」,『宮崎英修先生古稀紀念:日蓮教団の諸問題』
       pp.1119−1146,平楽寺.

安達尊教[1987〕,「慧思における『無量義経』の影響」,『仏教大学大学院研究紀要』17,pp.67−92.

加藤 勉[1990],「劉「虫+礼の右」撰 『注無量義経』 について」, 『天台学報』 32,pp.95−98.

周 柔含[2005a],「頂法成立説における頂法の位置に関する一考察」,『印度学仏教学研究』 53−2.,pp.126−129.

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辞 典
 
漢語編輯委員会編[1998」 『漢語大辞典』,建宏出版社.

小野玄妙[1936],『仏書解説大辞典』巻10.
            『仏書解説大辞典』別巻 (『仏教経典総論}),大東出版社.


  古田和弘
1935年京都府生まれ。大谷大学文学部仏教学科を卒業後、大谷大学教授を経て、九州大谷短期大学学長となる。現在は、大谷大学名誉教授、九州大谷短期大学名誉学長。専攻は仏教学(中国仏教)特に涅槃経を研究する。著書に『宗祖親鸞聖人に遇う』『涅槃経の教え』『正信偈の教え』(上・中・下)などがある。