『無量義経』 インド撰述説    三友健容 氏  

(※ リンク及び樋田の覚書を挿入。青字。幼学の自分が理解しやすくするために 空字 段替え 句読点 「」 棒線 太字 なども挿入させていただいた)



 問題の所在

一 『無量義経』 訳出の状況

二 『無量義経』 中国撰述説

 A 荻原雲来博士の根拠

 B 横超慧日博士の根拠

三 『無量義経』 中国撰述説の検討

 A 荻原説 に対する検討

 B 横超説 に対する検討

  (1) 劉「虫+礼の右」作の 『無量義経』序 の検討に対する検討

  (2) 内容・形式からの批判に対する検討


小結

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問題 の 所在

 『無量義経』 は 『法華経』 の開経として、すでに隋の 天台大師智 に位置づけられ、ことに 説法品 では 「四十余年未顕真実」 の言葉があるため、 『法華経』 の爾前方便説を裏付ける経典として重要な役割を持ち、 天台大師 の五時八教判の分額は、この 『無量義経』 にその依所を置くといっても過言ではない。

 ことに法華至上主義を唱える 日蓮聖人 にあっては、依法不依人の立場から、仏説たる 「四十余年未顕真実」 の言葉によって、諸の人師の建てる諸宗の経典を権大乗としてしりぞけ、 『法華経』 のみが末法のために仏とどめおきたもう経典であるとして、あの偉大なる宗教活動を展開せしめたのである。

 この 「四十余年末蹟真実」 説は、すべての人が認める所であったかというと、そうではなく、宗論盛んなる頃に多くの疑問論議が起ったようである。

 ことに昭和十年 『日本仏教学会年報』 第七号 に 荻原雲来博士が 「無量義とは何か」 と題されて発表されるや、 『無量義経』 は中国撰述であることが学界の定説となってしまった感がある。

 たまたま平楽寺書店で、日蓮聖人七〇〇遠忌を記念して 『講座法華経』(仮称) 全十八巻 が企画され、 『無量義経』 を担当することになり原稿を書いたが、今再度原稿を読み直して見ると、どうも 『無量義経』 を中国撰述とするのには無理があるのではないかと考えるに至った。

 そこでここでは 『無量義経』 の中国撰述説の根拠を吟味して論を進め、あらたに発見し得た点を述べてみようとするものであるが、一九八二年四月より立正大学より海外研修の機会を与えられ、現在カリフォルニア大学(バークレー)にいて資料が限られているため、荻原雲来・横超慧日博士の学説しか参照し得ず、他にも 『無量義経』 に関する研究論文もあるのではないかと自からの独断を恐れるが、ともかくも宮崎英修先生に一拙文を呈しようとするものである。

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 『無量義経』 訳出の状況

 劉「虫+礼の右」(※参考)の序によれば、 『無量義経』 は、斉の建元三年(四八一)慧表が奇を訪ね秘を捜して遠く嶺南を訪れた際、広州朝亭寺で隷書を能くし、斉の言語も理解する天竺沙門 曇摩伽陀耶舎(どんまかだやしゃ) に遇い、曇摩伽陀耶舎は 『無量義経』 を伝えようとしても授けるべき人を知らず、 慧表 が慇懃に請うたところ、旬朔を歴て僅か一本を得ることができ、永明三年(四八五)九月十八日、 慧表 はこの経を頂戴して山を出、弘通したものであると伝えている。(1)

 この経を伝えた 慧表 については、羌冑族の出身で偽帝 姚(よう)略 の従子であったが、四一七年 晋との戦で国(後秦)破れたとき、 何澹(タン・セン)之 にとらえられ、わずか数歳にもかかわらず聡黠(カツ・ゲチ・さとい)であったので、 何澹(タン・セン)之 は 螟蛉 と名づけて養い仮子として出家せしめたとある。

(※樋田  曇摩伽陀耶舎 訳 → 慧表 伝持  劉「虫+礼の右」 → 無量義経 序 を書く(※実はこれに異説あり) ) 

慧表 が嶺南に行ったのは斉の建元三年(481)であるから横超博士の指摘されるようにすでに70歳位であったと推定される。(2)

 曇摩伽陀耶舎 について 『無量義経疏』 は、中天竺の沙門で 手に隷書を能くし、口に斉言を解す。と伝えているから、かなり長く中国に住んでいたようであるが、他に経典を訳してはおらず、唐代の 『開元釈教録』(3) ・ 『古今訳経図紀』(4) は 曇摩伽陀耶舎 の性格を 「悟物居情導利無捨」 としているが、詳細にはわからない。

歴代三宝紀』(5) ・ 『古今訳経図紀』(6) は隷書・斉言に通じていたとは述べず、 
古今訳経図紀』 のみは、朝亭寺で 曇摩伽陀耶舎 が訳し、 慧表 がそれを筆受したと理解している。

もっともこれらの記述のうち永明三年(四八五) 慧表 が 『無量義経』 を流布し始めたとき 劉「虫+礼の右」 は四十八歳であり、この間の事情に精通していたわけであるから 『古今訳経図紀』 の記述が必ずしも正しいとは言えない。 

また隋代の 費長房 の 『歴代三宝紀』 は 曇摩伽陀耶舎 を斉の言語で 法生称 というとし、荻原博士の還元によって、Dharmodgatayas'as(※ダーモドガタヤサース?)と知ることができる。
                             
 異訳について 
歴代三宝紀』 は 『李廓録』 に 求那跋陀羅訳 が紹介されていると述べているが、(7) 
出三蔵記集』 巻第二 の 求那跋陀羅 の翻訳経典の項では(8) 

「無量寿経一巻欠」 

とあって 『無量義経』 の記述はなく、訳出経典は 十三部七十三巻 となっていて 『無量義経』 は含まれておらず、さらに現存経典をすべて確認している 彦j(ソウ)の 『衆経目録』 は

 無量義経一巻(9)、 南斉建元年沙門曇「無」'伽陀耶舎於揚州訳。

として、 求那跋陀羅 訳について述べていないので、 『無量寿経』 を誤認したものとみてさしつかえないであろう。

 それ故、 『無量義経』 は現存の 曇摩伽陀耶舎 訳のみであり、経典史上これ以後 『無量義経』 が世に知られるようになる。

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 『無量義経』 中国撰述説

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A 荻原雲来博士の根拠

荻原雲来 博士は昭和十年二月の日本仏教学協会年報第七に 「無量義とは何か」 という論文を発表され、経の文句およびその義意においても印度製であるとは遽(にわか)に首肯しがたいとして、その理由をあげている。以下 荻原博士 の所説を引用すると
  (10
  1 翻注が一様ならざること、即ち先には 「阿若橋如若」 (Ajn~a-takau.d.inya)とし、次には同人を 「阿若拘隣」 に作ること。
  
  2 顕著なる訳語に二様あること、即ち先には 「十地」 とし、後には同じものを 「十住」 とすること。
 
  3 「菩提樹下端坐六年」 の語は未だ佛典中他に類例を見ず、博雅の君子の示教を待つ。たとひ他に出拠あるも、印度の佛教徒間に是の如き伝説ありしものとは信じ難し。
  
  4 「初説四諦為求声聞人、……中於処々演説甚探十二因縁為求辟支佛人……、次説方等十二部経摩詞般若、華厳、海雲、演説菩薩歴劫修行」 の文に於て、是の如く諦線度の法門を三時に配当するは後世、教判者の創唱する所、又斯くして化法と化儀と合致せしめんとすれは、両者を強て抂(ま)ぐるものにして、頗る無理あるを見る。

  5 用語文体が支那の臭味あること、

第一、「其心禅寂、常在三昧」 と言ふ。是は些細なることなれども、忠実に訳したるものならば、「禅寂」 と云ふ如き語は原本に存すべしとは想はれず、「寂静」 又は 「寂定」 の類の語が期待さる。

但し漢人間の成語としてなら勿論 「禅寂」 にても妥当なり。

第二、「徴H先堕、以淹(エン・オン)欲塵、開涅槃門、扇解脱風、除世熱悩、致法清涼、次降甚深、十二因縁、用灑(そそぐ)無明、老病死等、猛盛熾然、苦聚日光、爾乃洪註、無上大乗、潤漬衆生、諸有善根   の句も梵よりは漢人の口吻に近かるべし。

 6 内容は法華の要点を採録したるが如き感あり。

第一、 四十余年未顕真実 の語は、従地涌出品に同義の文あり。

第二、一切諸法、自本来今、性相空寂、無大無小、無生無滅、非住非動、不進不退、猶如虚空、無有二法、

又は、

深入一切諸法、法相如是、生如是法、法相如是、住如是法 云々、

又は

入衆生語根性欲、性欲無量故、説法無量、説法無量故、義亦無量 

の文の如きは 方便品、寿量品 の取意の如く、

第三、法を水に誓へ、機根に応じて諦縁度の法門を説き、正磯は次の如く、声聞縁覚菩薩なれども、第一第二ともに無量の衆生 (大)菩提心を発せり。
即ち得法得果得道各異とするは 薬草喩品 の構想に似、

第四、能以一身、示百千万億那由他無量無数恒河沙身、一一身中。又示若干百千万億那由他阿僧舐恒河沙種種類形、一一形中、又示若干百千万億那由他阿僧舐河恒沙形、云云

は 寿量品 中の思想の変形なるべし。

第五、経の 不可思議功徳 を縷(ル・ロウ・糸)説するは 分別功徳、 随喜功徳、 法師功徳、 薬玉本事 等に胚胎せしに非るか。

以上列挙せし形式は内容につきて考ふるに、材料を法華に取り、同経の序文たるの観点より多少加工案配して捏造せしかの疑あり。
又外形より見ても不審の点無きに非ず。
本経は武当山の沙門慧表が曇摩伽陀耶舎と云ふ三蔵に遇つて其訳を乞ひ伝授せられたるは南斉高帝建元三年(西紀四八一)にして、後四年を経て永明三年に至り、慧表が武当山を出でゝ此の経を弘布し、隠士劉「虫+礼の右」が序を製せるものなり。

現今は此の経に二代の翻訳ありとし、一は曇摩より前に劉宋の代、求那跋陀羅が訳出したりと伝ふるも、此の説は信を措き難し。
僧祐、法経彦「りっしんべん+宗」、静泰各経録に凡て単訳経として曇摩の訳のみを出せり。
道宣に至て内典録に初めて求那の訳ありとし、李廓録に見ゆと注す。
李廓録の権威が幾何なるか知らざれども、恐くは求那の訳無量寿経を無量義経と誤認したるに非るか。
以上の事状に鑑みるに、曇摩伽陀耶舎は唯だ此の一経のみを訳したる人にして、又た僧祐等四家の経録に拠れば無量義経は単訳経となる。
而して措辞や内容より推測するに、実は支那製作の如き感を与ふ。
さりとて、此等の状況が所説の趣旨を損害するものには非ず。
経文の印度製と支那製とは問ふ所に非ず。
苛も正法を無倒に宣顕するものならば、是を以て佛説と云ふも敢て不可なるを見ず。
唯だ内容が仏教の法印に随順するか否かに由てのみ経の正邪は定まるべきのみ。

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とされている。
これらの根拠の再吟味については後章で述べることとする。

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B 横超慧日博士の根拠

横超慧日博士は昭和二十九年三月の印度学仏教学研究第二巻第2号で荻原雲来博士の説を支持し、荻原博士が言及されなかった点について考証を拡め


(1) 経録において根拠とせられた経序の信憑性に関する検討
(2) 経そのものの形式内容に関する多くの角度よりの批判
(3) この経が出現した時代の仏教学上における思想動向如何

という3点より考察されている。

まずその中の第一について

(1)(11) 翻訳者 曇摩伽陀耶舎 は中天竺沙門というのみで、その他は一切伝記が不明であり、無量義経が翻訳された年月も、その関係者の氏名も明らかでなく、無量義経の外に何か翻訳したことがあるかどうかも知られていない。

当時海上より渡来せる梵僧は皆宋斉の都 金陵へ来ているのに、何故彼が広州に住まって京都まで釆なかったか不審である。

(2) 曇摩伽陀耶舎 が中国の言語文学に通じていてこの経を伝えんと欲しながら未だ誰に授くべきやを知らなかったとき、慧表が心形供に至る慇懃なる致請によって僅かに一本を得たというのは、秘法単伝の神秘化によって翻訳の史実を曖昧模糊の中に葬り去らんとした作為と観ぜられる。

(3) 慧皎(コウ)の 高僧伝 が訳経中に 曇摩伽陀耶舎 の名を挙げないのは、伝記資料の不足というよりも、寧ろこの 経序 の史料価値に不審を懐いたためではなかろうか。 
大通三年(五二九)に浸した 法雲 の 法華義記 中に 無量義経 を認めていないのも 経序 を信頼しなかった証拠といってよいであろう。

(4) 伝持者 慧表 は 羌冑の出で 偽帝姚(よう)略 の従子というから、族後、秦の主 姚(よう)興 (字は子略) の甥であったというのである。
国破れた時、晋軍の何澹之に捕われ、その時、数歳で聡黠(カツ・ゲチ・さとい)であった彼は、澹之より螟蛉と字づけられ養われて仮子となっていたが、俄かにして放たれて出家した と 序 はいっている。

姚(よう)興の死後、その子、泓(オウ) が位に即くや、長安は晋将 劉裕の為に破られ、泓は建康に送られて斬られたから、姚(よう)氏の一族といわれる 慧表 が数寄な運命をたどって江南に赴いたというのも不思議でない。
然し求道のためとはいえ何故に特に 嶺南 まで出かけたのか不自然の感なきを得ぬ。

(5) 慧表 が嶺南へ往った斉の建元三年(四八一)は、後秦滅亡の東晋義熙(キ)十三年(四一七)より六十四年の後に当り、 慧表 は当時七十歳に近かった筈である。
そのような老齢の比丘が困苦を冒して嶺南へ往復するということは、不可能ではないにしても奇異に思われることは確かである。

(6) 今永明三年(四八五)九月十八日に頂戴して山を出たというが、特に 劉「虫+礼の右」 が 慧表 より伝授された年月日を明示するのは何故か。
翻訳の史実が明確でなく、他の何人もこの経を得ている者がないのであるから、これが伝持者よりの確かな稟承なることを示す為の作為の痕と考えざるを得ぬ。
劉「虫+礼の右」 は斉の建武二年(四九五)に五十八歳で死んでいるから、この年は四十八歳であった。(劉「虫+礼の右」 の伝は南斉書五十四)

  以上の諸項はいずれも記述の絶対非真実を確証する程のものとはいえないが、疑いの限を以てみればその史実につき頗る疑惑を懐かしめるに足るものといってよい。

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と述べ、さらに 

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序 全体から見ると実は頓悟漸悟の争いにおいて頓悟義のすぐれているのを説くのが主眼で、 『無量義経』 の思想内容については語る所が甚だ少ないとし、 劉「虫+礼の右」 は 竺道生 の頓悟義を祖述した熱心な信奉者で、この 序 でも 道生 の頓悟義を強調し、 『無量義経』 の 説法品 の 性相空寂無相 の説はこの頓悟義の要求に応ずるものであった

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とする。

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 次に 『無量義経』 の内容・形式よりする批判として

(1)(12) 仏典の訳語としては通常考えられないような省略法を行っていること。
例えば、四沙門集中 の 「斯陀含」・「阿那含」 を略して 「斯陀」 「阿那」 といっているが、如何に偈頌中とはいえ、かかる用法は他に類がなかろうと思う。
「四諦十二因縁六度」 を略して 「諦縁度」 と称することも、後世の注疏ならばともかく、翻訳された経典には曾って見ない例である。

(2) 仏教の法相を解せざる如き用語のあること。
声聞の 内凡四善根中 、 忍法 のみを除いて 火+而+大(ダン・あたたか)法・頂法・世間第一法 といい、これを 三法 と名づけている。
何故に 忍法 を脱したのか領解に苦しむ。
しかも 三法・四果・二道 を得ることを 得法得果得道 と称しているが、 四善根 に達するのを 得法 といい 辟支仏道 と 仏道 を得るのを 得道 という如きも、これまた穏当を欠く語法であろう。

(3) 会座に在った比丘の名を列挙するに当り、徳目や仏との関係等を連称している。
大智舎利弗、神通目「けん」連、天眼阿部律、持律優婆離、侍者阿難、仏子羅雲、頭陀大迦葉等 というのがその例で、
また本来ならば 「富楼那弥多羅尼子」 とあるべきを 「弥多羅尼子富楼那」 という。
これらは通常は見られない奇異なる語法である。

(4) 法華経、涅槃経 等に類似の語法あること。
法華経に類似の例は荻原博士が多く指摘しておられるが、なおその外に、 
説法品 中、「是則諸仏不可思議甚深境界非(二)二乗所(一レ)知。亦非(ニ)十地菩薩所(一レ)及、唯仏与(レ)仏乃能究了」 とあるのが 方便品 の初めの 「仏智称欺」 の文に類しているのを指摘し得られるであろうし、
説法品 の初めに仏語として、 「善男子善知(二)是時(一)恣(二)汝所問、如来不(レ)久当(二)般捏磐(一)、涅槃之後普令(三)一切無(二)復余疑(一)、欲(二)何所問(一)便可(レ)説(レ)之」 とある 入滅時催問 の文は、 涅槃経序品、長寿品、師子吼菩薩品 等の初めに繰返して説かれた所と一致する。

(5) 十地と無生法忍とに関する言及は注意に値する。
十地については、
得道以来四相と無相の法を説いてきたところ二乗の果を得るもあり、
また菩提心を発して第一地 第二地 第三地 に登り第十地に至れるもありと説く如き、
或は初不動地に住すといい、
或は漸見超登して法雲地に住すという如き、
或はまた六波羅蜜自然に在前し即ち是の身において無生法忍を得、生死煩悩一時に断壊して菩薩の第七の地に昇らんといい、
或はこの身において無生法忍を得て上地に至るを得る 

という如き、これら十地の漸進を認めるのと飛躍を説くのとの混同した見解を示している。

特にこの最後の二説は 七地無生法忍説 が経典編者に特殊な関心を喚んでいたことを物語るが、十地もしくは無生法忍についてさして深い知識を持っているのではなかったことを察せしめる。

竺道生の 法華経疏 中で、 「初任至(二)七住(一)漸除(二)煩悩(一)曰(レ)開」 といい、「七住菩薩伏(二)三界結(一)義在(二)宅外(一)」 いい、「七住以下謂(二)之小樹(一)八住以上謂(二)之大樹(一)」といい、「八住以上既無(二)復身(一)何以得(レ)知(二)其智明昧(一)」といい、法論目録に 「釈八住初心欲取泥「シ+亘」義竺道生」といい、無量義経序中に 「支公之論(二)無生(一)以(二)七住(一)為(二)道慧」 というなど、これらは頓悟論者が無生法忍を得る七地七住に重大関心を寄せていた証拠である。従ってこの点からも頓悟論者と 無量義経 との密接な関係が察せられるのである。

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と述べ、さらにこの経の教義的特徴として、すでに諸法の性相空寂なる真実が説かれたのであるから、 四十余年未顕真実 というのは 法華経 を説かぬ間は 未顕真実 なりという意味ではなくて、 『無量義経』 以前は 末顕真実 であったが 『無量義経』 に至れば既に真実を顕したものということになるのであり、 『無量義経』 は元は 『法華経』 の一乗三乗の権実説を教の立場より証の立場に転じて空思想の上から説明しようとしたものであるとするのである。

 さらにまた 『無量義経』 出現の背景となった思想動向を論じ、当時僧肇の漸悟論と、竺道生の頓悟論の論争があり、 『無量義経』 のように 『法華経』 を解釈して頓悟義を実証しようとする経典が、中国において頓悟論者の側より編纂されるということは、考えられぬことでなく、頓悟論者の側には在家者の支持が強くて教義に精通する面では欠けることがあったので、出来上った作品としての 『無量義経』 は内容にも形式にもかなり素人的な不手際を免れなかったとして、その作者を 劉「虫+礼の右」 であろうと推定している。

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三  『無量義経』 中国撰述説の検討

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        A 荻原説に対する検討

1 ▼ 「『無量義経』 では、 「阿若情陳如」 と 「阿若拘隣」 の両方の使用例がある」

とする点であるが、これは 『無量義経』 だけに限られたことではない。
たとえば 

義浄 訳(13) 『根本説一切有部毘奈耶破僧事』 では、 「阿若情陳那」 を、 「僑陳如」・ 「阿若橋陳如」 とする用例も見られ、しかもこの 『根本説一切有部毘奈耶破僧事』 は間違いなくインドの有部のものであるから、この点については、中国撰述とする根拠とは成り得ない。

これは一例に過ぎないが、翻訳用語の不統一はまだ他にもあり得ることである。(14)

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 2 ▼ 「顕著なる訳語に二様あるとして、 「十地」 と 「十住」 を指摘」 

する点であるが、

そもそも 「十住」・ 「十地」 は発展過程上の用語である。
もともと 「十住」 は 『兜沙経』 で説かれ、 
菩薩本業経』 では 「十住」 から 「十地」 へと名称が変化してくることを物語っており、大乗経典ではこれらが混乱して用いられているようである。
「住」(viha-ra) は 仏陀の 「遊化」(viharati)  に由来したであろうといわれるが、これが間もなく菩薩の修行段階を適切に表現する 「地」(bhu-mi) へと変化している。

光讃般若経』 では品名は 十住品 としながら、 十地、 十住 を混乱しているし、(15)
放光般若経』 でもこれと同じ例が見られる。(16)

このような用例は 『菩薩本業経』 の他多くの経典に見られるし(17)、
羅什の訳した 『十住経』 にも見られる。(18)

もっとも 実叉難陀 訳 『大乗入楞伽経』 のように、 「十地」 と使いながら一ケ所だけ 「十住」 としていても、 菩提流支 訳ならびに現行サンスクリット本にはない例もある。(19)

いずれにせよ、 『無量義経』 で 「十地」 と 「十住」 が混乱して訳されているのは、もし 『無量義経』 が中国撰述ならばこのような不手際は起らず、もとのサンスクリット原典に 「十地」 ・ 「十住」 の両方があったため、翻訳者がそのまま訳したとも考えられるのである。

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3 ▼ 「「菩提樹下端坐六年」 という語は仏典中に類例がなく、またあったとしてもインド仏教徒間にのような伝説があったとは信じがたい」

とする点であるが、 

証真 が 『山家註無量義経抄』 で指摘しているように(20)、 『報恩経』 ・ 『双観経』 ・ 『修行本起経』(21) 等その他多くの経典に、この用例が見られ、すでにインド仏教徒間に 「菩提樹下端坐六年」 の伝説が常識となっていたことをあらわしている。

そのため、この第3の根拠も成立し得ない。

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4 ▼ 「四諦を声聞、十二因縁を縁覚、方等十二部経・摩訶般若・華厳海空・演説菩薩歴劫修行というように四諦・十二因縁・六波羅蜜を三時に配当するのは後世の教判者の創唱であり、このように化法と化儀を合致せしめようとするのは両者を強て曲げるものである」 

とする点であるが、確かにこの箇所は余りにも整然と経典が整理され過ぎているし、三時に配当するのもかなり教判の進んだ見方ともとれる。

しかし 三時配当までには行かなくとも 

『法華経』 序品 には、仏陀はそぞれの機根に応じて 声聞には四諦、 縁覚には十二因縁、 菩薩には六波羅蜜 を説いたとあるし、
『楞伽経』 には頓漸二教判、 
解深密経』 には 声聞乗に四諦を説いた 第一時 有の教、大乗には不生不滅を説いた 第二時 空、 一切乗には無自性を説いた 第三時 中道 の三時教判が説かれているから(22)、 『無量義経』 のような教判論がインドで出来上っていたとも考えられぬではない。

またこの教判論でおもしろいことは、 『無量義経』 と同じように 諸法実相 ・ 開三顕一 説く 『法華経』 をのせていないことである。
これは明らかに 『法華経』 を真実教とし、得法差別のある方便教とはわけていたことを示す。

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5 ▼ 「用語文体に支那の臭味ある点をあげて、「其心禅寂」 は 寂静 あるいは 寂定 と訳されるべきで、 禅寂 は漢語である」 
 
とする点であるが、

sama-dhi,pama-patti,dhya-na 等の訳例としては、 三味、 禅、 定、 静慮 等が多いようであるが、これはあくまで訳例であって、 「静慮」 を意味するのに 「禅寂」 と訳してはいけないということではない。
言葉としては漢語的ではあるが決定的根拠とは成り得ない。

また第二として 

▼ 「「徴H先堕」、「以淹(エン・オン)欲塵」、「開涅槃門」、「扇解脱風」、「除世熱悩」、「致法清涼」、「次降甚深」、「十二因縁」、「用灑(そそぐ)無明」、「老病死等」、「猛盛熾然」、「苦聚日光」、「爾乃洪註」、「無上大乗」、「潤漬衆生」、「諸有善根」 の句はサンスクリットよりも漢語的である」 

とするが、

「十二因縁」 は 『法華経』 の 序品 等に出てくるし、その他の大乗経典でも始終見かけるところである。
「老病死等」 に関しては、 生老病死 という語は 『法華経』 譬喩品 にあらわれるところであるし、この 「老病死等」 は 十二因縁 を説明して、無明・老・病・死等と出てくるのであって、なぜ問題としなければならぬのか明確ではない。

もし 「病」 が含まれるからだというならば、 「老病死」 の用例は 『法華経』 序品 の 偈 に見れる所であるし、

その他の 「開涅槃門」 は、 『法華経』誓喩品 に 「開示演説世間道」、 
化城喩品に 「広開甘露門」、 法師品に 「開方便門示真実相」 とあって、別段漢語的であると問題にすべきではないと思われるし、 

「猛盛熾然」 は誓喩品にある 「姪欲熾盛」 に似た文体であるし、
「除世熱悩」、「致法清涼」 は授記品に 「除熱得清涼」 に似た文体である。

これらはざっと 『法華経』 に訳例を見ただけであるから、インド撰述経典を詳細に検討すればさらに多くの訳例にぶつかるはずである。

「徴H先堕」、「以淹(エン・オン)欲塵」、「扇解脱風」、「次降甚深」、「用灑(そそぐ)無明」、「苦聚日光」、「爾乃洪註」、「無上大乗」、「潤潰衆生」、「諸有善根」 に関しては 『法華経』 に比較できるような適当な用例を探し得なかったが、これらに関しても他の経典をさらに検討すれば有り得ることである。

 以上は文体に関して指摘されていた十六例中六例がわずか 『法華経』八巻 に限っても訳例として似た文体が発見し得ることを述べたに過ぎないが、ここではっきり言えることは

漢訳経典はあくまで翻訳であり、その文体の特色も翻訳者の能力にかかわることであるから、 『文体論からは中国撰述説は言い難い』 ということである。

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 6 ここでは 

▼「 『無量義経』 の内容が 『法華経』 の要点を採録した感があり、 『法華経』 の序文たるの観点から捏造したのではないか」 

という点であるが、確かに 『無量義経』 は 『法華経』 を知っていて撰述された感は誰しもが認める所であろう。
但しそれがインドであったか中国であったかという点は、この第六の根拠からは導き出せないし、仮にインド撰述であるならば、誰しも 『法華経』 に類似していることは気がつくはずであるから、漢訳する場合でも当然 竺法護 訳 ・ 羅什 訳 『法華経』 を参照したであろうと言えるのである。 

(→※ 漢訳時に参照したが故に似た表現があるのは当然である)


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 さて次の 訳経録上の問題点 であるが、これについては横超博士も触れているので、そこで検討してみることにしよう。

B 横超説に対する検討

 さて、横超博士は先のように、

@ 劉「虫+礼の右」作の 『無量義経』序 の検討、 

A 『無量義経』 の内容・形式よりする批判、

B 出現の背景となった思想動向

の三つの観点より論述されたわけであるが、これらの論点を検討するに当り、「B 出現の背景となった思想動向」 は 『無量義経』 の内容・形式よりする批判の (5) において検討をすることにする。

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         (1) 劉「虫+礼の右」作の 『無量義経』序 の検討に対する検討

(1) ▼ 「翻訳者 曇摩伽陀耶舎 の伝記が不明で、翻訳された年月もその関係者の氏名も明らかでなく、その他に経典を翻訳したかどうかも不明である」

とする点に関しては、確かに大きな疑問の残る所であるし、横超博士の指摘される第二の点とも重なってその理由が解決できない。

(※ これについては 周 柔含氏の反証がある)

次に

▼ 「当時海上から渡来した梵僧は皆宋斉の都金陵へ来ているのに、何故彼が広州に住まって京都まで来なかったか不審である」

とする点であるが、当時は梵僧が皆金陵に行って訳経したわけではない。

このことは、 『出三蔵記集』 巻第二 に 宋 の 明帝 の時 天竺沙門 竺法春 が 広州 において 『海意経』 等 五部二十八巻 を訳出したが、未だ 京都 に至らず とする例もあるし、 

『善見律毘婆沙律』 十八巻 についても  斉武帝 の時 沙門 釈僧猗(イ・ア) が 広州 竹林寺 まで 外国法師 僧伽跋陀羅 に請うて訳出しているし(23)、

古今訳経図紀』 巻第四 でも 『五百本生経』 を訳した 摩訶乗、 提婆品 を訳した 達摩摩提他 多数をあげている(24)。

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(2) ▼ 「曇摩伽陀耶舎 がこの経を誰に授くべきやを知らず、 慧表 が致請によってやっと一本を得た。 とするのは秘法単伝の神秘化によって翻訳の史実を曖昧模糊とする作意が感じられる」

とする点であるが、確かにこの点は事実であったにしてもかなり作意的な粉飾を感じる。

これは先の (1) と同じように中国撰述を隠すためにわざとこのような経序が書かれたように感じられるだけで、これ以上の究明のしようはない。
そのため 『無量義経』 そのものの検討から 経序 を見直す必要がある。

(※→ つまり、これは 「無量義経」「序」 においての作為的な書き方の問題であって、「無量義経」本文 が インド撰述 か 中国撰述か とは別問題であるということである。)

訳者  曇摩伽陀耶舎
伝持  慧表
序   劉「虫+礼の右」


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(3) ▼ 「慧皎 の 高僧伝 が訳経中に 曇摩伽陀耶舎 の名を挙げないのは、この 経序 の史料価値に不審を懐いたためではなかろうか」

とする点であるが、確かに 慧皎 の 高僧伝 には 曇摩伽陀耶舎 の名前があげおらず、その原因は不明である。

(※ これについても 周氏の反証あり)


しかし、最古の漢訳経典目録である 『出三蔵記集』 巻第二 では

 (25)無量義経一巻、右一部凡一巻、斉高帝時天竺沙門曇摩伽陀耶舎訳出。

として、 曇摩伽陀耶舎 訳 の 『無量義経』 を認めており、さらに 巻第九 では、荊州隠士 劉「虫+礼の右」 作として 『無量義経序』 を載せている。(26)

また隋の 費長房 による 『歴代三宝紀』 巻第十一 でも

 (27)斉無量義経一巻見僧祐法上等録。右一経一巻高帝世建元三年天竺沙門曇摩伽陀耶舎、斉言(二)法生称(一)。於(二)広州朝亭寺(一)手自訳出、伝受人沙門慧表、永明三年齎(二)至揚都(一)繕写流布。

と記している。

もっとも 『歴代三宝紀』 は 『無量義経』 と 経序 を実際に当って見たのではなく、僧祐・ 法上 等の訳経目録によったものではある。

 彦j の五巻本 『衆経目録』 は 法経 の七巻本 『衆経目録』 にそって実際に経典に当り、吟味検討して偽疑経を分類したものである。
それによると
                                      
 無量義経一巻、南斉建元年沙門曇無伽陀耶舎於揚州訳。(28

とし、明らかに 『無量義経』 をインド撰述で 曇摩伽陀耶舎 による訳出経と認めている。

 それ故 慧皎 がなぜ 曇摩伽陀耶舎 を載せなかったかは推定の域を出ない。(※ これについても 周氏の反証あり)

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、また 

▼ 「法雲 の 『法華義記』 中に 『無量義経』 を認めていないのも 経序 を信頼しなかった証拠といってよい」

とする点であるが 『法華義記』 巻第一 では

 (29)所以無量義経為(二)法華作遊序(一)者凡有(二)両家解(一)。一家解言、此経明(二)無量万善同帰皆成仏道之義(一)故名(二)無量義経(一)也。但法華所(レ)明正言(二)無二無三会三帰一(一)、然無量義経直明(二)万善成仏(一)不(レ)言二無二無三破三帰一(一)与(二)法華(一)有(レ)異。
 是故得(レ)有(二)法華作遊序(一)。第二家言、無量義経明(二)無生空理不可辺量往来(一)故名(二)無量(一)、即此空是万有之義也。是則大品維摩亦明(二)無相空義(一)。何故不(レ)為(二)此経作序(一) 伊家通言居但執義之家好序太過。今明(レ)為(二)法華之序(一)正明(二)一時一坐一部経教各自有(一レ)序。何異(三)五時之教皆有(二)序正流通(一)。今明無量義経猶是堪開法華徒衆聞此経、但未(レ)説(二)法華(一)之前仍(ジョウ・ニョウ・よる)説(二)無量義経。大品維摩維(レ)明(二)無相空義(一)猶言(二)三家行困為(レ)量三乗得果不同(一)然無量義経言(三)夫行(レ)善者皆得(二)仏果(一)是故有(レ)異(二)大品維摩(一)。又直言(二)万善成仏(一)不(レ)明(二)会三帰一(一)、是故無(レ)異(二)法華(一)。既居(二)両過之間(一)。是故得(レ)為(二)法華作序(一)也。

とあり、 法雲 は 『無量義経』 の解釈として 無量万善同帰皆成仏道説 と 無生空理不可辺量往来説 との両説をあげ、現行本 『無量義経』 に対し直接的な疑惑を述べているのではない。

 ただし多少気になるのは 『大品般若経』・ 『椎摩経』 が 『法華経』 の 序 とならず、 『無量義経』 が 序 となる証明として、 「然無量義経言(三)夫行(レ)善者皆得(二)仏果」 としている点である。

この経文があれば、 『無量義経』 を 万善同帰皆成仏道 とする説も充分に根拠があるわけだが、現行本 『無量義経』 にはこのような文章は見当らないし、 十功徳品
 も単に善を行ずる者とするのではなく、 『無量義経』 を聞く者の功徳を説いているのである。
あるいは 別行本 すなわち 求那跋陀羅 訳 があったのかとも考えられなくもないが不明である。

(4) (5) (6) の根拠については疑惑があると見れば、そのように見れないこともないが、それ以上の確定的根拠となるものではない。

(※ 周氏の反論・反証)

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 また 

▼「 『無量義経』 は 竺道生・ 劉「虫+礼の右」 の頓悟義の説に一致し、 『無量義経』 の思想内容については語る所が少ない」

とする点については、 『無量義経』 は 四十余年未顕真実 を明らかにしており、性相空寂無相説は頓悟義に一致するというよりも、むしろ三乗得道差別の理由を説明し、一乗に帰せしめる重大な思想内容を語ってさえいるのである。

さらに 性相空寂説 が 頓悟義 に一致するとするが、 『無量義経』 そのものは決して 頓悟義 を説いているのではなく 説法品 にしても 十功徳品 にしても段階的得道を述べており、わずかに 第七不可思議功徳力 においても、無生法忍を得し、煩悩を一時に断じて第七地に登るとしているに過ぎない。

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             (2) 内容・形式からの批判に対する検討

(1) ▼ 「仏典の訳語として通常考えられない  「斯陀」 「阿那」 「諦」 「縁」 「度」 の省略語がある」

とする点である。

このような用例を他に発見できなかったが、たとえば 『妙法華経』 でも 「釈迦牟尼」 を偈頌では 「釈迦文」 とするように、語数の関係から省略されることが多くある。

 『無量義経』 徳行品 のこの箇所も

四諦六度十二縁    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
有聞或得須陀「シ+亘」  斯陀阿那阿羅漢
・・・・・・・・・・・・・・・・・   稽首帰依縁諦度

とする偈頌中の省略であり、このような省略も可能ではないかと考えられる。

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(2) ▼ 「声聞の四善根中、忍法のみを除いて 火+而+大(ダン・あたたか)法 ・ 頂法 ・ 世間第一法 として仏教の法相を解せざる如き用語がある」

とする点である。

 大蔵経 の 元版 ・ 明版 には 火+而+大(ダン・あたたか)法 ・ 頂 ・ 忍 ・ 世第一法 の 四善根 が出てくるが、 忍法 を欠いたものは通常の 説一切有部 の教学とも異るものである。

火+而+大(ダン・あたたか)法 ・ 頂法 ・ 世間第一法 というように翻訳用語にも慣れているし、偈頌にも同様の記述があるので 忍法 を訳し落したと考えるのは不自然であるし、またかりに 『無量義経』 が中国で撰述されたとしても、 『無量義経』 を撰述できるほどの者がこれら仏教の常識である用語を知らなかったとするのもこじつけすぎる。

それならばこのような教学がインドにあったのであろうか。

 実は 『発智論』 と、その異訳である 『八「牛偏+建」度論』 を見ると、そこでは 忍位 が説かれていない。(30)

説一切有部の完成した教学ではあり得ないことであるが、しかし 『発智論』 の表面上にはあらわれて来ない。

このため 『発智論』 の註釈書である 『大毘婆沙論』 では 『発智論』 述作者・ 迦多衍(エン)尼子 は自から意を欲する所に従い、 顕・隠・広・略 によって作ったのであるから微詰すべきではないとしているが、 『大毘婆沙論』 ではこのことをかなり問題ありと見て諭じている。(31)

 『発智論』 は玄奘が六六〇年に訳したのであるから、 『無量義経』 訳出(四八五年)よりも新しいが、 『八「牛偏+建」度論』 は 僧伽提婆・竺仏念 によって訳され(三八三年)ており、あるいは 『八「牛偏+建」度論』 を知っている者が (※無量義経を) 中国撰述したとも考えられなくもないが、 
『無量義経』 以前には 僧伽提婆 ・ 慧遠 の名訳 『阿毘曇心論』 が訳されており、そこでは 忍位 も説かれているから、(32) わざわざ 『八「牛偏+建」度論』 によって有部教学の変形を採用したとは考えられない。

 それ故この 『無量義経』 の撰述者はインドにおいて、この 『発智論』 の教学と何らかのかかわりがあったとも考えられる。
あるいは 『発智論』 とのかかわりがないにしても、 『大毘婆沙論』 で指摘されるように、阿含経典にはもともと 忍位 が明らかに説かれていなかったのであるから、 火+而+大(ダン・あたたか) ・ 頂 ・ 世第一法 とする教学をもつものが、 『無量義経』 撰述に関係があったことになる。

 その意味では当時の中国仏教者にこのような教学の影響は認められないようであるから、中国撰述あるいは書き落しの線は薄れ、もともと 『無量義経』 梵本に 忍位 が説かれていなかったのではないかと思われる。

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 次に

▼ 「三法 ・ 四果 ・ 二道 を得ることを 得法得果得道 とし、 四善根 に達するのを 得法 といい 辟支仏道 と 仏道 を得るのを 得道 というのは穏当を欠く語法である」

とする点である。

 天台大師智 の 『法華文句』 によれば、
 
三法 とは 声聞・縁覚・菩薩の三乗、 
四果 は 阿羅漢・縁覚・菩薩・仏の果、
二道 は 漸・頓とし(33)、

最澄は 

三法 を 四諦 ・ 十二因 ・ 六波羅蜜 、 
因果(※ 「四果」の誤植か) を 預流 ・ 一来 ・ 不環 ・ 阿羅漢 の四果 ・ 
二道 を 権実の二道とするほか、 
二法 を 頓漸、 
三道 を 三乗、 
四果 を 阿羅漢・辟支仏・菩薩・仏の果、
あるいは 三蔵仏果・通教仏果・別教仏果・円教仏果 とする説を紹介している。(34)

 すなわち 智 ・ 最澄 ともに 
三法 を 四善根 に達することとは理解しておらず、
さらに 二道 を得することも 辟支仏道 ・ 仏道 とは理解していない。

『無量義経』 自体はこの経典を聞く者は、火+而+大(ダン・あたたか) ・ 頂法 ・ 世第一法 ・ 須陀「シ+亘」果 ・ 斯陀含果 ・ 阿那含果 ・ 阿羅漢果 ・ 辟支仏道 を得、菩提心を発し、第一地・第二地・第三地に登り、第十地に至るとし、そのしばらく後に、 「三法 ・ 四果 ・ 二道不一」 あるいは 「得法 ・ 得果 ・ 得道」 と出てくる。

経典自体からは、 三善根の法 と 四果 と 辟支仏道 と 菩薩道 ととれるが、これもそれぞれの法を得することを省略して述べた用法であって問題はない。

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 (3) ▼ 「会座にある比丘達を大智舎利弗というように徳目との関係で連称するのは通常見られない奇異なる語法である」

とする点である。

 このように連称する用例はきわめて少いが存在する。

 羅什訳 『首楞厳三昧経』 では 
「侍仏皆如阿難」 ・ 
「智慧第一如舎利弗」 ・ 
「神通第一如目「牛偏+建」連」 ・ 
「頭陀第一如大迦葉」 ・ 
「説法第一如富楼那」 ・ 
「密行第一如羅眠「目+候」羅」 ・ 
「持律第一如優波離」 ・ 
「天眼第一如阿那律」 ・ 
「坐禅第一如離婆多」 

という用例が見られる(35)ので必ずしも徳目を付加したからといって中国撰述であるという根拠にはならない。

 また 「弥多羅尼子富楼那」 という用例は他には発見できなかったが、この語は Pu-ru.a-maitra-yan.i- (Pun.n.a-man-ta-ni) の音訳と putra (putta) 子供の漢訳語とを合せたもので、サンスクリットあるいはパーリの語順からは、 富楼那弥多羅尼子 と訳されるが、意味からは 「母マイトラーヤニーの子供であるプールナ」 となるから、 「弥多羅尼子富楼郡」 という語順になる。
他に用例が見つからないが翻訳者が意味をとって訳したと見ても不思議はない。

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 (4) ▼ 「『法華経』 ・ 『涅槃経』 と類似の語法がある点」 

であるが、これは先に述べたように 『法華経』 を充分に知っている者が 『無量義経』 を撰述したのは誰の目にも明らかであるし、指摘のように 『涅槃経』 の影響も認められるようであるが、これらは 『無量義経』 が中国撰述であるとする決め手にはならない。

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 (5) ▼ 「第七地に無生法忍を得するという考え方は 竺道生 や 支通林 の頓悟論者の説と一致するから、頓悟論者と 『無量義経』 との密接な関係が察せられる」

とする点であるが、 懐感 の 『釈浄土群疑論』(36) 巻第六 に 
『仁王般若経』 は 無生法忍 を 七・八・九地 と説き、 
『菩薩本業経』 は 十住位、 
『華厳経』 は 十信位、
諸論書によっては 初地 、 忍位 

と説明されているように、経典によって 無生法忍 を得する階位は異っており、 第七地無生法忍説 をとっているからといって頓悟論者による中国撰述とは断定し難いし、ことに 

『華厳経』 十地品 では 第七地無生法忍説 さえ説いている(37)のである。

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 次に

▼ 「十地の漸進を認める のと 飛躍を説く のと混同した見解がある」

とする点であるが、これも 空無相 を 一実相 とする 『無量義経』 から見れば、教の面では 漸進 を説き、証の面では 飛躍 を認めても何ら矛盾するものではないと考えられるし、
この 『無量義経』 では 第七地 に 無生法忍 を得し、生死煩悩を一時に断じて 第七地 に住することを述べているのであって、 第十地 を 一悟頓了 することではなく、経典自体からは必ずしも飛躍があるとは認めがたい。

 ことに. 「初不動地に住す」 という根拠にあっては、 「無量義経」 は、 第六地 にあって未だ 初不動地 に住することができなくとも と説いているのであって、飛躍説とは反対のことを述べているのであるし、
 
「六波羅蜜自然に在前し即ち是の身において無生法忍を得る」 というのも、初地の者が突然に 無生法忍 を得す と述べているのではなく、
第六地 の修行者が 第七地 の功徳として 六波羅蜜 自然に在前し、 無生法忍 を得し、生死・煩悩一時に断じて 第七地 に昇ると述べているのであって、飛躍説と混同した見解はどこにも見られないのである。

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 また

▼ 「この経の有する教義的特徴として、 『無量義経』 を序説的に見て 四十余年未顕真実 の文を 『法華経』 が説かれる以前と見るべきではない」

とする点であるが、 

『無量義経』 を序説的に見るのは、この経の成立過程によるものである。

すなわち、 『無量義経』 は明らかに 『法華経』 を意識した上で書かれており、 『法華経』 の内容の一部を引用しているし、漢訳年代を考えると 『法華経』 以前に成立していたとは考え難い。

そうしてみると、 『無量義経』 は 『法華経』 とは独立して存在していたのではなく、 『法華経』 と対になるように 『法華経』 成立後に撰述されたものと見られるし、
内容的にも 智 が指摘するように、 『法華経』 と他の経典とを区別する特色である 

根性の融不融 ・ 
化道の始終不始終 ・ 
師弟の遠近不遠近 

の教相から見ても 『法華経』 以後に置くべきではない。 

『無量義経』 自体も 『法華経』 序品の 無量義処三昧 によって経典をつけているし、

さらに天台教学で言われるように 『無量義経』 は 法開会 を説いても 人開会 を説かないから当然 『法華経』 の序説的要素が濃い訳である。

ことに 『無量義経』 は 『法華経』方便品 での 爾前方便説 を知っていたはずであるから、 「四十余年未顕真実」 の 「真実」 を 『無量義経』 でもって全て終了したと見ていた訳ではないであろう。

 そうしてみると、 『無量義経』 の真実は 空無相 を説いて 三乗 を 一乗 へと目覚めさせる少分の 真実、序説的真実 と見てさしつかえないであろう。

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小結

 以上のように考察を進めてくると、劉「虫+礼の右」の序がかなり作意的な要素が感じられるため 『無量義経』 そのものが中国で撰述されたのではないかと疑われるが、 『無量義経』 そのものを中国撰述であるとする根拠はまったく成立し得ず、

逆に 火+而+大(ダン・あたたか) ・ 頂 ・ 世第一法 とする特殊な教学が述べられていたことにより、 『発智論』 系 説一切有部 の教学か、あるいはこのような 三法説 を採用する 阿含経典 かの影響が認められ、 

十地 ・ 十住 の訳例によって、 十住 から 十地 へと変化してくるインド大乗仏教教理の混乱さえ認められることなどによって、 

『無量義経』 はインド撰述であると断定することができるのである。

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(1) 『出三蔵記集』巻第九(大正蔵五五・六八a)
(2) 横超慧日『法華思想の研究』七二頁
(3) 『開元釈教録』巻第六(大正蔵五五・五三五b)
(4) 『古今訳経図紀』巻第四
(5) 『歴代三宝紀』巻十一(大正蔵49・95b)
(6) 荻原雲来『荻原雲来文集』477頁
(7) 『歴代三宝紀』巻十(大正蔵49・92a)
(8) 『出三蔵記集』巻第二 (大正蔵五五・一三a)
(9) 『衆経目録』巻第一(大正蔵五五・一五二b)
(10) 荻原雲来『荻原雲釆文集』四七入京以下
(11) 横超慧日『法華思想の研究』七一頁以下
(12) 債超慧日『法華思想の研究』七七頁以下
(13) 『根本説一切有部毘奈耶破僧事』 (大正蔵 24.166c、128a,155b)
14) 『正法華経』では「世尊」を「衆祐」とも訳しているし、『妙法華経』では「釈迦牟尼」を「釈迦文」とする用例もある。
15) 『光讃般若経』 (大正蔵八・一九六b)
16) 『放光般若経』 (大正蔵八・二七a)
17) 『菩薩本業経』 (大正蔵一〇・四五四a)
18) 『十住経』 (大正蔵一〇・四九七C)
19) 『大乗入樗伽経』(大正蔵一六)十住(六一七a)、十地(六〇二C、六一九a、六二五b、六三一b)
20) 『山家註無量義経抄』 (日本大蔵経法華部章疏二、五二〇頁)
21) 『報恩経』 (大正歳三・一三六b)、『双観経』 (大正蔵一二・二六六a)、『修行本起経』 (大正蔵三・四六九C)
22) 『解深密経』 (大正蔵一六・六九七a)
23) 『出三蔵記集』巻第二(大正蔵五五・一三b)
24) 『古今訳経国紀』巻第四(大正蔵五五・三六三b)
25) 『出三蔵記集』巻第二 (大正蔵五五・一三b)
26) 『出三蔵記集』巻第九(大正蔵五五二ハ八a−C)
27) 『歴代三宝記』巻第十一(大正蔵四九・九五b)
28) 『衆経目録』 (大正蔵五五・一五二b)
29) 『法華義記』巻第一(大正歳三三・五入二b)
30) 『発智論』(大正蔵二六・九一入a)、『八軽度論』(大正蔵二六・七七一a)
31) 『大毘婆沙論』 (大正蔵二七・二四a)
32) 『阿毘曇心論』 (大正蔵二八・八一八b)
33) 『法華文句』 (大正歳三四・二七C)
34) 『註無量義経』巻第二 (大正蔵五六・二一六C)
35) 『首樗厳三昧経』 (大正蔵山五・六四七C)
36) 『釈浄土群疑論』巻第六(大正蔵四七・六七b)
37) 『華厳経』 (大正蔵九・五六二b)(立正大学仏教学部助教授)