法華経から  末法の本尊が釈尊像ではないことの経文

末法の法華経の本尊が釈尊像ではないことの法華経の経文

無量義とは一法より生ず。

七宝の塔を起(た)てヽ極めて高広厳飾(こうこうごんじき)ならしむべし。法師品第十
此の大乗経典は諸仏の宝蔵也、十方三世の諸仏の眼目なり、三世の諸の如来を出生する種なり  普賢経
仏の三種の身は方等より生ず。
爾の時に仏前に、七宝の塔有り。高さ五百由旬、縦広二百五十由旬なり。地より涌出して、空中に住在す。
此の宝塔の中に、如来の全身有す。
我が滅度の後、我が全身を供養せんと欲せん者は、応に一の大塔を起つべし。
此の中には、便ち塔を起つべし。一切の天、人、皆応に供養すること、仏の塔の如くすべし。
是の中に皆、応に塔を起てて供養すべし。
是の中には応に塔を起てて荘厳し妙好ならしめて 種種に以て供養すべし

涅槃経 諸仏の師とする所は所謂(いわゆる)法也

必ずしも形像(ぎょうぞう)舎利並びに余の経典を安んずべからず。 天台大師

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■法華経の第四法師品に云はく

「薬王、在々処々に若しは説き若しは読み、若しは誦(じゅ)し若しは書き、若しは経巻所住の処には皆応(まさ)に七宝の塔を起(た)てヽ極めて高広厳飾(こうこうごんじき)ならしむべし。
復舎利を安(やす)んずることを須(もち)ひず。

所以(ゆえん)は何(いかん)。此の中には已に如来の全身有(ましま)す
此の塔をば応に、一切の華香瓔珞(ようらく)、
(糸偏+曾)
蓋幢幡(ぞうがいどうばん)、
伎楽歌頌(ぎがくかじゅ)を以て、供養恭敬し、尊重(そんじゅう)讃歎したてまつるべし。
若し人有って、此の塔を見たてまつることを得て、礼拝し供養せんに、当に知るべし、是等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近づきぬ。(法師品第十 326)

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■「此の大乗経典は諸仏の宝蔵也、十方三世の諸仏の眼目なり、三世の諸の如来を出生する種なり此の経を持つ者は、即ち仏身を持ち、即ち仏事を行ずるなり。」(普賢経)

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■「此の方等経は是(これ)諸仏の眼なり。諸仏は是に因って五眼を具することを得たまへり。
仏の三種の身は方等より生ず。
是大法印(ほういん)にして涅槃海(ねはんかい)を印す。
此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。
此の三種の身は人天の福田(ふくでん)、応供(おうぐ)の中の最なり」(妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八)

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■ 無量義とは一法より生ず。
其の一法とは、即ち無相なり。
是の如き無相は、相無く、相ならず、相ならずして相無きを、名づけて実相と為す。(無量義経説法品第二 19)

実相=御本尊

文証

■ 是を本尊とは申すなり。経に諸法実相と云ふは是なり。
妙楽云はく「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土」云云。
又云はく「実相の深理、本有の妙法蓮華経」(日女御前御返事 弘安二年八月二三日 五八歳 1388 〔写〕日朝 三宝寺 録外)

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妙法蓮華経見宝塔品第十一

■ 爾の時に仏前に、七宝の塔有り。高さ五百由旬、縦広二百五十由旬なり。地より涌出して、空中に住在す。

↑先の法師品の経文
■ 薬王、在々処々に若しは説き若しは読み、若しは誦(じゅ)し若しは書き、若しは経巻所住の処には皆応(まさ)に七宝の塔を起(た)てヽ極めて高広厳飾(こうこうごんじき)ならしむべし。

と併せ読めば 「滅後に宝塔品の七宝の宝塔を建立せよ。」との意になる。

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■ 此の宝塔の中に、如来の全身有す。(見宝塔品第十一 337)

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■ 我が滅度の後、我が全身を供養せんと欲せん者は、応に一の大塔を起つべし。
其の仏、神通と願力を以て、十方世界の在在処処に、若し法華経を説く者有らば、彼の宝塔、皆其の前に涌出して、全身、塔の中に在して、讃めて善哉善哉と言う。
大楽説、今多宝如来の塔、法華経を説くを聞きたまわんが故に、地より涌出して、讃めて善哉善哉と言う。

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■ 是に於て釈迦牟尼仏、右の指を以て七宝塔の戸を開きたもう。
大音声を出すこと、関鑰(けんやく)を却(しりぞ)けて大城の門を開くが如し。
即時に一切の衆会(しゅえ)、皆、多宝如来の、宝塔の中に於て、師子座に坐したまい、全身散ぜざること、禅定に入るが如くなるを見 云々(見宝塔品第十一 345)

■ 爾の時に多宝仏、宝塔の中に於て、半座を分ち、釈迦牟尼仏に与えて、是の言を作したまわく、釈迦牟尼仏、此の座に就きたもうべし。
即時に釈迦牟尼仏、其の塔の中に入り、其の半座に坐して、結跏趺坐したもう。
爾の時に大衆(だいしゅ)、二如来の、七宝塔中の師子座上に在(ましま)して、結跏趺坐したもうを見たてまつり、云々

↑日蓮大聖人御図顕十界文字曼荼羅の御相貌

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■ 阿逸多、是の善男子、善女人の、若しは坐し、若しは立ち、若しは経行せん処、此の中には、便ち塔を起つべし。
一切の天、人、皆応に供養すること、仏の塔の如くすべし。
(分別功徳品第十七 460)

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■ 若しは経巻所住の処、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若もしは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆、応に塔を起てて供養すべし。(神力品第二十一 513)

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■ 若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え
衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す

実相=十界文字曼荼羅御本尊 上記

末法に於ける「南無妙法蓮華経」の創始者・日蓮大聖人が文字曼荼羅正意の論証

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■ 其の所住止(しょじゅうし)の処 経行し若しは坐臥し
乃至一偈をも説かん 是の中には応に塔を起てて
荘厳し妙好ならしめて 種種に以て供養すべし

仏子此の地(じ)に住すれば 則ち是れ仏受用(じゅゆう)したもう
常に其の中に在(ましま)して 経行し若しは坐臥したまわん(分別功徳品第十七 463)

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■涅槃経の第四如来性品に云はく

「復次に迦葉、諸仏の師とする所は所謂(いわゆる)法也
是の故に如来恭敬(くぎょう)供養す。法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」

妙法蓮華経 という「法(真実は人法一箇)」により釈尊もふくめた諸仏は成仏できた。ということ。

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■天台大師の法華三昧に云はく

「道場の中に於て好き高座を敷き、法華経一部を安置し、亦必ずしも形像(ぎょうぞう)舎利並びに余の経典を安んずべからず。
唯法華経一部を置け

釈迦仏法は末法では白法隠没であるがゆえに末法の法華経とは日蓮大聖人御建立の十界文字曼荼羅御本尊である南無妙法蓮華経

参照 

日蓮大聖人は天台大師の教学を基本にして法門を展開されている。
もし日蓮大聖人を信仰するならば、日蓮大聖人が依用された天台大師の文言をも信受すべきである。

■ 一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。竜樹天親は知って、しかもいまだひろ(拾)いい(出)ださず、但我が天台智者のみこれをいだ(懐)けり。(開目抄)
■ 像法の中には天台一人、法華経一切経をよめり。(開目抄)