どの宗教の説明が本当に正しいのでしょうか。
仏教でも、不可思議な現象や通力らしきものが現れたからといって
岡田光玉師が真光を始める前から
真光だけが本当に特別なら、同じように浄霊を受けて治ったという
真光の手かざしを何度受けても治らなかった人は
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1. 「治ったという経験」を否定しない
2. 「なぜ治ったか」は別問題だと分ける
3. 他宗教にも同様の体験があると示す
4. 体験だけでは相反する教義を判定できないと問う
5. 仏教上も、不可思議な現象=正法ではないと説明する
6. すぐ脱会を迫らず、「一度判断を保留しませんか」と勧める
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私は、あなたが手かざしによによって身体が楽になった、病気が良くなった、不思議なことを経験した、というお話そのものを嘘だとは申しません。
長年信仰してきたあなたの体験を、頭から否定するつもりもありません。
ただ、ここで一つだけ分けて考えていただきたいのです。
�@ 「手かざしを受けた後に良くなった」 という経験と、
�A 「崇教真光の神が光を送ったから治った」 という説明は、
同じことではありません。
�@ 「良くなった」 という事実があったとしても、
�A 「その原因が本当に真光の神だったかどうか」 は、
別に検証しなければなりません。
なぜなら、
○ 世界救世教の浄霊でも、
○ 天理教のおさづけでも、
○ キリスト教の按手祈祷でも、
○ レイキでも、
○ 気功でも、
「病気が良くなった」 「身体が温かくなった」 「痛みが消えた」 という体験談がたくさん語られているからです。
しかも、それぞれの宗教は、治った理由をまったく違う教義で説明しています。
○ 世界救世教は、神の光によって魂の曇りが浄められたといいます。
○ 真光は、主神の光によって霊・心・体や霊障が浄められたといいます。
○ 天理教は、親神様の御守護だといいます。
○ キリスト教は、イエス・キリストや聖霊の力だといいます。
○ レイキや気功は、宇宙エネルギーや気の作用だといいます。
ですから、
「私は治った」 という体験だけで 真光の教義が正しい ことになるなら、
同じ理屈によって 世界救世教 も、天理教 も、キリスト教 も、レイキ も、すべて正しいことになってしまいます。
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それを判断するためには、 「治った人がいる」 という体験談以外の根拠が必要ではありませんか。
人間の病気や体調には、自然に軽快するもの、良い時期と悪い時期を繰り返すものがあります。
医療や薬が効いた可能性、休養や安心感によって症状が軽くなった可能性もあります。
また、人は良くなった例は強く覚えますが、手かざしを受けても治らなかった例、悪化した例については、あまり語られません。
ですから私は、あなたの体験を否定しているのではありません。
● 「治ったという経験があったとしても、それだけで真光の神、御み霊、霊障、火の洗礼などの教義まで真実だと証明されたことにはならない」
と申し上げているのです。
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仏教以外の修行者にも禅定や通力が現れることがあり、魔が修行者を惑わせるために不思議な現象を示す場合もあると説かれます。
● 「教祖の主張に歴史的・教理的な矛盾がないか」
仮に手かざしで何らかの現象が起きたとしても、それだけで、その力の源が 「真光の主神」 だとは証明されません。
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むしろ私は、次のことを一緒に考えていただきたいのです。
その後に、
�@ 御み霊を掛け、
�A 掌から神の光を送り、
�B 霊・心・体を浄める真光の業」
を始めています。
これほどよく似ているのに、どうして世界救世教の影響ではなく、主神から初めて与えられた特別な業だと断定できるのでしょうか。
「自分は治った」 という体験だけでは、この歴史上の疑問点に答えたことにはなりません。
また、もし真光だけが本当に特別なら、同じように浄霊を受けて治ったという世界救世教信者の体験を、どのように説明するのでしょうか。
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そのたびに
�@ 「本人の曇りが深い」
�A 「感謝が足りない」
�B 「前世や先祖の因縁だ」
と説明するなら、手かざしが効かなかった場合でも、教団の教えは絶対に間違いになりません。
�@ 治れば「神の光のおかげ」。
�A 治らなければ「本人の曇りや因縁のせい」。
これでは、真光の業が本当に効いているかどうかを、いつまでも確かめることができないのではありませんか。
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私は、あなたの人生全部が間違いだったなどとは申しません。
真光の中で親切にしてくれた人や、励まされた経験まで否定する必要はありません。
しかし、親切な人がいることと、その教団の教義が真実であることも別問題です。
長く信じてきたからこそ、教団の説明を一度だけ横に置いて、外部の資料と比較してみませんか。
ただ、「真光だから治った」「体験したから教義も全部正しい」という結論を、いったん保留してほしいのです。
調べることを恐れなければならない教えなら、むしろ、なぜ調べられることを恐れるのかを考える必要があるのではないでしょうか。
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最も大切な一言はこれです。
> 「あなたの体験を否定しているのではありません。
その体験について、教団から与えられた解釈だけが唯一の説明なのかを考えていただきたいのです」
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また、「魔の通力」という言葉は最初には出さないほうがよいでしょう。
相手には「自分の大切な体験を悪魔扱いされた」と聞こえるからです。
相手が「治った以上、真光は絶対に正しい」と主張した段階で、
> 「仏教では、不可思議な現象の有無と、教法の正邪は分けて判断します」
と静かに返すのが効果的です。
目標はその場で脱会を宣言させることではなく、相手の心に 「体験と真理は別ではないか」 という一点を残すことです。